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頭の中にある 真正仏舎利 Authentic Buddhist temple in my head

 

頭の中にある 真正仏舎利これは

サハスラーラsahasrāra)と呼ばれ、頭頂にある。

 

間脳に属し、第三脳室の両外側壁の下部を占める領域をいう。第三脳室の床は左右の視床下部がつながった部分にあたり、漏斗(ろうと)状をしているため「漏斗」とよぶ。この漏斗の先端には下垂体脳下垂体)が付着している。第三脳室の外側壁に前後に走る視床下(かこう)とよぶ溝(みぞ)があり、この溝から下方を視床下部とよんでいるが、視床下部の内容はそれより上方まで広がっている。

 

Authentic Buddhist priesthood in my head

It is called sahasrāra and is located on the top of the head.

 

It belongs to the diencephalon and occupies the lower part of both outer walls of the third ventricle. The bottom floor of the third ventricle is the part where the left and right hypothalamus are connected, and is called a “funnel” because it has a funnel shape. A pituitary gland (pituitary gland) is attached to the tip of this funnel. On the outer wall of the third ventricle, there is a groove called the hypothalamus that runs back and forth, and the area below this groove is called the hypothalamus, but the contents of the hypothalamus extend above it.

八正道とは

八正道とは

八正道(はっしょうどう)は、仏教において苦しみを克服するための実践的な方法の1つであり、四諦に基づいているとされています。以下に、八正道について簡単に説明します。

  1. 正見(しょうけん):真実を理解するための正しい知識と見識を持つこと。仏教では、「三法印」と呼ばれる「諸行無常」「諸法無我」「苦諦」の理解が重要視されます。
  2. 正思考(しょうそうこう):正しい意図や思考を持つこと。例えば、慈悲深い心、善意、感謝の気持ち、他者への思いやりなどが含まれます。
  3. 正語(しょうご):正しい言葉を使い、嘘をつかず、他人を傷つけないように注意すること。
  4. 正業(しょうぎょう):正しい行いをすること。人や動物を傷つけないような善行を行い、また、身体的、精神的な清浄を保つことも含まれます。
  5. 正命(しょうめい):生き方に関する正しい知識を持ち、自分自身や他人を害しないようにすること。また、人生の目的を正しく理解することも含まれます。
  6. 正精進(しょうしょうじん):精神的な修行をすること。精神的な集中力を養い、邪念や欲望から自由になるように努めることが求められます。
  7. 正念(しょうねん):正しい意識を持つこと。現在の状況に集中し、自分自身や周囲のことを正しく認識するように努めます。
  8. 正定(しょうじょう):正しい瞑想をすること。心を静め、心の持ち方を調整し、真実を見出すための精神的なトレーニングをすることが求められます。

八正道は、仏教において苦しみを克服するための重要な実践的な方法の1つです。八正道を実践することで、個人の内面に変革をもたらし、より豊かで充実した人生を送

釈迦(しゃか)とは、仏教の創始者である人物です。本名はガウタマ・シッダールタ

釈迦(本名:ガウタマ・シッダールタ

釈迦(しゃか)とは、仏教の創始者である人物です。本名はガウタマ・シッダールタ(Gautama Siddhartha)といい、紀元前5世紀頃にインドで生まれました。彼は、王族の家庭に生まれ、若い頃から物質的な豊かさを享受しながらも、人生の根本的な問いに取り組むようになりました。

ある日、彼は自らの人生について深く考え、人間の苦しみを克服する方法を探し始めました。長い修行の末、彼は「悟り」と呼ばれる境地に達し、人生の苦しみを克服する方法を発見しました。このことが彼の仏教的啓示となり、彼は多くの弟子たちを持つこととなりました。

釈迦は、一般的には「仏陀(ぶっだ)」と呼ばれ、仏教の教えや悟りの境地を示す「法(ほう)」や「教(きょう)」を伝えることに尽力しました。その教えは現在でも世界中で信仰されており、彼自身も「涅槃(ねはん)」という境地に達して亡くなったとされています。

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悟りは教えて

「悟り」とは、仏教においては「真理を直接体験すること」を指します。それは、人生の苦しみや不安、悩みといったものを克服するための境地であり、仏教徒はこの境地に至ることを目指します。

悟りは、一般的には修行や瞑想などの精神的な訓練を通じて達成されます。そのため、仏教では悟りを目指すための教えや方法が多く説かれています。代表的なものとしては、四諦(しとう)や八正道(はっしょうどう)などがあります。

四諦は、人生の苦しみ(第一諦)、苦しみの原因(第二諦)、苦しみを克服する方法(第三諦)、そして苦しみを克服した状態(第四諦)を表します。八正道は、正しい見解、意図、語り、行い、生業、精進、念、瞑想の8つの段階からなり、これらを実践することで悟りに近づくことができるとされています。

悟りは、単なる知識や理解ではなく、自分自身が直接的に体験するものであるため、教えられるものではありません。ただし、仏教では悟りに至るための教えや方法が多く説かれており、その教えを実践することで、自分自身が悟りに至ることができる可能性があります。

gomabon1999@gmail.com
四諦とは?

四諦(しどう)は、仏教において「世界の真実を表す根本的な教え」の1つで、人生における苦しみを解消するための教えとしても知られています。以下に、四諦について簡単に説明します。

  1. 苦諦(くだい):人生には苦しみがあることを認めること。生老病死、悲しみや痛み、望みを叶えられないことなど、人生における様々な苦しみがあることを教えています。
  2. 集諦(しゅうだい):苦しみの原因は欲望であることを認めること。人は何かを欲し、それを得ようとして努力しますが、その結果として苦しみを生み出すことがあるとされています。
  3. 滅諦(めつだい):苦しみを克服する方法として、欲望を断ち切ることが必要であることを説いています。欲望を断ち切ることで、苦しみを終わらせることができます。
  4. 道諦(どうだい):苦しみを克服するための方法として、八正道を実践することが必要であることを教えています。八正道は、正しい見解、意図、語り、行い、生業、精進、念、瞑想の8つの段階からなり、これらを実践することで、苦しみを克服することができます。

四諦は、仏教における基本的な教えの1つであり、苦しみを克服するための具体的な方法を示しています。また、四諦は仏教に限らず、広く世界中で受け入れられている普遍的な真理の1つとされています。

解説  スシュムナー管、他の二つは、ピンガラ、イダーの気道

スシュムナー管、他の二つは、ピンガラ、イダーの気道

スシュムナー管、ピンガラ、イダーは、ヨーガやアーユルヴェーダの伝統において、人体の気道に関連する概念です。

スシュムナー管は、人体の中心に位置する仮想的なエネルギー通路であり、精神や肉体の健康に影響を与えると考えられています。

一方、ピンガラとイダーは、スシュムナー管の両側にある二本のエネルギー通路です。ピンガラは太陽のエネルギーを表し、右側を通り、イダーは月のエネルギーを表し、左側を通ります。この二つのエネルギー通路がバランスよく流れることで、身体や心が健康であると考えられています。

これらの概念は、ヨーガや瞑想などの実践において、呼吸法や体位法を用いて、エネルギー通路を整えることで、身体や心の健康を促すことを目的としています。

仏陀の法

 

 

一つはスシュムナー管、他の二つは、ピンガラ、イダーの気道である。

中心となる気道はスシュムナー管である。これは、さきにものべたように、尾武骨から始まって、延髄に至っている。

特殊な意念の力でクンダリニーが目ざめると、そのエネルギーは爆発的な勢いで、スシュムナー管を延髄まで上昇する。同時に、クンダリニーは、ピンガラ、イダーの気道を上昇し、クンダリニーのエネルギー調節その他補助的なはたらきをする。

脊髄の右側にあるピンガラは、太陽の気道と呼ばれ、熱を統御する気道とされる。

左側のイダーは、月の気道と呼ばれ、冷気の流れを統御する。もし誤ってピンガラを通ってクンダリニーが目ざめると、外から全くコントロールのきかないすさまじい体内熱のために、修行者は、最悪の場合、文字通り真っ黒になって焼け死んでしまうことがあるという。

 

クンダリニー』の著者、ゴーピ・クリシュナは、この過ちのためにかれ自身、危うく死をまぬがれた体験を記している。

 

わたくしが、仏陀を、クンダリニー・ヨーガの完成者であると断定するのは、この点からである。

さきにあげたミラクルの池の伝説や、雑阿含経に説かれる仏陀の奇蹟- 上半身から火を出し、下半身から水を出すという奇は、このピンガラとイダーを使ってのエネルギー放射なのである。この奇蹟は、クンダリニー・ヨーガ完成者独特のものなのだ。

さて、クンダリニーが目ざめ、スムーズにエネルギーが気道を上下するうちに、修行が順調に進むと、クンダリニーはサハスラーラ・チャクラに到達し、ここで修行が完成する。(ただし、ここまで到達できる修行者は、古今、稀である)
このように、クンダリニーは、尾祇骨から延髄にまで到達し、それからさらに上昇して、究極的には頭頂のサハスラーラ・チャクラにまで到達することになっているのだが、延髄からさきの、サハスラーラに至る経路がどのようになっているのか、明瞭で

尾武骨から延髄までは、脊柱が通っていて、いうならば一本道であるから、はっきりしている。しかし、延髄からさき、サハスラーラに至るルートは、一体どういう気
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わたくしは、さきに、仏陀が弟子たちにクンダリニー・ヨーガを用いさせなかった
のは、過激すぎるからだといったけれども、それはそれだけではなかったのである。

クンダリニー・ヨーガのチャクラ開発法は、不安定であり、不確実だったのである。

仏陀は完璧な成仏法を作製して、弟子たちに教えたのである。

仏陀の修行法はまだつづく。

 

