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73 第二章 関の開発法

それは瞑想からはじまる

わたくしは、前章で紹介した「間脳思考」で、エレクトロニクスと霊性を結

ぶものはなにかと質問されて、それは瞑想からはじまると答えた。

そのあと、話がだいぶ進んでから、

「それでは、間脳の開発をするのも、瞑想ですか?」

と聞かれた。わたくしは、

「いいえ」

とかぶりをふった。

「瞑想じゃないのですか?」

「いいえ」

とわたくしは、これにもかぶりをふった。

彼は、けげんそうな表情でわたくしを見つめた。

そこでわたくしは答えた。

「それは瞑想からはじまるのです」

なるほど、というように彼はうなずいた。わたくしは説明した。

それは瞑想からはじまるのだが、瞑想だけではないのだ。重性の完成は、既

想だけでは不可能なのである。心の安定、欲望の調節、本能の抑制、といった程

度のものでは、とうてい到達できない境界である。思念、想念の変化くらいでは

、絶対に行き着くことのできない次元なのだ。

なぜか?

◎霊性完成の到達点は、カルマからの超越である。

カルマとはなにか? いうならば、地球における引力のようなものである。

地球上に存在するものすべて、地球引力の支配下にある。いかなるものも、引力から逃れることはできない。いや、地球という存在そのものが、引力によって成り立っているのである。人間におけるカルマもそのとおりである。人はす べて、輪廻のカルマの絶対的な規制を受けている。このカルマから、もろもろ の 「因縁」が生じて、人間を緊縛しているのである。いや、カルマと因縁によっ

て、人間が成立しているのだ。このカルマと因縁の繋縛から完全に解脱したときが、霊性の完成である。いうならば引力からの脱出である。反重力の修行なのだ。その修行によって自分の存在の次元が変わるのである。

存在とはなにか? それは究極のところ『波動”である。『自分”という波動 ・を変えてしまうのだ。それにより『カルマ”という波動を越えてしまうのである。

人間という存在の波動を変える原点は、間脳の視床下部にある。ここの波動を変えることにより、全身の波動が変わり、特殊な精神波動と肉体波動を持つ存在 「になる。それは、カルマの規制を受けない、ふつうの人間とはまた異なった、高 「度な霊的存在とよぶよりほかない存在となるのである。これが成就すると、特殊な「霊光」が発生するようになる。この特殊なオーラの発生は、全身の波動が変化したことを示すのである。オーラについてはまたあとでのべるが、このオーラの発光源は間脳なのである。瞑想だけでは、以上のような『次元の変化”は不可能である。もちろん、心の安定、集中、まったく新しい高い次元へのメディテイト等、瞑想はこの修行に絶対必要なものである。しかし、それはひとつの

手段にすぎない。瞑想は、大脳辺縁系と新皮質脳しか動かすことができない。

 

手段にすぎない。瞑想は、大脳辺縁系と新皮買脳しか動かすことができない。だから瞑想だけではだめなのである。間脳をはたらかす瞑想でなければ、オーラは発生しない。したがって、カルマを越えることはできないのである。

では、なにが必要なのか?

特殊なtapas (練行)である。

学者は tapas を苦行と訳しているが、わたくしはこれを、練行と訳したい。そしてこの練行が絶対に必要なのである。

思念による王者の相承

チベット密教のニンマ派では、古くから解脱の完成に三つの方法があると説いている。

じみようしゃ二、象徴による持明者の相承ギャルワゴンパーギューパ rgyal ba dgongs pa’i brgyud pa rig ‘dzin brda’i brgyud pa キューバ

三、耳を通した言葉による人の相承gang zag snyan gyi brgyud pa

いる。 である。 霊界の法の世界において、法の完成者タターガタ(如来)が常恒に法を説いて

一の「思念による王者の相承」とは、この法身タターガタが、言葉や象徴という総介なしに、直接相手の心に自分の心を伝達するものである。この場合、 心、というのは単なる思念の心ではなく、パワーを主としたものと思うべきである。これによって、相手はたちどころに仏陀として完成するのである。

これは最高であり、理想的なものであること、もちろんである。「王者の」、という所以である。

(この「余徴による持明者の相承」とはどういうものかというと、象徴とは、ある言葉、かたち、背、色などに複雑な思想の内容を圧縮して詰め込んだものをいい、また、持明者(rig’dzin)とは、純粋な心で実相をそのまま見ることがで

 

輪転生想法 76

 

 

一、思念による王者の相承

75

第二章 開の開発

 

輪転生類想法 74

 

 

 

73

第二章 関の開発法

 

想についての基礎知識

ブッダの瞑想体験が意味するもの

ブッダは瞑想になにを求めたか

なんのために瞑想をするのであろうか?

