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―原始仏教から密教までI 人間改造の原理と方法  桐山靖雄 著

   意識しないこころ

 われわれのこころのなかには、自分のものではないこころがいくつも潜んでいるのである。

 われわれは、こころ、というと、自分が意識しているこころのほかにはないと思っている。そうで

はないのである。

 われわれのこニろのなかには、自分でも気がつかない、意識しないこころがあるのである。

 心理学がそれに気づいたのはそう古いことではない。

 それまでは、こころとは、意識するものだと思われていた。つまり、あらゆる精神現象には意識が

ともなうもので、精神生活とはすなわち意識生活であるというのが、それまでの考えだったのであ

る。

 千八百年代のおわりから千九百年代のはじめにかけて、ウィーンの医師ジグムントーフロイトが、

こころの表面にあらわれない無意識のこころI潜在意識についての考察をふかめつつあった頃、フ

ランスの心理学者ピエールージャネもおなじように、人間のこころの奥に意識されないこころがあっ

て、それが人間の行動に大きな影響をあたえていることに気づきはじめていた。かれは、人間の人格

がいくつかの階層をなしていると考え、われわれが知っているのは表面にある意識的階層だけであ

り、その下層に無意識的な精神機構があるとして、その存在を、「意識の下部形態」とよんだ。この、

意識の下部形態が、フロイトのいう潜在意識であり、フロイトは、有名な『夢判断』その他の著作

で、この無意識の意識の機構をあきらかにした。

 フロイトによると、われわれの精神生活は、われわれが意識している部分だけのものではなく、意

識的動機と合理的決意の背後には、意識する意識の場から除外された無意識の意識があって、それが、

それらのほんとうの決定者なのだというのである。

 つまり、人間のある行動の動機や決意は、(一般に考えられているように)意識する意識が決定す

るのではなく、意識する意識層から除外された、無意識の意識が決定するのだというのである。その

無意識の意識が、なぜ、意識する意識層から除外されたのかというと、それは、抑圧されたか、逃避

するかして、表面の意識層からすがたを消し、こころの奥ふかくひそんでしまったのだというのであ

る。では、なにがそのこころを抑圧したのか、あるいは、そのこころは、なにから、どうして、逃避

したのか、それにういてはすでに他の著書で何度も書いたので、ここでは書かない(『変身の原理』『チ

ャンネルをまわせ』その他を参照されたい)。ここで問題なのは、無意識の意識が、こころの奥ふかくひそ

んでしまったのだからなにもしないのかというとそうではなく、つねに意識するこころにはたらきか

けて、行動のひきがねとなり、あるいは、決意をかためさせる原動力となるということである。しか

もやっかいなことに、意識するこころは、この無意識のこころの決定にいっさい気づかず、どこまで

も自分自身が決定したものと思いこんでいるのである。

 さらに念の入ったことに、その決定には、かならず、意識するこころがっくり出した合理的、かつ

正当性のある理由(大義名分といってもよい)がつけられるのである。

 それはこのようにしてなされる。

 無意識のこころは、さきに述べたように、大体が、抑圧されるか逃避したこころであるから、ほと

んどが、ゆがんだ、正常とはいいがたいこころである。したがって、その決定もまた決して正常なも

のではない。そこで、意識するこころは、(無意識のうちに)これを正当化する作業をするのである。

つまり、その動機なり決意なりを、合理的かつ正当性のあるものにして、自分自身をなっとくさせる

のである。それは無意識のうちになされる。だから自分自身はあくまでもそれが無意識によってつく

り出された虚偽のものであることを知らない。つまり、真実の動機を、意識するこころは知らないの

である。その行動の真実の動機をかれは知らないのだ。知らないまま、かれは行動するのだ。なんの

ために、どうして、それをするのか、かれは知らないのである。真実の動機を知らないまま、かれは

選択し、行動するのだ。人間が矛盾にみちた行動をするのは、こういうところに原因があるのではな

かろうか?

 そんなバカなことがとあなたはいうのか。

 フロイトはつぎのような実験で、その真実なることを証明しているのである。

  自分のなかのアカの他人

 

まだ若い医者であったフロイトは、ナンシーの精神医ベルネーム教授のもとに留学して、そこで「後催眠暗示または「期限つき暗示Lの症状を示す患者たちを観察する機会を持った。

 「後催眠暗示Lとはつぎのようなものである。

 医師が、被験者を催眠によって眠らせ、一定の時間に一定の行動‘-たとえば、目覚めてから三〇

分のちに診察室じゅうを四つん這いになって歩くように命ずる。この暗示をあたえてから被験者を目

覚めさせる。かれは完全に意識を回復し、しかし命じられたことはなにもおぼえていない。だが、医

師に指定された時間になると、かれはソワソワしはじめ、なにかをさがすふうをし、ついに四つん這

いになる。そのとき、かれは、たとえば小銭とかボタンとかをなくしたなどともっともらしい言いわ

けをしながら、結局、命じられた通りに、四つん這いの姿勢であちこちをさがし、診察室じゅうを一

周するのだが、命じられたという事実を思い出すことは決してなく、あくまでも自分の自由意志でそ

うしたと信じているのである。

 フロイトはこの実験から多くのことを学んだのだが、この実験であきらかになったことは、

 、無意識的精神が存在していること。なぜなら、被験者は命令を正確に理解し、記憶したからで

  ある。これは生理学的器官ではできないことである。

 ・、無意識が、一定の時間を経てから、意識生活に影響を及ぼすこと。

 、意識的精神はそうした影響に動かされて行動を起こすが、そのようなときには、無意識の意識

  にそそのかされて起こしたその行動に(握造した架空のものだが意識的な)偽りの動機を付与す

  ること。

 以上である。

 フロイトはこれらのことから、後年、かれの精神分析理論を、つぎのように展開することになるの

である。

 かれは、人間の誕生以後の最初の数年間を、催眠と非常に似ていると考える。その数年間に子供は

さまざまな影響と暗示をうける。それらの影響と暗示は、子供が本来持つもろもろの欲望や傾向と真

っ向から対立する。その結果、子供のこころの深奥に、抑圧や葛藤そして精神外傷が生ずる。あるい

は、抑圧や葛藤や精神外傷を避けてこころの深奥に逃げこんでしまう場合もある。しかしこれらのも

のは、そこにいつまでもじっとおとなしくひそんでいるということはない。表面に出る機会をつねに

うかがっているのである。子供自体はもちろんのこと、おとなになってからも、かれはそれらのこと

をなにも思い出せないし、気づきもしない。しかし、かれが気づかなくても、それらはかれの行動に

たえず影響をおよぼし、かれを動かしているのである。

 それらの抑圧された無意識層のなかの諸傾向は、決して消滅することはない。こころの奥ふかく社

会的習慣の背後に身をひそめ、思いがけないきっかけを利用して、外にあらわれてくる。そのあらわ

れかたはさまざまで、ときには、遊戯、戦争、迫害、犯罪などのかたちではげしくほとばしり出た

り、あるいは、なんでもないような出来ごとのなかに隠れて象徴的なかたちで、あるいは、満たされ

ない欲望に禁じられた満足をあたえる夢となり、あるいは言い間違い、失錯行為、神経症的行動(ぶ咸o曹回)さらには精神病(tgaoS)となって浮かびあかってくるのである。

