仏教の辞典
人はどんな因縁を持つか 2 What kind of connection does a person have?
家運衰退の因縁 肉親血縁相剋の因縁
これは、肉親血縁相剋の因縁の変形で、親がわが子の生命力を害するのである。そのため もし、そのが非常に生命力が強ければ、素行が乱れるようになって、幼少にして、家を飛び出す。これは親のそばにいると生命力を削られて、危険なので親のもとを飛び出すようになるのである(もちろん、本人はそのことを知らないが)。
最近、少年少女の非行問題についていろいろと対策が練られようとしているが、世の親は、こういう因縁のあることに気がついて欲しい。
因縁なんて迷信じゃないかなどとバカげたことをいっていないで、自分自身にそういうものがないかどうか、よくよく考えてもらいたい。
父親にしても母親にしても、この因縁があると、子供が必ず異常に反抗する。もちろん、子供の成長期間中に反抗期という一時期があることは事実だが、この因縁による反抗は異常なのである。これは、前記の肉親血縁相剋の因縁の場合と同じように、自分の生命力を侵害してくるものに対して自衛本能がはたらき、我が生命力を結集して反撃しようとするゆえに一言一句、ことごとく反抗反発するのだ。わが身を守るかわいそうな姿なのである。
私は、いつも、この因縁をもつ親と子を見ると、毛をさか立てキバをむき出して、敵に噛みつこうと必死になっている仔犬の姿を思い出す。
成功者の家庭に素行不良の子がわりに多いのは、他に原因はあるけれども、運気のつよい親はえてしてその運気のつよさが同時に子を剋する因縁をも伴ないやすいため、そういう結果を生じやすいのである。
素行不良の子を持つ親、異常に親の言うことをきかぬ子を持つ親は、根本的な対策の一つとしてこの因縁の有無をまず調べてみよ。この因縁がなければ比較的容易に直るが、この因縁あるかぎり、絶対に直らぬのである。
この因縁は水子の霊障から生じていることが多い。
これは恩を仇で返す因縁である。
これも家運衰退の因縁に根ざすものである。
要するに、恩を受けた人(主人、師、上長、取引先、先輩など)をだましたり、傷つけたり、とにかく川rに何かしら損申‥をあたえる。μだしいのは(もしその者が刑獄の囚縁を併せ持っていたなら)殺して金品を奪ったりする。そこまでいかなくとも必ず恩義のある人を裏切りそむく。
因縁というものは、必ずしも性格的なものとは限っておらぬので、「恩を仇で返す因縁」を待った者が必ずしも恩を仇で返すような性格を持っているとは限らない。中途挫折の因縁を持っている者が必ずしも薄志弱行型の性格を持っているとは限らぬ、と先に書いた通りである(もちろん、持っている因縁がそのままその人の性格になっている人もかず多いが)。
この逆恩の因縁の場合も、性格としては、恩を仇で返すというようなものと反対に、∵心
に恩義にむくいようとする心がけを持っていて、そのように努力をしながら、かえって結果的には、その恩義を仇にして返すようなことになってしまうことがよくある。例えば、主人(会社)に忠実でT心に尽くすのだが、それがかえって主人(会社)のためにならぬような結果を生む。努力してお得意や取引先をつくると、その取引先が何千万、何億円という不渡り手形を出したり、倒産してしまったりして、主人(会社)に大きな迷惑をかけてしまう、というようなことになる。
大体、自分にとって恩義のある人というのは、自分に好意を持ち、あるいは信用して、自分を引き立て、力になってくれる人である。こういう相手に、無意識とはいえそういう損害をあたえたり、そむいたりするということは、自分で自分の手足をもぐことである。自分の有力な味方を失うことになる。そこで孤立無援となり、人生の失敗者となってゆく。
人を使う人、使われる人も、ともにこの因縁には注意が必要である。
夫婦縁破れる因縁 色情の因縁
女性が持つ因縁である。
夫の運気(生命力)を目に見えぬ力で損ね、削る。といっても、必ずしも、日常生活において夫を尻の下に敷いたり、夫を虐待するというのではない。もちろん、そういう場合もな
いことはないが、前にも書いたように、因縁というものは性格にあらわれる場合と性格にまったくあらわれぬ場合とがある。この因縁の場合もその通りで、むしろこの因縁を持つ女性はマメマメしく夫につかえる良妻賢母型に多いので始末に困る。江戸川柳に、
「次の間で毒が薬を煎じてる」
という句があるが、これは、まさにこの囚級を持つ女性をズバリと句にしていろものと感心させられる。
この句の意味は、亭主が年中病弱で寝ている、その家をたずねてみると、亭主の寝ている次の部屋で、若い美しい細君が、甲斐々々しく薬を煎じている。しかし実際は、この美しい
細君が病身の亭主にとっては毒なのだ、というところから、細君が薬を煎じているのを、毒が薬を、と皮肉っているわけである。
この因縁を持つ女性を妻に持つと、その夫は年中病弱となるか、または仕事がうまくいかず、年中失敗したり、渋滞しがちとなる。生命力を削られるところから、運が非常に悪くなるのである。いかに才能、手腕があろうとも、必ず何か一つの不運につきまとわれる。細君が心につかえればつかえるほど、夫の運気が悪くなるのであるから厄介である。
Fate of the decline of family luck: Fate of relatives and blood relatives
This is a variant of the kinship of relatives, and the parent impairs the vitality of his or her child. Therefore, if the f has a very strong vitality, the behavior will be disturbed, and he will leave the house as a child. If you are near your parents, you will lose your vitality and you will jump out of your parents because it is dangerous (though you do not know that, of course).