なにを得ようとして、なにを目的として、想をするのか?

想の一種である様では、「正面」あるいは「所得」であるという。つまり、 そこかめてしてもなにも得るものはないぞ、というのである。この言む文通りにかけとって、席をしてもなにも得るところはない、また、なにかを得ようとして座席をするのは、邪道であるというように説くひともいる。しかし、これはまちがいて、なにかを「母よう」という戦戦、こだわりを持っての座ば、「なにやればやるほど、そのこだわりにとらわれ拘束されて、そこか受、真に求めるところのものから遠のくばかりであるという

いましたであり、文字通りなにも得るものはないということではないのである

瞑想も、座禅も、やればやっただけの「所得」があり、「功徳」がある。故・山

本玄峰老師も、「一日座れば一日の仏、二日座れば二日の仏」といっておられる。

では――、どんな所得があり、どんな功徳があるというのか?

ここに、瞑想によってさとりを完成し、仏陀になられたゴータマ・ブッダ(釈 )の体験がある。これは、マッジマ・ニカーヤ(中阿含経)という原始経典において、ゴータマ自身によってかたられたものである。

た。 しようじんわたし(釈尊)は、つねに努力精進し、その想いは確立してすこしもみだれず、体は安楽で動揺せず、心は禅定に入って静かである。そのわたしがあるとき、瞑想に入ってしだいに禅定が深まってきた。第一禅定から第二、第三、第四禅定まで深まるにつれて、心に思い浮かぶなにものもなくなり、喜びや楽しみだけとなり、そして遂にはそれもなくなって、ただ清浄な想いだけとなっ

そのとき、わたしの心は、一点のけがれもなく、清く明るく、絶対不動であ

13想についての基礎知

った。そしてわたしの心の眼はおのずから前世の光景に向けられていった。それは一生だけではなく、二生、三生、十生、二十生、そして無限の生涯の、生きかわり死にかわりした光景が展開してきた。これが第一の智慧である。

それからわたしの心は、あらゆる衆生のすがたに向けられてきた。わたしは超人的な眼力でそのすがたを見た。そこには、買いもの、隠しいもの、美しいもの、僕いもの、幸福なもの、不幸なものの、それぞれの宿業渦巻いていた。 これが第二の智慧である。 しゅくろ

それからわたしは、苦・・・道の四諦(四つの真理)をありのままに知り、わたしの心は、あらゆる存在の相から、全く解放され、ふたたびそれに執着することはなくなった。これが第三の智慧である。(王城康四郎訳による)

ここには、瞑想の深まりとその効用が、じつにあざやかに、生き生きとかたられている。瞑想のすべてがここに表現されているといってよい。二十世紀という時空のへだたりを飛び越えて、読者よ、じつに、瞑想とはかくのごときものなのだ。こ