 要するに、フロイトの明らかにした重要なことは、さきにも述べたように、われわれの精神生活

は、われわれが意識している部分だけにかぎられたものではなく、われわれがなす行動の意識的動機

と合理的決意の背後には、意識の場から抑圧されたり逃避した、隠れた無意識的動機がうごめいてい

て、それこそが真の決定者なのであり、しかも意識的精神はそのことに全く気づいていないというこ

とである。

 これは大変なことになってきたものである。考えてもみなかったことだ。いままで、われわれは、

自分を動かすものは自分しかないと思って安心していた。というより油断していたといったほうがい

いかも知れない。それがまったくちがうのである。とすると、われわれは、一度、自分自身の心のす

みずみまで、徹底的に洗ってみる必要があるのではないのか? 自分のなかのほんとうの自分と、ア

カの他人を、選別する必要がどうしてもある。

 デカルトは、「われ思う。ゆえにわれあり」を基礎に、近代哲学への思惟の道をひらいたが、その

。思う”われにいくつものわれがあるとしたら、ただ「われ思う。坤えにわれありLといってすまして

いられなくなるだろう。いったいどのわれが思うのか、その分析・把握からはじめられなければなら

なくなるわけである。われわれとてもその通り、自分を動かしているものが、いったいどのわれなの

か? それをはっきりつかまないかぎり、われわれは、安心してものを考えることも、行動すること

もできないではないか。こうなると、「運」とか「能力」とかいっている段階ではない。もっと切実

で根本的な問題である。ひとつ、この、われわれの知らないところでわれわれを動かしている「無意

識」という怪物を追ってみようではないか。それは「選択」を通じて、「運Lと「能力」にもふかい

かかわりがあることでもあるのだから

 ユ  ン  グ の この、自分のほかに自分の知らない自分がいるというフロイトの考えは、近代

心理学がすすむにつれて、ますます顕著になってきた。フロイトのこの考えに

 集合無意識 つづいて`カールーグスタフーユング(一八七五~一九六一)は、フロイトの無

意識概念を拡大し遡及した。かれは、無意識の意識の根源を、人類共通の太古時代に求める。フロイ

トは、人間の幼少期にその根源を見いだすが、ユングは人類の幼少期にそれを求めるのである。かれ

によれば、無意識は人類の太古時代の葛藤にその源を発しているという。

 人類が、その欲望と期待を挫折させるだけだったその当時の自然と社会では、人類はつねに本源的

不安に直面して悩まされてきた。その原初的不安と葛藤の痕跡が、無意識層にふかくきざみこまれて

おり、この集合無意識の葛藤は、各人の意識のみならず、ユングが太古類型とよんだイメージや象徴

にもあらわれているとする。

 この太古類型は、人類の大きなコンプレックスを表現しており、そのもろもろの形態とテーマは、第二章「選択」の論理

あらゆる宗教、あらゆる民話に見いだされるというのである。

 

 ソ ン デ イ の この、蛙意識の意識の抑圧・葛藤を太古時代に求めるユングの考えかたは、い

 家族的無意識 うならば、人類共通の祖先にその根源を見いだそうとするものであるといえる

          が、これを、特定の個人の祖先に求めようとするのが、L・ソンディ(一八九

三~ )の「家族的無意識」であった。かれは、個人の無意識の意識層に。抑圧された祖先の欲望”

を見いだし、それが恋愛、友情、職業、疾病および死亡における無意識的選択行動となってあらわれ、個人の運命を決定するというのである(ソンデイ心理学については拙著『チャンネルをまわせ』を参照されたい)。ソンディは、この心理学を、みずから、「運命分析」。かくして近代心理学はついに「運命」に到達したのである。このことは、わたくしにひとつの感慨をよびおこす。というのは、これとおなじケースを、わたくしは、ちょうどその正反対の側から、およそ三十年ちかくあゆみつづけてきたからである。すなわち、近代心理学は、。無意識の意識”を追ってついに。運命トに到達したが、わたくしはその逆に、。運命”を追いつめて、。無意識の意識”に到達したのである。

わたくしは、人間の運命を追求して、やがて「密教占星術」に到達し、それに

 桐山の「衝動意識」 運命をみちびき出す要因を分析してそれが何十種類かあることを発見し

 の発見と追求 て`これに~因縁」という名をつけた゜

 この「因縁Lがいかにして人間を動かすかを追求しているうちに、わたくしは「無意識の意識Lに

行きあたったのである。

 人間を動かすものはI」ころ‘であり、その’こころ”は、知性・理性・感情・意志といったもの

に分類されるが、人間の行動を(ことに。因縁”とそれを予知する運命学を通じて)見ていると、そ

れらの意識の領域に入らないひとつの精神作用があって、人間はそれにつよく動かされていることが

わかってくるのである。それをわたくしは「衝動意識」と名づけた。知性も理性も感情も意志も、こ

の「衝動意識」のつよい影響下にあり、というよりも、むしろこの衝動意識かそれらすべての意識を

動かしているのではないかということに気がついたのである。この、わたくしの「衝動意識Lが、心

理学のいう「無意識の意識」だったのである。すくなくとも、無意識の意識層のなかの、大きな領域

を占めるものだったのだ。

 そこで、わたくしは、この、衝動意識の無意識の意識が、「なぜ」「いかにして」人間に生ずるのか

を追求した。これこそが、人間そのものの解明につながるものであることを直感したからである。

 その答は容易に見つからなかった。

 この意識の発生そのものだけだったらそうむずかしいことはない。生物としての人間の「本能」

や、フロイト、ユング、ソンディらの、抑圧・葛藤などにそのほとんどの原因を求めることができる

であろう。しかし、わたくしのいうのは。個人の運命の成立要因としての無意識”の発生原因であ

る。ある特定の個人になにゆえある特定の意識が生じたかという根本原因である。それは、フロイ 5

ト、ユング、ソンディも説明はつかない。ソンディの理論は、「運命心理学」とみずから名づけるだ

の論理

けあって、運命の成立要因として先祖の抑圧意識による選択を持ってきたことはさすがであるが、こ

れとてもヽその選択の原因である祖先の抑圧意識がなぜ生じ、それがまたなにゆえに家族(子孫)の

特定の一人にあらわれてその選択運命を成立させたのかという、根本動因の成立理由までは説明できない。

 それにまた、ソンデイ理論には、もっと大きな論理的欠陥がある。それはなにかというと、「被選

択の問題である。ソンデイ理論には、「選択Lだけがあって「被選択Lがない。人生は、一方的な

選択でのみ成り立ちはしない。一方的な選択でだけで運命は成立しない。選択・被選択(そして不可

選択)とのからみ合い、ふれ合いそしてむすびつきによってはじめて成り立つものである。ツッデイ

理論は、たしかに、運命の一角を解明するものであることにまちがいはない。しかし、それはどこま

でも一角である。その全体を結合させ統合させてゆくものがなければならない。

 もちろん、べつな理論もある。

 遺伝の機構である。

 しかし、それもまたおなじことで、なぜにその遺伝子がその特定の個人につたわったのかという根

本原因を説明することはできない。

 どの理論もそうであった。

 ひとつの現象の原因を説明することはできても、根本の原因の説明をすることができない。

 その根本の原因を求めて、わたくしは必死にさまよった。

 最後に、その解答が仏教のなかにあることを知って、わたくしは驚愕したのである。

業の理論である。

 仏教は、違い古代において、人間およびそれにかかわる一切のものを成立させるひとつの力がある

ことを知り、「業」という名でそれを把握していたのである。

 この「業」の理論だけが、わたくしの質問にこたえてくれるものであった。

 もちろん、仏教徒であるわたくしは、はるか以前から「業」の思想に接していた。しかし、これは

あたらしい角度からの再発見であった。あたらしい視野からの再把握であった。

 ただし、仏教のこの業思想を無条件でうけいれることはできなかった。

 ひとつ、問題がある。

 

 なにか?

 

 「三世思想」であった。

 三世思想とは、人間には前生があり、また、来世があるという考えで、人間は、過去世・現世・来

世と継続して生きつづけるという考えかたであるが、「業」の理論は、この「三世思想」が基本にな

る。近代人として、この「三世思想Lをどう受けとめ、どう解明するか? 単純素朴に前世と来世の

存在を信じて、すべての人間が生まれ変わるなどということを無条件に信じることは、近代人であっ

たらだれだってその知性が許さない。しかしまた、「三世思想」を否定してしまったら「業」の理論 そうして最後につかんだのが、ヘッケル(一八三四~一九一九)の「個体発生          ゝ

 個 体 意 識 系統発生のあとをたどるという生物学の理論であった。

 これを目にした瞬間、わたくしはここに三世思想を解くカギがあると直感した。

 