Recently, various measures have been devised for the delinquency problem of boys and girls, but I would like parents in the world to be aware of this connection.
Don’t say that the cause is a superstition, I want you to think carefully about whether or not you have such a thing.
Whether it is a father or a mother, if there is this connection, the child will always rebel abnormally. Of course, it is true that there is a period of rebellion during the child’s growth, but the rebellion caused by this cause is unusual. This is because the self-defense instinct works against something that infringes one’s vitality and tries to mobilize my vitality to counterattack, as in the case of the above-mentioned relatives and relatives. Everything is rebellious and repulsive. It is a poor figure that protects me.
Whenever I see a parent and a child with this connection, I remember the appearance of a puppy desperately trying to bite an enemy by raising his hair and exposing his kiba.
There are other reasons why there are many poorly behaved children in successful families, but fortunate parents are likely to have a connection with having a child at the same time. It is easy to occur.
Parents with poorly behaved children and parents with children who do not understand what their parents say abnormally should first investigate the existence of this cause as one of the fundamental measures. Without this cause, it can be fixed relatively easily, but as long as this cause is present, it will never be fixed.
This connection often results from the spiritual disorder of Mizuko.
This is the cause of giving back the favor.
This is also rooted in the cause of the decline in family luck.
In short, it tricks or hurt the beneficiaries (master, teacher, superior, business partner, senior, etc.), and gives the river r some kind of loss. What’s wrong is killing (if the person also has a prison affair) and robbing money. Even if you don’t go that far, you will always betray those who are indebted.
Because a fate is not always a personality, a person who waits for a “fate to return a favor” does not necessarily have a personality to return a favor. As I wrote earlier, a person who has a frustration in the middle does not necessarily have a weak-minded personality (of course, the fate that he has becomes that person’s personality as it is. There are many people who do it).
In the case of the cause of this reverse grace, as a personality, contrary to the thing of returning the grace with a grace, ∵ heart
It is often the case that they have the intention of trying to get rid of their grace, and while making such efforts, they end up giving back their grace as a result. For example, I am loyal to my husband (company) and do my best, but on the contrary, it produces results that are not good for my husband (company). If you make an effort to create a specialty or a business partner, the business partner will issue a non-sufficient bill of tens of millions or hundreds of millions of yen or go bankrupt, causing a great deal of trouble to the owner (company). It will be something like that.
Generally, a person who is indebted to oneself is a person who likes or trusts oneself, enhances oneself, and helps oneself. To inflict or repel such damage, albeit unconsciously, to such a person is to take your own limbs. You will lose your strong ally. There, he becomes isolated and unsupported, and becomes a failure in his life.
Both people who use people and people who use people need to be careful about this cause.
Fate of breaking the relationship between husband and wife
It is a cause that women have.
Husband’s luck (life force) is damaged by invisible power and scraped. However, it does not necessarily mean that the husband is laid under his hips or abused in daily life. Of course, that is also the case
There is nothing wrong with it, but as I wrote before, there are cases where the fate appears in the personality and cases where it does not appear at all in the personality. The same is true for this connection, and rather, many women with this connection are good wives and wise mothers who can be used by their husbands, so it is difficult to get rid of them. In Edogawa Yanagi,
“Poison is decocting medicine between the next”
There is a phrase, but this impresses me with the phrase “a woman with this prison class”.
The meaning of this phrase is that the owner is sick all year round, and when he asks the house, the young beautiful Hosono is brewing the medicine in the next room where the owner is sleeping. But in reality, this beautiful
It is ironic that Hosono is decocting the medicine because Hosono is poisonous to the sick husband.
If a wife has a woman with this connection, her husband will be sick all year round, or his job will not go well, and he will tend to fail or be congested all year round. Luck is very bad because of the loss of vitality. No matter how talented or skillful you are, you will always be caught up in one misfortune. The more you can use it in your heart, the worse your husband’s luck will be, which is troublesome.
