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三密加持の手法   完

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まざまなものごとを象徴する。 これを「身」という。

「語密」という。

編成されている。

観想とは、心の中で、定められたものごとをつよく観念することである。「意」という。

真言とは、仏の真実の言葉とされる梵語で成り立った一定の章句を口にとなえることである。

この三つの所作が連続して一つの法を成立させるのである。

この三密加持の手法をもとに、「金剛界の法」と「胎蔵界の法」と、二つの即身成仏法の体系が

この二つの法の、最も中心となる部分を見てみよう。

 

 

先ず金剛界の法である。

前のほうの導入部分ともいうべきところは略して、中心に入ろう。

 

 

 

三金剛界の法

(前段略)

 

次仏 両合掌して、二頭指各々中指の上の節の背につけ、二小指の 開く。二大指もまたなり。これ如来五眼のなり。胸の前に当てて真言七返 加持せよ。真言にいわく、黄、緑、烏瑟沙、増蘇入緋羅、

あい生えて中間をして、身の四処 叱悉多魯舎 しったしったろ しゃに

観ぜよ。此の印をむすび真言をして加持するに出るが故に、諸魔夜迦その便りを得ず。 初 行のときより、乃至成就の時までの 数、この尊に奉献すれば、たとえ三業を誤失し三昧耶破すれども、所有の成就して虚しからずして地を獲得す。あるいは悪人あって留難をな さばかの人、瑜伽者の足下にありと想うて、真言二十一返を誦すれば、所有の留難をなす者、 み ことごとく消散して、心を以てあい向うて障礙すること能わず。

 

○次 入我我入観端身正座して、弥陀定印をむすんで観ぜよ。 我れ今、大日如来の身となる。 身相白肉色にして宝蓮華台満月輪の上に処して、面も せり。首に五智の宝冠を著て、頂背円光って大智拳印に任せり。 一身四面なり。四仏四波羅蜜 十六大菩薩 八供四等の諸 尊聖衆眷属せり。ここに更にまた壇上の日成の如来と、自性眷属の三十七尊と、ともに住してと相対し給う。本尊我身に入り、我れもまた本尊の御身の中に入る。かくのごとく融通入す ることたとえば帝のごとし。また鏡と影像との相通無礙なり。本尊我身の中に入りて我を加持し、 本尊の御身の中に入って本尊に帰依し奉る。即ち本尊と我れと一体にして無二平等なり。

○次 字輪観字義ならびに無分別観 身正座して、弥陀定印をむすんで法界体性三昧観に入れ。 わが心満月輪の上に 右に従ってす。 面も順逆に五字をし、さらにまた の五字あり。 空点を加えて順逆に之を通す。 次に字義を順逆に観じ廻す。 即ち諸法本不生、 自性離言説、 清浄無本生観と

因業不可得等空不可得、等空不可得、因業不可得、清浄無垢染、自性離言説、諸法転相接して 字諸法本生なるが故に、字自性離言説なり、字自 逆に観じす、 性離言説なるが故に、字清浄無垢染なり。字清浄無垢染なるが故に、字因業不可得なり。 字因業不可得なるが故に、字等空不可得なり、字等空不可得なるが故に、字諸法本不生なり つづいてこの逆を観のごとく順逆に観じ廻して、遂に月輪をして現前せしむ。くびく大にして小千界、 中千 界大千界乃至法界に遍満す。 そのときに上み仏界より下も衆生界に至るまで一切の諸法みなわが 心月輪に現ず。然してのち漸く飲まり、く小さくしてもとのごとく一にして還りてわが身中に 入る。なお定心に住して布字観をなせ。 即ち、前の五字を移してわが身の五処に置く。その五処と 腰下、 心中、眉間、頂上なり、腰下に字を置く黄色方形なり、是れ地大本不生の理な 輪に字を置く白色円形なり、是れ水大離言説の理なり、心中に字を置く赤色三角形なり、 無 理なり、眉間に字を置く黒色半月形なり、是れ風大因業不可得意なり、頂上 に字を置く青色団形なり、 これ空大等空不可得の理なり、いますでに五大所成の身となりてよく 過を離る、即ち順逆にこれを観ぜよ、我れ即地大本不生なり、我れ即木大離言説なり、我れ即火 大清浄無垢染なり、我れ即風大因業不可得なり、我れ即空大等空不可得なり つづいてこの逆観 おわってついに字本不生の理に住して、言慮絶するを無分別と名づく。 この親に住し、

