UA-135459055-1

霊的なる旅: 成仏法と秘儀の探求”   A Spiritual Journey: Exploring the Dharma and Mysteries of Buddhahood”


 

心の冒険: 霊性開発の秘儀と叡智”

 

1. チベット密教の「思念による王者の相承」は霊的バイブレーションによる伝達。
2. 解説に至る四つの階梯のうち、第三の境地に達するには間脳開発の練行tapasが必要。
3. 四つの階梯はsrota äpanna-、sakrd-agamin-、anāgamin-、arhat-で構成される。
4. 大脳辺縁系・新皮質脳を殺す修行が必要で、問脳を開発するためには一時的にこれらを閉ざす。
5. 霊性完成の方法と体系は釈尊の「成仏法」であり、七つのシステムと三十七種のカリキュラムから成る。
6. グルの役割は霊性開顕の仏道修行において不可欠であり、グルの受け入れは成功の大きな要素。
7. グルに対する畏敬と憧憬の心は非常に重要であり、グルは仏陀そのものとして崇められるべき存在。
8. 受け入れの秘儀は仏教の入門得度に相当し、凝視の方法とアージュニャー・チャクラへのメッセージ伝達から成る。
9. 霊感伝授受け入れの秘儀は更に高度で、脳の深部の霊性の場に強力な霊力を送り込む。
10. 「霊感伝授受け入れの秘儀」は成仏法を完全に受け入れ、思念の力を受けとるためのもの。

1. Tibetan Esoteric Buddhism’s “succession of the king through thoughts” is transmission through spiritual vibrations.
2. Of the four steps leading to explanation, reaching the third state requires practice tapas of diencephalon development.
3. The four ladders consist of srota äpanna-, sakrd-agamin-, anāgamin-, and arhat-.
4. Training to kill the limbic system and neocortical brain is necessary, and in order to develop the interrogative brain, these should be temporarily shut down.
5. The method and system for spiritual perfection is Shakyamuni Buddha’s “Dharma for attaining Buddhahood,” which consists of seven systems and 37 types of curriculum.
6. The role of a guru is essential in Buddhist training for spiritual enlightenment, and acceptance of the guru is a major factor in success.
7. It is extremely important to have awe and admiration for the Guru, and the Guru should be revered as the Buddha itself.
8. The Mystery of Reception corresponds to the initiation degree of Buddhism and consists of the method of gazing and the transmission of messages to the ajna chakra.
9. The mysteries of receiving inspiration are even more advanced, sending powerful spiritual power into the deep spiritual fields of the brain.
10. The “Mystery of Acceptance of Inspirational Transmission” is for fully accepting the Dharma of Buddhahood and receiving the power of thought.

 

賢明な読者はすでにお気づきであったろう。これが、チベット密教のいう 「思念による王者の相承」であることを。 思念による王者の相承とは、じつ に、霊的バイブレーションによる伝達だったのである。

 

わたくしは、これによって、解説に至る四つの階梯のうちの、第三の境地に 達したことを自覚したのであるが、これは、 間脳開発の練行tapasを成就してい なかったら、絶対に得られなかったものである。 内なる受容の態勢がととのっ て初めて、外よりの王者の相承が発せられるのである。

解脱に至る四つの階梯

バイブレーション

いま、わたくしは、「解説に至る四つの階梯」といった。

 

だれでも、解脱に至るためには、この四つの段階を経なければならない。そ

してこの四つの階梯を、すぐれた聖師にしたがって歩んでいくならば、だれでも 解説に到達できるのである。もちろん、あなたにしてもそのとおりだ。

四つの階梯とは、

そこで、この四つの階梯について、のべてみよう。

1 srota äpanna-

二、 sakrd-agamin-

三、 anāgamin-

四arhat-

である。

説明すると

須陀きよめられた聖者

 

阿那含

阿羅漢

斯陀含

高められた聖者

阿那

飛躍した聖者 (次元を)

阿羅漢

次元を超越し、完成した聖者、「仏陀」ともいう。

インスピレーション

では、この四つの階梯を、修行者はどのようにして歩んでいくのだろうか。

大脳辺縁系・新皮質脳を殺す修行

それはひと口にいって、大脳辺縁系・新皮質脳を殺す修行である。

大脳辺縁系と新皮質脳を殺さなければ、 間脳は作動せず、第三の目は開かな いのである。

ただし、誤解してはいけない。 大脳辺縁系・新皮質脳を殺すということは、 究極において、大脳辺縁系、 ことに新皮質脳を生かすということなのである。新 皮質脳は「創造の座」であるといわれる。しかし、ほんとうの創造の座は間脳に あるのである。 間脳はこれまでくり返し説いてきたように、霊性の場であり、

感のなのである。ここが開発されることにより、ほんとうのインスピ レーションが発生するのである。

ただし、問脳を開発するためには、しばらくの間、大脳辺縁系と新皮質脳を 閉ざさなければならないのである。 間脳が開発されたとき、新皮質脳は新しく よみがえる。新しくよみがえった新皮質脳こそ、霊性を基盤とした超人的なイ ンスピレーションと創造力を持つ頭脳となるのである。

ではそれはどんな修行か?

霊性完成の方法と体系

釈尊が残した霊性完成の修行法がそれである。 これを、わたくしは、 「成仏 「法」とよんでいる。成仏とは霊性を完成したことをいい、それを成就した人を

「仏陀」とよぶ。だからわたくしはその方法を、「成仏法」とよぶのである。 くわしくは、「輪廻転生瞑想法II」 でのべたとおりであるが、それは七つのシ ステムと三十七種のカリキュラムから成る成仏のための方法と体系である。これ

阿含経では「七科三十七道品」あるいは「三十七菩提分法」 とよぶのであ る。この二つの名称は、わたくしが勝手につけたのではない。古来からの仏教用 語である。

わたくしが、阿含経以外のお経法華経、阿弥陀経をはじめすべてのお経 いささか激しい表現で批判するのは、阿含経以外のお経には、どの経典に も、この成仏法がないからである。釈尊がじっさい説かれたのは阿含経だけで あるという歴史的な事実のほかに、阿含経以外には、この「成仏法」がないか わたくしはそういうのである。 「成仏法」のない経典など、わたくしは真実 仏教経典と認めることはできないのである。もちろん、それなりの存在意義 なり存在価値はあろうが、本流ではない。傍流というべきである。このことに 関しては、わたくしの他の著書を読んでいただきたい。

七科三十七道品とはつぎのようなものである。

 

四法

身念住法 受念法

心念住法。

法念住法

以上である。

四正断法 断断法修断法 随護断法 律儀断法

四神足法 神足法 勤神足法 心神足法 観神足法

五根法 信根法 精進根法 念根法定根法 慧根法

五力法 ―信力法 精進力法 念力法定力法 慧力法

七党支法 一択法覚支法 精進覚支法 喜覚支法 軽安覚支法 捨覚支法 定覚支法念覚支法

八正道法正見法 正思惟法 正語法 正業法 正命法 正精進法 法定法

この七科目、三十七種のカリキュラムは、

う。

 

に分類できる。

四念法・五根法は、瞑想である。

霊性の洗礼

四正断法・五力法・七覚支法・八正道法は、実践と瞑想である。

四神足法は、特殊な練行tapas である。

神足とは、神通力(超能力)のことで、この四神足法は、 超自然の神通力を得 るための四種の修行法である。 前にのべたわたくしの練行tapas はこれに属する

この七つの科目のうち、 練行tapasを中心に、瞑想と実践の科目をとり入れて 修行するのである。どの科目をどうとり入れて、どのように訓練するかは、 聖師が決定する。修行者それぞれ、みな素質と因縁がちがうので、それを見 て、グルが決めるのである。

この修行において、グルの果たす役目は大きい。グルについて、少しのべよ

まず、間違いなく霊性を開顕したグルを見つけて、そのグルに受け入れても らうことである。それができたら、この修行は八分どおり成功したといっていい くらいである。それくらい重要なことであり、かつ、むずかしいということで ある。

グルなくして、正しい霊性開顕の仏道修行は不可能である。ふつうの仏教信 心とはちがうのである。 信心のしかたや、信仰のしかた、経典の講義や解釈を教 わるという程度のものならばとにかく、霊性開顕の仏道修行は、強力な霊的能力 を持つグルの助けなくしては、絶対といっていいほど、できないのである。

たとえば、インド近代の聖者ラーマナ・マハリシが、入門者に対して、「凝視 の方法」で受け入れの儀式をおこなったとき、彼の両眼の輝きと力が相手の心 をつらぬいて、その雑念の流れを断ち切ってしまったといわれる。ときとして は、まるで電流が身の内に流れ込んだように相手は感じたともいわれる。

こういう霊的体験によって、弟子はまず心をきよめられ、霊的なものに対す あこがれ、霊的向上心をいだくようになるのである。霊性の洗礼である。その 人の素質にもよるけれども、一度、霊的な洗礼を受けた者は、霊的感覚がひら かれ、霊的世界への憧憬が芽ばえる。いままでとちがう高い次元の存在が、感覚 されるのである。霊性開顕への第一歩で、これが非常に大切なのである。わた くしなども、弟子に対し、 わたくし独自の受け入れの方法をおこなうが、ただ問 題は、ほんとうに霊性開顕したグルは非常に稀だということである。 にせもの グルや、未熟なグルにかかわり合うと、とり返しのつかぬことになる。まず、 間違いなく霊性を開顕したグルを見つけること、つぎにそのグルに受け入れても らうことだ。グルはなかなか弟子を受け入れないものである。

さいわいに、受け入れてもらった弟子の心がまえについて、のべておこう。 グルに受け入れてもらったら、弟子は、そのグルに心からしたがうことであ る。心から尊び敬わなければならない。

グルは弟子にとって仏陀そのものなのである。グルは弟子にとって、過去に

へんげしん

出現した仏陀たちの変化身であり、未来の仏陀たちが生まれ出る母であり、い まここに仏陀を体現している尊い存在なのである。

グルは、弟子にとって、この世の中のいかなるものよりも尊い、かけがえの ない存在であるといわねばならない。なぜならば、弟子は無限の昔から輪廻の旅 をつづけて、いまここに至っている。 これからも苦しい輪廻の旅を無限につづけ ていかなければならない。過去、いままでの生)にどれだけ多くの仏陀たちが 輪廻の鎖を断ち切ってニルヴァーナに至るようよびかけたことであろうか。し かし、煩悩と悪行に心曇らせていたために、弟子は、それらの仏陀たちの招き にこたえることができなかった。それがいま、ここに、無量の慈悲心をもって ニルヴァーナに導いてくれる師があらわれ、その方と縁が結ばれた。グルこそ 仏陀そのものなのである。その深い畏敬と憧憬の心をもってグルにしたがった とき、グルは全身全霊の力をもって、弟子を導いてくれるであろう。グルは、 弟子と仏陀とを結ぶかけがえのない水路であり、この水路を通じて仏陀の霊性 霊的パワーが弟子の心に流れ込んでくるのである。最終的な霊性の開顕は、

グルからの霊的パワーの感応なのである。 感応道交といい、画龍点睛という言葉があるが、すべての技法の最後の仕上げは、グルからの霊的感応なのであ る。そしてそれは、師と弟子と、純一無雑に心が融け合わねばなしえないもの なのである。

受け入れの秘儀

ここで、わたくしがおこなってきた独自の「受け入れの秘儀」についてお話 ししておこう。

わたくしのおこなう、「受け入れの秘儀」とは、凝視のしかたと、 それから、 わたくしの指導によるアージュニャー・チャクラへのメッセージ伝達から成っ ている。

この凝視のしかたをおこなう聖者は、ほんのわずかであるが、わたくし以外 にもおられる。しかし、これは、クンダリニー・ヨーガを完成した聖者でなけれ ばできない。

このことは、前出の『密教・超能力の秘密」に書いているが、このころ、わ たくしは「受け入れの秘儀」に凝視のしかたで臨むということを、 すでに決め ていた。しかし、残念ながら、当時、わたくしの弟子として受け入れることので きる人は、まったくといっていいほどいなかった。 最近になってようやく、熱心 に修行している弟子の中から出てきて、実現できたのである。

「受け入れの秘儀」は、いわば仏教の入門得度にあたる。だから、弟子のことを いつも心にかけ、その一人一人に応じたしかたで指導していく。凝視したとき に、 「今後、どのように指導していったらよいか。 どういう霊障を持っているの か」がすべてわかってしまうので、それに応じて指導していくのである。

そして、アージュニャー・チャクラへのタッチも、おこなう。 弟子へのメッ セージを伝えるのである。それには三種類あるが、いずれも、潜在意識に直に 伝える。これは、前述の「思念による王者の相承」の一部にもなっているので ある。

さらに高度な「霊感伝授受け入れの秘儀」へ

既刊「輪廻転生瞑想法I」でのべたとおり、阿含宗は、すでに南伝、北伝、 東伝の三つの仏教体系を統合した世界で唯一の完全仏教教団であったが、先 年、ブータン仏教から強力な霊力を持つ、世界最高の霊法を伝えられたことに より、霊力の面でも完璧となり、名実ともに世界的な完全仏教となった。

わたくしは、この世界最高の霊法をもって、前述の「受け入れの秘儀」を発 させた、さらに高度な秘儀、「霊感伝授受け入れの秘儀」をはじめることにし た。

なぜ霊感伝授”なのか?

さきほどわたくしは、

インスピレーション

間脳はこれまでくり返し説いてきたように、霊性の場であり、霊感の座 なのである」

とのべた。

霊感伝授〟としたのは、この秘儀が、霊感の座である間脳にアプローチする 秘儀だからである。

「受け入れの秘儀」は、凝視のしかたとアージュニャー・チャクラへのタッチ であったが、この「霊感伝授受け入れの秘儀」は、さらに脳の深部の霊性の場 二、強力な霊力を送り込む。

高度の秘儀であるので、そうとうに熱心に修行して、ある程度霊性を開顕し 弟子しか受けることができない。 しかし、弟子たちは、この「霊感伝授受け 入れの秘儀」を受けることで、成仏法を完全に受け入れることができる、ひと つの思念の力を受けとるのである。

 

Astute readers may have already noticed this. This is what Tibetan Esoteric Buddhism calls “succession of the king through thought.” The succession of kings through thought was actually communication through spiritual vibrations.

 

Through this, I realized that I had reached the third state of the four steps leading to explanation, but this is because I had achieved tapas, an exercise in the development of the diencephalon. It was something I could never have gotten. It is only when the inner state of acceptance is established that the mutual acceptance of the king from the outside can be expressed.

Four steps leading to liberation

vibration

Now, I call it “four steps leading to explanation.”

 

Anyone must pass through these four stages in order to attain liberation. So

Anyone can reach the explanation by walking through these four steps according to the guidance of an excellent sage. Of course, the same is true for you.

What are the four stairs?

So, let’s talk about these four steps.

1 srota äpanna-
2. sakrd-agamin-
3. anāgamin-
Four arhat-

It is.

To explain

Suda Purified Saint

 

Anagome

Arhat

Includes Sida

exalted saint

Ana

The Saint Who Leaped (Dimension)

Arhat

A saint who has transcended dimensions and achieved perfection, also known as the “Buddha”.

Inspiration

So, how does a practitioner walk through these four stages?

Training to kill the limbic system and neocortical brain

Simply put, it is a training that kills the limbic system and neocortical brain.

Unless the limbic system and neocortical brain are killed, the diencephalon will not function and the third eye will not open.

However, don’t get me wrong. Killing the limbic system and the neocortical brain ultimately means keeping the limbic system, especially the neocortical brain, alive. The neocortical brain is said to be the “seat of creativity.” However, the true seat of creation is in the diencephalon. As I have repeatedly explained, the diencephalon is a place of spirituality,

It’s a feeling. It is through this development that true inspiration occurs.

However, in order to develop the brain, the limbic system and neocortical brain must be shut down for a while. When the diencephalon is developed, the neocortical brain is reborn. The newly revived neocortical brain becomes a brain with superhuman inspiration and creativity based on spirituality.

So what kind of training is that?
Method and system of spiritual perfection

This is the training method for spiritual perfection left behind by Shakyamuni Buddha. I call this the “dharma” of attaining Buddhahood. Buddhahood refers to the completion of spirituality, and refers to the person who has achieved this.

It is called “Buddha”. That is why I call this method “the method of attaining Buddhahood.” In detail, as mentioned in “Reincarnation Meditation Method II,” it is a method and system for attaining Buddhahood that consists of seven systems and a curriculum of 37 types. this

In the Agon Sutra, it is called “Seven Sciences, Thirty-Seven Ways,” or “Thirty-seven Bodhisattvas.” I did not choose these two names arbitrarily. It is an ancient Buddhist term.

The reason why I criticize all the sutras other than the Agon Sutra, including the Lotus Sutra and the Amida Sutra, in rather harsh terms is because none of the sutras other than the Agon Sutra do not have this method of attaining Buddhahood. In addition to the historical fact that Shakyamuni Buddha actually preached only the Agon Sutra, there is no other “Dharma for attaining Buddhahood” other than the Agon Sutra. I cannot accept any sutra without the “Dharma of Buddhahood” as a true Buddhist sutra. Of course, it has some significance and value, but it is not mainstream. It should be called a side stream. Please read my other books on this subject.

The thirty-seven disciplines of the seven disciplines are as follows.

 

four laws

Mind-judgment method Acceptance method

Mind meditation method.

Hoenjuho

That’s all.

Shisei Danho, Danshaho, Modification Law, Zuigodanho, Ritsugidanho
Four God Foot Laws, God Foot Law, Shinshin Foot Law, Shinshin Foot Law, Kanshin Foot Law
Five-radical method, Shin-kon method, Shojin-kon method, Nekkon-ho root method, Kei-gen method
Five power methods – Faith method, Devoted power method, Psychokinesis law, Eiryoku method
Seven-Party Branch Method One-Choice Method Gaku-Chi Method Shojin Gaku-Chi Method Ki-Kaku-Chi Method Light An-Kaku-Chi Method Saku-Gaku-Chi Method Jo-Gaku-Chi Method Nen Gaku-Chi Method
The Eightfold Path, the Law of Right View, the Law of Right Thought, the Law of True Words, the Law of Right Work, the Law of True Life, the Law of True Shojin Law, the Law of Statutory Law

These seven subjects and 37 types of curriculum are:

cormorant.

 

It can be classified into

.

The Four Thought Laws and the Five Root Laws are meditations.

baptism of spirituality

The Fourfold Dharma, the Five Powers, the Seven Awakenings and the Eightfold Path are practices and meditations.
Shigami Ashiho is a special practice of tapas.

Kamiashi refers to divine power (superpower), and these four divine foot methods are four types of training methods to obtain supernatural power. My practice tapas that I mentioned earlier belongs to this category.

Among these seven subjects, training focuses on tapas, meditation, and practice. The priest decides which subjects to incorporate and how to train them. Each practitioner has different qualities and connections, so the guru decides based on this.

The guru plays an important role in this training. Tell me a little about Guru.

First of all, find a guru who has definitely revealed spirituality, and even if you are accepted by that guru, he will not accept you. If he can do that, he can say that this training has been 80% successful. He says it’s that important and difficult.

Without a guru, proper Buddhist training for spiritual enlightenment is impossible. This is different from ordinary Buddhist devotion. Even if it is just a matter of being taught how to have faith, how to have faith, and how to lecture and interpret scriptures, Buddhist training for spiritual enlightenment is absolutely impossible without the help of a guru with powerful spiritual abilities. Suffice to say, it can’t be done.

For example, when Ramana Maharishi, a modern Indian sage, used the “method of gaze” to perform an acceptance ritual for initiates, the brilliance and power of his eyes penetrated the hearts of the initiates, clearing them of their thoughts. It is said that the flow has been cut off. It is said that at times he felt as if an electric current had flowed into them.

Through this kind of spiritual experience, the disciple’s heart is first purified, and he develops a longing for spiritual things and a desire for spiritual improvement. It is a baptism of spirituality. Although it depends on the person’s caliber, once a person has undergone spiritual baptism, their spiritual senses are enlightened and their yearning for the spiritual world begins to bloom. The existence of a higher dimension than before can be sensed. This is the first step towards spiritual enlightenment and is extremely important. I, his comb, etc., use my own method of acceptance for my disciples, but the problem is that there are very few gurus who have truly achieved spiritual enlightenment. If you get involved with a fake guru or an immature guru, you will be irreversible. First, find a guru who has definitely revealed spirituality, and secondly, if you are accepted by that guru, he will not accept you. Gurus do not easily accept disciples.

I would like to say this about the heart of the disciple who was fortunate enough to be accepted. Once a disciple is accepted by a guru, he becomes a disciple by following the guru wholeheartedly. It must be respected and respected from the heart.

The guru is the Buddha for his disciples. The guru is the past for the disciple.

Hengeshin

She is the incarnation of the Buddhas who have appeared, the mother from whom future Buddhas will be born, and she is a precious being who truly embodies the Buddhas.

It must be said that for the disciple, the guru is an irreplaceable person, more precious than anything else in this world. This is because the disciple has been on a journey of reincarnation since time immemorial and has now reached this point. From now on, he must continue his painful journey of reincarnation. How many Buddhas have called upon us in our past lives to break the chains of reincarnation and reach Nirvana? However, because his mind was clouded by his worries, desires, and evil deeds, the disciple was unable to respond to the invitations of these Buddhas. Now, here, a teacher appeared who guided him to Nirvana with infinite compassion, and he formed a bond with that person. The Guru is the Buddha himself. When he follows his guru with deep reverence and admiration, the guru will guide him with all his strength. The guru is an irreplaceable waterway that connects the disciple and the Buddha, and it is through this waterway that the Buddha’s spiritual power flows into the heart of the disciple. The final manifestation of spirituality is

It is a response of spiritual power from the Guru. There is a term called sensō doko (sensation path training), and the final touch of all techniques is spiritual sensitivity from the guru. And this is something that can only happen if the hearts of master and disciple are united in a simple and pure way.

the secret of acceptance

Here, I would like to talk about the unique “Mystery of Acceptance” that I have been practicing.

The “Mystery of Reception” that I perform consists of a method of gazing and then, under my guidance, transmitting a message to the ajna chakra.

There are only a few saints other than myself who use this method of gazing. However, this can only be done by a saint who has perfected Kundalini Yoga.

I wrote about this in the aforementioned “Secrets of Esoteric Buddhism and Psychic Powers,” but around this time he had already decided that he would approach the “Mystery of Acceptance” with a fixed gaze. Ta. Unfortunately, at that time, there were very few people who were willing to accept me as my disciple. It was only recently that he came out among the disciples who were diligently practicing and was able to realize it.

The “Mystery of Acceptance” is, so to speak, an introduction to Buddhism. Therefore, he always cares about his disciples and instructs them in a way that suits each one of them. When he stares at him, he knows everything about how to guide him in the future.

Also, touch the ajna chakra. He conveys his message to his disciples. There are three types of it, all of which convey information directly to the subconscious mind. This is because it is part of the aforementioned “succession of the king through thought”.

Towards a more advanced “Mystery of receiving inspirational transmissions”

As mentioned in the previously published book “Reincarnation Meditation Method I”, the Agon sect was already the only complete Buddhist sect in the world that integrated the three Buddhist systems of Southern Buddhism, Northern Buddhism, and Eastern Buddhism. By transmitting the world’s best spiritual law with powerful spiritual power, Buddhism became perfect in terms of spiritual power and became a world-famous complete Buddhism in both name and reality.

Using the world’s highest spiritual law, I decided to begin an even more advanced mystery, the “Mystery of Inspirational Initiation Acceptance,” which had given rise to the aforementioned “Mystery of Acceptance.”

Why “inspirational transmission”?

A while ago, I

Inspiration

As I have repeatedly explained, the diencephalon is a place of spirituality and a seat of inspiration.

He said.

The reason why it was called “Inspirational Initiation” is because this mystery approaches the diencephalon, which is the seat of inspiration.

The “Mystery of Acceptance” involved gazing and touching the ajna chakra, but this “Mystery of Inspirational Initiation Acceptance” further explores the deep spiritual places in the brain and the powerful spiritual power. Send it in.

Since it is a highly esoteric ritual, only disciples who have practiced it diligently and have revealed their spirituality to a certain extent can receive it. However, by receiving this “Mystery of Inspirational Transmission and Reception,” disciples receive the power of a single thought that enables them to fully accept the Buddhahood Dharma.

 

 

http://cyber-price.com/buddha/

Buddha  Japan Journal

Buddha Japan journal

日本の仏教を発信しますSend Japanese Buddhis

Buddha 2Japan journala

日本の仏教を発信しますSend Japanese Buddhis   sサイト

大日如来の智慧を表現した「金剛界」 .一印会 “Kongokai” expressing the wisdom of Dainichi Nyorai.Ichiinkai

 

胎蔵界曼荼羅 たいぞうかい Womb Realm Mandala Taizokai

 

s

●阿含経・三供養品 すべてのものは因縁所生 ●Agon Sutra/Three memorial services All things are born of destiny.