オーラの祭典
桐山靖雄 ヒトを天才にする求聞持聡明法
ヒトを天才にする求聞持聡明法

ヒトを天才にする求聞持聡明法
求間持聡明法は、ヒトを聡明にし、天才にするという真言密教に伝わる秘法である。
弘法大師空海が、若くしてこれを修し、大天才となったということで、夙に知られてい
る。また、新義真言宗の開祖、興教大師覚鏝(一〇九五1一一四二)が、七度、この法を
修して成功せず、八度目に悉地を成じ、成功したと伝えられる。覚鏝上人ののこされた業
績をみれば、上人もまた天才でめったことは疑いない。ただ残念なことに、四十八歳で亡
くりれている。
真言密教の求聞持聡明法には、三種の法がある。
虚空蔵求聞持
観音求聞持
如意輪求聞持
であるが、ふつう、求間持法といえば、空海が修して有名な虚空蔵求間持をさす。この
つぶさ ぶつせつこくうぞうほさつのうまんしよがんさいしようしんだら・にぐもんじほう
法を、具には「仏説虚空蔵菩薩能満諸願最勝心陀羅尼求聞持法」という。
しかし、わたくしがこのたびこの本で発表する求聞持聡明法は、これらのいずれでもない。わたくしが独白に創成した求聞持法で、わたくしはこれに、だとによい
駄都如意求聞持聡明法と名づけた。
この駄都如意求聞持聡明法は、真言密教につたわる求聞持法とはまったくちがうものである。
二つの特徴がある。
それは、
一、クンダリニー・ヨーガのチャクラを覚醒して、超人的千不ルギーを発生させる。
二、その超人的干1 ルギーを、中国・道教につたわる導引・気功の持つ生気ルートに
のせて、体の各要所、要部にめぐらせ、行きわたらせる。殊に、大脳の中枢である間脳・視床下部に送りこむ。
この二つの方法を、独特の方法で完成したのである。これは、前人未踏の領域であるといってよいであろう。わたくしは、半生を、というより、一生をこの法の完成に注いだ。いまから約二〇年前に発行した『変身の原理』以来、わたくしの著書はこの本で四〇冊になるが、それらの著書のすべてが、この法の完成に至る道のりをあらわしたものであるといってよい。
わたくしは、この本で、わたくしの得たほとんどのものを、出来るかぎり、明らかにした。クンダリュー・ヨーガも、道教の導引・気功も、いずれも超人的能力を獲得するための
最高の法である。この世界にこれ以上の超能力開発法ぱない。この二つの法の欠陥を補正して融合させ、さらにあらたな創案をくわえて完成したこの駄都如意求聞持聡明法は、ヒ
トにおける究極の超能力開発法であると自負するのである。
もちろん、。後世おそる、べし”という諺の通り、今後、これ以上の超能力開発法も出るかも知れないが、しかし、それも、クンダリュー・ヨーガと導引・気功を融合させたこの駄
都如意求間持聡明法のライン以外のものではないであろうと確信している。
この法を、指導通りに修行するならば、確実に、ヒトの知能は二倍に、体力は三倍に飛躍強化されるであろうことを断言する。
天才は不老長寿でなければならない
求聞持聡明法は、たしかにヒトを天才にする。
しかし、いくら天才になっても、そのために、病弱になったり、若死にしたりしたのでは、なんにもならない。天才は、いつまでも若々しく、健康で、世のため、人のため、その才能を発揮するもの
でなくてはならない。(寝たっきりの天才など、まっぴらである)
求聞持聡明法修得をこころざしたわたくしは、つねに、四十八歳という惜しむべき短命に終わった興教大師党員上人が念頭にあった。上人は、おそらく、過酷な求間持法修行のため、法は成就したものの、体を痛め、寿命を損じたのにちがいなかった。
このことは、年少、結核を病んで何年も病床に伏した苦しい経験を持つわたくしにとり、その恐れの念が特に深刻であった。
しかし、この憂慮は、幸いにして杷憂におわった。
道教の導引・気功の秘法をとり入れたことが、この心配を吹きとばしてくれたのである。
すなわち、道教の導引・気功は、仙道の流れを汲むものである。そして仙道の理想は、不老長寿、生きながら神仙に化することを目標とする。