 

○次 五相成身観

 

観察

真言にいわく、

三摩地

頭 総理。行者、金剛店に入らんとおもわ

先ず観察智に住して、まさに結支節を動揺せずしてまさに印を結ぶべ 趺座すべし。し。羽金剛して、仰げて臍の下におき、身を正しくして動揺することなかれ。

舌を上にえて、息を止めて微細ならしむ。 この定に住して即ち如来の不動智を得。真言にいわく、庵、三摩地、頭迷哩。誰かに観ぜよ、諸法の性はみな自心に由る、随煩悩、臨界 諸入等はみな幻と焰との加し、乾婆城のごとし、また火のごとし、また空谷郷のごとし、是 の如く誰かに観じおわって身心を見ずして、 寂滅平等究真実の智にして、即ち観ぜよ。 「空中 において諸仏胡麻のごとくして虚空界に満したまえり、身に十地を試し如実際にせりと想え 空中のもろもろの如来、 男子汝の所の処は是れ一道清浄なれども、 指し驚覚して告げて言う。 金剛三昧および若智尚し未だ証知すること能わず、此を以て足んぬとる事切れ、広さに普満足してさに最正覚を成ずべし」

 

○次 通菩提心

行者覚を聞いて定中に諸仏を礼し奉る。(ゆえに)礼の真言をす ただ願くば、諸の如来われに所行の処を示したまえ、諸仏同音に言わく、「汝まさに自心を観ずべ 教のごとく自心を観ずれども自心の相を見ず、また普礼の真言をして仏に白して言さく、

のたま

「われ自心を見ずこの心をば何の相とかさん」、諸仏成く告げて言わく「心相は

おそ

あんしつ はちべいとうまゆう

し難し、心

月輪の霧の中に在るが如し」 真言にいわく、阿賀、質多鉢羅吠登迦哈弾。 次菩提心「識は本来にあらず、清浄にして、 なし、福智を具するに由るが故に自 心満月の如しなんじ浄月輪を観じて菩提心をすることを得。真言にいわく、地質多、 甲成金心想え「諸仏また告げて言わく、菩提を堅固ならしめんがために、また心真授く、金剛蓮華を観ぜよ。即ち心月輪の上に八葉の蓮華ありと観ぜよ」

真言にいわく、蛇、日置

次 広金剛想え「心月輪の上の八葉の蓮華、くび漸く大にして、三千界乃至法界に 満して、一切有情をし利益すと想え」

 

真言にいわく 〇次 金剛

「この心蓮華小にして、還って収まること故の如し」

真言にいわく、 次

僧賀神羅。心 応当に知るべし。自身は金剛界なり。 想え 「法界の諸仏自身の蓮華に

入り給うこと、鏡の万像を現するが如し」

真言にいわく、博日羅鉢

諸仏また告げて言わく、「身を観じて本尊と為せ」、この真言を授けていわく、

仏身円

野他薩縛他多

薩他含。

次 諸仏加

え。「われ既に本尊の身となる。故に、諸の如来加持して、金剛界の諸尊み

なわれ続し給う」

もしまた

真言にいわく、

縛怛他多、三冒地理茶縛日羅陀。

以上であなたは即身成仏したのである。

仏眼〉

え?さっぱり仏になったような気がしない?

困るなあ、そんなことでは、尤も、大分むずかしい文句がならんでいるからな。 よく呑みこ めないのも無理はない。 それでは少し解説してみよう。

この印明をむすぶがゆえに、自他一切の障害を排除して法が成就するという。

印は、ふつうに合掌して、両手の人さし指(これを頭という)をそれぞれ中指の上部の節の背に つけ、両方の親指(大指という)と両方の小指はそれぞれ先端をつけ合って、中間の部分をひらく のである。そうすると、おのおのの指のすき間が五か所できる。 これがすなわち五つの眼である。 五つの眼とは、仏眼法眼 恵 天眼、肉眼である。この五眼を印に配置すると、二小指の間は 仏眼 左頭指と中指との間は法眼、右頭指と中指との間は恵、二中指の間は天眼、二大指の間は 肉眼 これを、「印の五眼」という。五眼にはもう一つ、「面の五眼」というのがあり、 それは、右

