UA-135459055-1

申忽林経 ―― 手のひらの葉と森の真理 The Sutra of the Handful of Leaves

 

 

阿羅漢の髑髏 ―― 霊鷲山の教え

阿羅漢の髑髏 ―― 霊鷲山の教え
The Skull of the Arhat — Teachings of Vulture Peak

 

霊鷲山に 朝日さし
王舎城を 照らしゆく
世尊は歩む 比丘とともに
墓地にひびく 法の声

 

髑髏は語る 生と死を
善趣悪趣の 道を示す
されど阿羅漢 跡もなく
無余涅槃の 風ぞ吹く

髑髏は語る 生と死を
善趣悪趣の 道を示す
されど阿羅漢 跡もなく
無余涅槃の 風ぞ吹く
南無仏 南無法 南無僧

 

来るところも 去るところも
東西南北 求めえず
生死を超えし 聖者には
行き先さえも 名は持たず

来るところも 去るところも
東西南北 求めえず
生死を超えし 聖者には
行き先さえも 名は持たず
南無仏 南無法 南無僧

 

鹿頭梵志 骨を取り
幾たび叩き 見つめても
阿羅漢なる その境地
智慧の外に 隠れたり

鹿頭梵志 骨を取り
幾たび叩き 見つめても
阿羅漢なる その境地
智慧の外に 隠れたり
南無仏 南無法 南無僧

 

南無仏 南無法 南無僧
無余涅槃に 帰命せん
生死を超える 智慧の道
霊鷲山より 今ひらく

南無仏 南無法 南無僧
無余涅槃に 帰命せん
生死を超える 智慧の道
霊鷲山より 今ひらく
南無仏 南無法 南無僧

 

阿羅漢の髑髏 ―― 霊鷲山の教え The Skull of the Arhat — Teachings

阿羅漢の髑髏 ―― 霊鷲山の教え
The Skull of the Arhat — Teachings of Vulture Peak

 

 