こには想のすべてがある。このゴータマの体験を、もう少し撮りさげてみよう。

联想体験には五つの段階がある

ここには、既想の深まりとその結果が、じつにあざやかにかたられている。それは五つの段階に分けられる。

第一の段階

わたくしは、

・つねに一つの目的にむかって精進をつづけることができ。

2、想が確立してみだれず、

3、からだは安楽で動揺しない。

4、心はいつも気に入って静かである。

第二の段階

第一禅定から第二、第三、第四禅定までしだいに深まっていって、

15想についての基礎知識

1、心に思い浮かぶなにものもなくなり、

2、喜びや楽しみだけとなり、

3、ついにはただ清浄な思いだけにみたされ、

4、一点のけがれもなく、清く明るく、絶対不動となった。

第三の段階

つづいて心の眼がひらかれ、

1、自分の前世における光景が展開しはじめる。

2、それは一生だけでなく、二生、三生、十生、二十生、とかぎりなくさかの

ぼり、無限の生涯の、生きかわり死にかわりした光景が展開する。

それは生命の根源への遡及であり、第一の智慧の獲得であった。

第四の段階

心の眼はさらに広く深くひろがり、ひとの持つ能力の限界を越えて、過去、現在、そして未来へと流れてゆくあらゆるひとびとのすがたが透視される。

それは、存在を規制する宿業の実体の把握であった。、

これが第二の智慧の獲得である。

第五の段階

つづいてわたくしは、

1、宿業から解脱する四つの真理を如実に知り、

2、あらゆる存在からの解脱と超越を完成した。

それは第三の智慧の獲得であり、「解脱の瞑想」であった。

凡人にも道はひらかれている

ができるのだ。 いかがであろうか? すばらしい体験だとあなたは思わないだろうか? これが瞑想の効用なのである。そうしてだれでも、瞑想をすればこういう効果を得ること

だが、そう言うと、あなたは言うかもしれない。釈迦のような大天才と、凡人であるわれわれと、どうしていっしょになるものか、釈迦がそういうすばらしい体験をしたからといって、それがそのままわれわれに通ずるとはかぎらないのだ。むし、

ろ、着のまねをするカラスで、結局、骨折り損のくたびれもうけということになるのではないか、と。

そうではないのである。

釈迦とおなじ瞑想をすることにより、われわれもまたかれと同じ結果に到達することが可能なのである。最初の道をきりひらくものは天才でなければならぬ。しかし、すでに天才のひらいた道は、だれでも歩むことができるのである。万有引力の発見は、ニュートンの天才を待たなければならなかったが、いまでは小学校の児童すら、万有引力は知っている。

もちろん、それは容易な道ではない。しかし、ゴータマ・ブッダは親切な道しるべをいくつも残しておいてくれた。それを真剣にたどることにより、かれの歩んだ道をあやまりなく歩むことは不可能ではない。かれが到達した最高の場所まで行くのは無理だとしても、そこまでのいくつかの段階を自分のものにすることはかならずできるのである。

そう! 最初のごく初歩の段階でもいいではないか。それでも、それはじつにす

「ばらしい世界なのである。それに、最初からそんなに多くのものを望むのは、欲ばりすぎるというものだ。さあ、瞑想の世界に一歩ふみこんでみよう。ブッダのあと

を、少しずつたどってみようではないか。

か? いったい、ゴータマ・ブッダは、なにを目的として瞑想をはじめたのであろう

かれはいったい、なんのために瞑想をはじめたのだ?

人間のからだは苦しみを盛る器である

きるであろう。 かれはいったいなんのために瞑想をはじめたのだ? という質問は、そのまま、 われわれはなんのために瞑想をはじめるのか?という質問に置きかえることがで

かれはいったいなんのために瞑想をはじめたのか?

ゴータマ・ブッダは、多くのひとの知る通り、「四苦八苦」の解決を目的として想をはじめたのである。

では、四苦八苦とはなにか?

「生・老・病・死」

これを四苦といい、これに、

とつく 「愛別離苦,怨憎会苦,求不得苦,玉盛苦」

の四苦をくわえて「八苦」という。

それは、

生きてゆく上に生ずるさまざまな苦しみ、

老いの苦しみ、

病気の苦しみ、

死の苦しみ、

そして、

愛するものと別れる苦しみ。

いのちまでもとちかい合った恋人どうし、あるいは、その愛がむくわれてめでたくむすばれた相愛の夫婦、また、親子、兄弟、心から歌愛する師友、知己、みな、

離れがたいあいだがらであるが、いつなんどき別離の悲哀に泣くことになるかもしれぬのである。いや、愛するものとは、あながち人間関係のみとはかぎらない。地位、権力、職業等、さまざまなものを、わたくしたちは愛している。そういうものと、いやでも別離しなければならない苦しみ、これが愛別離苦である。

心の中で、深く怨み憎んでいる者と、顔を合わせ、生活をともにしていかなければならない苦しみ、その最も深刻な苦しみは、本来いちばん愛し合い和合し合わなければならないはずの夫婦、親子、兄弟が、かたきどうしのように憎み合い、 怨み合いながら、おなじ屋根の下で暮らしていかなければならぬ苦しみであろう。 そうして、職場で上司や同僚と毎日、反目し合いながらはたらかなければならぬサラリーマンやOL嬢の苦しみも、これに準ずるものといえようか。