すべてのものは因縁所生

 

しかし仏教では、すべては縁起であり、因縁所生のものであるから、永遠不滅の実在などなく、 あらゆる存在が業により生じ、 業によって滅していくと考えるわけです。仏教も輪廻転生を根本 教義の一つとしておりますが、アートマンが輪廻転生するとは考えません。アートマンは実在し ない。これを中国では「無我(旧訳では非我)」と訳しました。アートマンを「我」と漢訳し、そ 「我」がないということで「無我」としたわけです。 すべてが因縁により生じ、因縁によって 滅するのであるから、人は運命を変えることができるのです。それが仏教の基本的な立場であり、 バラモン教やヒンドゥー教と違う点です。

もしもアートマンが実在し、それが輪廻転生するのであるならば、人は運命を変えることも、 輪廻から解脱することもできません。 なぜならばアートマンは常住不滅・常恒不変なのですから、 消滅させることも変化させることも不可能だからです。アートマンなどは実在せず、すべてのも のが因縁によって生じ、また滅していくからこそ、人は生死輪廻から解脱することができるわ けです。お釈迦さまはそのように縁起の真理を説かれました。

さらにバラモン教やヒンドゥー教では輪廻転生を説くものの、そこからの脱出方法は、あまり 明確には示しておりませんでした。そのために古代インドの人々は、非常に苦しんだのです。輪 廻の中で生き続け、そこから脱出することがままならないわけですから、彼らは来世を案じて苦 しみました。

「来世はよい境界に生まれたい」

あるいは、

と考えました。

いかないまでも、悪に堕ちたり動物や虫に生まれて悲惨な一生を送りたくなバラモン教やヒンドゥー教も葉報思想を持っておりますから、現世で悪業を積んだならば、 来 世は悲惨なものに生まれて苦しむぞと説きます。 犬に生まれてくるかもしれないし、豚に生まれ ソーセージにされてしまうかもしれない。 またはゴキブリに生まれて、叩き殺されるかもしれ ません。 来世はなにに生まれるか分からないのですから、一分一秒たりとも気が抜けないのです。 これは古代インドの人たちにとって、すさまじいプレッシャーになりました。現代のヒンドゥー 教徒も同じです。 彼らは常に来世を考えて行動しています。 現在よりも来世のことを考えて、 戦々恐々としているのです。そして、来世で苦しみの生を享けないように、神々を拝み、供物を 捧げています。 古代インドでも現代のインドでも同じです。 これでは生きた心地がしないだろう、 とわたくしは思います。

ところがお釈迦さまが、 アートマン思想が蔓延している古代インドに出現されて、「すべては因縁所生であって、アートマンなどという常住不滅・常恒不変の実在などはない」と縁起の法を説かれ、さらには輪廻から完全に解脱する方法・成仏法を説かれたものですから、 当時の人々は、みな、びっくりしたわけです。

けれども、お釈迦さまのおっしゃることをよく聞いてみると、なるほどと納得できます。 お釈 一旦九

迦さまの教法によって、当時のインドの人々の心からプレッシャーがなくなりました。 これが、 お釈迦さまの教法がもたらした、第一の救いでした。日本人の、それも現代人のわたくしたちに はなかなか理解できませんが、彼らには最高の福音だったのです。

すべてが縁によって起こる。 縁によって生じ、緑によって滅するのであって、 常住不滅・常恒 不変のものはなにもない。これは、すばらしい真理です。 昔、日本のある名僧が、縁起の法を歌 に詠まれました。

引き寄せて結べば朱の庵かな解くれば元の野原なりけり」

じつに分かりやすい名歌ですね。野原に小屋のような庵が一軒あります。それはいろいろな木 材や茅・柴を縛ったり組んだりして造られているけれども、それらをばらばらにしてしまった ら、もとのなにもない野原に戻ってしまう。板きれ、 茅、 柴が転がっているだけの、ただの野原 です。それらの材料を集めて、家の形にしたならば庵になるけれども、ばらばらにしてしまった ら、もう庵ではありません。材料が緑によって集まり、仮合して庵になっているだけですから、 それは常恒不変ではありません。 存在はしているけれども、実在ではありません。 これを仏教で は「空」と呼びます。

人もの庵も同じです。わたくしも緑によって桐山靖雄という人間になっているだけで、桐山 靖雄としての縁がなくなったならば、違う存在になってしまいます。まさに空です。 縁起という ことは、すべてのものが条件によって変化し続けることでもありますから、古い訳では縁起の法を変易の法としております。 変易とは変化するという意味です。

お釈迦さまは、「一切は空であって一切告空)、アートマンはない(諸法無我」と説かれました。緑によって生じ、緑によって滅するのだから、 常住不滅・常恒不変の自我が実在すると考え るのは間違いなのです。

ところがそれでも、アートマンが実在すると信じている人がたくさんおります。 縁起の法が分 からない、あるいは理解しようとしないという煩悩が身見なのです。 前述のようにアートマンは 「我」と漢訳されますので、身見は別名を我見といいます。

身見のもう一つの意味は、常住不滅・常恒不変の実在がないということが理解できないために 生じる自己中心的な考え方です。 凡夫は永遠不滅の自我があると考えるために、自分に執着し、 「自分のもの」に執着します。 これを仏教では我執といいます。この世に「自分のもの」などあ りはしません。 今、自分が所有していたとしても、それは自分のところに来る緑がたまたま存在 したから、仮に自分のところにあるだけで、永遠に自分の手もとにあるわけではありません。 緑 がなくなればだれかの手に渡ったり、壊れてなくなったりします。 しかし、縁起の道理が分から ないから、

「自分のものなのに!」

と執着するのです。これも身見です。

仏道修行者は、永遠不滅の自我が実在しているという妄執と、なんでも自分中心に考える我執 を断ち切らなければならないのです。

この場合の疑惑とは、ただ物事を疑って信じないということではありません。 仏さまの正しい

教えを疑い惑って、なかなか信じないという意味での疑惑です。お釈迦さまの正法に疑いを持つ 煩悩、これが疑惑です。

戒取とは、お釈迦さまの正しい教え以外の宗教、あるいは倫理・道徳・哲学などを信じて、お 釈迦さまの真実の教法を信じようとしない煩悩です。

-三結断じた第一の聖者

以上の身見・疑惑・戒取の三つを完全に切った人が須陀酒です。 須陀酒は別名を預流といいま す。流れに預かる (入る) と書くわけですが、どのような流れに入るのでしょうか?これは聖者の流れに入るという意味です。須陀酒になった人は聖者で、須陀酒になっていない 人は凡夫です。それで須陀酒を聖俗の分かれ目とします。 須陀酒になると二度と聖者の流れから 堕ちることはなく、必ず成仏に向かいますので、これを「不退転の法を成する」というのです。 もちろん同じ須陀洹でも、須陀洹になってからの修行の具合によって、成仏までの時間は異な ります。一生懸命に修行をするならば早く成仏しますし、怠けていたならば時間がかかります。 けれどもいずれにしても、必ず最後には成仏します。

「阿含経」には、須陀は人間界と天上界を七度往来して成仏する、と記されております。 須陀 がこの世を去ると、天上界に生じて天になります。 仏教の天とは、「運を天に任せる」の「天」 のようなとらえどころのないものではなく、サンスクリット語の「デーヴァ」を訳したもので、 神の境界のことです。 仏界と人間界との間に、天上界という神々の世界があるわけです。天は仏 のように完全な解説は得ていません。 しかし、人間よりは解脱に近づいている存在です。

一般に、天は一神通を持つとされます。 ○○天という名前でお祀りされているのはみな天上界 の神々で、成仏はしていないものの一つの神通を身に備えておられます。たとえば大黒天、弁才 天韋駄天などがそうです。韋駄天は韋駄天走りという言葉があるように、駿足の神さまです。 あっという間に二、三百キロメートルくらい走ってしまいます。ですからマラソン選手などは、 韋駄天を信仰するとよいかもしれません。弁才天というのは芸能の神です。 芸能面に関する、す ばらしい神通力を持っておられます。

須陀は寿命が尽きると天になり、 一神通を使って人を救います。そのように、天上界におい でも修行するのです。 天での寿命が尽きると、須陀道は人間界に戻ってきて、ここでも世のため になるようなことをします。それで人間界での寿命が尽きたならば、再び天界に行くわけです。 合計で七回往来するとされています。

須となって天上界へ行った人がこの世に帰ってきた場合 天上界では天として一神通を 持っていたわけですから普通の人が持たないような、すばらしい力を必ず発揮します。ひょ とすると大天才といわれる人物は、天から戻ってきた人なのかもしれません。 モーツァルト (一七五六一七九一)などは、三歳のころから神童といわれ、五歳で作曲を手がけたそうです。

 

 

All things are born of fate

 

However, in Buddhism, everything is dependent on origin and is born through fate, so there is no such thing as an eternal and immortal existence, and all existence is born through karma and is destroyed through karma. Buddhism also considers reincarnation as one of its fundamental tenets, but it does not believe that the Atman reincarnates. Atman is real and he is not. In China, this was translated as “non-self” (in the old translation, non-self). Atman was translated into Chinese as “I,” and since there is no “I,” it was translated into “non-self.” Because everything comes into being and ends by fate, people can change their destiny. This is the basic position of Buddhism, and it is different from Brahmanism and Hinduism.

If Atman exists and reincarnates, then one cannot change one’s destiny or escape from reincarnation. This is because the Atman is eternal, eternal, and unchanging, and cannot be annihilated or changed. There is no such thing as the Atman, and all things arise and perish due to fate, and it is precisely because he is the one who can liberate himself from the cycle of birth and death. The Buddha preached the truth of dependent origin in this way.

Furthermore, although Brahmanism and Hinduism preach reincarnation, they do not clearly indicate how to escape from it. The people of ancient India suffered greatly because of this. Since they continued to live in the cycle of reincarnation and were unable to escape from it, they suffered in fear of their next life.

“I want to be born with good boundaries in my next life.”

or,

I thought.

Brahmanism and Hinduism also have the idea of “haha”, which does not want to fall into evil or be born as an animal or insect and lead a miserable life. I preach that if you are born into misery, you will suffer. You may be born a dog, or you may be born a pig and become his sausage. Or he might be born a cockroach and be beaten to death. I don’t know what I will be born into in the next life, so I can’t relax even for a minute. This put tremendous pressure on the people of ancient India. The same is true of modern Hindus. They always act with the afterlife in mind. They are thinking more about the next life than the present, and are fearful. In order to avoid suffering in the next life, they worship the gods and make offerings. It is the same in ancient India and modern India. I don’t think this will make me feel alive.

However, the Buddha appeared in ancient India, where the idea of Atman was widespread, and preached the law of dependent origin, saying, “Everything is due to fate, and there is no such thing as Atman, which is an ever-living, immortal, eternal, unchanging entity.” Furthermore, the people of the time were astonished because he taught the method of attaining Buddhahood, a method for completely liberating oneself from reincarnation.

However, if you listen carefully to what Buddha says, you will understand. Interpretation once nine

Lord Buddha’s teachings removed pressure from the minds of the people of India at that time. This was the first salvation brought about by Buddha’s teachings. Although it is difficult for Japanese people, especially us modern people, to understand him, he was the best gospel for them.

Everything happens because of connections. It arises through connection and perishes through greenness, and there is nothing that is everlasting, eternal, or unchanging. This is a wonderful truth. A long time ago, a famous Japanese monk wrote a poem about the law of auspicious origin.

If you pull it together and tie it, it will be a vermilion hermitage, or if you untie it, it will be the original field.”

It’s a great song that’s really easy to understand. There is a hermitage that looks like a hut in the field. It is made of various types of wood, thatch, and brushwood tied together and tied together, but if you tear it apart, it will return to its original, empty field. It’s just a field with pieces of planks, thatch, and bushes lying around. If you gather those materials and make them into a house, it becomes a hermitage, but if you break it up into pieces, it is no longer a hermitage. It is not a permanent hermitage because the materials are gathered together by the greenery and temporarily combined to form a hermitage. It exists, but it is not real. In Buddhism, this is called “emptiness.”

The same goes for Hitomono-an. I am also Yasuo Kiriyama because of Midori, but if I were to no longer have that connection as Yasuo Kiriyama, I would become a different person. It’s just empty. Dependent origin also means that everything continues to change depending on conditions, so in older translations, the law of dependent origin is the law of change. Change means to change.

The Buddha taught that “All is empty and all is empty, and there is no Atman (all dharma is selfless.”) Since green is what arises and green is what annihilates, the ever-living, immortal, ever-changing ego is real. It is a mistake to think that.

However, there are still many people who believe that the Atman is real. The earthly desires of not knowing or not trying to understand the Law of Dependent Origination are what we see. As mentioned above, Atman is translated into Chinese as “I,” so “Mimi” is also called “Gami.”

Another meaning of “miken” is the self-centered way of thinking that arises because one cannot understand that there is no eternal, eternal, and unchanging reality. Ordinary people think that they have an eternal and immortal ego, so they become attached to themselves and to what is “their own.” In Buddhism, this is called self-control. There is no such thing as “mine” in this world. Even if you own it now, it is only because the greenery that came to you happened to exist, so it is not in your hands forever. If the greenery runs out, it will end up in someone else’s hands or break down and disappear. However, since he doesn’t understand the principle of dependent origin,

“Even though it’s mine!”

I am obsessed with it. This is also my personal observation.

Practitioners of Buddhism must break free from the delusion that an eternal and immortal self exists and from the self-centeredness of thinking about everything.

Doubt in this case does not just mean doubting something and not believing it. Buddha’s righteousness

Doubt in the sense of doubting the teachings and having a hard time believing them. The earthly desires that doubt the Buddha’s righteous teachings are doubts.

Precepts are the earthly desires of people who believe in religions, ethics, morals, philosophy, etc. other than the correct teachings of the Buddha, and refuse to believe in the true teachings of the Buddha.

-The first saint who severed the three ties

A Sudarake is a person who has completely cut off all three of the above-mentioned personal observations, suspicions, and precepts. Another name for Sudakake is Yukinryu. It is written as “to follow the flow” (to enter), but what kind of flow do we enter into?This means to enter into the flow of the saints. Those who have become Sudakake are saints, and those who have not become Sudakake are ordinary people. Therefore, Suda sake is considered to be the dividing line between the sacred and the secular. Once you become Suda Sake, you will never fall from the stream of saints again and will definitely head towards Buddhahood, which is called “fulfilling the unfailing Dharma.” Of course, even within the same Suda-sun, the time it takes to reach Buddhahood differs depending on the level of training one has undergone since becoming Suda-sun. If you practice hard, you will attain Buddhahood quickly, but if you are lazy, it will take time. But either way, you will definitely attain Buddhahood in the end.

In the Agon Sutra, it is written that Sudha travels between the human world and the heavenly world seven times and attains Buddhahood. When Sudha leaves this world, he arises in the heavenly world and becomes heaven. In Buddhism, heaven is not something as elusive as the word “heaven” in “leaving one’s luck to heaven,” but is a translation of the Sanskrit word “deva,” which refers to the boundaries of God. Between the Buddhist world and the human world, there is a world of gods called the heavenly world. Heaven has not received a complete explanation like Buddha. However, they are closer to liberation than humans.

Generally speaking, heaven is said to have one divine connection. The gods enshrined under the name ○○ten are all gods of the heavenly world, and although they have not attained Buddhahood, they possess a divine power within themselves. For example, Daikokuten, Benzai Tenvaidaten, etc. Idaten is the god of swift feet, as the word Idaten runs. He can run about two or three hundred kilometers in no time. Therefore, it may be a good idea for marathon runners to worship Idaten. Benzaiten is the god of entertainment. He has amazing supernatural powers when it comes to entertainment.

When Sudha reaches the end of his life, he becomes heaven and uses his power to save people. In the same way, he practices in the heavenly realm. When his life in heaven is over, Sudhado returns to the human world, and here too he does what he does for the world. When his life in the human world comes to an end, he goes back to heaven. It is said that there will be seven trips in total.

If a person who went to the heavenly world as a man comes back to this world, he will definitely exhibit wonderful powers that ordinary people do not have, since he had the power of one god in the heavenly world. Perhaps the person who is said to be a great genius is someone who has returned from heaven. Mozart (17561791) was said to be a child prodigy from the age of three, and began composing music at the age of five.

 

 

 

 

http://cyber-price.com/buddha/

Buddha  Japan Journal

Buddha Japan journal

日本の仏教を発信しますSend Japanese Buddhis

成仏法って何?仏教の秘密に迫る冒険」 「お釈迦様の教えがわかる!仏教の魅力とは?」

  1. 仏教の「成仏陀教法」の略である「仏陀に成るための教えと法」において、「法」とは修行法や成仏法を指し、「教え」とは学問的なものを表す。
  2. お釈迦様は「阿含経」において「七科三十七道品」を通じた最も重要な修行法、成仏法を説かれ、これが仏陀に成るための法そのものであるとされる。
  3. 大乗仏教は成仏法を隠ぺいし、菩薩の概念を作り出して他力本願の概念を強調し、これが現代の日本仏教において中心となっている。
  4. 阿含経にはお釈迦様が成仏法を編成し、その場で決定した状況が詳細に記載されており、大乗仏教がこれを理解していないと主張されている。
  5. 大乗仏教が成仏法を変化させるという考えは根拠がなく、阿含経には仏が常に「七科三十七道品」による修行法を教えると明記されている。
  6. 実践的な修行は「安那般那念法」を含む阿含経の成仏法から始まり、これが大乗仏教が理解していない真理であると述べられている。
  7. 成仏法を習得しない限り絶対に成仏できないと主張され、その中でも「安那般那念法」が重要であり、これが大乗仏教が理解していない点の一つであると指摘されている。

 

 

仏教とは、「成仏陀教法」の略です。「仏陀に成るための教えと法」という意味です。ここで、「教え」とは別の概念である「法」というものについて、着目してみたいと思います。法、仏法とは、修行法、成仏法という意味です。学問的な「教え」とは、別の概念です。

 

それでは、お釈迦様は、どのような修行法、成仏法をお説きになられたのでしょうか?

お釈迦様は、いくつもの修行法、成仏法を残して下さいました。その中で、最も重要な修行法、成仏法をご紹介したいと思います。

最も重要な修行法は、釈尊直説の唯一の経典「阿含経」(あごんきょう)に書かれている「七科三十七道品」(しちかさんじゅうしちどうほん)あるいは 「三十七菩提分法」(さんじゅうしちぼだいぶんぽう)あるいは、単に「道品法」(どうぼんほう)と呼ばれている修行法です。

成仏法とは、人が仏陀に成ることができる修行法のことです。他の修行法は、人を高めることはできますが、仏陀にまでは成ることはできません。ここが、単なる修行法と、成仏法の違いです。成仏法は、釈尊直説の唯一の経典「阿含経」(あごんきょう)にしか書かれていません。 「七科三十七道品」は、7科目37種類の修行法があります。詳しくは、阿含宗のこちらのページをご覧下さい。

この成仏法が、仏教にとって、最も重要であることは、言うまでもありません。仏陀に成るための法そのものなのですから。ところが、大乗仏教は、この成仏法を隠ぺいし、黙殺してしまったのです。

後世の大乗仏教は、仏教を大衆化するため、その障害となる、真の成仏法が書かれている阿含経を「小乗仏教」とさげすみ、厳しい、難しい修行法は、どんどん削除していきました。そうして、最終的には、菩薩という概念を作り出し、菩薩の慈悲におすがりすれば、修行は不要という他力本願の概念まで作り出してしまったのです。その大乗仏教が、今日の日本仏教の中心となってしまっているのです。もちろん、密教や禅宗は、他力本願ばかりではないので、多少とも違うというご意見がおありかと思いますが、それでも、阿含経を隠ぺい、黙殺し、阿含経に唯一書かれている肝心の成仏法を修行していない点には、変わりは無いのです。こうして大乗仏教は、大衆化のために、成仏法を隠ぺい、黙殺したニセの仏教となっていったのです。

「成仏法」が、どのようにしてできたのか、そのいきさつについても、きちんと阿含経に書かれています。阿含経には、お釈迦様が「成仏法」をお作りになられた状況が、克明に記載されているのです。 ご紹介します。

このお経は、お釈迦さまが、ご自分の成道の経緯をお説きになられた経典です。

<中阿含経 羅摩経>

お釈迦さまは、心機一転して、それまでの六年麻麦(まばく)の苦行を離れ、ネーランジャラー河において、村長の娘スジャータの乳ガユの供養を受け、聖地 ガヤーのピッパラ樹(菩提樹)の下に瞑想の座を定めました。ここでお釈迦さまは、悟りを開き、仏陀と成なれるのですが、その時の、状況が記されたお経です。

『我、すなわち座を解かずして、漏尽を得るに至れり。
我、無病無上安穏涅槃を求めて、すなわち、無病無上安穏涅槃を得、
無老無死無愁憂慼(むしゅううせき)無穢汚(むえわ)無上安穏涅槃を求めて、すなわち、無老無死無愁憂慼無穢汚無上安穏涅槃を得、
知を生じ、見を生じ、「道品法」を定む。

生すでに尽き、 梵行すでに立ち、所作すでに弁じて、更に有を受けずと如真を知りぬ。』

大意

「私は、菩提樹の下で、瞑想を数十日間(50日間近く。)つづけ、ついに、漏尽解脱することができたのである。
涅槃を得ることが出来たのである。
これにより、智慧が生じ、解脱したという自覚(解脱知見)が生じた。
さらに、成仏するための修行方法の体系、 成仏法(七科三十七道品)を決定した。

涅槃を得て、成仏したことにより、私は、この生涯が最後のものとなって、もう二度とこの迷いの世界に生を受けることのないことを、はっきり知ったのである。」

このお経は、当然ながら非常に重要です。それはなぜかと言いますと、読んでお分かりの通り、お釈迦さまは、成道後、即座に、その場で、「成仏法」を定めているということがわかるお経だからです。

大乗仏教は、この点を、全く理解していません。  「道品法(どうぼんほう)を定む」とあります。お釈迦さまは、成道後、即座に、その場で、成仏法を編成し、完成させていたのです。人間がどうすれば成仏することができるのか、このとき、すでに、修行法を、決定、完成されていたので す。したがって、成仏法は、この時、確立された、この「道品法」以外にはあり得無いのです。阿含経のこの「七科三十七道品」以外に成仏法は絶対に無いのです。

この他に、仏陀が、あとから二つも三つも、成仏法を追加されるわけが無いからです。あるとすれば、間違いなく後世の偽作です。仏教徒は、このことを一番に考えなくてはならないと思います。

この成仏法を修行しない限り、絶対に成仏はできないのです。
パーリ文「中阿含」第百三の kinti sutta につぎのように述べられています。

「 ここに比丘らよ、われによりて法は悟られ、汝らに説かれたり。 すなわち四念住・四正断・四神足・五根・五力・七覚支・八正道これなり。 それゆえにすべての比丘らは相和し相欣び、争うことなくして、これを学ばざるべからず。」

「学ばざるベからず」とあります。絶対に修行しなさいという意味です。大乗仏教のかたがたは、この意味が分かっていないのです。

「雑阿含経(ぞうあごんぎょう) 応説経(おうせつきょう)」
においては、つぎのようにのべられています。

「釈尊:いろいろな方法を駆使して修行を行っても成就しないものが、もろもろの煩悩が尽き、心に解脱を得たいと思っても、あの修行者たちは、ついに漏尽解脱を得ることはできない。
弟子:それはなぜでしょうか。
釈尊:修行していないからである。
弟子:何を修行していないのでしょうか。
釈尊:いわゆる、七科三十七道品を修行していないからである。
弟子たちよ。七科三十七道品を修行し、成就する者がいたならば、その修行者が、漏尽解脱をしたいと思わなくても自然に漏尽解脱を得るのである。
弟子:それはなぜでしょうか。
釈尊:修行したからである。
弟子:何を修行したのでしょうか。
釈尊:いわゆる七科三十七道品である。(後略)」

いろいろな方法を駆使しても無駄である、 阿含経の七科三十七道品を修行しない限り、絶対に成仏できないと説かれています。

ですから、仏教徒は、全員、七科三十七道品を修行しなければいけないのです。それ以外に、方法はないのです。どんなに厳しくても、何度生まれ変わってでも、七科三十七道品を修行する以外に方法はないのです。

大乗仏教が説くよう に、修行法を捨て、仏の慈悲にすがるだけでは、冥土などにはいけるかもしれませんが、絶対に、成仏はできないのです。

上記のように、成仏法は、七科三十七道品しかありません。しかし、この七科三十七道品は出家者用のプロ用の修行法であり、大乗仏教が言うように、厳しく、難解であることは、事実です。

しかし、お釈迦様は、この成仏法 七科三十七道品へ至るまでの、その橋渡しとなる修行法も、きちんと用意してくださっていたのです。その修行法の一つが、「安那般那念法」(あんなぱんなねんほう)と呼ばれる呼吸法、瞑想法です。この瞑想法は、七科三十七道品の中の瞑想法の一つと考えてよいと思います。

お釈迦様が、「最高の呼吸法・瞑想法」と呼ばれるものです。

この法は、空海弘法大師様が、伝えて下さった、人を天才にする秘法といわれる、密教の「求聞持聡明法」(ぐもんじそうめいほう)とも密接に関係しています。

この法の習得が、成仏法 七科三十七道品への足がかりとなります。安那般那念法とは、「雑阿含経 安那般那念経」に書かれている、初歩から最高奥儀に至るまでの呼吸法・瞑想法のことです。10数種類の呼吸法・瞑想法が説かれています。

さらに、「雑阿含経 止息経」には、「勝止息、奇特止息、上止息、無上止息」の4つの呼吸法が説かれており、「この4つの呼吸法は、すべての呼吸法において、これ以上のものはない最上の呼吸法である。」とお説きになられています。この4つの呼吸法は、安那般那念法の最上のものということです。お釈迦様が、「最上の呼吸法・瞑想法」であるとおっしゃられているのですから、当然のことながら、この呼吸法・瞑想法をマスターしなければ成仏はできないということです。

