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成仏への道 ―― 梵行と秘密の修行法

成仏への道 ―― 梵行と秘密の修行法
The Path to Enlightenment — Buddhist Practice and Secret Training Methods

夜の山道 風が鳴いている
白い霧の中 月は隠れてる
答えを探して 石段を登る
迷いの心を 抱いたままで

 

経を読み 滝に打たれ
禅を組み 真言を唱えた
それでも胸の奥には
消えぬ怒りと 恐れがあった

 

「力だけでは届かぬ」
老師の声が闇を裂く
「徳なき修行は崩れ去る」
灯明の火が静かに揺れた

Namosattanan
sanmyaksanmodaktinan
taniyata
on shaley shurei juntei
sowaka

滅罪生善 人を救え
信と精進 その道を行け
智慧の光は 徳に宿る
輪廻を越えて 朝日へ向かえ

 

欲望の火を越えた先
色界の空は静かに澄む
戻らぬ魂は風となり
深い禅天を渡ってゆく

 

須陀洹から阿羅漢へ
終わりなき道を歩む
「仏とは万徳円満」
鐘の響きが胸に残る

Namosattanan
sanmyaksanmodaktinan
taniyata
on shaley shurei juntei
sowaka

滅罪生善 人を救え
信と精進 その道を行け
智慧の光は 徳に宿る
輪廻を越えて 朝日へ向かえ

 

東の空が白く染まり
長い夜明けが訪れる
山の彼方で鐘が鳴る

成仏への道 ―― 梵行と秘密の修行法 The Path to Enlightenment — Buddhist Practice and Secret Training Methods

成仏への道 ―― 梵行と秘密の修行法
The Path to Enlightenment — Buddhist Practice and Secret Training Methods

夜の山道には、冷たい風が吹いていた。
杉の梢がざわめき、遠くで梟が鳴く。月は雲に隠れ、闇の中には、かすかな白い霧が漂っている。
若い修行者・蓮真は、石段を一歩ずつ登っていた。
山奥の庵に住む老師のもとを訪ねるためだった。
彼は長い間、問い続けていた。
――なぜ、自分は悟れないのか。
経を読み、坐禅を組み、真言を唱え、滝にも打たれた。だが心の奥底には、なお怒りがあり、不安があり、欲望があり、恐れがあった。
「もっと高度な修行法が必要なのだろうか……」
そう思っていた。
やがて庵の灯が見えた。
古びた木戸を開けると、香木の香りが静かに流れてくる。
老師は灯明の前に座っていた。
深い沈黙。
やがて老師が口を開く。
「蓮真よ。おまえは、成仏法には二つあることを知っているか」
「二つ……ですか?」
「そうだ。“特殊な修行”と、“梵行”だ」
蓮真は眉をひそめた。
「特殊な修行とは、瞑想や禅定のことですか」
老師はうなずく。
「念を自在に操る念根。深い禅定に入る定根。真理を体得する慧根。これらはすべて、特殊な修行法だ」
灯明の火が揺れた。
「だが、それだけでは成仏できぬ」
「なぜです?」
老師は静かに蓮真を見た。
「徳が足りぬからだ」
その言葉は、夜気よりも鋭く胸に刺さった。
梵行とは何か
「世の修行者たちは、力ばかり求める」
老師は続けた。
「深い瞑想をしたい。神通力を得たい。智慧を得たい。だがな――」
老師は床を指で軽く叩いた。
「土台が腐っていては、高い塔は建たぬ」
「土台……」
「それが梵行だ」
庵の外では、風が竹を鳴らしていた。
「梵行とは、滅罪生善の行」
「滅罪生善……」
「過去の悪業を滅し、善徳を積むことだ」
老師の声は低く、深かった。
「この娑婆世界に生まれているということは、それだけで、過去に多くの悪業を積んできた証なのだ」
蓮真は黙った。
胸の奥に、過去の記憶がよぎる。
怒り。 嫉妬。 人を傷つけた言葉。 見捨てた誰か。
老師は静かに言った。
「人は、自分が思っている以上に、重い因縁を背負っている」
「では……その罪を消すには?」
「善を積むしかない」
老師は灯明を見つめた。
「人を助けることだ。人を喜ばせることだ。耐えることだ。与えることだ。誠実に生きることだ」
「それが梵行……」
「そうだ」
なぜ高度な修行ほど失敗するのか
「不思議に思わぬか」
老師は言った。
「なぜ、多くの修行者は途中で挫折するのか」
蓮真はうなずいた。
「病気になる。事故に遭う。家庭が壊れる。人間関係が崩れる。あるいは突然、修行そのものが嫌になる」
老師の目が鋭く光った。
「徳が足りぬからだ」
蓮真は息を呑む。
「高度な修行法とは、巨大な火を扱うようなものだ。徳がなければ、その火に焼かれる」
風が強く吹き、障子が鳴った。
「だから仏陀は、まず信根と精進根を説かれた」
「信根……精進根……」
「仏を信じ、善行に励むことだ」
「では、念根・定根・慧根は……」
「その後だ」
老師は静かに言った。
「徳なき者に、高度な法は定着しない」
四沙門果への道
夜はさらに深くなっていた。
老師は古い経巻を開いた。
「五根法を修めれば、人は須陀洹に入る」
「須陀洹……」
「聖者の流れに入る者だ。もう二度と仏道から退転しない」
蓮真の瞳が揺れる。
「さらに修行を重ねれば、斯陀含、阿那含、そして阿羅漢へ至る」
「阿羅漢……仏陀……」
老師はうなずいた。
「煩悩を滅し、生死輪廻を超えるのだ」
その瞬間。
庵の外の風が止んだ。
深い静寂。
まるで世界そのものが呼吸を止めたようだった。
「成仏とはな」
老師は静かに言った。
「どこかへ行くことではない」
「……」
「輪廻が終わることだ」
蓮真の胸が震えた。
「もう二度と、迷いの世界へ戻らぬことだ」
五種不還 ―― 色界へ向かう魂
老師は続けた。
「阿那含となった者は、人間界へ戻らぬ」
「では、どこへ?」
「色界だ」
老師は天を指さした。
「欲望の世界を超えた清浄な世界だ」
蓮真は息を呑む。
「そこには初禅天、第二禅天、第三禅天、第四禅天がある」
「その世界で修行を続けるのですか」
「者による」
老師は静かに笑った。
「死の途中で悟る者もいる。生まれてすぐ悟る者もいる。長い修行の果てに悟る者もいる。何もしなくとも自然に悟る者もいる」
「それが五種不還……」
「そうだ」
夜空の雲が切れ、月光が差し込んだ。
その光は、老師の白髪を銀色に照らしていた。
仏とは万徳円満である
「覚えておけ」
老師は最後に言った。
「仏とは、ただ瞑想が上手い者ではない」
「……」
「万徳円満の存在だ」
その言葉は、鐘の音のように蓮真の心へ響いた。
「徳なき智慧は危うい。徳なき力は人を傷つける。徳なき修行は、最後には必ず崩れる」
老師は静かに目を閉じた。
「だから仏陀は、梵行を説かれたのだ」
庵の外では、東の空がわずかに白み始めていた。
長い夜が終わろうとしている。
蓮真は深く頭を下げた。
彼はようやく理解し始めていた。
成仏とは、ただ特殊な修行を極めることではない。
人を救い、 徳を積み、 己の悪を滅し、 智慧を磨き、 そして輪廻そのものを終わらせる道なのだと。
山の彼方で、朝の鐘が鳴った。

