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逆流の光』

『逆流の光』

 

山は静まり返っていた。
夜明け前の空は群青色に沈み、
青年は岩の上に座していた。
「心を変えるのではない。脳を変えるのだ。」
グルの声が、記憶の奥でよみがえる。
彼は長く、「悔い改めよ」「悟れ」と言われ続けてきた。
だが、何度誓っても、心は元に戻った。
怒り。
欲望。
恐れ。
自己防衛。
まるで脳の奥に、別の支配者がいるかのようだった。
「それが“脳ホラーキー”の崩れだ。」
グルは言った。
大脳辺縁系。
新皮質。
この二つが暴走し、
世界を歪めている。
霊的世界を否定し、
現象だけを真実と誤認する。
それが――
“厭情世界”
実相を逆さに見てしまう錯覚の世界。
「閉じよ。」
グルは彼の額に触れた。
その瞬間、
思考が凍りついた。
言葉が止まり、
感情が静まり、
時間の流れが鈍くなる。
新皮質が沈黙する。
辺縁系のざわめきが消える。
そして――

脳の奥底、
間脳の中心に、
微かな光が灯った。
それは説明できない感覚だった。
祈りでもない。
信仰でもない。
ただ、知っているという感覚。
生と死は連続している。
因縁は流れにすぎない。
自我は波の泡のようなものだ。
理解ではない。
体験。
そのとき、青年の周囲に
淡い霊光が生じた。
それは乳白色の光。
柔らかく、しかし確かな輝き。
グルは静かにうなずいた。

「預流。」
生死の流れに逆らう者。
須陀洹。
しかし、それは始まりにすぎなかった。
青年の胸の奥から、
影が浮かび上がる。
怒りに満ちた祖父の顔。
絶望して死んだ遠縁の女。
繰り返される家系の破滅。
それらは単なる心理ではなかった。
“運命の反覆”。
無意識の選択。
まるで見えない糸に操られるように、
同じ悲劇を繰り返す血の記憶。
グルは言った。
「それは家族的無意識ではない。
霊的因縁だ。」
青年の身体が震える。
背後に、重たい気配が立つ。
未成仏の念。
嫉妬。
執着。
悔恨。
「自分では切れぬ。」
グルは真言を唱えた。
オン――
空気が震え、
青年の背後の影が崩れ落ちる。
悲鳴のようなものが、
光に溶けた。
霊光が強くなる。
白から、淡い金色へ。
彼は知った。
悔い改めは不要だ。
悟ろうとする努力も不要だ。
ただ、正しい脳が働けばよい。
間脳が開けばよい。
霊的回路が通ればよい。
そのとき経典は不要になる。
聖書も、経も、教義も。
なぜなら、
それらが語っていた世界が
そのまま自分の現実になるからだ。
さらに修行は進む。
光は黄色を帯びる。
やがて橙へ。
ジェットの炎のような、
推進力を持つオーラ。

阿那含。
三次元を飛び越え、
霊界と自由に交信する者。
そして、はるか彼方。
言葉の届かぬ領域。
アルハット。
そこに立つ者の光は、
色ではない。
それは、
すべての色を含んだ透明。
境界のない光。
青年はまだその入口にすぎない。
だが確かに、
流れは逆転した。
因縁の川をさかのぼる。
運命の反覆を断ち切る。
脳ホラーキーは静まり、
バランスを取り戻す。
その静寂の中で、
彼は初めて気づいた。
悟りとは到達ではない。
本来の機構が、
正常に作動すること。
そのとき――
夜が明けた。
山頂を照らす光は、
外から差したのか、
内から発したのか、
もはや区別がつかなかった。
ゆふ

『逆流の光』

『逆流の光』

 

山は静まり返っていた。
夜明け前の空は群青色に沈み、
青年は岩の上に座していた。
「心を変えるのではない。脳を変えるのだ。」
グルの声が、記憶の奥でよみがえる。
彼は長く、「悔い改めよ」「悟れ」と言われ続けてきた。
だが、何度誓っても、心は元に戻った。
怒り。
欲望。
恐れ。
自己防衛。
まるで脳の奥に、別の支配者がいるかのようだった。
「それが“脳ホラーキー”の崩れだ。」
グルは言った。
大脳辺縁系。
新皮質。
この二つが暴走し、
世界を歪めている。
霊的世界を否定し、
現象だけを真実と誤認する。
それが――
“厭情世界”
実相を逆さに見てしまう錯覚の世界。
「閉じよ。」
グルは彼の額に触れた。
その瞬間、
思考が凍りついた。
言葉が止まり、
感情が静まり、
時間の流れが鈍くなる。
新皮質が沈黙する。
辺縁系のざわめきが消える。
そして――

