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不動明王 破壊と再生を司り、悪を滅する

 

 

 

不動明王

破壊と再生を司り、悪を滅する

不動明王(ふどうみょうおう)とは?

語源は「動かない守護者」を意味し、インド神話のシヴァ神の別名です。シヴァは暴風雨の威力を神格化したもので、破壊的な災害を起こす半面、雨によって植物を育てます。その破壊と恵みの相反する面は不動明王にも受け継がれているのです。不動明王は仏法の障害となるものに対しては怒りを持って屈服させますが、仏道に入った修行者には常に守護をして見守ります。

 

大日如来の化身として、どんな悪人でも仏道に導くという心の決意をあらわした姿だとされています。特に日本で信仰が広がり、お不動様の名前で親しまれています。そして、五大明王の中心的存在です。五大明王とは、不動明王を中心に降三世明王(ごうざんぜみょうおう)・軍荼利明王(ぐんだりみょうおう)・大威徳明王(だいいとくみょうおう)・金剛夜叉明王(こんごうやしゃみょうおう)の5体のことを指し、不動を中心に東西南北に配されます。不動明王の脇侍として八大童子のうちの矜迦羅(こんがら)・制多迦(せいたか)の2童子が配されることも多いです。ちなみに不動明王の持っている龍が巻きついている炎の剣が単独で祀られている場合があります。不動明王の化身とされ、倶利伽羅竜王(くりからりゅうおう)などと呼ばれています。

ご利益

除災招福、戦勝、悪魔退散、修行者守護、厄除災難、国家安泰、現世利益のご利益があるとされる。また、酉年生まれ守り本尊です。酉年に生まれた人々の開運、厄除け、祈願成就を助けるといわれています。

不動明王(ふどうみょうおう)の像容

背の低い、ちょっと太めの童子型の造形が多く、怒りの表情をしています。目は天地眼(てんちげん)といって右目を天に向けて左目を地に向けていますよ。口は牙上下出といって右の牙を上に出して左の牙を下に出しています。炎の光背を背にし、手には剣と羂索(けんじゃく)を持っています。剣は大日如来の智慧の鋭さを表現しています。羂索とは煩悩を縛り悪の心を改心させる捕縛用の縄のことです。

 

https://drive.google.com/file/d/1P6nOGvJyjb-tiuUXl1yRmz3nfwH8VcZK/view?usp=drive_link

阿含経

阿含歌

https://suno.com/song/256adc63-6c18-4298-8a6f-7920b59893e1

 

 

 

 

「お釈迦さまの弟子たちは、自分が救われるために出家をして、いろいろな修行をしたのではな いか。お釈迦さまはそのような弟子たちに法を説いたのだから、その説法をまとめた阿含経は小 「乗経典である」

と、わたくしは非難されました。

ですから、在家の方が「阿含経」の教えを世の中に広めていこうとする時、まず反対されるの はその点だと思います。

「お釈迦さまの仏教は出家仏教ではないか。 あなたは出家なのか?」

そういわれるでしょう。

それに対してどう答えればよいのでしょうか?

「ああ、そうですか。 それは知りませんでした」

というようなことではしかたがない。

逆に、お釈迦さまの仏教を出家仏教と考えるのはまったくの間違いであり、勉強不足なのだと 教えてあげなければいけません。

お釈迦さまの仏教は出家仏教でもなければ小乗仏教でもなく、 在家の者でも成仏できると説か れているのだ、ということがはっきり示されているのが、この『一切事経」なのです。 経文を読んでみましょう。

-如是我聞と「阿含経」

如是我聞 一時仏住迦毘羅衛国尼拘 律園中。爾時釈氏摩訶男来詣仏所。 稽首仏足退坐一面。白仏言。世尊。 何名優婆塞。仏告摩訶男。優婆塞 在家清白。乃至尽寿帰依三宝為優 婆塞証知我。

