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することは、まさに、成仏法の極意を解説することにほかならない。

 ただし、元来が「法」というものは、説明のできないものなのである。説明できたら、それ

はもう「法」ではないのだ。「法Lとは、われわれの概念や認識の領域をはるかに超えたとこ

ろにあるものである。だから、それは完全に説明し尽くすことはできない。「冷暖自知」で、

自分自身、体験して知るよりほかないのである。しかし、この法が、どういう機構を持ち、そ

れがどのような功能を発揮し、どのような力をわれわれにあたえるか、ということくらいは説

明できる。

 まず、この行法は、ひとロでいうと。

   「供養法」

 から成り立っている。

 そこで、「供養」とはどういうことなのかというと、『密教大辞典』によれば『供給資養の義

で、飲食香華その他所要のものを、三宝(仏法僧)・父母・師長・亡者等に供給し資養するを

云う』とある。

 供養ということばは、サンスクリットで、忍旨(布惹)といい、「崇敬するLという意味の

動詞t&から出た名詞で「崇敬の念をもって聖尊に脱えささげるLという意味である。

 要するに、まごころをもって、崇敬する仏界の対象に、ささげ供えるということであるが、

では、いったい、だれに、なにを、ささげ供えるのか?

 まず、だれにささげ供えるか?

 「三身供養」である。

三身供養

三身供養とは、

 一、本尊供養

 ニ、祖霊供養

 三、自供養

をいう。

 

 まず、一、の本尊供養とは、本尊にたいして供養をささげるのである。

 なんのために本尊にささげるのかというと、本尊とは、修行者である自分に教法をさずけて

くださる仏さまであるから、それにたいする感謝のため、「報恩謝徳Lのためである。つぎに、

供養をささげることにより、本尊が威光倍増してそのお力をいよいよ増して発揮されんがため

である。

 つぎに、二、の祖霊供養とは、修行者が、本尊からいただいた因縁解脱・成仏の法の力を、

祖霊に供養するのである。祖霊はそれによって、因縁解脱し、成仏されるのである。不成仏霊

は、自分では因縁解脱の修行をすることができない。そこで、修行者が、本尊から受けた成仏

の教法を、祖霊に供養するのである。これにより、不成仏の祖霊も、成仏への道をあゆむこと

ができるようになるのである。

 また、霊障を発して非常に苦しんでいる祖霊は、導師におねがいして、解脱供養していただく。

 祖霊のなかには、畜生界・餓鬼界・地獄界などに落ちて、飢渇や病傷に苦七んでいるかたも

あるので、飲食その他を供養して、これをなぐさめたすけるのである。ただし、そのままそな

えても、亡者は、次元がちがうので、これをうけることができない。本尊の法の加持をして、

これを供える。これにより、亡者もこれを受けることができるようになるのである。

 三、の自供養とは、本尊からいただいた教法その他を自己に供養して、因縁解脱の成仏をは

かるのである。自分が自分に供養するとはおかしいと思われるかも知れないが、そうではな

い。即身成仏には欠かすことのできない修行である。これはあとでまたくわしくのべよう。

三種供養

 では、以上の「三身」に、どのような供養をささげるのか?

「三種供養」である。三種供養とは、

  一、理供養

  二、行供養

  三、事供養

 である。

 

 これは、大日経供養法疏下供養儀式品によるもので、密教の供養は、この三種供養をもっ

て、建前とするのである。

 まず、理の供養とは、仏陀(本尊)が説かれる解脱のさとり「空」の理を、ふかくまなび、

これを体得することである。修行者が、空の理をふかくまなび、体得することは、本尊のもっ

ともよろこばれることなのである。仏陀が世に現われた本懐は、ひとえに「空」の教法を説い

て、世のひとすべてを解脱せしめ、この世を密巌浄土とするためである。ゆえに、修行者がこ

の理をまなんでこれを体得し、解説しようと努めることは、仏にとってもっともよろこばれる

ことなのである。(これを他に及ぼしたときは事供養になる)。そのために、仏陀の教法を説い

た経典を読誦し、あるいは説法を聴聞し、仏の印・喜言を結誦することなど、すべてこの理供

養であり、これを本尊にたいしておこなえば、「理の本尊供養」となり、祖霊にたいしておこ

なえば「理の祖霊供養」となるのである。

 この、「理の祖霊供養Lをすることにより、不成仏の祖霊は「空」の理をさとって、成仏へ

の道をあゆむのである。また、自行としておこなえば、「理の供養」である。

 つぎに、行供養とは、師の指導の通りに、準祗尊千座行法を、あやまりなく行じてゆくこと

である。

 