クンダリニー・プラーナ

わたくしは、さきに、仏陀は修行法にクンダリニー・ヨーガをとり入れなかったといった。

たしかにその通りである。仏陀は四神足法にクンダリニー・ヨーガをとり入れなかった。しかし、クンダリニー・エネルギーはとり入れていたのである。

人間の持つエネルギーで、ダリクンニーほど強大なエネルギーはない。人間を改造する原動力として、これに匹敵するものはない。いや、このエネルギーを使わなかっため、人間の改造など不可能といっていいだろう。だから。仏成は発を開いた。

クンダリニーから生ずるエネルギー経のである、強がる母娘の熱、あるいは資るだけではない。

初対の展然のは、意志にまな鉄道である。後発者、クンダリニーを愛。
るに十分だけの意表をつと、強力になった後の本は、クンダリニー賞録に向けあれる。クンダリニーを焼線するための部位売所所ある。そこでましい剣激があたえられると、クンダリニーに目ある。Q都合に、にしたがって、熱心地に「こられなければならない。

対容疑ん中に、いくつか。必ず意識、あるい選落を演熱し演奏家を発演する製談が出てくるが、その、激和線、タッタッターをあるらしているのか。

てよい。お家。リクンニーは、三つの頭を持った機、あるい漫たつの演を、た整の姿で変域でいるのである。統合経継料を差飛翼然公認試練。強然を塞継速過の物語ではなく、一般学、機械で、だめなが手をに、クンダリー・ルーコンタロー物に現場したことを成しているのかを。

道を通るのか、明確ではないのである。クンダリニーが目ざめさえすれば、目ざめた
クンダリニーは、自動的にサハスラーラ・チャクラに到達することになっているので
あって、修行者自身には、その経路はまったくわからないわけである。
これにたいし、仏陀の気道はどうであろうか。
仏陀の気道も、クンダリニー・ヨーガと共通する部分がある。
それは、尾祇骨から延髄に至る脊柱の部分を通る気道である。スシュムナー管とほ
とんど変わらない気道である。しかし、クンダリニー・ヨーガのスシュムナー管は延
績で終わっているが、仏陀の気道はさらに進んで、大脳の新皮質、旧皮質、古皮質を
めぐって、間脳から視床下部にまで到達しているのである。そして、そのはっきりし
たルートを持っているのである。
びていこう
びちゅう
それだけではない。ルートはさらに前額部に進み、眉間から鼻柱の奥を通ってか
いや喉にくだる。つまり、サハスラーラからアージュニャー、そしてその周辺の神経
経路をめぐって脳下垂体前葉、下垂体後葉に至っているのである。そしていまいった
ように、これらのルートは、明確に示されているのだ。熟達した導師の指導を受けれ

 

ば、初心の修行者でも把握が可能である。
どちらがすぐれているかは、いうまでもないことであろう。

これは、基本的に、クンダリニー・ヨーガの修行法と、仏陀の成仏法の、修行方の違いによるものである。

仏陀の方法は、プラーナを「行らせる」という方法である。これは、修行者が自の意念(意志)によっておこなうことを意味する。したがって、修行者は、プラーナを導いていくルートを知っていなければならないわけである。プラーナのいくさきを、
プラーナにまかせるのではなく、修行者が決定して進めていくのである。だから、修行者はその道すじを知っていなければならないのである。

 

クンダリニー・ヨーガの場合はこれとまったく違っている。

クンダリニーを目ざめさせるためには修行者の意志の力を必要とするが、一旦めざめたクンダリニーは、修行者の意志にかかわりなく、一気にスシュムナー気道を爆発的に上昇していくのである。それは、修行者が「めぐらす」などというものではない。
そしてそのあとも、クンダリニーまかせということになる。

最上深秘の呼吸法

 

だから、仏陀のクンダリニー・エネルギーの使いかたは、クンダリニー・ヨーガの手法とまったく異なり、クンダリニーを完全にコントロールしつつ使うのである。つまり、クンダリニー・エネルギーを「行らせる」という手法である。

それはどのようにして、なされるのだろうか?

ピンガラどイダーを使う仏陀の秘法

いい気持で眠っているゴジラを叩き起こすようなバカな真似はしないほうが賢明であろう。

仏陀の法では、怪物クンダリニーを、ごくおだやかに、上機嫌(?)に目ざめさせるのである。

のように?

道教はクンダリニーを知らない。しかし、クンダリニーには到底およばないけれど超常的な強い「気」のエネルギーを呼び起こす経穴(ツボ)を知ってこれを使ってチャクラいる。

これは道教の最極秘伝になっていて、これを知る人はごく稀である。(アンリ・マ
スペロがその著書で、ちょっとこれにふれている)この経穴(中国でツボと呼ぶ部位は、チャクラの一種であるとわたくしは考ている)は、クンダリニーのチャクラから、少し離れたところにある。道教は、いまいったように、このチャクラを使って強い「気」を呼び起こすのである。クンダリニーの代わりといってよいだろう。クンダリニーそのものは、知らないのである。

仏陀の四神足法では、この道教のチャクラを使って、まず、強い「気」のエネルギーを呼び起こす。次いで、この「気」を本命のクンダリニー・チャクラに送りこむ。

クンダリニーの眠る部位の周囲に、この「気」をゆるやかに行らせてゆくのである。

クンダリニーは、徐々に、おだやかに目ざめはじめる。

わたくしは思うのだが、道教は、この「気」を使ってクンダリニーを目ざめさせるという秘法を落としてしまって、「気」だけを使う法を完成したのではなかろうか。

或いは、これは仏陀の極秘の法として、ごく一部の高弟だけに伝え、外部に洩らさず、いつしか消えてしまったのであろうかと、わたくしは考えている。いうならば、クンダリニーという巨大モーターを起動させるための始動用小型モーターだけが、道教に伝えられたと考えるわけだ。

クンダリニーという過激きわまるエネルギーを、みごとにコントロールして使う仏陀のこの秘法には、ただただ感嘆するしかないのである。

だが――、仏陀の秘法はこれだけではないのである。さらにおどろくべき秘技を、仏陀はわれわれに教示するのである。
それは、ひと口にいうと、ピンガラとイダーの気道を、アクセルとブレーキに使うのだといったらよいであろう。ただし、こが、クンダリニー・ヨーガのピンガラ、イダーそのものであるかどうかは、わからない。

或いは、仏陀があたらしくつくり出した気道であるのかも知れない。というのは、クンダリニー・ヨーガのピンガラとイダーは、前にのべたように、脊柱を通るスシュムナー管の両側を上昇するのであるが、仏陀のこの二つの気道は、その反対側の、腹
部を上下するからである。しかし、わたくしは、この二つの気道の果たす機能からしこちらて、やはりこれはピンガラとイダーであって、仏陀がこのように変えられたのであろ

 

うと思っている。したがって、この二つの気道を、やはり、ピンガラとイダーという名称で呼ぶことにする。いま、この二つの気道の機能からして、といったが、どういう機能を持っているのピンガラ気道は、クンダリニー・エネルギーにたいし、発動・昂揚の機能を持つ。

イダーの気道は、沈静・凝縮の機能を持つ。

つまり、さきにいったように、アクセルとブレーキの役目を果たすのだ。

それは、つぎのように使われる。

二本のスシュムナー管

さきにのべた通り、クンダリニー・ヨーガでは、尾骨部分から延髄にかけて、脊
柱を真っ直ぐ、スシュムナー管が通っている。目ざめたクンダリニーは、ここを上昇仏陀の法では、スシュムナー管がもう一本ある。つまり二本あるのだ。クンダリニー・ヨーガと正反対、尾低骨から会陰を通って、腹部の正中線を真っ直ぐ、輪を経て、喉に至る気道である。目ざめたクンダリニーは、背部のスシュムナー管とともに、
この腹部スシュムナー管をも上昇する。(上昇するというより、上昇させるのだ)この腹部スシュムナーのクンダリニー・エネルギーを、コントロールしつつ、各チャクラを開発、覚醒するのが、仏陀のピンガラ、イダーの両気道である。
つまり、脳端から約五ないし八センチ(人によって個人差があるほど下の辺で、腹部スシュムナーから分岐し、各チャクラおよび関連機器、神経を行って上昇し、また、下降する。あるいは、咽喉からさらに脳の内部を、鼻柱の奥ふかく、眉間の深部へと上昇し、脳のチャクラ、神経経路等を行り、延髄の小脳部分で、背部スシュムナー皆と合流する。

この二つの気道の技法は、チャクラの開発・覚醒にぜったい必要で、これなくして
チャクラの完全な開発・覚醒は不可能といってもいいであろう。

 

Buddha’s Law

 

 

 

One is the Sushmuner tube and the other two are the Pingala and Eider airways.

The central airway is the Sschmuner’s canal. It starts with the tail bone and ends with the medulla oblongata, as mentioned earlier.

When the Kundalini awakens with the power of a special idea, the energy explosively rises the Sschmuner’s canal to the medulla oblongata. At the same time, the kundalini rises in the airways of Pingala and Ida, and acts as an energy regulator and other auxiliary for the kundalini.

The pingala on the right side of the spinal cord is called the airway of the sun and is the airway that controls heat.

The ider on the left, called the lunar airway, controls the flow of cold air. If the kundalini wakes up accidentally through Pingala, the practitioner can literally turn black and burn to death in the worst case due to the tremendous internal heat that is completely out of control.

 

The author of Kundalini, Gopi Krishna, describes his own nearly deadly experience due to this mistake.

 

It is from this point that I conclude that the Buddha is the perfector of Kundalini Yoga.