現代語訳

阿含経一切

かびらえ こくにく うつおん

是のくれ聞きぬ。一時、逆毘羅衛国尼拘律園

中に住まりたまえり。

いかん うばそくな

し、仏の足にしたてまつり退いて一面に坐し、仏 に白して言さく、「世尊よ、何が優婆塞と名づくるや」 仏、摩訶男に告げたまわく、「優婆塞とは在家清

我れを証知したまえ』」 と。

『寿尽くるまでぼう いまし、優婆塞とらん

このように私は聞きました。 ある時、仏さまがカピラヴァットゥ (迦毘羅衛国)のニグローダ (拘律)園におとどまりになっておられました。そこへ、在家の弟子であり、仏さまの従兄弟 でもあるマハーナーマ (摩訶男)が、数人の在家信者を引き連れて現われ、仏足頂礼の礼をして 仏さまの前に座り、質問いたしました。

「世尊よ、優婆塞 (在家仏教徒) とは、どのような人に対して名づけられたものでありましょう

仏さまはマハーナーマに、

「在家の者が仏や師となる僧侶のもとに行き、「自分が生きているかぎり、死ぬまでの今後一生 を通して三宝に帰依いたします。 私を優婆塞としてお認めください」と申し出て、仏や僧侶がそ れを認めるならば、その者は優婆塞となります」

と告げられました。

解説

まず、最初に「如是我聞(是の如くれ聞きぬ)」という言葉があります。 ほとんどのお経がこ の言葉で始まっておりますが、「私はこのように仏さまからうかがいました」という意味です。 この「私」とはだれか?

これは、お釈迦さまの十大弟子の一人で、記憶力第一といわれたアーナンダ (阿難であると されております。 アーナンダという方は、二十五年間にわたってお釈迦さまのおそば近くに仕え、 その説法の一言一句を残らず記憶していました。お釈迦さまがお亡くなりになった直後、このア ナンダや大長老のマハーカッサバ(摩訶迦葉)を含めた五百人の仏弟子たちがラージャガハ (王舎城)の七葉窟に集結し、お釈迦さまの教法の編纂を始めたわけです。

しちょうくつ

マハーカッサパが座長になり、アーナンダが自分の聞き覚えていたものを口述し、それを弟子

たち全員で議論していくという形で、教法はまとめられていきました。

たとえばアーナンダが、

ようや

「私は祇園精舎でこのような教えを拝聴しました」

と話すと、それに異論のある者は手を挙げて、

「それは私の記憶とは違う……」

阿含経一切

自分の記憶している内容を述べたわけです。すると座長のマハーカッサパが、

「みなさんはどのように記憶しておられますか?」

と、他の弟子たちに語り、それぞれが記憶をたどりながら、正しい答えを導き出してまとめて いったわけです 『南伝律」「小品」 十一秒)。 そのようにして編纂されていった経典が「阿含経」 です。

ごんぎよう

ですから、「阿含経」に「如是我聞」という言葉が使われているのは当然です。ところが、仏 後数百年経ってから創作された経典、たとえば『法華経』や『華厳経』などの大乗経典も、 「阿含経」の形式をまねて「如是我聞」の四文字から始まっています。 これは言語道断です。 ほ とんどの経典がこの「如是我聞」から始まるために、後世の人たちはすべてのお経はお釈迦さま 一代の教説である、と思い込んでしまったのです。さらには、間違った教相判釈が立てられ、 「阿含経」は小乗経典という、まったく見当違いの評価を受けるようになってしまいました。

きょうそうはんじ

「如是我聞」 はたった四文字の言葉ですが、これほど重要な意味を持っています。 わたくしたち 「は、「如是我聞」を使うことのできるお経は「阿含経」だけなのだという真実をよく理解すると 共に、それを世間に広めていかなければなりません。

それでは、お経の内容を解説いたしましょう。

ある時、お釈迦さまがカピラヴァットゥ(迦毘羅衛国)のニグローダ(尼拘律) 園におられまし た。カピラヴァットゥというのはお釈迦さまの故郷で、現在のネパールのタライ地方付近である といわれております。 そのカピラヴァットゥにニグローダ(サンスクリット語ではニヤグローダ。 バニヤンの樹)という樹木がたくさん生えている林があり、その中の精舎、つまり道場にお釈迦 さまは滞在されておられました。

そこへ、在家の弟子であり、またお釈迦さまの従兄弟でもあるマハーナーマ (摩訶男)が、数 人の在家信者を引き連れて現われ、仏足頂礼の礼をしてお釈迦さまの前に座り、質問いたしまし た。