駄都如意求聞持聡明法は、特に不老長寿を目ざすものではなかったのだが、結果はそうなってしまったのである。
期せずして、仙道の理想が実現されることになったのだ。
神仙に化することだけはちょっとむずかしいが、不老長寿はかならず達成される。 わたくしぱ断言してよい。仙選の秘法がとり入れられているこの駄都如意求聞持聡明法
は、二十歳代の人ならば、三歳から五歳、中年以上の人ならば、十歳から十五歳、若返ることができるであろう。
あなたが高年者として修行に入り、年齢のために天才になれなかったとしても、いつまでも若々しい肉体と、そして決してボヶることのない求聞持脳だけは獲得できるであろう。
『求聞持聡明法秘伝』平河出版社刊。まえがき”より
「等価変換展開理論」
そんなことがほんとうにできるのか? いったいどうやってそんなことができるのだ、と。
それもたしかにもっともなことで、私自身、身をもってこの密教の秘密に挑戦し、自分でこの
技術を解明するまでは、ぜったいに信ずることができなかった。私は単身、五〇〇〇年の間秘密
のヴェールにつっまれてきたこの不思議な技術にいどみ、その秘密を解いた。それは、信ずるこ
とのできないほど精緻微妙な生化学に立脚したおどろくべき技術の応用であった。
たとえば、
さきにもちょっとふれたが、市川亀久弥博士は、最近の著作のなかマ(≒柚計器)お得意の
「等価変換展開理論」にもとづき、イモ虫からサナギヘの変化を例にして未来社会への脱皮を説
いておられる。この理論はまことにみごとで、まさにほれぼれするほどあざやかである。こと
に、イモ虫がサナギに変身する理論的うらづけは、近来しきりに輩出する未来論のなかで、まさ
に出 色のものであるというべきである。
ただ、まことに残念なことに、それは理論と説明と期待にとどまり、それをいかにヒトに応用
して実現させるかという方法を示していない。それは、もちろん、氏自身、同書のはしがきのな
かで、これは、″単に人類のあるべき未来社会に関するソフトーウェアの主張の範囲にとどまる
ものである”とことわり、この。ソフトーウェアに対するハードーウェアの具体的な提唱″は
″旺い将七に公長する~定である″ということであるから、われわれはまさに刮目してそれを待、ぐに、その″ソフトーウにアに対するハード・
ウェアの具体的な技術″を持っているのである。密教は、その持つ技術のひとつに、この市川理
論の「イモ虫からサナギヘの脱皮」技術を持っていて、数千年も前から、それをヒトの変身技術
に応用、実践していたのである。
密教は、現代の創造理論の大家が提唱する未来に関する花形理論を、とうに実践していたので
ある。五〇〇〇年も前にI。
地を這いまわることしか知らぬ生物であるイモ虫が、サナギになり、そして、空を舞う生物に
変身することは、二次元の世界に生きる生物が三次元生物に変化したことを意味するものだ。密
教がおなじ技術をもってヒトを変身させることは、三次元生物であるヒトをそれより上の次元に
飛躍させることを意味する。密教の変身技術はそれなのである。その生物の次元を変えてしまう
のだ。
しかも、それは、今までいわれてきたように、ただ神秘的、神がかり的なアイマイな方法でな
く、適確な生化学の技術をもっておこなうのだ。そうしてそれは密教の持ついくつかの技術のな
かのひとつに過ぎない。
いったい、どんな智恵がそれをなしとげていたというのであろうか? 密教の技術を神秘とい
うのなら、その点をこそ神秘というべきだろう。しかし、それは、それこそまさに数千年生え出
現した超・ヒトが、孤独にたえつつ、その持つ人類最高の智恵「照明智」を駆使してつくり上げ
た未来人のためのカリキュラムにほかならぬのだというよりはかないであろう。
さて、それでは、密教の技術に関係のある市川理論「等価変換展開理論」とはどんな理論か?
それがどのように密教の技術と関連があるのか?
