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聖者への四つの階梯 一、きよめられた聖者,須陀洹しゅだおん さきにのべた大脳辺縁系脳・新皮質脳

聖者への四つの階梯

一、きよめられた聖者,須陀洹しゅだおん

さきにのべた大脳辺縁系脳・新皮質脳を殺す修行とは、この二つの脳が生み出す(あるいはこの二つの脳がいだいている) 迷妄と妄想とそこから生ずる煩悩をいつそう抹殺する修行である。ひと口でいうと、心のまよいとけがれを一掃する修行である。その修行が須陀洹の階梯でおこなわれる。 しゅせん

のである。 じつそうグルは、特殊な瞑想と実践とをもって、修行者のまよいとけがれをとり去る。仏教でいう「顛倒世界」(理解のしかたがさかさまであること。実相の世界とかけはなれた虚仮の世界を実相の世界と思いあやまり執着すること)は、大脳辺縁系脳・新皮質脳がおかす間違いである。それは脳のアンバランスが生み出す迷妄な

さきにのべたように、人類はここ数千年間、新皮質脳による世界をつくりあげてきた。霊的世界を抹殺してしまい、霊的世界の存在を認識する間脳を閉鎖し

てしまった。現象世界と霊的世界が共存している実相世界を正しく認識させるためには、新皮質脳(と大脳辺縁系脳)を一時閉鎖して、霊的世界を認識できる間脳を動かす訓練をしなければならないのである。

う。 いままでの宗教(仏教をふくめて)はすべて誤っていたのである。間違いをおかしている心を、間違いをおかしている心で変えさせようとしてきたのである。これは徒労であった。新皮質脳を使って新皮質脳を変えさせようとしていたのである。一時は理解し、納得するかに見えるが、すぐにもとに戻ってしま

「汝、悔いあらためよ」といい、「悟れ」という。すべて心が対象である。

のはたらきをうながす。 心を変えるのではなく、脳を変えるのだ。間違った脳を閉ざして、正しい脳

それによって、脳はバランスをとりもどすのである。

そうすれば、「悔いあらためよ」も「悟れ」も必要ないのだ。間脳が開き、霊的能力がはたらき出せば、そんなことはわかりきったあたりまえのことになって

しまうのであり、聖書もお経もまったく不要になってしまう。なぜならば、聖書や経典の説く世界がそのままただちに自分の世界になってしまうのだから、いまさら読んだり理解しようとする必要などなくなってしまう。大乗経典あたりが一生懸命に説いていることなど、幼稚しごくなものになってしまうのである。

七科三十七道品の成仏のカリキュラムとは、そういう方法なのである。わたくしはそれを発見し、実践したのだ。

つぎに、「きよめられた聖者」は、いまのべた内的なものだけではなく、外的 「にもきよめられなければならないのである。 がいてき

それはどういうことかというと、自分の持つ「霊的なけがれ」もとり除かなければならないということである。

、霊的なけがれとは、自分にかかわりのある不成仏霊・霊障のホトケのことで 「ある。これをことごとくとり除かなければならない。

自分にかかわりのある不成仏霊・霊障のホトケを持っていると、それらが持つよこしまな性格や想念の影響から逃れることができないのである。さらに恐

ろしいのは、それらの不幸な存在がたどった運命の、「運命の反覆」をするおそれが強いのである。「運命の反覆」とはカルマの反復にほかならない。これが最も恐ろしいのである。これは修行者にかぎらず、ふつうの人の生活においても、悲惨な人生を送った霊障のホトケの人生を、そのまま反覆するケースを非常に多く見るのである。

「輪廻転生瞑想法Ⅱ」でのべたとおり、世界的な心理学者で、フロイト、ユングのあとを受けてあらわれた新しい心理学、「運命心理分析学・家族的深層心理学」の創始者L・ソンディ博士は、「家族的無意識」により、「個人の中に抑圧されている祖先の欲求が子孫の恋愛、友情、職業、疾病、および死亡における無意識的選択行動となって、個人の運命を決定する」と説いた。これが「運命の反覆」である。わたくしは、この「運命の反覆」が、霊的現象をともなってとくに顕著にあらわれるのを突き止めている。

