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―原始仏教から密教までI 人間改造の原理と方法  桐山靖雄 著

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   意識しないこころ

 われわれのこころのなかには、自分のものではないこころがいくつも潜んでいるのである。

 われわれは、こころ、というと、自分が意識しているこころのほかにはないと思っている。そうで

はないのである。

 われわれのこニろのなかには、自分でも気がつかない、意識しないこころがあるのである。

 心理学がそれに気づいたのはそう古いことではない。

 それまでは、こころとは、意識するものだと思われていた。つまり、あらゆる精神現象には意識が

ともなうもので、精神生活とはすなわち意識生活であるというのが、それまでの考えだったのであ

る。

 千八百年代のおわりから千九百年代のはじめにかけて、ウィーンの医師ジグムントーフロイトが、

こころの表面にあらわれない無意識のこころI潜在意識についての考察をふかめつつあった頃、フ

ランスの心理学者ピエールージャネもおなじように、人間のこころの奥に意識されないこころがあっ

て、それが人間の行動に大きな影響をあたえていることに気づきはじめていた。かれは、人間の人格

がいくつかの階層をなしていると考え、われわれが知っているのは表面にある意識的階層だけであ

り、その下層に無意識的な精神機構があるとして、その存在を、「意識の下部形態」とよんだ。この、

意識の下部形態が、フロイトのいう潜在意識であり、フロイトは、有名な『夢判断』その他の著作

で、この無意識の意識の機構をあきらかにした。

 フロイトによると、われわれの精神生活は、われわれが意識している部分だけのものではなく、意

識的動機と合理的決意の背後には、意識する意識の場から除外された無意識の意識があって、それが、

それらのほんとうの決定者なのだというのである。

 つまり、人間のある行動の動機や決意は、(一般に考えられているように)意識する意識が決定す

るのではなく、意識する意識層から除外された、無意識の意識が決定するのだというのである。その

無意識の意識が、なぜ、意識する意識層から除外されたのかというと、それは、抑圧されたか、逃避

するかして、表面の意識層からすがたを消し、こころの奥ふかくひそんでしまったのだというのであ

る。では、なにがそのこころを抑圧したのか、あるいは、そのこころは、なにから、どうして、逃避

したのか、それにういてはすでに他の著書で何度も書いたので、ここでは書かない(『変身の原理』『チ

ャンネルをまわせ』その他を参照されたい)。ここで問題なのは、無意識の意識が、こころの奥ふかくひそ

んでしまったのだからなにもしないのかというとそうではなく、つねに意識するこころにはたらきか

けて、行動のひきがねとなり、あるいは、決意をかためさせる原動力となるということである。しか

もやっかいなことに、意識するこころは、この無意識のこころの決定にいっさい気づかず、どこまで

も自分自身が決定したものと思いこんでいるのである。

 さらに念の入ったことに、その決定には、かならず、意識するこころがっくり出した合理的、かつ

正当性のある理由(大義名分といってもよい)がつけられるのである。

 それはこのようにしてなされる。

 無意識のこころは、さきに述べたように、大体が、抑圧されるか逃避したこころであるから、ほと

んどが、ゆがんだ、正常とはいいがたいこころである。したがって、その決定もまた決して正常なも

のではない。そこで、意識するこころは、(無意識のうちに)これを正当化する作業をするのである。

つまり、その動機なり決意なりを、合理的かつ正当性のあるものにして、自分自身をなっとくさせる

のである。それは無意識のうちになされる。だから自分自身はあくまでもそれが無意識によってつく

り出された虚偽のものであることを知らない。つまり、真実の動機を、意識するこころは知らないの

である。その行動の真実の動機をかれは知らないのだ。知らないまま、かれは行動するのだ。なんの

ために、どうして、それをするのか、かれは知らないのである。真実の動機を知らないまま、かれは

選択し、行動するのだ。人間が矛盾にみちた行動をするのは、こういうところに原因があるのではな

かろうか?