大乗仏教は、この点も、全く理解していません。単なる呼吸法とは、わけが違うのです。仏教の実践的な修行は、この安那般那念法から始まるといっても過言ではないのだそうです。「息」とは、「生き」なのです。詳しくは、阿含宗管長 故 桐山靖雄大僧正猊下 ご著書「仏陀の法」をご覧ください。実践法は、「求聞持聡明法秘伝」に書かれています。

安那般那念法は、密教の求聞持聡明法、ヨーガのチャクラ覚醒法、道教の導引気功法、そして、神道の呼吸法とも密接に関係しています。また、ノストラダムスは、これらの法が、人類を救う法だと言うことを予言しています。そのこともこの「仏陀の法」に書かれています。

大乗仏教は、釈尊直説の唯一の経典 阿含経を小乗仏教とけなし、以上のことを隠ぺい、黙殺し、まるで理解していません。これでは、絶対に成仏はできないのです。ノストラダムス氏が言われる通り、これらの法が、人類を救うのです。お釈迦様は、そのために、修行法、成仏法を残して下さったのですから。不老長寿、超人類社会への道は、ここに開かれているのです。すべての実践的な修行は、安那般那念法、求聞持聡明法の習得から始まるのです。

正法を知っていただくため、参考になれば幸いです。
合掌

追記

大乗仏教の特に、法華経系の宗派に、時代によって修行法、成仏法が変化するというような教えを解く教団があります。本尊や、時代(正、像、末の三時)などの違いによって、成仏法が変化するというのです。

しかし、これも全くのでっちあげです。真理は、いつの世も一つであって、その真理を体得するための方法、成仏法も、絶対に変化するはずがないのです。大乗仏教は、いろいろな簡略化した成仏法を作り出しましたが、全て偽作です。

その根拠を示します。釈尊直説の経典は、阿含経しか存在しませんが、阿含経には、上記のとおり、釈尊直説の唯一の成仏法、「七科三十七道品」が書かれています。 さらに、阿含経には、いつの世でも、どんな如来でも、如来は弟子たちを、「七科三十七道品」によって、修行させ、成仏させると書かれた経典が存在するのです。

「雑阿含経 石柱経」 です。

「過去にあらわれた仏も、未来にあらわれる仏も、また、いま現在あらわれている仏も、仏はすべて、五つの煩悩の心を断滅して涅槃を得、仏になったのであり、 仏は真実の智慧をみがく能力弱くして、自ら涅槃を得ることができないものたちをして、七科三十七道品の修行をさせて、阿耨多羅三藐三菩提を得さしめ、それによって成仏させるのである。」

したがって、過去仏も、未来仏も、現在仏も、すべての仏は、「七科三十七道品」を修行して成仏し、また、弟子たちを修行させ、成仏させるのです。本尊や、正、像、末の三時の違いなどによって、成仏法は変化しないのです。正法は、一つしかないのです。

また、次のような阿含経もあります。

「中阿含経・七宝経」 です。

『よく憶えておきなさい。転輪王がこの世に出現するときは、まず七宝がこの世に出現するのである。
七宝とはなにか? それは輪宝・象宝・馬宝・珠宝・女宝・居士宝・主兵臣宝の七つである。
転輪王がこの世に出現するときには、まずこの七宝が出現するのである。

同様に、如来・無所著・等正覚がこの世に出現するときには、 七覚支(法という)宝が、まずこの世に出現するのである。 なにをもって七覚支法とするのか? 念覚支(という)法をはじめとして、択法覚支・精進覚支・喜覚支・息覚支・定覚支・捨覚支(という)宝の七つが七覚支法である。
如来・無所著・等正覚がこの世に出現するときは、この七覚支法がこの世に出現するのである。』

七覚支法とは、七科三十七道品の中の一科目です。如来が出現するときは、必ずあらわれるとされているのです。しかし、大乗仏教では、この点が、まったく言及されていません。虚偽の証拠なのです。

以上、「末世成仏本尊経講義」を参照しました。正法を知っていただくために、参考になれば幸いです。

 

Buddhism is an abbreviation for “Buddhism”. It means “teaching and law to become a Buddha”. Here, I would like to pay attention to the concept of “law,” which is different from “teaching.” Law and Buddhist law mean training law and Buddhist law. Academic “teaching” is a different concept.

Then, what kind of training method and Buddhahood method did Shaka-sama preach?

Mr. Shaka left behind a number of training methods and Buddhahood methods. Among them, I would like to introduce the most important training method, the Buddhahood method.

The most important training method is “Shichikasanjushichidohon” or “Three” written in the only scripture “Agonkyo” of Shason’s theory. It is a training method called “Seventeen Bodhipakkhi” (Sanju Shichibo Daibunpo) or simply “Dobonho”.

The Buddhahood method is a training method that allows a person to become a Buddha. Other practices can elevate people, but they cannot even become Buddhas. This is the difference between the mere training method and the Buddhahood method. The Buddhahood method is written only in the only scripture of the Shason direct theory, “Agama Sutra”. There are 37 types of training methods in 7 subjects for “Seven Departments Thirty-Seven Doshin”. For details, please see this page of Agon Shu.

It goes without saying that this Buddhahood method is of paramount importance to Buddhism. It’s the law itself to become a Buddha. However, Mahayana Buddhism concealed this Buddhahood law and silently killed it.

In order to popularize Mahayana Buddhism in posterity, Agama, which describes the true Buddhahood method, was despised as “Hinayana Buddhism”, and the strict and difficult training methods were deleted steadily. .. In the end, I created the concept of a bodhisattva, and even the concept of this application that training is unnecessary if I follow the mercy of the bodhisattva. Mahayana Buddhism has become the center of today’s Japanese Buddhism. Of course, esoteric Buddhism and Zen Buddhism are not limited to other power applications, so I think there is an opinion that they are a little different, but even so, they hide the Agama sutra, silently kill it, and the only essential Buddhahood written in the Agama sutra. There is no difference in not practicing the law. In this way, Mahayana Buddhism became a fake Buddhism that concealed the Buddhahood law and silently killed it in order to popularize it.

How the “Buddhahood Law” was created and how it came about are also properly written in Agama. In Agama, the situation in which Shaka-sama created the “Buddhahood Law” is described in Katsuaki. I will introduce you.

This sutra is a scripture in which Buddha explained the history of his own career.

<Naka Agama Rama Sutra>

Shaka changed his mind and left the penance of hemp for six years, and received a memorial service for the village chief’s daughter Sujata’s milk gayu on the Nerangjara River, and the Pippara tree (Bodhisattva tree) in the sanctuary Gaya. I have set up a seat of meditation under. Here, Buddha becomes enlightened and becomes a Buddha, but the situation at that time is described.

“I, that is, I came to get an exhaustion without releasing the seat.
I seek a disease-free and peaceful nirvana, that is, obtain a disease-free and peaceful nirvana.
No old, no death, no melancholy, no filth, no filth, no filth, no mercy, no mortality, no mercy, no mercy, no mercy
It gives rise to knowledge, gives rise to seeing, and establishes the “Doshin Law”.

I have already run out of life, I have already stood up, I have already spoken about my actions, and I do not know the truth without receiving further existence. 』\

Meaning

“Under the Bodhi tree, I continued to meditate for dozens of days (nearly 50 days), and finally I was able to get rid of the leak.
I was able to get nirvana.
As a result, wisdom was generated, and the awareness of liberation (dissolution knowledge) was raised.
In addition, the system of training methods for the Buddhahood, the Buddhahood Law (Seven Departments, Thirty-Seven Ways) was decided.

By gaining nirvana and becoming a Buddhahood, I knew clearly that this life would be the last and that I would never be born again in this world of wonder. ”

This sutra is, of course, very important. The reason for this is that, as you can see from the reading, Shaka-sama knows that he has established the “Buddhahood Law” on the spot immediately after the Buddhahood.

Mahayana Buddhism does not understand this point at all. It says, “Determine the Dobonho.” Buddha-sama organized and completed the Buddhahood Law on the spot immediately after the Buddhahood. He wonders how humans can become Buddhahood, because at this time the training method had already been decided and completed. Therefore, the Buddhahood Law can only be established at this time, this “Doshin Law”. There is absolutely no Buddhahood method other than this “Seven departments and thirty-seven doctrines” of Agama.

In addition to this, there is no way for the Buddha to add two or three Buddhahood laws later. If so, it’s definitely a forgery of posterity. I think Buddhists have to think about this first.

Unless you practice this Buddhahood method, you can never become a Buddhahood.
The Pali sentence “Naka-Agama”, the 103rd kinti sutta, states as follows.

“Here, Bhikkhu et al., The law is understood by me and preached to you. That is, Satipatthana, Four Right Exertions, Iddhipada, Indriya, Five Strengths, Seven Factors of Awakening, Noble Eightfold Path. Therefore, all the Bhikkhus have to learn this without conflict and reconciliation. ”

It says, “I have to learn.” It means that you should definitely practice. Mahayana Buddhists do not understand this meaning.

“Zoua Gongyo (Ousetsukiyo)”
In, it is stated as follows.

“Sakuson: Things that cannot be achieved even if you practice using various methods, but all the troubles are exhausted and you want to get liberation in your heart, but those practitioners finally get liberation. Can’t.
Disciple: Why is that?
Shason: Because I haven’t practiced.
Disciple: What are you not practicing?
Shason: This is because he has not practiced the so-called seven departments and thirty-seven dojos.
Disciples. If there is a person who practices the seven departments and thirty-seven arts and fulfills them, the practitioner will naturally obtain the extinction even if he does not want to do it.
Disciple: Why is that?
Shason: Because I practiced.
Disciple: What did you practice?
Shakuson: It is a so-called seven departments and thirty-seven items. (Omitted) ”

It is said that unless you practice the seven departments and thirty-seven doctrines of Agama, which is useless even if you make full use of various methods, you will never be able to become a Buddhahood.

Therefore, all Buddhists must practice the seven departments and thirty-seven doctrines. There is no other way. No matter how strict or how many times you are reborn, there is no other way but to practice the seven departments and thirty-seven dojos.

As Mahayana Buddhism preaches, you may be able to go to the dark soil just by abandoning the practice and following the mercy of the Buddha, but you can never become a Buddhahood.

As mentioned above, the Buddhahood Law has only seven departments and thirty-seven doctrines. However, it is a fact that this bodhipakkhi is a professional training method for priests, and as Mahayana Buddhism says, it is strict and difficult.

However, Shaka-sama also prepared a training method that would serve as a bridge to the Buddhahood method, which led to the seven departments and thirty-seven doctrines. One of the training methods is the breathing method and meditation method called “Anapanasati”. This meditation method can be considered as one of the meditation methods in the seven departments and thirty-seven doctrines.

Shaka-sama is called “the best breathing and meditation method”.

This law is also closely related to the esoteric Buddhist esoteric Buddhist priest Gumonji Someiho, which is said to be a secret method that makes people a genius, which Kukai Kobo Daishi told us.

The acquisition of this method will be a stepping stone to the Buddhahood Law, the Seven Departments and the Thirty-Seven Ways. The Anapanasati method is a breathing method and meditation method from the beginning to the highest secret, which is written in “Samsati Anapanasati”. Over a dozen types of breathing and meditation methods are explained.

Furthermore, the four breathing methods of “winning breathing, strange special breathing, upper breathing, and no upper breathing” are explained in “Samsung Sutra”, and “these four breathing methods are used in all breathing methods. , The best way to breathe is nothing more than that. ” These four breathing methods are the best of the Anapanasati method. Since Shaka-sama is said to be the “best breathing and meditation method,” it goes without saying that the Buddhahood cannot be achieved without mastering this breathing and meditation method.

Mahayana Buddhism does not understand this point at all. It’s not just a breathing exercise. It is no exaggeration to say that the practical training of Buddhism begins with this Anapanasati method. “Breath” is “living”. For details, please refer to the book “The Law of the Buddha” by the late President Agon Shu, Seiyu Kiriyama, Hisashi Eminence. The practice method is written in “Gumonji Satoshi Homeiho Hidden”.

The Anapanasati method is also closely related to the esoteric Buddhist esoteric Buddhism, the yoga chakra awakening method, the Taoist Qigong method, and the Shinto breathing method. Nostradamus also predicts that these laws are the ones that save humanity. That is also written in this “Buddha’s Law”.

Mahayana Buddhism does not understand the only scripture of Shason’s theory, Agama Sutra, as Hinayana Buddhism, concealing the above and silently killing it. With this, the Buddhahood can never be made. As Nostradamus says, these laws save humanity. For that reason, Shaka-sama left behind the training method and the Buddhahood method. The road to immortality and superhuman society is open here. All practical training begins with the acquisition of Anapanasati and Gumonji Satoshi.

I hope it will be helpful for you to know the law.
Gassho

Postscript

In Mahayana Buddhism, especially in the Lotus Sutra denominations, there are denominations that solve the teachings that the training method and the Buddhahood method change with the times. It is said that the Buddhahood method changes depending on the principal image and the times (correct, statue, last three o’clock).

However, this is also a complete fabrication. The truth is always one in the world, and the method of learning the truth, the Buddhahood method, cannot change. Mahayana Buddhism has created various simplified Buddhahood laws, all of which are forgery.

I will show you the rationale. There is only Agama sutra in the scripture of Shason Nao theory, but as mentioned above, the only Buddhahood method of Shakuson Nao theory, “Seven departments and thirty-seven dojos,” is written in Agama. In addition, there is a scripture in Agama that states that in any world, in any Tathagata, Tathagata trains his disciples by means of “Seven Departments and Thirty-Seven Doshin”.

It is “Samsung Sutra Stone Pillar Sutra”.

“The Buddhahood that appeared in the past, the Buddhahood that appeared in the future, and the Buddhahood that appears now, all of them broke the hearts of the five worldly desires and gained nirvana and became Buddhahood. Weakened the ability to polish the true wisdom, did those who could not obtain nirvana by themselves, trained the seven departments and thirty-seven doctrines, and obtained the Ayatara Sansho Sanbosho, which To make the Buddhahood. ”

Therefore, all Buddhas, including the past Buddhas, the future Buddhas, and the present Buddhas, practice the “Seven Buddhas and Thirty-Seven Doshin” to become Buddhahoods, and also train their disciples to become Buddhahoods. The Buddhahood method does not change depending on the principal image, the positive, the statue, and the difference between the last three o’clock. There is only one law.

There are also the following Agama sutras.

It is “Naka ​​Agama / Cloisonne”.

“Remember well. When Chakravarti appears in this world, the cloisonne first appears in this world.
What is a cloisonne? There are seven treasures: ring treasure, elephant treasure, horse treasure, jewel treasure, female treasure, resident treasure, and main soldier treasure.
When Chakravarti appears in this world, this cloisonne first appears.

Similarly, when Nyorai, Musho, and Issei are appearing in this world, the Seven Factors of Awakening (called law) treasure first appears in this world. What is the Seven Factors of Awakening? Including the method of consciousness

脳の開発 brain development 気道の舞台裏: 仏陀の穏やかなエネルギー覚醒の秘訣”

 

 

– 仏陀のクンダリニー・エネルギーの使用方法は、クンダリニー・ヨーガの手法とは異なり、完全にコントロールしながら使います。
– 仏陀はクンダリニーを「行らせる」手法を用い、クンダリニーを穏やかに目覚めさせます。
– 仏陀はピンガラとイダーと呼ばれる気道を使用し、これをクンダリニーの代替として活用します。
– 道教はクンダリニーを知らないが、超常的な気のエネルギーを呼び起こす経穴を知っており、これを利用します。
– 仏陀の気道は道教の最極秘伝であり、これを知る者は非常に稀であるとされています。
– 仏陀の気道はピンガラとイダーと呼ばれ、それぞれアクセルとブレーキの機能を果たします。
– ピンガラ気道はクンダリニー・エネルギーを発動・昂揚させ、イダー気道は沈静・凝縮させます。
– 仏陀の法では、腹部スシュムナー管を通る二本の気道を使い、クンダリニー・エネルギーをコントロールし各チャクラを開発・覚醒させます。
– 仏陀の修行法はクンダリニー覚醒、チャクラ開発、ピンガラ・イダー気道開発の三つから成り立っています。

 

 

 

 

The Buddha’s method of using kundalini energy differs from the method of kundalini yoga in that he uses it in complete control.
– The Buddha uses the technique of “activating” the kundalini to gently awaken it.
– The Buddha uses the airways called Pingala and Ida, which he utilizes as an alternative to Kundalini.
– Taoists do not know Kundalini, but they do know and use acupuncture points that evoke supernatural Qi energy.
– The Buddha’s airway is the most secret teaching of Taoism, and it is said that those who know it are extremely rare.
– The Buddha’s airways are called Pingala and Ida, which serve as accelerator and brake respectively.
– The Pingala airway activates and arouses Kundalini energy, while the Ida airway calms and condenses it.
– The Buddha’s method uses two airways running through the abdominal Sushumna channel to control Kundalini energy and develop and awaken each chakra.
– The Buddha’s training method consists of three parts: kundalini awakening, chakra development, and pingala ida airway development.

 

 

 

、仏陀のクンダリニー・エネルギーの使いかたは、クンダリニー・ヨーガの 手法とまったく異なり、クンダリニーを完全にコントロールしつつ使うのである。つ まり、クンダリニー・エネルギーを「行らせる」という手法である。 それはどのようにして、なされるのだろうか?

 

 

 

ピンガラとイダーを使う仏陀の秘法

いい気持で眠っているゴジラを叩き起こすようなバカな真似はしないほうが賢明で あろう。

仏陀の法では、怪物クンダリニーを、ごくおだやかに、上機嫌(?)に目ざめさせ るのである。 どのように? 道教はクンダリニーを知らない。しかし、クンダリニーには到底およばないけれど も超常的な強い「気」のエネルギーを呼び起こす経穴(ツボ)を知ってこれを使っている。

これは道教の最極秘伝になっていて、これを知る人はごく稀である。(アンリ・マー スペロがその著書で、ちょっとこれにふれている)

この経穴(中国でツボと呼ぶ部位は、チャクラの一種であるとわたくしは考えてい る)は、クンダリニーのチャクラから、少し離れたところにある。道教は、いまいっ たように、このチャクラを使って強い「気」を呼び起こすのである。クンダリニーの 代わりといってよいだろう。クンダリニーそのものは、知らないのである。

いつしか消えてしまったのであろうかと、わたくしは考えている。いうならば、クン ダリニーという巨大モーターを起動させるための始動用小型モーターだけが、道教に 伝えられたと考えるわけだ。

クンダリニーという過激きわまるエネルギーを、みごとにコントロールして使う仏 陀のこの秘法には、ただただ感嘆するしかないのである。

だが、仏陀の秘法はこれだけではないのである。さらにおどろくべき秘技を、 仏陀はわれわれに教示するのである。

それは、ひと口にいうと、ピンガラとイダーの気道を、アクセルとブレーキに使う のだといったらよいであろう。ただし、これが、クンダリニー・ヨーガのピンガラ、 イダーそのものであるかどうかは、わからない。

或いは、仏陀があたらしくつくり出した気道であるのかも知れない。というのは、 クンダリニー・ヨーガのピンガラとイダーは、前にのべたように、脊柱を通るスシュ ムナー管の両側を上昇するのであるが、仏陀のこの二つの気道は、その反対側の、腹 部を上下するからである。しかし、わたくしは、この二つの気道の果たす機能からし

て、やはりこれはピンガラとイダーであって、仏陀がこのように変えられたのであろ うと思っている。したがって、この二つの気道を、やはり、ピンガラとイダーという 名称で呼ぶことにする。

いま、この二つの気道の機能からして、といったが、どういう機能を持っているの か?」 ピンガラ気道は、クンダリニー・エネルギーにたいし、発動・昂揚の機能を持つ。 イダーの気道は、沈静・凝縮の機能を持つ。 つまり、さきにいったように、アクセルとブレーキの役目を果たすのだ。 それは、つぎのように使われる。

二本のスシュムナー管

仏陀の法では、スシュムナー管がもう一本ある。つまり二本あるのだ。クンダリニ ー・ヨーガと正反対、尾祇骨から会陰を通って、腹部の正中線を真っ直ぐ、臍輪を経 て咽喉に至る気道である。目ざめたクンダリニーは、背部のスシュムナー管とともに、 この腹部スシュムナー管をも上昇する。(上昇するというより、上昇させるのだ)

この腹部スシュムナーのクンダリニー・エネルギーを、コントロールしつつ、各チ ャクラを開発、覚醒するのが、仏陀のピンガラ、イダーの両気道である。 つまり、臍輪から約五ないし八センチ(人によって個人差がある)ほど下の辺で、 腹部スシュムナーから分岐し、各チャクラおよび関連臓器、神経を行って上昇し、ま た、下降する。あるいは、咽喉からさらに脳の内部を、鼻柱の奥ふかく、眉間の深部 へと上昇し、脳のチャクラ、神経経路等を行り、延髄の小脳部分で、背部スシュムナ ー管と合流する。

この二つの気道の技法は、チャクラの開発・覚醒にぜったい必要で、これなくして チャクラの完全な開発・覚醒は不可能といってもいいであろう。殊に、視床下部、間

脳の辺の神経経路の増強には、不可欠の技法である。 まさに、神技というしかない微妙きわまる技法である。 では、この神技ともいうべき仏陀の法の修行は、どのようになされるのであろうか。 それは大別して、三つの法から成り立つ。 1、クンダリニーを覚醒する修行法 2、チャクラを開発する修行法 3、ピンガラ、イダーの気道を開発する修行法 である。 それは、特殊な呼吸法、独特な瞑想・観想、マントラ詠唱、ムドラー(手印、ポー ズ) などから構成される。その一つ一つについて解説しよう。ただし、本書は教習書 ではないので、実技の詳細については、著者の別の本(『求聞持聡明法秘伝』その他) を参照、または、著者に就いて実際に習得してほしい。

 

 

Therefore, the usage of Buddha’s kundalini energy is completely different from the method of kundalini yoga, and it is used with complete control of kundalini. In short, it is a method of “making” Kundalini energy go. How is it done?

Buddha’s secret method using Pingala and Ida

He would be wise not to make a stupid imitation that would provoke a sleeping Godzilla with a good feeling.

In Buddha’s law, the monster Kundalini is awakened in a very gentle and good mood (?). How? Taoism doesn’t know Kundalini. However, although it is far from Kundalini, he also knows and uses acupuncture points that evoke paranormal strong “Qi” energy.

This is the most secret of Taoism, and very few people know it. (Henri Marr’s Spelo is a little touched on in his book)

This acupuncture point (I think that the part called acupuncture point in China is a kind of chakra) is a little away from the Kundalini chakra. Taoism, as he is now, uses this chakra to evoke a strong “Qi”. It’s a substitute for Kundalini. I don’t know Kundalini itself.

I am wondering if it has disappeared someday. In other words, Kun thinks that only a small starting motor for starting a huge motor called Darini was passed on to Taoism.

The Buddha’s secret method of using Kundalini, a radical energy that is brilliantly controlled, can only be admired.

However, this is not the only secret method of Buddha. The Buddha teaches us even more surprising secrets.

In a nutshell, it’s his use of the Pingala and Eider airways for accelerators and brakes. However, I don’t know if this is Kundalini Yoga’s Pingala, Ida itself.

Or it may be the airway newly created by the Buddha. For Kundalini Yoga’s Pingala and Ida, as mentioned earlier, ascend both sides of his Munner’s canal through the spinal column, but these two airways of the Buddha are on the opposite side. This is because the abdomen goes up and down. However, I am due to the function of these two airways.

And again, this is Pingala and Ida, and he wonders if the Buddha was changed in this way. Therefore, we will call these two airways by the names of Pingala and Ida.

Now, from the functions of these two airways, what kind of function does it have? ”The Pingara airway has the function of activating and raising the kundalini energy. Eider’s airways have the function of calming and condensing. In other words, as I said earlier, it acts as an accelerator and a brake. It is used as follows.

Two Sushmuner tubes

According to Buddha’s law, there is another Sushmuner tube. In other words, there are two. Opposite to Kundalini Yoga, it is the airway from the caudal bone through the perineum, straight through the midline of the abdomen, through the navel ring to the throat. The awakened kundalini ascends this abdominal Sschmuner’s canal as well as the dorsal Sushmuner’s canal. (Rather than rising, raise)

It is the Buddha’s Pingala and Ida airways that develop and awaken each chakra while controlling the kundalini energy of this abdominal sshmuner. That is, about 5 to 8 cm below the umbilicus (depending on the individual), it branches off from the abdominal sushmuner and rises and falls through each chakra and related organs and nerves. Alternatively, it rises further from the throat to the depths of the nasal column and deep between the eyebrows, follows the chakras of the brain, nerve pathways, etc., and joins the dorsal Sushmuner canal at the cerebellum part of the medulla oblongata.

These two airway techniques are absolutely necessary for the development and awakening of the chakra, and without it it would be impossible to fully develop and awaken his chakra. Especially in the hypothalamus, between

It is an indispensable technique for enhancing neural pathways around the brain. It is a delicate technique that can only be called a divine technique. Then, how is the practice of the Buddha’s law, which can be called this divine technique, done? It is roughly divided into three laws. 1. A training method to awaken the kundalini 2. A training method to develop chakras 3. A training method to develop the airways of Pingala and Ida. It consists of special breathing methods, unique meditations / ideas, mantra chanting, mudra (hand marks, poses), etc. Let me explain each one. However, since this book is not a training book, please refer to another book by the author (“Kumon Mochi Satoshi Hosekiden” and others) for details of the practical skills, or ask the author to actually learn it.