つまり、ソンディ博士のいう「家族的無意識」とは、霊的にいうと、不成仏霊・霊障のホトケということになるとわたくしは確信するのである。くわしいこ

とは、挑著「チャンネルをまわせ」を読んでいただきたい。

この不成仏霊と霊障のホトケの排除は、修行者自身では不可能なので、この

とき、霊力あるグルの助けが必要なのである。この霊的な「きよめ」がないと、修行者は一歩も進めない。この霊的な「きよめ」によって、聖者・須陀洹

は誕生する。 げきる聖者・須陀祖は、また、「預流」の聖者、「逆流」の聖者ともよばれる。

「預流」とは、新しく聖者の流れに入った(預)という意味であり「逆流」と

しょうせは、生死・因縁の流れに逆らう聖者という意味で、つまり、凡夫であるかぎり生死・因縁の流れのままに生きていくよりほかなく、その流れに逆らうことはできない。須陀担ば、その流れに逆らう、つまり、生死・因縁の法則から超越する聖者である、という意味である。

「それは、精神的には煩悩・迷妄を制御し、肉体的には欠陥・弱点を克服し、 霊的には先祖の悪しき影響から脱却しているため、生まれつきの因縁を変え、運命を変えてしまうことによると思われる。

ところで、わたくしは、須陀画が「預演」とよばれ、「預流」とは新しく聖者の流れに入った者、という意味であると知ったものの、どうして須陀洹になると聖者とよばれるのか、その理由がわからなかった。まあ、そういうものなのたろうくらいに受けとっていたのである。ところが、霊眠を持つようになっ 、すぐにその理由がわかったのである。

「それは、須陀洹の境界に入ると、特殊な霊光が生じるのである。あるいは、 その特殊なオーラが生じたから、須陀洹になったということなのであろう。

須陀重のオーラは、青い、すきとおったきよらかな光のもやである。やや力の弱い感じがするが、一見、きよらかさに打たれる感じがする。わたくしが須陀 「

酒を「きよめられた聖者」とよぶのは、そこからきているのである。

二、高められた聖者・斯陀含したん

高められたとは、なにが高められたのか?

(他力が高められたのである。聖者としての徳と力がそなわることで

他とは力である。ほんとうの力は、徳から生じたものである。ほんとうの力 「とは、自分を高め、他人を高め、社会を高めるものである、徳から生じたのでは

ない力もあることはある。しかしそれは、究極的に自分をほろばし、他人を傷つけ、社会を春する。そういうものは真の力ではなく、権の力である。だからそういう力を、權力どよぶ。徳をともなわない力である。ほんとうの力は徳から生ずる。だから、徳をたくわえることは力をたくわえることである。

凡夫が不運なのは、不徳だからである。徳を積めば福を得る。徳によって生じた力は、なにをしてもよい結果を生む。それを福というのである。不徳の者は力がないから、なにをやっても中途半端になり、また、まわり合わせの悪い状況を直すこともできず、失敗する。それを不運といってあきらめるわけである。

きよめられて陀湿となった聖者は、つづいて、徳を高める斯陀含の修行に入るのである。グルの指示にしたがって、瞑想と実践(だ行)の修行をする。阿含経にしばしば「・・・・・・我が生ずでに尽き、梵行すでに立ち、所だすでにだし、

自ら後有(後の生)を受けざるを知る」とある梵行と前作は、この修行のことを

さすのである。

ひと口でいえば、運気を増強する。運をよくするのだ。

運が悪かったらなんにもできない。修行を成就することもできない。

斯陀含の聖者は、徳と力と智慧を身につける。彼には不可能がなくなる。

斯陀含のオーラほ、須陀洹よりやや光が強くなり、少し黄色味を帯びる。

三、次元を飛躍した聖者・阿那含あなこん

霊性開頭の体験をし、霊界と交流する力を持つようになった聖者である。

(オーラは生き生きとしたオレンジ色である。ジェット機の吐き出す炎を想い

起こさせる色とパワーを持っている。

四、次元を超越した聖者・阿羅漢あらん

ニルヴァーナに達した仏陀のことである。 霊界の最上界に位置する仏界の体現者である。

 