成仏法を構成する梵行と特殊な修行

成仏法を構成する梵行と特殊な修行

 

さて、五根法をよく見ていくと、あることに気がつくはずです。

それはなんでしょうか?

以前からお話ししていることですが、お釈迦さまの成仏法は二つの内容から成り立っています。 その二つとは、「特殊な修行法」と「梵行」です。成仏法は、この二つから成り立ちます。たと

えば五根法を見ていくと、信根と精進根が梵行で、念根・定根・慧根は特殊な修行法になります。 世の中の多くの仏教団体を見ていますと、梵行にあたるものだけを信徒に勧めているようです。 高度な智慧や能力を得るための特殊な修行法などは、まったく見あたりません。

たとえば、ある教団では布教を以て唯一無二の修行とし、またある教団では自分の家のお墓だけではなく、他人の家のお墓でも手当たりしだいにお掃除をさせて修行としています。これらは、 いわば梵行の範囲です。どのような教団でも、信者になにかしらの善行をさせていますが、これらは梵行に該当するものです。けれども、どの教団にも肝心要の修行法がありません。

しかし、お釈迦さまの成仏法には、高度な智慧や能力を持つための特殊な修行法があります。 わたくしはそれを求めて修行をし、とうとう「阿含経」の成仏法にたどりつきました。わたくしは、それまで成仏法という修行法(修行方法)だけを求めていました。すばらしい修行法を得て、

それを一生懸命に修めるならば成仏できるだろう、と考えていたのです。

ところが、お釈迦さまの成仏法にたどり着いて、それらをよく観察してみると、ほとんどのの中に五つの修行課程がある成仏法ならば、そのうちの二つまでは必ず梵行になっております。たしかに四神足法などは、ほとんどが特殊な修行法です。そして四神足法を成就すれば、その人は完全に成仏できるでしょうが、このような高度な成仏法は、とてもストレートに成就できるものではありません。四神足法に入るためには、その前段階の修行として、梵行を含んだ成仏法、あるいは梵行を主体とした成仏法を行っていなければならないのです。二、三科目の成仏法を組み合わせて修行することになっているのは、そのような理由もあります。

このように、梵行を含まない特殊な修行法だけの成仏法は、基本的にはありません。これはいったいどうしてでしょうか?

梵行とは滅罪生善の法

解脱成仏するには、梵行によって滅罪生、割をしなけばいけないからです。滅罪とは、過去の罪を滅することです。過去の罪とは、自分が犯した悪業です。この娑婆世界に生まれてきているということは、わたくしたちはどうせ前世においてもろくなことをしていないわけです。前世において善業を積んでいたならば、このような苦の世間に生まれてこないで、もっとよいところ ――少なくとも天上界あたり―――へ生まれているでしょう。
もちろん、前世で須陀洹や斯陀含になって、この世に生まれてきている可能性もあります。しかし、それならば、三悪趣の因縁を持って苦しんでいるはずがなく、高い能力を発揮して世の人々を利益するという、非常に素晴らしい人生を歩んでいることでしょう。

この娑婆世界にふつうの人間として生まれ、悪因縁を持って苦しんでいるということは、前世において須陀洹や斯陀含になっていたとは考えられません。おそらくろくなことをしていないでしょう。いろいろな悪業を積んできているはずです。