こたち

目肉眼、左目天眼、右肩恵 左眉法 眉間仏眼に配置する。 これは、それぞれ、 大円鏡智、平 等性智、観察智、 成所作智、 法界体性の五智に配される。 この五眼五智の印をむすんでわが眼 にあてて真言五反となえ、つぎに二反となえて右に三反転じまわすこと)面上を加持する。 はじ 五眼加持五反はこれによって金剛界五智のをひらき、つぎに真言三反となえて面を三転する のは胎蔵界三部の仏の眼をひらく心である。すなわち、これであなたは仏の五智の眼をひらき、い よいよこれから即身成仏を獲得する法の所作に入るというわけである。

我我入観〉

これは、文字の通り、対象とするものが自分の中に入り、自分もまた対象の中に入るということ であるが、「入る」ということは、「合体一致」するということである。したがって、これが完全に なされたら、当然、対象そのものになってしまうことになる。私は、この入我我こそが密教の真 髄であり密教を成り立たせる根本原理であると思っている。即身成仏とはその入我我入の対象を 「仏」に置いたわけで、この技法を体得したら、 対象次第でなんにでも変身できるわけである。私 がさきに「変身の原理」という題名で密教の本を書いたのはここに由来するわけで、ここでは対象 「大日如来」とするが、 入我我入は大日如来だけとはかぎらないのだ。 密教では法の種類によ って、どんな仏にでも変身するのである。ここに、不動明王の入我我入について、故長岡慶信大僧 正が非常にわかりやすく書かれた文章があるから、それを御紹介しよう。

「十八道立の供養法でも、金剛界や胎蔵界の大法立の供養法でも、先ず、道場観”といって、

我々の眼前に本尊の浄土を思い浮かべ、そして、そこへ浄土におられる本尊を迎えて、これを合致 せめ、これに供養してから、入我我入観”という、本尊と自分と無二一体であるという観想を こらすのだ。 いま、不動明王を本尊とした道場観を書いてみる。

しっしっ

もろもろ ようちばんかい

心(むね)の前に字あり。 変じて七宝の宮殿楼閣となる。垂れ、宝柱行列せり。 (以上浄土の宮殿) 壇の上に字あり、変じて、瑟々の不動のおられる台) となる。座の上に 字(不動の種字)あり、変じて智剣(不動の三摩郡形)と成る。 剣変じて不動明王となる。 (以下不動明王のすがた) 身色青黒にして、童子肥満の形なり、頂に七結の髪 (七つむすんで垂れた 髪の毛)あり、七覚分(仏になるべき覚えの七つの方法)をあらわし、左に一つの髪を垂れたり。 一 子(仏の一人子として)の慈悲を賑わす。 右の手に剣をとり三毒の惑障(痴の迷いを断ず。 左の 手に とり、調の者(仏教に従わぬ者)を繋縛す。身(からだじゅう)に楼羅炎(か ふらという能を食うという鳥の形の炎)を現じ、煩悩の悪 宝山に を龍にたとえる)を食す。 座し給う。 浄菩提心の動きことをあらわす。(以上が不動の身体観、以下はその眷属を明らかにす

左右に二の童子あり、右をば迦と名づけ、

小心の者なり。左をば多と名づけ、共語 悪性のものなり、 乃至四大明王、十二大天無量の眷属前にせり。

以上で不動明王を眼前に想い浮かぶべきであるが、われわれにはなかなか難しいことなので、不 動明王の尊形、あるいは画像などを前に置き、この観法の助けとするのである。

さて、この観想の上に立って、その本尊と無二一体であると観念をこらすのが入我我入観である。

最初、不動の印をむすび、不動の真言を萌え、不動の心を心とし、 我が三葉が、 仏の三密と一致す

<字輪観〉

本尊加持の作法を修し、不動と自己と無二一体であって、本尊我れに入り、我れ本尊に入る、一 切衆生もまた本尊に入る、本尊と我れと一切衆生と無二であるとの観想をこらすことが、入我我入 観、即ち身密の一致を示したものである」

以上で、入我我入観がどういうものか、大体その意味するところがおわかりであろう。右の文章 の中で「我が三葉と仏の三密」という言葉が出てきたが、この意味は、この章の冒頭で、私は、 三密加持とは仏の心のはたらきと、あなたの心のはたらきをひとつにし、仏のことばのはたらき と、あなたのことばのはたらきをひとつにし、仏のからだのはたらきと、あなたのからだのはたら きをひとつにする、以上である。といった。仏の心のはたらきを「意密」(または心)といい、 仏のことばのはたらきを 」(または口)といい、仏のからだのはたらきを「身」というの