The legend of the Miracle Pond mentioned earlier and the miracle of the Buddha described in Sasamyo-The miracle of putting out fire from the upper body and water from the lower body is the energy radiation using this Pingara and Ida. This miracle is unique to the Kundalini Yoga perfector.

Now, as the kundalini awakens and the energy moves up and down the airway smoothly, the training progresses smoothly, and the kundalini reaches the Sahaslara chakra, where the training is completed. (However, practitioners who can reach this point are rare in ancient times.)
Thus, the kundalini is supposed to reach the medulla oblongata from the caudal bone and then ascend further to the Sahaslara chakra on the crown, but from the medulla oblongata to the Sahaslara. It is clear what the route to

From the tail bone to the medulla oblongata, the spinal column runs, so to speak, it is a straight road, so it is clear. However, what is the route from the medulla oblongata to Sahaslara?
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I did not let the Buddha use Kundalini Yoga earlier for his disciples.
It’s because it’s too radical, but it wasn’t the only thing.

The Kundalini Yoga chakra development method was unstable and uncertain.

The Buddha created the perfect Buddhahood method and taught it to his disciples.

The Buddhist practice is still going on.

Kundalini prana

I said earlier that the Buddha did not incorporate Kundalini yoga into his training.

That’s true. The Buddha did not incorporate Kundalini Yoga into the Iddhipada method. However, Kundalini energy was taken in.

The energy of human beings is not as powerful as that of Darikunnie. There is no comparable driving force for remodeling humans. No, because it doesn’t use this energy, it can be said that it is impossible to remodel humans. that’s why. Buddha opened the door.

It’s not just the growing heat of the mother and daughter, or the contribution, which is the energy process that results from Kundalini.

The first pair of exhibitions is a railroad that is willing to do. I love the latecomer, Kundalini.
With enough surprises, the book, after becoming powerful, is directed to the Kundalini Awards. There is a part sales office for burning kundalini. When a sword fierce is given there, Kundalini has an eye on it. Q For convenience, I have to come to the heat.

Some during the suspicion. There will always be talks about consciousness, or a selection that will be performed and a performer will be performed, but is there a gekiwa line or tatter?

You can do it. Home. Rikunnie is a three-headed machine, a Tatsuno performance, in the form of a tune. The integrated succession fee is officially recognized by Tsubasa. It’s not a story of a rush to squeeze the force, but a general science, a machine, and a kundalini-rucontaro thing with a bad hand.

It is not clear whether it will take the road. As long as the kundalini awakens, he awakens
Kundalini is supposed to reach the Sahasrara chakra automatically
Therefore, the practitioner himself does not know the route at all.
What about the Buddha’s airway?
The Buddha’s airway also has something in common with Kundalini Yoga.
It is the airway through the part of the spinal column from the caudal bone to the medulla oblongata. Sushmuner tube Toho
It is an airway that does not change much. However, Kundalini Yoga’s Sushmuner tube has been extended.
Although it ends with a record, the airway of the Buddha goes further and goes through the neocortex, old cortex, and paleocortex of the cerebrum.
It reaches from the diencephalon to the hypothalamus. And that clarity
I have a route.
Let’s go
Bichu
That is not all. The route goes further to the forehead, from between the eyebrows to the back of the nose pillar.
No, it’s throaty. In other words, the nerves from Sahaslara to Ajnya and its surroundings.
The route leads to the anterior pituitary gland and the posterior pituitary gland. And now
As such, these routes are clearly shown. Under the guidance of a skilled guru

 

For example, even a novice practitioner can grasp it.
It goes without saying which one is better.

This is basically due to the difference in practice between the Kundalini Yoga practice and the Buddhahood Buddhahood practice.

The Buddha’s method is to “go” prana. This means that the practitioner does it by his own will. Therefore, the practitioner must know the route that leads Prana. The way of prana,
Instead of leaving it to Prana, the practitioner decides and proceeds. Therefore, the practitioner must know the path.

 

In the case of Kundalini Yoga, this is completely different.

The power of the practitioner’s will is required to awaken the kundalini, but once awakened, the kundalini explosively rises in the Sushmuner airway regardless of the practitioner’s will. It is not something that the practitioner is “megurasu”.
And after that, it will be left to Kundalini.

The most secret breathing method

 

Therefore, the way of using the kundalini energy of the Buddha is completely different from the method of the kundalini yoga, and the kundalini is used with complete control. In other words, it is a method of “making” Kundalini energy.

How is it done?

The secret method of the Buddha using Pingara and Ida

It would be wise not to do stupid imitations that would provoke a sleeping Godzilla with a good feeling.

According to the Buddha’s law, the monster Kundalini is awakened in a very gentle and good mood (?).

like?

Taoism does not know Kundalini. However, although it is far from Kundalini, he knows the acupuncture points (pots) that evoke the paranormal and strong energy of “Qi” and uses them for chakra.

This is the most secret of Taoism, and very few people know it. (Henri Ma
This acupuncture point (which I think is a type of chakra in China) is a little further away from the Kundalini chakra. Taoism, as it is now, uses this chakra to evoke a strong “ki”. It can be said to be an alternative to Kundalini. I don’t know Kundalini itself.

In the Buddha’s Iddhipada method, this Taoist chakra is used to first evoke a strong “Qi” energy. Next, send this “ki” to the favorite Kundalini chakra.

This “ki” is slowly moved around the sleeping area of ​​the kundalini.

The kundalini gradually begins to wake up gently.

I think that Taoism has dropped the secret method of using this “ki” to awaken the kundalini, and has completed the method of using only “ki”.

Or, as the Buddha’s top secret law, I tell only a few high-ranking younger brothers, and I wonder if it disappeared someday without leaking to the outside. In other words, I think that only a small starting motor for starting a huge motor called Kundalini was transmitted to Taoism.

I can only admire this secret method of the Buddha, who uses the radical energy of Kundalini in a wonderfully controlled manner.

However, this is not the only secret method of the Buddha. The Buddha teaches us even more surprising secrets.
In a nutshell, the airways of Pingala and Eider are used for accelerators and brakes. However, I don’t know if this is Kundalini Yoga’s Pingala, Eider itself.

Or it may be the airway that the Buddha created newly. For Kundalini Yoga’s Pingala and Ida, as mentioned earlier, rise on both sides of the Sushmuner’s canal through the spinal column, but the two airways of the Buddha are on the opposite side, the belly.
This is because the part goes up and down. However, because of the functions of these two airways, I am still Pingala and Ida, and the Buddha was changed in this way.

 

I’m thinking. Therefore, we will call these two airways by the names of Pingala and Ida. Now, from the functions of these two airways, what kind of function does the Pingara airway have for kundalini energy?

Eider’s airways have the function of calming and condensing.

In other words, as I said earlier, it acts as an accelerator and a brake.

It is used as follows.

Two Sushmuner tubes
As mentioned earlier, in Kundalini yoga, from the coccyx to the medulla oblongata, the spine
The Sschmuner pipe runs straight through the pillar. Awakened Kundalini rises here In Buddha’s law, there is another Sushmuner tube. In other words, there are two. Opposite to Kundalini Yoga, it is the airway from the tail low bone through the perineum, straight through the midline of the abdomen, through the ring, to the throat. The awakened Kundalini, along with the Sushmuner tube on the back,
This abdominal Sschmuner tube also rises. It is the Buddha’s Pingala and Ida airways that develop and awaken each chakra while controlling the kundalini energy of this abdominal sshmuner (which raises rather than rises).
That is, about 5 to 8 cm from the end of the brain (at the lower side, which varies from person to person, it branches off from the abdominal sushmuner, goes up and down through each chakra and related equipment, nerves, or goes down, or the throat. From there, it rises further inside the brain to the depths of the nasal column and deep between the eyebrows, goes through the chakras of the brain, nerve pathways, etc., and joins all the back Sushmuner at the medulla oblongata cerebral part.

These two airway techniques are absolutely necessary for chakra development and awakening, without them.
It can be said that the complete development and awakening of the chakra is impossible.

 

クンダリニー覚醒法

クンダリニー覚醒法

クンダリニー覚醒法は、ヨガやタントラの伝統において重要な概念であり、身体の中心にあるエネルギーを目覚めさせることを目的とした練習や技術の総称です。

クンダリニーは、ヨガの伝統において、身体の中心に存在するエネルギーの源であり、蛇のような形をしているとされています。クンダリニーは、身体の下部に位置する仙骨部にある「ムーラダーラ・チャクラ」というチャクラと関係があります。

クンダリニー覚醒法は、クンダリニーのエネルギーを目覚めさせるための練習や技術を指します。この練習は、通常はヨガのアーサナ(ポーズ)、プラーナーヤーマ(呼吸法)、マントラ(言葉や音の繰り返し)などを組み合わせて行われます。クンダリニーのエネルギーが目覚めると、身体や心、意識の状態が変化し、より深い意識状態に到達できると言われています。

ただし、クンダリニー覚醒法は、自己流で行うことは危険であるため、資格のある指導者のもとで正しく行うことが重要です。また、クンダリニーの目覚めが強烈な体験をもたらすことがあるため、注意深い指導者の下で行うことが推奨されます。

ムーラダーラ・チャクラは、ヨーガやヒンドゥー教の伝統におけるチャクラの1つで、体の根本部に位置するエネルギーの中心を指します。

ムーラダーラ・チャクラは、生命力(プラーナ)が体内に流れ込む最初の場所であり、人間の物質的な側面に関連しています。このチャクラは、下半身、肛門、膀胱、生殖器などの身体部位と関連しており、安定性や身体的な力、生存本能、そして土着性について表現することができます。

このチャクラは、赤色に関連づけられ、地球や物質界、生命の発生にも関連しています。ムーラダーラ・チャクラを活性化することで、身体的な強さ、忍耐力、勇気、そして内面的な安定感を得ることができるとされています。