したがって、因縁解脱を成就するには、まず前世からの悪業を滅しなければいけません。善い行ないをして前世からの悪業を消す、つまり滅罪の行を実践する必要があります。

それでは、過去の悪業を滅するだけでよいのかといえば、それでもまだ足りません。現世の善行で前世の悪業を消したとしても、それはプラスマイナスゼロになっただけです。ゼロではいけません。プラスにしなければならないのです。そのために行う善行が、生善の行です。

過去の悪業を消して、さらに善徳を積んでいく積徳の行、これが滅罪生善の行です。過去の悪業を消すために徳を積み、さらに現世ないしは来世で幸福を得るために徳を積むわけです。

お釈迦さまご自身はここまで細かに分類されておられませんが、わたくしは自分の修行体験から七科三十七道品の成仏法を、定根・念根・慧根のような純然たる特殊な修行法と、信根・精進根のような梵行に分けています。

すでにお話ししたように、念根は念の力を極度に強く、そして正しくコントロールしていく修行で、定根は深い瞑想修行です。それから慧根は、四諦の理を如実に身をもって体得していく修行です。これらの法は、諸君にもこれから教えていきますが、その前に、滅罪生善の行をしなければいけません。梵行に精進しなければならないのです。

精進根とは梵行に精進する修行です。なにかに精進するということはありますが、精進するための精進の行などというのはありません。精進せよという場合は、精進する対象が必ずあります。

「念根・定根・慧根を精進せよ、 ということではありませんか?」

というかもしれませんが、そうではありません。修行法を提示したからには、その修行法に精進することは当たり前です。修行法を出しておいて、

「これに精進せよ」
とは、一生懸命に梵行に精進せよということなのです。滅罪生善の行に精進するわけです。

課している梵行は、信根・精進根につながっています。念根・定根・慧根は別として、 根・精進根はだれでもすぐにできます。またそれらを実践しなければ、念根・定根・慧根の修行には入っていけません。どのようにすばらしい高度の修行法を教えてあげても、徳を積んでいなかったならば、その修行法をやり通すことはできません。高度の修行法であればあるほど、徳がなければできないのです。高度な修行法を教えてさえもらえば、法が身について境界がどんどん高くなっていくかというと、そうはいきません。その法が高度なものであればあるほど、徳が高くなければ身につきません。必ず病気をするとか、ケガをするとか、境遇上の理由でその修行ができなくなります。必ず邪魔が入って修行ができなくなります。

高度の修行法を授かれば授かるほど、信根・精進根の修行をして、自分の徳を高くしていかなければならないのです。

仏さまのことを万徳円満とお呼びするでしょう。あらゆる徳が完全に身に備わってこそ、はじめて仏陀といえるのです。徳がまるっきりないならば、いくら特殊な瞑想法を一生懸命に修行しても、仏さまになれるわけがありません。

そのような理由で、徳を積んで悪業を消すための修行、信根・精進根が五根法の中に入っているわけです。純然たる特殊な修行法のシステムである念根、定根、慧根を成就するには、信根・ 精進根という梵行が絶対に必要です。成仏法を完全に果たしていくためには、梵行をやらなければいけません。

「梵行に精進せよ」

とお釈迦さまはおっしゃっているのです。もっともお釈迦さまは、このお経では梵行の内容までは説かれておりません。なぜならば梵行は、導師がその人の因縁を透視して、それぞれに課していくものだからです。ケース・バイ・ケースなのです。

「おまえはこういう不徳があるから、それをなくすためにこういう梵行をせよ」

あるいは、

「おまえは前世に人を泣かしたから、現世ではこれだけ苦しむんだ。だからそれをなくすには、 人に喜んでいただきなさい。それには、こういう梵行をしなさい」

というように梵行の具体的な内容は、導師から修行者一人一人に課せられます。お釈迦さまの成仏法がいかに完璧であるか、一目瞭然でしょう。

そこには徳を積んでいくための教えが、きちんと説かれているのです。梵行をして徳を積まなければ、高い修行法であればあるほど、修行ができなくなっていきます。わたくしは身をもって、 それを体験しました。これは自分の修行経験からいっているのです。

四沙門果と成仏の実相

お釈迦さまは、五根法をやっていくならば必ず須陀洹になれるぞ、とおっしゃいました。解脱宝生行はお釈迦さまの成仏法に則った初歩の成仏法ですから、導師であるわたくしのいうとおりに一生懸命に修行するならば、諸君は必ず須陀洹になれます。さらに高度の修行を併せて行なう人は、斯陀含、阿那含にまでなれるのです。どれくらいデキが悪くても、必ず身見・疑惑,戒取の三結を断って須陀洹になれるのです。

すばらしいではありませんか。みなさんは聖者になれるのです。解脱宝生行はそのように編成されているわけです。

須陀洹になると、聖者の流れに入って不退転となります。仏道修行をやめてしまったり、仏法からはみ出してしまうことを退転といいますが、そういうことがなくなります。もう絶対に仏法から退転してしまうことはありません。

これは当然でしょう。仏さまと仏さまの教法に対して、絶対の信頼・信仰を持っているのですから退転するはずはなく、必ず至道を成じます。至道とは仏道のことです。成仏するという道で

す。その仏道を必ず成就するわけです。

さらに須陀祖を得てからも修行を重ねて、欲食・版表の二結を減ずれば斯陀含になります。斯陀含になって、この世にまた生まれて、そこで悟りを開きます。「苦際を尽くす」というのは、 苦の根源を断ち切って悟りを開くことです。