そういえば、いやでいやでたまらない学校へ毎日いって、きらいな勉強をしなければならない学生諸君の苦しみも、この怨憎会苦であろうし、ほかにやりたいことがありながら、生活のために、よぎなく好きでもない職場に就職するのも、この怨憎会苦の一つである。だが考えてみれば、なりゆきとはいえ、この人生におい

て、はからずも怨み合い憎み合う人間関係を持たねばならぬ辛さ、やりきれなさ、 これが最も大きな怨憎会苦というべきかもしれない。

金、地位、権力、愛情、才能、知識等、求めても求めても得られぬ苦しみ。求め

ることにより生ずる不幸 。しかし、また、求めることによって、人類は進歩し、成長するのである。この皮肉な苦しみ、求不得苦。

考えてみれば、この人間の五体そのものが、苦を盛る器のように思えてくる。

何時、とりたてていうほどのものではないながら、五体にひしひしと感じる身心の苦しみ。五陰盛苦である。

まことに、苦の世界とはよくいったもので、いま、この瞬間においても、わたくしたちは、この四苦八苦のどれかの苦しみを味わっているのではなかろうか。

あなたはどうであろう?

瞑想こそ究極の解決法

ゴータマ・ブッダは、この四苦八苦を解決するためのあらゆる方法を、すべてこ

ころみた結果、さいごに、瞑想よりほかないことを知ったのである。そうしてかれは成功した。

だからあなたも、ゴータマのように、あなたの人生に四苦八苦を感じて、なんとかそれを解決しようと考えたら、このゴータマのあとをたどるよりほかに方法がないのである。

もちろん、あなたが、この人生になんの苦しみも感じないということなら、それは、瞑想などする必要はない。この本もまた無用のものである。そのへんにほうり出して、テレビのスイッチでもひねったらよろしい。

しかし、もし少しでもなにかの悩みや苦しみを感じるなら、そうしてそれを解決しようと思ったなら、それは瞑想によるよりほかないと知るべきである。ほかに方法はないのである。ゴータマ・ブッダは、ありとあらゆる方法をこころみて、 さいごに、この瞑想にたどりついたのだったから――。

いまから二千数百年まえ、インドに生まれたゴータマが、皇太子の地位を捨てるほど悩んだ四苦八苦は、現代におけるわたくしたちの四苦八苦となんら変わりはな

もまず、このゴータマ・ブッダの瞑想をすることが、最も早道だということがおわ

かりになったであろう。

さて、これで理解されたであろう、なんのために瞑想をするのか、を。

では、瞑想はどのようにして、わたくしたちの四苦八苦を解決するのか、それを見てみようではないか。

日常生活の欲望を超越する

さきにわたくしは、ごく最初の初歩の段階でもいいではないか、といった。

それは、ゴータマ・ブッダの体験の「第一の段階」である。それは、

1、つねに一つの目的にむかって精進をつづけることができ、

2、想念が確立してみだれず、

3、からだは安楽で動揺しない。

4、心はいつも定に入って静かである。

というものである。

これは、「家界定」と名づける瞑想である。

ブッダの世界観では、この世の中を、三種の境界に分類する。これを「三界」という、武界・色界・無色界である。

無色界というのは、純粋に精神的な領域をさし、色界というのは、欲望をはなれた清らかな物質から成り立つ世界をさす。

これにたいし、歌界とは欲望によって成り立っている現象世界をさす。つまり、 わたくしたちがふつうに生活しているこの日常世界である。

想なのである。 この「三界」というのは、この世界の区分であると同時に、ブッダのさとりの発達の段階をあらわすものであり、欲界定とは、欲界すなわちわたくしたちのこの日常世界において、欲界に属する四苦八苦の苦悩を処理し解決する能力をあたえる豚

つまり、わたくしたちは欲望の世界にすみ、欲望のなかで生活しているのであるが、その歌望から生ずる身心の苦悩を、いちおう解決する能力をあたえる瞑想である。もっとも、それはまだ欲望そのものの解決ではなく、四苦八苦からの真の解