 まず、所定の法典を、毎日、かならず、法とともに勤行すること。また、課せられた戒行、

課行等を、きちんと行じてゆくことである。

 この行が、本尊にささげられたとき、「行の本尊供養」となり、祖霊に供えられたとき、「行

の祖霊供養Lとなって祖霊が修行者とともに準鼠尊于座行を行じていることになるのである。

これにより、さきの「理の祖霊供養Lによって、「空」の理をさとった祖霊が、行をして、

「空」の実相を体得するのである。というのは、経典その他の教学によって空の理をさとるの

は、「理の空」といって、ただ理論的に空の相を知っただけである。要するに理くつを知った

だけで、頭がそれを理解しただけだ。行をし、法を修することにより、「空Lの実相を体得す

るのである。からだ全体で把握するのである。これは、修行者自身にもいえることであって、

「空」の理を理解することくらい、そうむずかしいことではない。しかし、理解した「空」の

理を自分の生きる根本原理として、いささかの迷いもなく空の世界を展開してゆくということ

は、これは、きびしい行の修練を経てはじめてできることである。世に「本音と建前」という

ことばがある。建前としては「空」の生きかたをかかげるが、じっさいの生活は「有」の執着

からすこしもはなれることのできないひとびとを多くみる。

 じっさいに体得した「空」を、「理の空」に対し、「事の空」というのである。

つぎに、事供養。                       

「事」というのは、密教特有のことばで、じっさいの事物に即したことをいう。「理」に対し

てつかわれることばである。

 そこで、事供養といえば、じっさいの品物、たとえば、香・華・燈・飲食等の物資を供養す

ることである。

 まず、「事の本尊供養」で、これらの物資を、本尊にたいしてご供養する。前にのべたよう

に、報恩謝徳のためであり、威光倍増のためである。

 つぎに、「祖霊への事供養」である。この祖霊への事供養は、二種の供養に分類される。

 それは、

1、祖霊へささげる事供養

 2、祖霊にかわっての事供養

である。

I、は、前にのべたように、霊界におられる祖霊や、不成仏の祖霊に、物資をささげて慰霊

するためである。

2、は、追善供養である。

 追善とは、亡くなったひとは、善をなして徳を積むということができない。そこで、縁者が

代わって善をなし、その善徳を亡者に追送してあげる。これを追善という。不徳を積んでその

ために成仏できずに苦しんでいる祖霊に代わって、仏と法に事の供養をして徳を積んであげ、

これを祖霊に供養するのである。この徳により、不成仏霊は成仏する徳を持つのである。

 これはどういうことかというと、理の空をさとり、行で空を体得しても、それだけでは成仏

できないのである。なぜかというと、「業報Lというものがある。諸法皆空とさとっても、さ

とっただけでは、過去の業報は消えない。諸法皆空を体得しても、それだけでは、過去の業報は空にはならない。さとっただけ、体得しただけで過去の悪業が消滅して空になるのだったら

こんなラクなことはない。過去の悪業の業報は、それだけの徳を積まなければ、消滅しないの

である。借金をしておいて、諸法皆空だとさとって、自分は空の世界に住んでも、借りた金を

返さぬことには、借金は空にはならない。貸しぬしはどこまでもとりたてにくるだろう。それ

とおなじ道理である。空のさとりにも、「理の空」「行の空」「事の空」の三つがあって、この

三つの空がそろわなければ、因縁解脱して成仏することはできない。これを「-ニ輪空Lとい

う。この三輪空がそろわなければ、因縁解説して成仏はできないのである。祖霊に事の追善供

養をしてあげることにより、祖霊も三輪空を得て、成仏することができるのである。

 このことは、修行者自身においても同様である。教学をまなび空をさとっても「理空Lだ

け、行をして空を体得しても「行空Lだけである。どうしても「事の空」を得て、過去の悪業

による業報を消滅しなければいけない。「三輪空」を成就しなければならない。

 そこで、修行者自身の「事の供養Lも、二つの供養が必要となる。

 それは、

  1、(自分の)滅罪生1 のための事供養

  2、(自分の)追善供養のための事供養

 この二つである。

 そういうと、すぐに、それはおかしいじゃないか、といわれるかも知れない。。自分の滅罪

生善のため”ということはわかる。自分の持つわるい因縁は、過去におかした罪障によるもの

であるから、この罪障を消滅するために善事をなして、徳を積む、ということはわかる。むか

しからいわれている。滅罪生善‘である。しかし、。追善‘というのは、亡くなった人に代わ

って善事をなして、その善徳を追送してあげることではないか。生きている自分自身に追善と

いうのはおかしい。まちがいだろう。そういわれるかも知れない。

 まちがいではないのである。

 この。追善‘は、前生における自分への追善供養なのである。

 さきに、わたくしは、「中座の行で前生の因縁を切るLとのべた。自分が前生においておか

した罪業の業報が、現生における自分の因縁となっているのである。根はそこにあるのだ。現

生のわが身の持つ悪因縁を切るためには、前生におけるこの罪業を消滅しなければならない。

そのために、事の供養をし、前生の自分の滅罪生善をはかるのである。これが、わが身の追善

供養である。おわかりであろうか? 専門家でも、これを知らないひとが多いので、因縁解脱

ができないのである。

祖霊が守護霊となる

 以上の三身・三供養を行じていると、自分の因縁解脱がしだいにすすみ、それに応じて、境

界も高まってくる。

 修行者の境界の高まりは、同時に、祖霊の境界の高まりである。不成仏霊もしだいに成仏

 そこで、時期をみて、導師に、徳のある祖霊をみつけていただいて、この祖霊に、特に守護

霊となる「増益供養」をするのである。

 この供養により、祖霊は、守護霊となり、修行者と修行者の家族を守る守護霊となるのであ

る。守護霊を持つと、以後の修行者の行は、急速に進歩する。そうして、さきの章でのべた龍

尊の「守護神」を持つ段階へとはいってゆくのである。

即身成仏の秘法

さて、以上の解説を読むと、「なるほど、準祗尊干座行とは、。供養による滅罪生善‘の法な

 

 

 

 

 

 

 

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末世成仏本尊経

じよし が ぶん いつし ぶつざいしやえいこくぎじゆきつこ どくおん じ し せそんこくあなん

如是我聞。一時仏在舎衛国祇樹給孤独園。爾時世尊告阿難。

ゆうさんぷくどう ふ か ぐじん ぜんしね はんがい い が い さん しよい お によらいしよ

じしゆく どく しふくふ か ぐうじん おしようほう じしゆくどく

而種功徳。此福不可窮尽。於正法。而種功徳。

おせいしゆう じしゆくどく しふくふ かぐうじん ぜ い あなん

於聖衆。而種功徳。此福不可窮尽。是謂阿難。

`しふくふ かぐうじん

此福不可窮尽。

しさんぶくどうふ か

此三福道不可

ぐうじん じしゆだおんしあ なごん だんごげぷんけつ さんぶくどうそくし ね はんかい

窮尽。自須陀恒至阿那含。断五下分結。三福道即至涅槃界。

ぜ こ あなん とうぐ ほうべんきやくしふ か ぐうじんし ふく じよし あなん とうさぜ がく

是故阿難。当求方便獲此不可窮尽之福。如是阿難。当作是学。

じしあなんもんぷつしよせつ かんきぶぎよう

爾時阿難聞仏所説。歓喜奉行。

ぞういちあごんきよう

(増一阿含経。三供養品)

