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仏陀の成仏法と霊魂

仏陀の成仏法と霊魂

仏法とは、仏陀釈尊が生涯かけて
弟子たちに教えた成仏法、七科三十七道品

死後も生きつづける幽体(アストラル体)

アメリカ・ジョージア州立大学哲学科のロバート・アルメダー教授は、その著書『死後の生命』(TBSブリタニカ)の「まえがき」と「本文」において、つぎのように述べています。
『私たちは今や、死後にもなんらかの生命が存在するという考え方を強力に裏づける、事実に基づいた一連の証拠を手にしている』
(まえがきより)
『以上のように考えると、あらゆる人間は、“幽体”(すなわち、ある種の状況以外では肉眼には見えない物質類似の希薄な要素からなる第二の体)を持っているという、霊能力者がしばしば行う主張がある程度真実味を帯びてくる。
この第二の体は、形状的には肉体と瓜二つで、肉体の死後も存在を続けるとされている』
(本文より)
では、仏教では、どのように考えているのでしょうか。

人間は死ぬとどうなるのか?

仏教では、人間は、色〈しき〉(物質)・受〈じゅ〉(感覚)・想〈そう〉(表象)・行〈ぎょう〉(意志)・識〈しき〉(意識)の五つの要素からできていると考えます。この五つの要素を「五蘊(ごうん)」と呼び、この五蘊が仮に寄り集まって人間(自我・霊魂)ができあがっているのです。
では、人間が死んだらどうなるのでしょうか?
日本の仏教者の大半は、釈尊が「霊魂」の存在を否定してしまったと考えています。つまり、死んだらすべてが消滅すると考えているのですが、これはまちがいです。
死んだらすべてが消滅してしまうという考え方は仏教ではありません。釈尊直説の経典である『阿含経』を学び修行していないから、このような誤った見解を抱いているのです。
釈尊は決して、霊魂の存在を否定しておられません。むしろ肯定しておられます。ただし、「霊魂」という名称ではなく、「異蘊(いうん)」という表現を用いておられます。

凡夫が死んで「五蘊」が滅しても我執(タンハー)のエネルギーによって「異蘊」(異なる構成要素)を生じて存在をつづけます。

 雑阿含経の中の「仙尼経」において、釈尊は次のように説かれております。
慢〈まん〉(我執〈がしゅう〉)断(だん)ぜざるがゆえに、この蘊〈うん〉を捨て已(おわ〉りて(死んで) 異蘊〈いうん〉相続して生ず。
つまり、異蘊とは生きている人間の構成要素(五蘊=色・受・想・行・識)とは異なった構成要素(蘊=集積)という意味で、現代風にいえば「異次元の薀(存在)」ということです。
また、雑阿含経「身命経」においても、「意生身(いしょうしん)」ということばで、死後の存在を説かれております。意生身とは意識(心)だけで出来た身体をいいます。
このように釈尊は、人間は死んでも、我執煩悩(タンハー)が残るかぎり「なにか(異蘊・意生身)」が存在をつづけると説かれております。この死後の存在こそが霊魂なのです。
そして我執(タンハー)が残った霊魂は、死後の世界を経て再生し、現世で成仏法の縁に逢わなければ、果てしなく輪廻転生を続けます。
また、この我執が非常に強い場合は、不成仏霊や霊障のホトケとなって迷い、その怨念のバイブレーションが子孫の心に強く悪影響をおよぼします。

サールナートの仏陀像
 釈尊は、古代インドのバラモンが説いた「永遠に変化することも滅することもない自我(アートマン)(霊魂)」という考えは否定しておられますが、
縁によって生じ、縁によって滅するという「縁起の法」の上での「死後の存在」は認められております。
つまり、「永劫不変の自我(アートマン)」というものは存在しませんが、「無常(変化)の中や縁起において成立する自己(アートマン)」はあるのです。
修行によって向上し、涅槃(ニルヴァーナ)に入る「自我(霊魂)」は存在するのです。
「不変」ではなく縁によって「変化」するために、死んで(その霊魂・霊体が)異蘊となる縁に逢えば、異蘊となって輪廻転生し、成仏法の縁に逢えば、解脱して仏界に生ずるのです。
死んだからといってまったく「無」になって消滅してしまうというのは、仏陀の説かれた縁起の法則に反するものです。

成仏法は、生者、死者を問わず、その霊魂を救済する

 