脳の奥底、
間脳の中心に、
微かな光が灯った。
それは説明できない感覚だった。
祈りでもない。
信仰でもない。
ただ、知っているという感覚。
生と死は連続している。
因縁は流れにすぎない。
自我は波の泡のようなものだ。
理解ではない。
体験。
そのとき、青年の周囲に
淡い霊光が生じた。
それは乳白色の光。
柔らかく、しかし確かな輝き。
グルは静かにうなずいた。

「預流。」
生死の流れに逆らう者。
須陀洹。
しかし、それは始まりにすぎなかった。
青年の胸の奥から、
影が浮かび上がる。
怒りに満ちた祖父の顔。
絶望して死んだ遠縁の女。
繰り返される家系の破滅。
それらは単なる心理ではなかった。
“運命の反覆”。
無意識の選択。
まるで見えない糸に操られるように、
同じ悲劇を繰り返す血の記憶。
グルは言った。
「それは家族的無意識ではない。
霊的因縁だ。」
青年の身体が震える。
背後に、重たい気配が立つ。
未成仏の念。
嫉妬。
執着。
悔恨。
「自分では切れぬ。」
グルは真言を唱えた。
オン――
空気が震え、
青年の背後の影が崩れ落ちる。
悲鳴のようなものが、
光に溶けた。
霊光が強くなる。
白から、淡い金色へ。
彼は知った。
悔い改めは不要だ。
悟ろうとする努力も不要だ。
ただ、正しい脳が働けばよい。
間脳が開けばよい。
霊的回路が通ればよい。
そのとき経典は不要になる。
聖書も、経も、教義も。
なぜなら、
それらが語っていた世界が
そのまま自分の現実になるからだ。
さらに修行は進む。
光は黄色を帯びる。
やがて橙へ。
ジェットの炎のような、
推進力を持つオーラ。

阿那含。
三次元を飛び越え、
霊界と自由に交信する者。
そして、はるか彼方。
言葉の届かぬ領域。
アルハット。
そこに立つ者の光は、
色ではない。
それは、
すべての色を含んだ透明。
境界のない光。
青年はまだその入口にすぎない。
だが確かに、
流れは逆転した。
因縁の川をさかのぼる。
運命の反覆を断ち切る。
脳ホラーキーは静まり、
バランスを取り戻す。
その静寂の中で、
彼は初めて気づいた。
悟りとは到達ではない。
本来の機構が、
正常に作動すること。
そのとき――
夜が明けた。
山頂を照らす光は、
外から差したのか、
内から発したのか、
もはや区別がつかなかった。
もしよろしければ、次は:

三章 同開発――第三の目をひらく

それは、奇妙な言い方をすれば――
脳を殺す修行であった。
青年は、山中の庵で師の前に坐していた。
風が杉の葉を揺らし、遠くで沢の音がかすかに響いている。
「大脳辺縁系と新皮質脳を殺せ」
師は静かに言った。

その言葉は冷たく、鋭く、まるで刃のように胸に刺さった。
――殺す?
恐怖ではない。
だが、常識が揺らぐ。
「誤解するな」
師は続けた。
「殺すとは、否定することではない。
いったん閉ざすのだ。
沈黙させる。
そうしなければ、間脳は目覚めぬ」
間脳。
師はそれを「霊性の座」と呼んだ。
ほんとうの創造の源泉。
真のインスピレーションの泉。
新皮質は創造の座だと世間は言う。
だがそれは、まだ地上の創造にすぎない。
間脳が開いたとき――
はじめて、霊性を基盤とした創造が生まれる。

「第三の目は、そこにある」
青年は、静かに目を閉じた。
呼吸が落ちていく。
思考が、ゆるやかにほどけていく。
感情の波が、次第に鎮まっていく。
怒りも、欲も、記憶も、未来への計算も。
それらはすべて、大脳辺縁系と新皮質の働きである。