王舎城の空は澄み渡り、朝の光が霊鷲山の岩肌を黄金色に染めていた。
ある日、世尊は五百人の比丘たちとともに山を下り、一人の梵志を伴って歩いておられた。
その名は鹿頭梵志。
星宿の運行を知り、人の病を診る医術に長け、生き物の生死や行き先までも見分けると評判の人物であった。
二人がたどり着いたのは、町外れの大きな墓地であった。
風が吹くたびに草が揺れ、朽ちた骨がところどころに見える。生と死の境界を思わせる静かな場所である。
世尊は地面に転がる一つの髑髏を拾い上げると、鹿頭梵志に手渡された。
「梵志よ。この髑髏は男のものか、女のものか。」
鹿頭梵志は髑髏を手に取り、角度を変えながら眺めた。さらに指で軽く叩き、その響きを確かめる。
やがて顔を上げた。
「これは男の髑髏です。」
「その通りだ。」
世尊はうなずかれた。
「では、この者はどのように死んだのか。」
再び髑髏を調べた梵志は答えた。
「多くの病に苦しみ、全身の痛みに耐えきれず命を終えました。」
世尊はさらに尋ねられた。
「もし生きていたなら、どのような薬で治せたか。」
梵志は即座に答えた。
「呵梨勒の実を蜂蜜と合わせて飲ませれば回復したでしょう。」
世尊は微笑まれた。
「よく見抜いた。では、この者は死後どこへ生まれたか。」
梵志はしばらく髑髏を見つめた後、静かに言った。
「三悪趣です。」
世尊はうなずかれた。
「その通りである。」
こうして世尊は次々と髑髏を拾い上げ、梵志に渡された。
あるものは出産の途中で命を落とした女性。
あるものは暴飲暴食によって病を得た男。
あるものは飢えと衰弱の中で死んだ女性。
あるものは他人に害されて命を落とした男。
鹿頭梵志は、そのたびに骨を手に取り、叩き、観察し、生前の姿や死因、そして死後の行き先を語った。
世尊は時に認め、時に問いを重ねながら、梵志の知識の奥へと導いていった。
やがて梵志は気づき始めた。
人の死因や病を知ることはできる。
善趣や悪趣への生まれ変わりも推し量ることができる。
しかし、それらはすべて生死の流れの中にある。
まだ終わりではないのだ。
その時、世尊は静かに空を見上げられた。
遠く東方、普香山の麓で、一人の阿羅漢が入滅していた。
名を優陀延比丘という。
煩悩を尽くし、生死を超えた聖者であった。
世尊は神通力によって、その阿羅漢の髑髏を取り寄せ、鹿頭梵志の前に置かれた。
「梵志よ。この髑髏を見よ。」
鹿頭梵志は自信をもって手に取った。
いつものように観察し、軽く叩いた。
だが――
何も見えない。
何も分からない。
男か女かも分からない。
生まれた場所も分からない。
死んだ場所も分からない。
来た道も分からない。
行く先も分からない。
骨を叩いても、そこには何の響きもなかった。
梵志の額に汗が浮かんだ。
もう一度調べる。
それでも分からない。
ついに彼は頭を下げた。
「世尊よ。私は分かりません。」
墓地に静寂が流れた。
世尊は慈しみに満ちた眼差しで語られた。
「梵志よ。無理もない。」
「この髑髏は男でも女でもない。」
「来るところもなく、去るところもない。」
「生もなく、死もない。」
「東西南北にも、上下にも、その行き先を求めることはできない。」
鹿頭梵志は息を呑んだ。
世尊は続けられた。
「これは優陀延比丘の髑髏である。」
「阿羅漢の髑髏である。」
「彼は無余涅槃に入った。」
「もはや生まれ変わることはない。」
その言葉を聞いた瞬間、鹿頭梵志の胸を大きな衝撃が貫いた。
今まで自分は、多くのことを知っていると思っていた。
鳥や獣の声を聞けば雌雄を言い当てられる。
人の運命も死後の行き先も見分けられる。
九十六種の外道の教えも理解している。
しかし――
阿羅漢だけは分からない。
その境地だけは見えない。
そこには行き先がない。
来た場所もない。
生死そのものが終わっているのだ。
鹿頭梵志は深く頭を垂れた。
「世尊よ。」
「私はこれまで、多くを知っていると思っていました。」
「しかし如来の正法は、それをはるかに超えています。」
「どうか私を弟子としてお受けください。」
世尊は静かにうなずかれた。
「善いかな、梵志よ。」
「梵行を修めよ。」
「やがて誰にも知ることのできない境地へ至るであろう。」
鹿頭梵志は出家した。
山林の静かな庵に住み、昼も夜も修行に励んだ。
やがて智慧の光は完全に開かれた。
生死は尽きた。
なすべきことは成し遂げられた。
再びこの世に生まれることはない。
かつて阿羅漢の髑髏を見ても何も分からなかった梵志は、今や自らその境地に到達したのである。
霊鷲山には夕日が差していた。
黄金色の光の中で、仏陀は静かに微笑まれていた。
生死を見分ける知識よりも尊いものがある。
それは、生死そのものを超える智慧である。

第一義空の教え ―― 牛飼いの村にて The Teaching of Emptiness as the Ultimate Truth

第一義空の教え ―― 牛飼いの村にて
The Teaching of Emptiness as the Ultimate Truth — In the Herdsmen’s Village

牛飼いの村に 朝日さし
草原わたりて 風は吹く
世尊の御声 静かなる
第一義空の 法ひらく

縁により生じ 縁により滅す
空なる諸法を よく観ぜよ
我なる実体 求むるなかれ
南無仏 南無法 南無僧
第一義空に 帰命したてまつる

眼より色へと 識は生ず
耳より音へと 縁は巡る
生じては滅する 法の流れ
南無仏 南無法 南無僧
第一義空に 帰命したてまつる

無明の滅する その時に
行も識もまた 静まりぬ
老死の苦海を 離れゆく
南無仏 南無法 南無僧
第一義空に 帰命したてまつる

来ることもなく 去ることもなし
ただ因と縁の 道理のみ
執着離れて 解脱へ向かう
南無仏 南無法 南無僧
第一義空に 帰命したてまつる

諸行無常と 響く声
諸法無我と 風は告ぐ
縁起の真理を 胸に抱き
第一義空を 今ぞ讃えん

南無仏 南無法 南無僧
南無仏 南無法 南無僧
第一義空に 帰命したてまつる
第一義空に 帰命したてまつる

第一義空の教え ―― 牛飼いの村にて

第一義空の教え ―― 牛飼いの村にて

Th Teaching of Emptiness as the Ultimate Truth — In the Herdsmen’s Village

 

牛飼いの村に 朝風ふきて 草原の牛は 静かに遊ぶ 世尊の御前に 比丘ら集い 第一義空の 法を聞かん

眼は色にふれ 識は生まるる 耳は音を聞き 心は動く 鼻は香を知り 舌は味わい 身は触を受け 意は法を見る
縁なく生ずる ものなどはなく 縁なく滅する ものまたなし 一切の現れ 因縁によって 束の間に起こり 束の間に去る