〔和訳〕

き    かく ごと  いちじほとけ しゃえいこくぎじゅきっこどくぉん おわ    そ  ときせそん あなん つ

聞くこと是の如し。一時仏、舎衛国祇樹給孤独園に在しき。爾の時世尊、阿難に告げ

たまわく、「三福道あり、窮尽す可からずして、漸く涅槃界に至る。云何が三と為す

や。所謂如来の所に於て功徳を種う。此の福窮尽すべからず。正法に於て功徳を種う。

此の福窮尽すべからず。聖衆に於て功徳を種う。此の福窮尽すべからず。是れを阿

難、此の三福道は窮尽すべからず。須陀原より阿那含に至りて五下分結断ず。即ち涅槃

界に至る福道なり。是の故に阿難、当に方便を求めて比の窮尽す可からざるの福を獲べ

ごと     まさ    がく な         そ       ほとけしよせつ さ   かんぎぷ

し。此の如く阿難、当に比の学を作すべしLと、爾の時阿難、仏の所説を聞きて歓喜奉

 

 

〔註解〕

〔三福道〕福を受ける三つの道・方法。この場合の。福’とは、霊性開顕して聖者になること。一書には

「三善根」「三福業」とあり。阿含宗は「三福」をとる。また、「自須陀鯉至阿那含断五下分

結」の十三句は、のちにのべる通りの理由により、同意の他の阿含経からとり入れた。

〔涅槃界〕ニルヴァーナのこと。完全に霊性開顕したブッダの境地。

〔五下分結〕須陀疸・斯陀含・阿那含の三聖者がそれぞれ断ち切る五種類の煩悩。

阿含宗が「証明仏現形の聖典Lとおよびする奇蹟の経典である。

そういうと、なあんだ、と失望の声をもらす読者もおられるかも知れない。

第一に、まことに短い。

第二に、見たところ、奇想天外、驚天動地、というような不可思議のことがしるされ

ているようにも思えない。

どこが奇蹟の経典なんだといわれるかも知れない。

じつは、わたくしも、最初そう思ったのだ。

しかし、のちに、この経典こそ、二六〇〇年もむかしに、釈尊が、未来社会のために

予言されていたおどろくべきお経であったことがわかったのである。     ド

どうしてわかったのか?

如来がおすがたをあらわして、これを証明されたのである。

まず、このお経の要旨を説明しよう。

このお経の要旨はこうである。

聖者になる三つの方法がある。この方法によって、かならずニルヴ″Iナに到達して

完全解脱することができる。

その三つの方法とは、

一、如来のもとにおいて功徳をうえる。

二、正法の仏法において功徳をうえる。

三、聖師とその聖なる弟子たちのグループに入って功徳をうえる。

この三つの方法により、必ず、須陀筥・斯陀含・阿那合の聖者に到達できるのであ

る。これが、この経典の要旨である。

この経典を、最初、手にしたときIそれは十年以上も前のことだがIわたくしは

非常な魅力と、つづいて、それに正比例する落胆を味わったのである。

非常な魅力とはなにかというと、七科三十七道品の成仏法を、修行せずして五下分結

(前の章に解説した)を断じ、須陀逼から阿那含にまで到達できる、ということである。

(ただし、原文では、

『この三福道は窮尽すべからず、涅槃界に至ることを得と謂うなり』

とある。「自須陀逼至阿那含断五下分結」はない。

しかし、考えてみると、功徳を種えるという梵行だけで最終的な涅槃にまで到達して

しまうというのは、おかしいのである。それでは、道品法の否定になってしまう。そこ

のところはどうなっているのか。

ナゾはすぐ解けた。釈尊は、”涅槃に至る‘とはおっしゃっていないのである。涅槃

界に至ると表現しているのである。涅槃に到達、とあれば、阿羅漢であるが、涅槃界と

なると、須陀肛・斯陀含・阿那含・阿羅漢の。四沙門果”の境界をさすことになる。

そこで、こういう場合、他の阿含経ではどうなっているかと調べてみると、他の阿含

経では、略さずに記していることがわかった。たとえば、おなじ『増一阿含経・壱入道

品』では、

『……亦、須陀原・斯陀含・阿那含の三乗の道を成じ……』

とあり、三宝品では、

『現法の中に於て漏尽きて阿那含を得ん』

とあり、火滅品では、

において比丘、五下分結を滅して即ち彼に般涅槃して云々』

とある。つまり、この三供養品は、ここのところを略しているわけである。そういう

経は他にもある。

そこで、意を通ずるために、この略している部分を、これらの経からとって「自須陀

原至阿那合断五下分結」と入れたのである。これによって、誤解を招くことを避けたわ

けである。)

しかしいずれにしてもこんな魅力的なことはない。これが事実であれば、とくにすぐ

れた資質がなくても、また、苦難にみちた修行をしなくても、仏道をきわめることがで

きるのである。こんなすばらしいことはない。

だがI、待てよ、とわたくしは考えた。

これは、ひょっとしたら、後世の、ごく初期の大乗経典がまぎれこんだのではなかろ

うかと考えたのである。というのは、これまでのべてきた通り、大乗仏教は釈尊の成仏

法を捨て去って、そのかわり、仏の慈悲にすがれば成仏できる、と教えている。する

と、この経も結局それとおなじで、阿弥陀経、法華経となんら変わりはないことになっ

てしまうのではないか、おかしい、そう考えた。

しかし、れっきとした阿合部の経典である。やはり、釈尊のおことばと信じたい。い

や、信ずべきだ。至難きわまる成仏法を修行せずして、成仏する! いや、なんとか信

じたい!