ではないが、現象的な苦悩をいちおう解決する能力を持つ。そして、つぎなる段階

(どのはる準備としての身心・環境の調整でもある。

いま、現在の苦しみ、悩みを解決する

それは真の解説ではないから、この境界にとどまっているかぎり、また、つぎの苦悩はあらわれるであろう。四苦八苦が根源的に断滅されたわけではないからである。しかし、欲界というわたくしたちの日常世界においては、それは卓抜した能力とみることができよう。

それが実際にどのようなものか、いくつかの実例をあげてみよう。

わたくしの指導している瞑想室では、悩みを持って入ってくるひとにその悩みを書いて出させる(また、願望なども書いて出させる)。直接わたくしがそれを聞く場合もあるが、わたくしはその悩み(や願望)に応じて、それを解決するための瞑想法を指導するのである。というのは、あとで述べるように、瞑想法は一種類ではない。その目的に応じて、いくつもの瞑想法があるのである。

たとえば、

からだの不調(病気)をなおすための瞑想法

心の不調(病気)をなおすための想法。

意志を強くするための瞑想法

脳の働きをよくするための瞑想法

思うように自分をつくりかえる瞑想法

みを喜びに転換する瞑想法

思うように環境をつくりかえる瞑想法

高い理念を持ち、その理念を現実につくり出す力を持つ瞑想法

思いつくままざっとあげても、以上のような瞑想法がある。

想法への入り口はいくつもある。

「さとり」とか「宇宙の真理」とか、「宇宙意識」とか「超越意識」とか、そういう然としたものを求めて瞑想に入るひともいるし、現実にいま悩み苦しんでいることがあって、その解答を求めて入ってくるひともいる。多種多様である。そうし

る。 て瞑想は、どのような問題にたいしても、かならず最高の解答をあたえるのであ

低俗な俗世間のことなど瞑想はあつかわないなどとはけっしていわない。人間の苦しみに低俗も高級もありはしない。みな、そのひとにとってギリギリの切実な問題なのだ。そうして、その苦しみ悩むということが、じつは非常に貴重なのである。苦しみ悩むことによって、人間は浄化し向上するのである。なにも悩むことも苦しむこともないという人間など、どうしようもない存在である。年じゅう上、機嫌で世の中が楽しくて楽しくてしょうがないという人間など、手のつけられない存在というべきではないか。

ない。 悩み苦しむことによって、人間は浄化し向上するのである。ただし、悩み苦しむこと自体が人間を浄化し向上させるのではない。問題はその悩みかた、苦しみかたである。それによっては、逆にスポイルされ、ダメになってしまうひともすくなく

瞑想は、その悩み苦しみを解決すると同時に、そのひとを浄化し、向上させるの

である。

ただ苦しみ悩みを解決させるだけではダメなのである。解決すると同時に、そのひとを向上させるのでなければならない。また、向上することによって解決するという場合もある。これが、正しい瞑想なのである。

だから、わたくしの瞑想は、「いま苦しんでいる問題の解決」からはじまるのである。

想はゴータマ・ブッダがさいごに到達されたように、すべての存在から超越し解説するのであるが、超越・解説する前に、現実を自由自在に処理し解決するだけの力を持たねばならない。その力を持たずして、超越とか解説とかいったって、それは一種の「運」に過ぎない。その力を持っ瞑想法が「欲界定」と

 

 

 

 

「第二の段用」の購想なのだ。

が、ここでまちがってはならないのは、この力を持つことが、ただたんに自分の望を思うままにとげるということではないということである。この力を持つことによって、自分の望むことがその通り実現されることもあるし、バカげた野望・欲

望のとりこになって、いたずらに苦しんでいるおろかさに突然気がつき、夢からさ

めたひとのようになる場合もある。

どちらにしても、すばらしいことではないか。

瞑想の原点としてのYOGA

瞑想は、インドにおいて非常に古くからおこなわれていた。それは、インド民族の歴史とともにあったといってよい。

る。 瞑想に関する文献は、ヴェーダ、ウパニシャッドの時代(紀元前一〇〇〇年~六○年)にまでさかのぼって、目にすることができる。そのころから、すでに、瞑想は、インド特有の身心修練の道として、修道者必修の行法とされていたのであ