 そんなバカなことがとあなたはいうのか。

 フロイトはつぎのような実験で、その真実なることを証明しているのである。

  自分のなかのアカの他人

 

まだ若い医者であったフロイトは、ナンシーの精神医ベルネーム教授のもとに留学して、そこで「後催眠暗示または「期限つき暗示Lの症状を示す患者たちを観察する機会を持った。

 「後催眠暗示Lとはつぎのようなものである。

 医師が、被験者を催眠によって眠らせ、一定の時間に一定の行動‘-たとえば、目覚めてから三〇

分のちに診察室じゅうを四つん這いになって歩くように命ずる。この暗示をあたえてから被験者を目

覚めさせる。かれは完全に意識を回復し、しかし命じられたことはなにもおぼえていない。だが、医

師に指定された時間になると、かれはソワソワしはじめ、なにかをさがすふうをし、ついに四つん這

いになる。そのとき、かれは、たとえば小銭とかボタンとかをなくしたなどともっともらしい言いわ

けをしながら、結局、命じられた通りに、四つん這いの姿勢であちこちをさがし、診察室じゅうを一

周するのだが、命じられたという事実を思い出すことは決してなく、あくまでも自分の自由意志でそ

うしたと信じているのである。

 フロイトはこの実験から多くのことを学んだのだが、この実験であきらかになったことは、

 、無意識的精神が存在していること。なぜなら、被験者は命令を正確に理解し、記憶したからで

  ある。これは生理学的器官ではできないことである。

 ・、無意識が、一定の時間を経てから、意識生活に影響を及ぼすこと。

 、意識的精神はそうした影響に動かされて行動を起こすが、そのようなときには、無意識の意識

  にそそのかされて起こしたその行動に(握造した架空のものだが意識的な)偽りの動機を付与す

  ること。

 以上である。

 フロイトはこれらのことから、後年、かれの精神分析理論を、つぎのように展開することになるの

である。

 かれは、人間の誕生以後の最初の数年間を、催眠と非常に似ていると考える。その数年間に子供は

さまざまな影響と暗示をうける。それらの影響と暗示は、子供が本来持つもろもろの欲望や傾向と真

っ向から対立する。その結果、子供のこころの深奥に、抑圧や葛藤そして精神外傷が生ずる。あるい

は、抑圧や葛藤や精神外傷を避けてこころの深奥に逃げこんでしまう場合もある。しかしこれらのも

のは、そこにいつまでもじっとおとなしくひそんでいるということはない。表面に出る機会をつねに

うかがっているのである。子供自体はもちろんのこと、おとなになってからも、かれはそれらのこと

をなにも思い出せないし、気づきもしない。しかし、かれが気づかなくても、それらはかれの行動に

たえず影響をおよぼし、かれを動かしているのである。

 それらの抑圧された無意識層のなかの諸傾向は、決して消滅することはない。こころの奥ふかく社

会的習慣の背後に身をひそめ、思いがけないきっかけを利用して、外にあらわれてくる。そのあらわ

れかたはさまざまで、ときには、遊戯、戦争、迫害、犯罪などのかたちではげしくほとばしり出た

り、あるいは、なんでもないような出来ごとのなかに隠れて象徴的なかたちで、あるいは、満たされ

ない欲望に禁じられた満足をあたえる夢となり、あるいは言い間違い、失錯行為、神経症的行動(ぶ咸o曹回)さらには精神病(tgaoS)となって浮かびあかってくるのである。