そう思って、何百ぺん、何千ぺんも、この経典に目を凝らした。このお経を信じた

い一心で、一心ふらんに目を凝らしたのである。

 

上根と下根の成仏法

わたくしは、このお経を、

「下根の成仏法」

さきにあげた応説経を、

「上根の成仏法」

と考えた。

上根というのは、すぐれた機根ということで、機根とは、教法をまなんで、よく修行

し得る能力をいう。だから、上根とは、この場合、釈尊の成仏法を修行して、よく証果

を得ることができるだけのすぐれた能力の持ちぬしをいうわけである。プロの出家修行

者がそれであろう。

下根とは、釈尊の成仏法を、ストレートには修行するにたえられない能力の持ちぬし

である。おもに在家の修行者、信者をさすものと思われる。もちろん出家修行者もいる

であろう。

そこで、わたくしは、釈尊が、下根の弟子や信者たちをあわれんで、むずかしい成仏

法を修行せずとも成仏できるという道を、下根の成仏法として示されたのであろうと考

えたのである。

しかし、それにしてもおかしいところがある。

如来のもとにおいて功徳をうえよ、というのは、さきにあげた「出家経Lのように、

釈尊のもとで、在家者としての梵行をせよ、という意味であろう。それならば、どうし

てこの経典だけ、梵行という表現を使わず、功徳をうえよ、という表現になっているの

か。梵行という表現には、功徳をうえる行だけではなく多少なりとも、他に修行法が加

味されているのである。どうしてこの経だけ、こういう表現になっているのか?

つぎに、。正法において”というのも妙である。第一の。如来のみもとにおいて”と

いう如来が、釈尊であるとすると、釈尊が説かれるのは当然、正法にきまっているので

あるから、わざわざ、”正法においてへとことわる必要はないはずである。どうもおか

如来の現形のホトケLということばがある。

しい。

このように、あれこれ考えているうち、最後に、

「これはだめだ」

と投げ出さざるを得ない致命的な難点にゆきあたったのである。

それはなにか?                                ‘

一番目の、。如来のみもとにおいて″という項目である。

この、如来、というのは、釈尊でないことは明らかである。

釈尊が、ここでいう如来なら、いまのべたように、わざわざ。正法において”などと

おっしゃるはずがない。だからこの如来は、釈尊以外の如来ということになる。

すると、この如来は、どの如来なのか?

如来といえば、どこのお寺でも、一体や二体の如来をおまつりしている。しかし、そ

れは「如来」そのものではなく、如来の像である。如来像は、いまさらいうまでもな

く、如来そのものではない。如来の模型にすぎない。如来の模型ではない如来そのもの

を、さがさねばならぬ。

しかし、いまの世に、自称如来はべつとして、真正の如来がいらっしゃるはずはない

のである。

「これはだめだL

わたくしは、落胆その極に達したのである。

ところが-、」

思いがけなくも、この如来が、突如、おすがたをあらわされたのである。

どんなホトケか?

法爾とは自然のまま、自然そのものの、という意味。無作とは、作られたものではな

い、という意味で、要するに、「作りものではない自然のままの生きたホトケLという

意味である。ホトケが、なにかの物によってそのすがたをあらわすことである。あらわ

すといっても、特定の人間だけが見るというのではなく、だれの目にもそれとわかるよ

うにすがたをあらわすのでなければ、意味がない。

わたくしは、むかし、この法爾無作のホトケという仏教用語を目にしたとき、かるい

興奮をおぼえた。そんなことがじっさいにあり得るのだろうかと思った。わたくしたち

が目にし、おがむホトケは、すべて人の手になる作りものである。どんな名匠の手にな

ろうとも、どんな高価なものであろうとも、しょせん、人の手によって作られたもので

ある。それは、ホトケそのものではない。要するにホトケの模型である。密教の修行で

は、「観想」といって、いろいろなホトケの尊形をこころの中に想いうかべて瞑想する。

しかし、それらもまた、経典や儀軌を読んで想像するだけである。

もしも、じっさいに生きた存在としてのホトケーー法爾無作のホトケがおすがたをあ

らわし、それをおがむことができたら、なんとすばらしいことかと、わたくしはこころ

おどらせたものである。                             }

その後、密教の荒行中、何度かホトケのおすがたを目にし、そのお声を耳にしたこと

がある。しかし、それは、荒行中という一種の極限状態における幻影、幻聴であったか

も知れず、法爾無作のホトケの出現とはいえないのである。

そんな奇蹟はあるはずなく、法爾無作のホトケとはただコトバの上だけの存在であ

る、そうわたくしは思っていた。

ところがI、

その奇蹟があらわれたのである。

昭和五十四年二月四日、それは阿含宗創建の翌年のことであった。

京都東山花山の、総本山道場建立予定地において、「節分星まつり大柴燈護摩供」奉

修中、一陣の霊気が結界内を走ったかと思うと、突然、焚き上げている大護摩の火炎

が、巨大なホトケのご尊体と変わったのである。

その炎の高さは、およそ六、七メートル、それまで、風速七、八メートルの山風に、

右に左に大きくゆれていた火炎が、一瞬、ピタリと静止したかと思うと、突如、如来の

おすがたをあらわしたのである。

その寸前、修法中のわたくしは、思わず、あ! と思ったのである。というのは、そ

のとき、燃えあがっている火炎の火のいろが、一瞬、変わったからである。それまでの

赤みを帯びたふつうの火の色が、輝くばかりの黄金色となったのである。あ! と思っ

たつぎの刹那、火炎がピタリと静止し、巨大なホトケの尊形となった。……次の瞬間、

火はもとのいろにもどり、ごう″と吹く山風に大きく揺れ、なびいていた。その間、お

よそ二、三秒、わたくしは、残念だと思った。結界内にはおよそI〇〇人を越す山伏が

厳修中であり、結界の外にはおよそ一万人ちかくの参詣者が、お護摩の火をおがんでい

る。しかし、いずれも霊眼を持たぬ悲しさ、おそらくこのホトケを、それと拝した者は

一人もおるまい。まさしく法爾無作のホトケと確信するが、拝したのはわたくしI’人と

いうのでは、どうにもならない。心から残念だなと思った。

修法が終わって道場に帰り、ご霊示を仰いだ。

「われは応供の如来である。供養を受けるぞL

というご霊示がさがった。この経緯は、昭和五十四年十二月発行の『修行者座右宝

鑑』(阿含宗総本山出版局)その他にくわしくのべているので、ここでははぶくが、要す

るに、「応供の如来」とは、「(信者の)供養を受けて、その供養を功徳として(信者に)

