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Prepare the environment for meditation

The five methods are to control eating and drinking in one. Two to adjust the sleep. In three

Set up. Set your mood for four. It is about adjusting your mind to five.

First of all, to prepare food is as follows.

Meals are for the purpose of helping people get along in the right path.

However, if you are eating too much, it feels good and only

It is difficult to feel calm, even if you take a seat.

However, if you eat too little and not enough, you will only get tired, your mind will grow,

I do not think well about what I think. Both of these two get the setting

It is not a way to

In addition, when you eat something that’s been broken or dirty, you realize your heart

Make it easy to get lost. If you are eating a stimulant that is not good for your body,

These diseases move (to have a chronic illness) and the condition of the body gets worse. So

If you’re going to learn to set up, by the way

It must be.

Second, to set up sleep because sleeplessness makes you feel overshadowed

Because there is, it means that this should not be left as it is.

If you need to sleep more often, you have more time to study Buddhist law

As well as being abolished, there is also a tendency to lose the spirit of effort, and also to make your heart clearer and good heart

Sink the sun. Just to understand that life is impermanent, sleep well,

Make your mood clear and brighten your mind.

The third is to adjust the body, the fourth to adjust the breath, and the fifth to adjust the mind,

These three conditions should be described together, as they should be used together.

You can’t. Let’s talk about this below.

First of all, in order for us to meditate correctly, we need to

It means that you have to adjust it.

Before starting meditation, when walking or stopping, even when moving

Even when you are doing something or something, every one is careful

It must be.

記憶 2

記憶

記憶は感覚記憶、短期記憶、長期記憶の3つに大きく分類される

感覚記憶 (sensory memory) とは、外部からの刺激を与えた時に起こる、最大1~2秒ほどの最も保持期間が短い記憶である。各感覚器官に特有に存在し、瞬間的に保持されるのみで意識されない。外部からの刺激を与えた時の情報は、まず感覚記憶として保持され、そのうち注意を向けられた情報だけが短期記憶として保持される。

短期記憶の情報は時間の経過とともに忘却されるが、維持リハーサルによって情報の保持時間を伸ばすことができる。リハーサルが妨げられた場合、数秒から十数秒で情報は忘却される[3]

また短期記憶の情報はリハーサルにより長期記憶に転送される[5]と言われている。

短期記憶の分かり易い例であると、感情がこもっているかこもっていないかで簡単に分けられる。長期記憶の場合は、自分が感じた感情が強ければ強い程覚える。反対に自分の感じた感情が弱い程覚えていないのが短期記憶である。

多くの研究によると、後ろ向きに歩いたり、後ろ向きに歩いていると想像したり、後ろ向きに歩いているビデオを見たりした人は、後ろ向きに歩くことはあなたの短期記憶を後押しするのに役立つかもしれないと示唆した。虚偽の記憶を誘発することなく、できるだけ正確な情報を入手できる。後ろ向きに歩いた人は、年齢やその他の要因に関係なく、より多くの目撃に関する質問に正しく答える可能性が非常に高いことを発見した。

長期記憶 (long-term memory, LTM) とは、記憶の二重貯蔵モデルにおいて提唱された記憶区分の一つであり、大容量の情報を保持する貯蔵システムである。二重貯蔵モデルにおいては、一旦長期記憶に入った情報は消えることはないとされた[5]

長期記憶の忘却の原因については、減衰説と干渉説、さらに検索失敗説が存在する。減衰説とは、時間の経過とともに記憶が失われていくという説である。干渉説とは、ある記憶が他の記憶と干渉を起こすことによって記憶が消えるという説である。検索失敗説とは、想起の失敗は記憶された情報自体が消失しているのではなく、適切な検索手がかりが見つからないため、記憶内の情報にアクセスできないという説である。 βエンドルフィン(=脳内ホルモンの一つ)が分泌されたり、A10神経が活性化すると、海馬における長期記憶が増強する。

長期記憶は陳述記憶・非陳述記憶の2つに分類される。長期記憶を近時記憶と遠隔記憶の2つに分類する説も存在する

自分自身に関する事柄についての記憶である。ある個人のなかにある自分に関する記憶を体系的に説明する一つの記憶モデルであり、エピソード記憶と意味記憶によって構成される[7]

将来行う行動についての記憶である。これに対して、過去の出来事についての記憶は回想的記憶と呼ばれる。一般に記憶の内容は「過去」の事柄だと思われているのに対し、展望的記憶は未来(将来)に関わるものであるため、その点でユニークな記憶であるとされる。スケジュール帳、PDAなどの予定を管理する機器類の使用方法、使用行動と絡めて研究されることも多い

手続き記憶、プライミング記憶、意味記憶、短期記憶、エピソード記憶

の順に、左の記憶ほど原始的で、生命の維持に直接関わり、右の記憶ほど高度な記憶になる。

記憶の過程は記銘保持想起再生、再認、再構成)、忘却という流れになっている。

記銘(符号化)編集

情報を憶えこむことを記銘という。情報を人間の記憶に取りこめる形式に変えるという情報科学的な視点から符号化と呼ばれることが多い。

保持(貯蔵)編集

情報を保存しておくことを保持という。情報科学的な視点から貯蔵と呼ばれることが多い。

想起、起憶(検索)編集

情報を思い出すことを想起、起憶という。情報科学的な視点から検索と呼ばれることが多い。想起のしかたには以前の経験を再現する再生、以前に経験したことと同じ経験をそれと確認できる再認、以前の経験をその要素を組み合わせて再現する再構成などがある。

忘却

記憶されていたことを想起できなくなることを忘却(ぼうきゃく)という

観自在菩薩深般若波羅蜜多時照見五蘊度一切苦厄舎利子不異空空不異色色即是空空即是色受想行識亦復如是舎利子是諸法空相不生不滅不垢不浄不増不減是故

 

空中無色無受想行識

 

三科(さんか)とは部派仏教における、世界を在らしめる『一切』を分類した三範疇、五蘊(五陰)・十二処十八界をいう。蘊・処・界、または陰・界・入と略すこともある[2]。また、六根六境六識の三範疇をいうこともある。

五蘊・十二処・十八界[1]

五蘊(五陰)・十二処・十八界編集

全てのは、下記の五蘊の一つの蘊、十二処の一つの処、十八界の一つの界とにおさまる[3]。およそはそれぞれの自性を保持するものであるから、あるがそれと別個な自性をもつ他の法の中におさまるということは決して無い[3]。諸を五蘊、十二処、十八界と説くのは、衆生(有情)の愚かさ、あるいは資質、あるいは希求するところに3通りがあるから、それらの各々に応ずるためとされる[3]。また、原始仏典においては、我々の全経験領域をさしてこれらを一切(sabbam、我々の全経験領域)と呼ぶものの、「がある」とは明言されず、しかもそのどれもが無常であり、であり、非我であり、それらを厭離し離欲すれば解脱して悟るといわれる[4]

五蘊編集

五蘊(ごうん、pañca-skandha) – 五陰(ごおん、旧訳)とも。人間の肉体と精神を五つの集まりに分けて示したもの。

  • (しき、rūpa) – すべての物質。
  • (じゅ、vedanā) – 感受作用。
  • (そう、saṃjñā) – 表象作用。
  • (ぎょう、saṃskāra) – 意志作用。
  • (しき、vijñāna) – 認識作用。

十二処編集

十二処(じゅうにしょ)または十二入(「」はāyatana) – 12の知覚を生じる場。六根六境[5]。 後に「処」の字をつけて呼ぶこともある。「処」とは、阿毘達磨倶舎論においては、と心作用(心所)の生じてくる門(生門(しょうもん))のこと[3]

  • 六根(ろっこん、ṣaḍ-indriya) – 主観の側の六種の器官[6]、感官[7]のこと。六内入処(ろくないにゅうしょ)とも。
  • (げん、cakṣus) – 視覚能力もしくは視覚器官
  • (に、śrotra) – 聴覚能力もしくは聴覚器官
  • (び、ghrāṇa) – 嗅覚能力もしくは嗅覚器官
  • (ぜつ、jihvā) – 味覚能力もしくは味覚器官
  • (しん、kāya) – 触覚能力もしくは触覚器官
  • (い、manas) – 知覚能力もしくは知覚器官[8][9]
眼・耳・鼻・舌・身の5つを「五根」といい[10]、人間の感覚能力[8] すなわち五感であり、意は認識するはたらきの拠り所となる感官である[11]
  • 六境(ろっきょう、ṣaḍ-viṣaya) – 客観の側の六種の対象[6]、感官の対象[7]のこと。六外入処(ろくげにゅうしょ)とも。
  • (しき、rūpa) – 眼根によって見られる色彩と形象[8][9]
  • 顕色けんじき[12](いろ)と形色ぎょうしき[12](かたち)の2種類に分たれ、また、青、黄、赤、白、長、短、方、円、高(凸形)、下(凹形)、正(規則的な形)、不正(不規則な形)、雲、煙、塵、霧、影、光、明、闇の20種に分たれる[13]
  • (しょう、śabda) – 聴覚の対象[6] [9]
  • 苦楽の感覚を発する有情身の発する音とそうでない音、意味を伝える音とそうでない音、および快い音とそうでない音との別により8種に分たれる[13]
  • (こう、gandha) – 嗅覚の対象[6] [9]
  • 良い香りと悪い香り、適度な香りとそうでない香りの別により4種に分たれる[13]
  • 甘さ、酸っぱさ、しおからさ、辛さ、苦さ、渋さの6種に分たれる[13]
  • (そく、sparśa) – 身根によって感じられる堅さ、熱さ、重さなど[8][9]
  • 滑らかさ、粗さ、重さ、軽さ、冷たさ、ひもじさ、渇きの7種、およびの4種(四大もしくは四大種という)の合計11種に分たれる[14]
  • (ほう、manas) – 意根によって知覚される概念を含むすべての存在[8][9]
また、五根に対応する境の部分(色・声・香・味・触)を五境、そこに生じる欲を五欲(五塵)と表現したりもする[15]。五根と五境をあわせて十色界という[16]

 

眼耳鼻舌身意

 

色声香味触法

眼界乃至無意識界

無明亦無無明尽乃

至無老死亦無老死尽無

苦集滅道

無智亦無得以無所得故菩提薩埵

 

 

 

フロイトは、ヒステリー(現在の解離性障害や身体表現性障害)の治療に当たる中で、人は意識することが苦痛であるような欲望を無意識に抑圧することがあり、それが形を変え神経症の症状などの形で表出されると考えた。そのため、無意識領域に抑圧された葛藤などの内容を自覚し、表面化させて、本人が意識することによって、症状が解消しうるという治療仮説を立てた

ユング心理学(分析心理学)は個人の意識、無意識の分析をする点ではフロイトの精神分析学と共通しているが、個人的な無意識にとどまらず、個人を超え人類に共通しているとされる集合的無意識(普遍的無意識)の分析も含まれる。ユング心理学による心理療法では能動的想像法も取り入れられている。能動的想像法とは、無意識からのイメージが意識に表れるのを待つ心理療法的手法である。また、ユング心理学は、他派よりも心理臨床において夢分析を重視している。夢は集合的無意識としての「元型イメージが日常的に表出している現象」でもあり、また個人的無意識の発露でもあるとされる

シャドウとは

上記でも説明したように、自分では認めたくない自分の事を「シャドウ」と呼びますが、そもそもシャドウとは何なのかについて説明していきます。

シャドウとは誰もが持つ「影」の事で、人はそれぞれ自分では認めたくない自分を持ちます。
認めたくない気持ちが強いほど影は濃くなりその影響力は強くなります。

また、西洋と東洋それぞれに伝わる神話や伝説には
共通したテーマを扱った物も多いことから、
洋の別を問わず人類の心の奥深くには
共通した「集合的無意識」が存在すると考えたのです。

図のように、意識や個人的無意識よりもさらに深いところにある層で、
民族や国家、人種を問わず普遍的に存在しています。

レオポルド・ソンデ

ハンガリー出身の心理学者レオポルド・ソンディ(Leopold Szondi,1893-1986)は、運命分析学という深層心理学の学派を創設したり、『ソンディ・テスト』という人物写真を利用した投影法の心理テストを開発したことで知られる。日本語での名前表記は、レオポルド・ソンディ以外にも、英語読みで『リポート・ソンディ』という風に表記されることも多い

集合的無意識(Kollektives Unbewusstes)」

とは、偉大な心理学者カール・ユング(Carl Gustav Jung)によって提唱された。
人間の意識の奥には、個人的無意識が存在し、さらにその奥には集合的無意識が存在するという概念だ。
集合的無意識は、個人のみならず集団や民族、人類全体、さらには時空を超えて森羅万象、宇宙の意識ともつながっている。
集合的無意識に共通する基本的形を「元型(Archetyp )」と呼び、この元型から集合的無意識が生じ、原始心像が意識化され、元型そのものが意識化されることは決してない。



ソンディ・テストで知られる精神医学者のレオポルド・ソンディ(Léopold Szondi)は

、フロイトの説いた個人的無意識とユングの説いた集合的無意識の中間に位置する家族的無意識という概念を提唱した。
ソンディは、精神医学の世界で「運命分析学」という未だに学問的価値を認められてない分野にメスを入れた稀有な存在であった。
「家族的無意識」とは、先祖の抑圧された意識が子孫の運命に重大な影響を与えるといった考えで、運命が子孫に遺伝していくことを意味する。「

親の因果が子に報い」と呼ばれる病気や負債の運命は「強制運命」と呼ばれ、個人の自由意志から生まれる「自由運命」と常に拮抗している。



しかし、強制運命の支配下に置かれた不幸な人生も先祖のせいだけではない。
そのような先祖の子孫として生まれてくることにより、過去世でのカルマを解消させられているのだから、よく理解し受け入れた上で、人生を自由運命に傾くよう舵取りをしなければならない。
カルマの解消には、自分を第三者的に観る行法を身に付けるのが一番である。

 

ソンディは子孫が祖先から先祖代々継承している意識(衝動)のことを『

衝動感情(衝動意識)』と呼び、『人間の運命とは選択である』といった。人間は祖先から受け継いだ衝動感情(衝動意識)をベースにして、『結婚選択・職業選択・疾患の選択・死亡形式の選択』という4つの人生の分野で重大な選択をしていくというのがソンディの理論である。



L.ソンディの運命観には『自分が主体的に選択する要素』と『祖先からの意識・感情によって決定されるという要素』の2つがあり、人間が自分の運命を選択する(選択させられる)要因になる遺伝子には以下の8つの種類があるとした。『運命分析法』という心理テストでは、この8種類の遺伝子の働きの趨勢(強さ)とバランスを知ることができるとされている。

Sch(自我衝動)……p(存在遺伝子),k(所有遺伝子)

C(接触衝動)……m(依存遺伝子),d(獲得遺伝子)

P(感情衝動)……hy(道徳遺伝子),e(倫理遺伝子)

S(性衝動)……s(攻撃遺伝子),h(情愛遺伝子)

レオポルド・ソンディの想定した祖先から受け継ぐという無意識は『家族的無意識』と呼ばれており、ジークムント・フロイトの『個人的無意識』よりは広く、C.G.ユングの『普遍的無意識(集合無意識)』よりはその範囲が狭いと考えられている。ソンディの運命分析学を前面に出した深層心理学の究極の目的は、『個人的無意識と家族的無意識と普遍的無意識の経験的・理論的な統合』であった。

Psychoanalysis is based on the basic hypothesis that humans have an unconscious process and that human behavior depends on the unconscious. Freud, in the treatment of hysteria (currently dissociative and somatic symptom disorders), can unknowingly suppress desires that are painful for humans to change shape and neurosis. I thought that it would be expressed in the form of symptoms such as. Therefore, we made a treatment hypothesis that the symptoms can be resolved by being aware of the content of the conflict suppressed in the unconscious area, exposing it to the surface, and being aware of it.

Carl Gustav Jung

Jung’s psychology (analytical psychology) is similar to Freud’s psychoanalysis in that it analyzes the individual’s consciousness and unconsciousness, but it is not limited to the individual unconsciousness, but is common to all humankind beyond the individual. It also includes an analysis of the collective unconscious (universal unconscious). Psychotherapy by Jung Psychology also incorporates the Active Imagination. The active imagination is a psychotherapeutic method that waits for the image from the unconscious to appear in the consciousness. In addition, Jung Psychology emphasizes dream analysis in clinical psychology more than other groups. Dreams are said to be a “phenomenon in which the archetype image is expressed on a daily basis” as a collective unconscious, and also a manifestation of the personal unconscious.

What is a shadow?

As I explained above, I call myself a “shadow” that I don’t want to admit, but I will explain what a shadow is in the first place.

A shadow is a “shadow” that everyone has, and each person has a self that he or she does not want to admit.
The stronger the feeling of not wanting to admit, the darker the shadow and the stronger its influence.

Also, in the myths and legends of the West and the East,
Since there are many things that deal with common themes,
Deep in the hearts of mankind, regardless of the ocean
I thought that there was a common “collective unconscious”.

As shown in the figure, in a layer deeper than consciousness or personal unconsciousness,
It exists universally regardless of ethnicity, nation, or race.

Leopold Szondi

Hungarian psychologist Leopold Szondi (1893-1986) founded a school of deep psychology called fate analysis and developed a projection psychological test using portraits called the Szondi test. Known for doing. In addition to Leopold Szondi, the name notation in Japanese is often written in English as “Report Sondy”.

“The Collective Unconscious (Kollektives Unbewusstes)” was advocated by the great psychologist Carl Gustav Jung.
The concept is that there is a personal unconscious in the depths of human consciousness, and there is a collective unconscious in the depths.
The collective unconscious is connected not only to the individual but also to the group, the people, the entire human race, and even the consciousness of the universe and the universe beyond time and space.
The basic form common to the collective unconscious is called the “archetyp”, and the collective unconscious arises from this archetype, the primitive image is conscious, and the archetype itself is never conscious.

Léopold Szondi, a psychiatrist known for the Szondi test, proposed the concept of a family unconscious, which lies between Freud’s personal unconscious and Jung’s collective unconscious.
Sondy was a rare figure in the world of psychiatry, putting a scalpel into the field of “fate analysis,” which has not yet been recognized for its academic value.
“Family unconscious” means that the fate is inherited by the offspring, with the idea that the suppressed consciousness of the ancestors has a significant impact on the fate of the offspring. The fate of illness and debt, which is called “the cause and effect of the parent rewards the child,” is called “forced fate,” and is always in conflict with the “free fate,” which is born from the free will of the individual.

But the unfortunate life under the control of forced fate is not just due to ancestors.
By being born as a descendant of such an ancestor, the karma of the past life has been eliminated, so we must understand and accept it well and steer our lives toward free destiny.
The best way to eliminate karma is to learn how to look at yourself as a third party.

Sondy calls the consciousness (impulse) that offspring inherit from their ancestors from generation to generation, “impulsive emotion (impulsive consciousness),” and says that “human destiny is a choice.” Based on the impulsive emotions (impulsive consciousness) inherited from our ancestors, human beings make important choices in the four fields of life: marriage choice, occupation choice, disease choice, and death form choice. Sondy’s theory.

L. Sondy’s view of fate has two elements: “elements that he chooses independently” and “elements that are determined by the consciousness and emotions of his ancestors.” ) The following eight types of genes are considered to be factors. A psychological test called “fate analysis method” is said to be able to know the trend (strength) and balance of the functions of these eight types of genes.