それは、ヨーガ(Yo)あるいは三昧(Samadhi)あるいは禅(Dhyana)とよばれた。 日本では、ヨーガというと、一般には、本案の一種のように思われているようで

朝していく心的過程が、詳細に分析的に述べられています。そして、このようにを中心とした心理的なヨーガが、ラージァ・ヨーガとよばれるものなのです、そして、この精神集中へ深まっていく心理的過程が、段階的に制感, 念・・三と分けられているのであります。

明解な解説である。

要するにヨーガの想法の目的は、心の抑制・コントロールである。ブッダが最初に師事したアーラーチ・カーラーマ、ウッダカ・ラーマブッタの「無心定」「滅定」の伝統がここに生きているわけである。

ブッダの想とヨーガの誤想のちがいはここにあるといってよいであろう。ブッずの想が、「統一」からさらに「智慧」を目ざすのにたいし、ヨーガは「綜制」 を目ざすわけである。

ブッダの「呼吸法」をとり入れたヨーガの調

 

ただし、十一世紀にあらわれたナータ派の『シヴァ・サンヒター』(佐保田鶴治訳

「ヨーガ教良」所)によると、その「宇宙観」の中で、

「唯一の、永遠にして、始めも終わりもない智が存在する。その外には、真実なる実体は一つも無い」といい、

「論議を好むやからの、世人を迷妄に導く見解を捨てて、ひたむきに道に志す人々

が真我の智を得るように」と述べ、さらに、

「ヴェーダには行の部門と智の部門と二部門があるとされている」

いる。 「われは知性のはたらきを刺激して、善悪の道へ向かわせるものである」と説いて

だから、ヨーガも、智慧が解説の手段であると説く派もあるわけである。

ただ、この『シヴァ・サンヒター」では、瞑想法として説かれているのではな

く、「宇宙観」として思想的に説かれているのであり、その典拠として「ヴェーダ」 をあげている。それに訳者の佐保田博士によると、原典に欠点が多く、「インドでこれらの書の伝承状態があまりよくなかったのでしょう」ということで、ヨーガと

35――想についての基礎知識

 

脳と心の革命想——34

 

31―――瞑想についての基礎知識

 

 

「脳と心の革命想——30

29想についての基礎知識

 

 

脳と心の革命想——28

 

27―――想についての基礎知識

 

 

脳と心の革命想——26

25想についての基礎知識

 

 

 

 

23――联想についての基礎知識

 

 

脳と心の革命瞑想——22

 

 

21――数想についての基礎知識

脳と心の革命瞑想——20

 

19類想について

 

の基礎知識

 

 

脳と心の革命瞑想 18

17―――联想についての基礎知識

 

 

 

 

 

 

脳と心の革命想——16

 

 

 

 

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る。前者は内部から、後者は外からのものであったが、衝撃の内容はまさしく同種のものであったのだ。もっとも、後者は、前とはまったく比較にならぬすさまじいものであったが――。

賢明な読者はすでにお気づきであったろう。これが、チベット密教のいう 「思念による王者の相承」であることを――。思念による王者の相承とは、じつに、累的バイブレーションによる伝達だったのである。

あいていわたくしは、これによって、解脱に至る四つの階様のうちの、第三の境地に連したことを自覚したのであるが、これは、間脳開発の練行tapasを成就していなかったら、絶対に得られなかったものである。内なる受容の態勢がととのって初めて、外よりの王者の相承が発せられるのである。 うけいれ