仏陀のオーラについては、項をあらためてのべよう。

霊光の発生

ご承知のとおり、人間の体をとりまく特殊エネルギーの雲、つまり、”オー

ラ”の概念は、何十世紀も昔にさかのぼる。聖人を描いた古い絵は、キリスト

教徒が光輪を考え出すずっと以前から、聖人たちが光り輝くものの中に立って

とうはいいるのを示している。東洋の仏像は二十世紀も昔から、光輪・光背というかたち

で表現している。神秘的な性質を持つこのもやは、ロンドンの聖トーマス病院のウォルター・キルナーによって最初に研究された。彼は、一九一一年に、色ガラ

スのスクリーンを通して見ることによって、ほとんどの人の体のまわりに約六イ

ンチの輝いた縁を見ることができた。彼は、このオーラはそれを身につけている

人の心の安らぎに応じて、 かたちや色を変えると主張した。彼は、それを医学的

診断の補助としてもちいて、著名になった。

つづいて、ケンブリッジの生物学者、オスカー・バグナルは、オーラを物理

 

学によってつかもうとした。彼は、コールタール染料であるジシアニンまたはピナシアノールの溶液をとおしてしばらくながめることで目を『増幅させると、オーラはずっと容易に見えるようになると主張し、さらに、これをもっと容易にするために、トリエタノールアミンに溶かした染料をみたすことのできる中空のレンズのメガネを設計した。

さらに、ソ連の電気技師のセミヨン・キルリアンは、彼の妻と二十五年かかって、二つの電極間に、毎秒二十万回も火花放電して振動する高周波電場をつくり出す特殊な機械装置をつくった。一九六四年、この装置は完成され、ソ連政府の援助のもとに、この装置を使った研究計画が開始され、多くの成果をあげはじめた。「生物学や超心理学の多くの分野で大きな変革を起こしそうである。電気的なオーラは、地位を確立したのだ」と、ライアル・ワトソンはその著書『スーパー・ネイチュア』(蒼樹書房)で書いている。

(オーラは霊気であって、電気ではないとわたくしは思うのだが、電気をもちいた装置でとらえることは可能であるかもしれない。聖者は、特殊なオーラを体

 

Shakyamuni Buddha — How can one become an Upāsaka?

 

Shakyamuni Buddha —
How can one become an Upāsaka?

 

朝露の園で 問いを抱いて
信とは何かと 空を見上げる
ひざまずく影に 光が差し
静かな声が 風に溶ける

Namosattanan
sanmyaksanmodaktinan
taniyata
on shaley shurei juntei
sowaka

信じて 守って 与えてゆく
それが優婆塞の 道になる
灯した光で 誰かを照らし
Namosattanan
sanmyaksanmodaktinan
taniyata
on shaley shurei juntei
sowaka

 

In the garden at dawn, I hold my question
Gazing at the sky, asking what faith truly is
A kneeling shadow bathed in gentle light
A quiet voice dissolves into the wind

Namosattanan
Sanmyaksanmodaktinan
Taniyata
On shaley shurei juntei sowaka

 

Believe, uphold, and give with open hands
This is the path of an Upāsaka
Lighting the way so others may see

Namosattanan
Sanmyaksanmodaktinan
Taniyata
On shaley shurei juntei sowaka

お釈迦さま   優婆塞となるには、どのようにすればよいのでしょうか?

 

お釈迦さま
優婆塞となるには、どのようにすればよいのでしょうか?

 