斯陀含になってからもさらに修行を重ねて、二結を完全に断ずると阿那含を成就します。「阿那含を成じ、復た此の世に来たらずして、即ち復た般涅槃を取り」というのは、阿那含になって、 またこの世に来ないで、そして涅槃に入るという意味です。

しゅさきにも少しお話ししましたが、阿那含=不還は、涅槃への入り方によって五種類に分けられます。阿那含の成仏の仕方には五種類あるのです。これを五種不還といいます。阿那含は不還というように、人間世界にはもう違ってきません。この世で臨終を迎えた後、そのまま色天に生まれて、そこで成仏します。それで不還というのです。

五種不還で最高の成仏の仕方は中般涅槃です。中般涅槃の中とは、中くらいのという意味ではなく、途中という意味です。中般涅槃とは、欲界で死んでから色界へ生まれていく途中の意で、 中有の位で無余依涅槃に入るという成仏の仕方です。要するに、途中涅槃という意味です。色界 〈生まれていく途中で成仏してしまうのですから、ほとんど死の瞬間に成仏してしまうといってもよいでしょう。

その次が生、涅槃です。生般涅槃とは色界へ生まれていって、そこでまもなく成仏してしまいます。これが生般涅槃です。

三番目は有行般涅槃です。これも生般涅槃と同じように色界に生じ、そこで長く修行をして

長く修行をして成仏するわけです。

四番目は無行、理数です。これもやはり、色界に生じていくのですが、無行般涅槃は色界で修行をしないで、いくばくかの時間の後おのずから成仏するわけです。いくばくかの時間といっても、色界と人間界とでは時間の概念が違いますから、どれくらいかかるかは分かりません。十年いるのか? 二十年いるのか? あるいは三十年なのか? 人間界での十年が、ここでは一日ぐらいにしかならないこともありますから、人間の時間でどれだけかは分かりません。時間の概念がまるっきり違うわけです。

しかしながら、ここにいる間は修行をしなくてもよいのです。

五種不還の最後は上、澎、般涅槃です。阿那含の生じるのは色界です。仏教では、仏界以外の世界を欲界・色界・無色界の三つに分けます。この三つを三界と呼びます。

三界の最下層は欲界です。欲界とはその名の通り、欲によって成立している世界で、ここには地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・欲天の六種類の衆生が住んでおります。欲界の上の世界が色界です。ここは清らかな物質によって成り立つ世界で、色天が住んでおります。さらにその上の世界が無色界です。無色界というのは高度の精神世界で、ここには無色天と呼ばれる、最高度の天が住んでおります。この無色界よりもさらに上の世界として仏界がある、というように仏教では説いております。これが仏教のタテの世界観です。

中般涅槃以外の阿那含は、まず色界に生じるわけですが、その色界も初禅天・第二禅天

 

以上が五種不還です。 禅天・第四禪天の四つに大きく分けられます。上流般涅槃の阿那含は、最初はいちばん下の初禅天に生じます。ここで修行をして第二弾天に生じ、さらに修行を重ねて第三禅天に生じ、また修行をして最後に第四禪天に生じて、ここで完全に解脱成仏します。このように修行によって下から上にずっと流れて行き、最後に涅槃を得るので上流般涅槃といいます。

阿那含を成じた聖者が、さらに五根法の修行を重ねていくならば、「有漏尽きて無漏心解脱・ 智慧解脱を成じ」とあるように、一切の煩悩、つまり十結がつきて、煩悩の解脱も智慧による解脱も得て阿羅漢となり、完全解脱を成就することができます。

阿羅漢は仏陀ですから、人間界で完全に成仏しています。これは肉体を持ったまま成仏しているので、娑婆世界にまだ佐るものがあるということで、有余依涅製といいます。お釈迦さまは、 この涅槃を得られたわけです。そのような有余依涅槃の聖者がお亡くなりになると、もうこの姿婆世界に依るものがありませんので、これを無余涅製といいます。天上界などには生じないで、 生きたまま成仏を得る。これが阿羅漢です。仏道修行者にとって、阿羅漢を得るということは究極の理想です。しかし、これはなかなか難しいですね。

成仏とは輪廻転生がつきること

「自身に作証して自ら遊戯し、生死巳に尽き」とありますが、解脱を得たならば、それをはっきりと自分で知ることができます。そして、もう二度と、迷いの世界である三界には生まれません。

仏界に入ってしまって、もう必要などには帰ってこないのです。輪廻転生を繰り返すことはありません。ここで遊戯という言葉が出てきます。これは「ゆうぎ」と読まず、「ゆげ」と読みますが、仏さまのお働きのことです。「観音経」にも、無尽意菩薩が仏さまに、

「世尊よ、観世音菩薩は云何にしてこの娑婆世界に遊ぶや」

と質問するところがありますが、「遊戯」も「遊ぶ」もわたくしたちのいう遊びではなく、仏さまのお働きや救済力などのことを指します。仏さまにとって人を救済することは、まるで遊びのように楽しいものなのでしょう。

疑文の中ほどに「梵行已に立ち、所作已に弁じて、更に復た、胎を受けず、実の如くに之を知らん」とありましたが、これはすべての梵行を成就し、やるべき修行をすべて成し終えて解説を得た結果、もう二度とこの世に生を受けないことを如実に知った、ということです。 ここで