Sch (ego impulse) …… p (existing gene), k (owned gene)

C (contact impulse) …… m (dependent gene), d (acquired gene)

P (emotional impulse) …… hy (moral gene), e (ethical gene)

S (sexual drive) …… s (attack gene), h (love gene)

The unconsciousness inherited from Leopold Szondi’s envisioned ancestors is called the “family unconscious”, wider than Sigmund Freud’s “personal unconscious” and more than CG Jung’s “universal unconscious (collective unconscious)” The range is believed to be narrow. The ultimate purpose of deep psychology, which brought Sondy’s fate analysis to the fore, was “the empirical and theoretical integration of the personal unconscious, the family unconscious, and the universal unconscious.”

 

社会における解体と変身

社会における解体と変身  2

 

市川亀久弥先生

 

 つまり、お粗末なバラック建築だったら、前の古びた建物をとりこわしながら、同時に新しい廸物を建てていくこともできるのだが、高級な建築物になると、そうはいかない。まず、コワシが相当程度にこわしてしまってからでないと、手がつけられないということである。

 『その、質的飛躍を含んだ、展開パターンの自然史上におけるティピカルーエグザンプル(典型的な例)をつぎに取りあげてみることにいたしましょう。これが、図4(略す)に示しました昆虫の、完全変態の過程にあらわれてくる個体発生史上の展開パターンであります』

昆虫における解体と変身

 『いま、最終齢の段階にはいった昆虫、つまり、すでに幾回かの脱皮(昆虫の種類で異なる)を経て、サナギになる直前の段階、すなわち終齢段階の幼虫があるといたします。この幼虫のからだのなかには、それまでの幼虫独自の形態、つまり、あのイモ虫状形態を維持するために分泌されていたホルモン(幼弱ホルモンと命名されているホルモン)が、急速に減少していく段階が訪れてくるのであります。一度こういうことになりますと、幼虫は食糧摂取をやめてしまいます。そして、外形的にはあたかも休眠的な状態にはいっていくのでありますが、その虫体の内部では、それまで活性度の分泌レベルを低めていましたホルモン、すなわち、前胸腺といわれているところから分泌される△前胸腺ホルモン▽なるものが最大の活性レベルに到達するのであります。こういうふうになりますと、虫体は徐々に縮みながら〈前サナギ段階▽という段階を通って、ついに、あの特異な形状の△サナギ段階▽にはいっていくのであります。

 ところで、この前サナギ段階を含めましたサナギ段階と申しますところは、虫体の内部におきましては、空前の大変革がまき起こっている時期なのであります。

 ナなわち、前述の幼弱ホルモン(JH)の分泌レベルが落ちて前胸腺ホルモン(PGH)の分泌が高まってまいりますと、それまでの特有な幼虫の形態は、急速に細胞レベルにまで解体化を開始していくのであります。(ある幼虫器官の細胞は、アミノ酸のレベルにまで解体して、液状にまで達するといわれております)』

 実際、この記述のとおりであって、私は、この文章を読みながら、少年時代を思い出す。たいへん残酷なはなしだが、小学校へ通学しはじめた当時、道ばたの木の枝についているサナギをとって、いったいこのなかにどんな虫がはいっているのであろうかと、その年ごろの少年特有の好奇心のおもむくまま、手あたりしだい、サナギの皮をむいてみたものである。なかから、不気味な色をした液体がピュツと飛び出して手をよごし、そのときのおどろきと、気持のわるい感触がいまだに私をとらえている。あれはなんの幼虫であったのか、どろどろの液体のなかに、小さな黒いつぶっぶがいくつも浮かんでいた記憶かおる。

 さて、

 『他方、この幼虫器官の解体化がスタートするのにひきつづいて、それまで幼虫の体内の各所に、一群の細胞の小さな塊の形をとって、休眠状態を続けておりました部分、ナなわち、細胞分裂をくり返して、やがて成虫器官となるべき細胞粒(成虫原基)の活動が、解体した幼虫器官

の栄箆を摂取して、強力に開始されていくのであります。けれども、このような深度の深い、急激な解体と再構成活動のなかにありましても、解体しつくしてはいけない部分、ないし、解体することのできない部分がちやんと残されているのであります。いな、既存の前提が、すべて解体してしまったのでは、歴史的な継承発展にはなり得ないのであります。

 つまり、それまでの生理個体の過去の蓄積を土台として、これを未来に向かって、質的にレべルアップしていくことが、とりもなおさず進化の階段をのぼっていくことでありますから、当然、幼虫器官のもっていた生理器官のなかの、虫体としての根幹となるべきものは、変革のあとにまで継承されていくべきことはいうまでもありません。

 この、解体しないで、次段階にもちこされる器官がなにであるのかと申しますと、これが周知の、①気門系(高等生物でいうところの呼吸器)、②循環器系、③神経系といわれているところ

、生物個体の基本構造にあたる器官群であります。もとより、これらの三者が有機的に結合した形態をもって、適当な温度と、湿度と、酸素の生活条件の確保のなかにもちこされていくのであります。

 以上は、△完全変態▽をとる昆虫の変態過程を、質的飛躍を含んだ歴史的過程の、典型的な例として取りあげてみたものでありますが、この展開パターンをよく注意してみますと、これは一九五五年、わたしが提唱してまいりましたところの、創造の理論、すなわち歴史の論理の展開パターンとしての、△等価変換展開▽をみごとに実現しているものであることがわかります』

 といって、これを、社会構造の変革にひきくらべっつ、論点をすすめる。

 『ところで、以上に取りあげてまいりましたような、劇的な形態をともたった大変革というものは、変革、ないし創造的発展のもっております単純明確なるパターン、すなわち、ティピカルーエグザンプル(典型的な例)ではありますが、つねに、実在する歴史の創造的展開が、こういう昆虫の完全変態パターンにみましたような、劇的な形態をとり続けているわけではありません。その本質としては、変革パターンとしての、等価変換パターンを取りながらも、これをより長い時問経過のなかに、小出しにして、質的展開を実現している場合のほうが、ものごとの歴史的な展開過程における一般形としてみると、はるかに多いのじやないかと思います』

 つまり、いっぺんに大変革をしないで、少しずつ、小出しに変化していく。これが、昆虫の△脱皮▽といわれている段階の変化である。

 周知のように、昆虫の成虫は、すべて、この脱皮といわれている段階的な△皮ぬぎ作業▽を何回かくり返したのち、その最終段階にはいって、はじめて羽化と呼ばれているところの大変革に突入するわけである。これは、不完全変態の昆虫(トンボやセミなどがその典型)、完全変態の昆虫(ハエやチョウやがなどがその典型)にかかわらずI様にたどる経過なのである。

 『ところで、以上の脱皮過程における発展のメカニズムは、もう少しくわしくみると、どのような内容になっているのでありましょうか。現代発生学上の記述を総合いたしますと、およそ、その概要は図6のごときものとなっているのであります。

 すなわち、すでにふれてまいりましたように、昆虫の体内では、幼虫的特徴の維持やサナギ化の開始などが、二種類の内分泌ホルモン、すなわちJHとPGHの両ホルモンの活性レベルや、幼弱ホぞモシ(JH.)前胸腺ホ,レモン(PGH)

図6脱皮過程におけるホルモンの影響模式図と等価変換展開

その時間的な交換によってコントロールされているものでありました。この言スムは、そのまま小変革過程としての、脱皮の出現過程のなかにもあてはルモン制御のメカるのであります。

 すなわち、図6の上部に示しました左端の脱皮点を出発点にして眺めてみますと、JHは、またたく問に急上昇して、活性度合の最大値に達してから、以後、しだいに降下のカーブをとってレベルーダウンしてきます。これに引きかえまして、PGHの分泌量、すなわち、細胞の活性度合のほうは上昇を開始して、つぎの脱皮点の直前くらいのところで最大点に達するわけであります。その直後に、これまた、PGHの分泌も急降下してきます。つまりJHも、PGHも最低にいたるわけでありまナが、この時期に、いわゆる脱皮が起こってくるのであります。

なにょりもまず虫体のスケールーアップを実現しておりますことがわかります。しかし、より注意ぶかく眺めてみますと、

前段階の幼虫に特有な形態や機能の一部が消滅して、脱皮後の段階には、それまでに発現していなかった新しい形態や機能を認めることができます。

 これはいったい、どういうことかと申しますと、脱皮という成長過程の作業では、虫体の形態や機能の大部分は変わらないけれども、ほんの一部分は完全に入れかわっているのであります。

以上の観察によりまして、小変革パターンとしての脱皮のメカニズムはだいたいおわかりいただいたのではないかと思いますけれども、ここで、そのしめくくりとして、もうひとつだけ申しそえておきたいことがございます。それは、虫体の内にあって、きびしくそれぞれの変革過程をゴッドローナなわち、PGHの分泌が最大に達した直後に起こってくるのであります。このことは、脱皮を

つくり出す主要因は、JHでなくて、PGHであろうという考察を生むことになり、PGHのこ

とを△脱皮ホルモン▽という名で呼ぶにいたっているのであります。

 さて、さきに述べました幼虫の最終齢段階にはいりますと、JHはストップして、ついに回復

しないことになります。このことからJHの主たる制御作用は、幼虫形態を維持するものであろ

うというふうに考えられて、JHという名称、ナなわち幼弱ホルモンということに理解されてき

たのであります。

 しかしながら、変革の論理、ないし、創造の論理を考える立場から大局的に申しますと、この

JHというのは、主としてシステムの現状状態を継続する作用をもち、PGHのほうは、主とし

て新しい組織の増殖を活性化する作用をもっているように考えられるのであります。

 いずれにしましても、この場合の脱皮という名の小変革、すなわち革新度の低い創造的展開は、まずシステムの全体性を保持するための働きと、この保持されたシステムの制約を生産的にはみ出していく働きとの、時間的にバランスのとれた、入れかえ作業のもとに出現しているものであることがわかるのであります』

 つまり、″脱皮”は、私がさきに述べた″バラックの建築”であって、とりこわしと、新築が、平行してバランスをとりつつ進行していく、ということである。

 そうして、今までの、生産出力増大に対応するための社会システム変革は、この″脱皮”の変革であり、それでなんとか事たりてきたのである。

 だが、現代と、そしてすぐ間近にせまっている未来社会は、人類に、どんな種類の変革を要求しているというのであろうか? それについて、市川氏はっぎのように論ずる。

ふたたび、社会における解体と変身

 『さて、昆虫発生史にあらわれてまいりました変革パターンの考察は、しばらくのあいだおあずけにしておきまして、つぎは人類の社会システム史にみられる変革の展開パターンと、その変革要因の問題を考えてみることにいたします』

 と、氏は、″人類の社会システム史における最終齢の段階”と名づける項において、人類史における過去の変革をとりあげる。

 『まず、古代において、新しい社会的な方式としての農耕生産経済が発明されて、社会的生産出力が「社会的余剰」を生むところにまで到達して、大規模な神殿の造営能力を持つようになる

と、他の隣接氏族社会からの掠奪をまぬがれるために城壁をもうけたり、あるいはフルタイムースペシャリストとしての、戦闘人口を養いうる経済段階にはいっていく。つまり、軍隊を持つ段階にはいったわけである。

 もとより、こういう生産出力の増大は、地下水が湧き出たように突如として出現したものではなく、氏族共同社会としての、それまでの初歩的な社会システムのいくっかのものに、自然発生的にあらわれてきたものであるから、それまでの社会システムの制御パターンの中心部は、シャーマニズム(未開宗教のひとつ)におけるシャーマンなどに多少毛の生えたような、聖職者的レベルのものに統括されていたのであろうことが想像される。すなわち、祈祷や礼拝行事をつかさどることのほか、種まき、取り入れの時期の指示、あるいは供物の財産管理などより多くを出なかった。原始的な段階の神官を中心とするものであったと考えられる。

 しかるに、前に述べたような生産出力の増大-1社会的余剰貯蓄――軍隊組織、というような社会システムが組まれてくると、それまでの神官や祭官を中心とした社会体制は崩れてくる。

 このような段階におきまして、ひとたび、近接の氏族社会とのあいだに戦闘状態でも勃発するということになりますと、それまでの社会システムのなかの、唯一の情報の蒐集伝達体制でもありました神殿を中心とする組織、すなわち、前述の原始的な神宮を中核とする組織は一転して、人びとの生命の安否にかかわる軍事的な計画や、その戦闘命令をつかさどる体制に転換するにいたるであろうことは、容易に想像できるわけであります』

 こうして軍隊ができあがると、たとえそれが史上もっとも原始的な軍隊であろうとも、それを指揮統括ナる司令官が存在しなくてはならない。

 『かくして、人類史上初の、ひとりの人物を中心とした、指示と命令のための絶対的な強さをもった制御パターンの体制が誕生することになってくるのであります。戦闘のはじまる前段階までは、前述の原始神官的な権限より多くを出なかったはずのひとりの人物と、それにまつわる人間関係が、戦闘の勃発を契機として、きわめて短日月のあいだに、強大な専制的権力と、それにまつわる官僚体制を生み出していくことになっていくのでありまナ』

 強力な司令官は、やがて全軍隊を統括し、「王」への階段をのぼり、ついに「王座」につく。

一砲兵少尉であったボナパルトが、やがて、「ナポレオンー世」として君臨した原型がそこにある。

 『事実(歴史における科学)の著者バナールも、これとほとんど同様な考え方によって、上古代の神官より、王への質的移行過程を考えてきております。これをわたくし流に申しますと、氏族共同体的な社会システムの、生産性が高まってきたある段階におきまして、原始神官と、それにまつわる制御システムのパターンに亀裂ができ、そのなかから、古代神聖王朝特有の強力な官僚的体制が、あたかも前述の脱皮を思わしめるようなプロセスをたどってあらわれてきたものであります』

 つづいて、氏は、図表8をつかって、以下の変革を説明する。

 『図における人類史の模型的表示は、人びとによってこれまで承認されてきました時代区分を前提にして、社会システムにおける創造的発展のための二つの要因の、時間的な変遷を、(T)部と(C)部との相関関係を軸にして、これを時間のものさしの線上に対応させてみたものであります。つまり、図における破線は、生産出力の社会的な活性度(社会システムに対ナる影響度合)を、また実線は、アブソリューティズム(絶対制)としての、宗教的な価値観を軸とする社会プソリューティズムを背景にした価値の役割のあった人類史段階  

社会的な牟産出力

・(Positive l゛eedbackをして系を前向きに変える役割)

生産力と価値体系を含む制御パターンの活性度

SuperCaalt)(氏族社会)(古代社会)(中世社会)(近代社会)ほぶJS]1〔超人類社会〕

       国家の誕生

 

 生産力と生産関係の矛盾によって出現した小変革、すなわち

 〈宗教革命の形を合んだ社会革命〉の起こった場所

 

  図8 人類の社会システム史にあらわれた等価変換展

    開パターンの模型

的規範、すなわちおの’おのの段階における慣習や価値基準にバックアップされた制御パターンとしてのモラルの、△社会的な活性度▽を表わしているものであります』

 図は昆虫の脱皮変身をつかさどるホルモン、JHとPGHのはたらきと、社会変革の動きとを

対応させてあらわしている。つまり、JH・幼弱ホルモンは、現状維持ホルモンとして今までの社会体制を維持してゆくところの警察権力や、行政施策を含む秩序維持のための社会的活性度であり、PGH・前胸腺ホルモンは、発生促進、すなわち現状変革ホルモンで、現体制をつき動か

してゆく可変的な生産出力活性度をあらわす。

 そこで、

 『社会的な生産出力の活性度がずっと上昇してきまナと、この対応原理にもとづいて、それまでの価値体系、およびそれにもとづく制御的な支配の官僚体制は、そのままの状態では十分な制御能力を果たしえなくなってまいります』

 つまり、ここにいたって、世にいうところの<社会革命▽なるものがまき起こってくるわけで、

 『これは、実に社会システムの発展史上における脱皮現象だったわけであります』

 そうして、そこでは、

 『必然的にそれまでの価値基準としての、権威をささえてきておりました神さまは、この新段階ににいたって、より普遍性をもった内容のものと取りかえなければなりませんでした。換言いたしますと、そこではなんらかの意味におきまして、いわゆる宗教革命をともなうことになっていく

のであります。

 そのようにして、社会システムの発展史というものは、社会システムの制御パターンの発展史、ナなわち、管理体制の変革的な脱皮の歴史でもあったことが理解できるのであります。

 したがいまして、古代、中世、近代にいたる社会システム上の脱皮過程というものは、これを巨視的に眺めてみますと、大要、以上のように理解していくことが可能になるのであります。

 具体的に申しますと、キリスト教とか、仏教とかの創唱的な大宗教活動におきましても、社会システム上における制御的な役割というものは、以上の解釈で、そんなに大きな見当違いを犯していることはない、と思っているのであります。

 ただ、ここで注目しておいていただきたいことは、近代社会の役割、すなわち、実質はともかくとして、一応、△主権在民▽をかかげて出現した<近代デモクラシー▽の社会におきましては、神観念の代行者的な役割を果たしていくための△人権思想▽とか、△人民主権思想▽とかを別にして考えますと、それまでの長い人類の社会システム史に強度の役割を発祥してきました、

アブソリューティズム(絶対制)としての神観念というものは、ふたたびその社会システム史的な意味を表わすことは、おそらくなろうと思います。周知のように今日では、<富の生産のた、あるいは、ある種の思想(イデオロギー)とかの権威が、それに代わっているのであります。しかも、

七〇年代の現時点におきましては、この△神観念的代行物▽の制御能力もまた、急速に薄れかけていることはご承知のところであります』

 つまりカミーホトケという″絶対的なもの″もまた、社会システムにおける制御のパターンのひとつであったのであり、いうなればJHホルモンであり、そういう意味では、警察権力や行政施策とそんなに変るものではなかったということである。したがって、ある時期において、それらの宗教は、△人指思想▽とか、△人民主権思想▽にとってかわられてしまった。脱皮した社会システムに無用のものになってしまったのである。けれども、その敗北と時代の流れを察知できない宗教人たちは、もう現代に通用しない古い思想を現代的に装飾して、現代科学の行きづまりの間隙を突いて「第三の文明」というようなものを創造すると号したが、それも、富の生産のためだとか、<大衆のため▽だとか、あるいは、ある種の思想(イデオロギー)とかの新しい権威の前には、当然、無力であり、そのために、それらの宗教団体は、宗教を捨てて。政治活動″に転換(変革)せざるを得なくなってしまった。(それもまたひとつの脱皮であろう。呵々)

 第三の文明を創造するといってたちあがった新しい宗教団体が、結局は、政治活動にその大半のエネルギーを向けざるを得なかったという事実は(それはもはや宗教団体ではない)、まさしく市川教授が指摘されている通り、従来の、カミーホトケというものを礼拝し、ごりやくをほい宗教が、もはや現代の社会システムに適応しなくなってしまっているというちは、そういう存在を無意識のうちに求めながらも、やむを得ず、そういう宗教に憩いを求めるか、もしくは絶望して、宗教というものから遠くはなれてしまっている。

 しかし、それはそれとして、一九七〇年代の今日、神観念にとってかわった〈富の生産のため▽だとか、△民衆のため▽だとか、あるいはある種のイデオロギーだとかの「神観念的代行物」もまた、ナでに、その権威を急速に失いつつあることは、もはや「ご承知のところ」であろ

『さて、話をふたたび図8のところに戻しましょう。さきほども少し言及したのでありますが、神観念的な、アブソリューティズムの代替物で、その社会システム史における制御パターンの役割を、かろうじて遂行させてきました近代のデモクラシーにおきましても、前述のように、新しい限界が出現してきましたことは、今日だれも否定することはできなくなっていると思いす。

 すなわち、社会的な生産出力のひとつの頂点を象徴ナるアメリカの宇宙計画では、人間の乗ったロケットが地球と月の間を無事に往復することができました。けれども、ひとたび地上の人間の世界に目を転じますときには、公害という名の<環境汚染▽を頂点として、幾多の世紀末的な混乱はとどまるところがありません。しかも、△大衆デモクラシー▽として出発しましたはずの、近代の政治形態のなかでは、意味の大半を失いかけた△形式的な多数決原理▽なるものが、いよいよ自己運動的にのたうちまわっているように思われるのであります。

 -‐このようにして、人類の社会システム史を、過去一万年のあいだつらぬいてきました制御パターンのアブソリューティズムというものは、いっきょに消滅する段階が訪れたものとみなくてはなりますまい。このことは近代自然科学と、そのバックーアップのもとに巨大化してきました、現代工業技術の、社会システム上におけるウェイトの必然的な結果としてあらわされてきたものでありましょう』

 さて、それで、結論はどうであろうか?