それを説くまえに、もう少し知っておいていただかねばならぬことがある。
ここで、私は、密教とヨーガという二つのことばについて述べておかねばならぬと思うのだ。
拙著「変身の原理」で、私は、密教についてっぎのように述べた。少し長いが引用してみる。
『真言宗という宗派仏教と、密教すなわち秘密仏教とは、ふかいつながりかおる。だが、それは
どこまでもふかいつながりという関係であって、普通考えられているように、密教即真言宗、真
言宗即密教というものではないのである。
真言宗とは、インドにおいて発生し、大成した密教を、ああいう独白の形に体系化し、組織化
したものであって、密教そのものではないのである。密教のひとつの体系ではあるけれども、密
教そのものではない。
それは、それまでにほぼ完成していたけれども、分派し、多様化していたインド密教を日本密
教の開祖空海が、独自の見識と叡智によって、ひとつの体系につくりあげたということである。
おなじように、天台宗においても、天台密教というひとつの密教体系を組織完成しており、こ
れもまた、密教のひとつの流れということである。
そういうわけで、密教というものを正しく理解するためには、どうしても、]度、密教の原点
に立ちもどって考えてみなければならないのである。
密教は、最初、ひとつの手法(技術)であった。
けっして、最初から密教というひとつの宗教があったわけではない。
ゴータマーブッダがあらわれて、仏教というあたらしい教えを説きはじめるはるか以前、バラ
モンの時代から、インドには、入に超能力をあたえるひとつの手法があった。そういう手法が完
成されて、一部の人たちの間につたえられていた。それは、精神と肉体のきびしい錬磨から得ら
れる神秘的な力で、彼らは、それを、ひとつの技術にまでっくりあげていた。
われわれは、その流れのひとつを、現在、ヨーガのなかに見ることができる。(ただしそれは、
いまの日本で行なわれているアクロバティックな体操のヨーガではない。ヒマラヤの奥地の聖者
たちの間に伝承されている正統ヨーガである)
ヨーガは、その手法のひとつの流れである。この超能力を開発する技術は、仏教があらわれる
以前においてはバラモンにとり入れられ、仏教があらわれると、仏教もまたこれをとり入れた。
ゴータマーブッダは、かれ自身、この手法をまなんで、これにより超能力を持ったが、弟子た
ちにはこれを学ぶことを禁じた。なぜかというと、この技法によって多少の力がつくと、かれら
はすぐにそれがブッダのいう「ホトケ」という境地に達したものと考えてしまい、修行のさまた
げになるからであった。
ただし一部の、素質のきわめてすぐれた弟子たちには、ひそかにこれを許した。
ゴータマーブッダは、普通、神秘的な力を信じたり、修行者がそういう力を持つことを願った
りするのを全く禁じたというように、仏教学者や仏教者は信じているようであるが、それは間違
いで、ブッダ自身、神足({乱石の教理、すなわち、仏道を完全に成就するためには超自然的な
力が必要であるとし、超人間的な能力開発の訓練法を説いているのである。これは、パーリ文献
によって容易に証明することができるのである。(略)
それによると、それは、″四神足“または、″四如意足″ともいわれる超能力開発法である。
ブッダは、菩提を成就するためには、単に、知性や理性をみがくだけでは不十分であると考
え、知性や理性の限界をうち破る力が必要であると考えた。
そのために、彼は、そういう力を開発するための行法をつくりあげた。それは、彼が学んだ超
能力開発法を加えて編成したものと見てよいであろう。
それは、三十七種の技法から成り立つもので、四神足というのは、その中心になる技術であ
る。神通、如意を得るための定を、四種類の手法に分けて説明している。
欲神足(願望、理想、創造のためのアプローチ)
勤神足(体と心のトレーニング法)
心神足(潜在意識のトレーニング法)
観神足(深層意識のトレーニング法)
きづまりを打破するために、大乗仏教のなかにとり入れられて体系化され、密教と呼ばれになったのである。いうわけで、密教は二つの面を持っている。
一つは、超能力の開発技術
一つは、大乗仏教の教義
この二つである。
この二つのものがむすばれることにより、大乗仏教よりさらに高度の教義が完成されて、「金
剛大乗」と呼ばれる新しい仏教が誕生した。これが密教である』
-との引用の文章でわかるように、「変身の原理Lにおいて語られている「密教」というコ
トバは、「秘密仏教」という意味での「密教」である。仏教のなかにとり入れられた、いわゆる
真言密教、あるいは真言宗密教の密教である。
しかし、本書において私がいう「密教」は、それらの密教、「変身の原理」のなかで使われて
いる密教とは全くちがうものであることを、読者はご承知ありたいのである。
本書における「密教」とは、真言密教以前、いうならば仏教にとり入れられる以前の、いや、
バラモンにさえもとり入れられる以前の、引用文でいえば4 R教は最初、ひとつの手法(技術)であった。ゴータマーブッダがあらわれて、仏教というあたらしい教えを説きはじめるはる
か以前、バラモン時代から、インドには、入に超能力をあたえるひとつの手法があった。そういう手法が完成されて、一部の人たちの間につたえられていた。それは、精神と肉体のきびしい錬磨から得られる神秘的な力で、彼らは、それを、ひとつの技術にまでっくりあげていた。と