仏門に帰依した者はすべてお釈迦さまの子であるという考えから、仏教徒を釈子あるいは釈氏 といいます。しかし、ここに登場するマハーナーマはお釈迦さまと同じ釈迦族の人ですから、こ こでいう釈氏は「仏教徒の」と訳すだけではなく、 「釈迦族の」と訳してもよいでしょう。

ぶっそくちょうらい

「仏の足に稽首したてまつり」とは仏足頂礼といい、五体を地につけてお釈迦さまのおみ足を 額にいただく礼拝のことです。インドではこれがいちばん丁寧で、心からの帰依を表す礼とされ ております。 仏足頂礼は五体を地につけて礼拝するので、五体投地とも呼びます。 スリランカな どの南伝仏教の国では、パーリ語で「ブッダム サラナム ガッチャーミわれ、仏に帰依したて

ごたいとうち

まつる)」と唱えて仏足頂礼の礼をします。 わたくしたちは勤行の時に膝をかがめて、

「オン サラバタタギャタ ハンナマンナノウ キャロミ」

礼拝いたしますが、これは五体投地を簡略化したものです。

しかし、形の上では簡略化してありますが、心の中では五体を地につけてお釈迦さまのおみ足

をいただいてる、と観想して礼拝しなければいけません。

と質問したわけです。

マハーナーマもこの時、仏足を頂礼してお釈迦さまにご挨拶し、

「世尊よ、優婆塞とは、どのような人に対して名づけられたものでありましょうか?」

優婆塞とはパーリ語・サンスクリット語のウパーサカを漢字に音写したもので、普通は男性の 在家信者を指します。 これに対して女性の在家信者は優婆夷と呼び、同じくパーリ語・サンスク リット語でウパーシカーといいます。

それでは、マハーナーマはそのようなことも知らなかったのか、というとそうではありません。 逆に、彼は優婆塞の深い意味をよく知った上で、質問しているのです。 それは、なぜでしょう か?

マハーナーマ自身は優婆塞についてよく知っているけれども、自分が連れてきた者たちはまだ よく分かっていない。そこで、優婆塞の心構えを知ってもらうために、わざと自分自身も知らな いふりをしてお釈迦さまに質問しているわけです。 このような質問の仕方を赴機間と呼びます。 仏教経典の中には、時々こういう赴機問が出てきます。

「無尽蔵菩薩優問。世尊相具。我今重”間彼。伝子名観世音 (爾

まさ

の時に、無意菩薩、偈を以て問うてさく、世尊は相具わりたまえり、我今重ねて彼を問いたて まつる、仏子何の因縁あってか名づけて観世音と為すやと)」

そういうと

諸君も、

阿含経切

と無意菩薩が仏さまに、観世音菩薩の名の由来についてお尋ねするところがあります。 無尽 意菩薩とは、無尽蔵の智慧による功徳と救済を象徴した菩薩ですから、そのくらいのことを知ら ないはずはない。

しかし、そばにいる者たちは知らないから、それについて仏さまから直接説明をしていただい て、皆に聞かせてあげようということで、無知な人たちになりかわって質問をしているのです。 マハーナーマもこれと同じなのです。

マハーナーマの赴機問に対して、お釈迦さまは「優婆塞とは、在家清白乃至 『寿尽くるまで 三宝に帰依し、優婆塞と為らん我れを証知したまえ』」とお答えになられました。

「家清白」とは、お釈迦さまに帰依して、仏教を信仰しようという清らかな心を持っている在 家の人、ということです。「寿尽くるまで三宝に帰依し」とは、自分が生きているかぎり、死ぬ までの今後一生を通じて三宝に帰依いたします、という意味です。 三宝とは仏・法・僧、つまり 仏さまと仏さまの教法、そしてお釈迦さまの教法を実践する僧伽(教団)のことです。その三宝 に対して、自分は死ぬまで帰依いたしますから、私を優婆塞としてお認めください、とお釈迦さ まや師となる僧侶に申し上げ、それが認められれば優婆塞になるというわけです。

阿含宗に入行する時も同じですね。 誓約書を提出して認められると道場にきて、わたくしと一 一緒にお護摩を焚く。続いて、ご本尊・真正仏舎利尊との仏縁を結ぶ灌頂を受け、これから一生懸