朝の公園は、まだ人が少なく、冬の光が低く差し込んでいた。
マハーナーマはベンチに腰かけ、スマートフォンを閉じて、深く息をついた。
最近、ずっと同じ問いが頭から離れなかった。
――信じるって、何なんだろう。
――正しく生きるって、どういうことなんだろう。
彼は仏教の本を読み、講話を聞き、祈りも欠かさなかった。
それなのに、どこか空虚さが残っていた。
「自分は本当に“在家の仏教徒”として、ちゃんと生きているのだろうか。」
そんなとき、彼は古い経文の中に、マハーナーマという自分と同じ名の人物が登場する場面を見つけた。
――マハーナーマは、釈尊にこう尋ねた。
「完全な優婆塞になるには、どうすればよいのでしょうか。」
その問いは、まるで今の自分自身の言葉のようだった。
釈尊は答えていた。
「信があっても、戒がなければ、その者は真の優婆塞とは呼べない。」
マハーナーマは、ページを閉じ、空を見上げた。
「……信じているだけじゃ、だめなのか。」
彼は思い返した。
毎日祈っている。仏の教えも信じている。
それなのに、日常の中では、感情に流され、言葉で人を傷つけ、楽な方へと逃げる自分がいた。
――戒とは、単なるルールじゃない。
――生き方そのものなのだ。
だが、釈尊の言葉は、そこで終わっていなかった。
「信と戒があっても、布施を行わなければ、まだ具足とは言えない。」
マハーナーマは、そこで初めて、胸の奥に何かが引っかかるのを感じた。
「布施……?」
彼は少し考えた。
お金を寄付することだけが布施ではない。
時間、言葉、労力、思いやり――すべてが布施なのだ。
けれど、自分はどうだろう。
誰かに与えるよりも、奪われないことばかりを気にしていなかったか。
自分の安心、自分の評価、自分の都合――そればかりを守ろうとしていなかったか。
そのとき、彼は別の一節を思い出した。
――徳がなければ、修行は続かない。
――徳がなければ、因縁を断つ法も、途中で止まってしまう。
マハーナーマは、苦笑した。
「確かに……やる気が続かないのも、周りとうまくいかないのも、
自分の徳が足りなかっただけかもしれないな。」
ふと、道ばたの花壇に目がとまった。
誰かが種をまき、水をやり、雑草を抜いたのだろう。
小さな花が、静かに、しかし確かに咲いていた。
――種をまかなければ、花は咲かない。
――与えなければ、返ってこない。
その単純な事実が、今の彼には、ひどく重く、そして優しく響いた。
「信じるだけじゃ足りない。
守るだけでも足りない。
与えて、はじめて、道になるんだ。」
マハーナーマは立ち上がり、ゆっくりと歩き出した。
今日から、何かを変えようと思った。
大きなことではなくていい。
誰かの話を、ちゃんと最後まで聞くこと。
見返りを求めず、手を差し伸べること。
自分の正しさより、相手の苦しさを先に見ること。
それが、信であり、戒であり、布施なのだと、今はわかる。
彼の歩みは、まだ不器用で、遅いかもしれない。
それでも――
与える一歩は、確実に、彼自身の人生をも変えていく。

お釈迦さま
優婆塞となるには、どのようにすればよいのでしょうか?

 

ニグローダの園に、朝の光が静かに満ちていた。
木々の葉は露を帯び、鳥の声はまだ眠りの余韻を残している。
その園に、マハーナーマは一人、胸に深い問いを抱いて立っていた。
――信じるとは、何なのか。
――正しく生きるとは、どういうことなのか。
彼はゆっくりと歩みを進め、世尊の前にひざまずいた。
額を地につけ、静かに口を開く。
「世尊よ。完全な優婆塞となるには、どのようにすればよいのでしょうか。」
その声は、震えを含みながらも、真剣だった。
釈尊は、しばしマハーナーマを見つめ、やがて穏やかな声で答えられた。
「もし信があっても、戒がなければ、その者は真の優婆塞とは呼べない。
精進し、清らかな戒を守り、信と戒の両方を身につけなさい。」
マハーナーマの胸に、その言葉は深く沈み込んだ。
――信じているだけでは足りない。
――生き方として、戒を体現せねばならない。
しかし彼の心は、まだ満ちてはいなかった。
再び頭を垂れ、問いかける。
「世尊よ。では、何をもって一切の優婆塞の務めを満たすとするのでしょうか。」
釈尊は静かに語られた。
「仏・法・僧の三宝に帰依し、生涯それを守ると誓えば、形式としては優婆塞である。」
だがマハーナーマは悟っていた。
これは入口にすぎない、と。
――形ではなく、実質。
――誓いではなく、生き方。
だからこそ、彼は再び問うたのだった。
釈尊は、彼の心の奥を見透かすように、さらに続けられた。
「信と戒があっても、布施がなければ、まだ具足とはいえない。
努力と工夫によって布施を実践し、信・戒・施の三つを円満に修めなさい。」
その言葉を聞いた瞬間、マハーナーマの内に、ひとつの光が差し込んだ。
――信は、心の向き。
――戒は、生き方の規律。
――布施は、他者への実際の働き。
信と戒は、自分を整える修行である。
だが布施は、世界へと心を開く修行だった。
釈尊はさらに語られた。
「どれほど苦しい修行であっても、自分のことばかり考えていては徳は生まれない。
他者に与えてこそ、徳は身に宿るのだ。」
マハーナーマは、はっとした。
――私は、信じることに満足していなかったか。
――戒を守ることに、安住していなかったか。
しかし、それだけでは、世界は変わらない。
自分だけが清らかであっても、他者の苦しみは消えない。
釈尊は、穏やかに、しかし力強く続けられた。
「徳がなければ、修行は続かない。
徳がなければ、因縁を断つ法も、途中で途絶えてしまう。」
その言葉は、マハーナーマの胸に、静かに、しかし確実に刻まれた。
――徳とは、目に見えぬ力。
――だが、それなくして、どの道も歩みきれぬ。
そのとき、彼の脳裏に、かつて聞いた一首の詩がよみがえった。
「種を惜しんで蒔かなければ、
実りを得ることはできない。」
少しの施しが、倍の果報となる。
湯を与えれば、温もりが返る。
水を与えれば、命が潤う。
マハーナーマは、ようやく理解した。
――信とは、灯をともすこと。
――戒とは、その灯を守ること。
――布施とは、その灯で、他者を照らすこと。
三つがそろって、はじめて道は完成する。
彼は深く礼拝し、心の底から誓った。
――私は信じる。
――私は守る。
――そして、私は与える。
その日から、マハーナーマの歩みは変わった。
信は心に宿り、戒は行いとなり、
布施は、世界に小さな光を灯しはじめた。
そしてその光は、やがて彼自身の闇をも照らし出すことになる――。