 『以上を、前述の昆虫発生史に対応をつけていいますと、人類の社会システム史は、いわゆる小変革としての脱皮の段階を通り越してしまって、いまやサナギ化の段階としての、空前の解体段階に突入しているらしいことを意味していると思います』

 いまや、まさに、人類は、皮をひんめくると、なかから青ぐろい液がビュツと吹き出す、あのサナギの解体状態とおなじ状態になってしまっているというのである。

 『端的に申しますと、今日の段階における社会システムというものは、おそらくそういう状態のなかに投げこまれているようであります。だといたしますと、人類史における完全変態的な、再構成的な救済方法を考えなければならない。でなければ、現代史は解体しっぱなしの状態にはいって、やがて糾添紗むかえてしまうのじやないかと思います。

 考えてみますと、脱皮に該当する小変革にすら、うまく通過することができなかったために、

完全に消滅してしまった古代文明は、ナイル河畔、中近東、あるいはユカタン半島などを調べてゆけば、けっして少ない数ではございません。いわんや、解体の深度と、変革の規模の大きさから考えまして、人類史上における現段階の危険度というものは、当然のことながら、なみたいて

いのものではありまナまい』

 では、いったい、人類はどうなるのか?

 解体しっぱなしで、ドロドロの液体状態の混乱のなかで、ホモーサピエンスは絶滅してゆくのか? 市川亀久弥先生はどのような予測をなされるか?

つまり、大なり小なり戦争や、搾取や、ライバル意識などにふりまわされてきたこれまでの、ホモーサピエッス的段階の延長線上における脱皮なのではなく、社会システム史における完全変態を確立したあとの、いわば△超人類史的段階▽への移行の可能性が訪れているのであります』

『以上の私見にたいした誤りがなかったとしますならば、おそらく、人類史におけるつぎの段階。は、アブッリューティズムという名の、有効性が保たれていた幼虫的段階から、羽根や管形口器の獲得に該当する、まったく新しい人類史的段階への脱出が待ちかまえていることになりまナ。

                   おお、これぞ、ティヤールードーシャルダン神父がぜったい信じて疑わなかった超・ヒト、ジョルジューオリヴィエ教授が予測するホモーエクセレンスが現実に生きる超人類社会CSociety of state homo saPience)の実現である。なんとすばらしいことではないか。みにくいサナギも蝶になる。にんげんばんざい、ホモーサピエンスぽんぽんざあい!

 ちょ、ちょ、ちょっと待ってもらいたい。そんなところでおどっていては困るんだ。少々、はやすぎる。そうはいかないんだなあ、これが。

 そのあとにつづく市川先生のコトバがたいへんきびしいのだ。

『しかし、それは、単なる可能性が残されている、というに過ぎないのでありまして、サナギ化の解体段階で、完全にその命脈を終わってしまう可能性のほうがより高いのかもしれません。その心配の種と申しますもりは、従来の、社会システム上の変革段階にくらべて、解体の深度がひじよう把大きいことです。したがってまた、この解体過程のなかにもちこまれる試行錯誤の過程にあらわれてくる、社会的なエントロピー(熱力学上の抽象的な量の単位)の増大化(無秩序化)には、予断を許さないものがあると考えなくてはなりますまい。

 つまり、現代の巨大化された機械文明というものは、ひとたび収拾のつかない状態におちいってしまったら、。あんがいにもろいことが予想できるわけであります』(引用文中の傍点は著考)

 で、では、ヤッパリダメナンデショウカ?

 なんだい、急にショゲてしまったじやないか。

 いや、そうでもないのだ。

 ここに、さすがの市川亀久弥先生もお気がっかなんだすばらしいシステムがひとつあるのだな。市川先生は、せっかくいいところまで肉迫しながら、まったくの専円ちがいのために惜しくもお気がつかれなんだ超人類社会創造のための唯一のシステムがここにあるのだ。

 地を這うみにくいイモムシが、一転してサナギとなり、つづいて春の中空を花から花へうららかに飛び交う、羽翼のいろもあざやかな蝶へと変身してしまう、すばらしい技術とシステムが、ここにある。

 サナギはかならず蝶になるのだ。

ヒトにおける解体と変身

 拙著「変身の原理」において、私は、湯川秀樹博士の文章を引用し、ひとつの道に秀でたすぐ

れた才能は、べつの世界においてもおなじようにすぐれた才能を発揮するのであろうという意味の讃辞を、この偉大な科学者に呈したのであったが、いままた、この本で、それとまったくおな

じことばを、湯川氏のお弟子である市川亀久弥氏に呈さなければならないことになったということは、これはいったいどういう因縁というものであろうか。

 「変身の原理」で、私はこのように述べた。

 『両極端は一致するというけれども、ひとつの世界をきわめた知性はまったくべつな世界にたい

しても、凡人のおよばぬ洞察をなすものなのであろうか。

 私は、つぎに述べるような湯川秀樹博士の文章を目にしたとき、思わずわが目を疑うほどのおどろきを感じたものである。湯川氏は科学について述べておられるのであるけれども、私には、

それがそのまま(密教)について語っているのではないかと思われるものであったのだ』

 この文章とまったくおなじ言葉を、私は、ふたたび、この本で、今度は、市川亀久弥氏の、

「等価変換展開理論」の、サナギの変態脱皮論にたいしてささげなければならなくなったのである。

 

 なぜならば、市川氏が説くこの理論のなかの、昆虫の脱皮過程における発展のメカニズムこそ、そっくりそのまま、’密教の持つ、超能力開発・変身の技術のシステムだったのである。

 「破局からの創造J55頁で、氏は、このように述べておられる。

 『i以上の脱皮過程における発展のメカニズムは、もう少しくわしくみると、どのような内容

になっているのでありましょうか。現代発生学上の記述を総合いたしますと、およそ、その概要

は図6のごときものとなっているのであります。

 すなわち、すでにふれてまいりましたように、昆虫の体内では、幼虫的特徴の維持や、サナギ化の開始などが、二種類の内分沁ホルモン、すなわちJHとPGHの両ホルモンの活性レベルや、その時間的な交換によってコントロールされているものでありました。このホルモン制御のメカニズムは、その生生小変革過程としての、脱皮の出現過程のなかにもあてはまるのでありま』(傍点は著者)

 文中の、″このホルモン制御のメカニズム″は、そのまま、密教のヒト改造の超技術に ″あてはまる″のである。

 いや、この″ホルモン制御のメカニズム″こそ、密教の秘密技術の根幹となるものだったのである。

 

 密教は、五〇〇〇年ものむかしに、この″等価変換展開理論″という現代のすぐれた科学者が提唱する創造理論をナでに技術化して、その体系のなかにとり入れてしまっていたのである。

 いったい、いかなるすぐれた叡智がそれをなしとげていたというのであろうか?

 前の頁で、私は、ながながと市川教授の文章を引用させていただいたが、それはこのことを説明したいためだったのである。もちろん、それだけのことではなく、人類史における各変革段階を、それは生産出力の増大とそれに対応する社会システムの制御パターンの変革にほかならないとする今日的な視点に立ったとらえかた、そして、現代文明の危機こそ、まさに、この、生産出力の飛躍に対応する社会システムの制御パターンの行きづまりであるという明快かっすぐれた論旨も知っておいていただかねばならぬ必要もあったからであるが、最大の理由は、密教のメカニズムと近代創造理論の関連について説明したかったからである。

 市川氏は、すでに前に引用した文章のなかでこう述べておられる(320頁参照)。

 『この幼虫のからだのなかには、それまでの幼虫独自の形態、つまり、あのイモ虫状形態を維持するために分秘されていたホルモン(幼弱ホルモンと命名されているホルモン)が急速に減少していく段階が訪れてくるのであります。(中略)、ところ、この前サナギ段階を含めましたサナギ段階と申しますところは、虫体の内部におきましては、空前の大変革がまき起こっている時期なのであります。すなわち、前述の幼弱ホルモン(JH)の分泌レベルが落ちて前胸腺ホルモン(PGH)の分泌が高まってまいりますと、それまでの特有な幼虫の形態は、急速に細胞レベルにまで解体化を開始していくのであります。(中略)』

 そうして、「それまでの生理個体の過去の蓄積を土台として、これを未来に向かって質的にレベルアップしていく」という進化の階段をのぼっていくわけである。

 これが、そのまま、密教の特殊技術なのだ。

 ヨーガは、訓練によっそヒトに超能力をあたえる。それは、それまでのヒトを一変させる。まったくべっなヒトに変えてしまう。ときにはヒト以上の存在にさせてしまうことも稀れではな

い。いうなればヒトにおける″変革″″脱皮″である。

 変革と脱皮についての市川教授の理論を聞こう(破局からの創造53?54頁)。

 『たとえば、不完全変態の昆虫と申しますものは、大局的にいいますと、以上にとりあげました

等価変換展開を、段階状展開とでもいうべき、ステップーバイーステップ方式によって、小出しにして、所定の変革を実現しているのであります。いな、劇的変換をみせている完全変態の昆虫といえども、一度にかかる発生過程上の新段階を実現したわけでは尨く、おそらく不完全変態の

段階を、ある過去の時代に通過しているものであることはいうまでもないと思います。

 つまり、以上を大川的に巾しますと、に比虫進化史の過程にあらわれた仙体発生史における創造的展開は、はじめの段階において、小出しの変革過程をくり返しているうちに、ある特定の種の祖先のなかに、最後の小変革段階である聊ヤの段階を、徹底した大変革のパターン(完全変態)に移行せしめていったものらしいのであります。(中略)           ゜

 さて、大要前述のようなプロセスによりまして、~完全変態の昆虫におきましても、サナギ化にはいるまでの段階で経験ナるところの小変革は、いったいどういう形態をとって実現しているものでありましょうか。これが周知の〈脱皮▽といわれている段階にほかならないのであります。

 川知のように昆虫の幼虫は、ナベて、この脱皮と名づけられる段階的な△皮ぬぎ作業▽を、お

のおのの成長段階に応じて周期的にくり返し、その最終段階にはいって羽化とよばれております

ところの、羽根開きの段階にはいっていくのでありまナ。これは、不完全変態の昆虫、完全変態

の昆虫にかかわらず、一様にたどる経過なのであります』

 私か、古代ヨーガの技術をとり入れ、真言密教の理論にもとづき、開発編成した超能力開発の

トレーニッグーシステムは、ヒトに八回の脱皮をさせ、九回目に羽化せしめる。市川理論の表現

をかりれば、八回の小変革的段階を経て、九回目に徹底した大変革のパターン(完全変態)を完

成させるということである。

 カイユは、四回脱皮して、五回目にはサナギに変身、六回目には羽化して空に舞いあがる。私

の密教システムは、八たび変身、九回目には大超能力者となって物質世界を飛び越える。三次元

世界から四次元世界への飛翔である。それは、みにくい、不気味なかたちをしたサナギやイモム

シを、一夜にして可憐な蝶に変身させ、中空たかく舞いあがらせてしまう、奇跡としか思えない

驚異のメカニズムと、おなじ原理の上に立っているのである。

第一の発見―-オタマジャクシはいつカエルになるか

 ひらひらと花から花へ、いみじくも詩人のルナールが恋文の配達人とうたった可憐な胡蝶の舞

いナがたにじっと見とれているひとにむかって、あれは、あのオソ毛をふるう毛虫やイモムシ、

サナギが変化してああなったのであって、つい昨日までは地面をみにくく這いまわるいやらしい

虫けらだったのだと説明しても、自然のメカニズムを知らないひとだったら、おそらくぜったい

に信じようとはしないだろう。とほうもないウソをつくひとだというのではあるまいか。それは

たしかに、それももっともだと思われるほどのおどろくべき変化である。

 けれども、いまは、そんなことくらいだれでも知っており、今さらだれひとりおどろこうとす

るものなどいやしない。ごくあたりまえの常識になってしまっている。

 だがI、

 

 ここに、いたって平凡な人間が、突然、非凡な能力を身につけて、想像を絶する偉大な力を発

抑しはじめる、いうならば、地を這う虫が突然空に舞いあがるような変化を起こナ不思議な技術があるといったら、ひとはまったく信じようとしないであろう。強いて強調すれば、頭のくるった諮人安恕狂、うさんくさいパッタリ屋の大山師とでもいうであろう。あるいは、、この両者はともに、自然があたえた″進化のメカニズム″を使って変身しているのだ

ら考えまして、人類史上における現段階の危険度というものは、当然のことながら、たみたいで
いのものではありますまい」
では、いったい、人類はどうなるのか?
解体しっぱなしで、ドロドロの液体状態の混乱のなかで、ホモ・サピエンスは絶滅してゆくの
か? 市川亀久弥先生はどのような予測をなされるか?
以上の私見にたいした誤りがなかったとしますならば、おそらく、人類史におけるつぎの段階
は、アプソリューティズムという名の、有効性が保たれていた幼虫的段階から、羽根や管形口器
の獲得に該当する,まったく新しい人類史的段階への脱出が待ちかまえていることになります。
つまり、大なり小な、戦争や、搾取や、「不バ心意識などにふりまかされてきたこれまでの、小

い占いが的階の延長線上にかける豚皮かのではなく、社会システム史における完全変
むかいたかとか、いかぶへ巡人類史的段階V公の移行の可能性が訪ねていか であります』
おお、これぞ、ティヤール・ド・シャルダン神父がぜったい信じて疑わなかった超・ヒト、ジ
ョルジュ・オリヴィエ教授が予測するホモ・エクセレンスが現実に生きる超人類社会 (Society of
super state homo-sapience)の実現である。なんとすばらしいことではないか。みにくいサナギも
蝶になる。にんげんばんざい、ホモ・サピエンスばんばんざあい!
アア
ウルトラ・メー
あと、ちょ、ちょっと待ってもらいたい。そんなところでおどっていては困るんだ。少々は
する。そうはいかないんだなあ、これが。

そのあとにつづく市川先生のコトバがたいへんきびしいのだ。
『しかし、それは、単なる可能性が残されている、というに過ぎないのでありまして、サナギ化
の解体段階で、完全にその命脈を終わってしまう可能性のほうがより高いのかもしれません。そ
の心配の種と申しますものは、従来の、社会システム上の変革段階にくらべて、解体の深度がひ
じょうに大きいことです。したがってまた、この解体過程のなかにもちこまれる試行錯誤の過程
にあらわれてくる、社会的なエントロピー(熱力学上の抽象的な量の単位)の増大化 (無秩序化)に
は、予断を許さないものがあると考えなくてはなりますまい。
つまり、現代の巨大化された機械文明というものは、ひとたび収拾のつかない状態におちいっ
てしまったら、あんがいにもろいことが予想できるわけであります』(引用文中の傍点は著者)
で、では、ヤッパリダメナンデショウカ?
なんだい、急にショゲてしまったじゃないか。
いや、そうでもないのだ。
ここに、さすがの市川亀久弥先生もお気がつかなんだすばらしいシステムがひとつあるのだ
な。市川先生は、せっかくいいところまで肉迫しながら、まったくの専門ちがいのために惜しく
もお気がつかれなんだ超人類社会創造のための唯一のシステムがここにあるのだ。
地を這うみにくいイモムシが、一転してサナギとなり、つづいて春の中空を花から花へうらら
かに飛び交う、羽翼のいろもあざやかな蝶へと変身してしまう、すばらしい技術とシステムが、
37社会における解体と変身
なかぞら

 

 

 

ここにある。
サナギはかならず蝶になるのだ。
ヒトにおける解体と変身
拙著「変身の原理」において、私は、湯川秀樹博士の文章を引用し、ひとつの道に秀でたすぐ
れた才能は、べつの世界においてもおなじようにすぐれた才能を発揮するのであろうという意味
の讃辞を、この偉大な科学者に呈したのであったが、いままた、この本で、それとまったくおな
じことばを、湯川氏のお弟子である市川亀久弥氏に呈さなければならないことになったというこ
とは、これはいったいどういう因縁というものであろうか。
「変身の原理」で、私はこのように述べた。
『両極端は一致するというけれども、ひとつの世界をきわめた知性はまったくべつな世界にたい
しても、凡人のおよばぬ洞察をなすものなのであろうか。
私は、つぎに述べるような湯川秀樹博士の文章を目にしたとき、思わずわが目を疑うほどのお
どろきを感じたものである。湯川氏は科学について述べておられるのであるけれども、私には、
それがそのまま(密教)について語っているのではないかと思われるものであったのだ。
この文章とまったくおなじ言葉を、私は、ふたたび、この本で、今度は、市川亀久弥氏の、
「等価で検展開理論」の、サナギの変態脱皮論にたいしてささげなければならなくなったのであなぜならば、相川氏が説くこの理論のなかの、昆虫の脱皮過程における発展のメカニズム
そ、そっくりそのまま、密教の持つ、超能力開発・変身の技術のシステムだったのである。
「破局からの制造』5頁で、氏は、このように述べておられる。
ー以上の脱皮過程における発展のメカニズムは、もう少しくわしくみると、どのような内容
になっているのでありましょうか。現代発生学上の記述を総合いたしますと、およそ、その概要
は図ものごときものとなっているのであります。
すなわち、すでにふれてまいりましたように、昆虫の体内では、幼虫的特徴の維持や、サナギ
化の開始などが、二種類の内分泌ホルモン、すなわちIHとPGHの両ホルモンの活性レベル
や、その時間的な交換によってコントロールされているものでありました。この小心かい制御の
たか、は、そのまま小変革過程としての、胞皮の出現過程のなかにもあてはまるのでかいお
す。(得点は著者)
文中の、このホルモン制御のメカニズム』は、そのまま、密教のヒト改造の超技術に”あて
はまるのである。
いや、この”ホルモン制御のメカニズム、こそ、密教の秘密技術の根幹となるものだったので
こんなん
339 社会における解体と変身
ある。
参戦は、五○○○年ものむかしに、この『等価変換展開理論』という現代のすぐれた科学者が

