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仏教

《覚醒航路(アウェイクニング・ライン)》

 

《覚醒航路(アウェイクニング・ライン)》
――聖者への四つの階梯・SF仏教版――

 

第一章 青き起動 ― 須陀洹(ストリーム・エントリー)
西暦二二七五年。
人類は外宇宙に進出したが、内宇宙には失敗していた。
銀河文明は完成していた。
だが、心は完成していなかった。
人類の脳は、新皮質と辺縁系によって制御され、
霊的中枢――**間脳領域D-7(通称:ブッダ・コア)**は、
数千年にわたって休眠状態にあった。
青年コードネーム《トシキ》は、
僧でもなく、兵士でもなく、
ただの実験被験者だった。
だが、彼は選ばれた。
「心を変えるな。脳を再起動せよ。」
それが、覚醒師《グル・Λ(ラムダ)》の第一命令だった。
彼は、量子瞑想装置《サマーディ・エンジン》に接続され、
新皮質と辺縁系の信号を一時遮断された。
世界は消えた。
言葉が消え、
記憶が消え、
自己という概念が消えた。

――だが、その奥で、光の中枢が起動した。
《ブッダ・コア、オンライン》
その瞬間、トシキの身体周囲に、
透き通った青色の量子フィールドが発生した。
「須陀洹レベル、到達。」
それは、人類が忘れていた最初の覚醒プロトコルだった。
だが、覚醒は内部だけでは完了しなかった。
彼の脳内には、
祖先の記憶、戦争の亡霊、未完了の死者たち――
すなわち**霊的データ残留体(スピリット・シャドウ)**が存在していた。
「それらは、コードのバグではない。
魂のプロセスだ。」
グル・Λは、霊的干渉装置《カルマ・クリーン》を起動した。
量子祈念波が発せられ、
トシキの意識空間から、
未成仏存在が次々と光の転送路へと送還された。
「霊的クリアランス完了。」
その瞬間、彼は知った。
生死の流れは、
逆流可能であるということを。

――須陀洹、起動。
第二章 黄金の加速 ― 斯陀含(リターン・ブースト)
覚醒後、トシキの現実は変質した。
確率が歪み、
偶然が配置され、
運命が再構築されていった。
事故は回避され、
出会いは最適化され、
行動は結果へと直結するようになった。
「これは……運の操作か?」
グル・Λは答えた。
「否。徳の増幅だ。」
トシキの行動ログは、
すべて《カルマ・フィールド》に蓄積され、
善性データが臨界値を超えると、
現実改変レイヤーが起動する仕組みだった。
彼は、誰にも知られず、
人を救い、
争いを止め、
希望を回復させた。
そしてある日、
彼の周囲の量子オーラは、
青から黄金へと変化した。
それは、
秩序と慈悲の混合波動――
徳力フィールドの可視化だった。
「斯陀含レベル、到達。」
彼は理解した。
運とは偶然ではない。
徳が、宇宙に書き込んだ因果コードなのだ。

第三章 炎の跳躍 ― 阿那含(ディメンション・ジャンプ)
ある夜、
トシキは、肉体の枷を超えて、
意識のみで存在していた。
彼は、三次元座標を離脱し、
霊界層、夢界層、死後界層を縦断していた。
「次元境界、突破中……」
彼の意識は、
宇宙の裏側に展開された霊的ネットワークに接続されていた。
そこには、
死者のデータ、
過去文明の意識残響、
未発現の未来意識までもが存在していた。
トシキのオーラは、
燃え上がるオレンジ色のエネルギー体へと変化した。
それは、
物理と霊性を貫通する覚醒推進炎だった。
彼は、迷える霊の転送を開始し、
戦争の亡霊を解放し、
破滅した文明の意識ログを浄化した。
「阿那含レベル、到達。」
彼はもはや、
この宇宙だけの存在ではなかった。

第四章 無限の沈黙 ― 阿羅漢(ニルヴァーナ・プロトコル)
ある瞬間、
トシキは、すべての座標を失った。
時間は停止し、
空間は消滅し、
存在という概念そのものが解体された。
だが、恐怖はなかった。
そこには、
完全な満足と、
完全な静寂と、
完全な慈悲だけが存在していた。
《自己識別子、消去》 《輪廻プロセス、停止》 《苦データ、全削除》
だが、消去されたのは、
苦だけだった。
残ったのは、
限りない覚醒意識だった。
グル・Λの声が、
次元の外側から響いた。