クンダリニー覚醒法

まず、修行者は、クンダリニー覚醒の予備チャクラの場所を、正確に知らねばならない。さきに、わたくしが、始動用小型モーターだといった経穴である。

これを導師から教示してもらう。チャクラの場所は、個人差があるので、導師から教えてもらうしかないのである。

この予備チャクラにムドラーと共に思念を集中して特殊な観想をつづけていると、チャクラに独特の感覚が生じてくる。これに、さらに物理的な或る刺激を加えると、完全に覚保する。

登録してしだいにエネルギーが生ずるようになると、このエネルギーを、気道によってクンダリニーの部位に送りこみ、また、その周囲に行らせる。指導の通り、正しく行すれば、時間的な違いはあるが、だれでもクンダリニーは目ざめるようになる。

クンダリニー・ヨーガのやりかたでは、クンダリニーの覚醒は非常に困難であり、

したがって成功した例は稀であるとされているが、仏陀の法では、予備チャクラを使うので、それほど至難なものではないのである。仏陀の法のすぐれたところである。

むずかしいのは、ピンガラ、イダーの両気道の開発である。

これはたいへんむずかしい。しかし、どうしてもなしとげなければならぬ修行である。

というのは、仏陀の法におけるピンガラ、イダーの気道は、ただたんなる気道では
なく、前にのべたように、アクセルとブレーキの機能を持つものである。この両気道を開発しなければ、各チャクラを目ざめさせることも出来なければ、コントロールすることも出来ない。脳のチャクラ、神経経路の増強なども、このピンガラ、イダーの
はたらきによるものであるから、これは仏陀の法の眼目ともいうべき法である。その法について解説しよう。

ビンガラ、イダーの開発法

そのテクニックをひと口でいうと、特殊な振動を体内につくり出して、これを吏うのである。
その特殊な振動は、横隔膜、胸腔、腹腔を使い、秘密マントラの特殊な詠唱法によ
って思っす。ムドラー、体位もこれに加わる。
この運動は、最初、声帯を使う。声帯で、正しい振動を声として発生させる。この
秋動ん、胸総、横臓、腹腔へと響かせてゆく。胸腔、腹腔は、いうならば太鼓であ
る。こで共鳴させ、増幅させるのである。
しい動を起こせるようになったら、今度は、発声しないで、おなじ振動を起こ
小劇練に入る。無音声になるが、振動は起こしているのである。というのは、体の内
常に向けて発声しているのである。体の内部に向けて振動を送っているわけだ。体の
内とは、いまのべたように、胸腔、腹腔である。まず、胸腔が、送りこまれた動
あ、で鳴せ戦させる。
さらにこれる、横隔膜が、腹腔の中で増幅させる。
非常に強いエネルギーが、体内に生じることを理解されるであろう。この強いエネ
ルギーが、ピンガラ の気道を開発し、形成するのである。

どのようにして?

 

ここで、わたくしは、最極秘伝の一つを明かさねばならない。

それは、チャクラに、「大チャクラ」と「小チャクラ」の二種類あるということである。このことは、誰れも知らない。わたくししか知らない秘伝である。クンダリニー・ヨーガと道教、そして仏陀の呼吸法の総合修行からわたくしが発見体得した秘伝
である。そのわたくしが、今度はじめて、今まで秘していた最極秘伝を公開するのである。

 

チャクラの星座をたどる

 

「大チャクラ」とは、さきにのべたように、ムーラーダーラ・チャクラ、スヴァーディシューターナ・チャクラ、マニプーラ・チャクラ、アナーハタ・チャクラ、ヴィシュッダ・チャクラ、アージュニャー・チャクラ、サハスラーラ・チャクラの七つであ

「小チャクラ」は、これとは別のものである。人間の体には、おおよそ三百数カ所の小チャクラがある。中国の道教で、「経穴」と称している部位と同一のものもあるし、
まったく違うものもある。小チャクラは、そうでない部分にくらべて、知覚が非常に敏感である。導師のわたくしが、思念をこめて、二、三〇センチくらいの距離から指先で示しただけで、相手はピリピリと感ずるほどである。凝視されただけで感ずるほど敏感な部位もある。

それはちょうど、人間の体、という宇宙に点在する星のように思われる。じっさいに、星座のように、共通する系を以て一つの座を形成しているチャクラの群れもある。

気道を開発するとき、わたくしはこの星たちを利用する。腹部、背部、頭部、どの部分の気道も、この星のチャクラを利用することによって、比較的、らくに道をひらいてゆけるのである。

わたくしは、さながら、この星の海を航海する船長である。どの星からどの星へとたどっていったら、目的地(チャクラ、また、神経叢など)に到達できるのか、わたくしは明確に指示することが出来る。星をたどったその航跡が気道になるのである。
この法によれば、少々鈍感な修行者でも、気道の経路を知ることが出来るであろう。

ピンガラ、イダーの両気道も、そのようにして開発、形成される。

この秘法を知らぬ修行者たちは、羅針盤も持たず、星座で航路を読むことも知らない昔の航海者のように、闇夜の海にただよのみである。

もうお分りであろう。前の節でのべた体内の強い振動エネルギーが、星から星をたどって、ピンガラ、イダーの気道を形成してゆくのである。

これで、最大の難関は突破された。やれやれ、と、ひと息つきたいところであるが、じつは、もう一つ、越さねばならぬ難関があるのである。それはなにか?

それは、このようにして形成されたピンガラ、イダーの気道に、どのようにして、前にのべた、アクセルとブレーキの機能を持たせるか、ということである。これが非常にむずかしいのだ。
どのようにして、それはなされるのか?

最上深秘の呼吸法」

 

Kundalini Awakening Method

First, the practitioner must know exactly where the kundalini awakening reserve chakra is located. Earlier, I was acupuncture points such as a small motor for starting.

Ask the guru to teach this. The location of the chakras varies from person to person, so there is no choice but to ask the guru to tell you.

If you concentrate your thoughts on this spare chakra with Mudra and continue to have a special idea, the chakra will have a unique sensation. When a certain physical stimulus is added to this, it is completely awakened.

When the energy is gradually generated after registration, this energy is sent to the part of Kundalini by the airway and is made to go around it. As instructed, if done correctly, there will be a time lag, but everyone will wake up to Kundalini.

Kundalini yoga is very difficult to awaken,

Therefore, it is said that successful cases are rare, but the Buddhist law uses a spare chakra, so it is not so difficult. It is an excellent place in the Buddha’s law.

Difficult is the development of both the Pingala and Eider airways.

This is very difficult. However, it is a practice that must be accomplished.

Because the airways of Pingala and Ida in the Buddha’s law are just airways.
Instead, as mentioned earlier, it has accelerator and brake functions. Without developing these two airways, each chakra cannot be awakened or controlled. The chakras of the brain, the enhancement of nerve pathways, etc.
This is the eye of the Buddha’s law because it works. Let me explain the method.

How to develop Bingara and Ida
In a nutshell, the technique creates a special vibration inside the body and barks at it.
The special vibration uses the diaphragm, thoracic cavity, and abdominal cavity, and is based on a special chanting method of the secret mantra.
I think. Mudra and position are also added to this.
This exercise initially uses the vocal cords. Generates correct vibration as voice in the vocal cords. this
It resonates with autumn movement, chest total, side viscera, and abdominal cavity. The thoracic cavity and abdominal cavity are, so to speak, drums.
To. It resonates and amplifies here.
If you can make a new movement, do not speak, but make the same vibration.
Enter into a small drama. It becomes silent, but it is vibrating. Because inside the body
He is always speaking towards him. It is sending vibrations toward the inside of the body. of a body
The inside is the thoracic cavity and abdominal cavity, as we have just mentioned. First, the movement of the chest cavity
Oh, let’s make a fight.
In addition, the diaphragm amplifies in the abdominal cavity.
It will be understood that very strong energy is generated in the body. This strong energy
Ruggy develops and forms the Pingala airway.
how?

 

Here, I must reveal one of the most secrets.

That is, there are two types of chakras, “large chakra” and “small chakra”. No one knows this. It is a secret that only I know. A secret that I discovered and learned from the comprehensive training of Kundalini yoga, Taoism, and the Buddhist breathing method.
Is. For the first time, I will release the secret story that I have kept secret until now.

 

Follow the constellations of the chakras

 

As mentioned earlier, the “large chakras” are the seven chakras of Mueller Dara Chakra, Svadi Shootana Chakra, Manipula Chakra, Anahata Chakra, Vishudda Chakra, Ajnya Chakra, and Sahasrara Chakra. Ah

The “small chakra” is something else. There are about 300 small chakras in the human body. In Chinese Taoism, there are some parts that are called “acupuncture points”,
Some are completely different. Small chakras are much more sensitive to perception than those that are not. I, the gurus, thoughtfully showed it with my fingertips from a distance of about a few centimeters, and the other person felt a tingling sensation. Some parts are so sensitive that you can feel it just by staring at it.

It just seems like the human body, the stars scattered in the universe. In fact, there are also groups of chakras, such as constellations, that form a constellation with a common system.

When developing the airways, I use these stars. The abdomen, back, head, and airways of any part can be opened relatively easily by using the chakra of this star.

I am, just like, the captain who sails the sea of ​​this star. I can clearly indicate from which star to which star I can reach my destination (chakra, nerve plexus, etc.). The wake that traces the stars becomes the airway.
According to this law, even a slightly insensitive practitioner will be able to know the route of the airway.

Both the Pingala and Ida airways are also developed and formed in this way.

The practitioners who do not know this secret are only in the dark sea, like the old navigators who do not have a compass and do not know to read the route in the constellations.