返すLという意味である(如来の十号参照)。わたくしは、その瞬間、この総本山建立

地が霊界と直結した霊地となったことを確信した。しかし、わたくしは、これを一部の

幹部の者のみに伝えるにとどめた。ご霊体を拝さぬ者にいっても仕方ないと思ったから

である。

ところが、数日後、当日の修行者の一人が、

「これは霊写真ではないでしょうか」

といって一葉の写真を届けてきたのである。一見して、わたくしは、息を呑んだ。ま

さしく、あの刹那、わたくしが拝した法爾無作の如来のおすがたである。その黄金色に

かがやく色も、かたちも、寸分ちがわない。わたくしは思わず、おしいただいた。

「如来の現形……L

わたくしはつぶやいた。

現形、ということばがある。おもに神道のほうのことばだが、仏教のほうでも使う。

カミ、ホトケが、その、ヵQZ Sホトケご自身の意志によってすがたをあらわし、その

おすがたをとどめるのである。これを現形という。これは、だれか一人がそのおすがた

を目にしたというのでは現形とはいわない。万人、だれでもそのおすがたを拝せるよ

う、すがたかたちをとどめなければいけないのである。神道のほうでは、石、樹木、

剣、ときには一つの山そのものがカミのすがたを現形することがある。三輪山(奈良)

などは、山そのものがカミの現形として有名である。

この霊写真は、まさしく、法爾無作の如来の現形であった。如来が、如来のご意志

で、密教の護摩の火という、最も清浄なる仏法の火をもってわがすがたを荘厳され、フ

イルムにそのおすがたをとどめさせられたのである。なんという奇蹟であろうか。わた

くしの胸は、ただ感激にふるえるのみであった。そして、なんのためにこの如来の現形

があったのか、その真の意義にはまだ気がつかなかったのである。まさか、この現形の

如来が、そのむかし、わたくしがあれほど一心にさがし求めたあの三供養品の如来であ

ったとは、まったく気がつかなかったのである。

そのことにわたくしが気づいたのは、その翌年、インドの仏蹟巡拝の旅から帰っての

ことであった。

サヘトーマヘト、あの祇園精舎の遺跡(奇しくも三供養品が講ぜられた舎衛国祇樹給

孤独園である)で、わたくしは、ほとけの強烈な霊的洗礼を浴びた。(『一九九九年カル

マと霊障からの脱出』平河出版社参照)

帰国して、最初の護摩を修したとき、わたくしは、修法壇の上で、それとおなじバイ

プレーションを感じたのである。その刹那、なんの脈絡もなく、ぱっと念頭に浮かんだ

のが、十年も前に捨て去り忘れ去っていたあの三供養品の経典であった。

「そうか

わたくしは、護摩を修しつつ、心の中で叫んでいた。

このほとけだ。この如来が、三供養品の、生ける如来であったのだ。あの三供養品の

釈尊のおことばは真実であり、いまここに出現した如来のみもとにおいて功徳を積むこ

とが、末法の世である現代唯一の成仏法であることをお示しになったのだ、そのために

この如来は出現されたのだ、一瞬のうちに、それがわかったのである。

ただたんに奇蹟をあらわすために如来は出現されたのではないのだ。末世成仏の本尊

として出現されたのだ。

キリスト教では、「キリストの復活という奇蹟があった。

この如来の出現は、決して単なる現形ではないのだ。これは「仏陀の復活」-いなのだ。

キリストの復活に比すべき現代の奇蹟である。仏界において、時間と空間を越えて仏陀

は生きつづけている。そしていま、仏教の危機、世界の危機に際して復活されたのであ

一瞬のうちに、わたくしはさとったのである。

聖者への飛躍

わたくしがなによりも感激し、かつうれしかったのは、わが阿含宗が正法を行ずる教

団であることを、ほとけさまによって証明されたことである。

阿含宗と、桐山靖雄にたいする批判は、さまざまなかたちでおこなわれ、時に、それ

は、批判という範囲を越えて、卑劣きわまる中傷・廃膀というところまできている。

あたまから、邪師、邪教よばわりである。わたくしはひたすら、それに耐えて、努力

に努力をかさねてきた。わたくしの説くところ、わたくしのおこなうところ、ぜったい

に正しいという信念があったからである。

しかし、ときに、一沫の不安の生ずることもないことはなかった。ほんとうにおれは

正しいのだろうか? ほとけさまの前にぬかずいて、考えに沈むことI時にあった。

だがI-I、如来が、正法であることを証明してくださったのである。

釈尊のおことばの第一の項目、’如来のみもとにおいて’はすでに実現した。この復

活した如来こそ、この如来であったのだ。

第二の項目、”正法において″は、この如来の出現した阿含宗こそ、正法を行ずる教

団であることの証明そのものではないか。

古来、幾多の祖師・開祖があらわれたが、ほとけさまがおすがたをあらわして、正師

・正法であることの証明をなされたということは、ほとんど聞かない。(伝説のたぐいは

別として)