 

修行の根本となる信 摩訶男白仏。世尊

修行の根本となる信

摩訶男白仏。世尊。云何為満足一切

優婆塞事。仏告摩訶男。若優婆塞有信無成。是则不具。当勤方便具足浄戒具足信戒。

2

いつきいうばそ摩訶男、仏に白さく、「世尊よ、云何が一切優婆塞事を

湖足すと為すや」と。仏、摩訶男に告げたまわく、「若し優婆塞償有りてむ無くば、是れ則ち具せず。単に転が

現代語訳

しんかい使し浄戒を具足し信戒を具足すべし」

マハーナーマは仏さまに申し上げました。

「世尊上、完全な優要塞になるには、どのようにすればよろしいのでしょうか?」

仏さまはマハーナーマに告げられました。

「その者に信があっても成がなければ真の優婆塞とは呼べませんから、精進して浄液を守って、 信と娘の両方を身につけなさい」

1110

解説

さて、マハーナーマはお釈迦さまのお答えをうかがってから、「世尊よ、云何が一切優婆塞事

を満足すと為すや」と再び質問しました。

さきほどのマハーナーマの質問に対して、お釈迦さまは、

「仏の前で、私は死ぬまで仏・法・僧の三宝に帰依いたしますから、優婆塞として私をお認めく

ださい、といえば優要塞になる」

とおっしゃいましたが、これは要するに形式上のことです。深い中身については触れておられ

ません。ですから、マハーナーマは優婆塞事を満足するには、どうすればよいか、つまり、 「完全な優要塞になるには、どのようにすればよろしいのでしょうか?」

と、再び質問したわけです。

すると、お釈迦さまはマハーナーマに、「若し優婆塞信有りて戒無くば、是れ則ち具せず。当に動方便し浄戒を具足し信戒を具足すべし」と答えられました。これは、

「その者に信があっても彼がなければ、満足な優婆塞と呼べないから、精進して浄戒を守って、 信と旅の両方を身につけなさい」

という意味です。

優要塞になった以上、必ず信はあるはずです。もしも、仏さまの教えを信じる気持ちがなければ、なにも仏さまのところへきて、自分は仏・法・僧に一生陽依いたします、と誓うわけがありません。ですから、優婆塞であるからには、仏・法・僧を信じ仰ぐ、という心は必ずあるはずで