ぶっしゃり ほうじゅんげだつぼうしようよう

命に仏舎利宝珠尊解脱宝生行(以下、解脱宝生行)をやっていきます、と仏さまにお誓いを立て てからご宝塔をいただきます。 これも、このお経に則っているわけです。

「一生涯、修行するのですか?」

と聞く人がいるかもしれない。しかし、ひとたび入行して本当の仏さまの修行を始めたならば、 やはり一生涯にわたって仏さまの教えを守っていく、という気持ちが生ずるのは当然です。 もし も、そういう気持ちが起きないならば、解脱宝生行を完全に修行したとはいえません。 本当に修 行をしたならば、必ずこの修行を持続させようという気持ちが起きるのです。それが起きないな らば、本当に修行したとはとても考えられません。

「自分は生涯をかけて修行をする、というつもりで信仰をしているだろうか?」

よく考えてごらんなさい。 もしもそういう気持ちがなければ、因縁を切ることなどとても

できません。 もう一度それについて、自分の心に問いかけてごらんなさい。

 

 

大日如来

すべての生き物の根本となる仏

 

 

大日如来(だいにちにょらい)とは?

大日とは「大いなる日輪」という意味です。太陽を司る毘盧舎那如来がさらに進化した仏です。密教では大日如来は宇宙の真理を現し、宇宙そのものを指します。また、すべての命あるものは大日如来から生まれたとされ、釈迦如来も含めて他の仏は大日如来の化身と考えられています。

 

大日如来には悟りを得る為に必要な智慧を象徴する金剛界大日如来と、無限の慈悲の広がりを象徴する胎蔵界大日如来という2つの異なる捉え方があります。金剛とはダイヤモンドのことを指し、智慧がとても堅く絶対に傷がつくことがないことを意味しています。また、胎蔵とは母親の母胎のようにすべての森羅万象が大日如来の中に包み込まれている様を意味しています。この2つが揃って大日如来を本尊とする密教の世界観が出来上がるのです。

ご利益

現世安穏、所願成就。また、未・申年生まれ守り本尊です。

大日如来(だいにちにょらい)の像容

本来、如来は出家後の釈迦の姿をモデルとしているため装飾品は身に付けていませんが、大日如来だけは別格で豪華な装飾品や宝冠を付けています。また、螺髪(らほつ)ではなく、髪を結い上げています。

 

https://suno.com/song/628f64aa-c60f-4996-ab96-e954ea2f8fbe

大日如来

すべての生き物の根本となる仏

 

大日如来、光輝き輝く
宇宙の真理を紡ぐ尊き存在
金剛界、胎蔵界、二つの偉大な姿
智慧と慈悲が融合し、全てを包み込む

大いなる日輪、我らを照らし
無限の慈愛、心に満ちる
大日如来、栄光に輝く
我らの導き、永遠の道へ

瞑想

瞑想

 

https://drive.google.com/file/d/1SX-Dq-8LoRQyc7E1jgKEasxdU6YVFdJA/view?usp=drivesdk

 

 

瞑想(座禅)における「魔境」について

 

https://drive.google.com/file/d/1PJbIav0rByJr5y0B3xzH4EfQjTeE7a2f/view?usp=drivesdk

瞑想(座禅)における「魔境」について

「魔境」という「魔境」は、瞑想のときだけではなく、 また、瞑想をするしないにかかわら ず、人の心の中にひそんでいて、われわれの人生に大きな影響をあたえるのであ る。それは、じつに、人生の「魔境」でもあるのだ。

この抑圧意識は、

この「魔境」の原因は、潜在意識層にある「抑圧意識」である。

1、生まれてから生じたもの

2 生まれる以前に生じたもの

 

 

 

 

瞑想(座禅)における「魔境」について

「魔境」という「魔境」は、瞑想のときだけではなく、 また、瞑想をするしないにかかわら ず、人の心の中にひそんでいて、われわれの人生に大きな影響をあたえるのであ る。それは、じつに、人生の「魔境」でもあるのだ。

この抑圧意識は、

この「魔境」の原因は、潜在意識層にある「抑圧意識」である。

1、生まれてから生じたもの

2 生まれる以前に生じたもの

 