1983年8月 チベット仏教ニンマ派の法脈を継承された桐山管長猊下
管長猊下は仏陀釈尊の説かれた成仏法のみならず、最高位のラマ僧として受け継がれたチベット密教の秘法「召霊法(しょうれいほう)」を体得しておられます。
この召霊法は、ロバート・アルメダー教授が記述している幽体(アストラル体)だけでなく、その奥にある「霊体」も、自由に見ることができる秘法です。
管長猊下はこの召霊法によって、生者も死者も、ともに霊体から成り立っており、本質的にはあまり違いがないことを霊視されております。
仏陀の成仏法により、霊体は悪因縁、悪業、悪念から解放されます。
完全に解放された霊体は、涅槃(ニルヴァーナ)に入ります。
これを成仏というのです。

しかし、成仏といっても、生者と死者によって、それぞれちがいます。
生者の場合は、自分自身で成仏法・七科三十七道品(しちかさんじゅうしちどうぼん)を修行することができます。
修行によって霊体(生者)は、清められ、高められ、しだいに悪因、悪業から解脱してゆきます。
「シュダオン」「シダゴン」「アナゴン」という聖者の段階を経て、究極の大聖者「アラハン」(仏陀)に到達します。
この世において、仏陀に到達できない場合は、つぎの世においても、ひきつづき成仏法の修行を続け、究極的にはかならず仏陀になるのです。
死者の場合は、自分で修行することはできませんから、成仏法を成就した聖者に、成仏法をもって供養していただきます。
つよい怨念や執念によって不成仏霊となり霊障を発し、迷っているホトケは、聖者の発する悟りのバイブレーションを受けて解脱し成仏します。
ただし、この場合の成仏とは、完全に因縁・業煩悩といったものを解脱したという意味ではありません。
成仏法を成就した聖者( 有余依涅槃(うよえねはん)の聖者)の霊的テレパシー(霊力)によって、聖者の悟りをそのまま受け止めて、迷い執念などを離れて、冥界(死者のほんとうの世界=安らぎの場)へ向かうということです。
これが、仏陀釈尊の教えられた「仏法」です。

 


死者たちの怨念が、すべての人の深層意識を動かす

いま、この世界が壊滅の危機に瀕しているのは、この世界に充ち満ちている死者の怨念、悪念のバイブレーションが、すべての人の深層意識を動かしているためです。
その結果、人類はますます衝動的、闘争的、反道徳的になり、結果的に自分自身を虐殺しようとしつつあります。
まず、家庭が崩壊しはじめています。
これらの苦しみに満ちた死者の霊魂に全き安らぎを与えないかぎり、生きている人間に全き安らぎは訪れません。
仏陀釈尊の成仏法は、これらの苦しみを持ったまま死後生存している存在(霊魂)に安らぎをあたえ救済する力を持っているのです。

■おすすめ書籍

『仏陀の真実の教えを説く 阿含経講義【上巻】』 『輪廻する葦 -阿含経講義』 『人は輪廻転生するか -仏陀の霊魂救済法』

『阿含仏教・超奇蹟の秘密 -奇蹟を起こす力』
『「止観」の源流としての阿含仏教 』
『守護霊が持てる冥徳供養』
『輪廻転生瞑想法Ⅰ ―理想の自分に生まれ変わる如意宝珠敬愛秘法』
『霊障を解く -家運をよくする正しい先祖のまつり方その2』
『守護霊の系譜 -こうして守護霊を持て』
『仏陀の真実の教えを説く 阿含経講義【中巻】』

哲学

マルクス・ガブリエル(Markus Gabriel, 1980年4月6日 – )は、ドイツの哲学者。ボン大学教授。専門書だけでなく、哲学に関する一般書も執筆している

密教の仏たち 30 三宝荒神

三宝荒神(さんぼうこうじん、さんぽうこうじん)は、日本特有の仏教における信仰対象の1つ。仏法僧の三宝を守護し、不浄を厭離(おんり)する佛神である。

 

荒神は、仏法ならびに伽藍の守護神のことである。

役小角金剛山で祈祷していると、(北東)の方角に赤雲がなびき、荒神が現れ、その地に祠をつくって祀ったという伝説がある。また、荒魂を祀って荒神としたという説もある。後者は、ヒンドゥー教での悪神が仏教に帰依した後に守護神・護法善神とされた風習が、日本の風土でも同じくされたと解釈される。

