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阿含仏教・超能力の秘密

これまで、仏教は、倫理・道徳の教えを説く宗教であると考えられてきた。それが、仏教 にたいする「常識」であった。

ちがうのである。この「常識」は破壊されなければならない。

もちろん、仏教が宗教であるからには、倫理・道徳を説くのは当然であるが、シャカが阿含 で説いた仏教は、たんにそれだけのものではないのである。

それは、人間の限界を越える超人的能力を付与する能力開発のシステムだったのである。 なぜならば、それは、前にのべたように、人間を越えた存在である「仏陀」に飛躍変身さ せるためのシステムだからである。

それが、「七科三十七道品」という修行法なのである。

超人。

仏陀

という構図がある。

もないだろう。

ろう。

私がここでいいたいのは、現代人がすべて「仏陀」になる必要はない。「仏陀」を志す必要

しかし、その前段階の「超人」になるということはどうだろう?

大破壊、 大変動の時代に、最も必要とされる能力ではないのか?

超人の持つ能力を、ごく控え目に記してみよう。

阿含仏教があたえる超常的能力

仏陀釈尊が教える成仏法の訓練で、人はおよそつぎのような能力を持つことができるであ

それは、仏陀に至る前段階の能力である。 この能力を持つヒトを、私は「超人」 とよぶ。 二十一世紀へ仏教の常識を破壊せよ

区別する名称である。

一、事物の明確な認識と予知

ものごとの原因結果がすべてはっきりと分かり、これからさき起きるあらゆる出来事が、 あらかじめ予知できるようになる。

したがって、極度にこみいった事がらで、進路の選択や、方針の決定に困難を感ずるよう な場合、かならず、正しい、そして失敗のない道をえらび出すことができる。

すなわち、予知と選択の能力がそなわる。

二、すぐれた高度の創造力

きょうじん

創造力とは、なにかということについて、『創造力開発法』を書いたジョン・S・モーガ ンは、

「それは、独創的な作品、またはアイデアを仕事の上で生み出すことのできる能力である」 と定義し、かつ、

「それは、たいへんな集中力、観察力、理解力、熱意と、それに加うるに、発達した想像力、

どうきつりょく

テレパシー

および直感力が必要である。 直感力というのは、第六感、洞察力であり、たとえば、キュリ 夫人、および科学者としての夫キュリーの場合のような感応力からなっているもので、右 にあげた特性の中でも最も注目すべきものである」

とのべているが、仏陀の教えた成仏法の内容を見てみると、まさにそのものズバリである ことがわかるであろう。

S・モーガンは、たいへんな集中力、観察力、理解力、熱意と、それに加うるに、発達し 想像力、および直感力”といっているが、仏陀の成仏法の基本課程は、まさに、それらの 能力をあたえる訓練なのである。

三、強靭な体力と卓抜な精神力

不眠不休の仕事が数日つづいても、わずかな休息をとるだけで、知能的にも、肉体的にも、 ほとんど影響をうけることがない。また、いかなる難関にもくじけることなく、屈すること を知らない精神力を持つ。

四、常に、身心が軽快、明朗で、悟しない

こんめい

五、自分を変え、他人を動かし、自分の思うままに環境をつくり変える力

セルフコントロール

それは、完全な自己統御力からはじまる。

この自己統御力を十分に身につけると、つぎにその統御力は自分以外の第三者に向けられ る。つまり、他人を、自分とおなじように統御するのである。

この能力が身にそなわると、だれもその人の意志にさからうことができない。というより むしろ、知らずしらず、その人の意志や思考によろこんで従うようになる。それは、 しや利益誘導によるものでなく、自然にそなわる説明しがたい魅力がそうさせるのである。 その魅力は、つぎにのべる「霊性の完成」 からくるものである。

六、無限に発達した道徳意識

完成された霊性である。

かれは、聖霊と自由に交流できる。聖霊の助けを受け、ときには聖霊に命令することがで

また、他人の潜在意識・深層意識下にある霊性に呼びかけ、動かす力を持つ。

七、すさまじい爆発的な念力による願望達成力

これまでにのべてきた力を結集したもので、強烈な念の力によって定業とたたかい、定業 をくつがえす力である。

自分の理念願望を必ず実現する力を持つ。 その極限においては「念の物質化」も可能と

ざっと以上の能力である。

つちょういっせき

もちろん、これだけの能力が、一朝一夕に身につくものではない。 しかし、基礎課程から

たゆまずトレーニングしていったとき、かならず身につく能力である。

仏陀釈尊が、そのように作制された修行法なのだ。当然といえよう。

では、成仏法は、どのように作制されているのか?