いう梵行とは信根・精進根を指し、やるべき修行(所作)とは念根・定根・慧根を指すと考えてよいでしょう。「胎を受けず」とは、二度とお母さんの胎を借りてこの世に生まれることはないということで、生死がつきることです。わたくしたちは縁のある女性を母とし、その母体に宿って初めて生を受けることができます。それが胎を受けるということです。「胎を受けず」す。 とは、二度と三界六道のどこにも生まれてこなくなるということで、これこそが解説成仏なので

成仏法を広げる梵行

さて、お釈迦さまは最後に、「若し此の五根を得ば、便ち四果三乗の道有らん」と、だめ押しともいえることをおっしゃっています。

五根法を修行しないならば、須陀洹・斯陀含・阿那含・阿羅漢の四沙門果は得られず、さらに辟支仏・如来・至真・等正覚も得られない、とおっしゃっているわけです。お釈迦さまは弟子たちの因縁を見て、七科三十七道品の中から、その弟子たちに適合した成仏法を説かれました。ですから『善聚品』に登場する弟子たちには、五根法がもっとも適していたのでしょう。そのような理由で、ここでは五根法という言葉が使われておりますが、これを成仏法と置き換えても意味は通じます。

群支払は独覚ともいいますが、これも仏陀の一種です。パーリ語の「パッチェーカ・ブッダ」、 サンスクリット語の「ブラティエーカ・ブッダ」を漢字に音写したのが群支仏で、漢訳したのが独覚です。現代語に訳せば、孤独なる仏陀(覚者)です。つまり、「師なくして悟った仏陀」のことです。独りで悟られた仏陀です。したがって、お釈迦さまも辟支仏のお一人です。お釈迦さです。お釈迦さ

まは、師匠から仏法を教わったのではなく、ご自身の力で悟りを開かれたのですから。

如来とはパーリ語・サンスクリット語の「タターガタ」を漢訳したもので、真如(真理)の世

界から来られた聖者、という意味です。

至真というのは阿羅漢の別名です。阿羅漢とは、パーリ語の「アラハン」、あるいはサンスクリット語の「アルハン」を漢字に音写したもので、供養を受けるのにふさわしい聖者、礼拝されるべき聖者という意味です。この他にも阿羅漢の訳語として、応供・真人があります。

等正覚とは、パーリ語の「サムマー・サムブッダ」、サンスクリット語の「サムヤク・サムブッダ」を漢訳したもので、正しく悟った聖者という意味です。要するに、如来も阿羅漢も至真も等正覚も、すべて仏さまの別名です。

お釈迦さまは、大変なことをおっしゃっております。よく分かるでしょう。五根法を修行するならば、必ず須陀祖になり、さらに修行を重ねれば仏にまで到達するけれども、五根法を修行しないならば、須陀洹にさえなれないのです。

 

 

成仏法を構成する梵行と特殊な修行

成仏法を構成する梵行と特殊な修行

 

さて、五根法をよく見ていくと、あることに気がつくはずです。

それはなんでしょうか?

以前からお話ししていることですが、お釈迦さまの成仏法は二つの内容から成り立っています。 その二つとは、「特殊な修行法」と「梵行」です。成仏法は、この二つから成り立ちます。たと

えば五根法を見ていくと、信根と精進根が梵行で、念根・定根・慧根は特殊な修行法になります。 世の中の多くの仏教団体を見ていますと、梵行にあたるものだけを信徒に勧めているようです。 高度な智慧や能力を得るための特殊な修行法などは、まったく見あたりません。

たとえば、ある教団では布教を以て唯一無二の修行とし、またある教団では自分の家のお墓だけではなく、他人の家のお墓でも手当たりしだいにお掃除をさせて修行としています。これらは、 いわば梵行の範囲です。どのような教団でも、信者になにかしらの善行をさせていますが、これらは梵行に該当するものです。けれども、どの教団にも肝心要の修行法がありません。

しかし、お釈迦さまの成仏法には、高度な智慧や能力を持つための特殊な修行法があります。 わたくしはそれを求めて修行をし、とうとう「阿含経」の成仏法にたどりつきました。わたくしは、それまで成仏法という修行法(修行方法)だけを求めていました。すばらしい修行法を得て、

それを一生懸命に修めるならば成仏できるだろう、と考えていたのです。

ところが、お釈迦さまの成仏法にたどり着いて、それらをよく観察してみると、ほとんどの成

科目になっていました。たとえば玉担法の 「目の中に五つの修行課程がある成仏法ならば、そのうちの二つまでは必ず梵行になっております。たしかに四神足法などは、ほとんどが特殊な修行法です。そして四神足法を成就すれば、その人は完全に成仏できるでしょうが、このような高度な成仏法は、とてもストレートに成就できるものではありません。四神足法に入るためには、その前段階の修行として、梵行を含んだ成仏法、あるいは梵行を主体とした成仏法を行っていなければならないのです。二、三科

目の成仏法を組み合わせて修行することになっているのは、そのような理由もあります。

このように、梵行を含まない特殊な修行法だけの成仏法は、基本的にはありません。これはい

ったいどうしてでしょうか?