提唱する創造理論をすでに技術化して、その体系のなかにとり入れてしまっていたのである。
いったい、いかなるすぐれた叡智がそれをなしとげていたというのであろうか?
前の頁で、私は、ながながと市川教授の文章を引用させていただいたが、それはこのことを説
明したいためだったのである。もちろん、それだけのことではなく、人類史における各変革段階
を、それは生産出力の増大とそれに対応する社会システムの制御パターンの変革にほかならない
とする今日的な視点に立ったとらえかた、そして、現代文明の危機こそ、まさに、この、生産出
力の飛躍に対応する社会システムの制御パターンの行きづまりであるという明快かつすぐれた論
旨も知っておいていただかねばならぬ必要もあったからであるが、最大の理由は、密教のメカニ
ズムと近代創造理論の関連について説明したかったからである。
市川氏は、すでに前に引用した文章のなかでこう述べておられる(効頁参照)。
『この幼虫のからだのなかには、それまでの幼虫独自の形態、つまり、あのイモ虫状形態を維持
するために分秘されていたホルモン (幼弱ホルモンと命名されているホルモン)が急速に減少してい
く段階が訪れてくるのであります。(中略)、ところで、この前サナギ段階を含めました サナギ段
階と申しますところは、虫体の内部におきましては、空前の大変革がまき起こっている時期なの
であります。すなわち、前述の幼弱ホルモン (JH)の分泌レベルが落ちて前胸腺ホルモン (PG
H)の分泌が高まってまいりますと、それまでの特有な幼虫の形態は、急速に細胞レベルにまで
解体化を開始していくのであります。(中略)」
そうして、「それまでの生理個体の過去の蓄積を土台として、これを未来に向かって質的に レ
ベルアップしていく」という進化の階段をのぼっていくわけである。
これが、そのまま、密教の特殊技術なのだ。
ヨーガは、訓練によってヒトに超能力をあたえる。それは、それまでのヒトを一変させる。ま
ったくべつなヒトに変えてしまう。ときにはヒト以上の存在にさせてしまうことも稀れではな
い。いうなればヒトにおける”変革””脱皮”である。
変と脱皮についての市川教授の理論を聞こう(破局からの創造8~弘頁)。
「たとえば、不完全変態の昆虫と申しますものは、大局的にいいますと、以上にとりあげました
等価変換展開を、段階状展開とでもいうべき、ステップ・バイ・ステップ方式によって、小出し
にして、所定の変革を実現しているのであります。いな、劇的変換をみせている完全変態の昆虫
といえども、一度にかかる発生過程上の新段階を実現したわけではなく、おそらく不完全変態の
段階を、いる過去の時代に通過しているものであることはいうまでもないと思います。
つまり、以上を大局的に申しますと、昆虫進化史の過程にあらわれた個体発生史における創造
的展開」、はじめの段階において、小出しの変革過程をくり返しているうちに、ある特定の種の
祖先のなかに、最後の小変革段階である羽化の段階を、徹底した大変革のパターン (完全変態)
に移行せしめていったものらしいのであります。(中略)
さて、大要前述のようなプロセスによりまして、完全変態の昆虫におきましても、サナギ化に342
はいるまでの段階で経験するところの小変革は、いったいどういう形態をとって実現しているも
のでありましょうか。これが周知のへ脱皮Vといわれている段階にほかならないのであります。
周知のように昆虫の幼虫は、すべて、この脱皮と名づけられる段階的な八皮ぬぎ作業>を、お
のおのの成長段階に応じて周期的にくり返し、その最終段階にはいって羽化とよばれております
ところの、羽根開きの段階にはいっていくのであります。これは、不完全変態の昆虫、完全変態
の昆虫にかかわらず、一様にたどる経過なのであります』
私が、古代ヨーガの技術をとり入れ、真言密教の理論にもとづき、開発編成した超能力開発の
トレーニング・システムは、ヒトに八回の脱皮をさせ、九回目に羽化せしめる。市川理論の表現
をかりれば、八回の小変革的段階を経て、九回目に徹底した大変革のパターン (完全変態)を完
成させるということである。
カイコは、四回脱皮して、五回目にはサナギに変身、六回目には羽化して空に舞いあがる。私
の密教システムは、八たび変身、九回目には大超能力者となって物質世界を飛び越える。三次元
世界から四次元世界への飛翔である。それは、みにくい、不気味なかたちをしたサナギやイモム
ジを、一夜にして可憐な蝶に変身させ、中空たかく舞いあがらせてしまう、奇跡としか思えない
に異のメカニズムと、おなじ原理の上に立っているのである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

桐山靖雄 ヒトを天才にする求聞持聡明法

ヒトを天才にする求聞持聡明法

ヒトを天才にする求聞持聡明法
求間持聡明法は、ヒトを聡明にし、天才にするという真言密教に伝わる秘法である。
弘法大師空海が、若くしてこれを修し、大天才となったということで、夙に知られてい
る。また、新義真言宗の開祖、興教大師覚鏝(一〇九五1一一四二)が、七度、この法を
修して成功せず、八度目に悉地を成じ、成功したと伝えられる。覚鏝上人ののこされた業
績をみれば、上人もまた天才でめったことは疑いない。ただ残念なことに、四十八歳で亡
くりれている。
真言密教の求聞持聡明法には、三種の法がある。
虚空蔵求聞持
観音求聞持
如意輪求聞持
であるが、ふつう、求間持法といえば、空海が修して有名な虚空蔵求間持をさす。この
つぶさ    ぶつせつこくうぞうほさつのうまんしよがんさいしようしんだら・にぐもんじほう
法を、具には「仏説虚空蔵菩薩能満諸願最勝心陀羅尼求聞持法」という。
しかし、わたくしがこのたびこの本で発表する求聞持聡明法は、これらのいずれでもない。わたくしが独白に創成した求聞持法で、わたくしはこれに、だとによい
駄都如意求聞持聡明法と名づけた。
この駄都如意求聞持聡明法は、真言密教につたわる求聞持法とはまったくちがうものである。
二つの特徴がある。
それは、
一、クンダリニー・ヨーガのチャクラを覚醒して、超人的千不ルギーを発生させる。
二、その超人的干1 ルギーを、中国・道教につたわる導引・気功の持つ生気ルートに
のせて、体の各要所、要部にめぐらせ、行きわたらせる。殊に、大脳の中枢である間脳・視床下部に送りこむ。
この二つの方法を、独特の方法で完成したのである。これは、前人未踏の領域であるといってよいであろう。わたくしは、半生を、というより、一生をこの法の完成に注いだ。いまから約二〇年前に発行した『変身の原理』以来、わたくしの著書はこの本で四〇冊になるが、それらの著書のすべてが、この法の完成に至る道のりをあらわしたものであるといってよい。
わたくしは、この本で、わたくしの得たほとんどのものを、出来るかぎり、明らかにした。クンダリュー・ヨーガも、道教の導引・気功も、いずれも超人的能力を獲得するための
最高の法である。この世界にこれ以上の超能力開発法ぱない。この二つの法の欠陥を補正して融合させ、さらにあらたな創案をくわえて完成したこの駄都如意求聞持聡明法は、ヒ
トにおける究極の超能力開発法であると自負するのである。
もちろん、。後世おそる、べし”という諺の通り、今後、これ以上の超能力開発法も出るかも知れないが、しかし、それも、クンダリュー・ヨーガと導引・気功を融合させたこの駄
都如意求間持聡明法のライン以外のものではないであろうと確信している。
この法を、指導通りに修行するならば、確実に、ヒトの知能は二倍に、体力は三倍に飛躍強化されるであろうことを断言する。

天才は不老長寿でなければならない

求聞持聡明法は、たしかにヒトを天才にする。
しかし、いくら天才になっても、そのために、病弱になったり、若死にしたりしたのでは、なんにもならない。天才は、いつまでも若々しく、健康で、世のため、人のため、その才能を発揮するもの
でなくてはならない。(寝たっきりの天才など、まっぴらである)
求聞持聡明法修得をこころざしたわたくしは、つねに、四十八歳という惜しむべき短命に終わった興教大師党員上人が念頭にあった。上人は、おそらく、過酷な求間持法修行のため、法は成就したものの、体を痛め、寿命を損じたのにちがいなかった。
このことは、年少、結核を病んで何年も病床に伏した苦しい経験を持つわたくしにとり、その恐れの念が特に深刻であった。
しかし、この憂慮は、幸いにして杷憂におわった。
道教の導引・気功の秘法をとり入れたことが、この心配を吹きとばしてくれたのである。
すなわち、道教の導引・気功は、仙道の流れを汲むものである。そして仙道の理想は、不老長寿、生きながら神仙に化することを目標とする。
駄都如意求聞持聡明法は、特に不老長寿を目ざすものではなかったのだが、結果はそうなってしまったのである。
期せずして、仙道の理想が実現されることになったのだ。
神仙に化することだけはちょっとむずかしいが、不老長寿はかならず達成される。 わたくしぱ断言してよい。仙選の秘法がとり入れられているこの駄都如意求聞持聡明法
は、二十歳代の人ならば、三歳から五歳、中年以上の人ならば、十歳から十五歳、若返ることができるであろう。

あなたが高年者として修行に入り、年齢のために天才になれなかったとしても、いつまでも若々しい肉体と、そして決してボヶることのない求聞持脳だけは獲得できるであろう。
『求聞持聡明法秘伝』平河出版社刊。まえがき”より

「等価変換展開理論」

そんなことがほんとうにできるのか? いったいどうやってそんなことができるのだ、と。
それもたしかにもっともなことで、私自身、身をもってこの密教の秘密に挑戦し、自分でこの
技術を解明するまでは、ぜったいに信ずることができなかった。私は単身、五〇〇〇年の間秘密
のヴェールにつっまれてきたこの不思議な技術にいどみ、その秘密を解いた。それは、信ずるこ
とのできないほど精緻微妙な生化学に立脚したおどろくべき技術の応用であった。
たとえば、
さきにもちょっとふれたが、市川亀久弥博士は、最近の著作のなかマ(≒柚計器)お得意の
「等価変換展開理論」にもとづき、イモ虫からサナギヘの変化を例にして未来社会への脱皮を説
いておられる。この理論はまことにみごとで、まさにほれぼれするほどあざやかである。こと
に、イモ虫がサナギに変身する理論的うらづけは、近来しきりに輩出する未来論のなかで、まさ
に出 色のものであるというべきである。
ただ、まことに残念なことに、それは理論と説明と期待にとどまり、それをいかにヒトに応用
して実現させるかという方法を示していない。それは、もちろん、氏自身、同書のはしがきのな
かで、これは、″単に人類のあるべき未来社会に関するソフトーウェアの主張の範囲にとどまる
ものである”とことわり、この。ソフトーウェアに対するハードーウェアの具体的な提唱″は
″旺い将七に公長する~定である″ということであるから、われわれはまさに刮目してそれを待、ぐに、その″ソフトーウにアに対するハード・
ウェアの具体的な技術″を持っているのである。密教は、その持つ技術のひとつに、この市川理
論の「イモ虫からサナギヘの脱皮」技術を持っていて、数千年も前から、それをヒトの変身技術
に応用、実践していたのである。
密教は、現代の創造理論の大家が提唱する未来に関する花形理論を、とうに実践していたので
ある。五〇〇〇年も前にI。
地を這いまわることしか知らぬ生物であるイモ虫が、サナギになり、そして、空を舞う生物に
変身することは、二次元の世界に生きる生物が三次元生物に変化したことを意味するものだ。密
教がおなじ技術をもってヒトを変身させることは、三次元生物であるヒトをそれより上の次元に
飛躍させることを意味する。密教の変身技術はそれなのである。その生物の次元を変えてしまう
のだ。
しかも、それは、今までいわれてきたように、ただ神秘的、神がかり的なアイマイな方法でな
く、適確な生化学の技術をもっておこなうのだ。そうしてそれは密教の持ついくつかの技術のな
かのひとつに過ぎない。
いったい、どんな智恵がそれをなしとげていたというのであろうか? 密教の技術を神秘とい
うのなら、その点をこそ神秘というべきだろう。しかし、それは、それこそまさに数千年生え出
現した超・ヒトが、孤独にたえつつ、その持つ人類最高の智恵「照明智」を駆使してつくり上げ
た未来人のためのカリキュラムにほかならぬのだというよりはかないであろう。

さて、それでは、密教の技術に関係のある市川理論「等価変換展開理論」とはどんな理論か?
それがどのように密教の技術と関連があるのか?
それを説くまえに、もう少し知っておいていただかねばならぬことがある。
ここで、私は、密教とヨーガという二つのことばについて述べておかねばならぬと思うのだ。
拙著「変身の原理」で、私は、密教についてっぎのように述べた。少し長いが引用してみる。
『真言宗という宗派仏教と、密教すなわち秘密仏教とは、ふかいつながりかおる。だが、それは
どこまでもふかいつながりという関係であって、普通考えられているように、密教即真言宗、真
言宗即密教というものではないのである。
真言宗とは、インドにおいて発生し、大成した密教を、ああいう独白の形に体系化し、組織化
したものであって、密教そのものではないのである。密教のひとつの体系ではあるけれども、密
教そのものではない。
それは、それまでにほぼ完成していたけれども、分派し、多様化していたインド密教を日本密
教の開祖空海が、独自の見識と叡智によって、ひとつの体系につくりあげたということである。
おなじように、天台宗においても、天台密教というひとつの密教体系を組織完成しており、こ
れもまた、密教のひとつの流れということである。
そういうわけで、密教というものを正しく理解するためには、どうしても、]度、密教の原点
に立ちもどって考えてみなければならないのである。
密教は、最初、ひとつの手法(技術)であった。
けっして、最初から密教というひとつの宗教があったわけではない。
ゴータマーブッダがあらわれて、仏教というあたらしい教えを説きはじめるはるか以前、バラ
モンの時代から、インドには、入に超能力をあたえるひとつの手法があった。そういう手法が完
成されて、一部の人たちの間につたえられていた。それは、精神と肉体のきびしい錬磨から得ら
れる神秘的な力で、彼らは、それを、ひとつの技術にまでっくりあげていた。
われわれは、その流れのひとつを、現在、ヨーガのなかに見ることができる。(ただしそれは、
いまの日本で行なわれているアクロバティックな体操のヨーガではない。ヒマラヤの奥地の聖者
たちの間に伝承されている正統ヨーガである)
ヨーガは、その手法のひとつの流れである。この超能力を開発する技術は、仏教があらわれる
以前においてはバラモンにとり入れられ、仏教があらわれると、仏教もまたこれをとり入れた。
ゴータマーブッダは、かれ自身、この手法をまなんで、これにより超能力を持ったが、弟子た
ちにはこれを学ぶことを禁じた。なぜかというと、この技法によって多少の力がつくと、かれら
はすぐにそれがブッダのいう「ホトケ」という境地に達したものと考えてしまい、修行のさまた

げになるからであった。
ただし一部の、素質のきわめてすぐれた弟子たちには、ひそかにこれを許した。
ゴータマーブッダは、普通、神秘的な力を信じたり、修行者がそういう力を持つことを願った
りするのを全く禁じたというように、仏教学者や仏教者は信じているようであるが、それは間違
いで、ブッダ自身、神足({乱石の教理、すなわち、仏道を完全に成就するためには超自然的な
力が必要であるとし、超人間的な能力開発の訓練法を説いているのである。これは、パーリ文献
によって容易に証明することができるのである。(略)
それによると、それは、″四神足“または、″四如意足″ともいわれる超能力開発法である。
ブッダは、菩提を成就するためには、単に、知性や理性をみがくだけでは不十分であると考
え、知性や理性の限界をうち破る力が必要であると考えた。
そのために、彼は、そういう力を開発するための行法をつくりあげた。それは、彼が学んだ超
能力開発法を加えて編成したものと見てよいであろう。
それは、三十七種の技法から成り立つもので、四神足というのは、その中心になる技術であ
る。神通、如意を得るための定を、四種類の手法に分けて説明している。
欲神足(願望、理想、創造のためのアプローチ)
勤神足(体と心のトレーニング法)
心神足(潜在意識のトレーニング法)
観神足(深層意識のトレーニング法)
きづまりを打破するために、大乗仏教のなかにとり入れられて体系化され、密教と呼ばれになったのである。いうわけで、密教は二つの面を持っている。
一つは、超能力の開発技術
一つは、大乗仏教の教義
この二つである。
この二つのものがむすばれることにより、大乗仏教よりさらに高度の教義が完成されて、「金
剛大乗」と呼ばれる新しい仏教が誕生した。これが密教である』
-との引用の文章でわかるように、「変身の原理Lにおいて語られている「密教」というコ
トバは、「秘密仏教」という意味での「密教」である。仏教のなかにとり入れられた、いわゆる
真言密教、あるいは真言宗密教の密教である。
しかし、本書において私がいう「密教」は、それらの密教、「変身の原理」のなかで使われて
いる密教とは全くちがうものであることを、読者はご承知ありたいのである。

本書における「密教」とは、真言密教以前、いうならば仏教にとり入れられる以前の、いや、
バラモンにさえもとり入れられる以前の、引用文でいえば4  R教は最初、ひとつの手法(技術)であった。ゴータマーブッダがあらわれて、仏教というあたらしい教えを説きはじめるはる
か以前、バラモン時代から、インドには、入に超能力をあたえるひとつの手法があった。そういう手法が完成されて、一部の人たちの間につたえられていた。それは、精神と肉体のきびしい錬磨から得られる神秘的な力で、彼らは、それを、ひとつの技術にまでっくりあげていた。と
あるその「技術」、つまり、いうならば、″古代マーガ″と″真言密教″と、この二つを結合したものであると承知していただきたいのである。即ち本書でいう密教とは、ヨーガと真言密教と、
この二つをむすびつけて生まれた新しい技術であるということである。
なぜ、そういうことをしなければならなかったのか、というその理由を語ることはそのまま、密教の法を解説することにもなるので、読者はここのところをよく知っておいていただきたいのである。
引用文のなかにしるされているごとく、行きづまった大乗仏教は、ヨーガの技術にその打開の道を求めた。さきの頃で述べたごとく、精神の高度の飛躍は、その前提に、感覚器官の高度の増幅がなければならぬ。しかし、大乗仏教には教えだけあって、なんの技術もない。大乗仏教という教えであり、教えをあきらかにするだけのもので、技術というべきものはなんにもない。つい
に行きづまることは当然であり、やがてヨーガの技術に救いをもとめるのはさらに当然というべ
きことであった。
かくして、金剛大乗、真言密教が生まれた。ヨーガには、さきにあげた通り、ジョルジューオリヴィエ教授の表現を借りていえば、五つの能力開発技術がある。それは、①第四次元の理解、合複雑な全体をとっさに把握する能力、③第六感の獲得、④無限に発展した道徳意識、⑤とくに
われわれの悟性には不可解な精神的特質、というものであるが、これらの能力開発の技術は、それがそのまま大乗仏教にとり入れられたわけではない。おのずから、ひとつの偏向傾斜があった。
それは当然のことで、大乗仏教の指導者たちは、この技術を彼らの信奉する仏教教義とその目的に沿って取り入れた。一般的でないと思われる技術は捨てられ、あるいはごく一部の指導者にだけつたえられ、あるいは変形された。こうして秘密仏教というあたらしい教義と体系が完成した。しかし、多くのすぐれた開発技術は、この仏教教義を完成させるための補助的技術に変容さ
せられてしまった。あるいは形骸だけがとどめられた。これが、秘密仏教の「行法」であった。
これを究極的に完成したのは、日本密教、すなわち真言宗の開祖空海であった。秘密仏教がインドから中国につたえられ、そのころ中国にわたった空海がそれに接した時点において、秘密仏教はまだ完全にはできあかっていなかった。その混沌たる素材を取捨選択して、これをいま見る
真言宗というかたちにまとめ上げ、整然たる宗教にしたのは空海であった。それはまさに大天才のみがなしとげることのできる偉業であったが、同時に、秘密仏教はあまりにも整然と様式化された日本的なものになってしまった。それまでかなり残っていた密教的な部分はほとんどかげにかくれ、一-法」は、様式化された宗教儀式になってしまった。
しかし、それは、当時の目本の国情や、文化水準を背景にしたとき、やむを得ないことであったのである。というよりもむしろ当然であったというべきだろう。そうしなければ宗教として存
立することができなかったのである。
だが、そのために、いまいった通り「法」はその力を失った。宗教的に様式化され、儀式化されてしまった「法」では、真の能力開発は困難である。というよりもそれは絶望に近い しかし、それはそれでいいのだ。真言密教というものが、宗教であって能力関発の技術ではな
く、仏教という信仰のワクのなかで教えを説き礼拝をつづけているだけでよいなら、それはそれでいいだろう。それに、ほとんど儀式化された「法」であっても、天分のある才能が懸命の努力を集中するなら、「法」の成就も不可能ではない。やってやれないことはないのである。けれども、それは何世紀にひとりというような稀有の才能を必要とするのではないのか。そういうすぐれた頭脳によれば、様式化された法のあとをたどって、ついにその源泉に到達し、そのなかに秘められた法の技術を発見し、体得することもできよう。あるいはまた、頭脳ではなく、熱烈な信仰が、そこへ導いていってくれることもあるかも知れぬ。だが、それは、万人に期待できることではない。
要するに、真言密教成立の当時と全く時代が変ってしまった現在、真言密教が、他の宗教と根本的にちがうその本来の任務をほんとうに果たそうと思うならば、真言密教は大吝く変わらねばならぬ。真言密教はナみやかにその原点に立ちもどり、「法」を技術としてシステム化しなければならぬ。そうして、だれでもが平易にまなべる体系を編成ナることである。
それは決して「法」を解体し、「法」を壊滅してしまうことではない。むしろ、そうすることによって法が生きるのである。また、それは決して宗教の解体ではない。
法によって高い知的能力を得たならば、人はおのずから高い道徳意識、倫理観を持つものである。