諸天善神より集い、昼夜行者を護るな

「諸仏讃歎あそばさる

諸天善神より集い

昼夜行者を護るなり

因縁解説は大悲にて 福徳宝生大慈なり

大慈大悲のみほとけの

変化法身釈迦如来

変化法身仏舎利尊

福徳宝生身にうけて 因縁解脱の道を行く 仏舎利尊ぞありがたし 仏舎利尊ぞ尊とけれ 帰命頂礼 仏舎利尊

宝生解脱加持門の

信解のしるべ示さんと

のちの世のため人のため

つづりてあらあら和讃とす」

第三章 三種供養と三

仏法は、はっきりとわかるようになってくるというわけです。

諸天善神より集い、昼夜行者を護るな

しんげ

さんたん

「諸仏讃歎あそばさる

諸天善神より集い

昼夜行者を護るなり

因縁解説は大悲にて 福徳宝生大慈なり

大慈大悲のみほとけの

変化法身釈迦如来

変化法身仏舎利尊

福徳宝生身にうけて 因縁解脱の道を行く 仏舎利尊ぞありがたし 仏舎利尊ぞ尊とけれ 帰命頂礼 仏舎利尊

宝生解脱加持門の

信解のしるべ示さんと

のちの世のため人のため

つづりてあらあら和讃とす」

真正仏舎利さまは、仏教において唯一最高の本尊です。とてもふ つうの在家の人が戴けるものではない。ところが、あなたがたはご

自分の守護仏として、この仏舎利宝珠尊さまを戴いたのですから、

心を込めて毎日供養しなければいけません。

いままでお話ししたように、仏舎利を本尊として法にしたがって 供養を行なうならば、解脱と宝生の徳を戴くことができる。そして、 もしなにか困ったことが起きても、諸仏諸菩薩・諸天善神が必ず救 ってくださる。こんなすばらしいことはありません。ですから、心 から感謝しなければならない。

しかしそれと同時に、わたくしたち修行者が胸に銘記しておかな ければならないのは、自分は諸天善神が昼夜護ってくださるほどの 修行者であろうか、という反省がなくてはいけないということです。 自分は、本当に、修行者といえるほどの修行をしているであろうか? その名に恥じないだけの功徳を積んでいるであろうか? という反

省をつねに怠らないことが大切ではありませんか?

わたくしには絶対に不幸、災難は起こらない。 しかしながら、い まの自分は諸天善神が昼夜護ってくださるほど、仏道をしっかり歩 んでいるだろうか? 知らないうちに、横道に逸れてしまってはい ないか? わたくしを護ってくださる諸天善神に顔向けができな いような自分であってはならない。 諸天善神が護ってくださること は確実なのだから、その護ってくださる諸天善神に恥ずかしくない ような行動をしなければならない。

そのような反省を、わたくしはいつもしております。 これはあな たがたも同じですよ。あなたがたは諸天善神に護っていただいてい るわけですから、自分は護っていただくに値する修行者であるかど うかという反省をしなければいけない。その反省がなされることに

よって、より一層、諸天善神はみなさんを護ってくださるのです。

いつもいい加減なことをやっていたならば、仏の顔も三度といいま すから、そのうち諸天善神も、

「こいつは、いつも護ってやっているのに、いい気になってろくな ことをしてないから、きょう一晩、知らん顔をしてやれ」

となって、その一晩に泥棒が入った、ケガをしたなどということ になるといけませから、いつも諸天善神に対する感謝と反省を怠ら ず、しっかりと行を進めていかなければいけませんね。

それから最後にもう一度、帰命頂礼ということばが出ております。 この講義の最初のところで、帰命とは命懸けて帰一することである とお話しいたしましたが、 みなさんは本当に命懸けでこの修行を行 ないなさい。心から仏舎利尊さまに祈り、そして行動しなさい。そ