 要するに、フロイトの明らかにした重要なことは、さきにも述べたように、われわれの精神生活

は、われわれが意識している部分だけにかぎられたものではなく、われわれがなす行動の意識的動機

と合理的決意の背後には、意識の場から抑圧されたり逃避した、隠れた無意識的動機がうごめいてい

て、それこそが真の決定者なのであり、しかも意識的精神はそのことに全く気づいていないというこ

とである。

 これは大変なことになってきたものである。考えてもみなかったことだ。いままで、われわれは、

自分を動かすものは自分しかないと思って安心していた。というより油断していたといったほうがい

いかも知れない。それがまったくちがうのである。とすると、われわれは、一度、自分自身の心のす

みずみまで、徹底的に洗ってみる必要があるのではないのか? 自分のなかのほんとうの自分と、ア

カの他人を、選別する必要がどうしてもある。

 デカルトは、「われ思う。ゆえにわれあり」を基礎に、近代哲学への思惟の道をひらいたが、その

。思う”われにいくつものわれがあるとしたら、ただ「われ思う。坤えにわれありLといってすまして

いられなくなるだろう。いったいどのわれが思うのか、その分析・把握からはじめられなければなら

なくなるわけである。われわれとてもその通り、自分を動かしているものが、いったいどのわれなの

か? それをはっきりつかまないかぎり、われわれは、安心してものを考えることも、行動すること

もできないではないか。こうなると、「運」とか「能力」とかいっている段階ではない。もっと切実

で根本的な問題である。ひとつ、この、われわれの知らないところでわれわれを動かしている「無意

識」という怪物を追ってみようではないか。それは「選択」を通じて、「運Lと「能力」にもふかい

かかわりがあることでもあるのだから

 ユ  ン  グ の この、自分のほかに自分の知らない自分がいるというフロイトの考えは、近代

心理学がすすむにつれて、ますます顕著になってきた。フロイトのこの考えに

 集合無意識 つづいて`カールーグスタフーユング(一八七五~一九六一)は、フロイトの無

意識概念を拡大し遡及した。かれは、無意識の意識の根源を、人類共通の太古時代に求める。フロイ

トは、人間の幼少期にその根源を見いだすが、ユングは人類の幼少期にそれを求めるのである。かれ

によれば、無意識は人類の太古時代の葛藤にその源を発しているという。

 人類が、その欲望と期待を挫折させるだけだったその当時の自然と社会では、人類はつねに本源的

不安に直面して悩まされてきた。その原初的不安と葛藤の痕跡が、無意識層にふかくきざみこまれて

おり、この集合無意識の葛藤は、各人の意識のみならず、ユングが太古類型とよんだイメージや象徴

にもあらわれているとする。

 この太古類型は、人類の大きなコンプレックスを表現しており、そのもろもろの形態とテーマは、第二章「選択」の論理

あらゆる宗教、あらゆる民話に見いだされるというのである。

 

 ソ ン デ イ の この、蛙意識の意識の抑圧・葛藤を太古時代に求めるユングの考えかたは、い

 家族的無意識 うならば、人類共通の祖先にその根源を見いだそうとするものであるといえる

          が、これを、特定の個人の祖先に求めようとするのが、L・ソンディ(一八九

三~ )の「家族的無意識」であった。かれは、個人の無意識の意識層に。抑圧された祖先の欲望”

を見いだし、それが恋愛、友情、職業、疾病および死亡における無意識的選択行動となってあらわれ、個人の運命を決定するというのである(ソンデイ心理学については拙著『チャンネルをまわせ』を参照されたい)。ソンディは、この心理学を、みずから、「運命分析」。かくして近代心理学はついに「運命」に到達したのである。このことは、わたくしにひとつの感慨をよびおこす。というのは、これとおなじケースを、わたくしは、ちょうどその正反対の側から、およそ三十年ちかくあゆみつづけてきたからである。すなわち、近代心理学は、。無意識の意識”を追ってついに。運命トに到達したが、わたくしはその逆に、。運命”を追いつめて、。無意識の意識”に到達したのである。