 人間の胎児が、母の胎内にある十ヵ月の間に、二~三十億年にわたる人間進化の過程をかたちの上

でたどるというこの理論に、わたくしは、それはかたちの上だけではなく、こころと記憶もまたその

かたちに応じてたどっているのだというあたらしい展開をくわえた。やの理論を、わたくしは、いま

は成り立たず、業の理論が成り立たなかったら「仏教」もまた成り立たないのである。        S

 もっともヽそのために仏教が成り立たないとしたら、それは仏教そのものが、近代人の知性にたえ 5

られないということであり、それならそれでそんな仏教はふり捨ててしまって、べつな真理を求める

だけだと、そのころのわたくしは割り切っていたが、それにしても、これだけ精緻な理論を組み立て

ている仏教の業の理論を、そうかんたんにふり捨ててしまうことはできなかった。それにかわる理論

も思想もほかに見あたらなかった。というよりも、わたくしは、無意識の意識、衝動意識の解明は、

こ呪・一二廿恋恋Lc乃方に決ると直雇してど

分以前の自分からひき継いでいるのに相違ないと思ったからである。しかし、それは単なる遺伝現象

ではない。古代人が信じた単なる生まれ変わりでない近代人の生まれ変わり、近代人の知性と矛盾し

ない三世思想と業理論があるはずであった。それを求めて、わたくしの苦悩は数年間つづいた。

「三世思想Lのなかにあると直感していたのである。というのは、この無意識の衝動意識は、ヽ

からちょうど二十年まえ、最初のわたくしの著作のなかで、つぎのように発表した。

  『……即ち、われわれは、この世にあらわれるべく母の胎内にやどったとき、母の胎内におい

  て、自分の生命がそれまでにたどった経験を、もうI度くりかえして経験するのであります。

   これは、生物学の

  「個体発生は系統発生のあとをたどる」

   という理論の上に立って、わたくしが推論したもので、人間は人間の発生当時から現在の自分

  にいたるまでの形態を、母胎内でとるのでありますが、わたくしは、これを、形態だけのくりか

  えしではなく、その意識もまたその形態に応じてくりかえしているのだと考えるのです。

   図を見てごらんなさい。

   胎児は、魚、いもり、亀、兎、猿というように、人間の進化の経路と同じかっこうをつぎつぎ

  とあらわすのです。……y」のように、人間は十ヵ月の胎児時代に何億年もの進化の歴史を再現す

  るのですが、これは、ただ単にかたちの上でのみ区覆を示すのではなくて、意識の上でも、その

  かたちと一緒に反覆をしているのであり、そのかたちと同じ時代の記憶をたどっているのだとわ

  たくしは考えるのです。

   即ち、魚と同じかたちをしているとき、生命は魚の時代であったときの記憶をよびおこし、猿

  と同じかたちをしているとき、生命は猿の時代の意識、すなわち記憶をたどっておるのでありま タ

  す。このようにして、その生命が生きていた当時の状態と条件をたどりながら、ふたたびこの世

  にあらわれる準備をしておるのであります。………々ヽて、この、母胎内における生命のこの経験

  はヽ明らかに、われわれの生命が、過去からひきつづいてのあらわれであることを示すものとい 6

  わねばなりません。それは、世間一般に考えられるように、単に親から子へと生殖分裂していく

  という過程の上で生き続けるというのではなく、その生命自体の生命の持続とみるべきでありま

  す。はるかな先祖からの経験を、その受けついだ細胞の上でたどっているだけではなく、それ

  は、やはり自分自身の経験としてたどっているものといえるでしょう。なぜそういえるかという

  と、種族としての一般的な系統記憶をたどっているだけではなくて、同時にその生命自体の個体

  経験としての記憶もたどっているからであります。というのは、母胎内における胎児の記憶は、

  種族としての全体的な記憶をくりかえすわけですが、しかし種族の記憶といってもその記憶は個

  体としての自分を通しての記憶ですから、結局、種族、個体、両方の記憶をくりかえすというこ

  とになるからです』(昭和32年『幸福への原理』観音慈恵会出版部刊)

 つまり、わたくしは。こう考えたのである。

 胎児は胎児としての意識を持っているのであるから、胎児はその形態に相応した意識を持つのが当

然であり、したがって胎児の形態が、その発生展開のあとをたどっているとするならば、その意識も

またその発生展開のあとをたどっているはずだと考えたのである。そして、意識が発生したむかしに

かえってそのあとをたどるということは、経験(記憶)をくりかえしているということにほかならな

いのではないか。そこでわたくしは、胎児は母胎内においてそれまでの記憶を経験するという表現を

もちいたのである。            ゝ

 この理論は「三世思想Lのあたらしい解釈として、近代人の批判にたえられるものであるとわたく

しは思った。

 記憶の継続によって、人間は生まれ変わり、生きつづけるのである。記憶の継続とは経験の継続に

ほかならず、これによって、人間は実際に生まれ変わらなくても「経験をひきつぐことによって」生

まれ変わり、生きつづけるのである。(それは、記憶-経験を通じて、選択・被選択・不可選択をひ

きつぐのである。とすると、それは生まれ変わりというよりも、むしろ、おなじ人間の継続といった

ほうが妥当ではあるまいか)

 このあたらしい三世思想をもとに、わたくしはさらに前進した。

 無 意 識 の 胎児時代における過去の経験意識(反覆された記憶)が、誕生と同時に意識の

 二つの領域底辺に沈んでいって、それが「無意識の意識」になるのだと、わたくしは、フ

          ロイト、ユングその他の近代心理学に接して結論づけた。

 やがてわたくしは密教に入って、「求聞持聡明法Lの修行をはじめた。この法の修得には、大脳生

理学の知識が必要である。大脳生理学の研究をはじめたわたくしは、大脳のなかに、無意識の意識の

「場Lのあることを発見した。「旧皮質」と「古皮質Lである。

 この、旧皮質、古皮質の機能を研究したわたくしは、無意識の意識を二つの領域に分類することに I

した。「潜在意識」と「深層意識Lである。この二つは、もともと無意識の意識そのものをさす名称

であり、潜在意識とよんでも深層意識とよんでもそれは無意識の意識を意味するもので、その区別は

ないのである。わたくしはこの二者をはっきり区別して分類することにした。どうしてそのように分

類したかというと、無意識の意識は二つの層から成り立つと考えたからである。これは、大脳辺緑系

のはたらきと、新皮質の機能を研究しているうちに考えついた。

 無意識の意識の二つの層とは、一つは、いままでわたくしが述べた「生まれるまえの無意識」で、

もう一つは、フロイト心理学の、生まれてのちに生じた「幼児期における抑圧・葛藤による無意識」

である。

 無意識にはこの二つの層がある。

 この二つの層の、生まれる前の無意識を、わたくしは「深層意識Lと名づけ、幼時期に生じた無意

識を、「潜在意識」と名づけた。なお、意識する意識は、「表面意識Lである。

 この二つの無意識層が、大脳のどこにあるかというと、旧皮質と新皮質の一部が、潜在意識の場で

あり、古皮質が、深層意識の場である。最も古い記憶と意識は、古皮質のなかの「海馬Lであろうと

推論した。表面意識はもちろん新皮質である。

 以上は、『幸福への原理』から十数年たって刊行した『変身の原理』に発表した。つまり、わたく

しは、十数年のあいだ、無意識の意識を追いつづけたわけである。この追跡はまだ終わっていない。

その後の著作にも無意識の意識はひきつづき登場し、その都度、少しずつながら新しい展開を示して

いるはずである。今後もIIおそらくそれはわたくしの一生つづく主題となるであろう。いま、わた

くしは、無意識の意識と遺伝子機構とのかかわりに追求の目を向けている。

 では、この、無意識の意識に対するわたくしの執拗なばかりの追及はなんのためか?