うすることによって、いままで何度もお話ししたように、仏舎利尊 さまはわたくしたちに解説と宝生の徳を授けてくださる。とくにわ たくしたちは、まず因縁解説を祈らなければいけない。その基本と なるのが、誓願を立てる、発願するということです。

ただしここで注意しなければいけないのは、仏さまに対して、 「因縁を切ってください」

とお願いするのは、まちがったお願いの仕方であるということで す。これは発願ではなく、おねだりです。仏さまや神さまに、こ うしてください、ああしてくださいとおねだりするのを、「おねだ 信心」あるいは「さしず信心」、または「こじき信心」といいま すが、これらは本当のお願いの仕方ではない。

なぜならば、おねだりをするということは、そのおねだりの中に

Here is an English translation of the passage you provided:

Avalokiteśvara Bodhisattva, while practicing deeply the Prajñāpāramitā, perceives that the five aggregates (form, sensation, perception, mental formations, and consciousness) are all empty and thereby transcends all suffering.

Śāriputra, form is emptiness, and emptiness is form. Form is emptiness, and in emptiness, there is no form. The same is true for sensation, perception, mental formations, and consciousness.

Śāriputra, all dharmas are marked by emptiness: they neither arise nor cease, are neither pure nor impure, neither increase nor decrease. Therefore, in emptiness, there is no form, no sensation, no perception, no mental formations, no consciousness. No eye, no ear, no nose, no tongue, no body, no mind; no form, no sound, no smell, no taste, no touch, no dharmas. No realm of sight up to no realm of consciousness. No ignorance, and no end of ignorance, up to no aging and death, and no end of aging and death.

There is no suffering, no cause of suffering, no cessation of suffering, no path. There is no wisdom, and there is nothing to be attained. Since there is nothing to be attained, the bodhisattvas, relying on Prajñāpāramitā, have no obstruction in their minds. Without obstruction, there is no fear. Far beyond all delusion, they reach ultimate Nirvāṇa.

All Buddhas of the past, present, and future, relying on Prajñāpāramitā, attain Anuttarā Samyaksaṃbodhi (the highest perfect enlightenment).

Therefore, the Prajñāpāramitā is the great transcendent mantra, the great bright mantra, the supreme mantra, the unequaled mantra, which removes all suffering and is true, not false. Therefore, the mantra of Prajñāpāramitā is declared: “Gate Gate Pāragate Pārasamgate Bodhi Svāhā” (Gone, gone, gone beyond, gone altogether beyond, Oh, what an awakening!).

This is a passage from the Heart Sutra (般若心経), one of the most important texts in Mahayana Buddhism.

 

般若波羅蜜多心経

般若波羅蜜多心経  Heart Sutra  Heart Sutra 般若波罗蜜多心经

観自在菩薩が深い般若波羅蜜多の道を修行する時、五つの蘊(色・受・想・行・識)がすべて空であることを照覧し、一切の苦悩を超越する。舎利弗よ、色は空であり、空は色である。色は空であるがゆえに、空には色はなく、また、受・想・行・識も同様に空である。舎利弗よ、このように、すべての法は空相であり、生まれもしないし、滅びもしない。不浄であるし、不浄でもなく、増えることもなく減ることもない。それゆえ、空には色もなければ、受・想・行・識もなく、また、目・耳・鼻・舌・身・意もなく、色・声・香・味・触・法もなく、また、眼界から意識界に至るまで、また、無明から無明尽に至るまで、老死もまた同じである。苦・集・滅・道もまた、同じく空であり、智慧もまた、得るものもない。何故なら、何も得るものがないからである。菩提薩埵たちは、般若波羅蜜多に依って、心に障りがないため、恐れもなく、悩みや迷いから解放され、究極の涅槃に至る。三世の諸仏たちは、般若波羅蜜多に依って、阿耨多羅三藐三菩提を得た。これが、大いなる真言であり、大いなる明言であり、最高の真言であり、すべての真言に優る真言であり、一切の苦悩を除く真実である。般若波羅蜜多の真言を説くときには、「ガテ・ガテ・パラ・ガテ・パラ・サンガテ・ボディ・ソワカ」(すでに到達している、すでに到達している、すべて到達している、すべて到達している、アワロックサン)と唱える。」