それを、いったん止める。
それは死に似ている。
だが、死ではない。
深い湖の底に沈むような、透明な静寂。
そのとき――
微かな光が、内側に灯った。
額の奥。
脳の奥深く。
思考では触れられぬ場所。
そこに、何かがある。

師は言った。
「これが、成仏法だ」
青年はその言葉を胸に刻んだ。
成仏とは、霊性の完成。
それを成就した者を、ブッダと呼ぶ。
その道は、七つの体系と三十七の修行から成る。

古来より伝わる法。
七科三十七道品。
四念処。
四正断。
四神足。
五根。
五力。
七覚支。
それは単なる教理ではない。
脳の再編成であり、魂の再誕である。
だが、道にはもう一つ、決定的な鍵がある。
――グル。
霊性を開顕した師。
青年は、初めて師と出会った日のことを思い出した。
あのとき。
師の眼が、まっすぐにこちらを見た。
その瞬間、世界が止まった。
思考の流れが断ち切られ、
心の奥底まで、光が射し込んだ。
まるで電流が体内を貫いたようだった。
それは恐怖ではない。
浄化であった。
雑念が焼かれ、
奥底に眠っていた憧れが目覚めた。
――霊性の洗礼。

「師なくして、霊性の完成はない」
青年はそれを、いま、骨身にしみて理解していた。
経典の解釈では足りない。
信心の形式でも足りない。
霊的パワーの感応。
感応道交。
師は水路である。
ブッダの霊性が流れこむ、唯一の道。
弟子は、ただ心を開く。
疑いなく。
混じりなく。
純一に。

山の空気が冷える。
青年は再び坐る。
呼吸を観る。
身体を観る。
心を観る。
法を観る。

四念処が始まる。
雑念が起これば断つ。
善を守り、善を育てる。
やがて欲が一点に集まり、
精進が火となり、
心が集中し、
観が鋭くなる。
五根が芽吹き、
五力が固まり、
七覚支が整う。

ある夜。
完全な静寂の中で、
突然、内側が開いた。
音はない。
光もない。
だが、確かに「開いた」。
それは爆発ではなく、
無音の黎明。
間脳が、目覚めた。

その瞬間、
新皮質は死んだのではなかった。
――甦った。
以前とは違う。
霊性を基盤とした、新しい知。
思考は透明になり、
言葉は澄み、
創造は深くなった。

師が言う。
「これが同開発だ」
殺すことは、生かすこと。
閉ざすことは、開くこと。
第三の目は、
外界を見るためではない。
内なる宇宙を見るために、ある。

青年は、静かに額に触れた。
そこには何もない。
だが、確かに開いている。
山の夜は深い。
しかし彼の内側には、
太陽のような光が、
静かに昇りはじめていた。

聖者への四つの階梯 ・きよめられた聖者

聖者への四つの階梯

・きよめられた聖者・須陀洹脳ホラーキーのバランスをとりもどす

る。 あやまりばんのうさきにのべた大脳辺縁系脳・新皮質脳を殺す修行とは、この二つの脳が生み出す(あるいはこの二つの脂がいだいている) 迷妄と妄想とそこから生ずる煩悩を抹殺する修行である。ひと口でいうと、こころのまよいとけがれを一掃する修行である。その修行が須陀画の階梯でおこなわれ

グルは、特殊な想と実践とをもって、修行者のまよいとけがれを取り去る。仏教でいう「厭情世界」(理解のしかたがさかさまであること。実相の世界とかけはなれた虚仮の世界を実相の世界と思いあやまり執着すること)は、大脳辺縁系脳・新皮質脳がおかすまちがいである。それは「豚ホターキー」のアンバランスが生み出す迷妄なのである。

さきにのべたように、人類はここ数千年間、新皮質脳による世界をつくりあげてきた。霊的世界を抹殺してしまい、霊的世界の存在を認識する問脳を閉鎖してしまった。現象世界と霊的世界