無明によりて 行は生じ 行によりて 識は起こる 識より名色 六処と続き 苦の流れは 広がりゆく
されど智慧の 光現れ 無明の闇を 照らし尽くせば 苦の連なりは 静かに絶えて 寂静の岸へ 人は至らん

縁により生じ 縁により滅す 我なるものは どこにも見えず 無明の滅する その時こそは 涅槃の光 心に満つる
縁により生じ 縁により滅す 空なる真理を ありのまま見る 執着離れて 自在となれば 解脱の道は 目の前に開く

草木も人もまた 同じ理なり 種と土と水 日を受け育つ 一つに見えても 多くの縁の 支えによって 今ここにある
灯火の炎は 移ろいながら 絶えず燃えつつ 形を変える 同じにあらず 異にもあらず 命の流れも またその如し

来るところなく 去るところなし 眼耳鼻舌身 意もまた然り 現れては消え 消えては現る 因果の流れの ただ中にあり
空を知る者は 恐れを離れ 空を知る者は 惑いを離る 智慧の眼もて 世を観ずる時 安らぎの風は 胸に満ちゆく

縁により生じ 縁により滅す 我なるものは どこにも見えず 無明の滅する その時こそは 涅槃の光 心に満つる
縁により生じ 縁により滅す 空なる真理を ありのまま見る 執着離れて 自在となれば 解脱の道は 目の前に開く

白雲は流れ 朝日は昇り 村には静かな 風が吹きゆく 比丘ら歓喜し 法を受け持ち 第一義空を 深く味わう
縁により生じ 縁により滅す 縁により生じ 縁により滅す 空なる法に 帰依したてまつり 涅槃の彼岸を ともに目指さん

第一義空の教え ―― 牛飼いの村にて

第一義空の教え ―― 牛飼いの村にて

 

 

ある時、世尊は小さな牛飼いの村に滞在されていた。
村の周囲には緑の草原が広がり、牛たちがのどかに草を食んでいる。朝の風は穏やかで、木々の葉を静かに揺らしていた。
その日、多くの比丘たちが世尊のもとに集まり、教えを聞こうとしていた。
世尊は比丘たちを見渡し、静かな声で語り始められた。
「比丘たちよ。これから第一義空の法を説こう。よく聞き、深く考えなさい。」
比丘たちは合掌し、世尊の言葉に耳を傾けた。
世尊は続けられた。
「眼があり、色があり、その二つが縁となって眼識が生じる。耳と音、鼻と香り、舌と味、身と触れ合い、意と法についても同じである。」
比丘たちは静かにうなずいた。
世尊はさらに語られた。
「しかし比丘たちよ。よく観察しなさい。
眼そのものに固定した実体はない。色にも固定した実体はない。眼識にも固定した実体はない。
それらは因と縁によって一時的に現れ、因と縁が離れれば消えてゆく。」
朝の光が木々の間から差し込み、静寂の中に世尊の声だけが響いていた。
「この世のあらゆる現象は同じである。
これがあるから彼がある。 これが起こるから彼が起こる。
無明によって行が生じ、 行によって識が生じ、 識によって名色が生じる。
このようにして生老病死に至るまで、大いなる苦の集まりが現れるのである。」
比丘たちは縁起の法を思い浮かべながら、その言葉を心に刻んだ。
世尊は一本の草を手に取り、静かに示された。
「この草もまた、種と土と水と日光と多くの条件によって生じている。
それ自体で存在しているのではない。
人もまた同じである。」
そして世尊は、さらに深い真理を説かれた。
「無明が滅すれば行は滅し、 行が滅すれば識は滅する。
このように順次滅してゆき、ついには老いと死の苦しみも滅する。」
比丘たちは深い静けさの中で、その意味を味わった。
しばらくして、一人の若い比丘が尋ねた。
「世尊よ。もしすべてが空であるならば、行為をする者は誰なのでしょうか。また、その結果を受ける者は誰なのでしょうか。」
世尊は慈しみに満ちた眼差しで答えられた。
「比丘よ。
業はある。 その報いもある。
しかし、そこに永遠不変の作者を見いだすことはできない。
たとえば灯火の炎は、一瞬ごとに変化しながら燃え続けている。
昨夜の炎と今の炎は同一ではない。 しかし全く別のものでもない。
生命もまたそのようなものである。」
若い比丘は深く頭を下げた。
世尊は最後に語られた。
「眼は生じる時、どこから来るのでもない。
滅する時、どこかへ去るのでもない。
耳も、鼻も、舌も、身も、意もまた同じである。
ただ因と縁によって現れ、 因と縁によって滅する。
これをありのままに観る者は、執着を離れ、解脱へと向かうのである。」
村の上空には白い雲が静かに流れていた。
比丘たちは深い法悦に満たされながら、世尊の教えを受け止めた。
縁によって生じ、 縁によって滅する。
そこには「我」と呼ぶべき固定した実体はなく、ただ流れゆく因果の道理だけがある。
これこそが、世尊の説かれた「第一義空」の教えであった。
比丘たちは世尊の説法を聞き終えると、大いなる歓喜をもってこれを受け持ち、実践しようと心に誓った。