人が宗教的教えを必要とナるのは、知的能力が低いからである。要するに、愚かだからである。人の道徳意識が低いのは、知能、精神能力が低いからだ。ほんとうに知能が高くなれば、人は、いま人類の持っている程度の宗教意識などけるかに超えたもっと高い倫理観を持つ。オリヴイエ教授のいう「無限に発展した道徳意識の保有」である。
教え(宗教)による人類の道徳意識の開発は、すでに限界に達してしまっている。
見よ。

地上にあまねくくりひろげられている人類のこの大愚行を。殺し合い、奪い合い、罵り合い。
どこに「知恵あるヒト」のおもかげがあるか? 「大愚人類」そのものではないか?
要するに、バカにいくら結構な教えを説いてもだめなのだということだ。
もっと忌憚なくいわしてもらうならば、(これは私がいうのではない。みんな密教の神サマが
おっしやるのであります)ちっとましなバカが、しょうのないバカに一心に教えを説いているというのが、いまの宗教のすがたというものではないのか?
宗教だけではない。科学と技術だってそうではないか。見さかいなくいい気になっていろんなものをつくり出し、あとで公害だ有害物質だと困っている。こういうおろかなことは、もう少し人類の知能が高くなったら、そんなバカなことはたのまれなくともしなくなる。要するに知能が低いからだ。
政治も、経済、思想も、みんなそうだと、あなたは真実思わないか?
要するに、すべて、″ヒトの知能が低い″ことに原因があるのである。
この世界を住みよく、たのしいものにするのには、革命ごっこよりもなによりもまず、ヒトの知能を高めることだ。そう、あなたは思わないか?
さて、話をもとにもどそう。
教えの限界とはヒトの知能の限界だ。
密教はその限界をうち破るのである。
技術によって超能力をあたえ、いっきょにヒトを改造して、宗教などという低い次元をいっぺんに飛び越し、想像を絶する叡智を持った、高い倫理的生物をつくり出そうというのだ。
それが、密教だ。
求闘持法《明星》の秘密

私はこのことを念力の護摩の修得に際してさとった。
先年、私は、念力の護摩法の伝授を受け、悉地成就の修行に入った。けれども、その行法の次
第を、何十ぺん何百。へんくり返しても、念力の火は出なかった。煙さえたちのぼる気配はなかっ
た。私かそのままその法の次第を忠実にくりかえしていたら、永久に念力の火は出なかったであ
ろう。出るはずがないのである。念力の護摩法の次第を、いくらくりかえしたって火は出ない。
そんなことで出るのだったら、今日までに、何百人、何千人の阿闇梨が念力の護摩を焚いていた
だろう。真言密教の念力の護摩法だけでは、ぜったいに火は出ない、それは、密教の技術によっ
て、サマーナ気を克服したとき(274頁参照)、はじめて肉体から火焔を発することができ、念力の
護摩は完成するのである。絶望した私は真言密教をはなれ、身を転じて古代インドの秘密経典に
むかった。
私はそこでインドの聖典、バガヴァットーギータを続み、そこに念力の護摩の秘法がかたられ
ていることを知った(口絵写真参照)。そこから、ギータと不二の関係にあるヨーガに入った。ヨ
ーガに本当の念力の護摩があることを知った。ヨーガにおける私のいのちがけの修行がはじまっ
た。ヨーガの技術でなければ念力の火は出ないことがわかったからである。真言密教の念力の護摩法次第は、ほんの心おぼえ程度のものに過ぎず、これでは、だれがどうしたって火の出るはずがなかった。いや、この肉体が火となるための「法」としては心おぼえ程度のものですらなく、むしろ、バガヴァツトーギータの聖句のほうが、はるかに示唆に富んでいるといえた。ヨーガの念力の護摩は、ただ単なる観想の羅列ではなく、どの生理器官をどのように統御しどのように動かすという現実的具体的な「技術」があった。この技術によってトレーニングすれば、多少なりと素質のある者だったら、必死の修行によって念力の火を出すことは不可能ではない。真言密教の念力護摩法次第だけでは、大天才といえども不可能にちかい難事である。この秘密を知らずして、古来、いく人の密教修行者が、念力の護摩の次第と秘伝を前に、血と汗の絶望をくりかえしたことであったろう。思えばツミな″次第″である。
これと全くおなじことが、真言密教につたえる「求聞持聡明法」についてもいうことができる。求闘持とは、古書に、『見聞覚知のことを憶持して長く忘れず、師なくして天地の感応を待つ、これを″求″といい、教なくして真如妙理を覚る。これを″聞″といい、一度覚るとながく忘れない、
これを″持″という』とあるように、求闘持法とは、ヒトの大脳を強化して、博覧強
卸、比類なき記憶力と聡明さをあたえる秘法であるが、これをなん十。へんなん百ぺん行法の次第通りに修行したところで、その結果は、おそらく念力の護摩とたいしてかわらない結果におわるであろう。生命を賭して修法すれば、多少の効果はあろうが、宗祖が体験を以て示したような霊験を得ることはまず難い。なぜならば、真言密教の「虚空蔵菩薩求聞持法」には印信観想による
精神集中の「法」はあるけれども、現実に生理器官である大脳皮質そのものを動かす「技術」を持っていないのである。ヨーガの「聡明法」は、どの器官をどう使ってどのように大脳皮質を動かすかという「技術」がある。また、それだけではない。根本的にちがうものがあるのである。
’それは、まったく根本的にちがう。
拙著「変身の原理」で求闘持聡明法についてかたって以来、私は、十指を越える真言僧侶、阿閉梨がたから、手紙あるいは直接、この法の修行について相談をうけた。そのほとんどは、自分も一度ないし数度にわたって求聞持法を修したが、いっさい効験がみられなかった。修法の行じかた、あるいは心構えに越法のところがあったのであろうかというのであった。また、何度か修してみて、あの行法にそんな神秘的な力がひそんでいようとは思われぬというものがあった。なかにはお気の毒にも健康を害してしまって、再起不能になったと訴えてきた阿閉梨もおられた。
お気の毒であるが、当然なのである。
真言密教の阿開梨がたが、いくら求闘持法をくりかえしても、成就できないのは当然なのである。もちろん、絶対に、とはいわない。万人に秀いでる天才、英才であったら、その極に達することができるかも知れぬ。しかしまず、不可能にちかいというべきだろう。
私か発見した密教の「求闘持法」でなければ、まず不可能にちかいといってよいであろう。こ
の法については章をあらためてくわしく書くが、ここで、求聞持法の秘密の一端を明かそう。まず、最初、真言密教の求聞持法を述べてみる。
『比の法を修するには、東南西三方の晴れたるところを最上とする。東方のみでも悪くはない。

道場の東壁に小窓をつくる。これは虚空蔵の似沢である明星の光を道場にさし入れるためである。また、朝日夕月の光を本尊にあてる意もあり、あるいは小窓に絹を張り、黄色の種字の字を書いて、そこから、明星の光をとおして本尊にあてるためでもある』
とまず場所を制定し、つぎに、さだめられた本尊の印明を百万べん、五十目あるいは百日に読誦するのであるが、日蝕または月蝕の時に結願するよう開白(はじめること)しなければならぬとある。
けれども、密教の求聞持法では、べつに場所はえらばぬのである。静かな場所でありさえすればよい。また、いつはじめてもよいのである。明星を拝するのも、行のはじめに際して、あるひととき、星と月に対すればよいのである。
また、これこそが密教のもっとも奥義とするところなのだが、弘法大師空海は、求聞持法の成就の体験を、
『―阿国大滝の岳にのぼりよじ、土州室戸の崎に勤念ナ。谷響を惜しまず、明星来影す。
言々』
と語っている。すなわち、阿波の大滝にのぼり、土佐の室戸岬でこの法の修行にはげんだところ、谷はこだまし、明星があらわれるなど、法にいわれている通り現証があり、法が成就した、
というのであるが、これは、空海のひとつの表現であって、これをそのまま鵜呑みにしてしまうからいけないのである。これはどこまでもひとつの表現なのだ。
伝にいわく、
『明星来影す、とは、結願のときに、香に火を置き、明星を拝するに、四方が暗く明星が見えねば悉地就成ではない。暗くても星が現ずれば下品の成就であり、四方が少々晴れて星が現ずれば中品、天に暗なく、ことごとく晴れて星現ずれば成就、四方が晴れても星現ぜざれば悉地成せざるなり』
とあるが、これがちがうのである。まるっきりちがう。
こういう口伝や奥伝をたよりにいくら修行しても、気の毒だが、求聞持法は成就しない。
明星とは現実の明星ではないのである。
大脳のある部分をある方法で刺激すると、目の前に光が見えるのである。
その光は、かたちも色も大きさも、いろいろに見えるが、意識を記憶の座に向けて沈静させる
と、つめたい、やや黄色みを帯びた白銀色になって、しずかに目のなかでまたたく。それはちょうど明星そっくりに見えるのである。
これが明星なのだ!
268頁をもう一度、読みかえしていただこう。
″頭のかかの光明に日を向けるならば″
とある。これがそれなのである。
ある特殊なトレーニングにより、この部位(大脳の視床下部のあたり)の刺激が、目のなかに光を浮かばせるのである。目をある角度に向けると、目を開けていても閉じていても、ポッカリと光が浮かんで見える。
この光が見えるようになると、記憶の座が自由にあやっれるようになるばかりでなく、さまざまな、奇蹟としか思えぬような力がついてくる。
これが、「求聞持法」の明星の秘密である。大空を百年ながめて空中の明星を見つめていても、ムダだ。明星はわが大脳のなかにあるのだからI。
このことは、密教五〇〇〇年の歴史に、私がはじめてっかんだ秘密である。私以外にこれを知る者はついになかった。求闘持法の秘密を私はついにつかんだ。私はそれを誇りに思う。
これをもとにして、私は、私の「求闘持聡明法」を編成した。これは、今までの「法」などというアイマイなものではない。生化学と生理学をもとにした「技術」である。正しい指導のもとに訓練を積めば、必ず、だれでもできるようになる技術である。
本来ならば、こういうことは私の、「太極秘伝」として、ごくかぎられた者だけにひそかにつたえてゆくべきものなのだろう。だが、私はこれをひろく公開する。なぜならば、私は、世界中の人びとがこの法によって知能を高め、いっさいの愚行-殺し合い、奪い合い、罵り合い、にくみ合いから遠ざかってほしいのである。
求聞持聡明法は、人の知能を三倍にナる。
しかし、その半分でもよい。人類の知能が今の水準より平均一・五倍飛躍したら、この世
から、犯罪も戦争もいっさいなくなる。そういうものがあるのは、人間が愚かだからだ。求闘持法によって知能指数が倍加したら、そういうものがいかに愚かで馬鹿々々しいことか、大人が子
供のヶンカが馬鹿々々しくて見ていられないように、いっさい、しなくなる。
私や、私の周囲のごく一部の者が、この法によっていくら賢くなろうとも、それがなにになろう。世界の大勢にどれはどの影響があろう。よしんば、私か、この法によって、古今無比の大聖者と仰がれるほどの力を持とうとも、世界のどこかで、権力を握っている馬鹿が、核バクダンのボタンをひとつ押したら、それっきりなのである。世界中はふっ飛んでしまう、古今無比の大聖
者もいっしよに!
まあ、古今無比の大聖者ともなれば、事前にそれくらい察知して、安全な所に待避してしまうであろうが、世界中が壊滅して、助かった者も核の灰に汚染されて半死半生ばかりという世のなかに、自分とごく少数の一族だけが生き残ってなにになろう。ノアの方舟の時とは状況が全くちがうのである。
このままでゆけば、核戦争がはじまるのはぜったい確実である。私にははっきりそれがわかる。この大愚行だけはやめさせなければならぬ。
革命よりも、階級闘争よりも、人種闘争よりも、なによりも、いま、人類に必要なのはこれだ。これが根本的に人類を救う道だ、とそう私は思う。ヒトの知能が二倍になったら、いま、人類がかかえているあらゆる問題はすべて解決してしまう。そう、あなたも思わないか?
私か、この求聞持法を惜しげもなく公開し、ひとりでも多く、一目でも早く、修得してほしいとねがうのは、そのためなのだ。
さて、はなしが少々よこにそれたが、この大脳の部位のことは、インドのヨーガの指導者も知っており、ヨーガのほうでは、この部位のことを、
「頭のなかの光座の座」
とか、
「梵の座、梵の裂け目」(brahma randhro
とか、
「サハスララーチャクラ」
と名づけ、頭の中の光明がかがやいている部分であると考えている。しかし、これも解釈がちがっている。
頭のなかに光明がかがやいているのではない。私の発見した求闘持法とおなじ原理である。大脳のある部位を、あるエネルギーで刺激すると、あるひとつの物質が分泌され、それが脳の神経組織を刺激して、目に光を感じさせる。                  『- それが、頭と目の微妙な角度のちがい、刺激の相違で、目のなか、目の前、および、頭のなか、というように、光の浮かぶ場所がちがうのである。
求聞特法の湯合は、目の前の、やや上方、ニメートルから三メートルくらいのところに浮かんでみえる。目の角度と、瞳孔の絞りかたによっては、はるか遠くの空に小さくかがやくように
(ちょうど明星のように)見えないこともない。もし、人里はなれた山のなかであったら、明けの明星のように見えることもできるだろう。私の経験では、目のななめ上方一メートル内外のところに見えるようにするのが、一番、″上品″のようである。
目を閉じて、目の奥の上方、つまり、ヨーガでいう”梵の座”のあたりに、光明を感じさせる
技術は、頭の角度と、脳の刺激する揚所が、求聞特法と少しちがう。したがって、これは、求聞持法ではなく、ちがう力を発現する。また別な法である。この法については、またあとで別に章をもうけて説明しよう。

(サマーナ気統御の技術》と《護摩法》の合体
おなじような例がいくっもある。
たとえば″五相成身観”である。
これは、真言宗徒がかならずおさめねばならぬ金剛界法という法のなかにあり、密教門でもと
くに重要な観法とされる行法である。
凡夫がホトヶという超能力者になるまでの過程を五つに分け、修行者は、ひとつひとつその境界を体験してゆくのであるが、これが、いずれも密教の重要な修行課目になっており、あきらか
に密教から出たものであることがわかる。
しかも、真言密教では、印と観想の二つからなる”観法″であるが、密教においては、観法だ
けではなく、特殊な技術による鍛 練によって生理的器官を動かし、実際に五つの境界に対応す
る力をつける訓練となっている。
また、真言密教においてもっとも重要とされる金剛界九会マンダラもそうである。金剛界九会
マンダラは、凡夫がホトケになる九つの段階と、ホトケというものの力、ホトケのはたらきを図
像にえがきあらわしたものであるが、要するに、ホトケの説明である。
もっとも、真言密教は、このマンダラにもとづいて、前記した金剛界法という行法を編成し、
。観法″によってこれを修行者に体得させようとする。これは、一般仏教、顕教が、その修行方
法として、ただ、経典の読誦と、念仏、唱名題目しか持だないのに対し、一段と進歩したすぐれ
た修行方法であるというべきだが、しかし、これも、真言密教が″観法”だけであるのに対し、
密教は、九会マンダラにあらわされた九つの力を実際に体得させる訓練技術を持っている。
例をあげれば、微細会マンダラがそうである。これは九会マンダラのなかの東南方に位するマ
ンダラで、ホトケの微妙幽玄にして不可思議なる智恵の力とはたらきをあらわすものである。
密教には、実際にこの力を生ぜしめる訓練がある。
真言密教では、ただ、。観想″による″観法″しかない。現実にそういう″力″を持たせると
ころの″技術″がない。
276頁を見ていただこう。
。あきらかに、微細会マンダラは、ヨーガのこの訓練から出ている。ナくなくとも、この訓練に
よって得られる力を背景にしたものであることは間違いない。
これは、密教の技術で、胸の部分の或る部位に力を集中することによって得られる力である。
-こうしてみてくると、真言密教がとるべき道は、おのずから明らかであるといわねばなるまい。真言密教の行法は、密教の技法をとり入れることにより、本当の力が生ずるのではないのか?
そういうと、密教がそんなにすぐれたものであるというなら、密教は真言密教をはなれて、密教独自の道を歩んだらよいではないかという意見が出るかも知れない。その通りである。それでもよいのだ。そういう道もあると私も思う。
しかし、それにもかかわらず、私か真言密教にある価値を見出すのは、その表現様式である。おもしろいことだと思う。
様式だけになってしまっている(と私が思う)真言密教の、その様式が、なかなか貴重なのだ。
私が体得した密教の秘奥の技術を、さて、どのように表現しようかと、その様式を考えてゆくと、結局、真言密教の様式がいちばん便利なのである。たとえば、私の体得創案した「求聞持法」は、ヨーガの技術から発見したもので、真言密教の「求聞持法」とは全然ちがう。そのことは、前の項でおわかりになったことと思う。