   無意識の意識と求聞持法

 無意識の意識は、心理学のみがあつかうべき主題ではないからである。無意識の意識は、近代心理

学によってとりあげられ、しだいにそのヴェールをはがされつつある。しかし、それだからといっ

て、それは心理学のみがあつかわねばならぬというものではないのである。無意識の意識は、人間と

いうものを解明しようとしたとき、かならずつきあたる壁である。さきに述べたように、人間の深部

にひそんでほんとうに人間を動かしているものが、無意識の意識なのである。この無意識の意識の機

構を解明せずして人間の解明はぜったいにできない。

 わたくしが、宗教家でありながら、心理学や大脳生理学について言及することにたいし、あざけり

やひやかしのことばを投げつけるひとびとがいるようである。不勉強か、無智のためであると考え

て、わたくしはいっさいとり合わない。人間というものをほんとうに解明しようとしたなら、どうし

ても最後にはこの無意識の意識につきあたるのである。宗教というものが、人間の解明なくしてなり

たたない以上、宗教もまたどこかでこの壁につきあたらなければならないはずである。わたくしは、

この無意識の意識を追って顕教から密教に転じ、最後に求聞持聡明法にたどりついた。

 わたくし。が、真言密教の、「求聞持聡明法Lの価値を再発見できたのは、この無意識の意識にたいす

る飽くなき追求のおかげであった。それまで求聞持聡明法はその真価を認識されぬまま埋もれていた

といっても過言ではないであろう。いや、いまもなお求聞持聡明法は誤解されている。わたくしが、

『変身の原理』『密教・超能力の秘密』その他で、密教のこのおどろくべき技法を説いて以来、それま

で専門家のごく一部にしか知られていなかったこの法も、しだいに世間一般に知られはじめてきてい

るようだが、同時に、この法を、たんなる頭脳開発の訓練にすぎぬものとして批判したり、あるいは

オカルトだときめつけて誹誘をするひとびともまたすくなからず出てきたようである。これはまった

くこの法に無智なるためで、そのなかには、密教の専門職のひとさえあると聞くが、その不勉強さは

大いに責められてよいであろう。もっとも、それもまたやむを得ぬことというべきかも知れない。い

ままで、この法は、真言宗内部においても、その程度のものとしか思われておらず、その程度の扱い

しかうけていなかったのである。

 このあやまりはただちにあらためられなければならない。求間持法は、ただたんに「頭をよくす

る」だけの法ではないのである。すくなくとも、わたくしの求聞持聡明法はそんな単純なものではな

い。もっとも、わたくしの求聞持聡明法は、真言宗でふつうおこなわれている従来の求聞持聡明法と

は修行のしかたが全くちがう。それは、あるひとが言ったように、古来の求聞持聡明法を基調にして

あらたなるこころと知恵の訓練法をつくり出したのだというべきかも知れない。たしかにそういう一

面はあろう。だが、原理はやはり古来の求間持聡明法のなかにあったのであり、わたくしはそれを現

代に即して編成しただけなのである。

 だが、それはとにかく、いずれにせよ、この法は、ただたんに頭をよくするだけの単純なものでは

ないのである。それは、大脳のなかの新皮質、旧皮質、古皮質を動かし制御する法である。新皮質は

知性・理性の座であり、旧皮質、古皮質は無意識の意識の座である。それを動かし制御するというこ

とがどういう意味を持つものか、読者ももはやおわかりであろう。それについてはまたあとでくわし

く書くこととして、こうして、わたくしは、無意識の意識を追って求聞持聡明法に到達し、無意識の

意識のすべてを解明するとまではいかないまでも、それを動かし、制御する方法を発見した。今後

も、この法を通して、わたくしの無意識の意識の追及は、おそらく一生つづくであろう。それは、ま

えに述べた通り、無意識の意識は心理学だけにまかせておけばよいというものではなく、宗教もまた

その任務の一端をになわなければならぬと思うからだ。それは決してわたくしだけのひとりよがりの

独断ではない。それについてはまたあとでふれることになろう。ところで、この章のはじめで、わた

くしは、無意識の意識は近代心理学がとりあげ、近代心理学によって次第にそのヴェールがはがされ

つつあるといった。そうして、それだからといってそれは心理学のみによってあつかわれねばならぬ

というものではないのだと述べたのだが、それではI、無意識の意識は、近代心理学がとりあげる

まではだれも気がつかなかったのであろうか?

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

十三仏法曼荼羅

 

 

初 日 不動明王なうまくそわたやさまんだ ばざらだん せんだん まかろしやだ
七日 釈迦如来なうまくさ圭んだぼだなんばく
七日 文殊菩薩おんあらは、。たでつ
四七日 普賢菩薩おん さんまや さとぽん
五七日 地蔵菩薩おんかかかびさんまえいそわか
六七日 弥勒菩薩おんまいたれいやそわ75
七七日 薬師如来おんろろせんだり求とぅぎそわか
百か日 観立日菩薩おんあろりき。そわか
一周忌 勢至菩薩おんさんきんきんさくそわか
三周忌 阿弥陀如来おんあみりたていぜいからうん
七周忌 阿閲如来おんあきし。びやうん
十三回 虚空蔵冷薩

梵字Shidda n mattorikā    Associate skin Kannon

Associate bladder Kannon
Nau Makusa Nansan-san
Taniya Onsha Rei Jun Seiwa

Associate clothing is the sound of the Lu on Haruna Chiyunday
It means “innocent”
It ’s the Kannon.
It is also called Associate Clothed Buddha or Seven-Clothed Buddha.
Nanakuma clothing means “no amount”, so many
Become the mother of Buddha. That ’s why it ’s not Kannon
There is also the theory. It is also preached by Kankei as Kannon
In Buddhism as Associate Anal
But as one of Kannon in Shingon Buddhism
Add to the six Kannon.
It is also cherished as the principal of child-rearing and safe delivery. Originally
Is the god of water and is said to be a woman.
In addition, the seeds of Kannon of the placenta mandala Nakadai Hachiyoin are
The b-shaped times of this garment Kannon are written.

Associate skin kannon

梵字   准肌観音

准胱観音真言
なう まく さ た なん さん みゃく さん ぼ だ く ち なん
た にや た おん しゃ れい しゅ れい じゅん でい そわ か

准服とは、梵名チユンデイ上の呂号の音写で
「清浄無垢」という意味があり、さとりの道を歩
ませる観音です。
別名、准服仏母、七倶服仏母とも呼ばれます。
七倶服とは「無量」を意味しますから、多くの諸
仏の母となります。そのため観音菩薩ではないと
の説もあります。経軌にも観音として説かれてい
ないことから、犬台密教では准肛如来として仏部
の尊としますが、真言密教では観音の一つとして
六観音の中に加えます。
求児・安産の本尊としてもまつられます。もと
は水の神で、その姿は女身といわれています。
なお、胎蔵曼荼羅中台八葉院の観音の種子は、
この准服観音のブ(回)字が記されています。

准肌観音

Shakuson says that the “Seven Senses of Support” is the true method of Buddhist Buddha.

 

Shakuson said that the “Seven Senses of Support” is the true method of Buddhist Buddhism.
He explained the seven training methods of the kaku, the hunting, the fixed, and the ridden. *
And if you train this seven senses branch, you will be able to get Arkan Hanka, Anna Kanka, Sokan Shika, Suzu Hyakuka

He was a preached king, and he taught in detail that there were five ways to get cocoons in Anuka.

As I mentioned before, the Buddha ’s Sung Buddhism is called “Nanashina Thirty-seven Dojo”, seven subjects, thirty-seven types

It consists of a curriculum. In other words, Shigenori method, four full-time method. Four Gods foot method, Five roots method, Five powers

Law, Nanaku Grammar, and Hachisho-do ○ ○

This is an explanation of the seven senses of the urn.

In the case of Gaiden who asked about the Buddhist law, why Shakuson is one of the seven subjects

As I explained, this is a guess from my experience.

If you become an apprentice and practice the Sung Buddhism, it is because the training of j Seven senses is the second best thought.

I think. …

This is because Buddhist Buddhist law of Buddha Buddha has to do all the training courses of seven subjects, three kinds and seven kinds.

It is not. Of course, it is only necessary to do 2 subjects among the 7 subjects. Because of the seven subjects

There is a dub in a training method similar to Ku. So Shakyamuni ’s discipleship

Among the seven subjects, y you should do this practice, you said that this and this practice is good

It seems that they were selected and given. . Occasionally, there are 1337 types of training without being ashamed of the subject

It seems that some were freely selected from the law and imposed on the practitioners. One

So, what is the training method of the Seven Senses of Merit?

The art is very intelligent and balanced, with a strong sense of power and a balance of emotions.

You can understand well in terms of surface. A person with no emotional feelings will be dry and tasteless

That’s why. ‘I do n’t know anything about art, it ’s not interesting at all.

I don’t get rid of it. I laughed suddenly for about three days.

“Oh, is that so?” (Laughs) Well then, it’s like a story. .

It ’s a good will, but it should n’t be stubborn.

Therefore, we train to reinforce the spiritual action of knowledge, emotion, and will. And that

It doesn’t depend on the right side. This is the first. *

But that’s not all.

Enhance the power of the mind itself to the mystery. When concentrating on a single point, it produces enough power to start a fire.

The Therefore, Kundalini and Yotoga’s training is included in the training of this meditation. Q Q

Next, learn “Sky View”. Therefore, this seven senses branch contains the training of “Shiten Nenjitsu”.

