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することは、まさに、成仏法の極意を解説することにほかならない。

 ただし、元来が「法」というものは、説明のできないものなのである。説明できたら、それ

はもう「法」ではないのだ。「法Lとは、われわれの概念や認識の領域をはるかに超えたとこ

ろにあるものである。だから、それは完全に説明し尽くすことはできない。「冷暖自知」で、

自分自身、体験して知るよりほかないのである。しかし、この法が、どういう機構を持ち、そ

れがどのような功能を発揮し、どのような力をわれわれにあたえるか、ということくらいは説

明できる。

 まず、この行法は、ひとロでいうと。

   「供養法」

 から成り立っている。

 そこで、「供養」とはどういうことなのかというと、『密教大辞典』によれば『供給資養の義

で、飲食香華その他所要のものを、三宝(仏法僧)・父母・師長・亡者等に供給し資養するを

云う』とある。

 供養ということばは、サンスクリットで、忍旨(布惹)といい、「崇敬するLという意味の

動詞t&から出た名詞で「崇敬の念をもって聖尊に脱えささげるLという意味である。

 要するに、まごころをもって、崇敬する仏界の対象に、ささげ供えるということであるが、

では、いったい、だれに、なにを、ささげ供えるのか?

 まず、だれにささげ供えるか?

 「三身供養」である。

三身供養

三身供養とは、

 一、本尊供養

 ニ、祖霊供養

 三、自供養

をいう。

 

 まず、一、の本尊供養とは、本尊にたいして供養をささげるのである。

 なんのために本尊にささげるのかというと、本尊とは、修行者である自分に教法をさずけて

くださる仏さまであるから、それにたいする感謝のため、「報恩謝徳Lのためである。つぎに、

供養をささげることにより、本尊が威光倍増してそのお力をいよいよ増して発揮されんがため

である。

 つぎに、二、の祖霊供養とは、修行者が、本尊からいただいた因縁解脱・成仏の法の力を、

祖霊に供養するのである。祖霊はそれによって、因縁解脱し、成仏されるのである。不成仏霊

は、自分では因縁解脱の修行をすることができない。そこで、修行者が、本尊から受けた成仏

の教法を、祖霊に供養するのである。これにより、不成仏の祖霊も、成仏への道をあゆむこと

ができるようになるのである。

 また、霊障を発して非常に苦しんでいる祖霊は、導師におねがいして、解脱供養していただく。

 祖霊のなかには、畜生界・餓鬼界・地獄界などに落ちて、飢渇や病傷に苦七んでいるかたも

あるので、飲食その他を供養して、これをなぐさめたすけるのである。ただし、そのままそな

えても、亡者は、次元がちがうので、これをうけることができない。本尊の法の加持をして、

これを供える。これにより、亡者もこれを受けることができるようになるのである。

 三、の自供養とは、本尊からいただいた教法その他を自己に供養して、因縁解脱の成仏をは

かるのである。自分が自分に供養するとはおかしいと思われるかも知れないが、そうではな

い。即身成仏には欠かすことのできない修行である。これはあとでまたくわしくのべよう。

三種供養

 では、以上の「三身」に、どのような供養をささげるのか?

「三種供養」である。三種供養とは、

  一、理供養

  二、行供養

  三、事供養

 である。

 

 これは、大日経供養法疏下供養儀式品によるもので、密教の供養は、この三種供養をもっ

て、建前とするのである。

 まず、理の供養とは、仏陀(本尊)が説かれる解脱のさとり「空」の理を、ふかくまなび、

これを体得することである。修行者が、空の理をふかくまなび、体得することは、本尊のもっ

ともよろこばれることなのである。仏陀が世に現われた本懐は、ひとえに「空」の教法を説い

て、世のひとすべてを解脱せしめ、この世を密巌浄土とするためである。ゆえに、修行者がこ

の理をまなんでこれを体得し、解説しようと努めることは、仏にとってもっともよろこばれる

ことなのである。(これを他に及ぼしたときは事供養になる)。そのために、仏陀の教法を説い

た経典を読誦し、あるいは説法を聴聞し、仏の印・喜言を結誦することなど、すべてこの理供

養であり、これを本尊にたいしておこなえば、「理の本尊供養」となり、祖霊にたいしておこ

なえば「理の祖霊供養」となるのである。

 この、「理の祖霊供養Lをすることにより、不成仏の祖霊は「空」の理をさとって、成仏へ

の道をあゆむのである。また、自行としておこなえば、「理の供養」である。

 つぎに、行供養とは、師の指導の通りに、準祗尊千座行法を、あやまりなく行じてゆくこと

である。

 