と二つある。

生まれる以前に生じた、とは、妙な表現だと思われるか知らないが、要するに、 両親、あるいは両親を通じて受けた、先祖からの家系的なものである。

わたくしが、家族関係や先祖とのかかわりを重視することについて、 兎や角いう 人がいるが、それは無知による誤解としか思えない。

 

受け入れがたいと感じる感情や欲求、思考を無意識のうちに抑え込んでいる状態を指します。この抑圧意識が、「魔境」と呼ばれる人生の障壁を引き起こす原因の一つとされています。

抑圧意識は、生まれてから生じたものと、生まれる以前に生じたものの2つがあります。生まれてから生じたものは、例えば過去のトラウマや、教育や社会の価値観によって形成されたものです。一方、生まれる以前に生じたものは、幼少期の経験や遺伝的な影響によって形成されたものです。

どちらにせよ、抑圧意識が潜在意識層に存在していることは、人生においてさまざまな影響を与えます。例えば、自分自身の感情や欲求を正当化しにくくなったり、自己肯定感が低下したり、ストレスやうつ病などの精神的な問題を引き起こすことがあります。

瞑想をすることで、自分自身の内面を観察することができ、抑圧意識を解放することができる可能性があります。ただし、瞑想は効果的な方法である一方、専門家のサポートを受けることも必要な場合があります。

著名な心理学者である河合隼雄氏が、その著書で、非常に興味あることをのべて おられる。

これは、夫婦と子供、という家族関係の中で起きた問題についての記述である。

夫婦というのは、ずうっと過去をもってきて、しかも、自分の過去だけでは なくて、先祖代々の過去もずうっと背負って、一緒になっている。 そうして、 今も言いましたように、片方があきらめて生きている家もあるし、何か隠して 生きている家もある。 そういうときは、子どもの問題が、もう一度バランスを 回復して「やはり、そういうことだったのですか」というようなことをやるき

っかけになる場合もあります。

それで、この三代も四代も話をさかのぼっていかなければならない家と いうのは、一回、二回の(カウンセリングの桐山) 対決では、ちゃんと形がつ きません。相当うまいこといったなと思っていても、まだ十分ではない。 (『カウンセリングを考える」上)

だれだって自分一人で生きているわけではないし、自分一人ぼっかり生まれてき たわけではない。 家族と祖先との密接なかかわりのもとで生まれ、暮らしているわ けだ。これを考えずに、その人のかかえている問題を解決することなど、とうて い、不可能である。当然であろう。

このことを掘り下げ、延長したものが、リポット・ソンディの「(家族的) 運命 「心理学」だとわたくしは考えている。

ソンディの心理学については、あとでのべるが、さまざまな精神的な障害問題 は、ほとんど、その人の心の奥に潜在する抑圧や葛藤が原因であり、これが、瞑

座禅のときに、不意に、爆発的に表出することがある。 瞑想は、潜在意識層に

こころ

おいておこなわれるので、ふだんはそこにひそんでいる意識が、突然、表面にあら われてくることがある。 それが、座禅のときの「魔境」だが、この抑圧意識の表 出は、座禅瞑想のときだけとはかぎっておらず、その人の人生に非常なダメージ あたえてしまうことが少なからずあるので、大いに注意しなければならぬのであ る。

もう少しくわしくのべよう。

抑圧意識 フロイト型とソンディ型

われわれは、自分でも気がつかないすぐれた才能を、潜在意識の中に持っている のだが、同時に、その才能の発現をさまたげ、さらには自分を傷つける抑圧意識 や、それから生ずる葛藤をも、潜在意識の中に持っているのである。

この抑圧意識をとり除かなければ、人は健全な生活をいとなむことができない。

わたくしは、人間の抑圧意識を、二つに分ける。

潜在意識層における抑圧意識 深層意識層における抑圧意識

である。そして、わたくしは、

潜在意識層の抑圧意識を、「フロイト型」とよぶ。

深層意識層の抑圧意識を、「ソンディ型」とよぶ。

まず、フロイト型である。

1、フロイト型

フロイト型というのは、あの有名な心理学者、ジークムント・フロイトの説にも