法鏡の教え ―― 那陀村にて The Teachings of the

法鏡の教え ―― 那陀村にて
The Teachings of the Dharma Mirror — In Nada Village

春の風ふく 那陀の里に
世尊と阿難 道をゆく
亡き人しのぶ その問いに
法の鏡は 今ひらく

 

人は生まれて 人は去る
流るる水の ごとくして
いずこに往くかと 問うよりも
歩むべき道を 知るがよい

五百の人も 五十の人も
善き道歩み 法に帰す
流れに入りし 聖なる者は
やがて苦海を 渡りゆく

 

世尊は静かに 説かれたり
終わりなき問いを 離れよと
己が心を 映し見る
智慧の鏡を 持てよと

 

南無仏 南無法
南無僧 帰依したてまつる
清き戒を よく保ち
涅槃の岸へ ともにゆかん

南無仏 南無法
南無僧 帰依したてまつる
法鏡照らす この道を
退くことなく 歩みゆかん

 

如来は正しく 覚りたり
法は清らに 輝けり
聖なる僧は 道を示し
衆生を彼岸へ 導けり

三悪道をば 離れゆき
正しき流れに 身をまかす
七たびの生を 越えゆけば
ついに苦しみ 尽き果てる

 

信は灯火 戒は舟
智慧は彼岸へ 渡す橋
揺るがぬ心を 育むは
法鏡映す その光

 

南無仏 南無法
南無僧 帰依したてまつる
清き戒を よく保ち
涅槃の岸へ ともにゆかん

南無仏 南無法
南無僧 帰依したてまつる
法鏡照らす この道を
退くことなく 歩みゆかん

 

南無仏 南無法 南無僧
南無仏 南無法 南無僧
法鏡明らか 心にあり
法鏡明らか 心にあり

南無仏 南無法 南無僧
南無仏 南無法 南無僧
苦の終わりへ 至る道
如来の光 永遠なり

 

貧窮経 ―― 宝の山に入りながら The Sutra of Poverty — Entering the Mountain of Treasure

貧窮経 ―― 宝の山に入りながら

The Sutra of Poverty — Entering the Mountain of Treasure

夜の祇園 風が鳴る
灯火ゆれて 影が伸びる
宝の山に 迷い込み
空の両手で 人は泣く

宝の山に入りながら
心の貧しさ 知らぬまま
仏の光を受けながら
空の掌で 闇を抱く

黄金よりも 尊きもの
戒と智慧の 静かな灯
法に出会って 生かせぬなら
それが真なる 貧窮なり

借りた命は 風のよう
欲の利息が 胸を刺す
執着捨てて 道を行け
宝はすでに 心にある

夜の竹林 月は白く
世尊の声が 闇に響く
善を行い 智慧を磨け
それが自由へ 至る道

欲貪と瞋恚 ―― 人を向上させる反省の道 Greed and hatred — A path of reflection for personal growth

欲貪と瞋恚 ―― 人を向上させる反省の道
Greed and hatred — A path of reflection for personal growth

 

夜の寺に、静かな鐘の音が響いていた。

山門の外では、細い雨が石畳を濡らし、杉の梢を渡る風が、かすかに香の煙を揺らしている。

本堂の灯火の前に、一人の青年が座っていた。

青年の顔には、怒りとも苦しみともつかぬ影があった。

向かいには、老いた僧が静かに座している。

しばらく沈黙が続いたあと、青年はぽつりと言った。

「どうしても許せない人がいるのです」

僧は何も言わず、ただ青年を見つめた。

「私は騙されました。信じていた相手に裏切られ、大金を失ったのです。あんな悪人はいません」

外の雨音だけが静かに響く。

やがて僧は、ゆっくり口を開いた。

「その者は、どのようにお前を騙したのだ」

青年は悔しそうに語り始めた。

「百万円を預ければ、一か月後に十万円の利益を返すと言ったのです。最初は本当に返ってきました。だから私は信じてしまった。借金までして、さらに大金を預けたのです。しかし翌日には、その男は消えていました」