わたくしは、人間の運命を追求して、やがて「密教占星術」に到達し、それに

 桐山の「衝動意識」 運命をみちびき出す要因を分析してそれが何十種類かあることを発見し

 の発見と追求 て`これに~因縁」という名をつけた゜

 この「因縁Lがいかにして人間を動かすかを追求しているうちに、わたくしは「無意識の意識Lに

行きあたったのである。

 人間を動かすものはI」ころ‘であり、その’こころ”は、知性・理性・感情・意志といったもの

に分類されるが、人間の行動を(ことに。因縁”とそれを予知する運命学を通じて)見ていると、そ

れらの意識の領域に入らないひとつの精神作用があって、人間はそれにつよく動かされていることが

わかってくるのである。それをわたくしは「衝動意識」と名づけた。知性も理性も感情も意志も、こ

の「衝動意識」のつよい影響下にあり、というよりも、むしろこの衝動意識かそれらすべての意識を

動かしているのではないかということに気がついたのである。この、わたくしの「衝動意識Lが、心

理学のいう「無意識の意識」だったのである。すくなくとも、無意識の意識層のなかの、大きな領域

を占めるものだったのだ。

 そこで、わたくしは、この、衝動意識の無意識の意識が、「なぜ」「いかにして」人間に生ずるのか

を追求した。これこそが、人間そのものの解明につながるものであることを直感したからである。

 その答は容易に見つからなかった。

 この意識の発生そのものだけだったらそうむずかしいことはない。生物としての人間の「本能」

や、フロイト、ユング、ソンディらの、抑圧・葛藤などにそのほとんどの原因を求めることができる

であろう。しかし、わたくしのいうのは。個人の運命の成立要因としての無意識”の発生原因であ

る。ある特定の個人になにゆえある特定の意識が生じたかという根本原因である。それは、フロイ 5

ト、ユング、ソンディも説明はつかない。ソンディの理論は、「運命心理学」とみずから名づけるだ

の論理

けあって、運命の成立要因として先祖の抑圧意識による選択を持ってきたことはさすがであるが、こ

れとてもヽその選択の原因である祖先の抑圧意識がなぜ生じ、それがまたなにゆえに家族(子孫)の

特定の一人にあらわれてその選択運命を成立させたのかという、根本動因の成立理由までは説明できない。

 それにまた、ソンデイ理論には、もっと大きな論理的欠陥がある。それはなにかというと、「被選

択の問題である。ソンデイ理論には、「選択Lだけがあって「被選択Lがない。人生は、一方的な

選択でのみ成り立ちはしない。一方的な選択でだけで運命は成立しない。選択・被選択(そして不可

選択)とのからみ合い、ふれ合いそしてむすびつきによってはじめて成り立つものである。ツッデイ

理論は、たしかに、運命の一角を解明するものであることにまちがいはない。しかし、それはどこま

でも一角である。その全体を結合させ統合させてゆくものがなければならない。

 もちろん、べつな理論もある。

 遺伝の機構である。

 しかし、それもまたおなじことで、なぜにその遺伝子がその特定の個人につたわったのかという根

本原因を説明することはできない。

 どの理論もそうであった。

 ひとつの現象の原因を説明することはできても、根本の原因の説明をすることができない。

 その根本の原因を求めて、わたくしは必死にさまよった。

 最後に、その解答が仏教のなかにあることを知って、わたくしは驚愕したのである。

業の理論である。

 仏教は、違い古代において、人間およびそれにかかわる一切のものを成立させるひとつの力がある

ことを知り、「業」という名でそれを把握していたのである。

 この「業」の理論だけが、わたくしの質問にこたえてくれるものであった。

 もちろん、仏教徒であるわたくしは、はるか以前から「業」の思想に接していた。しかし、これは

あたらしい角度からの再発見であった。あたらしい視野からの再把握であった。

 ただし、仏教のこの業思想を無条件でうけいれることはできなかった。

 ひとつ、問題がある。

 

 なにか?

 

 「三世思想」であった。

 三世思想とは、人間には前生があり、また、来世があるという考えで、人間は、過去世・現世・来

世と継続して生きつづけるという考えかたであるが、「業」の理論は、この「三世思想」が基本にな

る。近代人として、この「三世思想Lをどう受けとめ、どう解明するか? 単純素朴に前世と来世の

存在を信じて、すべての人間が生まれ変わるなどということを無条件に信じることは、近代人であっ

たらだれだってその知性が許さない。しかしまた、「三世思想」を否定してしまったら「業」の理論 そうして最後につかんだのが、ヘッケル(一八三四~一九一九)の「個体発生          ゝ

 個 体 意 識 系統発生のあとをたどるという生物学の理論であった。

 これを目にした瞬間、わたくしはここに三世思想を解くカギがあると直感した。

 