人間どもがなにをわめこうと、ほとけさまの証明にはかなわないのである。わたくし

にとって、この”証明仏の現形”ほど、ありがたく、かつ、うれしいものはないのである。

さて、第三の項目、”聖衆において”についてのべよう。

聖衆とは、聖なるグループ、という意味である。正法を説く聖師と、それを行ずる聖

なる弟子たちの集

い、つまり、教団のことである。

釈尊が、わざわざ、。聖衆において”と説かれたのはどういうわけかと、その意義に

ついて考えてみると、たいへん重大な意味のあることがわかるのである。

わたくしは、さきに、「成仏法を持つことの意義」(~`ページ参照)で、成仏法を持つこ

とが、どんなに重要なことであるかを、つぎのように説明した。

成仏法を持つことが、どんなに重要なことであるか。その意義をご存じであろう

か。

成仏法を持つたからといって、もちろん、そうかんたんに完全成仏できるという

ものではない。しかし、最も重要なことは、成仏法を持った瞬間から、仏界に通ず

る「縁」が生ずるのである。これは筆舌につくしがたいほど貴重なものである。

成仏法を持たなければ、どんなに修行しても仏界には行かれない。なぜならば、

成仏法を持つことにより、はじめて、われわれは仏界に縁ができるのであって、成

仏法がなければ、最初から最後までまったくぷ」縁がない”のである。

成仏法を持つと、ただちに仏界に縁が生じ、仏界の加護をうけて、わが身、わが

家が霊的にきよめられ、高められて、やがて必ず仏界に到達するのである。道が通

ずる成仏法がないと、これができない。

と。

まず、成仏法を持つ聖なるグループに入って、仏界にご縁を持つことである。それが

なによりも大切なのだ。生ける如来にご縁をつなぐことである。そのことがすでに仏道

修行であり、成仏法の第一歩なのである。

釈尊が、″聖衆において”とおっしゃった意義は、ここにあるのである。まず、あな

たは、聖なるクルー・プ、聖衆の一員になることである。その瞬間から、あなたは仏界に

縁が生ずる。そこから、あなたの聖なる向上・因縁解脱がはじまるのである。

さいごに、『正像末三時正法経』と、この経との関連についてのべておきたい。

まず、し阿含宗が、なぜ、このお経を末世成仏のお経とするかというと、これまでもの

べてきた通り、どの観点からながめてみても、現代は末法の時代といわざるを得ない。

ひとびとの生活レベルは向上し、物質科学の知識は豊富である。しかし、精神的、霊的

には極度に堕落しており、釈尊の道品法・成仏法など、とうていストレートに修行でき

るレベルではない。

‐道品法の修行で、成仏にいたる階梯は四段階ある。

このうち、最もむずかしいのは、第一の段階である須陀逼であるといっていい。

ほんとうに最もむずかしいのは、阿羅漢である。なにしろ、仏陀そのものになるのだ

から、阿羅漢になるのがいちばんむずかしいのは当然である。

しかし、わたくしは、それを承知で、あえて、須陀逼がもっともむずかしい、という

のである。なぜならば、須陀厄というのは、もう聖者の領域に入っているのである。凡

夫が聖者になる、この第一段階の飛躍がむずかしいのである。凡夫と聖者は、連続した

線ではないのだ。大きな断層を一つ飛び越さねばならぬのだ。それがむずかしいのであ

る。凡夫というこちらの岸から、聖者という向こう側の高い岸に、飛躍しなければなら

ぬ、凡夫にとってはじめての経験である。

須陀原になってしまえば、あとは阿那含まで連続している。阿那含から阿羅漢には、

もう一度、大飛躍が必要とされるが、これは時間の問題である。

いちばんむずかしいのは、凡夫が須陀厄になることだ。

自分の修行体験で、わたくしはそう思う。

ところが、この経典では、如来への功徳の行で、阿那含にまで到達できるのである。

阿那含からは、『正法経』に説く、念処・正勤・如意足・根・力・覚・道の成仏法に

よって、阿羅漢への道をたどることになる。

これはなによりも福音である。末法時代の衆生にとって、これ以上の福音はない。

わたくしは、世のひとすべてを須陀逼にしたい。これがわたくしの誓願である。そし

てそれはまた釈尊の念願でもあったのではなかろうか。さればこそ、この末法の時代、

釈尊のそのおこころが如来となって出現され、末世成仏の法を説かせ給うたのであろ

う。それはまた、末法の衆生への警告である。如来の警告と福音、これがこの経の本旨

である。

本尊

仏陀・釈尊は、いまから約二千数百年前の古代インドにおいて誕生され、修行の末に仏陀となられ、その一生を成仏法(仏陀になる法)の布教に捧げられたのち、八十歳にしてクシナーラーにおいて臨終をむかえ、涅槃(ニルヴァーナ)に入られました。

そのお体をクシナーラーのマッラ族が黄金の棺に入れ、香木をもって薪とし、荼毘に付ふして、そのご遺骨の一部分をそれぞれ他の七つの部族に分配したのです。

彼ら八部族は、そのご遺骨をもってそれぞれ自国内に仏舎利塔をつくりました。

そして、約百年の後(二百年説も)、インドを統一した最初の大帝王アショーカ王(阿育王)が、戦争のために多くの命を断った滅罪生善のために、仏舎利塔建立を思い立ち、先述の八つの部族の一つマガダ国のアジャータサットウ王(阿闍世王)がラージャガハ(王舎城)に建立した仏舎利塔を発掘して、少分をとどめてその塔を修理し、その余を持ち帰って、各地に宝塔を建てて供養した、と『阿育王伝』『大阿育王経』等にあります。

 

 

桐山靖雄著者

成仏法を修したとき、わたくしは驚嘆したのである。それは、成仏力がこれまでと

まったくちがうのである。ニカ月、二回の修法で完全解脱してしまうのだ。その瞬間、わたくしはさとったのである。

なぜ、真正仏舎利が阿合宗へ来たのかを。いま、仏教の果たすべき使命はなにか?

この世界の霊的浄化である。

人間の霊性復活。

これである。

 

それには、日本列島を覆う不成仏霊の一掃、三軒に一軒の割合いで存在する各家庭の霊障のホトヶの解消、ここからはじめなければならない。

それをなし得るのは、釈帷の「成仏法」しかないのである。

釈帷の成仏法には1通りある。

一つば、自分、七十三十七道品そこで考えてみると、いま、仏教国の中で、この釈尊の理念をそのまま世におこなっているのは、わが阿含宗しかないのである。

タイにも、ビルマにも、スリランカにも、そしてわが日本にも、真正仏舎利はある。

しかし、率直にいって、釈尊の理念にもとづいて教化活動をしている教団があるであろうか。あるとしても、稀れである。

このたびの、スリランカよりの真正仏舎利贈与は、わが阿含宗からお願いしたものではないのである。ふしぎな廻り合わせにより、スリランカ側から、「釈尊直説の阿含経を奉持している日本で唯一の仏教教団」ということで、贈与のことが申し越されてきたのであ