青年は拳を握りしめた。

「私は人生を壊されたのです」

僧は静かに頷いた。

「確かに、その男は悪い」

青年は顔を上げた。

だが次の言葉は、予想していた慰めではなかった。

「しかし、お前自身にも、反省すべき因縁はなかったか」

青年の表情が固まる。

「……どういう意味です」

「この世に、一か月で一割もの利益を出し続けられる商売など、本当にあると思ったのか」

青年は言葉を失った。

「欲が、心を曇らせたのだ」

僧の声は静かだった。

「人は、自分に都合のよい話を聞くと、因果の道理を忘れる。そこに欲貪が生まれる」

雨音が少し強くなる。

「欲貪とは、ただ金を欲しがることではない。名誉を求める心、楽をしたい心、認められたい心――。人間の奥底には、さまざまな欲が潜んでいる」

僧は灯明の火を見つめた。

「食欲も、睡眠欲も、性欲も、本来は生きるための自然な働きだ。しかし、それが過度になり、“もっと欲しい”という執着に変わると、人は道を見失う」

青年は黙って聞いていた。

「そして、欲が破れると、人は怒る」

僧は続けた。

「それが瞋恚だ」

青年は小さく眉を寄せた。

「怒ることが悪いのですか」

「怒りそのものではない」

僧は首を横に振った。

「因果を見失い、自分だけが正しいと思い込む心。それが瞋恚なのだ」

堂内に沈黙が落ちた。

「人は、自分の失敗を棚に上げ、相手ばかりを責める。しかし、本当に自分には何の原因もなかったのか――そこを見つめることが修行なのだ」

青年の視線がゆっくり落ちる。

僧はさらに言った。

「夫婦でも同じだ」

「妻の悪口ばかり言う夫。夫の欠点ばかり責める妻。だが、因縁は鏡のようなものだ。荒れた縁には、荒れた心が映る」

青年は、はっとしたように顔を上げた。

僧は微笑した。

「壊れた鍋には、壊れた蓋が合う」

そして静かに続ける。

「もし金の蓋を望むなら、自分が金の鍋になればよい」

青年は深く息を吐いた。

外では雨が少しずつ止み始めていた。

「ですが……」

青年はかすれた声で言う。

「自分の悪いところばかり見ていたら、暗くなってしまいます」

すると僧は穏やかに笑った。

「反省とは、自分を嫌うことではない」

灯火が静かに揺れる。

「自分を向上させるために、自分を正しく見ることだ」

「他人を責め続ければ、人は沈んでいく。しかし、自分の因縁を見つめ、悪い種を減らそうと努力するなら、人は少しずつ変わっていく」

青年の目から、張りつめていた力が抜けていった。

「仏道とは、他人を裁く道ではない」

僧は静かに言った。

「自らの心を整えていく道なのだ」

遠くで、夜明けを告げる鳥の声がした。

雨雲の切れ間から、淡い月の光が差し込む。

青年は深く頭を下げた。

その胸の奥で、怒りの炎はまだ完全には消えていなかった。

だが、その炎を見つめるもう一人の自分が、静かに生まれ始めていた。

二つの涅槃界 Two Realms of Nirvana

二つの涅槃界

Two Realms of Nirvana

 

 

夜の山寺 風が泣いてる
灯籠の火だけ 闇に揺れてる
因縁の糸に 縛られながら
人は迷いの 夢を歩く

善き人さえも 涙に沈み
願い半ばで 命は消える
逃げようとしても 絡まる糸に
心は静かに 傷ついてゆく

Namosattanan
sanmyaksanmodaktinan
taniyata
on shaley shurei juntei
sowaka

けれど仏は 道を示した
ほどけばいいと 語りかけた
一本ずつでも 断ち切るたび
闇の彼方に 光が灯る

ほどけ ほどけ 因縁の糸
輪廻の闇を 越えてゆけ
すべての執着 断ち切る時
人は仏へ 近づいてゆく

Namosattanan
sanmyaksanmodaktinan
taniyata
on shaley shurei juntei
sowaka

ほどけ ほどけ 苦しみの糸
静かな涅槃へ 辿り着け
そして最後の 糸が消える
その時 人は 仏となる