である。そうして、以上の三つを「三密」という。 これにたいしわれわれ凡夫のそれを「三葉」と いう。 とは、はたらきという意味であり、われわれ凡夫の心、ことば、身体のはたらきは、凡夫 同士、人間同士、わからないということはないが、仏の身、語、 意のはたらきは凡夫には到底理解 しがたい深遠なものがある。ゆえにこれを「密」といい、三密というわけである。 三加持とは、 凡夫の三業を仏の三密と合致させるという意味であり、入我我入はそのもっとも中心とするところ 手法であるということなのだ。

久我我入観は、三密加持のうちの身の成就である。ここでまちがってはならぬのは、入我 我入と入我我入観とはちがうということである。入我我入は三密成就して即身成仏を完成した状態 であるが、入我我入観は身だけの一密成就法である。 そこで、まだ “と”意密”の 二つが成就する法を修さなければならない。字輪観は、そのうちの “” 成就法である。つま 仏の心のはたらきを観ずるわけであるから、その意味深であり、説明することも容易ではな く理解することもまたきわめてむずかしい。 当然のことであろう。 この字輪観の説明だけで、一 冊、あるいは数冊の書物ができるほどのものであるから、くわしい説明はまた別の機会にゆずり、 ここではその大意を述べておこう。

真言密教では、本尊の種字の字義を観ずるのは浅略であるといい、その真言を観ずるのは深秘で あるとし、その梵号の一々の字を観ずるのを最深秘とし、秘中の秘であるとする。 では、その梵号 一々の字を観ずるとはどういうことかというと、ふつうには、ア、バラ、カ、キャの五字を観 ずることになっている。それはなぜかというと、この五字は即ち「五大」の種字だからである。 五 大とは、地・水・火・風・空の五大要素で、森羅万象、 宇宙のあらゆるものはこの五大要素から成 り立つ。したがって、われわれの肉身はこの五大から成り立ち、仏の肉体もまたこの五大によって 成る。ゆえにこの五大において我れと仏とは無二一体であるわけだ(これで身密も成り立つ)。また、 この五大に五智がふくまれている。このア・バラ・カ・キャの五字は、同時に五智の種字真言で もあるから、五智獲得に通じ、これを観ずることはすなわち“意密”の行になるとするのである。

 

 

<正念誦>

るのである。

前のお次第のほうでは略しておいたが、じつは、字輪観の前に修する法として、この正念誦があ

我我入観によって身が完成された。つぎに語密が完成されねばならぬ。 これは正念誦によっ 果たされるとされる。

その作法を述べてみよう。

それは、加持念珠と正念誦の二つにわけられる。

ねんじふ

先ず、左手で左の机の上の念珠をとって、右の手にうつし、左の頭指以下の四指に巻いて三匝 にする。 それを右の掌にのせて、焼香に三度薫じて左右の手に三度移しかえ、右の掌を上にして左

おんべいろ しきのうまみそわA

右を重ねた上にのせ、覧娑婆訶と三反となえて加持し、今度はそれを左右の掌を合せた中に入れ 念珠を浄める浄珠の明、味噌遮那摩娑賀を三反誦する。 それから念珠を高く頭にあげた

五大願念ずる。

五大願とは、

衆生無辺誓願

福智無辺警集

そのために世のあらゆる福と智恵とを集めようという誓。

すべての人を済度しようという誓。

法門無辺学仏のあらゆる教えを学びとろうという誓。

如来無辺誓願事ありとあらゆる仏菩薩の仕事の手伝いをするという。

無上証無菩提を必ず証するという誓。

あんずんぐ

この五大をとなえ、いま修行している自分の願いをはっきり述べる。 以上が加持念珠である。 つぎの念は、二つの所作から成る。最初が引越念 あとが次第念である。 引越念 とは、転の真言日野をとなえつつ、左の拳(蔵の中を通して、右の大頭中の 三指で、母珠を持って引き上げる。つぎに、波三摩曳ととなえながら右の胎の中を通して、 左の大頭中の三指で留をもって引き下げる。これを三度くりかえすのである。この意味は、 秘密の念の境地において煩悩をうちくだくということをあらわす。