梵行とは滅罪生善の法

解脱成仏するには、梵行によって滅罪生、割をしなけばいけないからです。滅罪とは、過去の罪を滅することです。過去の罪とは、自分が犯した悪業です。この娑婆世界に生まれてきているということは、わたくしたちはどうせ前世においてもろくなことをしていないわけです。前世において善業を積んでいたならば、このような苦の世間に生まれてこないで、もっとよいところ ――少なくとも天上界あたり―――へ生まれているでしょう。

 

三二〇

もちろん、前世で須陀洹や斯陀含になって、この世に生まれてきている可能性もあります。しかし、それならば、三悪趣の因縁を持って苦しんでいるはずがなく、高い能力を発揮して世の人々を利益するという、非常に素晴らしい人生を歩んでいることでしょう。

この娑婆世界にふつうの人間として生まれ、悪因縁を持って苦しんでいるということは、前世において須陀洹や斯陀含になっていたとは考えられません。おそらくろくなことをしていないでしょう。いろいろな悪業を積んできているはずです。

したがって、因縁解脱を成就するには、まず前世からの悪業を滅しなければいけません。善い行ないをして前世からの悪業を消す、つまり滅罪の行を実践する必要があります。

それでは、過去の悪業を滅するだけでよいのかといえば、それでもまだ足りません。現世の善行で前世の悪業を消したとしても、それはプラスマイナスゼロになっただけです。ゼロではいけません。プラスにしなければならないのです。そのために行う善行が、生善の行です。

過去の悪業を消して、さらに善徳を積んでいく積徳の行、これが滅罪生善の行です。過去の悪業を消すために徳を積み、さらに現世ないしは来世で幸福を得るために徳を積むわけです。

お釈迦さまご自身はここまで細かに分類されておられませんが、わたくしは自分の修行体験から七科三十七道品の成仏法を、定根・念根・慧根のような純然たる特殊な修行法と、信根・精進根のような梵行に分けています。

すでにお話ししたように、念根は念の力を極度に強く、そして正しくコントロールしていく修行で、定根は深い瞑想修行です。それから慧根は、四諦の理を如実に身をもって体得していく修行です。これらの法は、諸君にもこれから教えていきますが、その前に、滅罪生善の行をしなけ

ればいけません。梵行に精進しなければならないのです。

精進根とは梵行に精進する修行です。なにかに精進するということはありますが、精進するための精進の行などというのはありません。精進せよという場合は、精進する対象が必ずあります。

「念根・定根・慧根を精進せよ、 ということではありませんか?」

というかもしれませんが、そうではありません。修行法を提示したからには、その修行法に精

進することは当たり前です。修行法を出しておいて、

「これに精進せよ」

とわざわざ別の項目をつけ加えるはずがありません。精進根とは、一生懸命に梵行に精進せよということなのです。滅罪生善の行に精進するわけです。

わたくしが阿含宗の信徒諸君に梵行を課している理由が、これでよく分かったでしょう。阿含宗で課している梵行は、信根・精進根につながっています。念根・定根・慧根は別として、 根・精進根はだれでもすぐにできます。またそれらを実践しなければ、念根・定根・慧根の修行には入っていけません。どのようにすばらしい高度の修行法を教えてあげても、徳を積んでいなかったならば、その修行法をやり通すことはできません。高度の修行法であればあるほど、徳がなければできないのです。高度な修行法を教えてさえもらえば、法が身について境界がどんどん高くなっていくかというと、そうはいきません。その法が高度なものであればあるほど、徳が高くなければ身につきません。必ず病気をするとか、ケガをするとか、境遇上の理由でその修行ができなくなります。必ず邪魔が入って修行ができなくなります。

高度の修行法を授かれば授かるほど、信根・精進根の修行をして、自分の徳を高くしていかな

111111

ければならないのです。

仏さまのことを万徳円満とお呼びするでしょう。あらゆる徳が完全に身に備わってこそ、はじめて仏陀といえるのです。徳がまるっきりないならば、いくら特殊な瞑想法を一生懸命に修行しても、仏さまになれるわけがありません。

そのような理由で、徳を積んで悪業を消すための修行、信根・精進根が五根法の中に入っているわけです。純然たる特殊な修行法のシステムである念根、定根、慧根を成就するには、信根・ 精進根という梵行が絶対に必要です。成仏法を完全に果たしていくためには、梵行をやらなければいけません。

「梵行に精進せよ」

とお釈迦さまはおっしゃっているのです。もっともお釈迦さまは、このお経では梵行の内容までは説かれておりません。なぜならば梵行は、導師がその人の因縁を透視して、それぞれに課し

ていくものだからです。ケース・バイ・ケースなのです。

「おまえはこういう不徳があるから、それをなくすためにこういう梵行をせよ」

あるいは、

「おまえは前世に人を泣かしたから、現世ではこれだけ苦しむんだ。だからそれをなくすには、 人に喜んでいただきなさい。それには、こういう梵行をしなさい」

というように梵行の具体的な内容は、導師から修行者一人一人に課せられます。お釈迦さまの成仏法がいかに完璧であるか、一目瞭然でしょう。

そこには徳を積んでいくための教えが、きちんと説かれているのです。梵行をして徳を積まな

ければ、高い修行法であればあるほど、修行ができなくなっていきます。わたくしは身をもって、 それを体験しました。これは自分の修行経験からいっているのです。

四沙門果と成仏の実相

お釈迦さまは、五根法をやっていくならば必ず須陀洹になれるぞ、とおっしゃいました。解脱宝生行はお釈迦さまの成仏法に則った初歩の成仏法ですから、導師であるわたくしのいうとおりに一生懸命に修行するならば、諸君は必ず須陀洹になれます。さらに高度の修行を併せて行なう人は、斯陀含、阿那含にまでなれるのです。どれくらいデキが悪くても、必ず身見・疑惑,戒取の三結を断って須陀洹になれるのです。