あるその「技術」、つまり、いうならば、″古代マーガ″と″真言密教″と、この二つを結合したものであると承知していただきたいのである。即ち本書でいう密教とは、ヨーガと真言密教と、
この二つをむすびつけて生まれた新しい技術であるということである。
なぜ、そういうことをしなければならなかったのか、というその理由を語ることはそのまま、密教の法を解説することにもなるので、読者はここのところをよく知っておいていただきたいのである。
引用文のなかにしるされているごとく、行きづまった大乗仏教は、ヨーガの技術にその打開の道を求めた。さきの頃で述べたごとく、精神の高度の飛躍は、その前提に、感覚器官の高度の増幅がなければならぬ。しかし、大乗仏教には教えだけあって、なんの技術もない。大乗仏教という教えであり、教えをあきらかにするだけのもので、技術というべきものはなんにもない。つい
に行きづまることは当然であり、やがてヨーガの技術に救いをもとめるのはさらに当然というべ
きことであった。
かくして、金剛大乗、真言密教が生まれた。ヨーガには、さきにあげた通り、ジョルジューオリヴィエ教授の表現を借りていえば、五つの能力開発技術がある。それは、①第四次元の理解、合複雑な全体をとっさに把握する能力、③第六感の獲得、④無限に発展した道徳意識、⑤とくに
われわれの悟性には不可解な精神的特質、というものであるが、これらの能力開発の技術は、それがそのまま大乗仏教にとり入れられたわけではない。おのずから、ひとつの偏向傾斜があった。
それは当然のことで、大乗仏教の指導者たちは、この技術を彼らの信奉する仏教教義とその目的に沿って取り入れた。一般的でないと思われる技術は捨てられ、あるいはごく一部の指導者にだけつたえられ、あるいは変形された。こうして秘密仏教というあたらしい教義と体系が完成した。しかし、多くのすぐれた開発技術は、この仏教教義を完成させるための補助的技術に変容さ
せられてしまった。あるいは形骸だけがとどめられた。これが、秘密仏教の「行法」であった。
これを究極的に完成したのは、日本密教、すなわち真言宗の開祖空海であった。秘密仏教がインドから中国につたえられ、そのころ中国にわたった空海がそれに接した時点において、秘密仏教はまだ完全にはできあかっていなかった。その混沌たる素材を取捨選択して、これをいま見る
真言宗というかたちにまとめ上げ、整然たる宗教にしたのは空海であった。それはまさに大天才のみがなしとげることのできる偉業であったが、同時に、秘密仏教はあまりにも整然と様式化された日本的なものになってしまった。それまでかなり残っていた密教的な部分はほとんどかげにかくれ、一-法」は、様式化された宗教儀式になってしまった。
しかし、それは、当時の目本の国情や、文化水準を背景にしたとき、やむを得ないことであったのである。というよりもむしろ当然であったというべきだろう。そうしなければ宗教として存
立することができなかったのである。
だが、そのために、いまいった通り「法」はその力を失った。宗教的に様式化され、儀式化されてしまった「法」では、真の能力開発は困難である。というよりもそれは絶望に近い しかし、それはそれでいいのだ。真言密教というものが、宗教であって能力関発の技術ではな
く、仏教という信仰のワクのなかで教えを説き礼拝をつづけているだけでよいなら、それはそれでいいだろう。それに、ほとんど儀式化された「法」であっても、天分のある才能が懸命の努力を集中するなら、「法」の成就も不可能ではない。やってやれないことはないのである。けれども、それは何世紀にひとりというような稀有の才能を必要とするのではないのか。そういうすぐれた頭脳によれば、様式化された法のあとをたどって、ついにその源泉に到達し、そのなかに秘められた法の技術を発見し、体得することもできよう。あるいはまた、頭脳ではなく、熱烈な信仰が、そこへ導いていってくれることもあるかも知れぬ。だが、それは、万人に期待できることではない。
要するに、真言密教成立の当時と全く時代が変ってしまった現在、真言密教が、他の宗教と根本的にちがうその本来の任務をほんとうに果たそうと思うならば、真言密教は大吝く変わらねばならぬ。真言密教はナみやかにその原点に立ちもどり、「法」を技術としてシステム化しなければならぬ。そうして、だれでもが平易にまなべる体系を編成ナることである。
それは決して「法」を解体し、「法」を壊滅してしまうことではない。むしろ、そうすることによって法が生きるのである。また、それは決して宗教の解体ではない。
法によって高い知的能力を得たならば、人はおのずから高い道徳意識、倫理観を持つものである。
人が宗教的教えを必要とナるのは、知的能力が低いからである。要するに、愚かだからである。人の道徳意識が低いのは、知能、精神能力が低いからだ。ほんとうに知能が高くなれば、人は、いま人類の持っている程度の宗教意識などけるかに超えたもっと高い倫理観を持つ。オリヴイエ教授のいう「無限に発展した道徳意識の保有」である。
教え(宗教)による人類の道徳意識の開発は、すでに限界に達してしまっている。
見よ。
地上にあまねくくりひろげられている人類のこの大愚行を。殺し合い、奪い合い、罵り合い。
どこに「知恵あるヒト」のおもかげがあるか? 「大愚人類」そのものではないか?