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Syuyu Kiriyama Author

 そんなことがほんとうにできるのか? いったいどうやってそんなことができるのだ、と。

 それもたしかにもっともなことで、私自身、身をもってこの密教の秘密に挑戦し、自分でこの

技術を解明するまでは、ぜったいに信ずることができなかった。私は単身、五〇〇〇年の間秘密

のヴェールにつっまれてきたこの不思議な技術にいどみ、その秘密を解いた。それは、信ずるこ

とのできないほど精緻微妙な生化学に立脚したおどろくべき技術の応用であった。

 たとえば、

 さきにもちょっとふれたが、市川亀久弥博士は、最近の著作のなかお得意の

「等価変換展開理論」にもとづき、イモ虫からサナギヘの変化を例にして未来社会への脱皮を説

いておられる。この理論はまことにみごとで、まさにほれぼれするほどあざやかである。こと

に、イモ虫がサナギに変身する理論的うらづけは、近来しきりに輩出する未来論のなかで、まさ

に出 色のものであるというべきである。

 ただ、まことに残念なことに、それは理論と説明と期待にとどまり、それをいかにヒトに応用

して実現させるかという方法を示していない。それは、もちろん、氏自身、同書のはしがきのな

かで、これは、″単に人類のあるべき未来社会に関するソフトーウェアの主張の範囲にとどまる

ものである”とことわり、この。ソフトーウェアに対するハードーウェアの具体的な提唱″は

″旺い将七に公長する~定である″ということであるから、われわれはまさに刮目してそれを待、ぐに、その″ソフトーウにアに対するハード・

ウェアの具体的な技術″を持っているのである。密教は、その持つ技術のひとつに、この市川理

論の「イモ虫からサナギヘの脱皮」技術を持っていて、数千年も前から、それをヒトの変身技術

に応用、実践していたのである。

 密教は、現代の創造理論の大家が提唱する未来に関する花形理論を、とうに実践していたので

ある。五〇〇〇年も前にI。

 地を這いまわることしか知らぬ生物であるイモ虫が、サナギになり、そして、空を舞う生物に

変身することは、二次元の世界に生きる生物が三次元生物に変化したことを意味するものだ。密

教がおなじ技術をもってヒトを変身させることは、三次元生物であるヒトをそれより上の次元に

飛躍させることを意味する。密教の変身技術はそれなのである。その生物の次元を変えてしまう

のだ。

 しかも、それは、今までいわれてきたように、ただ神秘的、神がかり的なアイマイな方法でな

く、適確な生化学の技術をもっておこなうのだ。そうしてそれは密教の持ついくつかの技術のな

かのひとつに過ぎない。

 いったい、どんな智恵がそれをなしとげていたというのであろうか? 密教の技術を神秘とい

うのなら、その点をこそ神秘というべきだろう。しかし、それは、それこそまさに数千年生え出

現した超・ヒトが、孤独にたえつつ、その持つ人類最高の智恵「照明智」を駆使してつくり上げ

た未来人のためのカリキュラムにほかならぬのだというよりはかないであろう。

 

 さて、それでは、密教の技術に関係のある市川理論「等価変換展開理論」とはどんな理論か?

それがどのように密教の技術と関連があるのか?

 それを説くまえに、もう少し知っておいていただかねばならぬことがある。

 ここで、私は、密教とヨーガという二つのことばについて述べておかねばならぬと思うのだ。

 拙著「変身の原理」で、私は、密教についてっぎのように述べた。少し長いが引用してみる。

 『真言宗という宗派仏教と、密教すなわち秘密仏教とは、ふかいつながりかおる。だが、それは

どこまでもふかいつながりという関係であって、普通考えられているように、密教即真言宗、真

言宗即密教というものではないのである。

 真言宗とは、インドにおいて発生し、大成した密教を、ああいう独白の形に体系化し、組織化

したものであって、密教そのものではないのである。密教のひとつの体系ではあるけれども、密

教そのものではない。

 それは、それまでにほぼ完成していたけれども、分派し、多様化していたインド密教を日本密

教の開祖空海が、独自の見識と叡智によって、ひとつの体系につくりあげたということである。

 おなじように、天台宗においても、天台密教というひとつの密教体系を組織完成しており、こ

れもまた、密教のひとつの流れということである。

 そういうわけで、密教というものを正しく理解するためには、どうしても、]度、密教の原点

に立ちもどって考えてみなければならないのである。

 密教は、最初、ひとつの手法(技術)であった。

 けっして、最初から密教というひとつの宗教があったわけではない。

 ゴータマーブッダがあらわれて、仏教というあたらしい教えを説きはじめるはるか以前、バラ

モンの時代から、インドには、入に超能力をあたえるひとつの手法があった。そういう手法が完

成されて、一部の人たちの間につたえられていた。それは、精神と肉体のきびしい錬磨から得ら

れる神秘的な力で、彼らは、それを、ひとつの技術にまでっくりあげていた。

 われわれは、その流れのひとつを、現在、ヨーガのなかに見ることができる。(ただしそれは、

いまの日本で行なわれているアクロバティックな体操のヨーガではない。ヒマラヤの奥地の聖者

たちの間に伝承されている正統ヨーガである)

 ヨーガは、その手法のひとつの流れである。この超能力を開発する技術は、仏教があらわれる

以前においてはバラモンにとり入れられ、仏教があらわれると、仏教もまたこれをとり入れた。

 ゴータマーブッダは、かれ自身、この手法をまなんで、これにより超能力を持ったが、弟子た

ちにはこれを学ぶことを禁じた。なぜかというと、この技法によって多少の力がつくと、かれら

はすぐにそれがブッダのいう「ホトケ」という境地に達したものと考えてしまい

げになるからであった。

 ただし一部の、素質のきわめてすぐれた弟子たちには、ひそかにこれを許した。

 ゴータマーブッダは、普通、神秘的な力を信じたり、修行者がそういう力を持つことを願った

りするのを全く禁じたというように、仏教学者や仏教者は信じているようであるが、それは間違

いで、ブッダ自身、神足({乱石の教理、すなわち、仏道を完全に成就するためには超自然的な

力が必要であるとし、超人間的な能力開発の訓練法を説いているのである。これは、パーリ文献

によって容易に証明することができるのである。(略)

 それによると、それは、″四神足“または、″四如意足″ともいわれる超能力開発法である。

 ブッダは、菩提を成就するためには、単に、知性や理性をみがくだけでは不十分であると考

え、知性や理性の限界をうち破る力が必要であると考えた。

 そのために、彼は、そういう力を開発するための行法をつくりあげた。それは、彼が学んだ超

能力開発法を加えて編成したものと見てよいであろう。

 それは、三十七種の技法から成り立つもので、四神足というのは、その中心になる技術であ

る。神通、如意を得るための定を、四種類の手法に分けて説明している。

  欲神足(願望、理想、創造のためのアプローチ)

  勤神足(体と心のトレーニング法)

  心神足(潜在意識のトレーニング法)

   観神足(深層意識のトレーニング法)

  きづまりを打破するために、大乗仏教のなかにとり入れられて体系化され、密教と呼ばれになったのである。いうわけで、密教は二つの面を持っている。

  一つは、超能力の開発技術

  一つは、大乗仏教の教義

 この二つである。

 この二つのものがむすばれることにより、大乗仏教よりさらに高度の教義が完成されて、「金

剛大乗」と呼ばれる新しい仏教が誕生した。これが密教である』

 -との引用の文章でわかるように、「変身の原理Lにおいて語られている「密教」というコ

トバは、「秘密仏教」という意味での「密教」である。仏教のなかにとり入れられた、いわゆる

真言密教、あるいは真言宗密教の密教である。

 しかし、本書において私がいう「密教」は、それらの密教、「変身の原理」のなかで使われて

いる密教とは全くちがうものであることを、読者はご承知ありたいのである。

 

 本書における「密教」とは、真言密教以前、いうならば仏教にとり入れられる以前の、いや、

バラモンにさえもとり入れられる以前の、引用文でいえば4  R教は最初、ひとつの手法(技術)であった。ゴータマーブッダがあらわれて、仏教というあたらしい教えを説きはじめるはる

か以前、バラモン時代から、インドには、入に超能力をあたえるひとつの手法があった。そういう手法が完成されて、一部の人たちの間につたえられていた。それは、精神と肉体のきびしい錬磨から得られる神秘的な力で、彼らは、それを、ひとつの技術にまでっくりあげていた。と

あるその「技術」、つまり、いうならば、″古代マーガ″と″真言密教″と、この二つを結合したものであると承知していただきたいのである。即ち本書でいう密教とは、ヨーガと真言密教と、

この二つをむすびつけて生まれた新しい技術であるということである。

 なぜ、そういうことをしなければならなかったのか、というその理由を語ることはそのまま、密教の法を解説することにもなるので、読者はここのところをよく知っておいていただきたいのである。

 引用文のなかにしるされているごとく、行きづまった大乗仏教は、ヨーガの技術にその打開の道を求めた。さきの頃で述べたごとく、精神の高度の飛躍は、その前提に、感覚器官の高度の増幅がなければならぬ。しかし、大乗仏教には教えだけあって、なんの技術もない。大乗仏教という教えであり、教えをあきらかにするだけのもので、技術というべきものはなんにもない。つい

に行きづまることは当然であり、やがてヨーガの技術に救いをもとめるのはさらに当然というべ

きことであった。

 かくして、金剛大乗、真言密教が生まれた。ヨーガには、さきにあげた通り、ジョルジューオリヴィエ教授の表現を借りていえば、五つの能力開発技術がある。それは、①第四次元の理解、合複雑な全体をとっさに把握する能力、③第六感の獲得、④無限に発展した道徳意識、⑤とくに

われわれの悟性には不可解な精神的特質、というものであるが、これらの能力開発の技術は、それがそのまま大乗仏教にとり入れられたわけではない。おのずから、ひとつの偏向傾斜があった。

 それは当然のことで、大乗仏教の指導者たちは、この技術を彼らの信奉する仏教教義とその目的に沿って取り入れた。一般的でないと思われる技術は捨てられ、あるいはごく一部の指導者にだけつたえられ、あるいは変形された。こうして秘密仏教というあたらしい教義と体系が完成した。しかし、多くのすぐれた開発技術は、この仏教教義を完成させるための補助的技術に変容さ

せられてしまった。あるいは形骸だけがとどめられた。これが、秘密仏教の「行法」であった。

 これを究極的に完成したのは、日本密教、すなわち真言宗の開祖空海であった。秘密仏教がインドから中国につたえられ、そのころ中国にわたった空海がそれに接した時点において、秘密仏教はまだ完全にはできあかっていなかった。その混沌たる素材を取捨選択して、これをいま見る

真言宗というかたちにまとめ上げ、整然たる宗教にしたのは空海であった。それはまさに大天才のみがなしとげることのできる偉業であったが、同時に、秘密仏教はあまりにも整然と様式化された日本的なものになってしまった。それまでかなり残っていた密教的な部分はほとんどかげにかくれ、一-法」は、様式化された宗教儀式になってしまった。

 しかし、それは、当時の目本の国情や、文化水準を背景にしたとき、やむを得ないことであったのである。というよりもむしろ当然であったというべきだろう。そうしなければ宗教として存

立することができなかったのである。

 だが、そのために、いまいった通り「法」はその力を失った。宗教的に様式化され、儀式化されてしまった「法」では、真の能力開発は困難である。というよりもそれは絶望に近い しかし、それはそれでいいのだ。真言密教というものが、宗教であって能力関発の技術ではな

く、仏教という信仰のワクのなかで教えを説き礼拝をつづけているだけでよいなら、それはそれでいいだろう。それに、ほとんど儀式化された「法」であっても、天分のある才能が懸命の努力を集中するなら、「法」の成就も不可能ではない。やってやれないことはないのである。けれども、それは何世紀にひとりというような稀有の才能を必要とするのではないのか。そういうすぐれた頭脳によれば、様式化された法のあとをたどって、ついにその源泉に到達し、そのなかに秘められた法の技術を発見し、体得することもできよう。あるいはまた、頭脳ではなく、熱烈な信仰が、そこへ導いていってくれることもあるかも知れぬ。だが、それは、万人に期待できることではない。

 要するに、真言密教成立の当時と全く時代が変ってしまった現在、真言密教が、他の宗教と根本的にちがうその本来の任務をほんとうに果たそうと思うならば、真言密教は大吝く変わらねばならぬ。真言密教はナみやかにその原点に立ちもどり、「法」を技術としてシステム化しなければならぬ。そうして、だれでもが平易にまなべる体系を編成ナることである。

 それは決して「法」を解体し、「法」を壊滅してしまうことではない。むしろ、そうすることによって法が生きるのである。また、それは決して宗教の解体ではない。

 法によって高い知的能力を得たならば、人はおのずから高い道徳意識、倫理観を持つものである。

 

 人が宗教的教えを必要とナるのは、知的能力が低いからである。要するに、愚かだからである。人の道徳意識が低いのは、知能、精神能力が低いからだ。ほんとうに知能が高くなれば、人は、いま人類の持っている程度の宗教意識などけるかに超えたもっと高い倫理観を持つ。オリヴイエ教授のいう「無限に発展した道徳意識の保有」である。

 教え(宗教)による人類の道徳意識の開発は、すでに限界に達してしまっている。

 見よ。

 

 地上にあまねくくりひろげられている人類のこの大愚行を。殺し合い、奪い合い、罵り合い。

 どこに「知恵あるヒト」のおもかげがあるか? 「大愚人類」そのものではないか?

 要するに、バカにいくら結構な教えを説いてもだめなのだということだ。

 もっと忌憚なくいわしてもらうならば、(これは私がいうのではない。みんな密教の神サマが

おっしやるのであります)ちっとましなバカが、しょうのないバカに一心に教えを説いているというのが、いまの宗教のすがたというものではないのか?

 宗教だけではない。科学と技術だってそうではないか。見さかいなくいい気になっていろんなものをつくり出し、あとで公害だ有害物質だと困っている。こういうおろかなことは、もう少し人類の知能が高くなったら、そんなバカなことはたのまれなくともしなくなる。要するに知能が低いからだ。

 政治も、経済、思想も、みんなそうだと、あなたは真実思わないか?

 要するに、すべて、″ヒトの知能が低い″ことに原因があるのである。

 この世界を住みよく、たのしいものにするのには、革命ごっこよりもなによりもまず、ヒトの知能を高めることだ。そう、あなたは思わないか?

 さて、話をもとにもどそう。

 教えの限界とはヒトの知能の限界だ。

 密教はその限界をうち破るのである。

 技術によって超能力をあたえ、いっきょにヒトを改造して、宗教などという低い次元をいっぺんに飛び越し、想像を絶する叡智を持った、高い倫理的生物をつくり出そうというのだ。

 それが、密教だ。

求闘持法《明星》の秘密

 

 私はこのことを念力の護摩の修得に際してさとった。

 先年、私は、念力の護摩法の伝授を受け、悉地成就の修行に入った。けれども、その行法の次

第を、何十ぺん何百。へんくり返しても、念力の火は出なかった。煙さえたちのぼる気配はなかっ

た。私かそのままその法の次第を忠実にくりかえしていたら、永久に念力の火は出なかったであ

ろう。出るはずがないのである。念力の護摩法の次第を、いくらくりかえしたって火は出ない。

そんなことで出るのだったら、今日までに、何百人、何千人の阿闇梨が念力の護摩を焚いていた

だろう。真言密教の念力の護摩法だけでは、ぜったいに火は出ない、それは、密教の技術によっ

て、サマーナ気を克服したとき(274頁参照)、はじめて肉体から火焔を発することができ、念力の

護摩は完成するのである。絶望した私は真言密教をはなれ、身を転じて古代インドの秘密経典に

むかった。

 私はそこでインドの聖典、バガヴァットーギータを続み、そこに念力の護摩の秘法がかたられ

ていることを知った(口絵写真参照)。そこから、ギータと不二の関係にあるヨーガに入った。ヨ

ーガに本当の念力の護摩があることを知った。ヨーガにおける私のいのちがけの修行がはじまっ

た。ヨーガの技術でなければ念力の火は出ないことがわかったからである。真言密教の念力の護摩法次第は、ほんの心おぼえ程度のものに過ぎず、これでは、だれがどうしたって火の出るはずがなかった。いや、この肉体が火となるための「法」としては心おぼえ程度のものですらなく、むしろ、バガヴァツトーギータの聖句のほうが、はるかに示唆に富んでいるといえた。ヨーガの念力の護摩は、ただ単なる観想の羅列ではなく、どの生理器官をどのように統御しどのように動かすという現実的具体的な「技術」があった。この技術によってトレーニングすれば、多少なりと素質のある者だったら、必死の修行によって念力の火を出すことは不可能ではない。真言密教の念力護摩法次第だけでは、大天才といえども不可能にちかい難事である。この秘密を知らずして、古来、いく人の密教修行者が、念力の護摩の次第と秘伝を前に、血と汗の絶望をくりかえしたことであったろう。思えばツミな″次第″である。

 これと全くおなじことが、真言密教につたえる「求聞持聡明法」についてもいうことができる。求闘持とは、古書に、『見聞覚知のことを憶持して長く忘れず、師なくして天地の感応を待つ、これを″求″といい、教なくして真如妙理を覚る。これを″聞″といい、一度覚るとながく忘れない、

これを″持″という』とあるように、求闘持法とは、ヒトの大脳を強化して、博覧強

卸、比類なき記憶力と聡明さをあたえる秘法であるが、これをなん十。へんなん百ぺん行法の次第通りに修行したところで、その結果は、おそらく念力の護摩とたいしてかわらない結果におわるであろう。生命を賭して修法すれば、多少の効果はあろうが、宗祖が体験を以て示したような霊験を得ることはまず難い。なぜならば、真言密教の「虚空蔵菩薩求聞持法」には印信観想による

精神集中の「法」はあるけれども、現実に生理器官である大脳皮質そのものを動かす「技術」を持っていないのである。ヨーガの「聡明法」は、どの器官をどう使ってどのように大脳皮質を動かすかという「技術」がある。また、それだけではない。根本的にちがうものがあるのである。

 ’それは、まったく根本的にちがう。

 拙著「変身の原理」で求闘持聡明法についてかたって以来、私は、十指を越える真言僧侶、阿閉梨がたから、手紙あるいは直接、この法の修行について相談をうけた。そのほとんどは、自分も一度ないし数度にわたって求聞持法を修したが、いっさい効験がみられなかった。修法の行じかた、あるいは心構えに越法のところがあったのであろうかというのであった。また、何度か修してみて、あの行法にそんな神秘的な力がひそんでいようとは思われぬというものがあった。なかにはお気の毒にも健康を害してしまって、再起不能になったと訴えてきた阿閉梨もおられた。

 お気の毒であるが、当然なのである。

 真言密教の阿開梨がたが、いくら求闘持法をくりかえしても、成就できないのは当然なのである。もちろん、絶対に、とはいわない。万人に秀いでる天才、英才であったら、その極に達することができるかも知れぬ。しかしまず、不可能にちかいというべきだろう。

 私か発見した密教の「求闘持法」でなければ、まず不可能にちかいといってよいであろう。こ

の法については章をあらためてくわしく書くが、ここで、求聞持法の秘密の一端を明かそう。まず、最初、真言密教の求聞持法を述べてみる。

『比の法を修するには、東南西三方の晴れたるところを最上とする。東方のみでも悪くはない。

 

道場の東壁に小窓をつくる。これは虚空蔵の似沢である明星の光を道場にさし入れるためである。また、朝日夕月の光を本尊にあてる意もあり、あるいは小窓に絹を張り、黄色の種字の字を書いて、そこから、明星の光をとおして本尊にあてるためでもある』

 とまず場所を制定し、つぎに、さだめられた本尊の印明を百万べん、五十目あるいは百日に読誦するのであるが、日蝕または月蝕の時に結願するよう開白(はじめること)しなければならぬとある。

 けれども、密教の求聞持法では、べつに場所はえらばぬのである。静かな場所でありさえすればよい。また、いつはじめてもよいのである。明星を拝するのも、行のはじめに際して、あるひととき、星と月に対すればよいのである。

 また、これこそが密教のもっとも奥義とするところなのだが、弘法大師空海は、求聞持法の成就の体験を、

 『―阿国大滝の岳にのぼりよじ、土州室戸の崎に勤念ナ。谷響を惜しまず、明星来影す。

 言々』

 と語っている。すなわち、阿波の大滝にのぼり、土佐の室戸岬でこの法の修行にはげんだところ、谷はこだまし、明星があらわれるなど、法にいわれている通り現証があり、法が成就した、

というのであるが、これは、空海のひとつの表現であって、これをそのまま鵜呑みにしてしまうからいけないのである。これはどこまでもひとつの表現なのだ。

 伝にいわく、

 『明星来影す、とは、結願のときに、香に火を置き、明星を拝するに、四方が暗く明星が見えねば悉地就成ではない。暗くても星が現ずれば下品の成就であり、四方が少々晴れて星が現ずれば中品、天に暗なく、ことごとく晴れて星現ずれば成就、四方が晴れても星現ぜざれば悉地成せざるなり』

 とあるが、これがちがうのである。まるっきりちがう。

 こういう口伝や奥伝をたよりにいくら修行しても、気の毒だが、求聞持法は成就しない。

 明星とは現実の明星ではないのである。

 大脳のある部分をある方法で刺激すると、目の前に光が見えるのである。

 その光は、かたちも色も大きさも、いろいろに見えるが、意識を記憶の座に向けて沈静させる

と、つめたい、やや黄色みを帯びた白銀色になって、しずかに目のなかでまたたく。それはちょうど明星そっくりに見えるのである。

 これが明星なのだ!