すばらしいではありませんか。みなさんは聖者になれるのです。解脱宝生行はそのように編成されているわけです。

須陀洹になると、聖者の流れに入って不退転となります。仏道修行をやめてしまったり、仏法からはみ出してしまうことを退転といいますが、そういうことがなくなります。もう絶対に仏法から退転してしまうことはありません。

これは当然でしょう。仏さまと仏さまの教法に対して、絶対の信頼・信仰を持っているのですから退転するはずはなく、必ず至道を成じます。至道とは仏道のことです。成仏するという道で

す。その仏道を必ず成就するわけです。

さらに須陀祖を得てからも修行を重ねて、欲食・版表の二結を減ずれば斯陀含になります。斯陀含になって、この世にまた生まれて、そこで悟りを開きます。「苦際を尽くす」というのは、 苦の根源を断ち切って悟りを開くことです。

斯陀含になってからもさらに修行を重ねて、二結を完全に断ずると阿那含を成就します。「阿那含を成じ、復た此の世に来たらずして、即ち復た般涅槃を取り」というのは、阿那含になって、 またこの世に来ないで、そして涅槃に入るという意味です。

しゅさきにも少しお話ししましたが、阿那含=不還は、涅槃への入り方によって五種類に分けられます。阿那含の成仏の仕方には五種類あるのです。これを五種不還といいます。阿那含は不還というように、人間世界にはもう違ってきません。この世で臨終を迎えた後、そのまま色天に生まれて、そこで成仏します。それで不還というのです。

五種不還で最高の成仏の仕方は中般涅槃です。中般涅槃の中とは、中くらいのという意味ではなく、途中という意味です。中般涅槃とは、欲界で死んでから色界へ生まれていく途中の意で、 中有の位で無余依涅槃に入るという成仏の仕方です。要するに、途中涅槃という意味です。色界 〈生まれていく途中で成仏してしまうのですから、ほとんど死の瞬間に成仏してしまうといってもよいでしょう。

その次が生、涅槃です。生般涅槃とは色界へ生まれていって、そこでまもなく成仏してしまいます。これが生般涅槃です。

三番目は有行般涅槃です。これも生般涅槃と同じように色界に生じ、そこで長く修行をして

현물 썼나 선정て長く修行をして

成仏するわけです。

四番目は無行、理数です。これもやはり、色界に生じていくのですが、無行般涅槃は色界で修行をしないで、いくばくかの時間の後おのずから成仏するわけです。いくばくかの時間といっても、色界と人間界とでは時間の概念が違いますから、どれくらいかかるかは分かりません。十年いるのか? 二十年いるのか? あるいは三十年なのか? 人間界での十年が、ここでは一日ぐらいにしかならないこともありますから、人間の時間でどれだけかは分かりません。時間の概念がまるっきり違うわけです。

しかしながら、ここにいる間は修行をしなくてもよいのです。

「いいなあ。毎日の勤行もいらないのですか? それはいいなあ」

誰ですか、そんなことを考えているのは!

五種不還の最後は上、澎、般涅槃です。阿那含の生じるのは色界です。仏教では、仏界以外の世界を欲界・色界・無色界の三つに分けます。この三つを三界と呼びます。

三界の最下層は欲界です。欲界とはその名の通り、欲によって成立している世界で、ここには地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・欲天の六種類の衆生が住んでおります。欲界の上の世界が色界です。ここは清らかな物質によって成り立つ世界で、色天が住んでおります。さらにその上の世界が無色界です。無色界というのは高度の精神世界で、ここには無色天と呼ばれる、最高度の天が住んでおります。この無色界よりもさらに上の世界として仏界がある、というように仏教では説いております。これが仏教のタテの世界観です。

中般涅槃以外の阿那含は、まず色界に生じるわけですが、その色界も初禅天・第二禅天

 

以上が五種不還です。 禅天・第四禪天の四つに大きく分けられます。上流般涅槃の阿那含は、最初はいちばん下の初禅天に生じます。ここで修行をして第二弾天に生じ、さらに修行を重ねて第三禅天に生じ、また修行をして最後に第四禪天に生じて、ここで完全に解脱成仏します。このように修行によって下から上にずっと流れて行き、最後に涅槃を得るので上流般涅槃といいます。

阿那含を成じた聖者が、さらに五根法の修行を重ねていくならば、「有漏尽きて無漏心解脱・ 智慧解脱を成じ」とあるように、一切の煩悩、つまり十結がつきて、煩悩の解脱も智慧による解脱も得て阿羅漢となり、完全解脱を成就することができます。

阿羅漢は仏陀ですから、人間界で完全に成仏しています。これは肉体を持ったまま成仏しているので、娑婆世界にまだ佐るものがあるということで、有余依涅製といいます。お釈迦さまは、 この涅槃を得られたわけです。そのような有余依涅槃の聖者がお亡くなりになると、もうこの姿婆世界に依るものがありませんので、これを無余涅製といいます。天上界などには生じないで、 生きたまま成仏を得る。これが阿羅漢です。仏道修行者にとって、阿羅漢を得るということは究極の理想です。しかし、これはなかなか難しいですね。

成仏とは輪廻転生がつきること

「自身に作証して自ら遊戯し、生死巳に尽き」とありますが、解脱を得たならば、それをはっきりと自分で知ることができます。そして、もう二度と、迷いの世界である三界には生まれません。