 

 

http://cyber-price.com/buddha/

Buddha  Japan Journal

Buddha Japan journal

日本の仏教を発信しますSend Japanese Buddhis

Buddha 2Japan journala

日本の仏教を発信しますSend Japanese Buddhis   sサイト

大日如来の智慧を表現した「金剛界」 .一印会 “Kongokai” expressing the wisdom of Dainichi Nyorai.Ichiinkai

 

胎蔵界曼荼羅 たいぞうかい Womb Realm Mandala Taizokai

 

力をあたえる五力法と七覚支法 The Five Powers and Seven Gakushuho that give you strength

力をあたえる五力法と七覚支法

 

  1. 修行者は七科目、三十七教程の成仏法を完璧に修行する必要はなく、導師が最適な教程を選ぶ。
  2. 代表的な修行法には「五力法」と「七覚支法」があり、五力法は基礎訓練に利用される。
  3. 五力法には信念力法、精進力法、念力法、定力法があり、これにより信念が強化され、念力が発達する。
  4. 念力の強化によりクンダリニー・ヨーガの課程に進み、異常なほどの念の力を身につける。
  5. 七覚支法はクンダリニー・ヨーガと組み合わせて行われ、高度な智慧や法覚、力法の訓練が含まれる。
  6. 修行の最終段階では、仏陀釈尊の成仏法に辿り着くために、クンダリニー・ヨーガが必要であることを発見。
  7. 「択法覚支」から高い智慧を身につけ、念力法や念覚支法を通じて予知力や予感を得る。
  8. 修行者は軽安党支や捨覚支を通じて心の平静を保ち、定方法により感覚器官を増幅し、超人的な能力を得る。
  9. 修行の極限では不可視光線や超音波を感知し、天災地変を予知することが可能となる。
  10. 念力法や念覚支法を修行した者は、仏陀の弟子たちのように信じられないような念の力を持つ。
  11. これが真実の仏教であり、創作経典ではないことに注意が必要。

The Five Powers and Seven Gakushuho that give you strength

 

Practitioners do not have to perfect the seven subjects and thirty-seven courses of the Dharma for Buddhahood; the master chooses the most suitable course.
Typical training methods include “Gorikiho” and “Shichikakushoho”, and Gorikiho is used for basic training.
The five power methods include the belief power method, the diligent power method, the psychokinesis method, and the fixed power method, which strengthen one’s beliefs and develop psychokinesis.
By strengthening his mental powers, he progresses to the course of Kundalini Yoga, and acquires an extraordinary amount of mental power.
The Seven Awakening Dharma is practiced in combination with Kundalini Yoga and includes training in advanced wisdom, dharma awareness, and force.
At the final stage of his training, he discovered that Kundalini Yoga was necessary in order to reach Buddha Shakyamuni’s Buddhahood Dharma.
He acquires high wisdom through “choho-gakusho” and obtains precognitive powers and premonitions through psychokinesis and nen-kakusho.
Practitioners maintain calmness of mind through Light Antouchi and Sakugakusho, amplify their sense organs through established methods, and gain superhuman abilities.
At the ultimate level of training, it becomes possible to detect invisible light and ultrasonic waves and predict natural disasters.
Those who have practiced the psychokinesis method or the nenkakusho method have incredible mental powers, just like the Buddha’s disciples.
It is important to note that this is true Buddhism and not an invented scripture.

 

、さきに、七科目、三十七教程の成仏法を紹介た。

しかし、修行者は、これを全部、修行しなければならないわけではない。

導師が教示してくれた主要な一科目を中心に、いくつかの教程を併合したものを修行して ゆくのである。

弟子によって、みな、素質・能力・環境等 (総称して、“因縁”という)が違うので、導師 がそれらを勘案して、最も適切な教程を作製してさずけるのである代表的な修行法を、つぎに示そう。

これは、さきにのべた成仏法の中の「七覚支法」と「五力法」を合わせて作製したもので

この場合、五力法は、だいたい基礎訓練に用いる。

五力法とは、つぎのようなものである。

この訓練によって、信念の力が極度に発達し、いかなる困難に遭っても屈することなく、信念を曲げることがなくなる。

精進力法

念力法

定力法

困難に遭えば遭うほど、目的に集中し、努力する能力と性格を持つようになる。

異常なほど念力が強化される。

太陽光をレンズに集中して発火させるほどの念の力が養成される。

この法で強化された念の力は、信じられないほどの力を発揮する。

この法の訓練から、クンダリニー・ヨーガの課程に入る。

強化された念の力で、高度の瞑想や、特殊な練行を行う。

この訓練で、人間ばなれした力が身にそなわりはじめる。

クンダリニー・ヨーガの特殊訓練がはじまる。

法覚

力法 (智力法ともいう)

高度の智慧を身につける訓練である。

私は、求聞持聡明法の修行から始めさせる。

七覚法

以上の五力法を、基礎訓練とし、この五力法の上に立って、つぎの本格訓練に入ってゆく。

七覚支法は、すべて、クンダリニー・ヨーガの訓練と併合しておこなわれる。

これは、私の発見である。

最初、私は、仏陀の成仏法に挑戦して、まったく歯が立たなかった。手も足も出なかった。 なんとか手がかりをつかもうと、四苦八苦しているうちに、阿含の文献の中に、「ゴータマ・

ブッダは、ヨーガの達人”と呼ばれる」という文章を発見した。

この事を考えているうちに、この“ヨーガ” は、ラージャヨーガと、クンダリニー・ヨーガに違いないと、思いあたった。

精進党支

たんちょ

それを端緒にして、十数年かかって、私は仏陀の成仏法の秘密を解いた。

まさに、仏陀釈尊は、クンダリニー・ヨーガの達人だったのである。

クンダリニー・ヨーガの体得なくして、仏陀の成仏法には一指もふれることができないで

「択」とは 「えらぶ」という意味で、あらゆるもの(法)の中から真実のものをえらび出し、 真実ならざるものは捨て去る智慧の獲得である。

さきにのべた「事物の明確な認識と予知」の力は、この択法覚支から得られるのである。

軽 安党支

捨覚支

定党支

精進努力し、能力が増加、あるいはあたらしい能力を身につけることに喜びを感じます ます訓練に精勤するようになる。 どんなにきびしい修行でも、喜びをもって受け入れるよう

それは、クンダリニー・ヨーガのチャクラを動かすことにより、訓練が楽しくなるホルモ ンを湧出させるからである。

常に、身心を軽快明朗にして、心が悟冥 (暗く濁る)したり、渋滞したりしない修行。 喜覚支をさらに進めたもので、クンダリニー・ヨーガと併合した、特殊な訓練で得られる 能力である。

聖者特有の、のびやかな姿体と、平安で穏やかな人相となってくる。

取捨僧愛の念をはなれて、なにごとにも心がかたよったり、心の平静が乱されなくなる。

対象へのとらわれを捨てる修行である。

軽安覚支につづいて、聖者としての心がそなわってくるのである。

定方法につづいて、超人としての能力が飛躍的に強化される。

徹底的な定力(精神統一)の強化により、感覚器官が増幅される。

この修行の極限は、 不可視光線(赤外線、紫外線)を見ることができ、超音波を聞くこと ができるようになる。その結果、天災地変も予知することが可能となる。 そこまで到達する ことは容易ではない。この修行によって、聖者たちは、大なり小なり、この能力を身につけ るのである。

初心者でも、予感や予知力が身にそなわる。 どんな初心者でも、とにかく「カン」が冴 えてくることはまちがいない。

いかがであろうか?

この修行を完成した超人の力は、ふつうの人の「常識」を越え、常識を破壊してしまうだ ろう。たとえば、

これは、一つの例えであるが、かれの思念の力は、他人の内臓の中にできた腫瘍(ガンな ど)を、その念の集中力で、破壊、あるいは溶かしてしまうことも可能である。 仏陀やその 弟子たちは、そのようにして、病人を癒したものである。(ただ、この場合、ガンを破壊して も、破壊されたガン細胞が他に転移するおそれがあるので、ガン細胞そのものを死滅させる ほどの念の力が伴わなければ危険であり、軽々しくこれを行うことはできない。それほどの 力は、仏陀ご自身でなければ持てないのかもしれない。一つの可能性の例として、あげたわ けである

そんな力は例外としても、念力法、念覚支法を修行した場合、中等程度の者でも、常人の 信じられないような念の力を持つようになる。

これが、仏陀釈尊の、弟子たちに教えた「仏法」なのである。

これが、真実の仏教なのだ。 あなたがこれまで常識として考えていた仏教とは、大分ちが うのではなかろうか?

多くの人が仏教だと思っている『法華経』とか『阿弥陀経』は、仏陀釈尊がお説きになっ たものではないのである。これら「大乗経典」とよばれる経典は、仏陀がお亡くなりになっ 二、三百年もたってから、無名の人たちによって創作されたものである。だから、これら の経典は、学問的には「創作経典」とよばれているのである。

創作経典の中には、「成仏法」は全く欠落している。一行も書かれていない。当然であろう。 「成仏法」は、仏陀釈尊しか教えることが不可能だからだ。無名の人たちが勝手に創作した大 乗経典に「仏陀の成仏法」が全くないのは、当然至極というべきだろう。

日本の仏教は「大乗仏教」である。つまり、「創作仏教」であって、「仏陀の仏教」ではな い。従って、「仏陀の成仏法」は全くない、というわけである。

日本の仏教徒が、仏陀の成仏法を全く知らない、というのは、ここに原因があるのである。 私は、このことが心から残念でならないのだ。

First, I introduced the method of attaining Buddhahood, which consists of seven subjects and 37 teachings.

However, practitioners do not have to practice all of this.

He goes on to train by combining several courses, focusing on one main subject taught by his master.

Since each disciple has a different quality, ability, environment, etc. (collectively referred to as “fate and fate”), the guru takes these into account and creates the most appropriate curriculum for the disciple.This is a typical training course. Let me show you the law next.

This is a combination of the “Shichikakushoho” and “Gorikiho” of the Buddhist attainment methods I mentioned earlier.

In this case, the Five Power Method is generally used for basic training.

The five powers are as follows.

Through this training, the power of belief will be developed to the extreme, and no matter what difficulties you encounter, you will not give in and will not compromise your beliefs.

diligence method

psychokinesis method

constant force method

The more difficulties you encounter, the more you will have the ability and character to concentrate on your goals and work hard.

His psychokinesis is abnormally strengthened.

He develops enough mental power to concentrate sunlight on a lens and ignite it.

The power of Nen strengthened by this method exhibits incredible power.

From this Dharma training, one enters the course of Kundalini Yoga.

With the power of strengthened Nen, he performs advanced meditation and special training.

Through this training, he begins to acquire powers that are incomparable to humans.

Special training in Kundalini Yoga begins.

Dharmakaya

Rikiho (also called Chiriho)

This is training to acquire advanced wisdom.

I will have you begin with the training of the Gumonjisomeiho.

Seven enlightenment methods

The above five power methods are used as basic training, and by building on this five power method, we move on to the next full-scale training.

All of the Seven Awakening Methods are combined with Kundalini Yoga training.

This is my discovery.

At first, when I tried the Buddha’s method of attaining Buddhahood, I was completely disappointed. I couldn’t use my arms or legs. While I was struggling to find a clue, I discovered in Agon’s literature, “Gotama…

I found a text that says, “Buddha is called the Master of Yoga.”

As I was thinking about this, it occurred to me that this “yoga” must be raja yoga and kundalini yoga.

Shojinto branch

Tancho

Starting from that, it took me over ten years to uncover the secret of Buddha’s method of attaining Buddhahood.

Indeed, Buddha Shakyamuni was a master of Kundalini Yoga.

Without mastering Kundalini Yoga, you will not be able to touch the Buddha’s method of attaining Buddhahood.

“Choose” means “choose,” and it is the acquisition of wisdom that selects what is true from all things (dharma) and discards what is not true.

The power of “clear recognition and foreknowledge of things” that I mentioned earlier is obtained from this awareness of options.

Light Antai branch

sacrificial knowledge

established party branch

They work hard and feel joy when their abilities increase or acquire new abilities.They become more diligent in their training. No matter how tough the training, accept it with joy.

This is because by moving the Kundalini Yoga chakra, hormones that make training enjoyable are released.

Practice to always keep your body and mind light and clear, so that your mind does not become dark or cloudy or become congested. It is a further development of Kikakushi, and is an ability obtained through special training combined with Kundalini Yoga.

He develops an easy-going figure and a peaceful and calm face characteristic of a saint.

Once you are free from the thought of love for the monk, your heart will no longer be disturbed by anything, and your peace of mind will no longer be disturbed.

It is a training to let go of attachment to the object.

Following Karan Gakushu, the heart of a saint will emerge.

Following the regular method, his abilities as a superhuman are dramatically strengthened.

By thoroughly strengthening your fixed power (mental unity), your sense organs will be amplified.

The ultimate in this training is the ability to see invisible light (infrared, ultraviolet) and hear ultrasound. As a result, it becomes possible to predict natural disasters. It’s not easy for him to get to that point. Through this training, saints acquire this ability, to a greater or lesser degree.

Even beginners can have premonitions and precognitive abilities. No matter how much you are a beginner, there is no doubt that your “kan” will become sharper.

What do you think?

The power of a superhuman who has completed this training will exceed the “common sense” of an ordinary person and destroy common sense. for example,

This is just an example, but the power of his thoughts can destroy or even dissolve a tumor that has formed inside someone else’s internal organs (such as his cancer) with the concentration of his thoughts. It is. That’s how Buddha and his disciples healed the sick. (However, in this case, even if the cancer is destroyed, there is a risk that the destroyed cancer cells will metastasize to other places, so it is dangerous if the power of mind is not strong enough to kill the cancer cells themselves. It is impossible to do this. Such power may only be possessed by the Buddha himself. I have given this as an example of one possibility.

Although such powers are an exception, if one practices psychokinesis or nenkakusho, even a moderately skilled person will be able to possess the power of nen that is unbelievable to an ordinary person.

This is the “Buddhist Dharma” that Buddha Shakyamuni taught to his disciples.

This is true Buddhism. Isn’t there a big difference between Buddhism and what you used to think of as common sense?

The Lotus Sutra and the Amida Sutra, which many people think of as Buddhist, were preached by Buddha Shakyamuni and are not his own works. These sutras, called “Mahayana sutras,” were created by anonymous people two or three hundred years after the Buddha’s death. Therefore, academically, these sutras are called “creative sutras.”

The “Dharma of attaining Buddhahood” is completely absent from the created sutras. Not a single line was written. Of course. This is because the “Dharma of attaining Buddhahood” can only be taught by Buddha Shakyamuni. It is of course extremely important that there is no “Buddha’s method of attaining Buddhahood” in the Mahayana sutras created by anonymous people.

Japanese Buddhism is “Mahayana Buddhism.” In other words, it is “creative Buddhism,” not “Buddha’s Buddhism.” Therefore, there is no “Buddha’s method of attaining Buddhahood” at all.

This is the reason why Japanese Buddhists have no knowledge of the Buddha’s method of attaining Buddhahood. I am truly sorry about this.

 

 

http://cyber-price.com/buddha/

Buddha  Japan Journal

Buddha Japan journal

日本の仏教を発信しますSend Japanese Buddhis

Buddha 2Japan journala

日本の仏教を発信しますSend Japanese Buddhis   sサイト

大日如来の智慧を表現した「金剛界」 .一印会 “Kongokai” expressing the wisdom of Dainichi Nyorai.Ichiinkai

 

胎蔵界曼荼羅 たいぞうかい Womb Realm Mandala Taizokai

 

 

 

 

 

ヒトを天才にする求聞持聡明法

駄如求聞持明法 memorization ability and intelligent system

二つの特徴:

クンダリニー・ヨーガのチャクラを覚醒し、超人的エネルギーを発生させる。

超人的エネルギーを中国・道教の導引・気功の生気ルートにのせ、体の各要所にめぐらせる。

独自の方法で完成した:

前人未踏の領域であると自負。

著書40冊がこの法の完成に至る道のりを示す。

駄都如意求聞持聡明法:

クンダリニー・ヨーガと導引・気功を融合させ、新たな創案を加えて完成。

究極の超能力開発法と自負。

修行の結果:

知能は確実に二倍に、体力は三倍に飛躍強化されると断言。

不老長寿への志向:

天才は不老長寿でなければならない。

求聞持聡明法修得を目指し、興教大師党員上人の短命を憂慮。

道教の導引・気功の秘法を取り入れ、不老長寿の実現に成功。

仙道の理想と実現:

仙道の理想は不老長寿と神仙に化すこと。

駄都如意求聞持聡明法は不老長寿を目指していなかったが、結果的に達成。

仙道の秘法により、20歳代の人は3-5歳、中年以上の人は10-15歳、若返ることができると断言。

ヒトを天才にする求聞持聡明法
求間持聡明法は、ヒトを聡明にし、天才にするという真言密教に伝わる秘法である。
弘法大師空海が、若くしてこれを修し、大天才となったということで、夙に知られてい
る。また、新義真言宗の開祖、興教大師覚鏝(一〇九五1一一四二)が、七度、この法を
修して成功せず、八度目に悉地を成じ、成功したと伝えられる。覚鏝上人ののこされた業
績をみれば、上人もまた天才でめったことは疑いない。ただ残念なことに、四十八歳で亡
くりれている。
真言密教の求聞持聡明法には、三種の法がある。
虚空蔵求聞持
観音求聞持
如意輪求聞持
であるが、ふつう、求間持法といえば、空海が修して有名な虚空蔵求間持をさす。この
じほう法を、具には「仏説虚空蔵菩薩能満諸願最勝心陀羅尼求聞持法」という。
しかし、わたくしがこのたびこの本で発表する求聞持聡明法は、これらのいずれでもない。わたくしが独白に創成した求聞持法で、わたくしはこれに、だとによい
駄都如意求聞持聡明法と名づけた。
この駄都如意求聞持聡明法は、真言密教につたわる求聞持法とはまったくちがうものである。
二つの特徴がある。
そは
一、クンダリニー・ヨーガのチャクラを覚醒して、超人的千不ルギーを発生させる。
二、その超人的干1 ルギーを、中国・道教につたわる導引・気功の持つ生気ルートに
のせて、体の各要所、要部にめぐらせ、行きわたらせる。殊に、大脳の中枢である間脳・視床下部に送りこむ。
この二つの方法を、独特の方法で完成したのである。これは、前人未踏の領域であるといってよいであろう。わたくしは、半生を、というより、一生をこの法の完成に注いだ。いまから約二〇年前に発行した『変身の原理』以来、わたくしの著書はこの本で四〇冊になるが、それらの著書のすべてが、この法の完成に至る道のりをあらわしたものであるといってよい。
わたくしは、この本で、わたくしの得たほとんどのものを、出来るかぎり、明らかにした。クンダリュー・ヨーガも、道教の導引・気功も、いずれも超人的能力を獲得するための
最高の法である。この世界にこれ以上の超能力開発法ぱない。この二つの法の欠陥を補正して融合させ、さらにあらたな創案をくわえて完成したこの駄都如意求聞持聡明法は、ヒ
トにおける究極の超能力開発法であると自負するのである。
もちろん、。後世おそる、べし”という諺の通り、今後、これ以上の超能力開発法も出るかも知れないが、しかし、それも、クンダリュー・ヨーガと導引・気功を融合させたこの駄
都如意求間持聡明法のライン以外のものではないであろうと確信している。
この法を、指導通りに修行するならば、確実に、ヒトの知能は二倍に、体力は三倍に飛躍強化されるであろうことを断言する。

天才は不老長寿でなければならない

求聞持聡明法は、たしかにヒトを天才にする。
しかし、いくら天才になっても、そのために、病弱になったり、若死にしたりしたのでは、なんにもならない。天才は、いつまでも若々しく、健康で、世のため、人のため、その才能を発揮するもの
でなくてはならない。(寝たっきりの天才など、まっぴらである)
求聞持聡明法修得をこころざしたわたくしは、つねに、四十八歳という惜しむべき短命に終わった興教大師党員上人が念頭にあった。上人は、おそらく、過酷な求間持法修行のため、法は成就したものの、体を痛め、寿命を損じたのにちがいなかった。
このことは、年少、結核を病んで何年も病床に伏した苦しい経験を持つわたくしにとり、その恐れの念が特に深刻であった。
しかし、この憂慮は、幸いにして杷憂におわった。
道教の導引・気功の秘法をとり入れたことが、この心配を吹きとばしてくれたのである。
すなわち、道教の導引・気功は、仙道の流れを汲むものである。そして仙道の理想は、不老長寿、生きながら神仙に化することを目標とする。
駄都如意求聞持聡明法は、特に不老長寿を目ざすものではなかったのだが、結果はそうなってしまったのである。
期せずして、仙道の理想が実現されることになったのだ。
神仙に化することだけはちょっとむずかしいが、不老長寿はかならず達成される。 わたくしぱ断言してよい。仙選の秘法がとり入れられているこの駄都如意求聞持聡明法
は、二十歳代の人ならば、三歳から五歳、中年以上の人ならば、十歳から十五歳、若返ることができるであろう。

あなたが高年者として修行に入り、年齢のために天才になれなかったとしても、いつまでも若々しい肉体と、そして決してボヶることのない求聞持脳だけは獲得できるであろう。
『求聞持聡明法秘伝』平河出版社刊。まえがき”より

「等価変換展開理論」

そんなことがほんとうにできるのか? いったいどうやってそんなことができるのだ、と。
それもたしかにもっともなことで、私自身、身をもってこの密教の秘密に挑戦し、自分でこの
技術を解明するまでは、ぜったいに信ずることができなかった。私は単身、五〇〇〇年の間秘密のヴェールにつっまれてきたこの不思議な技術にいどみ、その秘密を解いた。それは、信ずることのできないほど精緻微妙な生化学に立脚したおどろくべき技術の応用であった。
たとえば、さきにもちょっとふれたが、市川亀久弥博士は、最近の著作のなかマ(≒柚計器)お得意の
「等価変換展開理論」にもとづき、イモ虫からサナギヘの変化を例にして未来社会への脱皮を説いておられる。この理論はまことにみごとで、まさにほれぼれするほどあざやかである。ことに、イモ虫がサナギに変身する理論的うらづけは、近来しきりに輩出する未来論のなかで、まさに出 色のものであるというべきである。
ただ、まことに残念なことに、それは理論と説明と期待にとどまり、それをいかにヒトに応用
して実現させるかという方法を示していない。それは、もちろん、氏自身、同書のはしがきのなかで、これは、″単に人類のあるべき未来社会に関するソフトーウェアの主張の範囲にとどまるものである”とことわり、この。ソフトーウェアに対するハードーウェアの具体的な提唱″は″旺い将七に公長する~定である″ということであるから、われわれはまさに刮目してそれを待、ぐに、その″ソフトーウにアに対するハード・
ウェアの具体的な技術″を持っているのである。密教は、その持つ技術のひとつに、この市川理
論の「イモ虫からサナギヘの脱皮」技術を持っていて、数千年も前から、それをヒトの変身技術に応用、実践していたのである。
密教は、現代の創造理論の大家が提唱する未来に関する花形理論を、とうに実践していたので
ある。五〇〇〇年も前に大地を這いまわることしか知らぬ生物であるイモ虫が、サナギになり、そして、空を舞う生物に
変身することは、二次元の世界に生きる生物が三次元生物に変化したことを意味するものだ。密教がおなじ技術をもってヒトを変身させることは、三次元生物であるヒトをそれより上の次元に飛躍させることを意味する。密教の変身技術はそれなのである。その生物の次元を変えてしまうのだ。
しかも、それは、今までいわれてきたように、ただ神秘的、神がかり的なアイマイな方法でな
く、適確な生化学の技術をもっておこなうのだ。そうしてそれは密教の持ついくつかの技術のなかのひとつに過ぎない。
いったい、どんな智恵がそれをなしとげていたというのであろうか? 密教の技術を神秘とい
うのなら、その点をこそ神秘というべきだろう。しかし、それは、それこそまさに数千年生出
現した超・ヒトが、孤独にたえつつ、その持つ人類最高の智恵「照明智」を駆使してつくり上げた未来人のためのカリキュラムにほかならぬのだというよりはかないであろう。

