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小説風化:「解説の力──四安那般那念法を巡る記録」第一話より

小説風化:「解説の力──四安那般那念法を巡る記録」第一話より

 

 

夜は静かに更けていた。風の音も止み、草木は一切の囁きをやめた。トウマは薄明かりの灯の下、古びた写本を開いていた。

「奇特止息法――」

その言葉に、彼の指が止まる。紙に刻まれた文字の、ひとつひとつが呼吸しているかのように見えた。

「奇特──特に異なっていること。不思議なこと。奇蹟。」

その語義の解説を目にした瞬間、彼の胸にざわめきが走った。それは単なる呼吸法や坐禅の術ではなかった。この法は、顔を起こす力、すなわち眠れる魂を目覚めさせる、「特異なる禅定」なのだという。

「奇蹟……か。」

彼はつぶやいた。
成仏とは、果たして何なのか。自分という存在の深みに沈み、闇と対峙する中で、光を見出すこと。それが仏となる道ならば、そこには何かしらの通力──それも並外れた「大神通力」が必要であるはずだ。

しかし、その「大神通力」とは、何かを動かしたり、空を飛んだり、超常の力を持つことではない。

「解説の力──」

トウマは、師の言葉を思い出していた。

「真に奇蹟と呼べるものは、自分を解き明かす力、自他の因縁を明らかにする智慧じゃ。解説とは、ただ語ることではない。それは宇宙を照らす仏の灯火なのじゃ。」

因縁を解き、自らの苦しみを説明できること。
それこそが、成仏への鍵なのだと。

この写本に記されていた四つの法──

勝止息法

奇特止息法

上止息法

無上止息法

それらは、まさに因縁解脱を実現する「解説力」の根源だった。
つまり、因縁解脱力を得るための、大神通力を生む四つの扉である。

トウマの心に、ある直感が閃いた。

「これらは、四神足のうちの“観神足”にほかならないのではないか……」

深く座し、観じることにより、神足──自在なる智慧と力を得る。
それは師から授かった阿含の中にあった“一乗道”の教えと響きあっていた。

「七科三十七道品では足りぬ。これを加えなければならぬ。」

トウマは筆を取り、写本の余白に一行の文字を刻む。

「八科四十一道品──これをもって成仏法奥義とす。」

その文字を見つめながら、彼は小さく笑った。
自らを解く力、因縁を解き明かし、道を照らす力。

それこそが、最大の奇蹟。
彼は、いまその奇蹟への扉の前に立っていた。

第二話「勝止息法――息を止め、心を聴く」

まだ夜明け前の森に、鳥たちの声はなかった。
トウマは、ただ坐していた。

「勝止息法……これは、呼吸をもって心を制する最初の法だ。」

師の言葉が、まるで風のように胸を撫でた。

「勝とは、優れるということじゃ。呼吸を優れたものにする。つまり、それは“気づいた呼吸”のはじまりなのじゃ。」

吸う──
その息が、どこから来たのかを観る。

吐く──
その息が、どこへ向かうのかを観る。

トウマはゆっくりと、鼻から息を吸い込み、腹の底にそれを沈めていった。
一切の思考を退け、ただ、呼吸だけを観察する。

しかし──

「……雑念が、湧いてくる。」

心は止まらず、まるで猿のように枝から枝へと跳ねまわる。
昨日の後悔、未来の不安、人の声、己の未熟。
止めようとしても、止まらない。

「止息とは、息を止めるのではない。心の波を鎮めることじゃ。」

呼吸に「勝つ」とは、呼吸を「支配する」ことではない。
呼吸の声に「気づき」、それを「離さぬこと」。

トウマは、呼吸に戻った。
一度、また一度。
十度、百度。

そのときだった。

風が、ふっと止んだ。
音が消えた。

時間が――呼吸の中に沈んでいった。

世界が、吸う息の一瞬に凝縮し、
吐く息の中に、無限に広がっていく。

トウマの胸に、光のような確信が湧いた。

「私は、いま“在る”。」

心が、過去にも未来にも向いていない。
ただ、「いま、ここ」にいる。

これが――「勝止息法」の境地なのか。

その瞬間、彼の内に一つの“道”がひらいた。
それは、単なる静けさではなかった。
呼吸を通して、己の因縁が、遠くから語りかけてきた。

「いま、あなたが坐っているのは、すべての過去の果実なのです。」

それが、因縁の声だった。
自分が呼吸をするということすら、数えきれぬ生命と行為のつながりによって成り立っている――

「呼吸を観ることで、因縁が観えてくる……これが“解説”のはじまりか……」

トウマの中に、静かな確信が宿った。
勝止息法とは、心を勝ち取る道ではない。