10

が共存している実相世界をただしく認識させるためには、新皮質脳(と大脳辺縁系脳)を一時間めして、霊的世界を認識できる間脳を動かす訓練をしなければならないのである。

いままでの宗教(仏教をふくめて)はすべて誤っていたのである。まちがいをおかしている心と、まちがいとおかしている心で変えさせようとしてきたのである。これは徒労であった。新皮胃腸を使って新皮質脳を変えさせようとしていたのである。一時は理解し、納得するかにみえる

が、すぐに元にもどってしまう。

「なんじ悔いあらためよ」といい、「悟れ」という。すべて心が対象である。

こころを変えるのではなく、脳を変えるのだ。まちがった脳を閉ざして、ただしい脳のはたらきをうながす。

それによって、「脳ホラーキー」はバランスをとりもどすのである。

そうすれば、「悔いあらためよ」も「悟れ」も必要ないのだ。間脳がひらき、霊的能力がはたらき出せば、そんなことはわかりきったあたりまえのことになってしまうのであり、聖書もお経もまったく不要になってしまう。なぜならば、聖書や経典の説く世界がそのままただちに自分の世界になってしまうのだから、いまさら読んだり理解しようとする必要など無くなってしまう。

大乗経典あたりが一生けんめいに説いていることなど、幼稚しごくなものになってしまうのであ

し、実践したのだ。 七科三十七道品の成仏のカリキュラムとは、そういう方法なのである。わたくしはそれを発見

なければならないのである。 つぎに、「きよめられた聖者」は、いまのべた的なものだけではなく、発的にもきよめられ

それはどういうことかというと、自分の持つ「霊的なけがれ」もとりのぞかなければならないということである。

霊的なけがれとは、自分にかかわりのある不成仏霊・霊障のホトケのことである。これをندر ごとくとりのぞかなければならない。

あくみるのである。 自分にかかわりのある不成仏霊・霊のホトケを持っていると、それらが持つ邪まな性格や想念の影響からのがれることができないのである。さらにおそろしいのは、それらの不幸な存在がたどった運命の、「運命の足度」をするおそれがつよいのである。「運命の反覆」とはカルツの反種にほかならない。これが最もおそろしいのである。これは修行者にかぎらず、ふつうの人の生活においても、赤惨な人生をおくった霊のホトケの人生を、そのまま反覆するケースを赤倉に

世界的な学者で、フロイト、ホンダのあとどうけてあらわれたあたらしい心理学、「 心理学家的心」(Schicksalsanalyse)の創始者リポット・アンディ博士は、「家

族的無意識」により、「個人のなかに抑圧されている祖先の欲求が子孫の恋愛、友情、職業、疾病、および死亡における無意識的選択行動となって、個人の運命を決定する」と説いた。これが 「運命の反覆」である。わたくしは、この「運命の反覆」が、霊的現象をともなって特に顕著にあらわれるのをつきとめている。

つまり、ソンデイ博士のいう「家族的無意識」とは、霊的にいうと、不成仏霊・霊障のホトケということになるとわたくしは確信するのである。くわしいことは、抱著『チャンネルをまわせ』『守護霊を持て』(以上、平河出版社)を読んでいただきたい。

この不成仏霊と霊障のホトケの排除は、修行者自身では不可能なので、このとき、霊力あるグルの助けが必要なのである。この霊的な「きよめ」がないと、修行者は一歩も進めない。この霊的な「きよめ」によって、聖者、須陀洹は誕生する。

霊光の発生

聖者須陀洹は、また、「預流」の聖者、「逆流」の聖者ともよばれる。

「預流」とは、あたらしく聖者の流れに入った(預)という意味であり、「逆流」とは、生態・ 因縁の流れに逆う聖者という意味で、つまり、凡夫であるかぎり生死・因縁の流れのままに生きてゆくよりほかなく、その流れに違うことはできない。須陀洹は、その流れに逆う、つまり、生

死・因縁の法則から超越する聖者である、という意味である。

ところで、わたくしは、須陀祖が「預流」とよばれ、「預流」とはあたらしく聖者の流れに入った者、という意味であると知ったものの、どうして須陀洹になると聖者とよばれるのか、その理由がわからなかった。まあ、そういうものなのだろうくらいにうけとっていたのである。ところが、霊眼を持つようになって、すぐにその理由がわかったのである。