You already know. The strong vibrational energy in the body mentioned in the previous section traces the stars from star to star, forming the airways of Pingala and Ida.

With this, the biggest obstacle has been overcome. I want to take a break, but in fact, there is another difficulty that must be overcome. What is it?

It is how to give the airways of Pingala and Ida thus formed the functions of accelerator and brake mentioned above. This is very difficult.
How is it done?

The most secret breathing method ”

 

経絡、基本

経絡、基本

経絡は、伝統的な東洋医学で用いられる概念で、体内を巡るエネルギーの流れを指します。経絡は、全身を貫く12本の主要な経絡と、それらに関連する多数の副次的な経絡から構成されています。各経絡には、身体の異なる部位や臓器に関連する特定のエネルギーが流れており、体調の不調がある場合は、このエネルギーの流れに問題が生じているとされています。

基本という言葉は、何らかの事物や概念において、最も重要な部分や基盤となる部分を指すことがあります。東洋医学において、経絡は体内のエネルギーの流れを表し、健康を維持するための基盤となるものとされています。経絡には、身体の不調を改善するための治療法である鍼灸や指圧、漢方薬などがあり、これらの治療法は、経絡の流れを調整することで、身体の自然治癒力を高めることを目的としています。

道教

老子は先秦時代の学者とされるが、その経歴については不明な点が多く、その思想を記した書である『老子道徳経』の成立時期もさまざまな説がある[9]。道教は中国古来の宗教的な諸観念をもとに長い期間を経て醸成されたもので、一人の教祖によって始められたものではないから、老子が道教の教祖であるとはいえない[9]

しかし、『老子』に説かれる「」の概念が道教思想の根本であることは確かである[9]。道教においては、不老長生を得て「道」と合一することが究極の理想として掲げられ、道徳の教理を記した書の冒頭には『老子』の「道」または「道徳」について説明がなされるのが通例である[9]

『老子』の冒頭には以下のようにある[10]

道の道とすべきは、常の道に非ず。名の名とすべきは、常の名に非ず。名無し、天地の始めには。名有り、万物の母には。故に常に無欲にしてその妙(深遠な根源世界)を観て、常に有欲にしてその徼(明らかな現象世界)を観る。この両者は同じきより出でて名を異にし、同じくこれを玄(奥深い神秘)と謂う。玄のまた玄、衆妙の門。— 『老子』第一章

『老子』では、世間で普通に「道」と言われているような道は本当の道ではないとして否定し、目に見える現象世界を超えた根源世界、天地万物が現れた神秘の世界に目を向ける[10]。「道」は超越的で人間にはとらえがたいものだが、天地万物を生じるという偉大な働きをし、気という形で天地万物の中に普遍的に内在している[11]

老子』に見られる「道」「徳」「柔」「無為」といった思想は、20世紀後半に発掘された馬王堆帛書郭店楚簡から推測すると、戦国時代後期には知られていたと考えられる[12]。「道」を世界万物の根源と定める思想もこの頃に発生し、やがて老子の思想と同じ道家という学派で解釈されるようになった[13]。一方、『老子道徳経』の政治思想は、古代の帝王である黄帝が説く無為の政治と結びつきを強め、道家と法家を交えた黄老思想が成立した。前漢時代まで大きく広まり実際の政治にも影響を与えたが[14]武帝が儒教を国教とすると民間に深く浸透するようになった。その過程で老荘思想的原理考究の面が廃れ、黄帝に付随していた神仙的性質が強まっていった。そして老子もまた不老不死の仙人と考えられ、信仰の対象になった[15]

道教においては、不老長生を得て「道」と合一することを理想とするが、その際には精神的な悟脱だけを問題とするのではなく、身体的な側面も極めて重視する[16]。そのため、形而上の「道」の具体的な発現である「気」もクローズアップされるようになった[16]

神仙道編集

健康で長生きしたいという人々の共通の願いが、永遠の生命を得るという超現実的なところまでふくらませたものが神仙という観念であり、道教では理念的には神仙になることを最終目標としている[17]。神仙は、東の海の遠くにある蓬萊山や西の果てにある崑崙山に棲み、不老不死などの能力を持っている[18]。また、戦国時代から漢代にかけては、神仙は羽の生えた人としてイメージされることが多く[17]、神仙は天へと飛翔する存在とされる[19]。神仙は、『荘子』においては「真人」「神人」「至人」などとも呼称される[20]

外丹編集

清代に出版された煉金術の書。

神仙への憧れは様々な伝説を生み、『列仙伝』や『神仙伝』といった仙人の伝承が生まれた[21]。仙人になるための修行理論や方法は葛洪の『抱朴子』に整理されている[22]葛洪は、人は学んで仙人になることができると主張し、そのための方法として行気(呼吸法)や導引、守一(身体の「一」を守り育てること)などを挙げる。葛洪が特に重視するのは「還丹」(硫化水素からなる鉱物を熟して作ったもの)と「金液」(金を液状にしたもの)の服用である[23]。このように、金石草木を調合して不老不死の薬物を錬成することを「外丹」(練丹術、金丹)と呼ぶ[24]。葛洪は、神仙になる方法を知りながらも経済的理由で必要な金属鉱物を入手できないため実践に至らないとも述べている[25]

実際には、水銀化合物を含む丹薬は毒薬であり、唐代には丹薬の服用による中毒で死に至った皇帝が何人も出た[26]。煉丹術の研究は丹砂や鉛といった鉱物に対する科学的知識を多く蓄積し、唐代の道士が煉丹の過程で事故を起こしたことがきっかけとなって火薬の発明に至った。また、道士は中毒死を防ぐために医学について研究したため、漢方医学の発展を促し、煉丹術の成果は医学に吸収されて外科の薬物として用いられている[27]

宋代以後は、金丹といった「外物」(自己の身体の外にある物質)の力を借りるのではなく、修練によって自己の体内に丹を作り出すという「内丹」の法が盛んになることとなり、外丹は下火になった[26]

内丹編集

内丹とは、人間の肉体そのものを一つの反応釜とし、体内の「気」を薬材とみなして、丹薬を体内に作り出そうとするもので、それによって不老長生が実現するとされた瞑想法・身体技法である[28]。呼吸法には「吐故納新」、瞑想法には五臓を意識して行う「化色五倉の術」、ほかにの歩みを真似て様々な効用を求めた「禹歩」などがある[29]。また、道教においては身体と精神は密接につながっていると考えられるため、感情を調和のとれた穏やかな状態に保つ精神的な修養も不老不死のために必要であるとされた[28]

唐代までは外丹が盛んであったが、宋代以後には不老長生法の主流は内丹に移り、『周易参同契』と張伯端の『悟真篇』が内丹の根本経典とされた[30]。『悟真篇』の内丹法は、「金丹」を体内で練成する段階と、それを体内に巡らせる「金液還丹」の段階に分かれている。前者の段階は、腎臓の部位に感じられる陽気の「真陽」と、心臓の部位に感じられる陰気の「真陰」を交合させると、丹田に金丹が生じるというもの。後者の段階は、体内の金丹を育成し、身体の精気を金液に変化させる。この時、金液は督脈と任脈のルートに沿って体内を還流し、十ヶ月続けると神仙になる[30]。ただし、これと同時に心性・精神の修養も必要であるとされ、これは「性命兼修」また「性命双修」と呼ばれのちの全真教で重視された[30]

羽化仙と尸解仙編集

以上のように、道教においてはさまざまな方法によって不老長生の仙人になることが目指されたが、現実には死は避けがたいものであった[31]。そこで、形の上では死ぬという手続きを経た上で、のちに仙人になるという考え方が生まれ、これを「尸解」という[31]尸解仙の伝説にはさまざまなものがあり、死んだ人が生き返った、棺の中の遺体が消えて服だけになっていた、遺体がセミの抜け殻のように皮だけになっていたといった逸話が語られた[31]。また、丹薬によって中毒死した場合も、それは本当の死ではなく、尸解仙になったものと考えられた[27]

「経絡

経絡」という用語は、東洋医学や鍼灸などの分野で使われる言葉です。

「経絡」とは、人体を貫通するエネルギーパターンのことを指します。東洋医学では、このエネルギーパターンは「気」と呼ばれ、体内を流れる複数のメインチャネルと、それらのチャネルに沿って分布する複数のアキュポイント(経穴)によって表現されます。このエネルギーパターンが正常に流れていると、健康で調和のとれた状態を維持できますが、逆に流れが滞ると、身体や心に不調が現れるとされています。

在家修行者の為の八法・十六法と名付けられた修行法

は、在家修行者の為の八法・十六法と名付けられた修行法

 

 

「八法」とは、仏教において修行を行う際に必要な八つの要素のことで、正しい見解、意図、言葉、行い、生業、精進、忍耐、および正しい考え方を含みます。

一方、「十六法」とは、これらの八つの要素を深めるために、それぞれを二つに分割し、合わせて十六の要素として定義したものです。たとえば、正しい見解は、正しい理解と正しい信念の二つの要素に分割されます。

三密加持の手法   完

まざまなものごとを象徴する。 これを「身」という。

「語密」という。

編成されている。

観想とは、心の中で、定められたものごとをつよく観念することである。「意」という。

真言とは、仏の真実の言葉とされる梵語で成り立った一定の章句を口にとなえることである。

この三つの所作が連続して一つの法を成立させるのである。

この三密加持の手法をもとに、「金剛界の法」と「胎蔵界の法」と、二つの即身成仏法の体系が

この二つの法の、最も中心となる部分を見てみよう。

 

 

先ず金剛界の法である。

前のほうの導入部分ともいうべきところは略して、中心に入ろう。

 

 

 

三金剛界の法

(前段略)

 