像容としての荒神は、インド由来の仏教尊像ではなく、日本仏教の信仰の中で独自に発展した尊像であり、三宝荒神はその代表的な物である。日本古来の荒魂(あらみたま)に、古代インドに源泉をもつ夜叉神の形態が取り入れられ、神道密教山岳信仰などのさまざまな要素が混交して成立した。荒神を祀る寺院や神社は日本全国に約300社ある。

三宝荒神の像容は、三面六臂または八面六臂(三面像の頭上に5つの小面を持つ)である。頭髪を逆立てて眼を吊り上げた、暴悪を治罰せんとする慈悲が極まった憤怒の表情を示し、密教の明王像に共通するものがある。

不浄や災難を除去する神とされることから、火との神として信仰され、かまど神として祭られることが多い。これは日本では台所やかまどが最も清浄なる場所であることから俗間で信仰されるようになったものである。仏像としての作例は近世以降のものが多い。

オン ケンバヤ ケンバヤ ソワカ

三宝荒神は、神仏習合を背景としながら、密教経典の『大日経』の注釈書にあたる『大日経疏』巻五に説かれている、日天の眷属である地震を司る神である「剣婆」(けんばや)と同一視された。[要出典]「剣婆」はサンスクリット語のKampa(地震波)を語源に持つ。[要出典]この真言は『大荒神経』に出てくる荒神の真言であり、 荒神の真言はさまざまな真言が『大荒神経』に記されている。

今日の運命

六白金星の日

新しい企画を持った人との接触あり。気が高ぶり争いが起りやすい。負けるは勝ち。怒ったら損、自己を誇るなかれ。心豊かにほのぼのと。

 

文殊菩薩

文殊菩薩

文殊の知恵」と言われるように、諸仏の智慧を司る菩薩。釈迦如来の左側に侍し、右手に知剣、左手に青蓮花を持つ。普遍の悟りと智慧をもたらす。

御真言

オン、ア、ラ、ハ、シャノー

 

延命十句観音経

延命十句観音経】

観世音(かんぜおん)
南無佛(なむぶつ)
與佛有因(よぶつういん)
與佛有縁(よぶつうえん)
佛法僧縁(ぶっほうそうえん)
常楽我浄(じょうらくがじょう)
朝念観世音(ちょうねんかんぜおん)
暮念観世音(ぼねんかんぜおん)
念念従心起(ねんねんじゅうしんき)
念念不離心(ねんねんふりしん)

密教の仏たち 29 金剛蔵王権現

金剛蔵王権現

金剛蔵王権現

蔵王権現(ざおうごんげん)は、日本独自の山嶽仏教である修験道の本尊である。正式名称は金剛蔵王権現(こんごうざおうごんげん)、または金剛蔵王菩薩(こんごうざおうぼさつ)[2]。インドに起源を持たない日本独自の仏で、奈良県吉野町金峯山寺本堂(蔵王堂)の本尊として知られる。「金剛蔵王」とは究極不滅の真理を体現し、あらゆるものを司る王という意[3]権現とは「権(かり)の姿で現れた神仏」の意。菩薩、諸尊、諸天善神、天神地祇すべての力を包括しているという。

 

蔵王権現は、役小角[5]が、吉野金峯山で修行中に示現したという伝承がある[6]釈迦如来千手観音弥勒菩薩の三尊の合体したものとされ、今でも吉野山の蔵王堂には互いにほとんど同じ姿をした三体の蔵王権現像が並んで本尊として祀られている。

神仏習合の教説では安閑天皇(広国押建日命)と同一の神格とされたため、明治時代神仏分離の際には、本山である金峯山寺以外の蔵王権現を祀っていた神社では祭神を安閑天皇としたところも多い。

また神道において、蔵王権現は大己貴命少彦名命国常立尊日本武尊 、金山毘古命等と習合し、同一視された。その為蔵王権現を祭る神社では、主に上記の5組の神々らを祭神とするようになった。

 

真言・種字編集

  • オン・バキリュウ・ソワカ (通常呪)[11]
  • オン・バサクシャ・アランジャ・ソワカ [11]
  • 金剛蔵王権現真言: オン・バサラ・クシャ・アランジャ・ウン・ソワカ

種字は हूं (ウン、hūṃ)。[

 

密教の仏たち 28 歓喜天

歓喜天

 

歓喜天(かんぎてん、Skt:Vināyaka、Gaṇapati、またはナンディケーシュヴァラ Nandikeśvara 歓喜自在天)は、仏教の守護神である天部の一つ。