仏界に入ってしまって、もう必要などには帰ってこないのです。輪廻転生を繰り返すことはありません。ここで遊戯という言葉が出てきます。これは「ゆうぎ」と読まず、「ゆげ」と読みますが、仏さまのお働きのことです。「観音経」にも、無尽意菩薩が仏さまに、

「世尊よ、観世音菩薩は云何にしてこの娑婆世界に遊ぶや」

と質問するところがありますが、「遊戯」も「遊ぶ」もわたくしたちのいう遊びではなく、仏さまのお働きや救済力などのことを指します。仏さまにとって人を救済することは、まるで遊びのように楽しいものなのでしょう。

疑文の中ほどに「梵行已に立ち、所作已に弁じて、更に復た、胎を受けず、実の如くに之を知らん」とありましたが、これはすべての梵行を成就し、やるべき修行をすべて成し終えて解説を得た結果、もう二度とこの世に生を受けないことを如実に知った、ということです。 ここで

いう梵行とは信根・精進根を指し、やるべき修行(所作)とは念根・定根・慧根を指すと考えてよいでしょう。「胎を受けず」とは、二度とお母さんの胎を借りてこの世に生まれることはないということで、生死がつきることです。わたくしたちは縁のある女性を母とし、その母体に宿って初めて生を受けることができます。それが胎を受けるということです。「胎を受けず」

 

三二八

す。 とは、二度と三界六道のどこにも生まれてこなくなるということで、これこそが解説成仏なので

成仏法を広げる梵行

さて、お釈迦さまは最後に、「若し此の五根を得ば、便ち四果三乗の道有らん」と、だめ押しともいえることをおっしゃっています。

五根法を修行しないならば、須陀洹・斯陀含・阿那含・阿羅漢の四沙門果は得られず、さらに辟支仏・如来・至真・等正覚も得られない、とおっしゃっているわけです。お釈迦さまは弟子たちの因縁を見て、七科三十七道品の中から、その弟子たちに適合した成仏法を説かれました。ですから『善聚品』に登場する弟子たちには、五根法がもっとも適していたのでしょう。そのような理由で、ここでは五根法という言葉が使われておりますが、これを成仏法と置き換えても意味は通じます。

群支払は独覚ともいいますが、これも仏陀の一種です。パーリ語の「パッチェーカ・ブッダ」、 サンスクリット語の「ブラティエーカ・ブッダ」を漢字に音写したのが群支仏で、漢訳したのが独覚です。現代語に訳せば、孤独なる仏陀(覚者)です。つまり、「師なくして悟った仏陀」のことです。独りで悟られた仏陀です。したがって、お釈迦さまも辟支仏のお一人です。お釈迦さ

です。お釈迦さ

まは、師匠から仏法を教わったのではなく、ご自身の力で悟りを開かれたのですから。

如来とはパーリ語・サンスクリット語の「タターガタ」を漢訳したもので、真如(真理)の世

界から来られた聖者、という意味です。

至真というのは阿羅漢の別名です。阿羅漢とは、パーリ語の「アラハン」、あるいはサンスクリット語の「アルハン」を漢字に音写したもので、供養を受けるのにふさわしい聖者、礼拝されるべき聖者という意味です。この他にも阿羅漢の訳語として、応供・真人があります。

等正覚とは、パーリ語の「サムマー・サムブッダ」、サンスクリット語の「サムヤク・サムブッダ」を漢訳したもので、正しく悟った聖者という意味です。要するに、如来も阿羅漢も至真も等正覚も、すべて仏さまの別名です。

お釈迦さまは、大変なことをおっしゃっております。よく分かるでしょう。五根法を修行するならば、必ず須陀祖になり、さらに修行を重ねれば仏にまで到達するけれども、五根法を修行しないならば、須陀洹にさえなれないのです。

す。 しかし大乗仏教のお坊さんたちは、五根法を修行したことがありません。「阿含経」に説かれている修行をしたことがないのです。修行どころか、成仏法の存在さえ知らない人がほとんどで

そうすると、どうなるか?

どのお坊さんも須陀祖にさえなっていない、ということになります。現在に至るまで、日本にと数々の名僧知識が登場しておりますが、その人たちは如来どころか、須陀洹にさえなっていません。これは大変なことです。

 

 

 

 

自利の八法 ―― 自利・利他の十六法

自利の八法 ―― 自利・利他の十六法
The Eight Methods of Self-Benefit — The Sixteen Methods of Self-Benefit and Altruism

 

夜の祇園に 月が揺れて
竹の葉音が 闇を流れる
静かな灯火 胸を照らして
法の言葉が 風に響いた

 

信を抱いて 戒を守り
施しの手で 苦しみを解く
深義を求め 法に近づき
一人歩くと 思っていた

Namosattanan
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taniyata
on shaley shurei juntei
sowaka

けれど仏は 静かに語る
「己だけでは 道は満ちない」
灯を受けたなら 次へ渡せと
月より深い 慈悲を示した

 

自ら学び 人にも伝え
自ら歩み 人を導け
法の灯火は 胸から胸へ
未来を照らす 永遠の光

Namosattanan
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on shaley shurei juntei
sowaka

自ら信じ 人にも信を
自ら戒し 人にも戒を
智慧はひとり 閉ざすためでなく
苦しむ世界を 照らすために

 

夜風は静かに 竹林を渡り
白い月影 石畳を染める
マハーナーマの 胸の奥には
消えぬ法灯が 今も燃えている

Namosattanan
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taniyata
on shaley shurei juntei
sowaka