心に、勝つのではなく、心を観る者となる道。

そしてそこから、大神通力の小さな芽が、確かに芽吹きはじめたのであった。

第三話「奇特止息法――因縁が語りかけるとき」

それは、ある朝のことだった。
山の気配は冷たく、白い霧が道場の床を這っていた。
トウマは、まだ薄闇のなかで坐していた。

すでに「勝止息法」は、彼の呼吸を静めていた。
吸う。吐く。
呼吸が深まるたびに、心の波もまた深く沈んでいく。

と、そのときだった。

――視界が、反転した。

彼は坐っていた。たしかに自分の肉体に。
しかし、その「感覚」は――自分ではない何者かに向かって開かれていた。

「……これは……誰の記憶だ……?」

目を閉じたまま、彼は少女の姿を見た。
まだ幼い。だが、その瞳には深い悲しみがあった。
誰にも言えなかった言葉。
誰にも気づかれなかった涙。

「私は……なぜ、この子を知っている?」

その瞬間、トウマの中で何かがほどけた。
まるで、見えざる網の目のように張りめぐらされていた「縁」が、彼の内と外を結んでいたのだ。

「奇特止息法とは、奇蹟の呼吸。
自他を隔てる幻想を破り、縁の深層に触れる通路である。」

かつて師が語った言葉が蘇る。

「己の心に深く入ったとき、他者の心もまた映りはじめるのじゃ。
それは、思いやりでも、同情でもない。
それは、観照という名の神通じゃ。」

「この少女は、どこかで私と出会っていた……」

もしかしたら、前世かもしれない。
あるいは、まだ未来かもしれない。

それでも確かなのは、トウマの内に映ったその姿は、彼の修行の一部になっていたということだった。

呼吸とは、いのちそのものである。
そして、いのちがいのちを観るとき、奇蹟は起こる。

心が、隔てを超えるとき、
見えなかった因縁が語りはじめるのだ。

「この法は、図録解説の力を授ける」
「因縁を語ることができる者は、仏の言葉をもって世界を照らす」

トウマの胸に、確かな熱が灯った。

奇特止息法とは、因縁を語る力。
それは、最初の大神通力への門であった。

第四話「上止息法――空の呼吸と、存在の消失」

「我とは、何か。」

その問いは、もはや思考ではなかった。
息を吸い、吐く──そのすべての動きが、問いのなかにあった。

トウマは今、**上止息法(じょうしそくほう)**に入っていた。

勝止息法は、呼吸に目覚める法だった。
奇特止息法は、呼吸を通して因縁の世界と交信する法だった。

しかし――上止息法は違った。
呼吸が、もはや呼吸ではなくなる。
「吸っている」という感覚も、
「自分が息をしている」という感覚すら、消えはじめる。

はじめは、微細な気づきだった。
吸ったはずの息が、どこかに留まらない。
吐いたはずの息が、どこかへ流れていかない。

すべてが、その場で溶けて消えていくようだった。

「……息が、空そのものになっている……?」

すると、身体の感覚もまた消えていった。

足の痛み、背の重さ、腹の鼓動──
すべてが霧のように消散し、

次の瞬間。

彼は、自分が「存在している」という実感すら、失っていた。

<それ>は、名も形もない。
ただ、気づきだけが在った。

時間がなく、
空間もなく、
「誰か」が坐っているわけでもない。

けれど確かに、「何か」がそこに在った。

――空観(くうがん)

自他、善悪、生死、喜怒哀楽――
すべての区別が、観照されるものとして浮かびあがり、そして消える。

「上止息法とは、己が空なる存在であることを悟る法である。」

かつて師が語ったその言葉の意味を、
トウマは今、**身体を超えた“何か”**で理解していた。

それは、“無”ではなかった。
むしろ、“満ちていた”。

声なき声。
光なき光。
名なき気づき。

「私は、ここに“在って”、同時に“在らぬ”。」

止息は、いのちの流れの中ですべてと一体となる技法であり、
上止息法はその頂上だった。

ふと、トウマはゆっくりと目を開けた。

森は静かだった。
鳥の声が戻っていた。
自分の身体の重さが、ゆるやかに戻ってくる。

「……これが、“空の呼吸”……」

何も変わっていない。
だが、すべてが変わっていた。

彼の瞳には、世界が透明なものとして映っていた。

 

第五話「無上止息法――仏陀の息」

「息を、超えよ。」

それが、師から与えられた最後の言葉だった。

トウマは、深い静寂のなかに坐っていた。
呼吸は、もう意識の外にある。
上止息法を経て、彼の息は“空”となり、
自我すらも霧散していた。

では、無上止息法とは──
この先に、何があるというのか?