宗教においては信がいちばんの根本です。これがなかったならば、どうしようもありません。 信じたい、信じよう、信じる。この気持ちがあって初めて、お釈迦さまの教えを実行しよう、という気になるのです。そこで優婆塞になる。

皆さんはこのお経を読んで、二千数百年前にお釈迦さまがマハーナーマに説法しているお経なのだ、と思うようではいけません。お経というものは、お釈迦さまが今、この自分のために説いてくださっているのだ、と思って読まなければいけないのです。そうして初めて、お経と自分との間に血が通うわけです。

浄土真宗の開祖である親鸞上人(一一七三―一二六二)は、

「仏は親一人がためにこの経(『阿弥陀経」を説き給う」

というようなことを述べておられます。お釈迦さまは自分一人のために『阿弥陀経』をお説きになられたのだと確信しながら、親鸞上人は『阿弥陀経」をお読みになったとされておりますが、

これが本当のお経の読み方です。

「ははあ、二千数百年前にお釈迦さまがマハーナーマに、こういうふうに説教されているのか

というような読み方では、とてもお経の本質を見抜くことはできません。ましてや、そのお経

に書かれていることを現実に生かすことなど、絶対に不可能です。

「お釈迦さまは、この自分に対してお説きくださっている!」

そのように、心の底から感激して読むのが、正しいお経の読み方です。

なるほどたしかに、わたくしは自分が利口で、世の中の人はすべて愚かに見えていましたが、 悪かだと思っている連中がどんどん世の中に出ていって、利口だと思っている自分はうだつが上がらない。運が悪い。まさに「利口で貧乏する」だったのです。

「お前がチャンスに恵まれない理由が分かるか? それは、徳がないからだ。人が成功をつかむには才能だけではだめだ。徳が必要なのだ。徳がなければどれくらい才能にあふれていても、成功をつかむことはできない。では、徳を得るにはどうすればよいのか? 布施をせよ。布施をすれば砲はいくらでも出てくるのだぞ」

まるで、白隠禅師が語りかけてくるようでした。そして、白隠禅師は、三百年後に現われるわたくしのために、この『施行歌」を書いてくださったのだな、と確信しました。

正しく信を育てる戒

あなたがたもこの『一切事経』を、二千数百年前にお釈迦さまがマハーナーマに説いたお経だ、 と考えるようではいけません。「若し優婆塞信有りて戒無くば、是れ則ち具せず。当に勤方便し

浄戒を具足し信戒を具足すべし」とは、

「信があっても戒がなければいけないのだよ。おまえは戒を保っているか?」

とお釈迦さまが、今、自分に直接問いかけてくださっている言葉なのだ、と思わなければいけないのです。

ないのです。

阿含宗信徒諸君は解説宝生行を一生懸命に修行しています。このような修行をするからには、 信は必ずあるはずです。お釈迦さまの法を信じよう、お釈迦さまの成仏法を信じよう、と考えたからこそ入行したわけです。

ところが、信じただけではだめだぞ、とお釈迦さまは諭されていらっしゃる。

入行して三カ月あるいは半年経つと、職員や先達のところにいろいろな不平をいってくる人がいます。

「こんなに信仰しているのに、全然よくならない。こんなに信じていて、一生懸命に修行をしているのに、よいご利益がまったくない」

そういう声を聞きます。

しかし、お釈迦さまは、信じるだけではだめだぞ、とおっしゃっているわけです。たとえば、 阿含宗に入って、毎日、一生懸命にご宝塔に供養を捧げ、お経やご真言を読誦する。これは信です。それらを実行するわけですから、たしかに信はあるわけです。しかし、お釈迦さまは「信」 だけではだめだ、「戒」が必要なのだとおっしゃっています。

「戒」には、二つの意味があります。一つは修行者としてやってはいけないことの取り決め、もう一つは修行者としてやらなければいけないことです。

ところが、これをひっくり返している人が多い。やらなくてはいけないことをまったくしないで、やってはいけないことをせっせ、せっせと行う・・・・・・。それでいて、

「こんなに信じているのに!」

どと文句をいう。これではしかたがありません。信じるだけで、物事がうまくいくわけはありません、そうでしょう。自分は受験に合格するということを信じてさえいれば、勉強しなくても大学あるいは高校の入学試験に合格しますか?