This understanding of the sky can help you understand the realities of the laws. In other words, the “Law of Engi”

It will be taken. “” “Service” ”

】 This mindset is the centerpiece of the Seven senses method. No, among thirty-seven items

It is a typical practice method.

七覚支を修行すれば、阿羅漢果、阿那含果、斯陀含果、須陀百果が得られる

 

釈尊は、「七覚支」こそそ`の成仏法であるとおっしゃって、念覚支・択法覚支・精進究支・’喜覚支・狩覚支・定覚支・捨覚支の七つの修行法をお説きになった。  

 そしてでこの七覚支を修行すれば、阿羅漢果、阿那含果、斯陀含果、須陀百果が得られると解説された王で、阿那含果にも五種の涅槃の得かたがあるとくわしくお教えになられたのであった。

 釈尊の成仏法は、前にのべましたように、七科三十七道品といって、~七科目、三十七種類のカリキュラムから成り立っています。すなわち、四念処法、四正勤法、。四神足法、五根法、五力法、七覚文法、八正道です○         

 うこのうちの七覚支法について、解説されたものです。

 成仏法について質問した外道の出家に、釈尊がなぜ、七科目の中の一つである七覚支について解説したのかと申しますと、これはわたくしの体験からの推測ですが、この異比丘がもし釈尊の

お弟子となっ▽て成仏法を修行するとしたら、七覚支の修行が二番よいどお考えになったからだと思い支す。

 というのは、ヽ釈尊の成仏法は、七科目三ナ七種の修行包全部やらなければならないどい ではないのです。七科目の中の、二科目位をやればいいわけです。というのは、七科目の修行法の中にはクおなじような修行法が、ダブつて入っております。それで、釈尊は、’お弟子の因縁を

みてい七科目の中から、yおまえはこの修行をせよ、おまえはこれとこれの修行法がよい、というように選別されてあたえたのであろうと思われます。。時には、科目にに恥まわず、一三十七種の修行法の中から自由にいくつかえらび出して、修行者に課したものと思われます。 

 そこで、この七覚支の修行法というのが、どんなものであるか/

念力をつよくしてバランスをたもつト知的にも非常に高度で、情結面においても、いわゆる情操がゆたかであるというように、芸術面などでもよく理解することができる。情操的な情のないひとというのは、無味乾燥にな’りやすいわけです。’芸術的なことは、なにもわからない、はなしをしてもちっともおもしろくない、シャレをいったって、ニコリともしない。今日きいたシ″レを、三日ぐらいたっ七急に笑。い出て、「ああ、そうだうたのか」なんて(笑)、それじゃあおはなしにならんでしょダ。。

 意志がつよいのはけっこうだけれども、それが頑固になってしまうのではいけない。

 だから、知・情・意の精神作用を、非常に強化し、八かめるという訓練をする。そしてそのいずれに右かたよらないということ。これがまず第一です。しかし、それだけじゃない。

 念そのものの力を、神秘的にまで強化する。一点に集中したとき、火を発するほどの力を出す。ですから、この念覚支の修行には、クンダリニー・ヽヨトガの修行が入るわけです.。     

 つぎに「空観」を体得する。ですから、この七覚支には、「四念処法」の修行が入っている。

この空観の体得により、諸法の実相がわかるようになけます。つまり、「縁起の法」を如実に‘さとることになるわけす。               」               “

 この念覚支が、七覚支法の中の、目玉といってよいでしょう。いや、三十七道品の中でも、代表的な修行法です。                                

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

Seiyu Kiriyama    Relinquishdo reed

 

 

Geniuses who created “the logic of destruction”

In the modern society, under a single view of the world that should be called “superstition”, it is possible to die of destruction and catastrophe.

I, I ” ‘m struggling with tremendous prewar energy

What is the wrong view of the world?

It is a way of thinking that “the world always advances to a worthy state by knowledge and technology”. .

This is no longer a “thought” for the people of today’s developed countries.

“Because I am”, “I have become even hope L”.

This worldview is based on the idea that machines and technology are all-purpose, which in turn

It is a basic concept to configure. Let’s look at the life of a modern person that has come out of it.

Play is to play around the machine-electronic game created by electronic technology, entertainment is

It is a television and electronic music. The job is to adjust the monitor and the fine adjustment machine, and even the mouth

It is becoming ideal to have them act as substitutes for the boat. The daily activities are defined by the watch, the communication means is the telephone, and the housework is the cooker, the washing machine and other operations by electronic technology. , Calculator, co

With the help of computer and television, the word processor has made it unnecessary to write letters.

Travel is all machine-embraced life, as cars and jets compete for speed.

It is.

The basic idea is that as machines and technology progress, our lives are improved, improved and

It is said to flourish. And it will rise endlessly by improving human knowledge and technology

It is considered to be one that will continue.

The author of “The Law of Entropy”, J. Rifkin, created and decided on this view of the world:

As a human thinker, it is written as follows.

“Each view of the world has its builder. Three people have built a mechanical worldview skin

Between, namely Francis Bacon, René Des Cartes and Isaac Newton

Ru. Moreover, we, about 40 years after that, are still based on their thinking.

I live ”

Until then, it was the fugitive that ruled out the principles for mechanical systems, excluding the view of the ancient Greek world.

In Lansis Bacon, he says, “Human life is not always full of new discoveries and potentials.

It must not be. Now the true goal of learning is nothing more than the standardization of the method. ”

The new method is “scientific methodology”. It is a bud of science universalism.

Subsequently, the mathematician René Des Cartes extended his universality theory of science and science by mathematical methodology.

The Then, Isa ′ ′ Kunewton constructed the world of physical mechanical systems by mathematical methods.

The Here, the theory of machine and science has become complete and inexorable.

It is the philosopher and political scientist of the United Kingdom who introduced this view of the mechanical world into sociology and economics.

John Locke (1632) and Adam Smith, a British economist

It was Su (one hundred seventy-one).

John Locke said, “It is the self-interest as L that personal wealth is social rich

Pursuing pure pursuit is the one and only way to form a better nation. People are,

Naturally, there is no problem as long as material greed is born strong or if we only increase the wealth of society

If so, society will be harmonized and improved, and there will be a society where people do not have to fight each other

He asserts that “Because nature is so blessed enough that it has enough power to be developed

I presume that it is from L leaving. Therefore,

It was about giving the people the freedom to produce wealth by the power of nature (science and technology).

It was

He tried to establish an economic theory in such a way as to reflect the general concept of the Newton system.

The Smith is the same as the astronomical object that moves according to the law of nature in the “National Wealth”, and the economy is

They also indicate similar behavior, and thus the most efficient way for economic organizations is to

It is arbitrariness, leaving the phenomenon as it is, so as not to disturb human behavior.

I suppose. Ro

I believed that I was satisfied. And, as it is natural, criticize personal desires or personal interests

Creating social barriers that impedes pursuit is considered to cause harm to society.

In other words, the desire to satisfy oneself as it is will eventually bring about the benefits of society.

Should not discourage efficient activities resulting from their desires, but rather the best economy

In principle, he argued that individuals should act in a selfish manner in order to overcome shortages

It is

“Everyone always finds the best possible employment for any capital that he can control

We are working hard to This is the very benefit of the individual, the benefit of the society to which the individual belongs

There is no. However, it is natural or rather inevitable to pursue the interests of oneself.

It will lead to the creation of the most profitable employment for society. “(Adam Smith” The Wealth of Nations “)

This view of the world represented by Adam Smith is still accepted as it is, and it

In the first place, it consists of two bases.

As John Locke said, “Nature is rich enough and we have to make sure that we have enough capacity to be developed.

“I think that I have left”. No, I believe that modern people have left jJ

Isn’t it? Because I believe so, applying the scientific principles of mechanics to machines and technology

As long as it is developed, this world is considered to be infinitely improved and improved, and to thrive. That

The driving force is, as Roet and Smith preached, the human material selfishness of humanity

It is the idea that it is developed to the limit.

Pursuing and realizing more material richness 2 is progress, and it is human ideal world

-. Thought is the world, science and technology can realize it completely. I am convinced.

It is these two.

You too may not have the same idea as this idea, or something close to it

However, this idea was completely “superstition” and “aspiration.”

This world view, which should bring humanity to the world of progress and prosperity, will actually push humanity to destruction and catastrophe

It was “thought of hell”.

