そこで、まず第一の宿業、これは、人間の力では、いかにしても変えることのできない絶対不可能の規制である。どういう規制かというと、先に述べた、人間は必ず死なねばならぬ、という規制、 次に、人間は生きていくためには必ず飲食しなければならぬという規制、それから、生きていくためには必ず何時間か眠らなければならぬという規制、この三つの規制だけは、人間どんな方法手段を講じても絶対に克服することはできない。人間である限り、この三つの規制に従がわなければならない。これが克服できたら、その人は、その瞬間から人間ではない存在になったわけである。これは、人間全体、人類というものすべてに課せられた「業」である。宿められた業であるから宿業
宿命
運命
と。この三種類に分類することができる。
私は。これ
と、この三つの言葉で表現する。
1、が宿業、2、が運命、3、が宿命である。
次に、運命という名でよばれるところの規制、これは変えることが不可能ではない。運命の運という字は「はこぶ」と読む。ぞる館、運べるがだ。運ぶということは、移す、移動するということ
だから、つまり変えられる命である。方法によったら変えられないことはない。そ
運命―その本質を追求する
る命である。 つまり、克服することは不可能であるが、ある程度、これを変えたり、避けたりすることはでき
だから、つまり変えられる命である。方法によったら変えられないことはない。そのかわり、これを変えるのは大変である。簡単にはいかない。運という字は、邪に、毛がついてでき上がっている。 軍というものは、元来、命がけのものである。その命がけの軍にさらにシンニュウがかかってい
る、シンニュウというのは、走るという字の変形である。倍加するという意味を持っている。だから、なみたいていの命がけじゃない。命がけの軍に数倍した命がけである。しかし、とにかくそういう一心の努力をすれば変えられるのが運命である。
この運命と、宿業の、ちょうど中間にあたるのが宿命である。
同じ命でありながら、どうして克服することができないのか? 運命のほうは、運び移し変えて、克服してしまったではないか。宿命はなぜ移し変えることができないのか?
もっともな質問である。それを考え、それに答えようしているのが本書であるから、本書全体を通読していただけば、おのずからその答えが出てくるはずであり、ここでは簡単に答えておくが、 運命も宿命も同種のものであるけれども質が違う、ということである。
要するに、もっとわかり易くいうならば風邪は治すことができるが、重症の結核は治しにくいということである。単純な胃炎は治すことができるが、悪性のガンは治せない、というのと同じようなものである、といったらおわかりいただけるであろうか。ただし、ここであげた結核とかガンと
いう利名は、単なるたとえであるから、それにこだわってもらっては困るのだ。
ところで、そういうと、では、なぜ風邪ではなく重症の結核にかかったのか?? なぜ左ではなく悪性のガンにかかったのかという根本的な疑問なり質問なりがひき出されてくるで
う。が、しかし、人が難治の病気にかかり、あるいは、再起不能の出来事に通うということは、
だ単に一つや二つの「条件」によるものではない。先に述べた三島氏の死のように、無数の条件の積み重なりと連鎖的反応を考えなければならない。それを解くことは、人の知恵と力のを越える。いえることは、宿命とは、その人の生命の長い系列の行間にきざみこまれ、えぐりぬかれた、 古く、深い傷痕で、それが、突然、その人の上にあらわれたものということである。いうなれば、 恋々に積みかさねられた宿病である。癒やし難いのも当然というべきだろう。しかし、これもましゃくあ
た、方法をもってすれば、これを変え、これを避けることもできないことはないのである。
では、その方法とはどんなものか。
それを探求するまえに、まず、運命とはなにか、宿命とはいかなるものか、その実体をはっきりとらえてみようではないか。宿命、運命にたいする挑戦はそこからはじまるのだ。
可憐なる乙女メリーの運命やいかに
運命―その本質を追求する
る。 後篇は来週上映されるわけだが、もちろん可憐なる乙女メリーは、絶対列車にひき殺されることなく、必ず、間一髪駆けつけた青年ハリーに助け出されるのであって、見ている私たちもそれは十分承知しておりながら、手に汗にぎって、好漢ハリー青年の駆けつけるのを待っているわけであ
可憐なる乙女メリーの運命やいかに
えんえんと荒野を走る一条の鉄路
ようとしている。 その鉄道線路に、可常な一人の乙女が、荒くれた数人の悪漢のためにうしろ手にしばりつけられ
助けをよぼうにも口には猿ぐつわ。むなしく手足をもがくのみ。
やがて地平線のかなたに一条の黒煙、急行列車は見る見る近づいてくる。してやったりと悪真どもは、身うごきもできず恐怖の目を見ひらきおののく乙女メリーを尻目に、馬にまたがって去っていく。列車はすでに目前二、三百メートル、機関士はまだ気がつかぬ。
はたして彼女の運命やいかに――、とそこでスクリーンに字幕が写って、場内にバッと電燈がつく。観客はそれまでつめていた息をホウッと洩らす――。
私の幼少の頃、活動大写真と呼ばれていた時代の映画の一コマであるが、必ず、最後に「はたして彼女の運命やいかに」という字幕で、映画前篇の終りとなったものであった。
美貌の乙女メリーさんは必ず助かる。決して死なない。それは活動大写真の鉄則であり、常識なので、観客はその鉄則を信じて、安心しながら心配しているわけである。
だが、しかし、実際は、助けられる寸前で、愛すべきメリーさんが助かるかどうかわからないの
本当である。活動写真では必ず助かることになっているが、人生では、助けられる瞬間か、あるいは、ひき殺されてしまうその瞬間まで、メリーさんの運命はいっさいわからないというのが本当
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そこで――、それでは、本当の人生はいったいどうなっているのか?
つまり、メリーさんは、必ず助かることに決まっているのか、あるいは助けられずに鉄路の錆と消えてしまうのか、あるいはまた、それらはいっさい、その場の推移にまかされているのであって、名馬シルバーにまたがって駆けつけるハリー青年が間に合ったのは、ただ、「運がよかった」 に過ぎず、あるいはシルバーが「運わるく」石につまずいて足を痛め、間に合わなかったというようなことが起きたかもしれず、要するに、メリーさんが助かったのは「偶然」だったので、チャンスは五分五分、どちらにもなり得たのだということなのか。
つまり、実際の人生において、人間は、かの活動大写真のごとく、すべて一挙手一投足、いっさいシナリオに書かれたように決まっているものなのか。それとも、出たとこ勝負という自然のなりゆき、偶然の連続と組み合わせによって成っているのか、いったいどうなっているのか? 人生をすべて「必然」と見るべきか、「偶然」と見るべきか、いったいどちらか?
ここに一人の青年がいて、貧しさのために非常な屈辱をうける。その屈辱に発奮した彼は死にもの狂いの努力を重ねて、一大富豪となった。彼は、そこで、自分の今日あるは、すべて自分の努力の選物であると考え、運などというものをいっさい否定する。