さて、それでは、密教の技術に関係のある市川理論「等価変換展開理論」とはどんな理論か?
それがどのように密教の技術と関連があるのか?
それを説くまえに、もう少し知っておいていただかねばならぬことがある。
ここで、私は、密教とヨーガという二つのことばについて述べておかねばならぬと思うのだ。
拙著「変身の原理」で、私は、密教についてっぎのように述べた。少し長いが引用してみる。
『真言宗という宗派仏教と、密教すなわち秘密仏教とは、ふかいつながりかおる。だが、それはどこまでもふかいつながりという関係であって、普通考えられているように、密教即真言宗、真言宗即密教というものではないのである。
真言宗とは、インドにおいて発生し、大成した密教を、ああいう独白の形に体系化し、組織化
したものであって、密教そのものではないのである。密教のひとつの体系ではあるけれども、密教そのものではない。
それは、それまでにほぼ完成していたけれども、分派し、多様化していたインド密教を日本密
教の開祖空海が、独自の見識と叡智によって、ひとつの体系につくりあげたということである。
おなじように、天台宗においても、天台密教というひとつの密教体系を組織完成しており、こ
れもまた、密教のひとつの流れということである。
そういうわけで、密教というものを正しく理解するためには、どうしても、]度、密教の原点
に立ちもどって考えてみなければならないのである。
密教は、最初、ひとつの手法(技術)であった。
けっして、最初から密教というひとつの宗教があったわけではない。
ゴータマーブッダがあらわれて、仏教というあたらしい教えを説きはじめるはるか以前、バラ
モンの時代から、インドには、入に超能力をあたえるひとつの手法があった。そういう手法が完成されて、一部の人たちの間につたえられていた。それは、精神と肉体のきびしい錬磨から得られる神秘的な力で、彼らは、それを、ひとつの技術にまでっくりあげていた。
われわれは、その流れのひとつを、現在、ヨーガのなかに見ることができる。(ただしそれは、いまの日本で行なわれているアクロバティックな体操のヨーガではない。ヒマラヤの奥地の聖者たちの間に伝承されている正統ヨーガである)
ヨーガは、その手法のひとつの流れである。この超能力を開発する技術は、仏教があらわれる
以前においてはバラモンにとり入れられ、仏教があらわれると、仏教もまたこれをとり入れた。
ゴータマーブッダは、かれ自身、この手法をまなんで、これにより超能力を持ったが、弟子た
ちにはこれを学ぶことを禁じた。なぜかというと、この技法によって多少の力がつくと、かれらはすぐにそれがブッダのいう「ホトケ」という境地に達したものと考えてしまい、修行のさまたげになるからであった。
ただし一部の、素質のきわめてすぐれた弟子たちには、ひそかにこれを許した。
ゴータマーブッダは、普通、神秘的な力を信じたり、修行者がそういう力を持つことを願った
りするのを全く禁じたというように、仏教学者や仏教者は信じているようであるが、それは間違いで、ブッダ自身、神足({乱石の教理、すなわち、仏道を完全に成就するためには超自然的な力が必要であるとし、超人間的な能力開発の訓練法を説いているのである。これは、パーリ文献によって容易に証明することができるのである。(略)
それによると、それは、″四神足“または、″四如意足″ともいわれる超能力開発法である。
ブッダは、菩提を成就するためには、単に、知性や理性をみがくだけでは不十分であると考
え、知性や理性の限界をうち破る力が必要であると考えた。
そのために、彼は、そういう力を開発するための行法をつくりあげた。それは、彼が学んだ超
能力開発法を加えて編成したものと見てよいであろう。
それは、三十七種の技法から成り立つもので、四神足というのは、その中心になる技術であ
る。神通、如意を得るための定を、四種類の手法に分けて説明している。
欲神足(願望、理想、創造のためのアプローチ)
勤神足(体と心のトレーニング法)
心神足(潜在意識のトレーニング法)
観神足(深層意識のトレーニング法)
きづまりを打破するために、大乗仏教のなかにとり入れられて体系化され、密教と呼ばれになったのである。いうわけで、密教は二つの面を持っている。
一つは、超能力の開発技術
一つは、大乗仏教の教義
この二つである。
この二つのものがむすばれることにより、大乗仏教よりさらに高度の教義が完成されて、「金
剛大乗」と呼ばれる新しい仏教が誕生した。これが密教である』
-との引用の文章でわかるように、「変身の原理Lにおいて語られている「密教」というコ
トバは、「秘密仏教」という意味での「密教」である。仏教のなかにとり入れられた、いわゆる真言密教、あるいは真言宗密教の密教である。
しかし、本書において私がいう「密教」は、それらの密教、「変身の原理」のなかで使われて
いる密教とは全くちがうものであることを、読者はご承知ありたいのである。

本書における「密教」とは、真言密教以前、いうならば仏教にとり入れられる以前の、いや、
バラモンにさえもとり入れられる以前の、引用文でいえば4  R教は最初、ひとつの手法(技術)であった。ゴータマーブッダがあらわれて、仏教というあたらしい教えを説きはじめるはるか以前、バラモン時代から、インドには、入に超能力をあたえるひとつの手法があった。そういう手法が完成されて、一部の人たちの間につたえられていた。それは、精神と肉体のきびしい錬磨から得られる神秘的な力で、彼らは、それを、ひとつの技術にまでっくりあげていた。とあるその「技術」、つまり、いうならば、″古代マーガ″と″真言密教″と、この二つを結合したものであると承知していただきたいのである。即ち本書でいう密教とは、ヨーガと真言密教と、この二つをむすびつけて生まれた新しい技術であるということである。
なぜ、そういうことをしなければならなかったのか、というその理由を語ることはそのまま、密教の法を解説することにもなるので、読者はここのところをよく知っておいていただきたいのである。
引用文のなかにしるされているごとく、行きづまった大乗仏教は、ヨーガの技術にその打開の道を求めた。さきの頃で述べたごとく、精神の高度の飛躍は、その前提に、感覚器官の高度の増幅がなければならぬ。しかし、大乗仏教には教えだけあって、なんの技術もない。大乗仏教という教えであり、教えをあきらかにするだけのもので、技術というべきものはなんにもない。つい
に行きづまることは当然であり、やがてヨーガの技術に救いをもとめるのはさらに当然というべきことであった。
かくして、金剛大乗、真言密教が生まれた。ヨーガには、さきにあげた通り、ジョルジューオリヴィエ教授の表現を借りていえば、五つの能力開発技術がある。それは、①第四次元の理解、合複雑な全体をとっさに把握する能力、③第六感の獲得、④無限に発展した道徳意識、⑤とくにわれわれの悟性には不可解な精神的特質、というものであるが、これらの能力開発の技術は、それがそのまま大乗仏教にとり入れられたわけではない。おのずから、ひとつの偏向傾斜があった。
それは当然のことで、大乗仏教の指導者たちは、この技術を彼らの信奉する仏教教義とその目的に沿って取り入れた。一般的でないと思われる技術は捨てられ、あるいはごく一部の指導者にだけつたえられ、あるいは変形された。こうして秘密仏教というあたらしい教義と体系が完成した。しかし、多くのすぐれた開発技術は、この仏教教義を完成させるための補助的技術に変容させられてしまった。あるいは形骸だけがとどめられた。これが、秘密仏教の「行法」であった。
これを究極的に完成したのは、日本密教、すなわち真言宗の開祖空海であった。秘密仏教がインドから中国につたえられ、そのころ中国にわたった空海がそれに接した時点において、秘密仏教はまだ完全にはできあかっていなかった。その混沌たる素材を取捨選択して、これをいま見る真言宗というかたちにまとめ上げ、整然たる宗教にしたのは空海であった。それはまさに大天才のみがなしとげることのできる偉業であったが、同時に、秘密仏教はあまりにも整然と様式化された日本的なものになってしまった。それまでかなり残っていた密教的な部分はほとんどかげにかくれ、一-法」は、様式化された宗教儀式になってしまった。
しかし、それは、当時の目本の国情や、文化水準を背景にしたとき、やむを得ないことであったのである。というよりもむしろ当然であったというべきだろう。そうしなければ宗教として存立することができなかったのである。
だが、そのために、いまいった通り「法」はその力を失った。宗教的に様式化され、儀式化されてしまった「法」では、真の能力開発は困難である。というよりもそれは絶望に近い しかし、それはそれでいいのだ。真言密教というものが、宗教であって能力関発の技術ではな
く、仏教という信仰のワクのなかで教えを説き礼拝をつづけているだけでよいなら、それはそれでいいだろう。それに、ほとんど儀式化された「法」であっても、天分のある才能が懸命の努力を集中するなら、「法」の成就も不可能ではない。やってやれないことはないのである。けれども、それは何世紀にひとりというような稀有の才能を必要とするのではないのか。そういうすぐれた頭脳によれば、様式化された法のあとをたどって、ついにその源泉に到達し、そのなかに秘められた法の技術を発見し、体得することもできよう。あるいはまた、頭脳ではなく、熱烈な信仰が、そこへ導いていってくれることもあるかも知れぬ。だが、それは、万人に期待できることではない。
要するに、真言密教成立の当時と全く時代が変ってしまった現在、真言密教が、他の宗教と根本的にちがうその本来の任務をほんとうに果たそうと思うならば、真言密教は大吝く変わらねばならぬ。真言密教はナみやかにその原点に立ちもどり、「法」を技術としてシステム化しなければならぬ。そうして、だれでもが平易にまなべる体系を編成ナることである。
それは決して「法」を解体し、「法」を壊滅してしまうことではない。むしろ、そうすることによって法が生きるのである。また、それは決して宗教の解体ではない。
法によって高い知的能力を得たならば、人はおのずから高い道徳意識、倫理観を持つものである。

人が宗教的教えを必要とナるのは、知的能力が低いからである。要するに、愚かだからである。人の道徳意識が低いのは、知能、精神能力が低いからだ。ほんとうに知能が高くなれば、人は、いま人類の持っている程度の宗教意識などけるかに超えたもっと高い倫理観を持つ。オリヴイエ教授のいう「無限に発展した道徳意識の保有」である。
教え(宗教)による人類の道徳意識の開発は、すでに限界に達してしまっている。
見よ。

地上にあまねくくりひろげられている人類のこの大愚行を。殺し合い、奪い合い、罵り合い。
どこに「知恵あるヒト」のおもかげがあるか? 「大愚人類」そのものではないか?
要するに、バカにいくら結構な教えを説いてもだめなのだということだ。
もっと忌憚なくいわしてもらうならば、(これは私がいうのではない。みんな密教の神サマが
おっしやるのであります)ちっとましなバカが、しょうのないバカに一心に教えを説いているというのが、いまの宗教のすがたというものではないのか?
宗教だけではない。科学と技術だってそうではないか。見さかいなくいい気になっていろんなものをつくり出し、あとで公害だ有害物質だと困っている。こういうおろかなことは、もう少し人類の知能が高くなったら、そんなバカなことはたのまれなくともしなくなる。要するに知能が低いからだ。
政治も、経済、思想も、みんなそうだと、あなたは真実思わないか?
要するに、すべて、″ヒトの知能が低い″ことに原因があるのである。
この世界を住みよく、たのしいものにするのには、革命ごっこよりもなによりもまず、ヒトの知能を高めることだ。そう、あなたは思わないか?
さて、話をもとにもどそう。
教えの限界とはヒトの知能の限界だ。
密教はその限界をうち破るのである。
技術によって超能力をあたえ、いっきょにヒトを改造して、宗教などという低い次元をいっぺんに飛び越し、想像を絶する叡智を持った、高い倫理的生物をつくり出そうというのだ。
それが、密教だ。
求闘持法《明星》の秘密

私はこのことを念力の護摩の修得に際してさとった。
先年、私は、念力の護摩法の伝授を受け、悉地成就の修行に入った。けれども、その行法の次
第を、何十ぺん何百。へんくり返しても、念力の火は出なかった。煙さえたちのぼる気配はなかった。私かそのままその法の次第を忠実にくりかえしていたら、永久に念力の火は出なかったであろう。出るはずがないのである。念力の護摩法の次第を、いくらくりかえしたって火は出ない。
そんなことで出るのだったら、今日までに、何百人、何千人の阿闇梨が念力の護摩を焚だろう。真言密教の念力の護摩法だけでは、ぜったいに火は出ない、それは、密教の技術によっ
て、サマーナ気を克服したとき(274頁参照)、はじめて肉体から火焔を発することができ、念力の護摩は完成するのである。絶望した私は真言密教をはなれ、身を転じて古代インドの秘密経典にむかった。
私はそこでインドの聖典、バガヴァットーギータを続み、そこに念力の護摩の秘法がかたられ
ていることを知った(口絵写真参照)。そこから、ギータと不二の関係にあるヨーガに入った。ヨーガに本当の念力の護摩があることを知った。ヨーガにおける私のいのちがけの修行がはじまった。ヨーガの技術でなければ念力の火は出ないことがわかったからである。真言密教の念力の護摩法次第は、ほんの心おぼえ程度のものに過ぎず、これでは、だれがどうしたって火の出るはずがなかった。いや、この肉体が火となるための「法」としては心おぼえ程度のものですらなく、むしろ、バガヴァツトーギータの聖句のほうが、はるかに示唆に富んでいるといえた。ヨーガの念力の護摩は、ただ単なる観想の羅列ではなく、どの生理器官をどのように統御しどのように動かすという現実的具体的な「技術」があった。この技術によってトレーニングすれば、多少なりと素質のある者だったら、必死の修行によって念力の火を出すことは不可能ではない。真言密教の念力護摩法次第だけでは、大天才といえども不可能にちかい難事である。この秘密を知らずして、古来、いく人の密教修行者が、念力の護摩の次第と秘伝を前に、血と汗の絶望をくりかえしたことであったろう。思えばツミな″次第″である。
これと全くおなじことが、真言密教につたえる「求聞持聡明法」についてもいうことができる。求闘持とは、古書に、『見聞覚知のことを憶持して長く忘れず、師なくして天地の感応を待つ、これを″求″といい、教なくして真如妙理を覚る。これを″聞″といい、一度覚るとながく忘れない、これを″持″という』とあるように、求闘持法とは、ヒトの大脳を強化して、博覧強
卸、比類なき記憶力と聡明さをあたえる秘法であるが、これをなん十。へんなん百ぺん行法の次第通りに修行したところで、その結果は、おそらく念力の護摩とたいしてかわらない結果におわるであろう。生命を賭して修法すれば、多少の効果はあろうが、宗祖が体験を以て示したような霊験を得ることはまず難い。なぜならば、真言密教の「虚空蔵菩薩求聞持法」には印信観想による精神集中の「法」はあるけれども、現実に生理器官である大脳皮質そのものを動かす「技術」を持っていないのである。ヨーガの「聡明法」は、どの器官をどう使ってどのように大脳皮質を動かすかという「技術」がある。また、それだけではない。根本的にちがうものがあるのである。
’それは、まったく根本的にちがう。
拙著「変身の原理」で求闘持聡明法についてかたって以来、私は、十指を越える真言僧侶、阿閉梨がたから、手紙あるいは直接、この法の修行について相談をうけた。そのほとんどは、自分も一度ないし数度にわたって求聞持法を修したが、いっさい効験がみられなかった。修法の行じかた、あるいは心構えに越法のところがあったのであろうかというのであった。また、何度か修してみて、あの行法にそんな神秘的な力がひそんでいようとは思われぬというものがあった。なかにはお気の毒にも健康を害してしまって、再起不能になったと訴えてきた阿閉梨もおられた。
お気の毒であるが、当然なのである。
真言密教の阿開梨がたが、いくら求闘持法をくりかえしても、成就できないのは当然なのである。もちろん、絶対に、とはいわない。万人に秀いでる天才、英才であったら、その極に達することができるかも知れぬ。しかしまず、不可能にちかいというべきだろう。
私か発見した密教の「求闘持法」でなければ、まず不可能にちかいといってよいであろう。こ
の法については章をあらためてくわしく書くが、ここで、求聞持法の秘密の一端を明かそう。まず、最初、真言密教の求聞持法を述べてみる。
『比の法を修するには、東南西三方の晴れたるところを最上とする。東方のみでも悪くはない。

道場の東壁に小窓をつくる。これは虚空蔵の似沢である明星の光を道場にさし入れるためである。また、朝日夕月の光を本尊にあてる意もあり、あるいは小窓に絹を張り、黄色の種字の字を書いて、そこから、明星の光をとおして本尊にあてるためでもある』
とまず場所を制定し、つぎに、さだめられた本尊の印明を百万べん、五十目あるいは百日に読誦するのであるが、日蝕または月蝕の時に結願するよう開白(はじめること)しなければならぬとある。
けれども、密教の求聞持法では、べつに場所はえらばぬのである。静かな場所でありさえすればよい。また、いつはじめてもよいのである。明星を拝するのも、行のはじめに際して、あるひととき、星と月に対すればよいのである。
また、これこそが密教のもっとも奥義とするところなのだが、弘法大師空海は、求聞持法の成就の体験を、
『―阿国大滝の岳にのぼりよじ、土州室戸の崎に勤念ナ。谷響を惜しまず、明星来影す。
言々』
と語っている。すなわち、阿波の大滝にのぼり、土佐の室戸岬でこの法の修行にはげんだところ、谷はこだまし、明星があらわれるなど、法にいわれている通り現証があり、法が成就した、というのであるが、これは、空海のひとつの表現であって、これをそのまま鵜呑みにしてしまうからいけないのである。これはどこまでもひとつの表現なのだ。
伝にいわく、
『明星来影す、とは、結願のときに、香に火を置き、明星を拝するに、四方が暗く明星が見えねば悉地就成ではない。暗くても星が現ずれば下品の成就であり、四方が少々晴れて星が現ずれば中品、天に暗なく、ことごとく晴れて星現ずれば成就、四方が晴れても星現ぜざれば悉地成せざるなり』
とあるが、これがちがうのである。まるっきりちがう。
こういう口伝や奥伝をたよりにいくら修行しても、気の毒だが、求聞持法は成就しない。
明星とは現実の明星ではないのである。
大脳のある部分をある方法で刺激すると、目の前に光が見えるのである。
その光は、かたちも色も大きさも、いろいろに見えるが、意識を記憶の座に向けて沈静させる
と、つめたい、やや黄色みを帯びた白銀色になって、しずかに目のなかでまたたく。それはちょうど明星そっくりに見えるのである。
これが明星なのだ!
268頁をもう一度、読みかえしていただこう。
″頭のかかの光明に日を向けるならば″
とある。これがそれなのである。
ある特殊なトレーニングにより、この部位(大脳の視床下部のあたり)の刺激が、目のなかに光を浮かばせるのである。目をある角度に向けると、目を開けていても閉じていても、ポッカリと光が浮かんで見える。
この光が見えるようになると、記憶の座が自由にあやっれるようになるばかりでなく、さまざまな、奇蹟としか思えぬような力がついてくる。
これが、「求聞持法」の明星の秘密である。大空を百年ながめて空中の明星を見つめていても、ムダだ。明星はわが大脳のなかにあるのだからI。
このことは、密教五〇〇〇年の歴史に、私がはじめてっかんだ秘密である。私以外にこれを知る者はついになかった。求闘持法の秘密を私はついにつかんだ。私はそれを誇りに思う。
これをもとにして、私は、私の「求闘持聡明法」を編成した。これは、今までの「法」などというアイマイなものではない。生化学と生理学をもとにした「技術」である。正しい指導のもとに訓練を積めば、必ず、だれでもできるようになる技術である。
本来ならば、こういうことは私の、「太極秘伝」として、ごくかぎられた者だけにひそかにつたえてゆくべきものなのだろう。だが、私はこれをひろく公開する。なぜならば、私は、世界中の人びとがこの法によって知能を高め、いっさいの愚行-殺し合い、奪い合い、罵り合い、にくみ合いから遠ざかってほしいのである。
求聞持聡明法は、人の知能を三倍にナる。
しかし、その半分でもよい。人類の知能が今の水準より平均一・五倍飛躍したら、この世
から、犯罪も戦争もいっさいなくなる。そういうものがあるのは、人間が愚かだからだ。求闘持法によって知能指数が倍加したら、そういうものがいかに愚かで馬鹿々々しいことか、大人が子供のヶンカが馬鹿々々しくて見ていられないように、いっさい、しなくなる。
私や、私の周囲のごく一部の者が、この法によっていくら賢くなろうとも、それがなにになろう。世界の大勢にどれはどの影響があろう。よしんば、私か、この法によって、古今無比の大聖者と仰がれるほどの力を持とうとも、世界のどこかで、権力を握っている馬鹿が、核バクダンのボタンをひとつ押したら、それっきりなのである。世界中はふっ飛んでしまう、古今無比の大聖
者もいっしよに!
まあ、古今無比の大聖者ともなれば、事前にそれくらい察知して、安全な所に待避してしまうであろうが、世界中が壊滅して、助かった者も核の灰に汚染されて半死半生ばかりという世のなかに、自分とごく少数の一族だけが生き残ってなにになろう。ノアの方舟の時とは状況が全くちがうのである。
このままでゆけば、核戦争がはじまるのはぜったい確実である。私にははっきりそれがわかる。この大愚行だけはやめさせなければならぬ。
革命よりも、階級闘争よりも、人種闘争よりも、なによりも、いま、人類に必要なのはこれだ。これが根本的に人類を救う道だ、とそう私は思う。ヒトの知能が二倍になったら、いま、人類がかかえているあらゆる問題はすべて解決してしまう。そう、あなたも思わないか?
私か、この求聞持法を惜しげもなく公開し、ひとりでも多く、一目でも早く、修得してほしいとねがうのは、そのためなのだ。
さて、はなしが少々よこにそれたが、この大脳の部位のことは、インドのヨーガの指導者も知っており、ヨーガのほうでは、この部位のことを、
「頭のなかの光座の座」
とか、
「梵の座、梵の裂け目」(brahma randhro
とか、
「サハスララーチャクラ」
と名づけ、頭の中の光明がかがやいている部分であると考えている。しかし、これも解釈がちがっている。
頭のなかに光明がかがやいているのではない。私の発見した求闘持法とおなじ原理である。大脳のある部位を、あるエネルギーで刺激すると、あるひとつの物質が分泌され、それが脳の神経組織を刺激して、目に光を感じさせる。                  『- それが、頭と目の微妙な角度のちがい、刺激の相違で、目のなか、目の前、および、頭のなか、というように、光の浮かぶ場所がちがうのである。
求聞特法の湯合は、目の前の、やや上方、ニメートルから三メートルくらいのところに浮かんでみえる。目の角度と、瞳孔の絞りかたによっては、はるか遠くの空に小さくかがやくように
(ちょうど明星のように)見えないこともない。もし、人里はなれた山のなかであったら、明けの明星のように見えることもできるだろう。私の経験では、目のななめ上方一メートル内外のところに見えるようにするのが、一番、″上品″のようである。
目を閉じて、目の奥の上方、つまり、ヨーガでいう”梵の座”のあたりに、光明を感じさせる
技術は、頭の角度と、脳の刺激する揚所が、求聞特法と少しちがう。したがって、これは、求聞持法ではなく、ちがう力を発現する。また別な法である。この法については、またあとで別に章をもうけて説明しよう。

(サマーナ気統御の技術》と《護摩法》の合体
おなじような例がいくっもある。
たとえば″五相成身観”である。
これは、真言宗徒がかならずおさめねばならぬ金剛界法という法のなかにあり、密教門でもと
くに重要な観法とされる行法である。
凡夫がホトヶという超能力者になるまでの過程を五つに分け、修行者は、ひとつひとつその境界を体験してゆくのであるが、これが、いずれも密教の重要な修行課目になっており、あきらか
に密教から出たものであることがわかる。
しかも、真言密教では、印と観想の二つからなる”観法″であるが、密教においては、観法だ
けではなく、特殊な技術による鍛 練によって生理的器官を動かし、実際に五つの境界に対応す
る力をつける訓練となっている。
また、真言密教においてもっとも重要とされる金剛界九会マンダラもそうである。金剛界九会
マンダラは、凡夫がホトケになる九つの段階と、ホトケというものの力、ホトケのはたらきを図
像にえがきあらわしたものであるが、要するに、ホトケの説明である。
もっとも、真言密教は、このマンダラにもとづいて、前記した金剛界法という行法を編成し、
。観法″によってこれを修行者に体得させようとする。これは、一般仏教、顕教が、その修行方
法として、ただ、経典の読誦と、念仏、唱名題目しか持だないのに対し、一段と進歩したすぐれ
た修行方法であるというべきだが、しかし、これも、真言密教が″観法”だけであるのに対し、
密教は、九会マンダラにあらわされた九つの力を実際に体得させる訓練技術を持っている。
例をあげれば、微細会マンダラがそうである。これは九会マンダラのなかの東南方に位するマ
ンダラで、ホトケの微妙幽玄にして不可思議なる智恵の力とはたらきをあらわすものである。
密教には、実際にこの力を生ぜしめる訓練がある。
真言密教では、ただ、。観想″による″観法″しかない。現実にそういう″力″を持たせると
ころの″技術″がない。
276頁を見ていただこう。
。あきらかに、微細会マンダラは、ヨーガのこの訓練から出ている。ナくなくとも、この訓練に
よって得られる力を背景にしたものであることは間違いない。
これは、密教の技術で、胸の部分の或る部位に力を集中することによって得られる力である。
-こうしてみてくると、真言密教がとるべき道は、おのずから明らかであるといわねばなるまい。真言密教の行法は、密教の技法をとり入れることにより、本当の力が生ずるのではないのか?
そういうと、密教がそんなにすぐれたものであるというなら、密教は真言密教をはなれて、密教独自の道を歩んだらよいではないかという意見が出るかも知れない。その通りである。それでもよいのだ。そういう道もあると私も思う。
しかし、それにもかかわらず、私か真言密教にある価値を見出すのは、その表現様式である。おもしろいことだと思う。
様式だけになってしまっている(と私が思う)真言密教の、その様式が、なかなか貴重なのだ。
私が体得した密教の秘奥の技術を、さて、どのように表現しようかと、その様式を考えてゆくと、結局、真言密教の様式がいちばん便利なのである。たとえば、私の体得創案した「求聞持法」は、ヨーガの技術から発見したもので、真言密教の「求聞持法」とは全然ちがう。そのことは、前の項でおわかりになったことと思う。

ヒトを天才にする求聞持聡明法

 