次仏 両合掌して、二頭指各々中指の上の節の背につけ、二小指の 開く。二大指もまたなり。これ如来五眼のなり。胸の前に当てて真言七返 加持せよ。真言にいわく、黄、緑、烏瑟沙、増蘇入緋羅、

あい生えて中間をして、身の四処 叱悉多魯舎 しったしったろ しゃに

観ぜよ。此の印をむすび真言をして加持するに出るが故に、諸魔夜迦その便りを得ず。 初 行のときより、乃至成就の時までの 数、この尊に奉献すれば、たとえ三業を誤失し三昧耶破すれども、所有の成就して虚しからずして地を獲得す。あるいは悪人あって留難をな さばかの人、瑜伽者の足下にありと想うて、真言二十一返を誦すれば、所有の留難をなす者、 み ことごとく消散して、心を以てあい向うて障礙すること能わず。

 

○次 入我我入観端身正座して、弥陀定印をむすんで観ぜよ。 我れ今、大日如来の身となる。 身相白肉色にして宝蓮華台満月輪の上に処して、面も せり。首に五智の宝冠を著て、頂背円光って大智拳印に任せり。 一身四面なり。四仏四波羅蜜 十六大菩薩 八供四等の諸 尊聖衆眷属せり。ここに更にまた壇上の日成の如来と、自性眷属の三十七尊と、ともに住してと相対し給う。本尊我身に入り、我れもまた本尊の御身の中に入る。かくのごとく融通入す ることたとえば帝のごとし。また鏡と影像との相通無礙なり。本尊我身の中に入りて我を加持し、 本尊の御身の中に入って本尊に帰依し奉る。即ち本尊と我れと一体にして無二平等なり。

○次 字輪観字義ならびに無分別観 身正座して、弥陀定印をむすんで法界体性三昧観に入れ。 わが心満月輪の上に 右に従ってす。 面も順逆に五字をし、さらにまた の五字あり。 空点を加えて順逆に之を通す。 次に字義を順逆に観じ廻す。 即ち諸法本不生、 自性離言説、 清浄無本生観と

因業不可得等空不可得、等空不可得、因業不可得、清浄無垢染、自性離言説、諸法転相接して 字諸法本生なるが故に、字自性離言説なり、字自 逆に観じす、 性離言説なるが故に、字清浄無垢染なり。字清浄無垢染なるが故に、字因業不可得なり。 字因業不可得なるが故に、字等空不可得なり、字等空不可得なるが故に、字諸法本不生なり つづいてこの逆を観のごとく順逆に観じ廻して、遂に月輪をして現前せしむ。くびく大にして小千界、 中千 界大千界乃至法界に遍満す。 そのときに上み仏界より下も衆生界に至るまで一切の諸法みなわが 心月輪に現ず。然してのち漸く飲まり、く小さくしてもとのごとく一にして還りてわが身中に 入る。なお定心に住して布字観をなせ。 即ち、前の五字を移してわが身の五処に置く。その五処と 腰下、 心中、眉間、頂上なり、腰下に字を置く黄色方形なり、是れ地大本不生の理な 輪に字を置く白色円形なり、是れ水大離言説の理なり、心中に字を置く赤色三角形なり、 無 理なり、眉間に字を置く黒色半月形なり、是れ風大因業不可得意なり、頂上 に字を置く青色団形なり、 これ空大等空不可得の理なり、いますでに五大所成の身となりてよく 過を離る、即ち順逆にこれを観ぜよ、我れ即地大本不生なり、我れ即木大離言説なり、我れ即火 大清浄無垢染なり、我れ即風大因業不可得なり、我れ即空大等空不可得なり つづいてこの逆観 おわってついに字本不生の理に住して、言慮絶するを無分別と名づく。 この親に住し、

 

○次 五相成身観

 

観察

真言にいわく、

三摩地

頭 総理。行者、金剛店に入らんとおもわ

先ず観察智に住して、まさに結支節を動揺せずしてまさに印を結ぶべ 趺座すべし。し。羽金剛して、仰げて臍の下におき、身を正しくして動揺することなかれ。

舌を上にえて、息を止めて微細ならしむ。 この定に住して即ち如来の不動智を得。真言にいわく、庵、三摩地、頭迷哩。誰かに観ぜよ、諸法の性はみな自心に由る、随煩悩、臨界 諸入等はみな幻と焰との加し、乾婆城のごとし、また火のごとし、また空谷郷のごとし、是 の如く誰かに観じおわって身心を見ずして、 寂滅平等究真実の智にして、即ち観ぜよ。 「空中 において諸仏胡麻のごとくして虚空界に満したまえり、身に十地を試し如実際にせりと想え 空中のもろもろの如来、 男子汝の所の処は是れ一道清浄なれども、 指し驚覚して告げて言う。 金剛三昧および若智尚し未だ証知すること能わず、此を以て足んぬとる事切れ、広さに普満足してさに最正覚を成ずべし」

 

○次 通菩提心

行者覚を聞いて定中に諸仏を礼し奉る。(ゆえに)礼の真言をす ただ願くば、諸の如来われに所行の処を示したまえ、諸仏同音に言わく、「汝まさに自心を観ずべ 教のごとく自心を観ずれども自心の相を見ず、また普礼の真言をして仏に白して言さく、

のたま

「われ自心を見ずこの心をば何の相とかさん」、諸仏成く告げて言わく「心相は

おそ

あんしつ はちべいとうまゆう

し難し、心

月輪の霧の中に在るが如し」 真言にいわく、阿賀、質多鉢羅吠登迦哈弾。 次菩提心「識は本来にあらず、清浄にして、 なし、福智を具するに由るが故に自 心満月の如しなんじ浄月輪を観じて菩提心をすることを得。真言にいわく、地質多、 甲成金心想え「諸仏また告げて言わく、菩提を堅固ならしめんがために、また心真授く、金剛蓮華を観ぜよ。即ち心月輪の上に八葉の蓮華ありと観ぜよ」

真言にいわく、蛇、日置

次 広金剛想え「心月輪の上の八葉の蓮華、くび漸く大にして、三千界乃至法界に 満して、一切有情をし利益すと想え」

 

真言にいわく 〇次 金剛

「この心蓮華小にして、還って収まること故の如し」

真言にいわく、 次

僧賀神羅。心 応当に知るべし。自身は金剛界なり。 想え 「法界の諸仏自身の蓮華に

入り給うこと、鏡の万像を現するが如し」

真言にいわく、博日羅鉢

諸仏また告げて言わく、「身を観じて本尊と為せ」、この真言を授けていわく、

仏身円

野他薩縛他多

薩他含。

次 諸仏加

え。「われ既に本尊の身となる。故に、諸の如来加持して、金剛界の諸尊み

なわれ続し給う」

もしまた

真言にいわく、

縛怛他多、三冒地理茶縛日羅陀。

以上であなたは即身成仏したのである。

仏眼〉

え?さっぱり仏になったような気がしない?

困るなあ、そんなことでは、尤も、大分むずかしい文句がならんでいるからな。 よく呑みこ めないのも無理はない。 それでは少し解説してみよう。

この印明をむすぶがゆえに、自他一切の障害を排除して法が成就するという。

印は、ふつうに合掌して、両手の人さし指(これを頭という)をそれぞれ中指の上部の節の背に つけ、両方の親指(大指という)と両方の小指はそれぞれ先端をつけ合って、中間の部分をひらく のである。そうすると、おのおのの指のすき間が五か所できる。 これがすなわち五つの眼である。 五つの眼とは、仏眼法眼 恵 天眼、肉眼である。この五眼を印に配置すると、二小指の間は 仏眼 左頭指と中指との間は法眼、右頭指と中指との間は恵、二中指の間は天眼、二大指の間は 肉眼 これを、「印の五眼」という。五眼にはもう一つ、「面の五眼」というのがあり、 それは、右

こたち

目肉眼、左目天眼、右肩恵 左眉法 眉間仏眼に配置する。 これは、それぞれ、 大円鏡智、平 等性智、観察智、 成所作智、 法界体性の五智に配される。 この五眼五智の印をむすんでわが眼 にあてて真言五反となえ、つぎに二反となえて右に三反転じまわすこと)面上を加持する。 はじ 五眼加持五反はこれによって金剛界五智のをひらき、つぎに真言三反となえて面を三転する のは胎蔵界三部の仏の眼をひらく心である。すなわち、これであなたは仏の五智の眼をひらき、い よいよこれから即身成仏を獲得する法の所作に入るというわけである。

我我入観〉

これは、文字の通り、対象とするものが自分の中に入り、自分もまた対象の中に入るということ であるが、「入る」ということは、「合体一致」するということである。したがって、これが完全に なされたら、当然、対象そのものになってしまうことになる。私は、この入我我こそが密教の真 髄であり密教を成り立たせる根本原理であると思っている。即身成仏とはその入我我入の対象を 「仏」に置いたわけで、この技法を体得したら、 対象次第でなんにでも変身できるわけである。私 がさきに「変身の原理」という題名で密教の本を書いたのはここに由来するわけで、ここでは対象 「大日如来」とするが、 入我我入は大日如来だけとはかぎらないのだ。 密教では法の種類によ って、どんな仏にでも変身するのである。ここに、不動明王の入我我入について、故長岡慶信大僧 正が非常にわかりやすく書かれた文章があるから、それを御紹介しよう。

「十八道立の供養法でも、金剛界や胎蔵界の大法立の供養法でも、先ず、道場観”といって、

我々の眼前に本尊の浄土を思い浮かべ、そして、そこへ浄土におられる本尊を迎えて、これを合致 せめ、これに供養してから、入我我入観”という、本尊と自分と無二一体であるという観想を こらすのだ。 いま、不動明王を本尊とした道場観を書いてみる。