It was “the law of entropy” that made it clear.

Entropy law

“The law of entropy” is the “law of thermodynamics”, but in this law of thermodynamics, “the first law”

There are “law” and “second law”.

The first law states that “the sum of matter and pre-energy in the universe is constant, and it is never created or disappears.

There is no such thing as In addition, the substance changes only in its form, the essence does not change. ”

That is the famous “Senseless Conservation Law”.

And the second law of thermodynamics, that is, the “law of entropy”, is expressed as

Be done. ‘

“Mass and energy change in one direction only, ie from usable to unusable

To or from available to unavailable or otherwise ordered

Change to a disordered thing.

About this “law of entropy”, Albert-Einsteich “entropy,

It is the first law for all sciences. Of all scientific laws, absolute law

It is considered as this, but it is this “law of entropy”.

Entropy is a type of measurement by which available pre-energy can be used

It can measure the degree of conversion to the impossible form. Therefore, increase entropy

The big means an increase in useless prewar energy. Two critical points indicated by this law

There is a One is that pre-engineering that has been used twice will no longer be usable. ”

One is that if an orderly thing is created somewhere on earth or in the universe,

That’s what is said to be a big disorder.

In the light of this law of entropy, the view of the world so far is completely superstitious

It became clear that it was an error.

First of all, natural resources in the world are limited, and science and technology

If you continue to use it, there are no resources to use on this planet

The

Any science and technology, using energy over and over again without exhausting energy

It is impossible to have a law. For example, burn coal. Although energy can be obtained, sulfur dioxide

Yellow and other gases are generated and diffuse into the air. Energy is lost in the process

However, once burned coal can not be burned again, and it is possible to gain much the same amount of work.

I can not do such a thing.

J. Lifkin explains this in “The Law of Entropy” as follows.

Above: “We have been able to develop just about the right technology for almost everything we use

For example, I think that it is possible to completely reproduce and use it first. But this is a mistake. Future-3

For this world to survive economically, promote cycling more efficiently.

It is essential to move forward and, needless to say, 100% reprocessing

It is also a fact that there is no way to do it.

For example, if you look at most of the used metals, as if you would like to make more money if you think about the soft drink

The average recycling efficiency is currently at 308 I cent. Further recycling

Energy, such as collection, transport, and processing of used materials.

The result is an increase in the overall entropy of the environment. Therefore, to recycle something new

Cost of energy that can be used by

Well,

“Even once used, it is possible to recycle, but it changes and changes every time

It must be prepared for “falling down” to go

Energy and substances are consumed, so in the end, there is nothing as a whole.

“For example, let’s assume that you take metal from the ground and then make some tools.

While this tool is present, metal molecules fly away constantly due to friction, fatigue, scratches, etc.

In addition, these liberated metal molecules never disappear, and eventually they dance in the soil.

I will return.

However, even if it returns to the soil, it will be scattered in the soil this time, so the original gold

It is no longer capable of doing useful work like lumps of metal ore. . Also, ‘y

A method to recycle all metal molecules scattered in the soil will be discovered in the future

It may also be said that in this whole process it is also

Always with increasing entropy in another dimension

However, the modern society blindly believes that science and technology can create unlimited tools for their convenience and prosperity.

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「滅亡の論理」を創成した天才たち

 現代社会は、「迷信」ともいうべきあやまったひとつの世界観のもとに、滅亡と破局にむ・か’

て、すさまじい予不ルギーで驀進をつづけているI            一”’

 まちがった世界観とはなにか。

 それは「知識と技術によって世界はつねに価値ある状態に前進する。」考いう考えかたである・。。

 これは、現代における先進国のひとびとにとって、もはや「考え」というよりもむしろ、「信

念」となっており、「希望Lにすらなっている。

 この世界観は、機械と技術が万能であるという考えが基盤となっており、それが、現代社会を

構成する基本概念となっている。それがっくり出した現代人の生活をみてみよう。

 遊びは電子技術によってつくられた機械-電子ゲームをい七ぐりまわすことであり、、娯楽は

テレビであり電子音楽である。仕事はモニターと微調整機械を調整することであり、さらには口

ボ″トに代行させること‘が理想となりつつある。日々の活動は時計で規定され、通信手段は電話であり、家事は電子技術による調理器、洗濯機その他の操作である。勉強にしても、計算器、コ

ンピューター、テレビの手助けを借り、ワードプロセッサーが文字を書くことを不要にしている。

旅行は自動車やジエ″ト機がスピードを競う、というように、すべて機械にとりまかれた生活

である。

 その基本観念は、機械と技術が進歩すればするほど、われわれの生活が進歩し、改善され、繁

栄する、というものである。そして、それは、人間の知識と技術の向上により、無限に上昇しつ

つ、つづくものと考えられているのである。

『エントロピーの法則』の著者J・リフキンは、この世界観をつくりあげ、決定づけたのは、三

人の思想家であるとして、つぎのようにのべている。

  『それぞれの世界観には、その構築者がいる。機械的世界観の肌がを築いたのは三人の人

  間、すなわちフランシス・ベーコン、ルネーデカルト、そしてアイザックーニュートンであ

  る。しかも、当時から約四〇〇年後にいるわれわれは、今なお、彼らの考え方を基盤にして

  生活している』

 それまでの、古代ギリシアの世界観を排斥して、機械体系のための原理をうちたてたのは、フ

ランシス・ベーコンで、かれは、「人間の生活は、つねに新たな発見と潜在力に満ちていなくて

はならない。いまや学問の真の目標はその方法の法則化以外のなにものでもない」といい、その

あたらしい方法とは「科学的方法論」であるとした。科学万能論の萌芽である。

 つづいて数学者のルネーデカルトが数学的方法論によって、べ1・コンの科学万能論を延長し

た。ついで、アイザ″クーニュートンが、数学的方法によって、物理的機械体系の世界を構築し

た。ここにおいて、機械と科学の方能論が完全、かつゆるぎないものとなったのである。

 この機械的世界観を、社会学と経済学に移入したのが、イギリスの哲学者であり政治学者であ

るジョンーロック(一六三二-一七〇四)と、おなじくイギリスの経済学者であるアダムースミ

ス(一七二三-一七九〇)であった。

 ジョンーロックは、「個人が富むことはすなわち社会が富むことであるLとして、自己の利益

を純粋に追求することが、よりよき国家を形成するための唯一無二の方法であるとした。人間は、

本来、物質欲が強いように生まれついてはいるか、社会の富を増加しさえすれば問題はないので

あって、そうすれば、社会は調和され、改善されて、人間どうしで戦う必要のない社会が到来す

る、とかれは断言する。「なぜなら、自然は十分に恵み深く、さらに開発されるべき余力をうん

と残しているLからだと説く。したがって、口ご

た自然にたいする支配力(科学と技術)によって富を生産する自由を、国民にあたえることであった。

つた。

 かれは、ニュートン体系の一般概念を反映するようなかたちで、経済理論をうち立てようとし

た。スミスは『国富論』のなかで、自然法則にしたがって運動する天体とおなじように、経済も

また同様の行為を示すとのべ、したがって、経済組織にとって最も効率のよい方法とは、自由放

任主義であり、現象をそのまま放っておき、人間の行動をたにものも阻害しないようにすること

だ、とした。ロご

満足であると信じた。そして、それが自然である以上、個人の欲望を批判したり、個人の利益の

追求をさまたげるような社会的障壁を設けることは、社会に害悪をもたらすものとした。

 つまり、あるがままに自己を満足させようとする欲望は、結局、社会の利益をもたらすことに・

なるのであるか・ら、その欲望から生ずる効率的活動をさまたげるべきでなく、むしろ最良の経済

原則であるとし、不足を克服するためには、個人個人が利己的に活動すべきである、と主張した

のである。

  『各個人は、常に自らが支配できるいかなる資本に対しても、最大限有利な雇用を見いだす

  べく努力している。これは、まさしく個人の利益であって、その個人が属する社会の利益で

  はない。しかし、自己の利益を追い求めることは、当然のごとく、あるいはむしろ必然的に、

  社会にとって最も最利な雇用をもたらすことにつながるのである』(アダムースミス『国富論』)