それは、須陀祖の境界に入ると、特殊な霊光が生じるのである。あるいは、その特殊なオーラが生じたから、須陀洹になったということなのであろう。

ご承知の通り、人間のからだをとりまく特殊エネルギーの雲、つまり、『オーラ』の概念は、 何十世紀もむかしにさかのぼる。聖人をえがいた古い絵は、キリスト教徒が光輪を考え出すずっと以前から、聖人たちが光りかがやくものの中に立っているのを示している。東洋の仏像は二十世紀もむかしから、光輪・光背というかたちで表現している。神秘的な性質を持つこのもやは、 ロンドンの聖トーマス病院のウォルター・キルナーによって最初に研究された。かれは、一九一一年に、色ガラスのスクリーンを通して見ることによって、ほとんどの人のからだのまわりに約バインチのかがやいた球を見ることができた。かれは、このオーラはそれを身につけている人の心の安らぎに応じて、参や色を変えると主張した。かれは、それを医学的診断の補助として用いて、ぎわになった。

と所作は、この修行のことをさすのである。

斯形合のオーラは、須陀説よりやや光が強くなり、すこし黄色みを帯びる。

3 次元を飛躍した聖者,阿那含

異性間の体験をし、霊界と交流する力を持つようになった聖者である。

オーラは生き生きとしたオレンジ色である。ジェット機の吐き出す炎を想い起こさせる色とバ

ワーを持っている。

4 次元を超越した聖者・アルハット

ファグのことである。ファグでないわたくしには、ブッグのことについてあれこれ書く資格はない。霊界の最上界に位置する仏界の体現者であるとだけ言っておく。

ブッダのオーラは、左様、つぎのようなものである。

第三章 間脳開発――第三の目をひらく 230

大脳辺縁系・新皮質脳を殺す修行

大脳辺縁系・新皮質脳を殺す修行

それはひと口にいって、大脳辺縁系・新皮質脳を殺す修行である。

大脳辺縁系と新皮質脳を殺さなければ、間脳は作動せず、第三の目はひらかないのである。

ただし、誤解してはいけない。大脳辺縁系・新皮質脳を殺すということは、究極において、大

霊性完成の方法と体系

シャカが残した霊性完成の修行法がそれである。これを、わたくしは、「成仏法」とよんでいる。成仏とは霊性を完成したことをいい、それを成就したヒトを「ブッダ」とよぶ。だからわたくしはその方法を、「成仏法」とよぶのである。

それは七つのシステムと三十七種のカリキュラムから成る成仏のための方法と体系である。これを、阿含援では「七科三十七道品」あるいは「三十七菩提分法」とよぶのである。この二つの名称は、わたくしが勝手につけたのではない。古来からの仏教用語である。

わたくしが、阿含経以外のお経――法華経、アミグ経をはじめすべてのお経を、偽せものの経鳥であるといささかはげしい表現で批判するのは、阿含経以外のお経には、どの経典にも、この成仏法がないからである。シャカがじっさい説かれたのは阿含経だけであるという歴史的な事実のほかに、阿含経以外には、この「成仏法」がないから、わたくしはそう言うのである。「成仏法」のない経典など、わたくしは真実の仏教経典とみとめることはできないのである。もちろん、それなりの存在意義なり存在価値はあろうが、本流ではない。傍流というべきである。この

217

霊性完成の方法と体系

脳辺縁系、殊に新皮質脳を生かすということなのである。新皮質脳は「創造の座」であるといわ

れる。しかし、ほんとうの創造の座は間脳にあるのである。間脳はこれまでくりかえし説いてき

たように、霊性の場であり、「霊感の座なのである、ここが開発されることにより、ほんとうのインスピレーションが発生するのである。ただし、間脳を開発するためには、しばらくの間、 大脳辺縁系と新皮質脳を閉ざさなければならぬのである。間脳が開発されたとき、新皮質脳はあ

たらしくよみがえる。あたらしくよみがえった新皮質脳こそ、霊性を基盤とした超人的なインス

ビレーションと創造力を持つ頭脳となるのである。

ではそれはどんな修行か?