しっしっ

もろもろ ようちばんかい

心(むね)の前に字あり。 変じて七宝の宮殿楼閣となる。垂れ、宝柱行列せり。 (以上浄土の宮殿) 壇の上に字あり、変じて、瑟々の不動のおられる台) となる。座の上に 字(不動の種字)あり、変じて智剣(不動の三摩郡形)と成る。 剣変じて不動明王となる。 (以下不動明王のすがた) 身色青黒にして、童子肥満の形なり、頂に七結の髪 (七つむすんで垂れた 髪の毛)あり、七覚分(仏になるべき覚えの七つの方法)をあらわし、左に一つの髪を垂れたり。 一 子(仏の一人子として)の慈悲を賑わす。 右の手に剣をとり三毒の惑障(痴の迷いを断ず。 左の 手に とり、調の者(仏教に従わぬ者)を繋縛す。身(からだじゅう)に楼羅炎(か ふらという能を食うという鳥の形の炎)を現じ、煩悩の悪 宝山に を龍にたとえる)を食す。 座し給う。 浄菩提心の動きことをあらわす。(以上が不動の身体観、以下はその眷属を明らかにす

左右に二の童子あり、右をば迦と名づけ、

小心の者なり。左をば多と名づけ、共語 悪性のものなり、 乃至四大明王、十二大天無量の眷属前にせり。

以上で不動明王を眼前に想い浮かぶべきであるが、われわれにはなかなか難しいことなので、不 動明王の尊形、あるいは画像などを前に置き、この観法の助けとするのである。

さて、この観想の上に立って、その本尊と無二一体であると観念をこらすのが入我我入観である。

最初、不動の印をむすび、不動の真言を萌え、不動の心を心とし、 我が三葉が、 仏の三密と一致す

<字輪観〉

本尊加持の作法を修し、不動と自己と無二一体であって、本尊我れに入り、我れ本尊に入る、一 切衆生もまた本尊に入る、本尊と我れと一切衆生と無二であるとの観想をこらすことが、入我我入 観、即ち身密の一致を示したものである」

以上で、入我我入観がどういうものか、大体その意味するところがおわかりであろう。右の文章 の中で「我が三葉と仏の三密」という言葉が出てきたが、この意味は、この章の冒頭で、私は、 三密加持とは仏の心のはたらきと、あなたの心のはたらきをひとつにし、仏のことばのはたらき と、あなたのことばのはたらきをひとつにし、仏のからだのはたらきと、あなたのからだのはたら きをひとつにする、以上である。といった。仏の心のはたらきを「意密」(または心)といい、 仏のことばのはたらきを 」(または口)といい、仏のからだのはたらきを「身」というの

である。そうして、以上の三つを「三密」という。 これにたいしわれわれ凡夫のそれを「三葉」と いう。 とは、はたらきという意味であり、われわれ凡夫の心、ことば、身体のはたらきは、凡夫 同士、人間同士、わからないということはないが、仏の身、語、 意のはたらきは凡夫には到底理解 しがたい深遠なものがある。ゆえにこれを「密」といい、三密というわけである。 三加持とは、 凡夫の三業を仏の三密と合致させるという意味であり、入我我入はそのもっとも中心とするところ 手法であるということなのだ。

久我我入観は、三密加持のうちの身の成就である。ここでまちがってはならぬのは、入我 我入と入我我入観とはちがうということである。入我我入は三密成就して即身成仏を完成した状態 であるが、入我我入観は身だけの一密成就法である。 そこで、まだ “と”意密”の 二つが成就する法を修さなければならない。字輪観は、そのうちの “” 成就法である。つま 仏の心のはたらきを観ずるわけであるから、その意味深であり、説明することも容易ではな く理解することもまたきわめてむずかしい。 当然のことであろう。 この字輪観の説明だけで、一 冊、あるいは数冊の書物ができるほどのものであるから、くわしい説明はまた別の機会にゆずり、 ここではその大意を述べておこう。

真言密教では、本尊の種字の字義を観ずるのは浅略であるといい、その真言を観ずるのは深秘で あるとし、その梵号の一々の字を観ずるのを最深秘とし、秘中の秘であるとする。 では、その梵号 一々の字を観ずるとはどういうことかというと、ふつうには、ア、バラ、カ、キャの五字を観 ずることになっている。それはなぜかというと、この五字は即ち「五大」の種字だからである。 五 大とは、地・水・火・風・空の五大要素で、森羅万象、 宇宙のあらゆるものはこの五大要素から成 り立つ。したがって、われわれの肉身はこの五大から成り立ち、仏の肉体もまたこの五大によって 成る。ゆえにこの五大において我れと仏とは無二一体であるわけだ(これで身密も成り立つ)。また、 この五大に五智がふくまれている。このア・バラ・カ・キャの五字は、同時に五智の種字真言で もあるから、五智獲得に通じ、これを観ずることはすなわち“意密”の行になるとするのである。

 

 

<正念誦>

るのである。

前のお次第のほうでは略しておいたが、じつは、字輪観の前に修する法として、この正念誦があ

我我入観によって身が完成された。つぎに語密が完成されねばならぬ。 これは正念誦によっ 果たされるとされる。

その作法を述べてみよう。

それは、加持念珠と正念誦の二つにわけられる。

ねんじふ

先ず、左手で左の机の上の念珠をとって、右の手にうつし、左の頭指以下の四指に巻いて三匝 にする。 それを右の掌にのせて、焼香に三度薫じて左右の手に三度移しかえ、右の掌を上にして左

おんべいろ しきのうまみそわA

右を重ねた上にのせ、覧娑婆訶と三反となえて加持し、今度はそれを左右の掌を合せた中に入れ 念珠を浄める浄珠の明、味噌遮那摩娑賀を三反誦する。 それから念珠を高く頭にあげた

五大願念ずる。

五大願とは、

衆生無辺誓願

福智無辺警集

そのために世のあらゆる福と智恵とを集めようという誓。

すべての人を済度しようという誓。

法門無辺学仏のあらゆる教えを学びとろうという誓。

如来無辺誓願事ありとあらゆる仏菩薩の仕事の手伝いをするという。

無上証無菩提を必ず証するという誓。

あんずんぐ

この五大をとなえ、いま修行している自分の願いをはっきり述べる。 以上が加持念珠である。 つぎの念は、二つの所作から成る。最初が引越念 あとが次第念である。 引越念 とは、転の真言日野をとなえつつ、左の拳(蔵の中を通して、右の大頭中の 三指で、母珠を持って引き上げる。つぎに、波三摩曳ととなえながら右の胎の中を通して、 左の大頭中の三指で留をもって引き下げる。これを三度くりかえすのである。この意味は、 秘密の念の境地において煩悩をうちくだくということをあらわす。

いろん

つぎに次第念は、右の頭大二指で母珠をとり、左の頭大の二指で三寸ほどはなれた念珠の 外の珠をとり、左右とも他の三指をのべ開き光明のごとくして本尊の真言をとなえつつ数をとりな がら百八反う。 踊えおわったら、ふたたび念珠を三にして中に納めて、修習念珠法以此 福田一切諸有情、成尊(本尊名)をとなえて左の手で左の机にかえして置く。この念珠のとき の観想は、

しんがもりん

「わが誦する真言の字は本尊の輪(おへその穴)より入りて、本尊の心月輪に至り、右にめぐ りてつらなり住し、本尊の通する真言の字はわが頂より入りて心月輪に至り右にめぐりてつらなり 「す」

この行は、真言をすることが中心であるから、いうまでもなく語密である。しかし、よく観察 すると、本尊の口から出るのは語であり、行者の頂より入るは身密で、わが心月輪に至りつらな

解説しよう。

先ず結りするのは意密であると同時に、わが誦する真言の字は語

で本尊の輪より入るは身で、心 月輪にするは意密であるということになる。つまり、臍 心月輪に至るという 頂より入って、 ことは、わが身と本尊の一致、すなわち入我我入で、調する音声、 これは本尊の真言のとなる声 との一致、すなわち語の一致で、 心月輪に真言の字が布列して、たがいに流れ合う、これは意密 の一致にほかならない。 そこで、真言宗のある派では、この一行に三密のすべてをふくむとして非 常に重くみるのである。この正念の行ひとつで即身成仏が成就するとまでいう派がある。

<五相成身観即身成仏・五つの過程─>

五相成身観は、凡夫が仏になるまでの過程を五種類に分類したものである。

密教の即身成仏の技法は、さきに述べた通り、三密加が中心であるが、その三行の中で最も 中心となるものは、いうまでもなく、意の行である。この意密の行(観法または観想)にはいく つかあるが、その最も主なものは、この五相成身観と阿字観(本不生観ともいう)である。このうち 阿字観は「大日経系統」すなわち「胎蔵法」に属する法で、五相成身観は「金剛頂系統」すなわち 「金剛界」に属する観法である。

五相成身とは、弘法大師空海の 『菩提心論』によると、

「一にはこれ通達心、二にはこれ菩提心、三にはこれ金剛心、四にはこれ金剛身、五にはこれ無 菩提をして金剛堅固の身を得るなり」とある。

これは、しずかな呼吸とともに、一から七までをかぞえ、も して、数息観に入る。 どって七から一までをかぞえる。無識身三摩地といって、心を空虚に、なにごとも心にとめない、 無心、無我の心を得るためである。 無識身三摩地に入ったら、つづいて「空観」に入る。観想中の 空想上の城 火輪は、棒に火をつけてくるくるまわすと火の輪のように見える。しか その火の輪は実在しない。 だからともに架空の存在で、われわれが実在と見ているものすべてそ のように架空の存在に過ぎないと観ずる。 すなわち「空」の定に入るわけである。この空の定に入 ることにより、智を表示する蓮華部の仏の加持を得て、その加持力により、つぎの通菩提心の三 味に入ることができるのである。