駄如求聞持明法 memorization ability and intelligent system

ヒトを天才にする求聞持聡明法
求間持聡明法は、ヒトを聡明にし、天才にするという真言密教に伝わる秘法である。
弘法大師空海が、若くしてこれを修し、大天才となったということで、夙に知られてい
る。また、新義真言宗の開祖、興教大師覚鏝(一〇九五1一一四二)が、七度、この法を
修して成功せず、八度目に悉地を成じ、成功したと伝えられる。覚鏝上人ののこされた業
績をみれば、上人もまた天才でめったことは疑いない。ただ残念なことに、四十八歳で亡
くりれている。
真言密教の求聞持聡明法には、三種の法がある。
虚空蔵求聞持
観音求聞持
如意輪求聞持
であるが、ふつう、求間持法といえば、空海が修して有名な虚空蔵求間持をさす。この
じほう法を、具には「仏説虚空蔵菩薩能満諸願最勝心陀羅尼求聞持法」という。
しかし、わたくしがこのたびこの本で発表する求聞持聡明法は、これらのいずれでもない。わたくしが独白に創成した求聞持法で、わたくしはこれに、だとによい
駄都如意求聞持聡明法と名づけた。
この駄都如意求聞持聡明法は、真言密教につたわる求聞持法とはまったくちがうものである。
二つの特徴がある。
それは、
一、クンダリニー・ヨーガのチャクラを覚醒して、超人的千不ルギーを発生させる。
二、その超人的干1 ルギーを、中国・道教につたわる導引・気功の持つ生気ルートに
のせて、体の各要所、要部にめぐらせ、行きわたらせる。殊に、大脳の中枢である間脳・視床下部に送りこむ。
この二つの方法を、独特の方法で完成したのである。これは、前人未踏の領域であるといってよいであろう。わたくしは、半生を、というより、一生をこの法の完成に注いだ。いまから約二〇年前に発行した『変身の原理』以来、わたくしの著書はこの本で四〇冊になるが、それらの著書のすべてが、この法の完成に至る道のりをあらわしたものであるといってよい。
わたくしは、この本で、わたくしの得たほとんどのものを、出来るかぎり、明らかにした。クンダリュー・ヨーガも、道教の導引・気功も、いずれも超人的能力を獲得するための
最高の法である。この世界にこれ以上の超能力開発法ぱない。この二つの法の欠陥を補正して融合させ、さらにあらたな創案をくわえて完成したこの駄都如意求聞持聡明法は、ヒ
トにおける究極の超能力開発法であると自負するのである。
もちろん、。後世おそる、べし”という諺の通り、今後、これ以上の超能力開発法も出るかも知れないが、しかし、それも、クンダリュー・ヨーガと導引・気功を融合させたこの駄
都如意求間持聡明法のライン以外のものではないであろうと確信している。
この法を、指導通りに修行するならば、確実に、ヒトの知能は二倍に、体力は三倍に飛躍強化されるであろうことを断言する。

天才は不老長寿でなければならない

求聞持聡明法は、たしかにヒトを天才にする。
しかし、いくら天才になっても、そのために、病弱になったり、若死にしたりしたのでは、なんにもならない。天才は、いつまでも若々しく、健康で、世のため、人のため、その才能を発揮するもの
でなくてはならない。(寝たっきりの天才など、まっぴらである)
求聞持聡明法修得をこころざしたわたくしは、つねに、四十八歳という惜しむべき短命に終わった興教大師党員上人が念頭にあった。上人は、おそらく、過酷な求間持法修行のため、法は成就したものの、体を痛め、寿命を損じたのにちがいなかった。
このことは、年少、結核を病んで何年も病床に伏した苦しい経験を持つわたくしにとり、その恐れの念が特に深刻であった。
しかし、この憂慮は、幸いにして杷憂におわった。
道教の導引・気功の秘法をとり入れたことが、この心配を吹きとばしてくれたのである。
すなわち、道教の導引・気功は、仙道の流れを汲むものである。そして仙道の理想は、不老長寿、生きながら神仙に化することを目標とする。
駄都如意求聞持聡明法は、特に不老長寿を目ざすものではなかったのだが、結果はそうなってしまったのである。
期せずして、仙道の理想が実現されることになったのだ。
神仙に化することだけはちょっとむずかしいが、不老長寿はかならず達成される。 わたくしぱ断言してよい。仙選の秘法がとり入れられているこの駄都如意求聞持聡明法
は、二十歳代の人ならば、三歳から五歳、中年以上の人ならば、十歳から十五歳、若返ることができるであろう。

あなたが高年者として修行に入り、年齢のために天才になれなかったとしても、いつまでも若々しい肉体と、そして決してボヶることのない求聞持脳だけは獲得できるであろう。
『求聞持聡明法秘伝』平河出版社刊。まえがき”より

「等価変換展開理論」

そんなことがほんとうにできるのか? いったいどうやってそんなことができるのだ、と。
それもたしかにもっともなことで、私自身、身をもってこの密教の秘密に挑戦し、自分でこの
技術を解明するまでは、ぜったいに信ずることができなかった。私は単身、五〇〇〇年の間秘密のヴェールにつっまれてきたこの不思議な技術にいどみ、その秘密を解いた。それは、信ずることのできないほど精緻微妙な生化学に立脚したおどろくべき技術の応用であった。
たとえば、さきにもちょっとふれたが、市川亀久弥博士は、最近の著作のなかマ(≒柚計器)お得意の
「等価変換展開理論」にもとづき、イモ虫からサナギヘの変化を例にして未来社会への脱皮を説いておられる。この理論はまことにみごとで、まさにほれぼれするほどあざやかである。ことに、イモ虫がサナギに変身する理論的うらづけは、近来しきりに輩出する未来論のなかで、まさに出 色のものであるというべきである。
ただ、まことに残念なことに、それは理論と説明と期待にとどまり、それをいかにヒトに応用
して実現させるかという方法を示していない。それは、もちろん、氏自身、同書のはしがきのなかで、これは、″単に人類のあるべき未来社会に関するソフトーウェアの主張の範囲にとどまるものである”とことわり、この。ソフトーウェアに対するハードーウェアの具体的な提唱″は″旺い将七に公長する~定である″ということであるから、われわれはまさに刮目してそれを待、ぐに、その″ソフトーウにアに対するハード・
ウェアの具体的な技術″を持っているのである。密教は、その持つ技術のひとつに、この市川理
論の「イモ虫からサナギヘの脱皮」技術を持っていて、数千年も前から、それをヒトの変身技術に応用、実践していたのである。
密教は、現代の創造理論の大家が提唱する未来に関する花形理論を、とうに実践していたので
ある。五〇〇〇年も前に大地を這いまわることしか知らぬ生物であるイモ虫が、サナギになり、そして、空を舞う生物に
変身することは、二次元の世界に生きる生物が三次元生物に変化したことを意味するものだ。密教がおなじ技術をもってヒトを変身させることは、三次元生物であるヒトをそれより上の次元に飛躍させることを意味する。密教の変身技術はそれなのである。その生物の次元を変えてしまうのだ。
しかも、それは、今までいわれてきたように、ただ神秘的、神がかり的なアイマイな方法でな
く、適確な生化学の技術をもっておこなうのだ。そうしてそれは密教の持ついくつかの技術のなかのひとつに過ぎない。
いったい、どんな智恵がそれをなしとげていたというのであろうか? 密教の技術を神秘とい
うのなら、その点をこそ神秘というべきだろう。しかし、それは、それこそまさに数千年生出
現した超・ヒトが、孤独にたえつつ、その持つ人類最高の智恵「照明智」を駆使してつくり上げた未来人のためのカリキュラムにほかならぬのだというよりはかないであろう。

さて、それでは、密教の技術に関係のある市川理論「等価変換展開理論」とはどんな理論か?
それがどのように密教の技術と関連があるのか?
それを説くまえに、もう少し知っておいていただかねばならぬことがある。
ここで、私は、密教とヨーガという二つのことばについて述べておかねばならぬと思うのだ。
拙著「変身の原理」で、私は、密教についてっぎのように述べた。少し長いが引用してみる。
『真言宗という宗派仏教と、密教すなわち秘密仏教とは、ふかいつながりかおる。だが、それはどこまでもふかいつながりという関係であって、普通考えられているように、密教即真言宗、真言宗即密教というものではないのである。
真言宗とは、インドにおいて発生し、大成した密教を、ああいう独白の形に体系化し、組織化
したものであって、密教そのものではないのである。密教のひとつの体系ではあるけれども、密教そのものではない。
それは、それまでにほぼ完成していたけれども、分派し、多様化していたインド密教を日本密
教の開祖空海が、独自の見識と叡智によって、ひとつの体系につくりあげたということである。
おなじように、天台宗においても、天台密教というひとつの密教体系を組織完成しており、こ
れもまた、密教のひとつの流れということである。
そういうわけで、密教というものを正しく理解するためには、どうしても、]度、密教の原点
に立ちもどって考えてみなければならないのである。
密教は、最初、ひとつの手法(技術)であった。
けっして、最初から密教というひとつの宗教があったわけではない。
ゴータマーブッダがあらわれて、仏教というあたらしい教えを説きはじめるはるか以前、バラ
モンの時代から、インドには、入に超能力をあたえるひとつの手法があった。そういう手法が完成されて、一部の人たちの間につたえられていた。それは、精神と肉体のきびしい錬磨から得られる神秘的な力で、彼らは、それを、ひとつの技術にまでっくりあげていた。
われわれは、その流れのひとつを、現在、ヨーガのなかに見ることができる。(ただしそれは、いまの日本で行なわれているアクロバティックな体操のヨーガではない。ヒマラヤの奥地の聖者たちの間に伝承されている正統ヨーガである)
ヨーガは、その手法のひとつの流れである。この超能力を開発する技術は、仏教があらわれる
以前においてはバラモンにとり入れられ、仏教があらわれると、仏教もまたこれをとり入れた。
ゴータマーブッダは、かれ自身、この手法をまなんで、これにより超能力を持ったが、弟子た
ちにはこれを学ぶことを禁じた。なぜかというと、この技法によって多少の力がつくと、かれらはすぐにそれがブッダのいう「ホトケ」という境地に達したものと考えてしまい、修行のさまたげになるからであった。
ただし一部の、素質のきわめてすぐれた弟子たちには、ひそかにこれを許した。
ゴータマーブッダは、普通、神秘的な力を信じたり、修行者がそういう力を持つことを願った
りするのを全く禁じたというように、仏教学者や仏教者は信じているようであるが、それは間違いで、ブッダ自身、神足({乱石の教理、すなわち、仏道を完全に成就するためには超自然的な力が必要であるとし、超人間的な能力開発の訓練法を説いているのである。これは、パーリ文献によって容易に証明することができるのである。(略)
それによると、それは、″四神足“または、″四如意足″ともいわれる超能力開発法である。
ブッダは、菩提を成就するためには、単に、知性や理性をみがくだけでは不十分であると考
え、知性や理性の限界をうち破る力が必要であると考えた。
そのために、彼は、そういう力を開発するための行法をつくりあげた。それは、彼が学んだ超
能力開発法を加えて編成したものと見てよいであろう。
それは、三十七種の技法から成り立つもので、四神足というのは、その中心になる技術であ
る。神通、如意を得るための定を、四種類の手法に分けて説明している。
欲神足(願望、理想、創造のためのアプローチ)
勤神足(体と心のトレーニング法)
心神足(潜在意識のトレーニング法)
観神足(深層意識のトレーニング法)
きづまりを打破するために、大乗仏教のなかにとり入れられて体系化され、密教と呼ばれになったのである。いうわけで、密教は二つの面を持っている。
一つは、超能力の開発技術
一つは、大乗仏教の教義
この二つである。
この二つのものがむすばれることにより、大乗仏教よりさらに高度の教義が完成されて、「金
剛大乗」と呼ばれる新しい仏教が誕生した。これが密教である』
-との引用の文章でわかるように、「変身の原理Lにおいて語られている「密教」というコ
トバは、「秘密仏教」という意味での「密教」である。仏教のなかにとり入れられた、いわゆる真言密教、あるいは真言宗密教の密教である。
しかし、本書において私がいう「密教」は、それらの密教、「変身の原理」のなかで使われて
いる密教とは全くちがうものであることを、読者はご承知ありたいのである。

本書における「密教」とは、真言密教以前、いうならば仏教にとり入れられる以前の、いや、
バラモンにさえもとり入れられる以前の、引用文でいえば4  R教は最初、ひとつの手法(技術)であった。ゴータマーブッダがあらわれて、仏教というあたらしい教えを説きはじめるはるか以前、バラモン時代から、インドには、入に超能力をあたえるひとつの手法があった。そういう手法が完成されて、一部の人たちの間につたえられていた。それは、精神と肉体のきびしい錬磨から得られる神秘的な力で、彼らは、それを、ひとつの技術にまでっくりあげていた。とあるその「技術」、つまり、いうならば、″古代マーガ″と″真言密教″と、この二つを結合したものであると承知していただきたいのである。即ち本書でいう密教とは、ヨーガと真言密教と、この二つをむすびつけて生まれた新しい技術であるということである。
なぜ、そういうことをしなければならなかったのか、というその理由を語ることはそのまま、密教の法を解説することにもなるので、読者はここのところをよく知っておいていただきたいのである。
引用文のなかにしるされているごとく、行きづまった大乗仏教は、ヨーガの技術にその打開の道を求めた。さきの頃で述べたごとく、精神の高度の飛躍は、その前提に、感覚器官の高度の増幅がなければならぬ。しかし、大乗仏教には教えだけあって、なんの技術もない。大乗仏教という教えであり、教えをあきらかにするだけのもので、技術というべきものはなんにもない。つい
に行きづまることは当然であり、やがてヨーガの技術に救いをもとめるのはさらに当然というべきことであった。
かくして、金剛大乗、真言密教が生まれた。ヨーガには、さきにあげた通り、ジョルジューオリヴィエ教授の表現を借りていえば、五つの能力開発技術がある。それは、①第四次元の理解、合複雑な全体をとっさに把握する能力、③第六感の獲得、④無限に発展した道徳意識、⑤とくにわれわれの悟性には不可解な精神的特質、というものであるが、これらの能力開発の技術は、それがそのまま大乗仏教にとり入れられたわけではない。おのずから、ひとつの偏向傾斜があった。
それは当然のことで、大乗仏教の指導者たちは、この技術を彼らの信奉する仏教教義とその目的に沿って取り入れた。一般的でないと思われる技術は捨てられ、あるいはごく一部の指導者にだけつたえられ、あるいは変形された。こうして秘密仏教というあたらしい教義と体系が完成した。しかし、多くのすぐれた開発技術は、この仏教教義を完成させるための補助的技術に変容させられてしまった。あるいは形骸だけがとどめられた。これが、秘密仏教の「行法」であった。
これを究極的に完成したのは、日本密教、すなわち真言宗の開祖空海であった。秘密仏教がインドから中国につたえられ、そのころ中国にわたった空海がそれに接した時点において、秘密仏教はまだ完全にはできあかっていなかった。その混沌たる素材を取捨選択して、これをいま見る真言宗というかたちにまとめ上げ、整然たる宗教にしたのは空海であった。それはまさに大天才のみがなしとげることのできる偉業であったが、同時に、秘密仏教はあまりにも整然と様式化された日本的なものになってしまった。それまでかなり残っていた密教的な部分はほとんどかげにかくれ、一-法」は、様式化された宗教儀式になってしまった。
しかし、それは、当時の目本の国情や、文化水準を背景にしたとき、やむを得ないことであったのである。というよりもむしろ当然であったというべきだろう。そうしなければ宗教として存立することができなかったのである。
だが、そのために、いまいった通り「法」はその力を失った。宗教的に様式化され、儀式化されてしまった「法」では、真の能力開発は困難である。というよりもそれは絶望に近い しかし、それはそれでいいのだ。真言密教というものが、宗教であって能力関発の技術ではな
く、仏教という信仰のワクのなかで教えを説き礼拝をつづけているだけでよいなら、それはそれでいいだろう。それに、ほとんど儀式化された「法」であっても、天分のある才能が懸命の努力を集中するなら、「法」の成就も不可能ではない。やってやれないことはないのである。けれども、それは何世紀にひとりというような稀有の才能を必要とするのではないのか。そういうすぐれた頭脳によれば、様式化された法のあとをたどって、ついにその源泉に到達し、そのなかに秘められた法の技術を発見し、体得することもできよう。あるいはまた、頭脳ではなく、熱烈な信仰が、そこへ導いていってくれることもあるかも知れぬ。だが、それは、万人に期待できることではない。
要するに、真言密教成立の当時と全く時代が変ってしまった現在、真言密教が、他の宗教と根本的にちがうその本来の任務をほんとうに果たそうと思うならば、真言密教は大吝く変わらねばならぬ。真言密教はナみやかにその原点に立ちもどり、「法」を技術としてシステム化しなければならぬ。そうして、だれでもが平易にまなべる体系を編成ナることである。
それは決して「法」を解体し、「法」を壊滅してしまうことではない。むしろ、そうすることによって法が生きるのである。また、それは決して宗教の解体ではない。
法によって高い知的能力を得たならば、人はおのずから高い道徳意識、倫理観を持つものである。

人が宗教的教えを必要とナるのは、知的能力が低いからである。要するに、愚かだからである。人の道徳意識が低いのは、知能、精神能力が低いからだ。ほんとうに知能が高くなれば、人は、いま人類の持っている程度の宗教意識などけるかに超えたもっと高い倫理観を持つ。オリヴイエ教授のいう「無限に発展した道徳意識の保有」である。
教え(宗教)による人類の道徳意識の開発は、すでに限界に達してしまっている。
見よ。

地上にあまねくくりひろげられている人類のこの大愚行を。殺し合い、奪い合い、罵り合い。
どこに「知恵あるヒト」のおもかげがあるか? 「大愚人類」そのものではないか?
要するに、バカにいくら結構な教えを説いてもだめなのだということだ。
もっと忌憚なくいわしてもらうならば、(これは私がいうのではない。みんな密教の神サマが
おっしやるのであります)ちっとましなバカが、しょうのないバカに一心に教えを説いているというのが、いまの宗教のすがたというものではないのか?
宗教だけではない。科学と技術だってそうではないか。見さかいなくいい気になっていろんなものをつくり出し、あとで公害だ有害物質だと困っている。こういうおろかなことは、もう少し人類の知能が高くなったら、そんなバカなことはたのまれなくともしなくなる。要するに知能が低いからだ。
政治も、経済、思想も、みんなそうだと、あなたは真実思わないか?
要するに、すべて、″ヒトの知能が低い″ことに原因があるのである。
この世界を住みよく、たのしいものにするのには、革命ごっこよりもなによりもまず、ヒトの知能を高めることだ。そう、あなたは思わないか?
さて、話をもとにもどそう。
教えの限界とはヒトの知能の限界だ。
密教はその限界をうち破るのである。
技術によって超能力をあたえ、いっきょにヒトを改造して、宗教などという低い次元をいっぺんに飛び越し、想像を絶する叡智を持った、高い倫理的生物をつくり出そうというのだ。
それが、密教だ。
求闘持法《明星》の秘密

私はこのことを念力の護摩の修得に際してさとった。
先年、私は、念力の護摩法の伝授を受け、悉地成就の修行に入った。けれども、その行法の次
第を、何十ぺん何百。へんくり返しても、念力の火は出なかった。煙さえたちのぼる気配はなかった。私かそのままその法の次第を忠実にくりかえしていたら、永久に念力の火は出なかったであろう。出るはずがないのである。念力の護摩法の次第を、いくらくりかえしたって火は出ない。
そんなことで出るのだったら、今日までに、何百人、何千人の阿闇梨が念力の護摩を焚だろう。真言密教の念力の護摩法だけでは、ぜったいに火は出ない、それは、密教の技術によっ
て、サマーナ気を克服したとき(274頁参照)、はじめて肉体から火焔を発することができ、念力の護摩は完成するのである。絶望した私は真言密教をはなれ、身を転じて古代インドの秘密経典にむかった。
私はそこでインドの聖典、バガヴァットーギータを続み、そこに念力の護摩の秘法がかたられ
ていることを知った(口絵写真参照)。そこから、ギータと不二の関係にあるヨーガに入った。ヨーガに本当の念力の護摩があることを知った。ヨーガにおける私のいのちがけの修行がはじまった。ヨーガの技術でなければ念力の火は出ないことがわかったからである。真言密教の念力の護摩法次第は、ほんの心おぼえ程度のものに過ぎず、これでは、だれがどうしたって火の出るはずがなかった。いや、この肉体が火となるための「法」としては心おぼえ程度のものですらなく、むしろ、バガヴァツトーギータの聖句のほうが、はるかに示唆に富んでいるといえた。ヨーガの念力の護摩は、ただ単なる観想の羅列ではなく、どの生理器官をどのように統御しどのように動かすという現実的具体的な「技術」があった。この技術によってトレーニングすれば、多少なりと素質のある者だったら、必死の修行によって念力の火を出すことは不可能ではない。真言密教の念力護摩法次第だけでは、大天才といえども不可能にちかい難事である。この秘密を知らずして、古来、いく人の密教修行者が、念力の護摩の次第と秘伝を前に、血と汗の絶望をくりかえしたことであったろう。思えばツミな″次第″である。
これと全くおなじことが、真言密教につたえる「求聞持聡明法」についてもいうことができる。求闘持とは、古書に、『見聞覚知のことを憶持して長く忘れず、師なくして天地の感応を待つ、これを″求″といい、教なくして真如妙理を覚る。これを″聞″といい、一度覚るとながく忘れない、これを″持″という』とあるように、求闘持法とは、ヒトの大脳を強化して、博覧強
卸、比類なき記憶力と聡明さをあたえる秘法であるが、これをなん十。へんなん百ぺん行法の次第通りに修行したところで、その結果は、おそらく念力の護摩とたいしてかわらない結果におわるであろう。生命を賭して修法すれば、多少の効果はあろうが、宗祖が体験を以て示したような霊験を得ることはまず難い。なぜならば、真言密教の「虚空蔵菩薩求聞持法」には印信観想による精神集中の「法」はあるけれども、現実に生理器官である大脳皮質そのものを動かす「技術」を持っていないのである。ヨーガの「聡明法」は、どの器官をどう使ってどのように大脳皮質を動かすかという「技術」がある。また、それだけではない。根本的にちがうものがあるのである。
’それは、まったく根本的にちがう。
拙著「変身の原理」で求闘持聡明法についてかたって以来、私は、十指を越える真言僧侶、阿閉梨がたから、手紙あるいは直接、この法の修行について相談をうけた。そのほとんどは、自分も一度ないし数度にわたって求聞持法を修したが、いっさい効験がみられなかった。修法の行じかた、あるいは心構えに越法のところがあったのであろうかというのであった。また、何度か修してみて、あの行法にそんな神秘的な力がひそんでいようとは思われぬというものがあった。なかにはお気の毒にも健康を害してしまって、再起不能になったと訴えてきた阿閉梨もおられた。
お気の毒であるが、当然なのである。
真言密教の阿開梨がたが、いくら求闘持法をくりかえしても、成就できないのは当然なのである。もちろん、絶対に、とはいわない。万人に秀いでる天才、英才であったら、その極に達することができるかも知れぬ。しかしまず、不可能にちかいというべきだろう。
私か発見した密教の「求闘持法」でなければ、まず不可能にちかいといってよいであろう。こ
の法については章をあらためてくわしく書くが、ここで、求聞持法の秘密の一端を明かそう。まず、最初、真言密教の求聞持法を述べてみる。
『比の法を修するには、東南西三方の晴れたるところを最上とする。東方のみでも悪くはない。