 人間の胎児が、母の胎内にある十ヵ月の間に、二~三十億年にわたる人間進化の過程をかたちの上

でたどるというこの理論に、わたくしは、それはかたちの上だけではなく、こころと記憶もまたその

かたちに応じてたどっているのだというあたらしい展開をくわえた。やの理論を、わたくしは、いま

は成り立たず、業の理論が成り立たなかったら「仏教」もまた成り立たないのである。        S

 もっともヽそのために仏教が成り立たないとしたら、それは仏教そのものが、近代人の知性にたえ 5

られないということであり、それならそれでそんな仏教はふり捨ててしまって、べつな真理を求める

だけだと、そのころのわたくしは割り切っていたが、それにしても、これだけ精緻な理論を組み立て

ている仏教の業の理論を、そうかんたんにふり捨ててしまうことはできなかった。それにかわる理論

も思想もほかに見あたらなかった。というよりも、わたくしは、無意識の意識、衝動意識の解明は、

こ呪・一二廿恋恋Lc乃方に決ると直雇してど

分以前の自分からひき継いでいるのに相違ないと思ったからである。しかし、それは単なる遺伝現象

ではない。古代人が信じた単なる生まれ変わりでない近代人の生まれ変わり、近代人の知性と矛盾し

ない三世思想と業理論があるはずであった。それを求めて、わたくしの苦悩は数年間つづいた。

「三世思想Lのなかにあると直感していたのである。というのは、この無意識の衝動意識は、ヽ

からちょうど二十年まえ、最初のわたくしの著作のなかで、つぎのように発表した。

  『……即ち、われわれは、この世にあらわれるべく母の胎内にやどったとき、母の胎内におい

  て、自分の生命がそれまでにたどった経験を、もうI度くりかえして経験するのであります。

   これは、生物学の

  「個体発生は系統発生のあとをたどる」

   という理論の上に立って、わたくしが推論したもので、人間は人間の発生当時から現在の自分

  にいたるまでの形態を、母胎内でとるのでありますが、わたくしは、これを、形態だけのくりか

  えしではなく、その意識もまたその形態に応じてくりかえしているのだと考えるのです。

   図を見てごらんなさい。

   胎児は、魚、いもり、亀、兎、猿というように、人間の進化の経路と同じかっこうをつぎつぎ

  とあらわすのです。……y」のように、人間は十ヵ月の胎児時代に何億年もの進化の歴史を再現す

  るのですが、これは、ただ単にかたちの上でのみ区覆を示すのではなくて、意識の上でも、その

  かたちと一緒に反覆をしているのであり、そのかたちと同じ時代の記憶をたどっているのだとわ

  たくしは考えるのです。

   即ち、魚と同じかたちをしているとき、生命は魚の時代であったときの記憶をよびおこし、猿

  と同じかたちをしているとき、生命は猿の時代の意識、すなわち記憶をたどっておるのでありま タ

  す。このようにして、その生命が生きていた当時の状態と条件をたどりながら、ふたたびこの世

  にあらわれる準備をしておるのであります。………々ヽて、この、母胎内における生命のこの経験

  はヽ明らかに、われわれの生命が、過去からひきつづいてのあらわれであることを示すものとい 6

  わねばなりません。それは、世間一般に考えられるように、単に親から子へと生殖分裂していく

  という過程の上で生き続けるというのではなく、その生命自体の生命の持続とみるべきでありま

  す。はるかな先祖からの経験を、その受けついだ細胞の上でたどっているだけではなく、それ

  は、やはり自分自身の経験としてたどっているものといえるでしょう。なぜそういえるかという

  と、種族としての一般的な系統記憶をたどっているだけではなくて、同時にその生命自体の個体

  経験としての記憶もたどっているからであります。というのは、母胎内における胎児の記憶は、

  種族としての全体的な記憶をくりかえすわけですが、しかし種族の記憶といってもその記憶は個

  体としての自分を通しての記憶ですから、結局、種族、個体、両方の記憶をくりかえすというこ

  とになるからです』(昭和32年『幸福への原理』観音慈恵会出版部刊)