いろん

つぎに次第念は、右の頭大二指で母珠をとり、左の頭大の二指で三寸ほどはなれた念珠の 外の珠をとり、左右とも他の三指をのべ開き光明のごとくして本尊の真言をとなえつつ数をとりな がら百八反う。 踊えおわったら、ふたたび念珠を三にして中に納めて、修習念珠法以此 福田一切諸有情、成尊(本尊名)をとなえて左の手で左の机にかえして置く。この念珠のとき の観想は、

しんがもりん

「わが誦する真言の字は本尊の輪(おへその穴)より入りて、本尊の心月輪に至り、右にめぐ りてつらなり住し、本尊の通する真言の字はわが頂より入りて心月輪に至り右にめぐりてつらなり 「す」

この行は、真言をすることが中心であるから、いうまでもなく語密である。しかし、よく観察 すると、本尊の口から出るのは語であり、行者の頂より入るは身密で、わが心月輪に至りつらな

解説しよう。

先ず結りするのは意密であると同時に、わが誦する真言の字は語

で本尊の輪より入るは身で、心 月輪にするは意密であるということになる。つまり、臍 心月輪に至るという 頂より入って、 ことは、わが身と本尊の一致、すなわち入我我入で、調する音声、 これは本尊の真言のとなる声 との一致、すなわち語の一致で、 心月輪に真言の字が布列して、たがいに流れ合う、これは意密 の一致にほかならない。 そこで、真言宗のある派では、この一行に三密のすべてをふくむとして非 常に重くみるのである。この正念の行ひとつで即身成仏が成就するとまでいう派がある。

<五相成身観即身成仏・五つの過程─>

五相成身観は、凡夫が仏になるまでの過程を五種類に分類したものである。

密教の即身成仏の技法は、さきに述べた通り、三密加が中心であるが、その三行の中で最も 中心となるものは、いうまでもなく、意の行である。この意密の行(観法または観想)にはいく つかあるが、その最も主なものは、この五相成身観と阿字観(本不生観ともいう)である。このうち 阿字観は「大日経系統」すなわち「胎蔵法」に属する法で、五相成身観は「金剛頂系統」すなわち 「金剛界」に属する観法である。

五相成身とは、弘法大師空海の 『菩提心論』によると、

「一にはこれ通達心、二にはこれ菩提心、三にはこれ金剛心、四にはこれ金剛身、五にはこれ無 菩提をして金剛堅固の身を得るなり」とある。

これは、しずかな呼吸とともに、一から七までをかぞえ、も して、数息観に入る。 どって七から一までをかぞえる。無識身三摩地といって、心を空虚に、なにごとも心にとめない、 無心、無我の心を得るためである。 無識身三摩地に入ったら、つづいて「空観」に入る。観想中の 空想上の城 火輪は、棒に火をつけてくるくるまわすと火の輪のように見える。しか その火の輪は実在しない。 だからともに架空の存在で、われわれが実在と見ているものすべてそ のように架空の存在に過ぎないと観ずる。 すなわち「空」の定に入るわけである。この空の定に入 ることにより、智を表示する蓮華部の仏の加持を得て、その加持力により、つぎの通菩提心の三 味に入ることができるのである。

<通達菩提心〉

これは、われわれはすべて生まれながらに、即身成仏するところの根本心である浄菩提心を持っ ているということを如実に知る修行で、霧の中にある月輪のごとしと観ずるのである。

すなわち、数息観から空定に入って清められた心は諸仏に通じ、その加持によって清浄無垢なる 満月のようになった。しかしまだそのさとりは十分でなく、すみきった満月に軽い霧がかかったよ うな状態である。この軽い霧をはらい、真如の、すみきった月輪にしなければならない。 そこでさ らに真言をとなえ、仏の三摩耶形(象徴する物という意味で、仏 す がその本を表示する所持物 なわち、弓・・・・印など)を、わが満月輪の心の上に観じて、われと仏と同一の親をするの である。

 

 

<修菩提心〉

前の通菩提心によって、わが心は金剛界大日の加持を得、心の中に一点のくもりもない真月輪 得得たのである。ゆえに、わが心は妄想からはなれて、根本であるアーラヤ識を転じ てすべてのものの実相を鏡のごとく写しとる大円鏡智となると観ずるのである。 大円鏡智浄菩提 心を如実にわがものとする行である。