道場の東壁に小窓をつくる。これは虚空蔵の似沢である明星の光を道場にさし入れるためである。また、朝日夕月の光を本尊にあてる意もあり、あるいは小窓に絹を張り、黄色の種字の字を書いて、そこから、明星の光をとおして本尊にあてるためでもある』
とまず場所を制定し、つぎに、さだめられた本尊の印明を百万べん、五十目あるいは百日に読誦するのであるが、日蝕または月蝕の時に結願するよう開白(はじめること)しなければならぬとある。
けれども、密教の求聞持法では、べつに場所はえらばぬのである。静かな場所でありさえすればよい。また、いつはじめてもよいのである。明星を拝するのも、行のはじめに際して、あるひととき、星と月に対すればよいのである。
また、これこそが密教のもっとも奥義とするところなのだが、弘法大師空海は、求聞持法の成就の体験を、
『―阿国大滝の岳にのぼりよじ、土州室戸の崎に勤念ナ。谷響を惜しまず、明星来影す。
言々』
と語っている。すなわち、阿波の大滝にのぼり、土佐の室戸岬でこの法の修行にはげんだところ、谷はこだまし、明星があらわれるなど、法にいわれている通り現証があり、法が成就した、というのであるが、これは、空海のひとつの表現であって、これをそのまま鵜呑みにしてしまうからいけないのである。これはどこまでもひとつの表現なのだ。
伝にいわく、
『明星来影す、とは、結願のときに、香に火を置き、明星を拝するに、四方が暗く明星が見えねば悉地就成ではない。暗くても星が現ずれば下品の成就であり、四方が少々晴れて星が現ずれば中品、天に暗なく、ことごとく晴れて星現ずれば成就、四方が晴れても星現ぜざれば悉地成せざるなり』
とあるが、これがちがうのである。まるっきりちがう。
こういう口伝や奥伝をたよりにいくら修行しても、気の毒だが、求聞持法は成就しない。
明星とは現実の明星ではないのである。
大脳のある部分をある方法で刺激すると、目の前に光が見えるのである。
その光は、かたちも色も大きさも、いろいろに見えるが、意識を記憶の座に向けて沈静させる
と、つめたい、やや黄色みを帯びた白銀色になって、しずかに目のなかでまたたく。それはちょうど明星そっくりに見えるのである。
これが明星なのだ!
268頁をもう一度、読みかえしていただこう。
″頭のかかの光明に日を向けるならば″
とある。これがそれなのである。
ある特殊なトレーニングにより、この部位(大脳の視床下部のあたり)の刺激が、目のなかに光を浮かばせるのである。目をある角度に向けると、目を開けていても閉じていても、ポッカリと光が浮かんで見える。
この光が見えるようになると、記憶の座が自由にあやっれるようになるばかりでなく、さまざまな、奇蹟としか思えぬような力がついてくる。
これが、「求聞持法」の明星の秘密である。大空を百年ながめて空中の明星を見つめていても、ムダだ。明星はわが大脳のなかにあるのだからI。
このことは、密教五〇〇〇年の歴史に、私がはじめてっかんだ秘密である。私以外にこれを知る者はついになかった。求闘持法の秘密を私はついにつかんだ。私はそれを誇りに思う。
これをもとにして、私は、私の「求闘持聡明法」を編成した。これは、今までの「法」などというアイマイなものではない。生化学と生理学をもとにした「技術」である。正しい指導のもとに訓練を積めば、必ず、だれでもできるようになる技術である。
本来ならば、こういうことは私の、「太極秘伝」として、ごくかぎられた者だけにひそかにつたえてゆくべきものなのだろう。だが、私はこれをひろく公開する。なぜならば、私は、世界中の人びとがこの法によって知能を高め、いっさいの愚行-殺し合い、奪い合い、罵り合い、にくみ合いから遠ざかってほしいのである。
求聞持聡明法は、人の知能を三倍にナる。
しかし、その半分でもよい。人類の知能が今の水準より平均一・五倍飛躍したら、この世
から、犯罪も戦争もいっさいなくなる。そういうものがあるのは、人間が愚かだからだ。求闘持法によって知能指数が倍加したら、そういうものがいかに愚かで馬鹿々々しいことか、大人が子供のヶンカが馬鹿々々しくて見ていられないように、いっさい、しなくなる。
私や、私の周囲のごく一部の者が、この法によっていくら賢くなろうとも、それがなにになろう。世界の大勢にどれはどの影響があろう。よしんば、私か、この法によって、古今無比の大聖者と仰がれるほどの力を持とうとも、世界のどこかで、権力を握っている馬鹿が、核バクダンのボタンをひとつ押したら、それっきりなのである。世界中はふっ飛んでしまう、古今無比の大聖
者もいっしよに!
まあ、古今無比の大聖者ともなれば、事前にそれくらい察知して、安全な所に待避してしまうであろうが、世界中が壊滅して、助かった者も核の灰に汚染されて半死半生ばかりという世のなかに、自分とごく少数の一族だけが生き残ってなにになろう。ノアの方舟の時とは状況が全くちがうのである。
このままでゆけば、核戦争がはじまるのはぜったい確実である。私にははっきりそれがわかる。この大愚行だけはやめさせなければならぬ。
革命よりも、階級闘争よりも、人種闘争よりも、なによりも、いま、人類に必要なのはこれだ。これが根本的に人類を救う道だ、とそう私は思う。ヒトの知能が二倍になったら、いま、人類がかかえているあらゆる問題はすべて解決してしまう。そう、あなたも思わないか?
私か、この求聞持法を惜しげもなく公開し、ひとりでも多く、一目でも早く、修得してほしいとねがうのは、そのためなのだ。
さて、はなしが少々よこにそれたが、この大脳の部位のことは、インドのヨーガの指導者も知っており、ヨーガのほうでは、この部位のことを、
「頭のなかの光座の座」
とか、
「梵の座、梵の裂け目」(brahma randhro
とか、
「サハスララーチャクラ」
と名づけ、頭の中の光明がかがやいている部分であると考えている。しかし、これも解釈がちがっている。
頭のなかに光明がかがやいているのではない。私の発見した求闘持法とおなじ原理である。大脳のある部位を、あるエネルギーで刺激すると、あるひとつの物質が分泌され、それが脳の神経組織を刺激して、目に光を感じさせる。                  『- それが、頭と目の微妙な角度のちがい、刺激の相違で、目のなか、目の前、および、頭のなか、というように、光の浮かぶ場所がちがうのである。
求聞特法の湯合は、目の前の、やや上方、ニメートルから三メートルくらいのところに浮かんでみえる。目の角度と、瞳孔の絞りかたによっては、はるか遠くの空に小さくかがやくように
(ちょうど明星のように)見えないこともない。もし、人里はなれた山のなかであったら、明けの明星のように見えることもできるだろう。私の経験では、目のななめ上方一メートル内外のところに見えるようにするのが、一番、″上品″のようである。
目を閉じて、目の奥の上方、つまり、ヨーガでいう”梵の座”のあたりに、光明を感じさせる
技術は、頭の角度と、脳の刺激する揚所が、求聞特法と少しちがう。したがって、これは、求聞持法ではなく、ちがう力を発現する。また別な法である。この法については、またあとで別に章をもうけて説明しよう。

(サマーナ気統御の技術》と《護摩法》の合体
おなじような例がいくっもある。
たとえば″五相成身観”である。
これは、真言宗徒がかならずおさめねばならぬ金剛界法という法のなかにあり、密教門でもと
くに重要な観法とされる行法である。
凡夫がホトヶという超能力者になるまでの過程を五つに分け、修行者は、ひとつひとつその境界を体験してゆくのであるが、これが、いずれも密教の重要な修行課目になっており、あきらか
に密教から出たものであることがわかる。
しかも、真言密教では、印と観想の二つからなる”観法″であるが、密教においては、観法だ
けではなく、特殊な技術による鍛 練によって生理的器官を動かし、実際に五つの境界に対応す
る力をつける訓練となっている。
また、真言密教においてもっとも重要とされる金剛界九会マンダラもそうである。金剛界九会
マンダラは、凡夫がホトケになる九つの段階と、ホトケというものの力、ホトケのはたらきを図
像にえがきあらわしたものであるが、要するに、ホトケの説明である。
もっとも、真言密教は、このマンダラにもとづいて、前記した金剛界法という行法を編成し、
。観法″によってこれを修行者に体得させようとする。これは、一般仏教、顕教が、その修行方
法として、ただ、経典の読誦と、念仏、唱名題目しか持だないのに対し、一段と進歩したすぐれた修行方法であるというべきだが、しかし、これも、真言密教が″観法”だけであるのに対し、
密教は、九会マンダラにあらわされた九つの力を実際に体得させる訓練技術を持っている。
例をあげれば、微細会マンダラがそうである。これは九会マンダラのなかの東南方に位するマ
ンダラで、ホトケの微妙幽玄にして不可思議なる智恵の力とはたらきをあらわすものである。
密教には、実際にこの力を生ぜしめる訓練がある。
真言密教では、ただ、。観想″による″観法″しかない。現実にそういう″力″を持たせると
ころの″技術″がない。
276頁を見ていただこう。
。あきらかに、微細会マンダラは、ヨーガのこの訓練から出ている。ナくなくとも、この訓練に
よって得られる力を背景にしたものであることは間違いない。
これは、密教の技術で、胸の部分の或る部位に力を集中することによって得られる力である。
-こうしてみてくると、真言密教がとるべき道は、おのずから明らかであるといわねばなるまい。真言密教の行法は、密教の技法をとり入れることにより、本当の力が生ずるのではないのか?
そういうと、密教がそんなにすぐれたものであるというなら、密教は真言密教をはなれて、密教独自の道を歩んだらよいではないかという意見が出るかも知れない。その通りである。それでもよいのだ。そういう道もあると私も思う。
しかし、それにもかかわらず、私か真言密教にある価値を見出すのは、その表現様式である。おもしろいことだと思う。
様式だけになってしまっている(と私が思う)真言密教の、その様式が、なかなか貴重なのだ。
私が体得した密教の秘奥の技術を、さて、どのように表現しようかと、その様式を考えてゆくと、結局、真言密教の様式がいちばん便利なのである。たとえば、私の体得創案した「求聞持法」は、ヨーガの技術から発見したもので、真言密教の「求聞持法」とは全然ちがう。そのことは、前の項でおわかりになったことと思う。

 

精児童と老人の知能アップ 求閒持 Increasing the intelligence of young children and the elderly Techniques for modifying humans Secrets of the secret method of gaining wisdom 11

精児童と老人の知能アップ について、教えて

精神的・知的健康を維持することは、年齢を問わず重要です。子供や老人の知能アップには、以下のような方法があります。

  1. 知的活動をする 知的な活動は脳を刺激し、認知機能を維持するのに役立ちます。子供は学校の勉強や、読書、パズルなどを通じて、知的能力を向上させることができます。老人は、読書、クロスワードパズル、ボードゲーム、音楽、絵画などを通じて、認知機能を刺激することができます。
  2. 運動をする 運動は身体的健康を維持するだけでなく、認知機能を改善することにもつながります。子供は、スポーツや運動、遊びを通じて、身体と脳を刺激することができます。老人は、ウォーキング、ストレッチ、ヨガ、水泳などの軽い運動を行うことで、健康を維持し、認知機能を改善することができます。
  3. バランスの取れた食生活をする 健康的な食生活は、脳と身体の健康を維持するのに重要です。子供は、バランスの取れた食事を摂ることで、栄養バランスを整えることができます。老人は、食事に適切な栄養素を摂取することで、認知機能を改善することができます。
  4. 社会的活動をする 社会的な活動に参加することは、認知機能を改善するのに役立ちます。子供は、学校やサークルなどで友達と交流を深めることができます。老人は、趣味やボランティア活動などを通じて、社会とのつながりを保ち、認知機能を改善することができます。
  5. 睡眠を十分にとる 十分な睡眠は、脳と身体の健康を維持するのに重要です。子供は、規則正しい生活リズムを作ることで、十分な睡眠をとることができます。老人は、快適な睡眠環境を整え、規則正しい生活リズムを作

 

 

 

こういう混乱期に抑圧意識が突出してきて、行者を思いがけない分裂行動 や、反社会的行動に追いこむのである。だから、旅行の過程において抑意識をとり去り、純一無 雑な人格をつくり上げるように指導してゆかねばならない。にもかかわらず、古来の求聞持法の修 行法には、このことが全く欠落してしまっている。

 

昔から、 求聞持法を修行してやり損なうと精神 病者になるといわれ、また実際に分裂病患者が少なからず出ているのはこのためなのである。修行 指導者ともに心せねばならぬ所以である。

 

精児童と老人の知能アップ

成仏を果たす大天才をつくるために用いられた。

いままで、求聞持法は密教の大天才をつくるためにあった。 普通人以上の知能を持つエリートを集めて特殊訓練し、即身

わたくしはその反対のことをこころみたのである。普通人の知能以下のひとたちをこの法で訓練 して、普通人の知能にまでひき上げようと考えたのである。その結果は非常に有望なものであった。 わたくしは思ったのである。

生まれつき高い知能を持つ秀才を天才に仕上げ、すぐれたエリートをつくり出すことも必要であ ろうが、低い知能に生まれついた不幸な子供たちの知能を高めて、普通人の水準にひき上げてやる ことも、それに劣らぬ社会的意義を持つことではないだろうか、と。

そうしてわたくし Kiramama      はそのこころみにいどんだのである。結果は有望なものであった。相当重症の 精薄児童でないかぎり、かなりな知能の回復・向上が見られたのである。密教はこのこころみを発 させなければならぬのではなかろうか。

また、即身成仏を果たす宗教的大天才をつくり出すことも大切であろうが、ひとにぎりの大天才 をつくり出すことよりも、たとえ大天才にははるかに及ばずとも、大多数の真の良識を持った 「賢いひと」をつくり出すことのほうが、いま、はるかに必要なのではなかろうか。いや、それを なすことこそが、ひとにぎりの大天才をつくり出す目的なのではないのか。それは人類社会全体の 知的レベルをひき上げることである。この世の中をほんとうにしあわせなものにするためには、ひ とにぎりの大天才をつくるよりも、人類全体の知能を少しでもアップさせることのほうが有効であ るとわたくしは思うのだ。

わたくしは、人類の不幸はすべて人間が愚かなところに原因があると思っている。人間が愚かで あるがゆえに、殺し合い、傷つけ合い、奪い合う惨事が止まないのである。釈迦、キリストをはじ 過去に幾人かの大天才があらわれたが、ことごとく人間の愚かさの中に埋没してしまった。い まだに人間同士の愚劣な争いは止まない。それどころかエスカレートするばかりである。戦争、闘 略奪経済による環境汚染と自然破壊、すべて人類の愚かさが原因である。 わたくしはこの法を 人類社会全体の知的レベルの向上に用いたいのである。人間の愚かさは、教育だけでは解決つかな いものである。 それを解決するためには、特殊な方法が必要である。

高い知能を持つ人材を育成することが重要である一方、低い知能を持つ子供たちにも教育の機会を提供し、彼らの知能を向上させることが重要であるという主張をしています。このような教育の取り組みは、社会的にも非常に意義があるとされています。

低い知能を持つ子供たちは、教育の機会が十分に与えられない場合があります。しかし、彼らにも適切な教育を提供することで、彼らが自分自身や社会に貢献できるようになる可能性があります。そのため、彼らには同じ機会を提供することが、社会的にも公正であると考えられます。

また、知能を向上させることは、個人だけでなく、社会全体にとっても利益があります。高い知能を持つ人材が育成されることで、社会や産業の発展に貢献できる一方、低い知能を持つ人々にも教育の機会を与えることで、人材不足問題の解決にもつながる可能性があります。

総じて、この文は、知能を高める教育の取り組みは、社会にとって非常に意義があるという主張をしています。高い知能を持つ人材の育成だけでなく、低い知能を持つ人々にも教育の機会を与えることで、社会全体の発展に貢献することができると考えられます。

 

 

人間はその奥深いところに未発達の部分を持っている。そうしてその未発達の部分が、人間や、 人間社会をしばしば強く動かすのである。これが不幸の原因である。人間は、自分では気がつかな くても、自分のからだや心の奥底に、自分の知らない非常に遠い過去からのものをそのまま受けつ いで残している。 人間に進化するまでの過程において必要であった人間以前の非人間的なものを、

そのまま心の奥かく秘めている。人間にまで進化した現在ではもはや不要であったり、あるいは かえって有害となるものを残している。人間の愚かな行動はそれに起因しているのである。 求聞持 法はそれをとり除いて、人間を賢くさせる方法を持つ。

 

 

教育や、また、「教え」を主にした一般の宗教では、人間の奥かくにひそむこの暗黒部分をと のぞくことが出来ない。なぜならば、その暗黒部分は究極のところで「教え」を拒否してしまう からである。

必要なのは、「教え」ではなく「方法」である。 求聞持法はその「方法」を持つ。 い や、その「方法」が求聞持法なのだ。 わたくしは、この法を、一部のエリートたち(あるいはエリー トを志す人たちだけでなく、人類全体に適用したいのだ。人類の知能はそれにより間違いなくレベ ルアップするだろう。

ところで、人間の知能について考えるとき、老人の知能低下の問題をそのままにしておくわけに はいかない。

専門家の調査によると、現在、全国に完全恍惚の老人が、およそ三十数万人いるという。いわゆ

「見当識」を失って、記憶のほとんどを忘失してしまった気の毒なひとたちである。 しかし、気 の毒なのは本人たちだけではない。 その家族たちも同様に気の毒である。中には、人間関係を荒廃 させ、あるいは経済的に破綻しようとしている悲惨な家庭がいくつもある。仔細に見てゆくとき、 これはもうひとつの社会問題であると思わざるを得ない。高齢化社会がすすみつつある現在、これ は今後よりいっそう深刻化してゆくであろう。 これはひとごとではない。おたがい切実な問題であ る。生きているかぎり、だれでも老人になるのだ。 そうして多少の個人差はあっても、老人になっ

たらだれでも知能の低下は防げない。

では、人間の知能を飛躍的にアップさせる求聞持法はどうなのか。

すぐれた効果をあげることができるのである。 かなりの高年者でも、この法によって訓練するこ とにより、確実に脳の老化を防ぐことが出来る。もちろん、若ものたちのようなわけにはいかない けれども、うまくゆくと、その老人の過去のどの時代よりも若々しく冴えた頭のはたらきを見せる という皮肉な現象も起こり得るのだ。

老人は長い社会生活による豊富な経験と知識を持つ。 ながい間の経験による知恵も持っている。 この経験と知識と知恵を恍惚のかなたに消滅させてしまうことは、本人はもとより、社会にとっ ても損失である。

持法の訓練により、老人は、脳の活力と柔軟性をとりもどす。 それは老人の経済的自立も意 味するだろう。

以上の二つのことは可能なのである。

もちろん、この二つを完全に果たすためには、今までとちがったあたらしい求聞持法が必要であ る。なぜならば、古来の求聞持法は、エリート集団の特殊訓練法であった。エリート中のエリート えりすぐって修行させることにより、はじめてその効果をあげることができるものであった。そ れをそのままこれらのひとたちに適用することは出来ない。ではどうしたらよいのか? そのこと についてはまたあとで述べよう。

 

 

During this period of confusion, a sense of oppression comes to the fore, driving the practitioner into unexpected schisms and anti-social behavior. Therefore, in the process of travel, we must guide them to get rid of their feelings of depression and build up a pure and unsophisticated personality. Nevertheless, this is completely absent from the ancient Gumonjiho practice.

 

Since ancient times, it has been said that if one fails to practice the Gumonjiho, one becomes a psychopath, and this is the reason why many schizophrenic patients actually appear. This is the reason why both training leaders must keep this in mind.

 

 

 

Intelligent children and the elderly

It was used to create a great genius who would attain Buddhahood.

Until now, the Gumonjiho was to create a great genius of esoteric Buddhism. Gather elites with higher intelligence than ordinary people, special train them, and

I tried to do the opposite. The idea was to use this method to train people whose intelligence was below that of an ordinary person, and to bring them up to the level of an ordinary person’s intelligence. The results were very promising. I thought.

It may be necessary to turn talented people who are born with high intelligence into geniuses and create an excellent elite, but he will raise the intelligence of unfortunate children who were born with low intelligence and raise them to the level of ordinary people. I wondered if this also has social significance equal to that.

That’s how I and him, Kiramama, went against that plan. The results were promising. Unless the children were severely thin children, a considerable recovery and improvement of intelligence was observed. Shouldn’t esoteric Buddhism have to make this intention come out?

It is also important to create religious great geniuses who can attain Buddhahood in their own lives. Isn’t it far more necessary now to create “smart people”? No, isn’t it the very purpose of him to create a handful of great geniuses? It is to raise the intellectual level of the entire human society. In order to make this world truly happy, I believe that it is more effective to raise the intelligence of the entire human race, even if only a little, rather than creating a great genius of his own.

I believe that human stupidity is the cause of all human misfortune. Human beings are foolish and they exist, so the tragedy of killing, hurting, and competing for each other never stops. Buddha, Christ, and many other great geniuses have appeared in the past, but they have all been buried in human stupidity. His silly fights between humans still don’t stop. On the contrary, it only escalates. Wars, struggles, environmental pollution and natural destruction caused by the predatory economy, are all caused by the stupidity of mankind. I would like to use this law to improve the intellectual level of the entire human society. Human stupidity cannot be solved by education alone. A special method is needed to solve it.

Human beings have an underdeveloped part deep inside them. And it is this underdeveloped part that often drives humans and human societies strongly. This is the cause of unhappiness. Even if we don’t realize it ourselves, we carry things from the very distant past that we don’t know about in the depths of our bodies and minds. The pre-human inhuman things that were necessary in the process of evolving into humans,

Kentoshiki

It’s hidden deep inside his heart. Now that he has evolved into a human being, he leaves things that are no longer necessary or even harmful. Human stupidity is due to it. Inquisitiveness has a way of getting rid of it and making people smarter.

He cannot look into this dark side that lies deep within human beings through education and general religions that focus on “teachings.” This is because the dark side of him ultimately rejects the “teachings.” What is needed is a “method,” not a “teaching.” Q&A has its “method”. No, that “method” is the Qinghuiho. I want to apply this law not only to some elites (or those who aspire to be elites), but to the entire human race.

By the way, when thinking about human intelligence, he cannot leave the problem of declining intelligence in the elderly as it is.

According to a survey by experts, there are currently about 300,000 elderly people in total ecstasy all over the country. so-called

threshold

These are the poor people who have lost most of their memories due to their disorientation. But they are not the only ones to feel sorry for them. I feel sorry for their families as well. Among them are a number of miserable families that have ruined relationships or are on the brink of financial bankruptcy. When you look closely, you can’t help but think that this is another social problem. With the aging society progressing, this will become even more serious in the future. This is not one. Both are serious issues. As long as one lives, one becomes old. In this way, even if there are some individual differences,

No one can prevent intellectual decline.

Then, what about the Qinghui method that dramatically improves human intelligence?

It can give excellent results. Even a very old person can certainly prevent aging of the brain by training according to this method. Of course, he can’t be like the young ones, but if things go well, the ironic phenomenon of him showing a younger and clearer head than any other age in the old man’s past can also occur. .

Elderly people have a wealth of experience and knowledge due to their long social life. He also has wisdom from long experience. Losing this experience, knowledge, and wisdom beyond ecstasy is a loss not only for the individual, but also for society.

Through the training of Hoho, the elderly regain the vitality and flexibility of the brain. It would also mean financial independence for the elderly.

These two things are possible.

Of course, in order to achieve these two goals completely, we need a new method of inquiry and hearing that is different from what has been done up until now. This is because the ancient Gumonjiho was a special training method for elite groups. An elite among elites, he was able to achieve its effect only by carefully selecting and training him. You can’t just apply it to these people. So what should we do? More on that later.

 

 

http://cyber-price.com/buddha/

 

Buddha Japan journal
日本の仏教を発信します
Send Japanese Buddhism

ニルヴァーナを智慧と慈悲をめざす。

5ヒトを改造する技術 求閒持聪明法秘伝 Techniques for modifying humans: Secret secrets of the secret method of arranging a human body

、心のクンダリニー・エネルギーの使いかたは、サンドリニー・ヨーダ法とまったく異なり、ランドリニーまさにコントロードし、「使うのである、まり、クンダリニー・エネルギ!「ボトせる」という手法である。

それはどのようにして、なされるのだろうか

フリーきたいし、クンダリニーには到底およばないけれど
きたい」、エネルギーざきこうへ(ツボ)を知ってこれを使ってキキラいる。

これは道教の最極秘伝になっていて、これを知る人はごく稀である。(アンリ・マスベロがその著書で、ちょっとこれにふれている)この経穴、中国でツボと呼ぶ部位は、チャクラの一種であるとわたくしは考えている)は、クンダリニーのチャクラから、少し離れたところにある。道教は、いまいったように、このチャクラを使って強い「気」を呼び起こすのである。クンダリニーの代わりといってよいだろう。クンダリニーそのものは、知らないのである。

仏陀の四神足法では、この道教のチャクラを使って、まず、強い「気」のエネルギーを呼び起こす。次いで、この「気」を本命のクンダリニー・チャクラに送りこむ。

クンダリニーの眠る部位の周囲に、この「気」をゆるやかに行らせてゆくのである。

クンダリニーは、徐さに、おだやかに目ざめはじめる。

道敦は、この「気」を使ってクンダリニーを目ざめさせるとい、活してしまって、「気」だけを使う法を完成したのではなかうか。

いつしか消えてしまったのであろうかと、わたくしは考えている。いうならば、クンダリニーという巨大モーターを起動させるための始動用小型モーターだけが、に伝えられたと考えるわけだ。

クンダリニーという過激きわまるエネルギーを、みごとにコントロールして使う仏陀のこの秘法には、ただただ感嘆するしかないのである。

だが―、仏陀の秘法はこれだけではないのである。さらにおどろくべき秘技を、仏陀はわれわれに教示するのである。
それは、ひと口にいうと、ビンガラとイダーの気道を、アクセルとブレーキに使うのだといったらよいであろう。ただし、これが、クンダリニー・ヨーガのピンガラ、イダーそのものであるかどうかは、わからない。

或いは、心配があたらしくつくり出した気道であるのかも知れない。というのは、クンダリニー・ヨーガのビンガラとイダーは、前にのべたように、脊柱を通るスシュムー、三上昇するのであるが、仏陀のこの二つの気道は、その反対側の、腹
さとするからである。しかし、わたくしは、この二つの気道の果たす機能からして、やはりこれはピンガラとイダーであって、仏陀がこのように変えられたのであろうと思っている。したがって、この二つの気道を、やはり、ピンガラとイダーという
名称で呼ぶことにする。

いま、この二つの気道の機能からして、といったが、どういう機能を持っているのピンガラ気道は、クンダリニー・エネルギーにたいし、発動・昂揚の機能を持つ。

イダーの気道は、沈静・凝縮の機能を持つ。
つまり、さきにいったように、アクセルとブレーキの役目を果たすのだ。
それは、つぎのように使われる。

二本のスシュムナー管

さきにのべた通り、クンダリニー・ヨーガでは、尾紙骨部分から延髄にかけて、脊
柱を真っ直ぐ、スシュムナー管が通っている。目ざめたクンダリニーは、ここを上昇
びていこう
する。
仏陀の法16
仏陀の法では、スシュムナー管がもう一本ある。つまり二本あるのだ。クンダリニ
ー・ヨーガと正反対、尾頭骨から会陰を通って、腹部の正中線を真っ直ぐ、脳輪を経
てく喉に至る気道である。目ざめたクンダリニーは、背部のスシュムナー管とともに、
この腹部スシュムナー管さも上昇する。(上昇するというより、上昇させるのだ)
この腹部スシュムナーのクンダリニー・エネルギーを、コントロールしつつ、各チ
ャクラを開発、電躍するのが、仏陀のピンガラ、イダーの両気道である。

つまり、隣輪から約五ないし八センチ(入によって個人差がある)ほど下の辺で、腹部スシュムナーから分譲し、各チャクラおよび関連臓器、神経を行って上昇し、まただ、下降する。あるいは、咽喉からさらに脳の内部を、鼻柱の奥ふかく、層顧の深部
へと上昇し、脳のチャクラ、神経経路等を守り、延髄の小脳部分で、背部スシュムナこの三つの気遣、技法は、チャクラの開発・覚醒にぜったい必要で、これなくしてチャクラの主な開発・電は不可能といってもいいであろう。殊に、視床下部、間脳の辺の神経経路の増強には、不可欠の技法である。

まさに、神技というしかない微妙きわまる技法である。
では、この神技ともいうべき仏陀の法の修行は、どのようになされるのであろうか。
それは大別して、三つの法から成り立つ。

1、クンダリニーを覚醒する修行法
2、チャクラを開発する修行法
3、ピンガラ、イダーの気道を開発する修行法
である。

それは、特殊な呼吸法、独特な瞑想・観想、マントラ詠唱、ムドラー(手印、ポー
ズ)などから構成される。その一つ一つについて解説しよう。ただし、本書は教習書
ではないので、実技の詳細については、著者の別の本(『求聞持聡明法秘伝』その他)
を参照、または、著者に就いて実際に習得してほしい。

 

 

 

 

The way to use the kundalini energy of the mind is completely different from the Sandriny Yoda method, and it is a method of “using, mari, kundalini energy!”