沈黙の深淵のなかで、
彼の内から、なにかが聴こえてきた。

それは「音」ではない。
「言葉」ですらない。

けれど──明確に、「意味」がそこにあった。

「星の誕生にも、終わりにも、因縁がある。」
「ひとつの風が吹くにも、億劫の因果が流れている。」
「すべてを語ることができる。語る力が、今ここに在る。」

トウマの胸が、熱を帯びて震えた。

「これが、解説力──」

目に見えぬ宇宙の構造が、
世界を貫く因果の流れが、
遠い過去の縁起と、まだ見ぬ未来の結実が、

彼の中に「読めるもの」として流れ込んでくる。

まるで、宇宙そのものが「語って」いるようだった。

静寂の中心に、光があった。

それは燃え上がる炎ではない。
夜の底に咲く、白蓮のような光だった。
やがてそれは、仏陀の顔となって現れた。

仏は、呼吸していた。
その息が、すべての星々を動かし、
その吐息が、無量の法を説いていた。

「この息は、我が息ではない。」
「法の息。空の息。慈悲の鼓動。」
「汝が得たこの息は、解説の息である。」

トウマは、涙が溢れていることに気づいた。
息をするたび、世界が語られていく。
風も、光も、人の言葉も、すべてが因縁の教えとなって、
彼の心に流れ込んでくる。

彼は、もう“説ける”。
人の苦しみの縁起も、
己が闇の来歴も、
なぜ星は死に、なぜ仏は誕生するのかさえも。

彼の息は、「仏陀の息」となっていた。

そのとき、森の空気が変わった。

鳥が歌い始め、
風が彼の頬を撫で、
地面が柔らかく息づいていた。

彼は立ち上がった。
「私は、語らねばならぬ。」

大神通力を得たものとして。
因縁を解く語り手として。
世界に仏の法を響かせる者として。

トウマの胸には、ただ静かな覚悟があった。

 

 

奇蹟への扉』 The Door to the Miracle

奇蹟への扉』

The Door to the Miracle

夜の帳(とばり) 声を潜め
紙の上に 光が舞う
名もなき息 深く座して
魂だけが 目覚めてゆく

解き明かすは この因縁
光となれ 闇の底で
言葉の剣 解説の火
奇蹟は今 ここに在る

 

The veil of night — all voices hushed
Light dances soft on pages brushed
A nameless breath, in stillness deep
Only the soul begins to wake

Unravel fate, the bonds unseen
Be light itself in depths of dark
The sword of words, the fire of truth
The miracle is here and now

小説風化:「解説の力──四安那般那念法を巡る記録」

小説風化:「解説の力──四安那般那念法を巡る記録」第一話より

夜は静かに更けていた。風の音も止み、草木は一切の囁きをやめた。トウマは薄明かりの灯の下、古びた写本を開いていた。

「奇特止息法――」

その言葉に、彼の指が止まる。紙に刻まれた文字の、ひとつひとつが呼吸しているかのように見えた。

「奇特──特に異なっていること。不思議なこと。奇蹟。」

その語義の解説を目にした瞬間、彼の胸にざわめきが走った。それは単なる呼吸法や坐禅の術ではなかった。この法は、顔を起こす力、すなわち眠れる魂を目覚めさせる、「特異なる禅定」なのだという。

「奇蹟……か。」

彼はつぶやいた。
成仏とは、果たして何なのか。自分という存在の深みに沈み、闇と対峙する中で、光を見出すこと。それが仏となる道ならば、そこには何かしらの通力──それも並外れた「大神通力」が必要であるはずだ。