 

ことに関しては、わたくしの他の著書を読んでいただきたい。。

七科三十七道品とはつぎのようなものである。

四念処法—————身念処法

受念処法

心念処法

法念処法

四正断法——断断法

律儀断法

随護断法

修断法

四神足法——————欲神足法

勤神足法

心神足法

観神足法

五根

法——信根法

精進根法

念根法定根法

慧根法

五力法——信力法

精進力法

念力法

定力法

慧力法

七覺支法

——

択法覚支法

精進覚支法

喜覚支法

軽安覚支法

捨覚支法

定覚支法

支法

念覚

みな素質と因縁がちがうので、それをみて、グルがきめるのである。

この修行において、グルの果たす役目は大きい。グルについて、少しのべよう。

霊性の洗礼

まず、まちがいなく霊性を開顕したグルを見つけて、そのグルに受け入れてもらうことである。それができたら、この修行は八分通り成功したといっていいくらいである。それくらい重要なことであり、かつ、むずかしいということである。

グルなくして、ただしい霊性開顕の仏道修行は不可能である。ふつうの仏教信心とはちがうのである。信心のしかたや、信仰のしかた、経典の講義や解釈を教わるという程度のものならばとにかく、震性開期の仏道修行は、強力な霊的能力を持つ聖師のたすけなくしては、ぜったいといっていいほど、できないのである。

たとえば、インド近代の聖者ラーマナ・マハリシが、入門者にたいして、「凝視の方法」で受け入れの儀式を行なったとき、かれの両眼の輝きと力が相手の心をつらぬいて、その雑念の流れを断ち切ってしまったといわれる。時としては、まるで電流が身の内に流れこんだように相手は

感じたともいわれる。

れないものである。 こういう霊的体験によって、弟子はまず心をきよめられ、霊的なものにたいするあこがれ、霊的向上心をいだくようになるのである。霊性の洗礼である。その人の素質にもよるけれども、一度、霊的な洗礼を受けた者は、霊的感覚がひらかれ、霊的世界への憧憬が芽ばえる。いままでとちがう高い次元の存在が、感覚されるのである。霊性開顎への第一歩で、これが非常に大切なのである。わたくしなども、弟子にたいし、わたくし独自の受け入れの方法をおこなうが、ただ間題は、ほんとうに霊性開期したグルは非常に稀れだということである。にせもののグルや、未熟なグルにかかわり合うと、とりかえしのつかぬことになる。まず、まちがいなく霊性を開顕したグルを見つけること、つぎにそのグルに受け入れてもらうことだ。グルはなかなか弟子を受け入

さいわいに、受け入れてもらった弟子の心がまえについて、のべておこう。

ザルに受け入れてもらったら、弟子は、そのグルに心からしたがうことである。心から尊び歌

わなければならない。

ずんは弟子にとってブッダそのものなのである。グルは弟子にとって、過去に出現したブッダたちの変化身であり、未来のブッダたちが生まれでる母胎であり、いまここにブッダを体現している尊い存在なのである。

ブルは、弟子にとって、この世の中のいかなるものよりも尊い、かけがえのない存在であるといわねばならない。なぜならば、弟子は無限のむかしから輪廻の旅をつづけて、いまここに至っている。これからも苦しい輪遊の旅を無限につづけてゆかなければならない。過去、いままで (の水)にどれだけ多くのプッグたちが輪廻のくさりを断ち切ってニルヴァーナに至るよう呼びかけたことであろうか。しかし、低格と悪行にこころ曇らせていたために、弟子は、それらのブ 『グたちの目きにこたえることができなかった。それがいま、ここに、無量の慈悲心をもってニルヴァーナにみちびいてくれる師があらわれ、そのかたと縁がむすばれた。グルこそブァグそのものなのである。その深い畏敬と撮のこころをもってグルにしたがったとき、グルは全身全霊の力をもって、弟子をみちびいてくれるであろう。グルは、弟子とプッグとをむすぶかけがえのない水路であり、この水路を通じてブッグの霊性と霊的パワーが弟子の心に流れこんでくるのである。最終的な霊性の開期は、グルからの霊的パワーの感応なのである。感応道交といい、両がりよう

点晴ということばがあるが、すべての技法のさいごの仕上げは、グルからの霊的感応なのである。そしてそれは、師と弟子と、純一無雑に心が融け合わねばなし得ないものなのである。

三章 同開発――第三の目をひらく 222