解脱に至る四つの階梯

いま、わたくしは、「解説に至る四つの階梯」といった。

だれでも、解説に至るためには、この四つの段階を経なければならない。そ

輪転生联想法

だれでも、解説に至るためには、この四つの段階を経たに

してこの四つの階梯を、すぐれた聖師にしたがって歩んでいくならば、だれでも

解脱に到達できるのである。もちろん、あなたにしてもそのとおりだ。

そこで、この四つの階梯について、のべてみよう。

四つの階梯とは、

srota apanna 須陀

sakrd-āgāmin 斯陀含

anāgāmin-

arhat-

阿那含

である。

説明すると、

きよめられた聖者

斯陀含高められた聖者

阿那含(次元を)飛躍した聖者

同職後(次元を超越し、完成した聖者、「仏陀」ともいう。

では、この四つの階柳を、修行者はどのようにして歩んでいくのだろうか。

大脳辺縁系・新皮質脳を殺す修行

それはひと口にいって、大脳辺縁系・新皮質脳を殺す修行である。

大脳辺縁系と新皮質脳を殺さなければ、間脳は作動せず、第三の目は開かないのである。

ただし、誤解してはいけない。大脳辺縁系・新皮質脳を殺すということは、 「究極において、大脳辺縁系、ことに新皮質脳を生かすということなのである。新 「皮質脳は「創造の座」であるといわれる。しかし、ほんとうの創造の座は間脳にあるのである。間脳はこれまでくり返し説いてきたように、霊性の場であり、

あるのである。間脳はこれまでくり返し説いてきたように、霊性の場であり、

のなのである。ここが開発されることにより、ほんとうのインスピ 「レーションが発生するのである。

ただし、間脳を開発するためには、しばらくの間、大脳辺縁系と新皮質脳を閉ずさなければならないのである。間脳が開発されたとき、新皮質脳は新しくよみがえる。新しくよみがえった新皮質脳こそ、霊性を基盤とした超人的なイジスピレーションと創造力を持つ頭脳となるのである。

ではそれはどんな修行か?

重性完成の方法と体系

釈尊が残した霊性完成の修行法がそれである。これを、わたくしは、「成仏 「氷」とよんでいる。成仏とは霊性を完成したことをいい、それを成就した人を 「仏陀」とよぶ。だからわたくしはその方法を、「成仏法」とよぶのである。

くわしくは、「輪超転生瞑想法Ⅱ」でのべたとおりであるが、それは七つのシステムと三十七種のカリキュラムから成る成仏のための方法と体系である。これ

ぼだいぶんほうを、阿含経では「七科三十七道品」あるいは「三十七菩提分法」とよぶのである。この二つの名称は、わたくしが勝手につけたのではない。古来からの仏教用語である。

わたくしが、阿含経以外のお経――法華経、阿弥陀経をはじめすべてのお経をいささか激しい表現で批判するのは、阿含経以外のお経には、どの経典にも、この成仏法がないからである。釈尊がじっさい説かれたのは阿含経だけであるという歴史的な事実のほかに、阿含経以外には、この「成仏法」がないから、わたくしはそういうのである。「成仏法」のない経典など、わたくしは真実の仏教経典と認めることはできないのである。もちろん、それなりの存在意義なり存在価値はあろうが、本流ではない。傍流というべきである。このことに 「関しては、わたくしの他の著書を読んでいただきたい。

七科三十七道品とはつぎのようなものである。

四念住法身念住法 受念住法 心念住法 法念住法

四正断法

修断法 随護断法律儀断法断断法

四神足法

神足法

動神足法 心神足法

観神足法

五根法

信根法

精進根法念

根法定根法

慧根法

五力法

信力法

精進力法

念力法

定力法

慧力法

七億支法

法寛文法

定覚支法

精進覚支法

喜覚支法

軽安覚支法

捨覚支法

八正道法

念覚支法

正見法正

思惟法

正語法

正業法

正命法

正精進法

正念法

以上である。

正定法

この七科員、三十七種のカリキュラムは、

一、想

二、実践

tapas(税)

に分類できる。

四念住法・五根法は、瞑想である。

四正断法・五力法・七覚支法・八正道法は、実践と瞑想である。

四神足法は、特殊な練行tapas である。

神足とは、神通力(超能力)のことで、この四神足法は、超自然の神通力を得るための四種の修行法である。前にのべたわたくしの練行tapasはこれに属するものである。

この七つの科目のうち、練行tapasを中心に、瞑想と実践の科目をとり入れて修行するのである。どの科目をどうとり入れて、どのように訓練するかは、 型師が決定する。修行者それぞれ、みな素質と因縁がちがうので、それを見て、グルが決めるのである。

う。 この修行において、グルの果たす役目は大きい。グルについて、少しのべよ

霊性の洗礼

ある。 あいけんまず、間違いなく霊性を開顕したグルを見つけて、そのグルに受け入れてもらうことである。それができたら、この修行は八分どおり成功したといっていいくらいである。それくらい重要なことであり、かつ、むずかしいということで