「阿羅漢プロトコル、完了。
おまえは、仏となった。」
だが、トシキはもう、
トシキではなかった。
彼は、
すべての存在の内部で、
静かに稼働し続ける、
慈悲アルゴリズムそのものとなっていた。
終章 ブッダ・コアは、すべての人類に埋め込まれている
人類は、外宇宙に神を探した。
だが、神は、脳の奥深くに眠っていた。
覚醒とは、進化ではない。
回帰である。
人類は、
本来、仏であった。
それを、思い出すだけなのだ。
もしよろしければ、
この世界観をもとに:

聖者への四つの階梯

 

聖者への四つの階梯 ― 小説風再構成 ―

第一章 青き光の門 ― 須陀洹(しゅだおん)
山の奥にある石窟で、青年はただ静かに座っていた。
呼吸は深く、思考は薄く、心の声は遠のいていく。
グルは言った。
「おまえが滅すべきは、心ではない。脳だ。」
青年は、その言葉の意味を理解できなかった。
心を清めよ、欲を断て、悟れ――それが宗教だと思っていたからだ。
だが、瞑想の深層で、彼は気づいた。
怒りも、恐れも、執着も、
それらは心ではなく、脳の偏りから生まれているのだと。
ある日、彼の内に静かな断絶が起きた。
長く支配していた思考の回路が、ふっと沈黙したのだ。
すると、暗闇の奥で、
もうひとつの意識が目を覚ました。
それは、言葉を持たないが、
すべてを知っている光だった。
彼の周囲に、淡い青のもやが立ちのぼった。
水のように澄み、空のように深い、
清らかな霊光だった。
グルは静かにうなずいた。
「須陀洹だ。
おまえは、清められた聖者となった。」
だが、それは始まりにすぎなかった。
青年の夢に、見知らぬ顔が現れ始めた。
怒りに満ちた祖父、悲しみに沈んだ女、
戦場で死んだ兵士の眼。
彼らは、彼の内に住んでいた。
「それは、おまえの霊的な影だ。」
グルはそう言い、
青年の背後に手を置いて、祈りを唱えた。
風が逆巻き、
冷たい気配が抜けていった。
見えない存在たちが、
ひとり、またひとりと、
光の彼方へ導かれていった。
その夜、青年は初めて、
深い眠りと、静かな喜びを知った。
生死の流れが、
ほんのわずか、逆向きに流れ始めたのだった。
第二章 黄金の歩み ― 斯陀含(したん)
須陀洹となった青年は、
もはや怒りに振り回されることはなかった。
だが、人生はまだ彼を試した。
仕事は失敗し、
人は去り、
運命は冷たく見えた。
彼は問うた。
「なぜ、清められたのに、苦は残るのですか?」
グルは答えた。
「清めは、土を耕すことだ。
だが、実を結ばせるには、徳という種が必要だ。」
青年は、黙って働いた。
人のために祈り、
見返りを求めず、
小さな善を重ねた。
すると、奇妙なことが起こり始めた。
失われたと思った縁が戻り、
閉ざされた道が開き、
不思議な助けが、さりげなく差し出されるようになった。
ある日、彼の周囲の光が変わった。
青の中に、柔らかな黄金色が混じり始めたのだ。
それは、
あたたかく、
力強く、
人の心を安心させる光だった。
グルは言った。