要するに、バカにいくら結構な教えを説いてもだめなのだということだ。
もっと忌憚なくいわしてもらうならば、(これは私がいうのではない。みんな密教の神サマが
おっしやるのであります)ちっとましなバカが、しょうのないバカに一心に教えを説いているというのが、いまの宗教のすがたというものではないのか?
宗教だけではない。科学と技術だってそうではないか。見さかいなくいい気になっていろんなものをつくり出し、あとで公害だ有害物質だと困っている。こういうおろかなことは、もう少し人類の知能が高くなったら、そんなバカなことはたのまれなくともしなくなる。要するに知能が低いからだ。
政治も、経済、思想も、みんなそうだと、あなたは真実思わないか?
要するに、すべて、″ヒトの知能が低い″ことに原因があるのである。
この世界を住みよく、たのしいものにするのには、革命ごっこよりもなによりもまず、ヒトの知能を高めることだ。そう、あなたは思わないか?
さて、話をもとにもどそう。
教えの限界とはヒトの知能の限界だ。
密教はその限界をうち破るのである。
技術によって超能力をあたえ、いっきょにヒトを改造して、宗教などという低い次元をいっぺんに飛び越し、想像を絶する叡智を持った、高い倫理的生物をつくり出そうというのだ。
それが、密教だ。
求闘持法《明星》の秘密
私はこのことを念力の護摩の修得に際してさとった。
先年、私は、念力の護摩法の伝授を受け、悉地成就の修行に入った。けれども、その行法の次
第を、何十ぺん何百。へんくり返しても、念力の火は出なかった。煙さえたちのぼる気配はなかっ
た。私かそのままその法の次第を忠実にくりかえしていたら、永久に念力の火は出なかったであ
ろう。出るはずがないのである。念力の護摩法の次第を、いくらくりかえしたって火は出ない。
そんなことで出るのだったら、今日までに、何百人、何千人の阿闇梨が念力の護摩を焚いていた
だろう。真言密教の念力の護摩法だけでは、ぜったいに火は出ない、それは、密教の技術によっ
て、サマーナ気を克服したとき(274頁参照)、はじめて肉体から火焔を発することができ、念力の
護摩は完成するのである。絶望した私は真言密教をはなれ、身を転じて古代インドの秘密経典に
むかった。
私はそこでインドの聖典、バガヴァットーギータを続み、そこに念力の護摩の秘法がかたられ
ていることを知った(口絵写真参照)。そこから、ギータと不二の関係にあるヨーガに入った。ヨ
ーガに本当の念力の護摩があることを知った。ヨーガにおける私のいのちがけの修行がはじまっ
た。ヨーガの技術でなければ念力の火は出ないことがわかったからである。真言密教の念力の護摩法次第は、ほんの心おぼえ程度のものに過ぎず、これでは、だれがどうしたって火の出るはずがなかった。いや、この肉体が火となるための「法」としては心おぼえ程度のものですらなく、むしろ、バガヴァツトーギータの聖句のほうが、はるかに示唆に富んでいるといえた。ヨーガの念力の護摩は、ただ単なる観想の羅列ではなく、どの生理器官をどのように統御しどのように動かすという現実的具体的な「技術」があった。この技術によってトレーニングすれば、多少なりと素質のある者だったら、必死の修行によって念力の火を出すことは不可能ではない。真言密教の念力護摩法次第だけでは、大天才といえども不可能にちかい難事である。この秘密を知らずして、古来、いく人の密教修行者が、念力の護摩の次第と秘伝を前に、血と汗の絶望をくりかえしたことであったろう。思えばツミな″次第″である。
これと全くおなじことが、真言密教につたえる「求聞持聡明法」についてもいうことができる。求闘持とは、古書に、『見聞覚知のことを憶持して長く忘れず、師なくして天地の感応を待つ、これを″求″といい、教なくして真如妙理を覚る。これを″聞″といい、一度覚るとながく忘れない、
これを″持″という』とあるように、求闘持法とは、ヒトの大脳を強化して、博覧強
卸、比類なき記憶力と聡明さをあたえる秘法であるが、これをなん十。へんなん百ぺん行法の次第通りに修行したところで、その結果は、おそらく念力の護摩とたいしてかわらない結果におわるであろう。生命を賭して修法すれば、多少の効果はあろうが、宗祖が体験を以て示したような霊験を得ることはまず難い。なぜならば、真言密教の「虚空蔵菩薩求聞持法」には印信観想による
精神集中の「法」はあるけれども、現実に生理器官である大脳皮質そのものを動かす「技術」を持っていないのである。ヨーガの「聡明法」は、どの器官をどう使ってどのように大脳皮質を動かすかという「技術」がある。また、それだけではない。根本的にちがうものがあるのである。