グルなくして、正しい霊性開顕の仏道修行は不可能である。ふつうの仏教信心とはちがうのである。信心のしかたや、信仰のしかた、経典の講義や解釈を教わるという程度のものならばとにかく、霊性開顕の仏道修行は、強力な霊的能力を持つグルの助けなくしては、絶対といっていいほど、できないのである。

たとえば、インド近代の聖者ラーマナ・マハリシが、入門者に対して、「凝視の方法」で受け入れの儀式をおこなったとき、彼の両眼の輝きと力が相手の心をつらぬいて、その雑念の流れを断ち切ってしまったといわれる。ときとしては、まるで電流が身の内に流れ込んだように相手は感じたともいわれる。

こういう霊的体験によって、弟子はまず心をきよめられ、霊的なものに対す

人の素質にもよるけれども、一度、霊的な洗礼を受けた者は、霊的感覚がひら

るあこがれ、霊的向上心をいだくようになるのである。「霊性の洗礼である。そのかれ、霊的世界への憧憬が芽ばえる。いままでとちがう高い次元の存在が、感覚 「されるのである。霊性開顕への第一歩で、これが非常に大切なのである。わた

くしなども、弟子に対し、わたくし独自の受け入れの方法をおこなうが、ただ問

「題は、ほんとうに霊性開顕したグルは非常に稀だということである。にせもののグルや、未熟なグルにかかわり合うと、とり返しのつかぬことになる。まず、

「間違いなく霊性を開顕したグルを見つけること、つぎにそのグルに受け入れても

らうことだ。グルはなかなか弟子を受け入れないものである。

さいわいに、受け入れてもらった弟子の心がまえについて、のべておこう。

グルに受け入れてもらったら、弟子は、そのグルに心からしたがうことである。心から尊び歌わなければならない。

グルは弟子にとって仏陀そのものなのである。グルは弟子にとって、過去に

出現した仏陀たちの変化身であり、未来の仏陀たちが生まれ出る母胎であり、いまここに仏陀を体現している尊い存在なのである。

グルは、弟子にとって、この世の中のいかなるものよりも尊い、かけがえの

ない存在であるといわねばならない。なぜならば、弟子は無限の昔から輪廻の旅

をつづけて、いまここに至っている。これからも苦しい輪廻の旅を無限につづけ

ていかなければならない。過去、いままで(の生)にどれだけ多くの仏陀たちが

輪廻の鎖を断ち切ってニルヴァーナに至るようよびかけたことであろうか。し

かし、煩悩と悪行に心曇らせていたために、弟子は、それらの仏陀たちの招き

にこたえることができなかった。それがいま、ここに、無量の慈悲心をもって

ニルヴァーナに導いてくれる師があらわれ、その方と縁が結ばれた。グルこそ仏陀そのものなのである。その深い畏歌と憧憬の心をもってグルにしたがった

とき、グルは全身全霊の力をもって、弟子を導いてくれるであろう。グルは、

弟子と仏陀とを結ぶかけがえのない水路であり、この水路を通じて仏陀の霊性

と霊的パワーが弟子の心に流れ込んでくるのである。最終的な霊性の開顕は、

なのである。 グルからの霊的パワーの感応なのである。感応道交といい、画龍点という言葉があるが、すべての技法の最後の仕上げは、グルからの霊的感応なのである。そしてそれは、師と弟子と、総一無雑に心が融け合わねばなしえないもの

受け入れの秘儀

ここで、わたくしがおこなってきた独自の「受け入れの秘儀」についてお話ししておこう。

ぎょうしわたくしのおこなう、「受け入れの秘儀」とは、凝視のしかたと、それから、 わたくしの指導によるアージュニャー・チャクラへのメッセージ伝達から成っている。

この凝視のしかたをおこなう聖者は、ほんのわずかであるが、わたくし以外にもおられる。しかし、これは、クンダリニー・ヨーガを完成した聖者でなければできない。

輪転生購想法 118

 

 

117 第二章 開の開発法

 

輪迴転生联想法Ⅲ

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115

第二章 間脳の開発法

 

 

 

輪転生联想法 114

 

 

 

113 第二章の開発法

 

 

輪転生瞑想法 112

 

 

11】 第二章開の開発法

 

輪転生想法 110

 

 

 

 

 

 

109 第二章品の開発法

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