また、聖天(しょうでん、しょうてん)[1]、大聖歓喜天、大聖歓喜大自在天、大聖歓喜双身天王、象鼻天(ぞうびてん)、天尊(てんそん)。あるいはVināyaka、Gaṇapatiを音写して、毘那夜迦(びなやか)、誐那缽底(がなぱてい)ともいう。

象頭人身の単身像と立像で抱擁している象頭人身の双身像の2つの姿の形像が多いが、稀に人頭人身の形像も見られる。

多くは厨子などに安置され、秘仏として扱われており一般に公開されることは少ない。ガネーシャ(गणेश

 

 

ヒンドゥー教ガネーシャ(Gaṇeśa、群集の長)に起源を持つ。ガネーシャはヴィナーヤカ(Vināyaka、無上)、ヴィグネーシュヴァラ(Vighneśvara、障害除去)、ガナパティ(Gaṇapati、群集の主)、またはナンディケーシュヴァラ(Nandikeśvara)とも呼ばれる。ヒンズー教最高神の一柱シヴァ神を父にパールヴァティー(Pārvatī)(烏摩 うま)を母に持ち、シヴァの軍勢の総帥を務めたとされている。

古代インドでは、もともとは障害を司る神だったが、やがて障害を除いて財福をもたらす神として広く信仰された。

ヒンドゥー教から仏教に取り入れられるに伴って、仏教に帰依して護法善神となったと解釈され、ヒマラヤ山脈カイラス山(鶏羅山)で9千8百の諸眷属を率いて三千世界と仏法僧の三宝を守護するとされる。悪神が十一面観音菩薩によって善神に改宗し、仏教を守護し財運と福運をもたらす天部の神とされ、日本各地の寺院で祀られている。

一般的な抱擁している象頭人身の双身像の場合、頭部に冠を付けている方が十一面観音で、その十一面観音に抱擁されながらも足を踏まれている方が毘那夜迦王とされる。

 

 

聖天の名称は、大日如来もしくは観自在菩薩の権化身であるために、歓喜天の本身(大日如来もしくは観自在菩薩)を表すために「聖」の字を用いて聖天としたという。

 

梵字編集

種子梵字)はगः(gaḥ、ガハ、ギャク)を二つ重ねたगःगः(ギャクギャク)。Gaṇapati(गणपति)の頭文字Ga(ग)に涅槃点を加えて、गःとし、この種子गः(Gaḥ)を2つを並べることで、双身歓喜天を表している。ग(Ga)に涅槃点が加えられているのは、障碍(しょうげ)が已(や)んで、涅槃に入った解釈であるという。

真言編集

Om hrih gah hum svaha
オーム ह्रीः (十一面観世音菩薩の種子[13]) गः(歓喜天の種子[14]) हुं (軍荼利明王の種子[15]) スヴァーハー
オン キリ

 

 

 

密教の仏たち 27 荼枳尼天

荼枳尼天

荼枳尼天

荼枳尼天の起源であるインドのダーキニーは、裸身で虚空を駆け[5]、人肉を食べる魔女である[6]。ダーキニーの起源は明らかでないが[5]ヒンドゥー教もしくはベンガル地方の土着信仰から仏教に導入されたと考えられている[7]立川武蔵によれば、ダーキニーは仏教に取り入れられたのち、ヒンドゥー教でも女神として知られるようになった

この尊天は祀るのが非常に難しく、一度祀ると自分の命と引きかえに最後までその信仰を受持することが必須とされ、もしその約束を破ると、その修法を止めた途端に没落する、あるいは災禍がもたらされるとも考えられていた[要出典]。したがって、これは外法として考えられることもある忌まれる信仰でもあった。荼枳尼天の修法を外法と呼んだ例は中世文学に見られ、『平家物語』には「かの外法行ひける聖を追ひ出さんとす」、『源平盛衰記』には「実や外法成就の者は」、『太平記』には「外法成就の人

 

の有けるに」との記述がある[24]

 

真言・種子編集

  • 真言
オン・ダキニ・ギャチ・ギャカニエイ・ソワカ[36]
オン・キリカク・ソワカ (除行垢呪)[36]
ナウマク・サマンダ・ボダナン・キリカ・ソワカ[37]
オン・シラバッタ・ニリウン・ソワカ

 

 

 

 

 

 