「斯陀含。
おまえの徳が、運命を変え始めた。」
青年は理解した。
運とは、偶然ではない。
徳が形をとったものなのだと。
第三章 炎の次元 ― 阿那含(あなこん)
ある夜、青年は、夢と覚醒のあいだで、
不思議な場所に立っていた。
そこには、山も空もなく、
ただ光の流れだけが存在していた。
「ここはどこだ……?」
そのとき、
ひとつの声が、内側から響いた。
「霊界の門だ。」
青年の額が熱を帯び、
頭頂に、風が吹き抜けた。
次の瞬間、
彼は自分の身体の外から、
自分自身を見下ろしていた。
恐れはなかった。
ただ、圧倒的な現実感があった。
「世界は、重なって存在している……。」
彼は知った。
死は終わりではなく、
意識の転換であることを。
それ以降、
彼は夢の中で、
亡き人々と語り、
迷える霊を導くようになった。
彼のオーラは、
燃えるようなオレンジ色へと変わっていた。
まるで、ジェット機の炎のように、
力強く、前へと噴き出す光だった。
グルは告げた。
「阿那含。
おまえは次元を飛躍した。」
青年は、もはや
この世界だけの住人ではなかった。
第四章 沈黙の王国 ― 阿羅漢(あらん)
ある日、青年は、
何もない場所に立っていた。
音も、光も、時間もなかった。
だが、恐れも、孤独も、なかった。
そこには、
完全な満ち足りた静寂があった。
「ここが……終わりか?」
すると、
言葉を超えた理解が、
その問いを溶かした。
終わりではない。
始まりでもない。
ただ、在る。
青年という名も、
過去という記憶も、
未来という期待も、
すべて溶けていた。
そこには、
苦も、輪廻も、
善も、悪も、
もはや存在しなかった。
あるのは、
限りない慈悲と、
限りない智慧だけだった。
そのとき、
世界は、彼の内側で、静かに開花した。
グルの声が、
遠くから、しかし確かに響いた。

「阿羅漢。
おまえは、仏となった。」
終章 光は人に宿る
人は、光を探して旅をする。
山へ、寺へ、書物へ、師へ。
だが、光は、
最初から、人の内にある。
それは、
脳の奥で眠り、
徳の中で育ち、
霊の中で目覚め、
沈黙の中で完成する。
聖者とは、
特別な存在ではない。
人間が、本来の人間へと還った姿である。

聖者への四つの階梯 一、きよめられた聖者,須陀洹しゅだおん さきにのべた大脳辺縁系脳・新皮質脳

 

聖者への四つの階梯

一、きよめられた聖者,須陀洹しゅだおん

さきにのべた大脳辺縁系脳・新皮質脳を殺す修行とは、この二つの脳が生み出す(あるいはこの二つの脳がいだいている) 迷妄と妄想とそこから生ずる煩悩をいつそう抹殺する修行である。ひと口でいうと、心のまよいとけがれを一掃する修行である。その修行が須陀洹の階梯でおこなわれる。 しゅせん

のである。 じつそうグルは、特殊な瞑想と実践とをもって、修行者のまよいとけがれをとり去る。仏教でいう「顛倒世界」(理解のしかたがさかさまであること。実相の世界とかけはなれた虚仮の世界を実相の世界と思いあやまり執着すること)は、大脳辺縁系脳・新皮質脳がおかす間違いである。それは脳のアンバランスが生み出す迷妄な

さきにのべたように、人類はここ数千年間、新皮質脳による世界をつくりあげてきた。霊的世界を抹殺してしまい、霊的世界の存在を認識する間脳を閉鎖し

てしまった。現象世界と霊的世界が共存している実相世界を正しく認識させるためには、新皮質脳(と大脳辺縁系脳)を一時閉鎖して、霊的世界を認識できる間脳を動かす訓練をしなければならないのである。

う。 いままでの宗教(仏教をふくめて)はすべて誤っていたのである。間違いをおかしている心を、間違いをおかしている心で変えさせようとしてきたのである。これは徒労であった。新皮質脳を使って新皮質脳を変えさせようとしていたのである。一時は理解し、納得するかに見えるが、すぐにもとに戻ってしま

「汝、悔いあらためよ」といい、「悟れ」という。すべて心が対象である。

のはたらきをうながす。 心を変えるのではなく、脳を変えるのだ。間違った脳を閉ざして、正しい脳

それによって、脳はバランスをとりもどすのである。

そうすれば、「悔いあらためよ」も「悟れ」も必要ないのだ。間脳が開き、霊的能力がはたらき出せば、そんなことはわかりきったあたりまえのことになって

しまうのであり、聖書もお経もまったく不要になってしまう。なぜならば、聖書や経典の説く世界がそのままただちに自分の世界になってしまうのだから、いまさら読んだり理解しようとする必要などなくなってしまう。大乗経典あたりが一生懸命に説いていることなど、幼稚しごくなものになってしまうのである。