Here is the

 

 

観自在菩薩は、静かに目を閉じ、深い瞑想に入っていた。般若波羅蜜多の道を一歩一歩進む中、彼は目の前に広がる真実の光景を見つめていた。五つの蘊、すなわち色・受・想・行・識――これらすべてが空であることが明らかになり、彼の心は次第に一切の苦悩から解き放たれていった。

「舎利弗よ…」観自在菩薩は柔らかく語りかける。「色とは空であり、空とは色である。色が空であるゆえに、空の中には色が存在しないのだ。そして、受も想も行も識も、すべて同じく空である。」

彼の言葉は、深い静寂の中で響いた。舎利弗はじっと耳を傾け、理解を深めるように眉間にしわを寄せている。観自在菩薩の声は続く。

「舎利弗よ、この世のすべての法は、空相なのだ。生まれることもなく、滅びることもない。不浄でもなく、清浄でもなく、増えることもなく、減ることもない。それゆえ、この空には、色もなく、受・想・行・識も存在しない。目も耳も鼻も舌も身も意も、また色・声・香・味・触・法もないのだ。」

彼の言葉は、一つひとつが重く、そして広がりを持っていた。舎利弗の心の中に、無数の思索が浮かんでは消えていく。

「無明から無明の尽きるところまで、そして老死に至るまで、すべては同じなのだ。苦・集・滅・道さえも、空であり、何も得ることはない。」

観自在菩薩の眼差しは柔らかでありながらも鋭い。舎利弗はその言葉の重みを感じながら、悟りに近づいていくのを感じた。

「何も得るものがないゆえに、心には障りがない。恐れもなく、悩みや迷いから解き放たれ、究極の涅槃へと至るのだ。」

観自在菩薩は一息つき、空を見上げた。その瞳には無限の智慧が宿っている。

「三世の諸仏たちは、この般若波羅蜜多によって、完全なる覚り、阿耨多羅三藐三菩提を得た。それこそが、大いなる真言であり、すべての苦悩を除く真実の言葉だ。」

彼の唇から、静かに真言が発せられる。

「ガテ・ガテ・パラ・ガテ・パラ・サンガテ・ボディ・ソワカ…」

その瞬間、世界は静まり返り、舎利弗の心の中に広がる無限の空が、すべてを包み込んだ。

 

三種の供養こそ、最も尊いものとされている。

まず第一に、「事の供養」――身供養ともいう。これは、香華や燈明、そして清らかな塗り物を捧げ、できる限りの力で供養をすることを指す。供養の種を蒔かなければ、福徳という宝は決して生まれることはない。これは、まさに農作物に例えられる。たとえば、一升の種籾を蒔けば、五升や一斗もの豊かな収穫が得られるように、善行も蒔かねば実ることはないのだ。種を惜しんで蒔かないでいては、米や麦が収穫できるわけがない。功徳の種を蒔かずに、果報や福徳を得ようなどというのは、浅はかな望みでしかない。種は蒔けば蒔くほどに実る。だからこそ、骨身を惜しまずに蒔き続けなければならない。もし、解脱という宝を心から願うならば、まず梵行や功徳という種をしっかりと蒔くべきだ。

第二には、「行の供養」がある。わが身やわが子を助けたいと願うならば、まず他の人々を救うべきだと釈迦牟尼如来は説いている。これは因果の大法であり、自分のことばかりに囚われていては、決して因縁を解くことはできない。自らの身を嘆き、我が身を大切にしているうちは、悪しき因縁を積み重ねるばかりである。そしてその結果、今の苦しみが生じているのだ。だからこそ、行者は徳を積み、全力を尽くして他者を救わなければならない。

舎利供養を行う者は、十種の功徳をその身に受け、自然と人々の上に立ち、助ける存在となる。しかし、その功徳を得た後に、おごりや高ぶりが生じることは厳禁だ。おごりや怒りは、百千の功徳の種を瞬く間に焼き尽くしてしまう。だからこそ、下座の精進を忘れず、常に謙虚であらねばならない。そして如来の加持の力をその身に受けて、悩める人々を救い、苦しむ者の杖となれ、仏舎利供養を広めよ、と教えられている。