そのようなことはあり得ません。立派な先生について勉強を教わる、そしてその先生を信じて、 先生のいうとおりに勉強し努力する。それで初めてよい結果が出てくるのです。信じるだけではしかたがありません。

もちろん、信じることが一番最初に必要です。ですから、信じなければいけません。しかし、 信じているだけでは足りません。当たり前のことですが、その当たり前のことが、いわれなければ分からないのです。これが凡夫の悲しいところです。

わたくしたちがやらなければいけない彼は、まず第一に、一日一回必ず勤行をするということです、そして、導師から授かった戒行・課行を必ず実行する、ということです。信仰を持つというのは、ただ種をまいただけにすぎません。その種から、すくすくと芽が伸びて、立派な花が咲くようにするには、いろいろな手入れが必要です。肥料も与えなければいけないし、雑草も抜かなければいけません。

この二つがそろってはじめて、「信」という種がすくすくと芽を出し、やがて花を咲かせ、実を結ぶのです。種をまいても、ほうっておけば枯れてしまいます。枯れないまでも健全に育っていきません。

修行も同じです。一生懸命に勤行をし、先祖のご供養をする。これは大切なことですが、それだけでは信仰の種をまいただけにすぎません。その種がすくすくと伸びていくためには、戒がな

ければいけないのです。

それでは、戒を具足すればそれでよいのかと申しますと、それでもまだまだ足りないとお釈迦

さまはおっしゃいます。

それではまだなにが必要なのでしょうか?

徳のもととなる布施の行

而不施者是則不具。以不具故精勤方便。修習布施。令其具足満信戒施満。

「而して悪さざる者は是れ則ち具せざるなり。具せざるを以ての故に精勤方便し布施を修習し、其れをして具足澱ぜしめ、伝むぎ減ならしむ」

現代語訳

「(信と彼がそろっても、)布施を行わなければ真の優婆塞とは呼べません。努力と工夫によって布施行を実践し、信と戒と施(布施)を円満に修めなさい」

ここでお釈迦さまは、布施をしなければ、信と変があっても完全な優婆塞とは呼べない、と説かれております。

なぜならば、布施によって初めて徳が生じるからです。信を持ち戒を保つということは、自分だけのことをやっているにすぎません。自分にとってプラスになることだけをやっているわけです。一方、他の人になにかを施すということは、他の人にブラスを与えることになります。

どのような難行苦行であっても、自分のことばかりを考えていたのでは、徳は生まれません。 他の人になにかを与えてこそ、自分の身に徳が生じるのです。人間というものは、徳がなければなに一つ成功させることはできません。これは、仕事でもなんでも同じです。

わたくしはいつも、

「人の不幸の元凶は因縁である。その因縁を切る成仏法を実践することによってのみ、人は本当

の幸福を得ることができる」

と申し上げております。しかし、不徳の身では、その成仏法でさえやり通すことができないのです。徳があってこそ、修行は順調に進みます。徳がなければ、因縁を切る修行でさえも途中でだめになるのです。修行に嫌気がさしたり、経済的に不如意になったり、あるいは周囲の者が意味もなく反対します。とにかく、うまくいかなくなってしまうわけです。

さきほど、白隠禅師の『施行歌」についてお話ししました。い切さを初めて身に染みて感じま

ために説いたものですが、その中に

 

さきほど、白隠禅師の『施行歌」についてお話ししました。

切さを初めて身に染みて感じました。「施行歌」とは、布施の行の大切さを分かりやすく民衆の

ために説いたものですが、その中に、

「富貴に大小ある事は蒔種大小あるゆへぞ

この世はわづかの物なればよい種ゑらんでまきたまへ

たねを惜みてうへざれば 穀物取たる例なし

田畑に麦神蒔ずして麦ひく取たるためしなしいつとためしむぎひへ壱升まきをけば 五升や壱斗はみのるぞや然れば少しの施しも果報は倍あるものぞ

湯や施し多ければ くわほうも多しと斗りしれ」

という言葉があります。わたくしは、これはまさに真理だと思います。

功徳の種をまかずに、徳の実が実るはずはありません。功徳の種を少しでもまくならば、必ずそれよりも大きな徳の実を得ることができるのです。功徳の種をまく、これこそが布施の行なのです。 より