七科三十七道品の成仏のカリキュラムとは、そういう方法なのである。わたくしはそれを発見し、実践したのだ。

つぎに、「きよめられた聖者」は、いまのべた内的なものだけではなく、外的 「にもきよめられなければならないのである。 がいてき

それはどういうことかというと、自分の持つ「霊的なけがれ」もとり除かなければならないということである。

、霊的なけがれとは、自分にかかわりのある不成仏霊・霊障のホトケのことで 「ある。これをことごとくとり除かなければならない。

自分にかかわりのある不成仏霊・霊障のホトケを持っていると、それらが持つよこしまな性格や想念の影響から逃れることができないのである。さらに恐

ろしいのは、それらの不幸な存在がたどった運命の、「運命の反覆」をするおそれが強いのである。「運命の反覆」とはカルマの反復にほかならない。これが最も恐ろしいのである。これは修行者にかぎらず、ふつうの人の生活においても、悲惨な人生を送った霊障のホトケの人生を、そのまま反覆するケースを非常に多く見るのである。

「輪廻転生瞑想法Ⅱ」でのべたとおり、世界的な心理学者で、フロイト、ユングのあとを受けてあらわれた新しい心理学、「運命心理分析学・家族的深層心理学」の創始者L・ソンディ博士は、「家族的無意識」により、「個人の中に抑圧されている祖先の欲求が子孫の恋愛、友情、職業、疾病、および死亡における無意識的選択行動となって、個人の運命を決定する」と説いた。これが「運命の反覆」である。わたくしは、この「運命の反覆」が、霊的現象をともなってとくに顕著にあらわれるのを突き止めている。

つまり、ソンディ博士のいう「家族的無意識」とは、霊的にいうと、不成仏霊・霊障のホトケということになるとわたくしは確信するのである。くわしいこ

とは、挑著「チャンネルをまわせ」を読んでいただきたい。

この不成仏霊と霊障のホトケの排除は、修行者自身では不可能なので、この

とき、霊力あるグルの助けが必要なのである。この霊的な「きよめ」がないと、修行者は一歩も進めない。この霊的な「きよめ」によって、聖者・須陀洹

は誕生する。 げきる聖者・須陀祖は、また、「預流」の聖者、「逆流」の聖者ともよばれる。

「預流」とは、新しく聖者の流れに入った(預)という意味であり「逆流」と

しょうせは、生死・因縁の流れに逆らう聖者という意味で、つまり、凡夫であるかぎり生死・因縁の流れのままに生きていくよりほかなく、その流れに逆らうことはできない。須陀担ば、その流れに逆らう、つまり、生死・因縁の法則から超越する聖者である、という意味である。

「それは、精神的には煩悩・迷妄を制御し、肉体的には欠陥・弱点を克服し、 霊的には先祖の悪しき影響から脱却しているため、生まれつきの因縁を変え、運命を変えてしまうことによると思われる。

ところで、わたくしは、須陀画が「預演」とよばれ、「預流」とは新しく聖者の流れに入った者、という意味であると知ったものの、どうして須陀洹になると聖者とよばれるのか、その理由がわからなかった。まあ、そういうものなのたろうくらいに受けとっていたのである。ところが、霊眠を持つようになっ 、すぐにその理由がわかったのである。

「それは、須陀洹の境界に入ると、特殊な霊光が生じるのである。あるいは、 その特殊なオーラが生じたから、須陀洹になったということなのであろう。

須陀重のオーラは、青い、すきとおったきよらかな光のもやである。やや力の弱い感じがするが、一見、きよらかさに打たれる感じがする。わたくしが須陀 「

酒を「きよめられた聖者」とよぶのは、そこからきているのである。

二、高められた聖者・斯陀含したん

高められたとは、なにが高められたのか?