しかし、その「大神通力」とは、何かを動かしたり、空を飛んだり、超常の力を持つことではない。

「解説の力──」

トウマは、師の言葉を思い出していた。

「真に奇蹟と呼べるものは、自分を解き明かす力、自他の因縁を明らかにする智慧じゃ。解説とは、ただ語ることではない。それは宇宙を照らす仏の灯火なのじゃ。」

因縁を解き、自らの苦しみを説明できること。
それこそが、成仏への鍵なのだと。

この写本に記されていた四つの法──

勝止息法

奇特止息法

上止息法

無上止息法

それらは、まさに因縁解脱を実現する「解説力」の根源だった。
つまり、因縁解脱力を得るための、大神通力を生む四つの扉である。

トウマの心に、ある直感が閃いた。

「これらは、四神足のうちの“観神足”にほかならないのではないか……」

深く座し、観じることにより、神足──自在なる智慧と力を得る。
それは師から授かった阿含の中にあった“一乗道”の教えと響きあっていた。

「七科三十七道品では足りぬ。これを加えなければならぬ。」

トウマは筆を取り、写本の余白に一行の文字を刻む。

「八科四十一道品──これをもって成仏法奥義とす。」

その文字を見つめながら、彼は小さく笑った。
自らを解く力、因縁を解き明かし、道を照らす力。

それこそが、最大の奇蹟。
彼は、いまその奇蹟への扉の前に立っていた。

第二話「勝止息法――息を止め、心を聴く」

まだ夜明け前の森に、鳥たちの声はなかった。
トウマは、ただ坐していた。

「勝止息法……これは、呼吸をもって心を制する最初の法だ。」

師の言葉が、まるで風のように胸を撫でた。

「勝とは、優れるということじゃ。呼吸を優れたものにする。つまり、それは“気づいた呼吸”のはじまりなのじゃ。」

吸う──
その息が、どこから来たのかを観る。

吐く──
その息が、どこへ向かうのかを観る。

トウマはゆっくりと、鼻から息を吸い込み、腹の底にそれを沈めていった。
一切の思考を退け、ただ、呼吸だけを観察する。

しかし──

「……雑念が、湧いてくる。」

心は止まらず、まるで猿のように枝から枝へと跳ねまわる。
昨日の後悔、未来の不安、人の声、己の未熟。
止めようとしても、止まらない。

「止息とは、息を止めるのではない。心の波を鎮めることじゃ。」

呼吸に「勝つ」とは、呼吸を「支配する」ことではない。
呼吸の声に「気づき」、それを「離さぬこと」。

トウマは、呼吸に戻った。
一度、また一度。
十度、百度。

そのときだった。

風が、ふっと止んだ。
音が消えた。

時間が――呼吸の中に沈んでいった。

世界が、吸う息の一瞬に凝縮し、
吐く息の中に、無限に広がっていく。

トウマの胸に、光のような確信が湧いた。

「私は、いま“在る”。」

心が、過去にも未来にも向いていない。
ただ、「いま、ここ」にいる。

これが――「勝止息法」の境地なのか。

その瞬間、彼の内に一つの“道”がひらいた。
それは、単なる静けさではなかった。
呼吸を通して、己の因縁が、遠くから語りかけてきた。

「いま、あなたが坐っているのは、すべての過去の果実なのです。」

それが、因縁の声だった。
自分が呼吸をするということすら、数えきれぬ生命と行為のつながりによって成り立っている――

「呼吸を観ることで、因縁が観えてくる……これが“解説”のはじまりか……」

トウマの中に、静かな確信が宿った。
勝止息法とは、心を勝ち取る道ではない。
心に、勝つのではなく、心を観る者となる道。

そしてそこから、大神通力の小さな芽が、確かに芽吹きはじめたのであった。

第三話「奇特止息法――因縁が語りかけるとき」

それは、ある朝のことだった。
山の気配は冷たく、白い霧が道場の床を這っていた。
トウマは、まだ薄闇のなかで坐していた。

すでに「勝止息法」は、彼の呼吸を静めていた。
吸う。吐く。
呼吸が深まるたびに、心の波もまた深く沈んでいく。

と、そのときだった。

――視界が、反転した。