 つまり、わたくしは。こう考えたのである。

 胎児は胎児としての意識を持っているのであるから、胎児はその形態に相応した意識を持つのが当

然であり、したがって胎児の形態が、その発生展開のあとをたどっているとするならば、その意識も

またその発生展開のあとをたどっているはずだと考えたのである。そして、意識が発生したむかしに

かえってそのあとをたどるということは、経験(記憶)をくりかえしているということにほかならな

いのではないか。そこでわたくしは、胎児は母胎内においてそれまでの記憶を経験するという表現を

もちいたのである。            ゝ

 この理論は「三世思想Lのあたらしい解釈として、近代人の批判にたえられるものであるとわたく

しは思った。

 記憶の継続によって、人間は生まれ変わり、生きつづけるのである。記憶の継続とは経験の継続に

ほかならず、これによって、人間は実際に生まれ変わらなくても「経験をひきつぐことによって」生

まれ変わり、生きつづけるのである。(それは、記憶-経験を通じて、選択・被選択・不可選択をひ

きつぐのである。とすると、それは生まれ変わりというよりも、むしろ、おなじ人間の継続といった

ほうが妥当ではあるまいか)

 このあたらしい三世思想をもとに、わたくしはさらに前進した。

 無 意 識 の 胎児時代における過去の経験意識(反覆された記憶)が、誕生と同時に意識の

 二つの領域底辺に沈んでいって、それが「無意識の意識」になるのだと、わたくしは、フ

          ロイト、ユングその他の近代心理学に接して結論づけた。

 やがてわたくしは密教に入って、「求聞持聡明法Lの修行をはじめた。この法の修得には、大脳生

理学の知識が必要である。大脳生理学の研究をはじめたわたくしは、大脳のなかに、無意識の意識の

「場Lのあることを発見した。「旧皮質」と「古皮質Lである。

 この、旧皮質、古皮質の機能を研究したわたくしは、無意識の意識を二つの領域に分類することに I

した。「潜在意識」と「深層意識Lである。この二つは、もともと無意識の意識そのものをさす名称

であり、潜在意識とよんでも深層意識とよんでもそれは無意識の意識を意味するもので、その区別は

ないのである。わたくしはこの二者をはっきり区別して分類することにした。どうしてそのように分

類したかというと、無意識の意識は二つの層から成り立つと考えたからである。これは、大脳辺緑系

のはたらきと、新皮質の機能を研究しているうちに考えついた。

 無意識の意識の二つの層とは、一つは、いままでわたくしが述べた「生まれるまえの無意識」で、

もう一つは、フロイト心理学の、生まれてのちに生じた「幼児期における抑圧・葛藤による無意識」

である。

 無意識にはこの二つの層がある。

 この二つの層の、生まれる前の無意識を、わたくしは「深層意識Lと名づけ、幼時期に生じた無意

識を、「潜在意識」と名づけた。なお、意識する意識は、「表面意識Lである。

 この二つの無意識層が、大脳のどこにあるかというと、旧皮質と新皮質の一部が、潜在意識の場で

あり、古皮質が、深層意識の場である。最も古い記憶と意識は、古皮質のなかの「海馬Lであろうと

推論した。表面意識はもちろん新皮質である。

 以上は、『幸福への原理』から十数年たって刊行した『変身の原理』に発表した。つまり、わたく

しは、十数年のあいだ、無意識の意識を追いつづけたわけである。この追跡はまだ終わっていない。

その後の著作にも無意識の意識はひきつづき登場し、その都度、少しずつながら新しい展開を示して

いるはずである。今後もIIおそらくそれはわたくしの一生つづく主題となるであろう。いま、わた

くしは、無意識の意識と遺伝子機構とのかかわりに追求の目を向けている。

 では、この、無意識の意識に対するわたくしの執拗なばかりの追及はなんのためか?