 268頁をもう一度、読みかえしていただこう。

  ″頭のかかの光明に日を向けるならば″

 とある。これがそれなのである。

 ある特殊なトレーニングにより、この部位(大脳の視床下部のあたり)の刺激が、目のなかに光を浮かばせるのである。目をある角度に向けると、目を開けていても閉じていても、ポッカリと光が浮かんで見える。

 この光が見えるようになると、記憶の座が自由にあやっれるようになるばかりでなく、さまざまな、奇蹟としか思えぬような力がついてくる。

 これが、「求聞持法」の明星の秘密である。大空を百年ながめて空中の明星を見つめていても、ムダだ。明星はわが大脳のなかにあるのだからI。

 このことは、密教五〇〇〇年の歴史に、私がはじめてっかんだ秘密である。私以外にこれを知る者はついになかった。求闘持法の秘密を私はついにつかんだ。私はそれを誇りに思う。

 これをもとにして、私は、私の「求闘持聡明法」を編成した。これは、今までの「法」などというアイマイなものではない。生化学と生理学をもとにした「技術」である。正しい指導のもとに訓練を積めば、必ず、だれでもできるようになる技術である。

 本来ならば、こういうことは私の、「太極秘伝」として、ごくかぎられた者だけにひそかにつたえてゆくべきものなのだろう。だが、私はこれをひろく公開する。なぜならば、私は、世界中の人びとがこの法によって知能を高め、いっさいの愚行-殺し合い、奪い合い、罵り合い、にくみ合いから遠ざかってほしいのである。

 求聞持聡明法は、人の知能を三倍にナる。

 しかし、その半分でもよい。人類の知能が今の水準より平均一・五倍飛躍したら、この世

から、犯罪も戦争もいっさいなくなる。そういうものがあるのは、人間が愚かだからだ。求闘持法によって知能指数が倍加したら、そういうものがいかに愚かで馬鹿々々しいことか、大人が子

供のヶンカが馬鹿々々しくて見ていられないように、いっさい、しなくなる。

 私や、私の周囲のごく一部の者が、この法によっていくら賢くなろうとも、それがなにになろう。世界の大勢にどれはどの影響があろう。よしんば、私か、この法によって、古今無比の大聖者と仰がれるほどの力を持とうとも、世界のどこかで、権力を握っている馬鹿が、核バクダンのボタンをひとつ押したら、それっきりなのである。世界中はふっ飛んでしまう、古今無比の大聖

者もいっしよに!

 まあ、古今無比の大聖者ともなれば、事前にそれくらい察知して、安全な所に待避してしまうであろうが、世界中が壊滅して、助かった者も核の灰に汚染されて半死半生ばかりという世のなかに、自分とごく少数の一族だけが生き残ってなにになろう。ノアの方舟の時とは状況が全くちがうのである。

 このままでゆけば、核戦争がはじまるのはぜったい確実である。私にははっきりそれがわかる。この大愚行だけはやめさせなければならぬ。

 革命よりも、階級闘争よりも、人種闘争よりも、なによりも、いま、人類に必要なのはこれだ。これが根本的に人類を救う道だ、とそう私は思う。ヒトの知能が二倍になったら、いま、人類がかかえているあらゆる問題はすべて解決してしまう。そう、あなたも思わないか?

 私か、この求聞持法を惜しげもなく公開し、ひとりでも多く、一目でも早く、修得してほしいとねがうのは、そのためなのだ。

 さて、はなしが少々よこにそれたが、この大脳の部位のことは、インドのヨーガの指導者も知っており、ヨーガのほうでは、この部位のことを、

 「頭のなかの光座の座」

 とか、

 「梵の座、梵の裂け目」(brahma randhro

 とか、

 「サハスララーチャクラ」

 と名づけ、頭の中の光明がかがやいている部分であると考えている。しかし、これも解釈がちがっている。

 頭のなかに光明がかがやいているのではない。私の発見した求闘持法とおなじ原理である。大脳のある部位を、あるエネルギーで刺激すると、あるひとつの物質が分泌され、それが脳の神経組織を刺激して、目に光を感じさせる。                  『- それが、頭と目の微妙な角度のちがい、刺激の相違で、目のなか、目の前、および、頭のなか、というように、光の浮かぶ場所がちがうのである。

 求聞特法の湯合は、目の前の、やや上方、ニメートルから三メートルくらいのところに浮かんでみえる。目の角度と、瞳孔の絞りかたによっては、はるか遠くの空に小さくかがやくように

(ちょうど明星のように)見えないこともない。もし、人里はなれた山のなかであったら、明けの明星のように見えることもできるだろう。私の経験では、目のななめ上方一メートル内外のところに見えるようにするのが、一番、″上品″のようである。

 目を閉じて、目の奥の上方、つまり、ヨーガでいう”梵の座”のあたりに、光明を感じさせる

技術は、頭の角度と、脳の刺激する揚所が、求聞特法と少しちがう。したがって、これは、求聞持法ではなく、ちがう力を発現する。また別な法である。この法については、またあとで別に章をもうけて説明しよう。

 

(サマーナ気統御の技術》と《護摩法》の合体

 おなじような例がいくっもある。

 たとえば″五相成身観”である。

 これは、真言宗徒がかならずおさめねばならぬ金剛界法という法のなかにあり、密教門でもと

くに重要な観法とされる行法である。

 凡夫がホトヶという超能力者になるまでの過程を五つに分け、修行者は、ひとつひとつその境界を体験してゆくのであるが、これが、いずれも密教の重要な修行課目になっており、あきらか

に密教から出たものであることがわかる。

 しかも、真言密教では、印と観想の二つからなる”観法″であるが、密教においては、観法だ

けではなく、特殊な技術による鍛 練によって生理的器官を動かし、実際に五つの境界に対応す

る力をつける訓練となっている。

 また、真言密教においてもっとも重要とされる金剛界九会マンダラもそうである。金剛界九会

マンダラは、凡夫がホトケになる九つの段階と、ホトケというものの力、ホトケのはたらきを図

像にえがきあらわしたものであるが、要するに、ホトケの説明である。

 もっとも、真言密教は、このマンダラにもとづいて、前記した金剛界法という行法を編成し、

。観法″によってこれを修行者に体得させようとする。これは、一般仏教、顕教が、その修行方

法として、ただ、経典の読誦と、念仏、唱名題目しか持だないのに対し、一段と進歩したすぐれ

た修行方法であるというべきだが、しかし、これも、真言密教が″観法”だけであるのに対し、

密教は、九会マンダラにあらわされた九つの力を実際に体得させる訓練技術を持っている。

 例をあげれば、微細会マンダラがそうである。これは九会マンダラのなかの東南方に位するマ

ンダラで、ホトケの微妙幽玄にして不可思議なる智恵の力とはたらきをあらわすものである。

 密教には、実際にこの力を生ぜしめる訓練がある。

 真言密教では、ただ、。観想″による″観法″しかない。現実にそういう″力″を持たせると

ころの″技術″がない。

 276頁を見ていただこう。

。あきらかに、微細会マンダラは、ヨーガのこの訓練から出ている。ナくなくとも、この訓練に

よって得られる力を背景にしたものであることは間違いない。

 これは、密教の技術で、胸の部分の或る部位に力を集中することによって得られる力である。

 -こうしてみてくると、真言密教がとるべき道は、おのずから明らかであるといわねばなるまい。真言密教の行法は、密教の技法をとり入れることにより、本当の力が生ずるのではないのか?

 そういうと、密教がそんなにすぐれたものであるというなら、密教は真言密教をはなれて、密教独自の道を歩んだらよいではないかという意見が出るかも知れない。その通りである。それでもよいのだ。そういう道もあると私も思う。

 しかし、それにもかかわらず、私か真言密教にある価値を見出すのは、その表現様式である。おもしろいことだと思う。

 様式だけになってしまっている(と私が思う)真言密教の、その様式が、なかなか貴重なのだ。

 私が体得した密教の秘奥の技術を、さて、どのように表現しようかと、その様式を考えてゆくと、結局、真言密教の様式がいちばん便利なのである。たとえば、私の体得創案した「求聞持法」は、ヨーガの技術から発見したもので、真言密教の「求聞持法」とは全然ちがう。そのことは、前の項でおわかりになったことと思う。

 しかし、私の求闘持法を、人に教える場合、真言密教の求闘持法の様式、形式をある程度とり入れて、カリキュラムを組むと、教わるほうもおぼえやすい形式ができる。

 たとえば、真言密教の求聞持法は、九種類の印明から成り立っている。九種類の印明と観想である。しかし、それだけではダメなことは、前の項で述べた通りである。

 私の求闘持法は、生理器官を動かしてゆく。大脳のある部位を刺激ナるために、八ヵ所の、体の器官を動かす。この八ヵ所の器官と、最後の大脳の器官と、合計九ヵ所の力を動かすのに、真言密教の九種類の印明をあてはめて、動かす技術を教えてゆくと、たいへん便利なのである。教わるほうもおぼえやすい。

 念力の護摩もそうである。

 念力の火を実際に出すのは密教の技法によるよりほかない。真言密教の念力の護摩法ではぜったいに出ない。

 けれども、この密教の念力の技法、サマーナの気を日させさせて、大のエネルギーを体内から放射させる技術を、どういう表現形式をとって、「法」として展開させたらよいか、というと、真言密教の護摩法という形式を以て構成するのが最もよいのである。これ以上、よい表現形式はないし、また、サマーナの気を節日させる精神集中にもっとも適している。やりよいのだ。力の発現が容易になる。後進の指導にあたって、念力発生のトレーニングにもすぐれた効果をあらわす。

 そういうわけで、私は、ヨーガの″サマーナ気統御の技術″と、真言密教の″護摩法″とを合わせて、独自の「念力護摩法」を編成したのである。

 この方式を適用してゆくと、真言密教の行法のなかにもすぐれた法がいくっもあるし、ヨーガの秘奥の技術もつぎっぎと現代に生かされてくる。両 々あいまって、ここにこそ、超・ヒト、ホモーエクセレンス誕生の技術かおる、と私は信ずるのだ。宗祖、弘法大師空海が、いま、生きておられたら、やはり必ずこうされる、そう信じて、私はひとりこの道をゆくのである。だれがなんといおうとも。

 

密教・超能力の秘密

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Is that really possible? How can you do that?

It ’s certainly true, I myself challenged the secret of this esoteric,

Until the technology was elucidated, I couldn’t believe it. I am single and secret for 50,000 years

I came up with this mysterious technique that has been carried by the veil of the world and uncovered its secrets. It’s a belief

It was an application of a surprising technique based on a delicate and delicate biochemistry.

For example,

As I mentioned earlier, Dr. Kamehisa Ichikawa is good at recent writings.

Based on the “Equivalent Transformation Expansion Theory”, he explained the molting to the future society by taking the change from the caterpillar to the pupa

It is kept. This theory is truly awesome, and it’s so brilliant and vivid. about

In addition, the theoretical swaying of the caterpillar turns into a pupa is a part of the future theory that has been produced in the near future.

It should be said that it is of a color.

However, unfortunately, it is limited to theory, explanation and expectation, and how it can be applied to humans.

It does not show how to make it happen. Of course, he himself is the foreword of the book

But this is ”just within the scope of software claims about the future society that human beings should be.

“This is a thing, this is. This is a concrete proposal of hardware for software”

Because it means “I am promising to the ugly general 7”, we waited for it and waited for it.

“I have a specific technology of wear”.

The technology of “demolition of caterpillars to pupae” is the technology of human transformation for thousands of years

It was applied and practiced.

Esoteric Buddhism had been practicing the flower shape theory for the future advocated by the landlord of modern creation theory.

is there. I was 5,000 years ago.

The caterpillar, a creature that only knows to wander around the earth, becomes a willow and becomes a creature flying in the sky

Transforming means that a creature living in a two-dimensional world has changed to a three-dimensional creature. Dense

The teaching that transforms human beings with the same technology means that human beings, who are three-dimensional organisms, move to higher dimensions.

It means making a leap. That is the esoteric transformation technique. Change the dimension of the creature

It is.

Moreover, it’s just a mysterious and godly way of thinking, as it has been said.

And with appropriate biochemical technology. And that ’s some of the esoteric techniques

It is only one of them.

What kind of wisdom did it? Esoteric techniques are mysterious

If so, that point should be called mysterious. But that’s exactly what thousands of years old

The super-human beings who are born are lonely and created using the best wisdom of humanity, “lighting wisdom”

It’s more than just a curriculum for future people.

Now, what is the Ichikawa theory “equivalent transformation expansion theory” related to the esoteric technique?

How does it relate to esoteric technology?

There is something I need to know a little more before I explain it.

Here, I think I have to talk about two words: Esoteric and Yoga.

In my book “The Principle of Transformation”, I made a statement about Esoteric Buddhism. I will quote it a little longer.

“The sect Buddhism of Shingon Buddhism and secret Buddhism, that is, secret Buddhism, are connected. But that is

It is a relationship that is forever soft, and as usual,

It’s not a Buddhism instant esoteric religion.

Shingon Buddhism is a systematic organization of esoteric Buddhism that originated in India and formed into a monologue like that.

It is not a esoteric essence. Although it is a esoteric system,

It is not the teaching itself.

It was almost completed until then, but it was divided and diversified.

The founder Kukai founded a system based on his own insight and wisdom.

As you can see, Tendai Buddhism has also completed a esoteric system called Tendai Buddhism.

This is also a flow of esotericism.

[That’s why, in order to properly understand what Buddhism is]]

You have to come back and think about it.

Esoteric Buddhism was at first a technique (technology).

There was never a single religion, esoteric, from the beginning.

Rose long before Gothamar Buddha appeared and began to preach the new teaching of Buddhism

Since the time of Mon, India has had one way to give it super powers. Such a technique is complete

It was made and praised among some people. It comes from the rigorous refinement of the mind and body

With mysterious powers, they were exaggerating it to a technology.

We can see one of those trends in Yoga now. (However,

It is not an acrobatic gymnastic yoga practiced in Japan today. Himalayan Outback Saints

It is an orthodox yoga handed down between us)

Yoga is one of the methods. Buddhism appears in the technology to develop this super power

In the past, when Buddhism was introduced by Baramon, Buddhism also adopted it.

Gothamar Buddha was himself disciplined with this technique and had super powers, but he was a disciple.

It was forbidden to learn this. The reason is that when this technique gives some power, they

Soon thought that it reached the border of Budda’s “hotoke”

It was because he was angry.

(However, this was secretly allowed to some of the very good disciples.

Gothamar Buddha usually believes in mysterious powers and wishes practitioners have such powers

Buddhist scholars and Buddhists seem to believe that they were completely forbidden to

Buddha himself, the god of foot ({Ranishi doctrine, ie, supernatural to fully fulfill Buddhist

He says he needs power and teaches superhuman capacity development training. This is Pali literature

Can be proved easily. (Omitted)

According to it, it is an ultra-skilled development method that is also called “Shigami” or “Shijo”.

Buddha believes that merely fulfilling the intelligence and reason is not enough to fulfill the bodhi.

I thought that the power to break the limits of intelligence and reason was necessary.

For that reason, he created a way to develop such power. It ’s super he learned

It can be seen that it was organized with the ability development method added.

It consists of thirty-seven kinds of techniques, and the four gods are the core technology.

The Shinto, the rules for obtaining the will are explained in four different methods.

Greed foot (approach for aspiration, ideal, creation)

Employee worship (body and mind training method)

Shinshin feet (subconscious training method)

Kangami foot (training method of deep consciousness)

In order to break down the rules, it was incorporated into Mahayana Buddhism and systematized, and it was called Esoteric Buddhism. That is why Esoteric Buddhism has two aspects.

One is ultra-skilled development technology

One is Mahayana Buddhism doctrine

These are the two.

</ Th> By the conclusion of these two things, a more advanced doctrine than Mahayana Buddhism was completed.

A new Buddhism called “Taidai” was born. This is esoteric

As can be seen in the quoted sentence, “-”

Toba is “esoteric” in the sense of “secret Buddhism”. The so-called Buddhism

It is a Buddhism of Shingon Buddhism or Shingon Buddhism.

However, in this book I refer to “esotericism” in those esoteric and “transformation principles”.

The reader wants to know that the esoteric Buddhism is completely different.

“In the book,“ esotericism ”means before Shingon Esoteric Buddhism, in other words, before being adopted by Buddhism.

Speaking of quotations, even before Brahmamon was incorporated, 4 R was originally a method (technology). Gothamar Buddha appears and begins to preach a new teaching called Buddhism

Earlier, since the Brahman era, India had one way to give it super powers. Such a technique has been completed and has been praised by some people. It was a mysterious power derived from the rigorous refinement of the spirit and body, and they exaggerated it to a single skill. When

I would like you to know that this “technology”, in other words, “Ancient Marga” and “Shingon Esoteric”, is a combination of the two. In other words, the esoteric Buddhism in this book is Yoga and Shingon Buddhism,

It is a new technology that was born by connecting these two.

Talking about why it was necessary to do that would also explain the esoteric law, so readers should be aware of this.