(他力が高められたのである。聖者としての徳と力がそなわることで

他とは力である。ほんとうの力は、徳から生じたものである。ほんとうの力 「とは、自分を高め、他人を高め、社会を高めるものである、徳から生じたのでは

ない力もあることはある。しかしそれは、究極的に自分をほろばし、他人を傷つけ、社会を春する。そういうものは真の力ではなく、権の力である。だからそういう力を、權力どよぶ。徳をともなわない力である。ほんとうの力は徳から生ずる。だから、徳をたくわえることは力をたくわえることである。

凡夫が不運なのは、不徳だからである。徳を積めば福を得る。徳によって生じた力は、なにをしてもよい結果を生む。それを福というのである。不徳の者は力がないから、なにをやっても中途半端になり、また、まわり合わせの悪い状況を直すこともできず、失敗する。それを不運といってあきらめるわけである。

きよめられて陀湿となった聖者は、つづいて、徳を高める斯陀含の修行に入るのである。グルの指示にしたがって、瞑想と実践(だ行)の修行をする。阿含経にしばしば「・・・・・・我が生ずでに尽き、梵行すでに立ち、所だすでにだし、

自ら後有(後の生)を受けざるを知る」とある梵行と前作は、この修行のことを

さすのである。

ひと口でいえば、運気を増強する。運をよくするのだ。

運が悪かったらなんにもできない。修行を成就することもできない。

斯陀含の聖者は、徳と力と智慧を身につける。彼には不可能がなくなる。

斯陀含のオーラほ、須陀洹よりやや光が強くなり、少し黄色味を帯びる。

三、次元を飛躍した聖者・阿那含あなこん

霊性開頭の体験をし、霊界と交流する力を持つようになった聖者である。

(オーラは生き生きとしたオレンジ色である。ジェット機の吐き出す炎を想い

起こさせる色とパワーを持っている。

四、次元を超越した聖者・阿羅漢あらん

ニルヴァーナに達した仏陀のことである。 霊界の最上界に位置する仏界の体現者である。

 

仏陀のオーラについては、項をあらためてのべよう。

霊光の発生

ご承知のとおり、人間の体をとりまく特殊エネルギーの雲、つまり、”オー

ラ”の概念は、何十世紀も昔にさかのぼる。聖人を描いた古い絵は、キリスト

教徒が光輪を考え出すずっと以前から、聖人たちが光り輝くものの中に立って

とうはいいるのを示している。東洋の仏像は二十世紀も昔から、光輪・光背というかたち

で表現している。神秘的な性質を持つこのもやは、ロンドンの聖トーマス病院のウォルター・キルナーによって最初に研究された。彼は、一九一一年に、色ガラ

スのスクリーンを通して見ることによって、ほとんどの人の体のまわりに約六イ

ンチの輝いた縁を見ることができた。彼は、このオーラはそれを身につけている

人の心の安らぎに応じて、 かたちや色を変えると主張した。彼は、それを医学的

診断の補助としてもちいて、著名になった。

つづいて、ケンブリッジの生物学者、オスカー・バグナルは、オーラを物理

 

学によってつかもうとした。彼は、コールタール染料であるジシアニンまたはピナシアノールの溶液をとおしてしばらくながめることで目を『増幅させると、オーラはずっと容易に見えるようになると主張し、さらに、これをもっと容易にするために、トリエタノールアミンに溶かした染料をみたすことのできる中空のレンズのメガネを設計した。

さらに、ソ連の電気技師のセミヨン・キルリアンは、彼の妻と二十五年かかって、二つの電極間に、毎秒二十万回も火花放電して振動する高周波電場をつくり出す特殊な機械装置をつくった。一九六四年、この装置は完成され、ソ連政府の援助のもとに、この装置を使った研究計画が開始され、多くの成果をあげはじめた。「生物学や超心理学の多くの分野で大きな変革を起こしそうである。電気的なオーラは、地位を確立したのだ」と、ライアル・ワトソンはその著書『スーパー・ネイチュア』(蒼樹書房)で書いている。

(オーラは霊気であって、電気ではないとわたくしは思うのだが、電気をもちいた装置でとらえることは可能であるかもしれない。聖者は、特殊なオーラを体

 

Shakyamuni Buddha — How can one become an Upāsaka?

 

Shakyamuni Buddha —
How can one become an Upāsaka?