密教の仏たち 26 吉祥天

吉祥天

吉祥天

吉祥天(きっしょうてん / きちじょうてん、Śrī-mahādevī [1] [シュリー・マハーデーヴィー]、音写:摩訶室利など)は、仏教の守護神である天部の1つ。もとヒンドゥー教女神であるラクシュミーLakṣmī)が仏教に取り入れられたもの。功徳天宝蔵天女ともいう[1]。ヒンドゥー教ではヴィシュヌ神の妃とされ、また愛神カーマの母とされる。 仏教においては、父は徳叉迦(とくさか)、母は鬼子母神であり、夫を毘沙門天とする[1]。妹に黒闇天がいる。 毘沙門天脇侍として善膩師童子と共に祀られる事もある。

早くより帝釈天大自在天などと共に仏教に取り入れられた。後には一般に弁才天と混同されることが多くなった。 北方・毘沙門天の居所を住所とする。不空訳の密教経典『大吉祥天女十二契一百八名無垢大乗経』では、未来には成仏して吉祥摩尼宝生如来(きちじょうまにほうしょうにょらい)になると説かれる。

吉祥とは繁栄・幸運を意味し幸福を顕す神とされる。また、美女の代名詞として尊敬を集め、金光明経から前科に対する謝罪の念(吉祥悔過・きちじょうけか)や五穀豊穣でも崇拝されている。

天河大弁財天社の創建に関わった天武天皇は天河の上空での天女=吉祥天の舞いを吉祥のしるしととらえ、役行者とともに、伊勢神宮内宮に祀られる女神([天照坐皇大御神荒御魂瀬織津姫)を天の安河の日輪弁財天として祀った。この時、吉祥天が五回振袖を振ったのが、五節の舞として、現在にいたるまで、宮中の慶事の度に催されている。

日本においては、神社でも信仰の対象としているところもある。また、埼玉県久喜市など、七福神に吉祥天を加え八福神として信仰している地域もある[2]

吉祥院天満宮の吉祥院に菅原清公卿、菅原是善公、伝教大師孔子と共に祀られる。菅原道真公の幼名の一つは吉祥丸であった。道真の祖父清公の遣唐使霊験譚以降菅原家は代々吉祥天信仰になったという。また、道真の正室島田宣来子と習合したとされる。[3

 

 

 

吉祥天

美・幸福・富を授ける美しき女神

吉祥天(きっしょうてん)とは?

もとはインド神話の女神・美と豊穣と幸運を司るラクシュミーであり、密教では美女の代名詞といわれて信仰されていました。毘沙門天を夫に持ち5人の子供がいます。妹の黒闇天(こくあんてん)は災いと不幸を呼ぶ神です。

 

貴族階級の人達に広く信仰されました。しかし一般の民衆に支持のあった弁財天に次第に人気を取られ、いつのまにか七福神の座も奪われてしまったといいます。

ご利益

財宝金銭、五穀豊穣、商売繁盛、天下泰平、家内安全などのご利益があるとされています。

吉祥天(きっしょうてん)の像容

中国・唐の貴婦人の姿で優雅な衣装に身にまとい、何でも願いが叶うとされる如意宝珠を持っています。

密教の仏たち 25 弁戝天

弁戝天

 

弁戝天

弁才天(べんざいてん、Sarasvatī[1][2]Sarassatī[2])は、仏教の守護神である天部の一つ。ヒンドゥー教女神であるサラスヴァティーが、仏教に取り込まれた呼び名である。神仏習合によって神道にも取り込まれ、様々な日本的変容を遂げた。

 

日本の弁才天は、吉祥天その他の様々な神の一面を吸収し、インド中国で伝えられるそれらとは微妙に異なる特質をもち、本地垂迹では日本神話に登場する宗像三女神の一柱である市杵嶋姫命(いちきしまひめ)と同一視されることが多い。「七福神」の一員として宝船に乗り、縁起物にもなっている。古くから弁才天を祭っていた社では明治初頭の神仏分離以降は、宗像三女神または市杵嶋姫命を祭っているところが多い。瀬織津姫が弁才天として祀られる例もあるが少ない。

金光明最勝王経』における弁才天は、金光明経を人に説いたり、他者から聞く者に智慧、長寿、富を与えるとされる[1]弁天(べんてん)または弁天さんとも言われ、弁才天(弁財天)を本尊とする堂宇は、弁天堂・弁天社などと称されることが多い。

 

真言・種子編集

  • オン・ソラソバテイエイ・ソワカ (弁才天呪)[8]
    • Oṃ sarasvatyai svāhā.[8]
  • オン・ウカヤジャヤギャラベイ・ソワカ (宇賀神呪)[9]

種子(種子字)はस(ソ[9]sa[9])、उ(ウ、u),ह्रीं(キリーン、hrīṃ)[10]