 このアダムースミスに代表される世界観は、いまもなおそのままうけつがれ、現代社会を大き

く動かしているのであるが、それは、二つの基盤から成り立つ、まず、

‐1、ジョンーロックがいったように、「自然は十分に恵み深く、ざ。らに開発されるべき余力をケ

  んと残している」と考えていることである。いや、現代人は、jJ限に”残していると信じ

  ているのではないか。そう信じているがゆえに、力学の科学的原理を応用して機械と技術を

  発展しさえすれば、この世界は無限に進歩改善ざれ、繁栄してゆくと考え各わけであ・る。そ

 してその動力となるものは、ロ″クや、スミスが説いたように、人間の物質的利己心を最大

限に発展させる、という思想である。

2いより多くの物質的豊かさを追求し、実現することが進歩であるとし、それが人間の理想世

-。界であるど考え、科学技術はそれを完全に実現してくれる。と確信している。

この二つである。

 あなたもまた、この考えとおなじか、あるいはそれに近い考えを持っているのではないだろう

 

 ところが、この考えはまったくの「迷信」であり、「誤謬」であったのである。

 人類を進歩と繁栄の世界に到達させるはずのこの世界観は、じつは、人類を滅亡と破局に追い

こむ「地獄の思想」だったのである。

 

それをあきらかにしたのが、「エントロピーの法則」であった。

エントロピーの法則

「エントロピーの法則」とは、「熱力学の法則」であるが、この熱力学の法則には、「第一の法

則」と「第二の法則」がある。

 第一の法則は「宇宙における物質と予不ルギーの総和は一定で、けっして創成したり、消滅す

るようなことはない。また、物質が変化するのは、その形態だけで、本質が変わることはない」

という、有名な「千不ルギー保存の法則」である。

 そして熱力学の第二法則、というのが、つまり「エントロピーの法則」で、つぎのように表現

される。’

 「物質とエネルギーは一つの方向のみに変化する。すなわち、使用可能なものから使用不可能な

ものへ、あるいは、利用可能なものから利用不可能なものへ、あるいはまた、秩序化されたもの

から、無秩序化されたものへと変化する」というものである。

 この「エントロピーの法則」について、アルバートーアインシュタイッは『エントロピーは、

すべての科学にとって第一の法則である』といっている。すべての科学法則のなかで、絶対法則

としてみとめられているが、この「エントロピーの法則」なのである。

 エントロピーというのは、一種の測定法であって、それによって利用可能な予不ルギーが利用

不可能な形態に変換してゆく度合いを測ることができるものである。そこで、エントロピーの増

大とは、使えない予不ルギーの増加を示すものなのである。この法則で示す二つの重大なポイン

トがある。一つは、二度使用された予不ルギーはもう使用できなくなる”ということと、もう

一つは”地球もしくは宇宙のどこかで秩序らしきものが創成される場合、その周辺環境にはいっ

そう大きな無秩序が生じる”とされていることである。

 このエントロピーの法則に照らし合わせてみたとき、いままでの世界観はまったくの迷信であ

り、誤謬であったことがあきらかになったのである。

 まず第一に、との世界における自然の資源は有限であり、いまのように科学と技術が資源を利

用しつづけてゆくと、遠からずこの地球上には、利用すべき資源はなにもなくなってしまうとい

うことである。

 どのような科学と技術も、エネルギーを使い果たさずに何度も何度も于不ルギーを使用する方

法など持つことは不可能である。たとえば、石炭を燃やす。エネルギーは得られても、二酸化硫

黄やその他のガスが発生して、空気中に拡散する。その過程においてエネルギーが失われること

はないものの、一度燃やした石炭をまた燃やすことはできないし、ましてや同量の仕事を得るこ

とはできない。

 このことについて、J・リフキンは、『エントロピーの法則』の中で、つぎのように説明する。

 上『われわれは、自分たちが使っているほとんどすべての物が、適切な技術を開発しさえすれ

  ば、まず完全に再生し、利用できるものと思いこんでいる。だが、・これは間違いだ。将来~三

  この世界が経済的に生き残っていくには、吼サイクリング(再生利用)をさらに効率的に推。

  進していくことは不可欠であり、これは言うまでもないことだが、一〇〇パーセント再処理

  できる方法などないのも事実である。

   たとえば、清涼飲料の空耀を考えればよく拉かるように、大部分の使用済み金属を見た場

  合、平均的な再生利用効率は、現在三〇八Iセントとなっている。さらにリサイクリックの

  ためには、使用された素材の収集・運搬・処理というように、別のエネルギーが必要となっ

  て、環境の全エントロピーが増える結果になる。したがって何かを再生利用するには、新た

  に使用可能なエネルギーの出費と、環境の全エントロピーの増大という犠牲が必ずつきまと

  うわけである』

 『一一度使用した物質はリサイクリングすることが可能であるけれども、そのたびに変化して変え

てゆくという”目減り’は覚悟しなければならないし、また、そのリサイクリングするために別

なエネルギー・物質が消費されるから、結局、全体としてはなんにもならないということである。

   『たとえば、地表下から金属をとり出して、それからなにか道具を作ると仮定してみよう。

  この道具が存在している間、金属の分子は摩擦、疲労、傷などのために、絶えず飛び去り、

  また、これら遊離した金属分子は、けっして消滅することはなく、最終的には土の中に舞い

  戻ってしまう。

   ところが、土の中に舞い戻るといっても、今度は土壌中に散在してしまうわけで、元の金

  属鉱石の塊りのように、もはや有益な仕事を行なえるようなかたちにはなりえない。。また、‘y

  これら土壌中にばらばらに散った金属分子を、すべてリサイクリングする方法が、将来発見

  されるかもしれないが、それには、やはりこの全過程において、他の于不ルギーの使用とい

  う別の次元でのエントロピーの増大を必ず伴う』

 ところが、現代社会は、科学と技術がいくらでも、自分たちの便利と繁栄のための道具を無際限につくり出してくれるものと盲信しているのである。     

 

 今日の新聞(昭57・朝日新聞)は、ソ連の農業が、四年連続の不作であると報じ、そ

の主な原因の一つとして、「地力の低下Lをあげている。ほかにもいくつかの原因をあげている

が、これが最大の原因であることは、疑う余地がない。要するに「収奪農業Lによる地力低下で

ある。土地から収奪するばかりの農業がまねく必然の結果である。いつかは破産する。

 農民なら、だれでも知っていることだが、いくら再生利用に努め、つねに日照が不足しないよ

うにしたとしても、同一の場所で毎年毎年おなじ収穫を得ることは不可能である。エントロピー

の法則では、今日一葉の草が包えたということは、将来おなじ場所で生える草の葉が一枚減ると

いうことを意味するのであり、これは、ニコラスーレーゲンの理論で、かれは『閉ざされた系に

おいて、物質的エントロピーは、究極的に必ず最大に向かう』と表現している。

 四年連続して不作となっているソ連の農業が、そのままいまのわれわれの世界のすがたであろ

う。人類は、その起源からいまに至るまで、ずうっと、地球上においてストご

ルギーを収奪し、食いつぶしつづけているのである。

 人類が誕生して以来、いままでに、なに一つとして、地球上にストックされた資源を使わずに

あらたな物質を創造したということはない。すべて、ストご

食いつぶしだ。それは、要するに、或るエネルギーを使用可能な状態から使用不可能な状態にと

変換してきただけである。そして、人類が進化し進歩するにつれて、エネルギー利用の能力が高

められてきた、ということは、使用不可能な状態の予不ルギーを増加させる能力が高められてき

たということにほかならない。これを「エントロピーの法則」によってみれば、地球上の生命に

とって、進歩とは、使用可能な予不ルギりをすべて食いつぶし、消費してしまうということにほ

かならないのである。

 現代社会の発展ど繁栄は、この地球上にストックされた資源のうち、主として、石油と石炭に

依存している’。ところか、われわれは、いま、現実に、この石油、石炭をはじめとする再生不可能

な予不ルギーのストックを、ほとんど使い果たしているのである。これをいったいどう考えるか。”コロンビア大学の経済学者エミールーブノワは『原子力科学者会報』の中で、石油の世界消費