<通達菩提心〉

これは、われわれはすべて生まれながらに、即身成仏するところの根本心である浄菩提心を持っ ているということを如実に知る修行で、霧の中にある月輪のごとしと観ずるのである。

すなわち、数息観から空定に入って清められた心は諸仏に通じ、その加持によって清浄無垢なる 満月のようになった。しかしまだそのさとりは十分でなく、すみきった満月に軽い霧がかかったよ うな状態である。この軽い霧をはらい、真如の、すみきった月輪にしなければならない。 そこでさ らに真言をとなえ、仏の三摩耶形(象徴する物という意味で、仏 す がその本を表示する所持物 なわち、弓・・・・印など)を、わが満月輪の心の上に観じて、われと仏と同一の親をするの である。

 

 

<修菩提心〉

前の通菩提心によって、わが心は金剛界大日の加持を得、心の中に一点のくもりもない真月輪 得得たのである。ゆえに、わが心は妄想からはなれて、根本であるアーラヤ識を転じ てすべてのものの実相を鏡のごとく写しとる大円鏡智となると観ずるのである。 大円鏡智浄菩提 心を如実にわがものとする行である。

<成金剛心〉

大円鏡智は即浄菩提心であり、菩提心の銀行によって獲得したこの大円鏡の浄菩提心を、よ りいっそう深め、具体的に本尊の三摩耶行と同一不二のものとする観法である。すなわち、わが浄 心の満月輪の中に、 八葉の蓮華を観じ、それに五仏五智の三形を映するのである。 先ず、 満月輪の上に蓮華があり、その上に金剛界五仏の三摩耶 中央に大日の塔前に阿の五股、 右に宝生の宝珠、後に弥陀の蓮華、左に不空成就の羯摩を置いて、わが心に五仏の五智を表示する のである。

<広金剛〉

つづいて、この親想はつぎの広金剛観、金剛観の二つの観法に入る。

この広金剛とつぎの金剛は、前の観想をそのまま拡大し、あるいは飲めて、自分と法界(宇宙)

との無二一体観を確立するのである。すなわち、わが満月輪の八葉の上に映じ出した金剛界五 仏五智の三摩形をしだいに拡大伸長し、ついに宇宙大にまで至るのである。つまり、宇宙法界を わが心月輪の中の三摩耶形に統合入し、われ即宇宙なりの観に入るである。

<飲金剛〉

心月輪と五仏五智の

形が拡大されて宇宙とひとしくなったのを、今度はしだいに飲め

めて、わが心月輪の上に置くのである。これにより、修行者は、宇宙すなわち大千世界をわが心 の中に飲めるのである。

<証金剛身〉

自分の心が宇宙の一切をおさめ、仏の三摩耶形と同一不二であるということは、わが肉身がその まま本尊の三形と同体であるということである。ここで、この観を確立し、完全に把握する。 <仏身円満〉

前の親において本尊の三形が自身であるとの観を成就したとき、それは即ち修行者自身、相 好具足した本尊の身(活動するためにあらわれた仏身そのものにほかならない。ここにおいて、

わが肉身がそのまま大日如来のあらわれであることが証得され、仏身円満、即身成仏が完成するの である。

じめいくつかの菩薩行を行ぜよと説き、『観無量寿経』をひもといて十六観法 その他の浄行に はげむべしといっても、それは全く縁なき衆生というべきだろう。

つまり、平安密教、平安仏教はプロの宗教だったのである。それは、幼少の頃からその道に入っ 基本を学び、練磨してはじめてその技芸知識を身につけることができる高度の職業だったのであ る。それは宗教ではあったが信仰ではなかった。 それを信仰とするためには、極度に平俗化しなけ ればならなかった。しかし、それは、平安末期から鎌倉初頭という時代に生まれた法然、親鸞、日 であるがゆえにゆるされたことであろう。

たとえば、専心念仏によって成仏を説く法然、親鸞の宗が依経とする『観無量寿経』を見てみよ そこでは、阿弥陀仏の浄土に生まれるための十六の観法が詳細に説かれている。 決して唱名念 仏だけで成仏するとは書いてないのである。

1日没を観て西方極楽を想う日想観

水と氷の美しさを観じて極楽の大地を想う水想観

6想観を完成して極楽の大地を思想観

極楽の宝樹を想う樹想観 (宝樹観)

6極楽の池を想う八功徳水想観

6極楽の宝を想う想

阿弥陀仏

の台座を想う華座想観

仏像をみて阿弥陀仏のすがたを想像想観

阿弥陀仏の真のすがたを想うことによって一切諸仏のすがたを見ることができる一切色 身想観(真身観)

阿弥陀仏の脇侍である観音を想う観音観

おなじく勢至を想う勢至観

一切の浄土の仏・菩薩などを想う観想観

回以上~隣の観想のできないものが、大身・小身の阿弥陀仏などを観ずる雑想観

そして最後にそれぞれの能力・素質に応じた修行によって極楽に生まれるさまを想うの上輩観、 隣の中

の下輩観である。

以上の十六観法は、極楽浄土に往生成仏するための修行法を説くものとして、『観無量寿経』の 中でも最も重要なものである。この修行法を法然、親鸞は切り捨てて、唱名念仏一本にしぼったの である。

では、その切り捨てられた十六親法の行とはどのようなものか、ひとつ見てみよう。たとえば、 第八の像想観 第九の真身観はつぎのようなものである。

「……仏 阿難および提希に告げたわく、ここの事を見おわりなば、つぎにまさに仏を想う べし。ゆえはいかに。 諸仏如来はれ法界身なり。一切衆生の心想の中に入り給う。この故に汝ら

心に仏を想うとき、 是の心すなわち是三十二相八十随形好なり。是のこころ仏を作る。 是のここ ろれ仏なり。諸仏正編知海は心想より生ず。 是のゆえにまさに一心にいけて、らかに彼

仏の多陀伽度阿羅

三藐三仏陀を観ずべく、彼の仏を想わむ者は先ず当さに像を想うべし。

を閉じ目を開くにも一つの宝像の浮檀の色のごとくにして、彼の華の上に座し給えるを見よ。 像の座したまえるを見おわりなば、心眼ひらくことを得て、了了分明に極楽国の七宝の荘厳宝地

行列、天の宝その上に弥し、宝の羅、虚空の中に満つるを見る。 かくのごと

き事を見極めて明了なること掌中を観るごとくならしめよ。 この事を見おわりなば、まさに 一つの大蓮華を作して、仏の左辺にくべし。 さきの蓮華のごとく等しくして異なることあること

なし。また一つの大蓮華を作して仏の右辺に在け。一の観世音菩薩の像の左の華座に座るを想え、 また光を放つこと前のごとくにして異なることなし。一の大勢至菩薩の像の右の華座に座せるを 想え、この相成するとき、仏菩薩の像みな光明を放つ。その光り金色にしてもろもろの宝樹を照ら す。 一一の樹下にまた三蓮華あり、もろもろの蓮華の上におのおの一仏二菩薩の像ありて、彼の国 に編満す。 この想成するとき、行者まさに水流光明およびもろもろの宝樹、鴛鴦みな妙法を説 くを聞くべし。 出定入定につねに妙法を聞かむ。 行者の所聞出定のとき持して捨てず、 多羅と 合せしめよ。もし合せざらむをば名づけて妄想とす。 もし合することあらむをば名づけて、想を 極楽世界を見るとす。 これを像想とし、第八の親と名づく。この観を作さむ者は無量劫の生 死の罪を除き、現身の中において念仏三昧を得む」

…..無量寿仏に八万四千の相あり。 一一の相におのおの八万四千の形あり、一一の好にま 八万四千の光明あり、一一の光明あまねく十方世界を照らして2念仏の衆生を摂取して捨てた

わず。 その光明相好および化仏つぶさに説くべからず。ただまさに憶想して心眼をして見せしむべ この事を見る者は、即ち十方一切の諸仏を見たてまつる。 諸仏を見たてまつるを以てのゆえに、 6念仏三昧と名づく。この観を作すをば、一切の仏身を観ずと名づく。 仏身を観るを以てのゆえに また仏心を見る。仏心とはこれ大慈悲なり。無縁のを以てもろもろの衆生を摂しまう。 この観 作者は、身を世に捨てて諸仏の前に生じて無生忍を得む。是故に智者まさに心に繋けて かに無量寿仏を観ずべし。 無量寿仏を観む者は一の相好より入れ。ただ眉間の白を観じて極

めて明了ならしめよ。 眉間の白を見たてまつる者には八万四千の相好自然にまさに現ずべし。無 量寿仏を見たてまつる者は即ち十方無量の諸仏を見たてまつる。無量の諸仏を見ることを得るがゆ 諸仏現前に授記したまう。是れをねく一切の色身を観ずる想とし、第九の観と名づく。こ 観を作をば名づけて正観とし、もし他観せむをば名づけて邪観とす」

これは十六親法中のごく一部にすぎないけれども、これだけの中にいくつかの興味あるものが見 いだされる。

たとえば文中の「正編知海は心想より生ず、このゆえにまさに一心に思いを繋けて、誰かに彼 仏陀伽度 詞三三仏陀を観ずべし」というところである。正論知とは等正覚といってあ まねく一切法を知る仏の智慧をさす。 多陀御度阿羅三三仏陀は、 Tathāgata-arhan-samyak. sambuddha で、如来広供等正覚の意、すなわち仏の絶対の智を示すもので、このところは、真言密 教の観法の、五仏五智(の三摩耶形)をわが心月輪の上におけ、というのと同じ構想の上に立つもの