彼は坐っていた。たしかに自分の肉体に。
しかし、その「感覚」は――自分ではない何者かに向かって開かれていた。

「……これは……誰の記憶だ……?」

目を閉じたまま、彼は少女の姿を見た。
まだ幼い。だが、その瞳には深い悲しみがあった。
誰にも言えなかった言葉。
誰にも気づかれなかった涙。

「私は……なぜ、この子を知っている?」

その瞬間、トウマの中で何かがほどけた。
まるで、見えざる網の目のように張りめぐらされていた「縁」が、彼の内と外を結んでいたのだ。

「奇特止息法とは、奇蹟の呼吸。
自他を隔てる幻想を破り、縁の深層に触れる通路である。」

かつて師が語った言葉が蘇る。

「己の心に深く入ったとき、他者の心もまた映りはじめるのじゃ。
それは、思いやりでも、同情でもない。
それは、観照という名の神通じゃ。」

「この少女は、どこかで私と出会っていた……」

もしかしたら、前世かもしれない。
あるいは、まだ未来かもしれない。

それでも確かなのは、トウマの内に映ったその姿は、彼の修行の一部になっていたということだった。

呼吸とは、いのちそのものである。
そして、いのちがいのちを観るとき、奇蹟は起こる。

心が、隔てを超えるとき、
見えなかった因縁が語りはじめるのだ。

「この法は、図録解説の力を授ける」
「因縁を語ることができる者は、仏の言葉をもって世界を照らす」

トウマの胸に、確かな熱が灯った。

奇特止息法とは、因縁を語る力。
それは、最初の大神通力への門であった。

第四話「上止息法――空の呼吸と、存在の消失」

「我とは、何か。」

その問いは、もはや思考ではなかった。
息を吸い、吐く──そのすべての動きが、問いのなかにあった。

トウマは今、**上止息法(じょうしそくほう)**に入っていた。

勝止息法は、呼吸に目覚める法だった。
奇特止息法は、呼吸を通して因縁の世界と交信する法だった。

しかし――上止息法は違った。
呼吸が、もはや呼吸ではなくなる。
「吸っている」という感覚も、
「自分が息をしている」という感覚すら、消えはじめる。

はじめは、微細な気づきだった。
吸ったはずの息が、どこかに留まらない。
吐いたはずの息が、どこかへ流れていかない。

すべてが、その場で溶けて消えていくようだった。

「……息が、空そのものになっている……?」

すると、身体の感覚もまた消えていった。

足の痛み、背の重さ、腹の鼓動──
すべてが霧のように消散し、

次の瞬間。

彼は、自分が「存在している」という実感すら、失っていた。

<それ>は、名も形もない。
ただ、気づきだけが在った。

時間がなく、
空間もなく、
「誰か」が坐っているわけでもない。

けれど確かに、「何か」がそこに在った。

――空観(くうがん)

自他、善悪、生死、喜怒哀楽――
すべての区別が、観照されるものとして浮かびあがり、そして消える。

「上止息法とは、己が空なる存在であることを悟る法である。」

かつて師が語ったその言葉の意味を、
トウマは今、**身体を超えた“何か”**で理解していた。

それは、“無”ではなかった。
むしろ、“満ちていた”。

声なき声。
光なき光。
名なき気づき。

「私は、ここに“在って”、同時に“在らぬ”。」

止息は、いのちの流れの中ですべてと一体となる技法であり、
上止息法はその頂上だった。

ふと、トウマはゆっくりと目を開けた。

森は静かだった。
鳥の声が戻っていた。
自分の身体の重さが、ゆるやかに戻ってくる。

「……これが、“空の呼吸”……」

何も変わっていない。
だが、すべてが変わっていた。

彼の瞳には、世界が透明なものとして映っていた。

 

第五話「無上止息法――仏陀の息」

「息を、超えよ。」

それが、師から与えられた最後の言葉だった。

トウマは、深い静寂のなかに坐っていた。
呼吸は、もう意識の外にある。
上止息法を経て、彼の息は“空”となり、
自我すらも霧散していた。

では、無上止息法とは──
この先に、何があるというのか?