さて、第三に「理の供養」がある。これは、生身如来が説かれた七科三十七道品、つまり成仏の法の尊さを、広く世間に伝えることを指す。聖経を護持し、広めることこそ、理の供養であるのだ。

事・行・理の三つの供養こそが、仏舎利供養の根本である。この三種の供養を忘れず、常に心に留めることが肝要である。生身如来の教えに従い、三福の道を歩むことが、正法を仰ぎ見、如来のもとで成長していく聖衆の務めである。

この教えを忘れず、心に刻んで生きることで、人は真の解脱への道を歩み始めるのだ。

 

ある村の片隅に、古びた宝塔がひっそりと佇んでいた。その塔は、何世代も前から村人たちに大切に守られ、供養され続けてきた。塔の中には仏舎利、つまり仏陀の聖なる遺骨が納められており、その存在は村全体を包み込むような神秘的な力を秘めていた。

村の人々は、毎朝塔に手を合わせ、香をたき、灯明を捧げた。その供養は、彼らの生活の一部となっていた。誰もが知っていた。この宝塔がある限り、疫病も災いも遠ざかり、村は安穏に保たれると。

ある日、遠くの山から一人の若者が村に訪れた。彼は困窮に苦しみ、貧しさにあえぐ生活から逃れようと、村々を渡り歩いていた。衣服はぼろぼろ、食べ物もなく、道中で力尽きかけていたが、ふと立ち寄ったこの村で不思議な力に惹かれるように宝塔の前に立った。

「この塔に祈れば、何かが変わるだろうか?」若者はそう呟きながら、塔にひざまずき、手を合わせた。

突然、塔の中から柔らかな光が放たれ、若者の身体を包み込んだ。光の中から聞こえてくる声は、人間のものではなく、どこか天から降り注ぐような、静かで荘厳なものだった。「求めよ、されば与えられん。真心をもって供養せよ、そうすればお前の罪障は浄められ、道は開かれよう。」

驚いた若者は、声に従い、精一杯の祈りを捧げた。彼の心には次第に平安が訪れ、これまでの苦しみや悩みが薄れていくのを感じた。そして、その瞬間、塔の姿が変わった。瓦や石でできていたはずの塔が、七宝で装飾され、黄金の光を放つようになった。

若者は目を見張った。「これはただの塔ではない…神変妙の宝塔だ!」彼は思わず叫びそうになるのをこらえ、さらに深く祈りを捧げた。すると、まるで天からの雨のように、無数の宝珠が彼の前に降り注ぎ始めた。

「これが法身如来の力か…」若者はその奇跡に感謝し、以降毎日欠かさず供養を続けた。そして、その功徳は彼だけに留まらず、村全体に広がり、やがて誰もが宝塔に祈りを捧げるようになった。

時が経ち、若者は村の人々に「人を助けたいのなら、まずは自らが徳を積み、供養を忘れぬことだ」と語り伝えた。村人たちはその教えに従い、日々の行いを改め、互いに助け合いながら生きるようになった。

宝塔の光は、夜が訪れても決して消えることなく、村全体を静かに照らし続けた。それはまるで、如来の慈悲が形となったようであり、村の人々の心に深くしみ込んでいった。

この村の物語は、やがて周囲の地域にも広まり、人々は遠くからこの宝塔を訪れ、供養を捧げるようになった。そうして、村は栄え続け、誰もが平安を得る場所となった。

「宝塔を敬う心を持ち続けよ」と、若者は最後まで言い続けた。そして彼もまた、仏の教えに従い、静かにこの世を去っていった。

その後も、村の人々は彼の言葉を守り、宝塔に祈りを捧げ続けた。その塔は、今も変わらず村を守り、人々に幸せを与え続けている。

 

十六の法を成就する優婆塞こ

マハーナーマはある日、仏陀の前に進み出て尋ねた。「世尊よ、いくつの法を成就すれば、優婆塞は自らを安んじ、他者も安んじることができるのでしょうか?」

仏陀は優しく微笑み、静かに語り始めた。「マハーナーマよ、十六の法を成就する優婆塞こそが、自分を安んじ、他者も安んじる者である。では、その十六の法とは何か、今ここで説こう。」