 

わたくしは、これを、「仏さまのおこころ」として、心からよろこび、拝受したのであるが、それはまさしく「仏意」だったのである。

真正仏舎利といえども、正法によって法が修され、

その1 徳・法徳がひろく世につたえられて、ひとびとが救われるのでなければ、宝の持ちぐされというよりほかない。

法を持つ阿含宗に、真正仏舎利が祀られることを、仏さまは望まれたのだ。そして、スリランカからの真正仏舎利渡来となったのである。いまこそ、この真正仏舎利と成仏法を以て、この世界の霊的浄化、人類の霊性復活に乗り出さねばならぬ、これが、仏さまの御意志なのだ。

そう、わたくしはさとったのである。

阿含宗のモットーーは、

宗教運動から社会運動へである。

宗教運動というワクの中での活動では、もうこの世の中は救えないのである。社会運動

へと拡大せよ、これが阿含宗のモットーーである。

いま、阿含宗は、仏勅をかかげて、真正仏舎利を本尊とする社会浄化運動に、大きく歩

み出そうとしているのである。

密経  火戒呪

真言編集

不動明王の真言には以下のようなものがある。 一般には、不動真言の名で知られる、小咒(しょうしゅ)、一字咒(いちじしゅ)とも呼ばれる真言が用いられる。

「ノウマク サンマンダ バザラダン カン」
(namaḥ samantavajrānāṃ hāṃ)
(すべての諸金剛に礼拝する。ハーン。)

また、長い真言には、大咒(たいしゅ)、火界咒(かかいしゅ)と呼ばれる真言がある。

「ノウマク サラバタタギャテイビャク サラバボッケイビャク サラバタタラタ センダマカロシャダ ケンギャキギャキ サラバビギナン ウンタラタ カンマン」
(namaḥ sarvatathāgatebhyaḥ sarvamukhebhyaḥ sarvathā traṭ caṇḍamahāroṣaṇa khaṃ khāhi khāhi sarvavighanaṃ hūṃ traṭ hāṃ māṃ)

その中間に位置する、中咒(ちゅうしゅ)、慈救咒 (じくしゅ)と呼ばれる真言も知られる。

「ノウマク サンマンダ バサラダン センダンマカロシャダ ソハタヤ ウンタラタ カンマン」[3]
(namaḥ samantavajrānāṃ caṇḍa-mahāroṣaṇa sphoṭaya hūṃ traṭ hāṃ māṃ. [4]
(すべての諸金剛に礼拝する。怒れる憤怒尊よ、砕破せよ。フーン、トラット、ハーン、マーン。)

種子編集

種子(種子字)はカーン(हां、hāṃ)Bonji-hāṃ.png、あるいはカンマーン(ह्म्मां、hmmāṃ)BonjiHaammaam.png

印相編集

  • 不動根本印
  • 不動剣印

三昧耶形編集

三昧耶形は利剣(倶利伽羅剣)、あるいは羂索。

Seiyu Kiriyama

Buddhajapanjournal

 

agonsyu1.flv” を YouTube で見る

“Molecular light emitted as yoga secrets”

Transferred “light of pearl” transmitted as yoga secrets

Seiyu Kiriyama   Author

First, fire breathing method as appropriate.
When the fire breathing method is over, take a basic posture and adjust your mind and breathing.
Next, I close my eyes and concentrate on the part of the ajnja chakra in the intercostal space. Transfer the mind to the inside.
Repeat the holy word “Om-on” in mind and keep focusing. Eventually, a sphere slightly smaller than the translucent pong pong appears in the part of the ajnja chakra inside the skull.

It is initially anchored to that part, but will eventually float away (in the skull) away from it. When it comes to levitation, it gradually
I will move it.

After moving it to the back of the eye level, turn the eyeball backward and turn the (heart) eye towards the inside of the body.

From then on, the eye moves with the floating sphere.

When the floating sphere reaches the back of the eye level, it absorbs it very quietly and transfers it to the bottom of the skull. When you reach the bottom of the skull, gently lower it vertically along the Schummuna canal in the spine. And finally reach the center of the body in line with the navel.

Once you reach the back of the navel, place it there for about a hundred chants, and then move it to the place on the second finger. If you put a ball here, concentrate your mind there and repeat the scripture and cast it into your mind.

Then, finally, the semi-transparent spheres will gradually emit light
become.
This is “the light emission of Padmar Matsuga”.

When the light begins to appear, both the breathing and the heart must be very quiet in order to hold it.
If there is a flower, a leaf, a cloud, or the appearance of a living thing other than light, it should be kept quiet as it is. No matter if it appears or disappears, you are looking at it with a feeling that you are looking at it naturally or simply looking at it, or even if you can see nothing, you don’t want to want to look at it.

The first step of Padma Matsuga in Kundalini begins at the point where it emits light to Padma Matsuga in the body of the practitioner.
Padma Matsuga starts to emit light as soon as it enters into meditation when Padma Matsuga is lighted with an alarm. When it strengthens thought, light is also emitted strongly.
As needed, the practitioner moves Paddella materia to each chakra, intensifies light, and promotes secretion of hormones. It has the power that is essential to the awakening of Kundalini.

Those who have been trained in yoga and waited for a certain amount of power can clearly see from the outside as the light emitter moves through the body of the trainee, when looking at the body of the regular trainee. It is by no means the subjectivity of the practitioner’s idea.

The Theosophical Society has several experimental photos by a trained Indian guru.
The light emission of Padmar Matsuga is an avid trainer and it takes about a year or two.

The lighted Padmar Matsuga is pulled back into the ajnja chakra again, where the concentration is further enhanced.

Move the Padmar Matsuga, which has increased the light intensity, gently to the pineal gland, the pineal body, and the hypothalamus
Let go

.
This may seem like a gentle thing, but it is not. Ah
This is a very difficult task, for reasons of

One of the main reasons is the complex nerve group in the cerebrum.