   無意識の意識と求聞持法

 無意識の意識は、心理学のみがあつかうべき主題ではないからである。無意識の意識は、近代心理

学によってとりあげられ、しだいにそのヴェールをはがされつつある。しかし、それだからといっ

て、それは心理学のみがあつかわねばならぬというものではないのである。無意識の意識は、人間と

いうものを解明しようとしたとき、かならずつきあたる壁である。さきに述べたように、人間の深部

にひそんでほんとうに人間を動かしているものが、無意識の意識なのである。この無意識の意識の機

構を解明せずして人間の解明はぜったいにできない。

 わたくしが、宗教家でありながら、心理学や大脳生理学について言及することにたいし、あざけり

やひやかしのことばを投げつけるひとびとがいるようである。不勉強か、無智のためであると考え

て、わたくしはいっさいとり合わない。人間というものをほんとうに解明しようとしたなら、どうし

ても最後にはこの無意識の意識につきあたるのである。宗教というものが、人間の解明なくしてなり

たたない以上、宗教もまたどこかでこの壁につきあたらなければならないはずである。わたくしは、

この無意識の意識を追って顕教から密教に転じ、最後に求聞持聡明法にたどりついた。

 わたくし。が、真言密教の、「求聞持聡明法Lの価値を再発見できたのは、この無意識の意識にたいす

る飽くなき追求のおかげであった。それまで求聞持聡明法はその真価を認識されぬまま埋もれていた

といっても過言ではないであろう。いや、いまもなお求聞持聡明法は誤解されている。わたくしが、

『変身の原理』『密教・超能力の秘密』その他で、密教のこのおどろくべき技法を説いて以来、それま

で専門家のごく一部にしか知られていなかったこの法も、しだいに世間一般に知られはじめてきてい

るようだが、同時に、この法を、たんなる頭脳開発の訓練にすぎぬものとして批判したり、あるいは

オカルトだときめつけて誹誘をするひとびともまたすくなからず出てきたようである。これはまった

くこの法に無智なるためで、そのなかには、密教の専門職のひとさえあると聞くが、その不勉強さは

大いに責められてよいであろう。もっとも、それもまたやむを得ぬことというべきかも知れない。い

ままで、この法は、真言宗内部においても、その程度のものとしか思われておらず、その程度の扱い

しかうけていなかったのである。

 このあやまりはただちにあらためられなければならない。求間持法は、ただたんに「頭をよくす

る」だけの法ではないのである。すくなくとも、わたくしの求聞持聡明法はそんな単純なものではな

い。もっとも、わたくしの求聞持聡明法は、真言宗でふつうおこなわれている従来の求聞持聡明法と

は修行のしかたが全くちがう。それは、あるひとが言ったように、古来の求聞持聡明法を基調にして

あらたなるこころと知恵の訓練法をつくり出したのだというべきかも知れない。たしかにそういう一

面はあろう。だが、原理はやはり古来の求間持聡明法のなかにあったのであり、わたくしはそれを現

代に即して編成しただけなのである。

 だが、それはとにかく、いずれにせよ、この法は、ただたんに頭をよくするだけの単純なものでは

ないのである。それは、大脳のなかの新皮質、旧皮質、古皮質を動かし制御する法である。新皮質は

知性・理性の座であり、旧皮質、古皮質は無意識の意識の座である。それを動かし制御するというこ

とがどういう意味を持つものか、読者ももはやおわかりであろう。それについてはまたあとでくわし

く書くこととして、こうして、わたくしは、無意識の意識を追って求聞持聡明法に到達し、無意識の

意識のすべてを解明するとまではいかないまでも、それを動かし、制御する方法を発見した。今後

も、この法を通して、わたくしの無意識の意識の追及は、おそらく一生つづくであろう。それは、ま

えに述べた通り、無意識の意識は心理学だけにまかせておけばよいというものではなく、宗教もまた

その任務の一端をになわなければならぬと思うからだ。それは決してわたくしだけのひとりよがりの

独断ではない。それについてはまたあとでふれることになろう。ところで、この章のはじめで、わた

くしは、無意識の意識は近代心理学がとりあげ、近代心理学によって次第にそのヴェールがはがされ

つつあるといった。そうして、それだからといってそれは心理学のみによってあつかわれねばならぬ

というものではないのだと述べたのだが、それではI、無意識の意識は、近代心理学がとりあげる

まではだれも気がつかなかったのであろうか?

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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