<成金剛心〉

大円鏡智は即浄菩提心であり、菩提心の銀行によって獲得したこの大円鏡の浄菩提心を、よ りいっそう深め、具体的に本尊の三摩耶行と同一不二のものとする観法である。すなわち、わが浄 心の満月輪の中に、 八葉の蓮華を観じ、それに五仏五智の三形を映するのである。 先ず、 満月輪の上に蓮華があり、その上に金剛界五仏の三摩耶 中央に大日の塔前に阿の五股、 右に宝生の宝珠、後に弥陀の蓮華、左に不空成就の羯摩を置いて、わが心に五仏の五智を表示する のである。

<広金剛〉

つづいて、この親想はつぎの広金剛観、金剛観の二つの観法に入る。

この広金剛とつぎの金剛は、前の観想をそのまま拡大し、あるいは飲めて、自分と法界(宇宙)

との無二一体観を確立するのである。すなわち、わが満月輪の八葉の上に映じ出した金剛界五 仏五智の三摩形をしだいに拡大伸長し、ついに宇宙大にまで至るのである。つまり、宇宙法界を わが心月輪の中の三摩耶形に統合入し、われ即宇宙なりの観に入るである。

<飲金剛〉

心月輪と五仏五智の

形が拡大されて宇宙とひとしくなったのを、今度はしだいに飲め

めて、わが心月輪の上に置くのである。これにより、修行者は、宇宙すなわち大千世界をわが心 の中に飲めるのである。

<証金剛身〉

自分の心が宇宙の一切をおさめ、仏の三摩耶形と同一不二であるということは、わが肉身がその まま本尊の三形と同体であるということである。ここで、この観を確立し、完全に把握する。 <仏身円満〉

前の親において本尊の三形が自身であるとの観を成就したとき、それは即ち修行者自身、相 好具足した本尊の身(活動するためにあらわれた仏身そのものにほかならない。ここにおいて、

わが肉身がそのまま大日如来のあらわれであることが証得され、仏身円満、即身成仏が完成するの である。

じめいくつかの菩薩行を行ぜよと説き、『観無量寿経』をひもといて十六観法 その他の浄行に はげむべしといっても、それは全く縁なき衆生というべきだろう。

つまり、平安密教、平安仏教はプロの宗教だったのである。それは、幼少の頃からその道に入っ 基本を学び、練磨してはじめてその技芸知識を身につけることができる高度の職業だったのであ る。それは宗教ではあったが信仰ではなかった。 それを信仰とするためには、極度に平俗化しなけ ればならなかった。しかし、それは、平安末期から鎌倉初頭という時代に生まれた法然、親鸞、日 であるがゆえにゆるされたことであろう。

たとえば、専心念仏によって成仏を説く法然、親鸞の宗が依経とする『観無量寿経』を見てみよ そこでは、阿弥陀仏の浄土に生まれるための十六の観法が詳細に説かれている。 決して唱名念 仏だけで成仏するとは書いてないのである。

1日没を観て西方極楽を想う日想観

水と氷の美しさを観じて極楽の大地を想う水想観

6想観を完成して極楽の大地を思想観

極楽の宝樹を想う樹想観 (宝樹観)

6極楽の池を想う八功徳水想観

6極楽の宝を想う想

阿弥陀仏

の台座を想う華座想観

仏像をみて阿弥陀仏のすがたを想像想観

阿弥陀仏の真のすがたを想うことによって一切諸仏のすがたを見ることができる一切色 身想観(真身観)

阿弥陀仏の脇侍である観音を想う観音観

おなじく勢至を想う勢至観

一切の浄土の仏・菩薩などを想う観想観

回以上~隣の観想のできないものが、大身・小身の阿弥陀仏などを観ずる雑想観

そして最後にそれぞれの能力・素質に応じた修行によって極楽に生まれるさまを想うの上輩観、 隣の中

の下輩観である。

以上の十六観法は、極楽浄土に往生成仏するための修行法を説くものとして、『観無量寿経』の 中でも最も重要なものである。この修行法を法然、親鸞は切り捨てて、唱名念仏一本にしぼったの である。