 

朝露の園で 問いを抱いて
信とは何かと 空を見上げる
ひざまずく影に 光が差し
静かな声が 風に溶ける

Namosattanan
sanmyaksanmodaktinan
taniyata
on shaley shurei juntei
sowaka

信じて 守って 与えてゆく
それが優婆塞の 道になる
灯した光で 誰かを照らし
Namosattanan
sanmyaksanmodaktinan
taniyata
on shaley shurei juntei
sowaka

 

In the garden at dawn, I hold my question
Gazing at the sky, asking what faith truly is
A kneeling shadow bathed in gentle light
A quiet voice dissolves into the wind

Namosattanan
Sanmyaksanmodaktinan
Taniyata
On shaley shurei juntei sowaka

 

Believe, uphold, and give with open hands
This is the path of an Upāsaka
Lighting the way so others may see

Namosattanan
Sanmyaksanmodaktinan
Taniyata
On shaley shurei juntei sowaka

お釈迦さま   優婆塞となるには、どのようにすればよいのでしょうか?

 

お釈迦さま
優婆塞となるには、どのようにすればよいのでしょうか?

 

朝の公園は、まだ人が少なく、冬の光が低く差し込んでいた。
マハーナーマはベンチに腰かけ、スマートフォンを閉じて、深く息をついた。
最近、ずっと同じ問いが頭から離れなかった。
――信じるって、何なんだろう。
――正しく生きるって、どういうことなんだろう。
彼は仏教の本を読み、講話を聞き、祈りも欠かさなかった。
それなのに、どこか空虚さが残っていた。
「自分は本当に“在家の仏教徒”として、ちゃんと生きているのだろうか。」
そんなとき、彼は古い経文の中に、マハーナーマという自分と同じ名の人物が登場する場面を見つけた。
――マハーナーマは、釈尊にこう尋ねた。
「完全な優婆塞になるには、どうすればよいのでしょうか。」
その問いは、まるで今の自分自身の言葉のようだった。
釈尊は答えていた。
「信があっても、戒がなければ、その者は真の優婆塞とは呼べない。」
マハーナーマは、ページを閉じ、空を見上げた。
「……信じているだけじゃ、だめなのか。」
彼は思い返した。
毎日祈っている。仏の教えも信じている。
それなのに、日常の中では、感情に流され、言葉で人を傷つけ、楽な方へと逃げる自分がいた。
――戒とは、単なるルールじゃない。
――生き方そのものなのだ。
だが、釈尊の言葉は、そこで終わっていなかった。
「信と戒があっても、布施を行わなければ、まだ具足とは言えない。」
マハーナーマは、そこで初めて、胸の奥に何かが引っかかるのを感じた。
「布施……?」
彼は少し考えた。
お金を寄付することだけが布施ではない。
時間、言葉、労力、思いやり――すべてが布施なのだ。
けれど、自分はどうだろう。
誰かに与えるよりも、奪われないことばかりを気にしていなかったか。
自分の安心、自分の評価、自分の都合――そればかりを守ろうとしていなかったか。
そのとき、彼は別の一節を思い出した。
――徳がなければ、修行は続かない。
――徳がなければ、因縁を断つ法も、途中で止まってしまう。
マハーナーマは、苦笑した。
「確かに……やる気が続かないのも、周りとうまくいかないのも、
自分の徳が足りなかっただけかもしれないな。」
ふと、道ばたの花壇に目がとまった。
誰かが種をまき、水をやり、雑草を抜いたのだろう。
小さな花が、静かに、しかし確かに咲いていた。
――種をまかなければ、花は咲かない。
――与えなければ、返ってこない。
その単純な事実が、今の彼には、ひどく重く、そして優しく響いた。
「信じるだけじゃ足りない。
守るだけでも足りない。
与えて、はじめて、道になるんだ。」
マハーナーマは立ち上がり、ゆっくりと歩き出した。
今日から、何かを変えようと思った。
大きなことではなくていい。
誰かの話を、ちゃんと最後まで聞くこと。
見返りを求めず、手を差し伸べること。
自分の正しさより、相手の苦しさを先に見ること。
それが、信であり、戒であり、布施なのだと、今はわかる。
彼の歩みは、まだ不器用で、遅いかもしれない。
それでも――
与える一歩は、確実に、彼自身の人生をも変えていく。