Padma Matsuga is “the real” to the practitioner who reached this boundary. It is a very difficult task to pass this padd according to the correct path and arrive at the desired location without error. Without this help without the help of a guru
It is considered almost impossible to burn.

As soon as it reaches the right spot in the hypothalamus, a dazzling flash of light comes from the head.
Run in the lid. It is a feeling that the optic nerve sparked.

It is this that Kundalini Yoga’s secret scripture says, “If this chakra is awakened, light will appear on this part and it will shine soberly.”

It is said that this is “the law of claiming to make a person a genius”.
Because after this flash, the trainee’s brain cells have changed completely
It is because it comes to show a function. What I saw and heard once
But, if necessary, I will revive memories, and creative ideas and genius ideas,
Just like the spring’s springing up, you will not know that it’s running out.

Rather, it will work to the extent that something is unusual.

The true fulfillment of the Sahasra Ratchakra is the awakening of Kundalini, waiting for its rise
However, the fulfillment of the “Study Law” may be the first step.

The training of this Padmar Matsuga is the secret of the secret of Kundalini Yoga
Can not go further than this. There are also some oralities, but
It is forbidden to use it as a brush.

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Three treasures Buddhism

The three treasures refer to three treasures called “Budo and monks” in Buddhism, and they are Buddha, law and monks. Believed to be a Buddhist by devotion to these three treasures and persecuting on them.

There are various understandings in addition to the above.

“Buddha” (Sakaki), who originally discovered Zen, the teaching “the law” that the Buddha preached, and “monks”, which is a group of people who have reached four directions and four ends by receiving the teaching. Ru. However, in general, a group of leaving monks is identified with Sangha.

預 、 流 、 一 来 、 一一 、 一 、 不 ・ 、 不 不 、 阿 、 阿

The relationship between Yashamon and the trouble is as follows.

三宝 仏教

      三宝(さんぽう、さんぼう、tri-ratna・ トリラトナ)とは、仏教における「仏法・僧」(ぶっぽうそう)と呼ばれる3つの宝物を指し、と、と、僧伽)のこと。この三宝に帰依し、その上で授することで正式に仏教徒とされる。なお、3つという数については、3を聖数とする習俗や信仰とのかかわりも指摘されている。

三宝にも上記の他にもさまざまな理解がある。上座部仏教においては、涅槃を独自に発見した「仏」(釈迦)、その仏の説いた教え「法」、その教えを受けることで四向四果に達した者の集団である「僧伽」、であるとされる。ただし、一般には出家の集団がサンガと同一視される。

 

預流向・預流果・一来向・一来果・不還向・不還果・阿羅漢向・阿羅漢果のこと

四沙門果と煩悩の関係は以下の通り

 
四沙門果 煩悩
預流果 三結(有身見・疑・癡)が絶たれている。
一来果 三毒(貪・瞋)が薄まっている。
不還果 五下分結(三結+貪・瞋)が絶たれている。
阿羅漢果 五上分結(色貪・無色貪・慢・掉挙・無明)が絶たれている。
四向四果

Liberating the Mind from Bondage by Seiyu Kiriyama ny 5

It is so nice to be back in New York again. It’s been exactly one year since I was last here.

This is the second year in a row that I have been able to achieve my long-standing desire to perform a goma fire ceremony in New York City. Today’s service would not have been possible without the close cooperation of the management and staff of the Riverside Church and the efforts of many people who have been working behind the scenes. I would like to offer my sincere gratitude to all those people, and to you, who are participating by your attendance. Thank you very much.

Before I proceed, let me first take this opportunity to express my profound sorrow and sympathy on the recent, tragic terrorist attacks against the United States.

I am deeply impressed by the determination and heroic courage that the American people, led by President Bush, have shown in the face of this sad and painful crisis. In particular I’d like to pay my sincere respects to the fire fighters, policemen, and emergency workers who have been doing such a wonderful job.

I watched the coverage of the memorial service held at Yankee Stadium on September 23. This, too, was truly soul wrenching.

Mayor Giuliani made a speech during the service. I’m sure you all remember his words, but they are worth repeating here. Mayor Giuliani declared: “To those who say our city will never be the same, I say, you are right. It will be better.”

These words, more than anything, show that

 

These words not only touched me. They also made me think. “What can I possibly do to help make New York City better?” I ņaturally thought of the goma ceremony and the talk I was planning for the Riverside Church.

Of course. Here was my chance to make some kind of contribution.

|As a man of faith, what I could offer is some thoughts on how to concentrate and intensify our power through prayer and meditation.

There is nothing in the world that is stronger than the power of prayer. And meditation is the skillful tool that guides the power of prayer in the most effective direction.

Our prayers have the power to affect God, to influence Buddha, to move heaven and earth. We need to wholeheartedly turn the collective power of our prayer towards the goal of building world

New York City. And it is still with me as I speak to you now.

The fire ceremony that I conducted a little while ago is called “Gedatsu Goma,” or the fire ceremony of liberation. The one I performed last year was the fire ceremony of the Buddha’s wisdom. Taken together, these two rituals represent the essential core of Buddhism.

The word “liberation” here means release. But what is released? The mind is released. And what is it released from? It is released from all restrictions, from all limitations, from all bondage.

And what is the result of this release?

I think it is the state that the great Greek philosopher Plato is alluding to when he declares that one can only achieve true, fundamental wisdom through the pure selfhood one’s soul attains when it is completely released from all restrictions.

Plato’s learned teacher Socrates also journeyed down the path to true wisdom as far as it would take him. My own investigations suggest that the ultimate object of their quest may have been the same wisdom that the Buddha posits.

On my own path I have experienced the healing that only true wisdom can provide and the firmly peaceful state of mind that results. I have seen many acts of authentic courage that such tranquillity affords.

The question, then, is how do we go about obtaining this peaceful heart, this peaceful mind?

That is what I would like to talk about today.

The answer, in a word, is meditation. Nothing can change a person as completely as the kind of meditation that brings a stable peace to both mind and heart, the kind of meditation that releases the mind from the bonds of illusion and suffering that limit it and allows it to experience true wisdom. Meditation has the power to open