 まず、所定の法典を、毎日、かならず、法とともに勤行すること。また、課せられた戒行、

課行等を、きちんと行じてゆくことである。

 この行が、本尊にささげられたとき、「行の本尊供養」となり、祖霊に供えられたとき、「行

の祖霊供養Lとなって祖霊が修行者とともに準鼠尊于座行を行じていることになるのである。

これにより、さきの「理の祖霊供養Lによって、「空」の理をさとった祖霊が、行をして、

「空」の実相を体得するのである。というのは、経典その他の教学によって空の理をさとるの

は、「理の空」といって、ただ理論的に空の相を知っただけである。要するに理くつを知った

だけで、頭がそれを理解しただけだ。行をし、法を修することにより、「空Lの実相を体得す

るのである。からだ全体で把握するのである。これは、修行者自身にもいえることであって、

「空」の理を理解することくらい、そうむずかしいことではない。しかし、理解した「空」の

理を自分の生きる根本原理として、いささかの迷いもなく空の世界を展開してゆくということ

は、これは、きびしい行の修練を経てはじめてできることである。世に「本音と建前」という

ことばがある。建前としては「空」の生きかたをかかげるが、じっさいの生活は「有」の執着

からすこしもはなれることのできないひとびとを多くみる。

 じっさいに体得した「空」を、「理の空」に対し、「事の空」というのである。

つぎに、事供養。                       

「事」というのは、密教特有のことばで、じっさいの事物に即したことをいう。「理」に対し

てつかわれることばである。

 そこで、事供養といえば、じっさいの品物、たとえば、香・華・燈・飲食等の物資を供養す

ることである。

 まず、「事の本尊供養」で、これらの物資を、本尊にたいしてご供養する。前にのべたよう

に、報恩謝徳のためであり、威光倍増のためである。

 つぎに、「祖霊への事供養」である。この祖霊への事供養は、二種の供養に分類される。

 それは、

1、祖霊へささげる事供養

 2、祖霊にかわっての事供養

である。

I、は、前にのべたように、霊界におられる祖霊や、不成仏の祖霊に、物資をささげて慰霊

するためである。

2、は、追善供養である。

 追善とは、亡くなったひとは、善をなして徳を積むということができない。そこで、縁者が

代わって善をなし、その善徳を亡者に追送してあげる。これを追善という。不徳を積んでその

ために成仏できずに苦しんでいる祖霊に代わって、仏と法に事の供養をして徳を積んであげ、

これを祖霊に供養するのである。この徳により、不成仏霊は成仏する徳を持つのである。

 これはどういうことかというと、理の空をさとり、行で空を体得しても、それだけでは成仏

できないのである。なぜかというと、「業報Lというものがある。諸法皆空とさとっても、さ

とっただけでは、過去の業報は消えない。諸法皆空を体得しても、それだけでは、過去の業報は空にはならない。さとっただけ、体得しただけで過去の悪業が消滅して空になるのだったら

こんなラクなことはない。過去の悪業の業報は、それだけの徳を積まなければ、消滅しないの

である。借金をしておいて、諸法皆空だとさとって、自分は空の世界に住んでも、借りた金を

返さぬことには、借金は空にはならない。貸しぬしはどこまでもとりたてにくるだろう。それ

とおなじ道理である。空のさとりにも、「理の空」「行の空」「事の空」の三つがあって、この

三つの空がそろわなければ、因縁解脱して成仏することはできない。これを「-ニ輪空Lとい

う。この三輪空がそろわなければ、因縁解説して成仏はできないのである。祖霊に事の追善供

養をしてあげることにより、祖霊も三輪空を得て、成仏することができるのである。

 このことは、修行者自身においても同様である。教学をまなび空をさとっても「理空Lだ

け、行をして空を体得しても「行空Lだけである。どうしても「事の空」を得て、過去の悪業

による業報を消滅しなければいけない。「三輪空」を成就しなければならない。

 そこで、修行者自身の「事の供養Lも、二つの供養が必要となる。

 それは、

  1、(自分の)滅罪生1 のための事供養

  2、(自分の)追善供養のための事供養

 この二つである。

 そういうと、すぐに、それはおかしいじゃないか、といわれるかも知れない。。自分の滅罪

生善のため”ということはわかる。自分の持つわるい因縁は、過去におかした罪障によるもの

であるから、この罪障を消滅するために善事をなして、徳を積む、ということはわかる。むか

しからいわれている。滅罪生善‘である。しかし、。追善‘というのは、亡くなった人に代わ

って善事をなして、その善徳を追送してあげることではないか。生きている自分自身に追善と

いうのはおかしい。まちがいだろう。そういわれるかも知れない。

 まちがいではないのである。

 この。追善‘は、前生における自分への追善供養なのである。

 さきに、わたくしは、「中座の行で前生の因縁を切るLとのべた。自分が前生においておか

した罪業の業報が、現生における自分の因縁となっているのである。根はそこにあるのだ。現

生のわが身の持つ悪因縁を切るためには、前生におけるこの罪業を消滅しなければならない。

そのために、事の供養をし、前生の自分の滅罪生善をはかるのである。これが、わが身の追善

供養である。おわかりであろうか? 専門家でも、これを知らないひとが多いので、因縁解脱

ができないのである。

祖霊が守護霊となる

 以上の三身・三供養を行じていると、自分の因縁解脱がしだいにすすみ、それに応じて、境

界も高まってくる。

 修行者の境界の高まりは、同時に、祖霊の境界の高まりである。不成仏霊もしだいに成仏

 そこで、時期をみて、導師に、徳のある祖霊をみつけていただいて、この祖霊に、特に守護

霊となる「増益供養」をするのである。

 この供養により、祖霊は、守護霊となり、修行者と修行者の家族を守る守護霊となるのであ

る。守護霊を持つと、以後の修行者の行は、急速に進歩する。そうして、さきの章でのべた龍

尊の「守護神」を持つ段階へとはいってゆくのである。

即身成仏の秘法

さて、以上の解説を読むと、「なるほど、準祗尊干座行とは、。供養による滅罪生善‘の法な

 

 

 

 

 

 

 

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