では、その切り捨てられた十六親法の行とはどのようなものか、ひとつ見てみよう。たとえば、 第八の像想観 第九の真身観はつぎのようなものである。

「……仏 阿難および提希に告げたわく、ここの事を見おわりなば、つぎにまさに仏を想う べし。ゆえはいかに。 諸仏如来はれ法界身なり。一切衆生の心想の中に入り給う。この故に汝ら

心に仏を想うとき、 是の心すなわち是三十二相八十随形好なり。是のこころ仏を作る。 是のここ ろれ仏なり。諸仏正編知海は心想より生ず。 是のゆえにまさに一心にいけて、らかに彼

仏の多陀伽度阿羅

三藐三仏陀を観ずべく、彼の仏を想わむ者は先ず当さに像を想うべし。

を閉じ目を開くにも一つの宝像の浮檀の色のごとくにして、彼の華の上に座し給えるを見よ。 像の座したまえるを見おわりなば、心眼ひらくことを得て、了了分明に極楽国の七宝の荘厳宝地

行列、天の宝その上に弥し、宝の羅、虚空の中に満つるを見る。 かくのごと

き事を見極めて明了なること掌中を観るごとくならしめよ。 この事を見おわりなば、まさに 一つの大蓮華を作して、仏の左辺にくべし。 さきの蓮華のごとく等しくして異なることあること

なし。また一つの大蓮華を作して仏の右辺に在け。一の観世音菩薩の像の左の華座に座るを想え、 また光を放つこと前のごとくにして異なることなし。一の大勢至菩薩の像の右の華座に座せるを 想え、この相成するとき、仏菩薩の像みな光明を放つ。その光り金色にしてもろもろの宝樹を照ら す。 一一の樹下にまた三蓮華あり、もろもろの蓮華の上におのおの一仏二菩薩の像ありて、彼の国 に編満す。 この想成するとき、行者まさに水流光明およびもろもろの宝樹、鴛鴦みな妙法を説 くを聞くべし。 出定入定につねに妙法を聞かむ。 行者の所聞出定のとき持して捨てず、 多羅と 合せしめよ。もし合せざらむをば名づけて妄想とす。 もし合することあらむをば名づけて、想を 極楽世界を見るとす。 これを像想とし、第八の親と名づく。この観を作さむ者は無量劫の生 死の罪を除き、現身の中において念仏三昧を得む」

…..無量寿仏に八万四千の相あり。 一一の相におのおの八万四千の形あり、一一の好にま 八万四千の光明あり、一一の光明あまねく十方世界を照らして2念仏の衆生を摂取して捨てた

わず。 その光明相好および化仏つぶさに説くべからず。ただまさに憶想して心眼をして見せしむべ この事を見る者は、即ち十方一切の諸仏を見たてまつる。 諸仏を見たてまつるを以てのゆえに、 6念仏三昧と名づく。この観を作すをば、一切の仏身を観ずと名づく。 仏身を観るを以てのゆえに また仏心を見る。仏心とはこれ大慈悲なり。無縁のを以てもろもろの衆生を摂しまう。 この観 作者は、身を世に捨てて諸仏の前に生じて無生忍を得む。是故に智者まさに心に繋けて かに無量寿仏を観ずべし。 無量寿仏を観む者は一の相好より入れ。ただ眉間の白を観じて極

めて明了ならしめよ。 眉間の白を見たてまつる者には八万四千の相好自然にまさに現ずべし。無 量寿仏を見たてまつる者は即ち十方無量の諸仏を見たてまつる。無量の諸仏を見ることを得るがゆ 諸仏現前に授記したまう。是れをねく一切の色身を観ずる想とし、第九の観と名づく。こ 観を作をば名づけて正観とし、もし他観せむをば名づけて邪観とす」

これは十六親法中のごく一部にすぎないけれども、これだけの中にいくつかの興味あるものが見 いだされる。

たとえば文中の「正編知海は心想より生ず、このゆえにまさに一心に思いを繋けて、誰かに彼 仏陀伽度 詞三三仏陀を観ずべし」というところである。正論知とは等正覚といってあ まねく一切法を知る仏の智慧をさす。 多陀御度阿羅三三仏陀は、 Tathāgata-arhan-samyak. sambuddha で、如来広供等正覚の意、すなわち仏の絶対の智を示すもので、このところは、真言密 教の観法の、五仏五智(の三摩耶形)をわが心月輪の上におけ、というのと同じ構想の上に立つもの

 

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