The Mahayana Buddhism, which was stuck in the quote, demanded a way to break through the technique of yoga. As I mentioned earlier, the spiritual leap of the spirit must be based on the amplification of the sensory organ. However, Mahayana Buddhism has only teaching and no skills. It is a teaching of Mahayana Buddhism, it is only to clarify the teaching, there is nothing that should be technical. Just

Naturally, it is natural that it will be more natural to seek help in yogi technology over time.

It was a kimono.

Thus, Kongo Daijou and Shingon Buddhism were born. As mentioned above, there are five skills development techniques in Yoga, borrowed from the expression of Prof. Georges Olivier. It is: (1) understanding of the fourth dimension, ability to grasp the entire complex, (3) acquisition of the sixth sense, (4) infinitely developed moral awareness, (5) especially

It is a mysterious spiritual characteristic for our enlightenment, but these skills development techniques were not directly incorporated into Mahayana Buddhism. Naturally, there was one deflection slope.

It is natural that Mahayana Buddhist leaders adopted this technique in accordance with their Buddhist doctrine and their purpose. Techniques that seemed uncommon were abandoned, or only given to a few leaders, or transformed. Thus, a new doctrine and system of secret Buddhism was completed. However, many excellent development techniques have been transformed into auxiliary techniques to complete this Buddhist doctrine.

I was struck. Or only the sword was kept. This was the secret practice of Buddhism.

This was ultimately completed by Japanese Buddhism, the founder Kukai of Shingon Buddhism. Secret Buddhism was not completely completed at the time when secret Buddhism was given to China from India, and at that time Kukai, who crossed China, contacted it. Select this chaotic material and watch it now

It was Kukai that put it together in the form of Shingon sect and made it an orderly religion. It was a feat that only a great genius could accomplish, but at the same time, secret Buddhism has become too tidy and stylized Japanese. The esoteric part that had remained until then almost disappeared, and the “one-law” has become a stylized religious ritual.

However, that was unavoidable when the background of the sample and the cultural standards at that time were used. Rather

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

リサ・ランドール

 

現在、ハーバード大学物理学教授。プリンストン大学物理学部で終身在職権(tenure)をもつ最初の女性教授となる。また、マサチューセッツ工科大学およびハーバード大学においても理論物理学者として終身在職権をもつ初の女性教授となる。

 

ブレーンワールド(膜宇宙、braneworld)またはブレーン宇宙論(brane cosmology)とは、『我々の認識している4次元時空3次元空間+時間)の宇宙は、さらに高次元の時空(バルク(bulk))に埋め込まれた膜(ブレーン(brane))のような時空なのではないか』と考える宇宙モデルである。低エネルギーでは(我々自身を含む)標準模型素粒子相互作用が4次元世界面(ブレーン)上に閉じ込められ、重力だけが余剰次元(5次元目以降の次元)方向に伝播できる、とする。

 

リサ・ランドール、若田光一『リサ・ランドール 異次元は存在する』日本放送出版協会〈NHK未来への提言〉、

 

 

『ワープする宇宙』

『リサ・ランドール 異次元は存在する』の方は「未来への提言」を活字に起こしたもので、100ページ足らずである。宇宙飛行士若田光一氏との対談が主となっていて、『ワープする宇宙』の内容を簡潔に伝えるとともに、内気な数学少女だったハイスクール時代からハーバード大学の教授になり、5次元理論で頭角をあらわすまでのライフ・ヒストリーが語られている。
 『ワープする宇宙』は章の頭にアシーナという11歳の少女の物語を置いて、枕にしている。アシーナはタイムマシンで現代にやってきたアイク・ラシュモア42世という未来人に導かれ、『不思議な国のアリス』そこのこけの冒険をして5次元時空の不思議を体験する。ルイス・キャロルが大好きだというランドールらしい趣向である。
 ランドールの5次元理論は余剰次元理論の一種だが、余剰次元理論はひも理論から出てきた。ひも理論では万物は振動する微小なひもだと考えるが、3次元でひもを振動させると振幅が宇宙規模に広がってしまうので、9次元+時間の10次元時空で振動を考える。10次元時空の振動だときれいに振幅がおさまるそうだが、3タイプのひも理論ができてしまった。その後、次元を1増やして11次元時空を考えると、3タイプのひも理論が統一的に理解できることがわかった。これをM理論という。10次元時空の3つのひも理論は、11次元時空のM理論の特殊な場合というわけである。
 10次元でも11次元でもいいが、われわれが知覚できるのは縦・横・高さの3次元だけである。時間をくわえても4次元にすぎない。残りの次元――余剰次元――はどうなっているのか。
 余剰次元はミクロの世界に縮んでいるというのがひも理論の答えである。
 ストローを考えてほしい。ストローは離すと一本の線に見えるが、目に近づけてよくよく見るると円筒形をしており、長さにくわえて円周というもう一つの次元をもっている。余剰次元はストローの円周方向のように隠れているというのだ。
 余剰次元が本当にあるのかどうかはわからない。10次元にしろ、11次元にしろ、そう考えると式がきれいにまとまるという数学の都合の話であって、実証されたわけではない。だからひも理論でノーベル賞をとった学者はまだいない。
 縮んだ余剰次元を説明した条はみごとである。9次元+時間、もしくは10次元+時間であっても、3次元+時間と見なせることを、ランドールはニュートン万有引力の法則を例に説明する。引力は距離の二乗に反比例して弱まっていくが、これはホースで水をまくと、距離の二乗に反比例して水がまばらになっていくようなものだという。距離の二乗になるのは、水のまかれる面積が二乗で増えていくからである。水のまかれる面積が増えれば増えるほど、水はまばらになっていく。それと同じように、重力も距離の二乗に反比例して弱まっていく。
 もし余剰次元が縮んでいなかったら、重力は距離の8乗とか9乗で急激に弱まっていただろう。
 こんな説明はこれまで読んだことがなかった。しかもこの記述は重力が他の3つの力に較べて桁違いに弱い理由を解明した5次元理論の伏線となっている。
 『ワープする宇宙』が長いにはそれだけの理由があるのである。生クリームに砂糖をまぶしたような啓蒙書に物足りなくなっている人には、本書は打ってつけの本といえる。ランドールは先生として第一級にちがいない。

ワープする宇宙―5次元時空の謎を解く

 

リサ・ランドール
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ひも理論は違う。これは純粋に理論上の疑問と着想にもとづいていて、まだ数学的に完全に定式化されてもいないから、その予言についても、確たることは何も言えない。

 

 

一つの次元があることに気づく。このときから、物理法則は── もちろん常識も── 人に「次元は三つだ」と信じこませ、それ以上の次元があるとは夢にも思わせなくする。 だが、時空はそうして思い描いてきた姿とは驚くほど違っている可能性がある。これまでにわかっている物理法則のなかで、空間に三つしか次元がないと断定できるものはない。別の次元── 余剰次元── が存在している可能性を検討もしないうちに切り捨ててしまうのは、性急にすぎると言えるかもしれない。「上下」が「左右」や「前後」とは別の方向であるように、まったく新しい別の次元が私たちの宇宙に存在していたとしてもおかしくはない。実際に目で見たり、指先で感じたりはできない。

 

余剰次元がかたる。

 

 

 

 

 

 

ワープする宇宙 5次元時空の謎を解く

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瞑想 意と念と気

意と念と気ところで、その「心」を、、そのはたらきの上から、つぎのように分類している。
意・念・気である。
意とは、意志、というように、心が一定の方向に向かって動いている状態をさす。
念とは、意の動きが集申し高まって、ひとつの力を持つに至った状態で、念
力、という名がこれをよく表現している。

 

気とは、念がある方向に向かって身体の申を流れていく状態である。ただし、この気」には、意識的につくり出されたものと、無意識的・生理的に、自然に身体の中を流れているものと、二種類ある。たとえば、「元気だ」というような言葉で表現されるものである。

そこで、見方によっては、気を集中したものが念なのだ、ということもできるであろう。もともと、心というひとつのものを分けて考えているのであるから、そこのところはどうともいえるわけである。

 

ここでは、便宜上このように分類して、「気」という場合は主として意識的につくり出されたものをいっていると考えていただきたい。

心をどのように使うのか
さて、それでは、その「心」をいったいどのように使うのであろうか?

心とは元来、この上なくとらえがたいものである。コロコロとつねに動いてとどまらぬところから、これを約めてご』ころ”ということになったのだといわれるくらい、それは把握しがたいものである。いったいどうやって、これを思うとおりに駆使するのか?

 

ひとつ、方法があるのである。
なにか?

心.
心と呼吸とは、非常に密接な関係がある。
心の状態がそのまま呼吸にあらわれ、呼吸の状態がそのまま心を映し出す。心が静まれば、呼吸も静まり、呼吸を静めれば心も静まる。

心と呼吸は一体なのだ。
そこI、呼吸をコントロールすることにより、心をコントロールするとい
う、高度のテクニックを使うのである。ここからスタートして、しだいに熟達し、ついには自分の思うように心を使うことができるようになるのである。

いや、それだけではない。一歩進んで、体(筋肉)をも、思うとおりに使いこなすことができるようになるのである。というのは、呼吸は心と一体であるが、

それだけではなく、体とも一体であるからだ。修行が進むと、今度は、呼吸と心が。体になって、心が描くイメージどおり、不随意筋をも動かすようになるのである。

 

呼吸

呼吸は。生き”である
いま、わたくしは、心と呼吸は一体であるといったが、呼吸は、心と一体であるだけではなく体とも一体なのである。

健康で心が安定していれば、呼吸もおだやかで安定している。

体が不調であると、呼吸もリズムが乱れて不安定となる。疲れたときや病気が重いとき、呼吸は浅く、荒くなる。

精神的な激しいショックを受けたときもおなじである。

また、心因性の病気を持つ人や、精神病者も、呼吸が荒く、正常ではない。
まさに、呼吸は、〃生き”なのでる。

そこで、心をコントワールする呼吸法は、まず、正しい呼吸のしかたからス
タートする。

というのは、悪い呼吸をしていたら、超能力どころではない。体も、心も、ま

た脳も、悪い影響を受けて、本来持っている力さえも、十分に発揮することができないのである。

いや、それだけではない、健康を害して病気になったり、ときには大切右生命まで失ってしまうおそれがあるのである。

その反対に、正しいよい呼吸を身につけると、体は強健になり、いつまでも
若々しく、心はつねに明るくさわやかに、脳もまた明敏なはたらきをするようになる。

それがウソではない証拠に、その反対の、よくない呼吸をしてみよう。どうなるか?

まず、最悪の呼吸のしかたである。
そわは、浅い弱々しい呼吸と、それにもまして、悪いのは、しばし息を止める呼吸である。

たとえば、心配ごとや不安に心が閉ざされると呼吸運動にほかならない。肺そのものは、決して自力で息を吸ったり吐いたりできないからである。

 

したがって、呼吸筋を十分にはたらかせずに呼吸している人は、十分な呼吸をしていないということになる。

だれだって、生体の維持に、呼吸がどれほど大切な役割を果たしているか、知らない人はないであろう。息が止まったら、即、死につながるのである。それほど大切な呼吸を、不十分なしかたでしているとしたら、一生を通じてどれほど不利益なことになるか、あなたは考えたことがあるだろうか?

 

これは、生きるということの最も基本的なあり方の見直しというべきものである。

呼吸運動の目的は、肺のガス交換だけではないのである。それは、血液循環に対しても重要な仕事を分担している。浅く弱い呼吸ばかりしていると、血液内の酸素にが不足するばかりでなく、炭酸ガスのFの体外への排出も不十分なことになる。

また、血液の流れも悪くなる。したがって、こういう呼吸をつづけてい
ると、体全体の生命力が低下してくる。当然、健康がおとろえ、病気に対する抵である。

抗力がなくなって、体は病気の温床となる。

人間の体は、約六十兆といわれる膨大な数の細胞で構成されている、その
六十兆の細胞は、すべて流れている血液によって養われ、生きているのである。

酸素をたっぶりふくんだ血液の流れる内臓にはガンも発生しないという。ガン細胞は酸素がきらいなのである。た

かが呼吸が浅いくらいと、軽視してはならないのだ。

さらに、いまいったように、呼吸は、全身の細胞に深い関係があるだけで
はなく、呼吸運動は、自律神経系、ホルモン系、あるいはリンパの流れ、各臓器間の状態にまで強い影響をあたえるのである。

それにはまず、強い呼吸筋による強くたくましい呼吸のしかたを体得しなければいけない。

それによって、強くたくましい心身、明るく聡明な脳を獲得するのに必がな第一の基礎ができあがるのである。

At the same time as solving to meditation, you must improve the person.

It is not good to just solve the suffering and suffering. At the same time as solving it, we must improve that person. In addition, there are also cases where it is solved by improving. This is the correct meditation.

So the real meditation starts with “solving the problem we are suffering now”.

Meditation transcends from all beings, as Gothamah Buddha reaches every step, but it only handles and solves the reality freely before transcending and unfolding

Must have the power of Without having that power, it was transcendental or liberation, which is only a kind of “fleeing”. The meditation method with that power is the greed world determination and the “second stage” meditation.

But what you should not be wrong here is that having this power does not mean that you just let go of your desires. By having this power, there are times when one’s desire is realized as it is, and being stupid of stupid ambitions and desires, suddenly I realize that I am suffering from mischief, and a person who has awakened from a dream It may be as well.

Either way, isn’t it wonderful?

Yoga as an origin of meditation

Meditation has been practiced for a very long time in India. It’s Indian ethnic

It can be said that it was with the history of

The literature on meditation can be seen as far back as the era of Vedic, Upanishad (BCE-2001 BC). From that time on, meditation had already been regarded as a practice of compulsory monks as a way of practice specific to India.

It was called a yoga or a samurai or a wolf.

In Japan, in general, yoga seems to be considered as a kind of gymnastics, but it was originally meditation in nature, and gymnastics was the physical adjustment method that helps meditation. .

As I mentioned earlier, Buddha was also trained in yoga meditation according to the rule of the religious at that time, but I was not satisfied with that, and I was not able to proceed with Buddha’s unique

The meditation has been completed. Here we will briefly describe traditional yoga meditation.

Mental restraint in yoga

According to Beki’s book “Yogasutra”, which is also the scriptures of yoga practitioners, it divides the psychological process of mental concentration in meditation into four stages.

Perception, concentration, calmness, and misery.

Of these, the three stages of enthusiasm, serenity and enthusiasm are collectively referred to as “restraint,” but of course, on the actual training, one of these three stages is independent. It does not go on, it goes on continuously.

By the way, what is yoga is, “Yogasutra” is defined as follows. “Yoga is about suppressing the work of the mind.”

“Gataraupanishad”, which is older than “Yogasutra”, states that “Yoga is to immobilize five sensory organs.”

In other words, it is a yoga that firmly restrains the involuntary movement that is the body of the mind by some mental concentration method. And train it

The way to go is yoga law.

Expressing this in a modern and easy-to-understand manner, it is possible to try to find out the true form of self by suppressing the movement of consciousness in our daily life.

It is a yoga, and there is a way of practicing to seek for it.

In Yogar Sutra, the psychological process of controlling the work of the mind by the mental concentration method of meditation is described in detail analytically. And this

Psychological yoga centered on meditation is what is called large ayoga. And the psychological process which deepens to this mental concentration is a sense of

It is divided into concentration, quietness, and enthusiasm

脳と報酬系

コラム

ワイルダー・グレイヴス・ペンフィールド

その経歴を通して、今日の脳科学の基礎となる脳外科学のみならず、今日に至る神経科学の発展に多大な貢献をした。てんかんの外科治療の先駆者であるとともに、脳外科手術時に全身麻酔を行わず、切開部の局所麻酔で行った。脳そのものには痛みを含む感覚受容体がないためこのような術式が可能である。この術式を用いると手術中も患者に意識があるため、大脳皮質の電気刺激による脳局所の機能同定を行なうことができ、疾患のある脳領域の切除部決定をするにあたって、機能保存すべき大脳皮質領域の決定が可能になった。世界的に麻酔の安全性を優先させるため脳外科手術も全身麻酔で行われるようになったため、このような術式は行われることが少なくなったが、最近になって麻酔全般の安全性向上にともなって復活してきている。

脳の中のこびと

アメリカの脳神経外科医のワイルダー・グレイヴス・ペンフィールド博士(1891-1976)は、てんかん患者を治療しながら、脳が体を知覚する方法の理解を深める研究を行いました。脳半球のそれぞれには2つの地図が広がっています(ペンフィールドの地図とも呼ばれます。)
1つは運動の地図で、私たちの動きを操作する場所です。もう1つは感覚の地図で、体の感覚情報が処理されている場所です。左図の小人(ホムンクルス)は、その地図を立体的な人形にしたものです。図を見ると、脳がどのように体を見ているのかが見えてきます。

脳から直接出てくる特別な12対の神経があります。これらの中には、目、耳、鼻、口からの感覚情報を伝達するものや、頭や喉の筋肉を制御するものなどがあります。心臓や肺のような重要な臓器や様々な腺へ供給するものもあります

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Preparation for meditation

Preparation for meditation

Now, let’s explain the preparation before entering meditation.
Prepare the six laws
Before going into meditation, I first set up the six laws.
What is the Six Law?
Set up the environment (place)
Two, prepare food and drink
Three, set up sleep
Four, get ready
Five, adjust your breath
Six, adjust your mind

Adjust your body, five, adjust your integrity, six, adjust your mind.

Adjust the environment
First of all, it is important to adjust the environment.
The best thing is that the natural scenery such as mountains, forests and beaches is excellent and the air is clear.
It is about time.
If it is a mountain, the place with a waterfall is the most ideal.
In a city, the rooms should be as quiet and clean as possible. Indoor furniture / house
It is good enough to be simple. It is better to put a plant etc.
Rays should not be too bright. If you are using a curtain,
Or pale blue. Balance the room’s interior and the view outside the window,
Should have a soft harmony with
The temperature is too hot, too cold, or too humid. hot
Also, don’t put up a fu-fu or a fan if possible. And it is a good idea for the circulation of air
I have to do it.
The above mentioned “environment” in the narrow sense of “place of training”
In other words, life that can continue the practice of this reincarnation meditation method
It is to create a living environment. The environment allows it no matter how white it is
It is to create an environment so that it does not happen. Drink a large amount of alcohol
It is also important to regulate life, such as smoking and smoking
It is one of the
Prepare food

Second, to prepare food is as follows.
60,000 is originally intended to nourish the mind and body, and it is healthy and has
It is for the position-live or If.
That ‘s the right thing, a modest amount and a good thing to help the body, these two are just
It’s a trap.
Forced to take it from the body tissue of the divided body, and as a result, the muscles and skin fade
come.
The burning of protein in the body is taking place, but for fat that remains intact,
Sometimes I do not know so. Next to make the rib bone visible from the outside
When it comes to this, this is obviously a deficiency of protein.
So for the healthiest vegetarians, we use a vegetarian diet with eggs and milk.
There are many people who In other words, you should not eat meat, but you should eat eggs and dairy products in your diet.
It is Eggs and milk provide the highest quality proteins.
These are like samples that contain amino acids in their complete form.
In addition to this, to ensure more complete nutrition, the vegetarian lifes
It is recommended that tiles contain small amounts of fish and sometimes meat offal.
Vitamin Yo is the most deficient nutrient when you are eating.
In addition, methionine runs short.
I have to take a meal to help training