沈黙の深淵のなかで、
彼の内から、なにかが聴こえてきた。

それは「音」ではない。
「言葉」ですらない。

けれど──明確に、「意味」がそこにあった。

「星の誕生にも、終わりにも、因縁がある。」
「ひとつの風が吹くにも、億劫の因果が流れている。」
「すべてを語ることができる。語る力が、今ここに在る。」

トウマの胸が、熱を帯びて震えた。

「これが、解説力──」

目に見えぬ宇宙の構造が、
世界を貫く因果の流れが、
遠い過去の縁起と、まだ見ぬ未来の結実が、

彼の中に「読めるもの」として流れ込んでくる。

まるで、宇宙そのものが「語って」いるようだった。

静寂の中心に、光があった。

それは燃え上がる炎ではない。
夜の底に咲く、白蓮のような光だった。
やがてそれは、仏陀の顔となって現れた。

仏は、呼吸していた。
その息が、すべての星々を動かし、
その吐息が、無量の法を説いていた。

「この息は、我が息ではない。」
「法の息。空の息。慈悲の鼓動。」
「汝が得たこの息は、解説の息である。」

トウマは、涙が溢れていることに気づいた。
息をするたび、世界が語られていく。
風も、光も、人の言葉も、すべてが因縁の教えとなって、
彼の心に流れ込んでくる。

彼は、もう“説ける”。
人の苦しみの縁起も、
己が闇の来歴も、
なぜ星は死に、なぜ仏は誕生するのかさえも。

彼の息は、「仏陀の息」となっていた。

そのとき、森の空気が変わった。

鳥が歌い始め、
風が彼の頬を撫で、
地面が柔らかく息づいていた。

彼は立ち上がった。
「私は、語らねばならぬ。」

大神通力を得たものとして。
因縁を解く語り手として。
世界に仏の法を響かせる者として。

トウマの胸には、ただ静かな覚悟があった。

 

 

四安那般那念法

四安那般那念法は、つぎの四法から成る。

勝止息法 奇特止息法

上止息法

無上止息法

である。

では、その「安那般那念法」とはどういう法なのか?

この中の、「奇特止息法」という文字に目をとめていただきたい。

「佛教語大辞典」によると、こうある。

【奇特】 特に異なっていること。不思議なこと。奇蹟。

つま今特近見店とは、顔を起こす力をあたえる特異な禅定法なのである。 このつの法は、すべて、奇蹟大神通力をあたえる特殊な法なのである。

では、その奇蹟とはなにか? 大神通力とはなんであろうか?

それは「解説力」である。

解説こと宇宙最高の奇蹟ではないのか。自分を変え、世界を変える、これ以上の奇蹟があるであろうか?

そして、この奇蹟の図録解説をなしとげる、因縁解脱力こそ仏法最高の大神通力なのである。したがって、この四つの法は、因縁解説をして成仏する大神通力をあたえる法なのである。

わたくしは、この四つの法は、四神足法の中の、「観神足法」とおなじであると考えている。というよりもら「観神足法」、あるいは「四神足法」そのものの具休的な説明・解説になっているのではないか、と思っているのである。そこで、アビダルマ仏教は、この四安那般那念法を、(わざわざ一科目立てることをせず)七科三十七道品の中に入れなかったのではないかとも考えられるが、しかし、やはりこの「科四品は、加えられなければならないものである。

それと同時に、阿含の型群が、四神足法を「一乗道」とした理由もうなずけるのではないか。

大神通力を得る禅定
釈尊が教えた成仏法は、奇蹟を起こすためのものではない。

しかし、凡夫が成仏して仏陀になるということ自体、たいへんな奇蹟というべわざきではないか。それは、大神通力を持ってこそ、はじめてなし得る業である。平凡な人間が、平凡のままパッと仏陀に変身するわけではない。その修行課程において、修行者は、

通力神通力大神通力

が身にそなわるのである。

成仏法奥義—————八科四十一道品

 

それは、大神通力を得

くとめた「七科三十七道品」だけでは完全ではない、ということである。

もうひとつ、絶対に必要な法がある、ということである。

わたくしは、この法を加えて、成仏法を「八科四十一道品」とする。

 

上の文章を小説風して

 

 

成仏法奥義

成仏法奥義————八科四十一道品

釈が教えた成仏法は、奇蹟を起こすためのものではない。

しかし、凡夫が成仏して仏陀になるということ自体、たいへんな奇蹟というべわざきではないか。それは、大神通力を持ってこそ、はじめてなし得る業である。平凡な人間が、平凡のままパッと仏けではない。その修行課程において、修行者は、

通力神通力大神通力

が身にそなわるのである。

成仏法奥義—————八科四十一道品

 

それは、大神通力を得て成仏するためには、アビダルマ仏教の論師たちがま

くとめた「七科三十七道品」だけでは完全ではない、ということである。

もうひとつ、絶対に必要な法がある、ということである。

わたくしは、この法を加えて、成仏法を「八科四十一道品」とする。

それは、つぎのようになる。

四念住法

四正断法

あなはなねんぼう四安那般那念法

四神足法

五根法

五力法

七覚支法

八正道法

四安那般那念法

である。

四安那般那念法は、つぎの四法から成る。

勝止息法 奇特止息法

上止息法

無上止息法

である。