が現在のペースで増えつづければ、今後二五年以内に石油は枯渇してしまう、とのべている。か

りにヽ、ご現在の石油埋蔵量の四倍に匹敵する新たな石油層が発見されたとしても(多くの専門家は

夢物語としているが)それでも枯渇までの期間が、せいぜい二五年延びるにすぎないのである。

 また、一五ヶ国にわたる産業界、政府の要人、それに学界の専門家を加え、マサチューセ、ノツー

エ科大学の後援で実施された最近の調査では、世界の石油供給は、西暦二〇〇〇年以前に、増加

する需要を満たしきれなくなるであろう、と結論している。また、一九八五年から一九九五年に

かけ。て、エネルギー価格が現在より五〇%上昇するようなことがあると、世界は大規模な石油危

機に見まわれることがあるかも知れない、とものべているぐ

 日米欧委員会(日本、アメリカ、西欧の政治・経済のリーダーが参加している国際的な組織)

がおこなった調査をみても、同様な予測がなされており、一九九〇年代の中頃までには、世界の

石油需要は、その供給を完全に上回るだろうとされている。

 これにたいし、新たな于不ルギー生産の技術研究がすすめられている。

 まず、石炭液化であるが、これは、わずか三-四バーレル(てバーレルは四二ガロッ)の液化

油を得るのに、一トン以上の石炭を採掘し、それを高温に熟し、さらに高圧処理しなければなら

ない。それに要する干不ルギーの量は、まさに気も遠くなるばかりの数字である。

 だれでもわかるように、エネルギーを変換するためには、べつのエネルギーが必要である。だ

から、正味のエネルギーとは、新たに干不ルギーをつくり出すために要した于不ルギーを差引い

た残りの総計である。その点からいうと、シェールーオイル(頁岩油)は論外である。たったI

バーレルのシェー・ルーオイルを生産するのにIトン半ものオイルーシェー・ル(油母頁岩)が必要

で、それと同時に、製造過程において水をニバーレル必要とする。しかも、シェールーオイルは

毒性のガスを発生するので、その処理がたいへんである。タールーサッド(粘性の高い炭化水素

を含む砂または砂岩)はどうかといえば、わずかIバーレルの石油を得るのに、約ニトッのクー

ルーサンドを採掘して加熟しなければならない。いずれも、へたをすると、一〇のエネルギーを

得るために、二〇、三〇の干不ルギーを消費しなければならないおそれがあるわけである。とて

も実用できるものではないのだ。

 原子力発電は危険きわまりなく、いま最も注目されている太陽エネルギーの利用は、どのように

高度の技術を結集したとしても、現在の産業構造を支えるエネルギー源にはなり得ないのである。

 太陽子不ルギーの持つ流れの性質、および現在の技術からみて、太陽子不ルギーが最適なのは、

小規模のシステム、たとえば各家庭に熱と湯を供給するといった装置にたいしてである。多くの

太陽子不ルギーの推進者らの間で一致している意見は、現在の技術水準や、将来の技術水準をで

きるかぎり考慮しても、いまの個人住宅を太陽子不ルギー用に改造した場合、住宅の子不ルギー

需要の六〇%をまかなうにすぎないだろうという。また、もし、将来、太陽子不ルギー利用のす

ばらしい新技術が開発されたとしても、それは、現在の子不ルギー利用構造とまったく異なった

ものであるから、あらたな資源を使って、まったく新しい構造をつくり出さなければならない。

その手不ルギー消費は考えられないほどの数字になることは必然である。それに現在の、あるい

は将来の地球資源は耐えられるかどうかであるフ

 J・リフキンは、結局、

  『このまま進むと、われわれがこの地球を去るときは、自分たちのためだけに、将来人類が

  必要とするすべての資源を使いはたし、次の世代の人間は、何一つ使用できるエネルギーを

  持たない惑星に取り残されてしまうことになる。なんというエゴ、なんという視野狭窄症  だろう6

 といっているが、わたくしは、このリフキンの言葉にたいし、(ふかい恐れをもって)

「そんな心配は不要にな・るのではないか」

 と思うのである。

 つまり、リフキンのいうような次の世代まで、この世界は持ちこたえられまい、ということで

ある。もっとはっきり言うと、地球上につぎの世代は存在しない、ということだ。

物質世界の法則からの超越

 考えてごらんなさい。数年まえに起こったトイレット・ペーパー買い溜めさわぎを。

 トイレット・ペーパーで、あのさわぎである。これが、生活にぜったい必要な燃料や食料とい

うことになったら、いったい、どんなさわぎになるか。

 一九七九年、アメリカの各地で起きたガスライン(ガソリンを買うための自動車の行列)で。、

わずかのガソリンをめぐって殺人事件まで発生した。。             ▽

 これがなにを意味するか。いままでの人類の歴史をみてみれば、すぐにわかることである。

 国家はつねに、使川可能な新たな手不ルギー源を求めて、地理的領土欲を強め、既存予不ルギ

ー源の枯渇をおぎなおうとしてきた。帝国主義的ないし植民主義的拡大は、すべて、新しい予不

ルギー源を確保するために生まれたものである。かつての日本もそうであった。

 石油資源が枯渇し、エネルギ~危機が悪化するならば、それが頂点に達する前に、世界の強大

国は、いずれも、この歴史の例にならうことになろう。いまの世界観のままで推移すれば、必ず、

そうなる。ソ連の中東進出、アメリカの軍事介入、そして全面核戦争、地球の滅亡、というコー

スは、その一つの例である。

 もちろん、これに反対の意見もすくなくはない。

 その代表の一例として、たとえば、鮎川信夫氏は、週刊文春の書評欄(57年11月11日号)で、’

ジョナサンーシェル『地球の運命』を論評して、

   『核戦争は、十年前にも、二十年前にも起らなかったのである。十年後にも、二十年後にも

  起らないと考えて、何か不都合な理由でもあるのだろうか。過去において、核戦争を防止し

  た抑止力が、今後とも有効に働くと判断しても、少しもおかしくないはずである』

 といい、

   『ハーマンーカーンが、「人類の絶滅」は、最もありそうもないことだと否定したのはよく

  知られている。また最近ではエドワードーテラーが、放射性降下物は洗い流すだけで症状を  ち仏教の理想とする、すべての煩悩を滅した境地)、あるいは「道」という真理に到達する

  ことができるというものである』

 といっているのは、仏教徒を自任しているこの国のひとたちすべてが、襟をただして聞くべき

言葉ではないか。

 われわれが、物質的欲望の充足を目標としているかぎり、物質を支配する法則、「エントロピ

ーの法則」から脱出することはできない。

 シャカは「霊性の獲得」という方法により、物質世界の法則からの脱出を説き、その方法をわ

れわれに示した。それにより、人間は、物質世界の法則から超越し、霊的世界という高次元の世

界に生き、高次元の世界を創造することができることを教えられたのである。それが、シャカの

「成仏法」である。

 このシャカの「成仏法Lは、いろいろな事情から、千数百年の間、日本の仏教界において抹殺

されつづけ、ついに今日にいたるまで陽の目をみることがなかった。

 いま、このシャカの成仏法が、世に出でんとしているのは、この世界を救おうとするみ仏の意

志と、無意識のうちにこの聖なる教法を求めている人類の願いが、まさにいま合致したのである

と思われてならない。その使命をはたすことのできるよろこびに、わたくしはうちふるえている

のである。

 

 

 

 

               

 

 

 

 

 

 

 

 

 

Liberating the Mind from Bondage by Seiyu Kiriyama

It is so nice to be back in New York again. It’s been exactly one year since I was last here.

This is the second year in a row that I have been able to achieve my long-standing desire to perform a goma fire ceremony in New York City. Today’s service would not have been possible without the close cooperation of the management and staff of the Riverside Church and the efforts of many people who have been working behind the scenes. I would like to offer my sincere gratitude to all those people, and to you, who are participating by your attendance. Thank you very much.

Before I proceed, let me first take this opportunity to express my profound sorrow and sympathy on the recent, tragic terrorist attacks against the United States.

I am deeply impressed by the determination and heroic courage that the American people, led by President Bush, have shown in the face of this sad and painful crisis. In particular I’d like to pay my sincere respects to the fire fighters, policemen, and emergency workers who have been doing such a wonderful job.

I watched the coverage of the memorial service held at Yankee Stadium on September 23. This, too, was truly soul wrenching.

Mayor Giuliani made a speech during the service. I’m sure you all remember his words, but they are worth repeating here. Mayor Giuliani declared: “To those who say our city will never be the same, I say, you are right. It will be better.”

These words, more than anything, show that

 

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