How is it done?

I want to be free, but it’s far from Kundalini
“I want to come”, knowing the energy points (acupuncture points) and using this, I’m shining.

This is the most secret of Taoism, and very few people know it. (I think that this acupuncture point, the part called the acupoint in China, is a kind of chakra) (Henri Masbello mentions this in his book) is a little away from the Kundalini chakra. It is in. Taoism, as it is now, uses this chakra to evoke a strong “ki”. It can be said to be an alternative to Kundalini. I don’t know Kundalini itself.

In the Buddha’s Iddhipada method, this Taoist chakra is used to first evoke a strong “Qi” energy. Next, send this “ki” to the favorite Kundalini chakra.

This “ki” is slowly moved around the sleeping area of ​​the kundalini.

Kundalini slowly begins to wake up.

Michiatsu said that he would use this “ki” to awaken the kundalini, and he might have used it to complete the method of using only “ki”.

I am wondering if it has disappeared someday. In other words, I think that only a small starting motor for starting a huge motor called Kundalini was transmitted to.

I can only admire this secret method of the Buddha, who uses the radical energy of Kundalini in a wonderfully controlled manner.

However, this is not the only secret method of the Buddha. The Buddha teaches us even more surprising secrets.
In a nutshell, the airways of Bingala and Eider are used for accelerators and brakes. However, I don’t know if this is Kundalini Yoga’s Pingala, Eider itself.

Or it may be an airway that was newly created with anxiety. For Kundalini Yoga’s Bingala and Ida, as mentioned earlier, rise three times through the spinal column, but these two airways of the Buddha are on the opposite side, the belly.
Because it is Satofull. However, I suspect that, given the function of these two airways, this is still Pingala and Ida, and that the Buddha was changed in this way. Therefore, these two airways are still called Pingara and Ida.
I will call it by name.

Now, from the functions of these two airways, what kind of function does the Pingara airway have for kundalini energy?

Eider’s airways have the function of calming and condensing.
In other words, as I said earlier, it acts as an accelerator and a brake.
It is used as follows.

Two Sushmuner tubes

As mentioned earlier, in Kundalini yoga, from the tail paper bone to the medulla oblongata, the spine
The Sschmuner pipe runs straight through the pillar. Awakened Kundalini climbs here
Let’s go
do.
Buddha’s Law 16
According to the Buddha’s law, there is another Sushmuner tube. In other words, there are two. Kundalini
-The opposite of yoga, from the caudal skull through the perineum, straight to the midline of the abdomen, through the brain ring
The airway leading to the throat. The awakened Kundalini, along with the Sushmuner tube on the back,
This abdominal Sushmuner tube also rises. (Rather than rising, raise)
While controlling the kundalini energy of this abdominal sshmuner, each chi
It is the two airways of the Buddha, Pingara and Ida, that develop and make a leap forward in Jakura.

In other words, about 5 to 8 cm below the adjacent ring (depending on the individual), it is sold from the abdominal Sushmuner, and rises and falls through each chakra, related organs, and nerves. Alternatively, from the throat to the inside of the brain, deep inside the nasal column, deep inside the layer.
In the cerebellum part of the medulla oblongata, these three cares and techniques are absolutely necessary for the development and awakening of the chakra, and the main development of the chakra without it.・ It can be said that electricity is impossible. In particular, it is an indispensable technique for enhancing neural pathways in the hypothalamus and diencephalon.

It is a delicate technique that can only be called a divine technique.
Then, how is the practice of the Buddha’s law, which can be called this divine technique, done?
It is roughly divided into three laws.

1, a training method to awaken the kundalini
2. Training method to develop chakra
3, Pingara, a training method to develop the airway of Ida
Is.

It is a special breathing method, a unique meditation / idea, a mantra chanting, a mudra (hand sign, po).
Z) etc. Let me explain each one. However, this book is a training book
For more information on the practical skills, see another book by the author (“Kumon Mochi Satoshi Hosekiden” and others).
Please refer to, or learn about the author.

4 ヒトを改造する技術 求閒持聪明法秘伝 Techniques for modifying humans: Secret secrets of the secret method of arranging a human body

仏陀の法

 

 

一つはスシュムナー管、他の二つは、ピンガラ、イダーの気道である。

中心となる気道はスシュムナー管である。これは、さきにものべたように、尾武骨から始まって、延髄に至っている。

特殊な意念の力でクンダリニーが目ざめると、そのエネルギーは爆発的な勢いで、スシュムナー管を延髄まで上昇する。同時に、クンダリニーは、ピンガラ、イダーの気道を上昇し、クンダリニーのエネルギー調節その他補助的なはたらきをする。

脊髄の右側にあるピンガラは、太陽の気道と呼ばれ、熱を統御する気道とされる。

左側のイダーは、月の気道と呼ばれ、冷気の流れを統御する。もし誤ってピンガラを通ってクンダリニーが目ざめると、外から全くコントロールのきかないすさまじい体内熱のために、修行者は、最悪の場合、文字通り真っ黒になって焼け死んでしまうことがあるという。

 

クンダリニー』の著者、ゴーピ・クリシュナは、この過ちのためにかれ自身、危うく死をまぬがれた体験を記している。

 

わたくしが、仏陀を、クンダリニー・ヨーガの完成者であると断定するのは、この点からである。

さきにあげたミラクルの池の伝説や、雑阿含経に説かれる仏陀の奇蹟- 上半身から火を出し、下半身から水を出すという奇は、このピンガラとイダーを使ってのエネルギー放射なのである。この奇蹟は、クンダリニー・ヨーガ完成者独特のものなのだ。

さて、クンダリニーが目ざめ、スムーズにエネルギーが気道を上下するうちに、修行が順調に進むと、クンダリニーはサハスラーラ・チャクラに到達し、ここで修行が完成する。(ただし、ここまで到達できる修行者は、古今、稀である)
このように、クンダリニーは、尾祇骨から延髄にまで到達し、それからさらに上昇して、究極的には頭頂のサハスラーラ・チャクラにまで到達することになっているのだが、延髄からさきの、サハスラーラに至る経路がどのようになっているのか、明瞭で

尾武骨から延髄までは、脊柱が通っていて、いうならば一本道であるから、はっきりしている。しかし、延髄からさき、サハスラーラに至るルートは、一体どういう気
2
わたくしは、さきに、仏陀が弟子たちにクンダリニー・ヨーガを用いさせなかった
のは、過激すぎるからだといったけれども、それはそれだけではなかったのである。

クンダリニー・ヨーガのチャクラ開発法は、不安定であり、不確実だったのである。

仏陀は完璧な成仏法を作製して、弟子たちに教えたのである。

仏陀の修行法はまだつづく。

 

クンダリニー・プラーナ

わたくしは、さきに、仏陀は修行法にクンダリニー・ヨーガをとり入れなかったといった。

たしかにその通りである。仏陀は四神足法にクンダリニー・ヨーガをとり入れなかった。しかし、クンダリニー・エネルギーはとり入れていたのである。

人間の持つエネルギーで、ダリクンニーほど強大なエネルギーはない。人間を改造する原動力として、これに匹敵するものはない。いや、このエネルギーを使わなかっため、人間の改造など不可能といっていいだろう。だから。仏成は発を開いた。

クンダリニーから生ずるエネルギー経のである、強がる母娘の熱、あるいは資るだけではない。

初対の展然のは、意志にまな鉄道である。後発者、クンダリニーを愛。
るに十分だけの意表をつと、強力になった後の本は、クンダリニー賞録に向けあれる。クンダリニーを焼線するための部位売所所ある。そこでましい剣激があたえられると、クンダリニーに目ある。Q都合に、にしたがって、熱心地に「こられなければならない。

対容疑ん中に、いくつか。必ず意識、あるい選落を演熱し演奏家を発演する製談が出てくるが、その、激和線、タッタッターをあるらしているのか。

てよい。お家。リクンニーは、三つの頭を持った機、あるい漫たつの演を、た整の姿で変域でいるのである。統合経継料を差飛翼然公認試練。強然を塞継速過の物語ではなく、一般学、機械で、だめなが手をに、クンダリー・ルーコンタロー物に現場したことを成しているのかを。

道を通るのか、明確ではないのである。クンダリニーが目ざめさえすれば、目ざめた
クンダリニーは、自動的にサハスラーラ・チャクラに到達することになっているので
あって、修行者自身には、その経路はまったくわからないわけである。
これにたいし、仏陀の気道はどうであろうか。
仏陀の気道も、クンダリニー・ヨーガと共通する部分がある。
それは、尾祇骨から延髄に至る脊柱の部分を通る気道である。スシュムナー管とほ
とんど変わらない気道である。しかし、クンダリニー・ヨーガのスシュムナー管は延
績で終わっているが、仏陀の気道はさらに進んで、大脳の新皮質、旧皮質、古皮質を
めぐって、間脳から視床下部にまで到達しているのである。そして、そのはっきりし
たルートを持っているのである。
びていこう
びちゅう
それだけではない。ルートはさらに前額部に進み、眉間から鼻柱の奥を通ってか
いや喉にくだる。つまり、サハスラーラからアージュニャー、そしてその周辺の神経
経路をめぐって脳下垂体前葉、下垂体後葉に至っているのである。そしていまいった
ように、これらのルートは、明確に示されているのだ。熟達した導師の指導を受けれ

 

ば、初心の修行者でも把握が可能である。
どちらがすぐれているかは、いうまでもないことであろう。

これは、基本的に、クンダリニー・ヨーガの修行法と、仏陀の成仏法の、修行方の違いによるものである。

仏陀の方法は、プラーナを「行らせる」という方法である。これは、修行者が自の意念(意志)によっておこなうことを意味する。したがって、修行者は、プラーナを導いていくルートを知っていなければならないわけである。プラーナのいくさきを、
プラーナにまかせるのではなく、修行者が決定して進めていくのである。だから、修行者はその道すじを知っていなければならないのである。

 

クンダリニー・ヨーガの場合はこれとまったく違っている。

クンダリニーを目ざめさせるためには修行者の意志の力を必要とするが、一旦めざめたクンダリニーは、修行者の意志にかかわりなく、一気にスシュムナー気道を爆発的に上昇していくのである。それは、修行者が「めぐらす」などというものではない。
そしてそのあとも、クンダリニーまかせということになる。

最上深秘の呼吸法

 

だから、仏陀のクンダリニー・エネルギーの使いかたは、クンダリニー・ヨーガの手法とまったく異なり、クンダリニーを完全にコントロールしつつ使うのである。つまり、クンダリニー・エネルギーを「行らせる」という手法である。

それはどのようにして、なされるのだろうか?

ピンガラどイダーを使う仏陀の秘法

いい気持で眠っているゴジラを叩き起こすようなバカな真似はしないほうが賢明であろう。

仏陀の法では、怪物クンダリニーを、ごくおだやかに、上機嫌(?)に目ざめさせるのである。

のように?

道教はクンダリニーを知らない。しかし、クンダリニーには到底およばないけれど超常的な強い「気」のエネルギーを呼び起こす経穴(ツボ)を知ってこれを使ってチャクラいる。

これは道教の最極秘伝になっていて、これを知る人はごく稀である。(アンリ・マ
スペロがその著書で、ちょっとこれにふれている)この経穴(中国でツボと呼ぶ部位は、チャクラの一種であるとわたくしは考ている)は、クンダリニーのチャクラから、少し離れたところにある。道教は、いまいったように、このチャクラを使って強い「気」を呼び起こすのである。クンダリニーの代わりといってよいだろう。クンダリニーそのものは、知らないのである。

仏陀の四神足法では、この道教のチャクラを使って、まず、強い「気」のエネルギーを呼び起こす。次いで、この「気」を本命のクンダリニー・チャクラに送りこむ。

クンダリニーの眠る部位の周囲に、この「気」をゆるやかに行らせてゆくのである。

クンダリニーは、徐々に、おだやかに目ざめはじめる。

わたくしは思うのだが、道教は、この「気」を使ってクンダリニーを目ざめさせるという秘法を落としてしまって、「気」だけを使う法を完成したのではなかろうか。

或いは、これは仏陀の極秘の法として、ごく一部の高弟だけに伝え、外部に洩らさず、いつしか消えてしまったのであろうかと、わたくしは考えている。いうならば、クンダリニーという巨大モーターを起動させるための始動用小型モーターだけが、道教に伝えられたと考えるわけだ。

クンダリニーという過激きわまるエネルギーを、みごとにコントロールして使う仏陀のこの秘法には、ただただ感嘆するしかないのである。

だが――、仏陀の秘法はこれだけではないのである。さらにおどろくべき秘技を、仏陀はわれわれに教示するのである。
それは、ひと口にいうと、ピンガラとイダーの気道を、アクセルとブレーキに使うのだといったらよいであろう。ただし、こが、クンダリニー・ヨーガのピンガラ、イダーそのものであるかどうかは、わからない。

或いは、仏陀があたらしくつくり出した気道であるのかも知れない。というのは、クンダリニー・ヨーガのピンガラとイダーは、前にのべたように、脊柱を通るスシュムナー管の両側を上昇するのであるが、仏陀のこの二つの気道は、その反対側の、腹
部を上下するからである。しかし、わたくしは、この二つの気道の果たす機能からしこちらて、やはりこれはピンガラとイダーであって、仏陀がこのように変えられたのであろ

 

うと思っている。したがって、この二つの気道を、やはり、ピンガラとイダーという名称で呼ぶことにする。いま、この二つの気道の機能からして、といったが、どういう機能を持っているのピンガラ気道は、クンダリニー・エネルギーにたいし、発動・昂揚の機能を持つ。

イダーの気道は、沈静・凝縮の機能を持つ。

つまり、さきにいったように、アクセルとブレーキの役目を果たすのだ。

それは、つぎのように使われる。

二本のスシュムナー管

さきにのべた通り、クンダリニー・ヨーガでは、尾骨部分から延髄にかけて、脊
柱を真っ直ぐ、スシュムナー管が通っている。目ざめたクンダリニーは、ここを上昇仏陀の法では、スシュムナー管がもう一本ある。つまり二本あるのだ。クンダリニー・ヨーガと正反対、尾低骨から会陰を通って、腹部の正中線を真っ直ぐ、輪を経て、喉に至る気道である。目ざめたクンダリニーは、背部のスシュムナー管とともに、
この腹部スシュムナー管をも上昇する。(上昇するというより、上昇させるのだ)この腹部スシュムナーのクンダリニー・エネルギーを、コントロールしつつ、各チャクラを開発、覚醒するのが、仏陀のピンガラ、イダーの両気道である。
つまり、脳端から約五ないし八センチ(人によって個人差があるほど下の辺で、腹部スシュムナーから分岐し、各チャクラおよび関連機器、神経を行って上昇し、また、下降する。あるいは、咽喉からさらに脳の内部を、鼻柱の奥ふかく、眉間の深部へと上昇し、脳のチャクラ、神経経路等を行り、延髄の小脳部分で、背部スシュムナー皆と合流する。

この二つの気道の技法は、チャクラの開発・覚醒にぜったい必要で、これなくして
チャクラの完全な開発・覚醒は不可能といってもいいであろう。

 

Buddha’s Law

 

 

 

One is the Sushmuner tube and the other two are the Pingala and Eider airways.

The central airway is the Sschmuner’s canal. It starts with the tail bone and ends with the medulla oblongata, as mentioned earlier.

When the Kundalini awakens with the power of a special idea, the energy explosively rises the Sschmuner’s canal to the medulla oblongata. At the same time, the kundalini rises in the airways of Pingala and Ida, and acts as an energy regulator and other auxiliary for the kundalini.

The pingala on the right side of the spinal cord is called the airway of the sun and is the airway that controls heat.

The ider on the left, called the lunar airway, controls the flow of cold air. If the kundalini wakes up accidentally through Pingala, the practitioner can literally turn black and burn to death in the worst case due to the tremendous internal heat that is completely out of control.

 

The author of Kundalini, Gopi Krishna, describes his own nearly deadly experience due to this mistake.

 

It is from this point that I conclude that the Buddha is the perfector of Kundalini Yoga.

The legend of the Miracle Pond mentioned earlier and the miracle of the Buddha described in Sasamyo-The miracle of putting out fire from the upper body and water from the lower body is the energy radiation using this Pingara and Ida. This miracle is unique to the Kundalini Yoga perfector.

Now, as the kundalini awakens and the energy moves up and down the airway smoothly, the training progresses smoothly, and the kundalini reaches the Sahaslara chakra, where the training is completed. (However, practitioners who can reach this point are rare in ancient times.)
Thus, the kundalini is supposed to reach the medulla oblongata from the caudal bone and then ascend further to the Sahaslara chakra on the crown, but from the medulla oblongata to the Sahaslara. It is clear what the route to

From the tail bone to the medulla oblongata, the spinal column runs, so to speak, it is a straight road, so it is clear. However, what is the route from the medulla oblongata to Sahaslara?
2
I did not let the Buddha use Kundalini Yoga earlier for his disciples.
It’s because it’s too radical, but it wasn’t the only thing.

The Kundalini Yoga chakra development method was unstable and uncertain.

The Buddha created the perfect Buddhahood method and taught it to his disciples.

The Buddhist practice is still going on.

Kundalini prana

I said earlier that the Buddha did not incorporate Kundalini yoga into his training.

That’s true. The Buddha did not incorporate Kundalini Yoga into the Iddhipada method. However, Kundalini energy was taken in.

The energy of human beings is not as powerful as that of Darikunnie. There is no comparable driving force for remodeling humans. No, because it doesn’t use this energy, it can be said that it is impossible to remodel humans. that’s why. Buddha opened the door.

It’s not just the growing heat of the mother and daughter, or the contribution, which is the energy process that results from Kundalini.

The first pair of exhibitions is a railroad that is willing to do. I love the latecomer, Kundalini.
With enough surprises, the book, after becoming powerful, is directed to the Kundalini Awards. There is a part sales office for burning kundalini. When a sword fierce is given there, Kundalini has an eye on it. Q For convenience, I have to come to the heat.

Some during the suspicion. There will always be talks about consciousness, or a selection that will be performed and a performer will be performed, but is there a gekiwa line or tatter?

You can do it. Home. Rikunnie is a three-headed machine, a Tatsuno performance, in the form of a tune. The integrated succession fee is officially recognized by Tsubasa. It’s not a story of a rush to squeeze the force, but a general science, a machine, and a kundalini-rucontaro thing with a bad hand.

It is not clear whether it will take the road. As long as the kundalini awakens, he awakens
Kundalini is supposed to reach the Sahasrara chakra automatically
Therefore, the practitioner himself does not know the route at all.
What about the Buddha’s airway?
The Buddha’s airway also has something in common with Kundalini Yoga.
It is the airway through the part of the spinal column from the caudal bone to the medulla oblongata. Sushmuner tube Toho
It is an airway that does not change much. However, Kundalini Yoga’s Sushmuner tube has been extended.
Although it ends with a record, the airway of the Buddha goes further and goes through the neocortex, old cortex, and paleocortex of the cerebrum.
It reaches from the diencephalon to the hypothalamus. And that clarity
I have a route.
Let’s go
Bichu
That is not all. The route goes further to the forehead, from between the eyebrows to the back of the nose pillar.
No, it’s throaty. In other words, the nerves from Sahaslara to Ajnya and its surroundings.
The route leads to the anterior pituitary gland and the posterior pituitary gland. And now
As such, these routes are clearly shown. Under the guidance of a skilled guru

 

For example, even a novice practitioner can grasp it.
It goes without saying which one is better.

This is basically due to the difference in practice between the Kundalini Yoga practice and the Buddhahood Buddhahood practice.

The Buddha’s method is to “go” prana. This means that the practitioner does it by his own will. Therefore, the practitioner must know the route that leads Prana. The way of prana,
Instead of leaving it to Prana, the practitioner decides and proceeds. Therefore, the practitioner must know the path.

 

In the case of Kundalini Yoga, this is completely different.

The power of the practitioner’s will is required to awaken the kundalini, but once awakened, the kundalini explosively rises in the Sushmuner airway regardless of the practitioner’s will. It is not something that the practitioner is “megurasu”.
And after that, it will be left to Kundalini.

The most secret breathing method

 

Therefore, the way of using the kundalini energy of the Buddha is completely different from the method of the kundalini yoga, and the kundalini is used with complete control. In other words, it is a method of “making” Kundalini energy.

How is it done?

The secret method of the Buddha using Pingara and Ida

It would be wise not to do stupid imitations that would provoke a sleeping Godzilla with a good feeling.

According to the Buddha’s law, the monster Kundalini is awakened in a very gentle and good mood (?).

like?

Taoism does not know Kundalini. However, although it is far from Kundalini, he knows the acupuncture points (pots) that evoke the paranormal and strong energy of “Qi” and uses them for chakra.

This is the most secret of Taoism, and very few people know it. (Henri Ma
This acupuncture point (which I think is a type of chakra in China) is a little further away from the Kundalini chakra. Taoism, as it is now, uses this chakra to evoke a strong “ki”. It can be said to be an alternative to Kundalini. I don’t know Kundalini itself.

In the Buddha’s Iddhipada method, this Taoist chakra is used to first evoke a strong “Qi” energy. Next, send this “ki” to the favorite Kundalini chakra.

This “ki” is slowly moved around the sleeping area of ​​the kundalini.

The kundalini gradually begins to wake up gently.

I think that Taoism has dropped the secret method of using this “ki” to awaken the kundalini, and has completed the method of using only “ki”.

Or, as the Buddha’s top secret law, I tell only a few high-ranking younger brothers, and I wonder if it disappeared someday without leaking to the outside. In other words, I think that only a small starting motor for starting a huge motor called Kundalini was transmitted to Taoism.

I can only admire this secret method of the Buddha, who uses the radical energy of Kundalini in a wonderfully controlled manner.

However, this is not the only secret method of the Buddha. The Buddha teaches us even more surprising secrets.
In a nutshell, the airways of Pingala and Eider are used for accelerators and brakes. However, I don’t know if this is Kundalini Yoga’s Pingala, Eider itself.

Or it may be the airway that the Buddha created newly. For Kundalini Yoga’s Pingala and Ida, as mentioned earlier, rise on both sides of the Sushmuner’s canal through the spinal column, but the two airways of the Buddha are on the opposite side, the belly.
This is because the part goes up and down. However, because of the functions of these two airways, I am still Pingala and Ida, and the Buddha was changed in this way.

 

I’m thinking. Therefore, we will call these two airways by the names of Pingala and Ida. Now, from the functions of these two airways, what kind of function does the Pingara airway have for kundalini energy?

Eider’s airways have the function of calming and condensing.

In other words, as I said earlier, it acts as an accelerator and a brake.

It is used as follows.

Two Sushmuner tubes
As mentioned earlier, in Kundalini yoga, from the coccyx to the medulla oblongata, the spine
The Sschmuner pipe runs straight through the pillar. Awakened Kundalini rises here In Buddha’s law, there is another Sushmuner tube. In other words, there are two. Opposite to Kundalini Yoga, it is the airway from the tail low bone through the perineum, straight through the midline of the abdomen, through the ring, to the throat. The awakened Kundalini, along with the Sushmuner tube on the back,
This abdominal Sschmuner tube also rises. It is the Buddha’s Pingala and Ida airways that develop and awaken each chakra while controlling the kundalini energy of this abdominal sshmuner (which raises rather than rises).
That is, about 5 to 8 cm from the end of the brain (at the lower side, which varies from person to person, it branches off from the abdominal sushmuner, goes up and down through each chakra and related equipment, nerves, or goes down, or the throat. From there, it rises further inside the brain to the depths of the nasal column and deep between the eyebrows, goes through the chakras of the brain, nerve pathways, etc., and joins all the back Sushmuner at the medulla oblongata cerebral part.

These two airway techniques are absolutely necessary for chakra development and awakening, without them.
It can be said that the complete development and awakening of the chakra is impossible.

 

 

http://cyber-price.com/buddha/

 

Buddha Japan journal
日本の仏教を発信します
Send Japanese Buddhism

ニルヴァーナを智慧と慈悲をめざす。

“Nirvana aims for wisdom and compassion.”