仏陀の声は深く、聞く者の心に染み入るようであった。

「まず、自分自身が正しい信仰を持つこと。そして他者にもその信仰を確立させる。自ら浄戒を守り、他者にもそれを教える。布施を行い、その行いを他者にも教え導く。塔や寺院を訪れ、沙門に会い、その重要さを他者にも示す。沙門の説法をひたすら聴き、他者にもそれを勧める。法を守り、他者にも法を守ることを教える。仏法の深義を観察し、他者にもそれを促す。そして仏法の探求を深め、自らも他者も共に法を追い求めるのだ。」

マハーナーマは深くうなずき、仏陀の言葉に心を委ねた。仏陀の言葉は続く。「この十六の法を成就する者こそが、自らを安んじ、他者も安んじる優婆塞である。そうした者のもとには、大勢の人々が集う。バラモン、クシャトリア、長者、沙門、そのすべてが集い、優婆塞の徳を仰ぐのだ。まるで太陽の光が、日の出から日没まで輝き続けるように、その徳は大いに輝くのである。」

マハーナーマはその言葉を胸に刻み、再び問いかけた。「世尊よ、『安んじる』とは単に心が静かになるということなのでしょうか?」

仏陀は静かに首を振った。「真に安んじるとは、心の平安を超えて、すべての因縁から解脱し、成仏することを意味する。瞑想や坐禅で一時的な安らぎを得ても、因縁が残っている限り、苦しみは再び襲ってくる。真の安らぎとは、すべての因縁を切り離し、完全なる解脱を得ることにあるのだ。」

その言葉を聞いたマハーナーマは深い感動を覚え、仏陀に深く感謝した。彼は静かに席を立ち、仏陀に一礼してその場を去った。仏陀の教えは、彼の心に新たな光を灯し、永遠に響き続けるであろう。

 

信、戒、施、聞、 持、観、法次、法向

満足な優婆塞となるための条件を最初から挙げると、まず第一が信、そして順番に信、戒、施、聞、 持、観、法次、法向と全部で八つあります。 これを、「優婆塞の八法」と呼びます。

それぞれの意味を箇条書きにすると、次のようになります。

信・・・・・正しい智慧で信心の心を起こす

戎・・・・・信の心を元に、やってよいことと悪いことの分別をつけ、仏教徒としてやってはいけないことはやめ、やらなければいけないことは積極的にやる
を積むために布施の行をする

布施・・・・・・道場(精舎)に行って、仏さまや沙門の話を聞く

持・・・・・・聞いた説法の内容を受持し、実行する

観・・・・・・受持した教法の深い意味をよく観察し工夫する

法次・・・法に近づく

法向・・・法を追及していく

なのです。

お釈迦さまは、この八法を行うならば優婆塞事を満足する、とおっしゃいました。

ところがそれにもかかわらず、マハーナーマはさらに、

「世尊、 何が優婆塞能く自ら安慰し他を安慰せずと名づくるや」

と質問をしました。 これは、自分を安慰させても、人を安慰させることのできない優婆塞とい うのは、どういう優婆塞でしょうか、という意味です。

それに対してお釈迦さまは、次のような優婆塞は自分を安慰させることができても、人を安慰

させることはできない、とおっしゃっております。

○自分が信を持っても、他の者に信心を起こさせない

○自分が戒を保っても、他の者が戒を保つように努めない

○自分が布施をしても、他の者が布施をするように努めない

○自分が道場に参詣して法話を聞いても、他の者に参詣と法話の拝聴を勧めない

○自分が正法を受持しても、他の者に正法を受持するように勧めない

○自分が教法の深い意味を観察しても、他の者が教法の深い意味を観察するように勧めない

○自分が教法の深い意味を知り、法に近づこうとしても、他の者が教法の深い意味を知り、 法に近づこうとするように勧めない

自分が教法の深い意味を知り、法を追及しても、他の者が教法の深い意味を知り、法を追 及するように勧めない

要するに、八法を自分で実践するだけでは人を救うところまではいかない、ということです。 自分だけが修行をするだけで、それを人に勧めないようでは真の仏道とはいえない、ということ