’それは、まったく根本的にちがう。
拙著「変身の原理」で求闘持聡明法についてかたって以来、私は、十指を越える真言僧侶、阿閉梨がたから、手紙あるいは直接、この法の修行について相談をうけた。そのほとんどは、自分も一度ないし数度にわたって求聞持法を修したが、いっさい効験がみられなかった。修法の行じかた、あるいは心構えに越法のところがあったのであろうかというのであった。また、何度か修してみて、あの行法にそんな神秘的な力がひそんでいようとは思われぬというものがあった。なかにはお気の毒にも健康を害してしまって、再起不能になったと訴えてきた阿閉梨もおられた。
お気の毒であるが、当然なのである。
真言密教の阿開梨がたが、いくら求闘持法をくりかえしても、成就できないのは当然なのである。もちろん、絶対に、とはいわない。万人に秀いでる天才、英才であったら、その極に達することができるかも知れぬ。しかしまず、不可能にちかいというべきだろう。
私か発見した密教の「求闘持法」でなければ、まず不可能にちかいといってよいであろう。こ
の法については章をあらためてくわしく書くが、ここで、求聞持法の秘密の一端を明かそう。まず、最初、真言密教の求聞持法を述べてみる。
『比の法を修するには、東南西三方の晴れたるところを最上とする。東方のみでも悪くはない。
道場の東壁に小窓をつくる。これは虚空蔵の似沢である明星の光を道場にさし入れるためである。また、朝日夕月の光を本尊にあてる意もあり、あるいは小窓に絹を張り、黄色の種字の字を書いて、そこから、明星の光をとおして本尊にあてるためでもある』
とまず場所を制定し、つぎに、さだめられた本尊の印明を百万べん、五十目あるいは百日に読誦するのであるが、日蝕または月蝕の時に結願するよう開白(はじめること)しなければならぬとある。
けれども、密教の求聞持法では、べつに場所はえらばぬのである。静かな場所でありさえすればよい。また、いつはじめてもよいのである。明星を拝するのも、行のはじめに際して、あるひととき、星と月に対すればよいのである。
また、これこそが密教のもっとも奥義とするところなのだが、弘法大師空海は、求聞持法の成就の体験を、
『―阿国大滝の岳にのぼりよじ、土州室戸の崎に勤念ナ。谷響を惜しまず、明星来影す。
言々』
と語っている。すなわち、阿波の大滝にのぼり、土佐の室戸岬でこの法の修行にはげんだところ、谷はこだまし、明星があらわれるなど、法にいわれている通り現証があり、法が成就した、
というのであるが、これは、空海のひとつの表現であって、これをそのまま鵜呑みにしてしまうからいけないのである。これはどこまでもひとつの表現なのだ。
伝にいわく、
『明星来影す、とは、結願のときに、香に火を置き、明星を拝するに、四方が暗く明星が見えねば悉地就成ではない。暗くても星が現ずれば下品の成就であり、四方が少々晴れて星が現ずれば中品、天に暗なく、ことごとく晴れて星現ずれば成就、四方が晴れても星現ぜざれば悉地成せざるなり』
とあるが、これがちがうのである。まるっきりちがう。
こういう口伝や奥伝をたよりにいくら修行しても、気の毒だが、求聞持法は成就しない。
明星とは現実の明星ではないのである。
大脳のある部分をある方法で刺激すると、目の前に光が見えるのである。
その光は、かたちも色も大きさも、いろいろに見えるが、意識を記憶の座に向けて沈静させる
と、つめたい、やや黄色みを帯びた白銀色になって、しずかに目のなかでまたたく。それはちょうど明星そっくりに見えるのである。
これが明星なのだ!
268頁をもう一度、読みかえしていただこう。
″頭のかかの光明に日を向けるならば″
とある。これがそれなのである。
ある特殊なトレーニングにより、この部位(大脳の視床下部のあたり)の刺激が、目のなかに光を浮かばせるのである。目をある角度に向けると、目を開けていても閉じていても、ポッカリと光が浮かんで見える。
この光が見えるようになると、記憶の座が自由にあやっれるようになるばかりでなく、さまざまな、奇蹟としか思えぬような力がついてくる。
これが、「求聞持法」の明星の秘密である。大空を百年ながめて空中の明星を見つめていても、ムダだ。明星はわが大脳のなかにあるのだからI。
このことは、密教五〇〇〇年の歴史に、私がはじめてっかんだ秘密である。私以外にこれを知る者はついになかった。求闘持法の秘密を私はついにつかんだ。私はそれを誇りに思う。
これをもとにして、私は、私の「求闘持聡明法」を編成した。これは、今までの「法」などというアイマイなものではない。生化学と生理学をもとにした「技術」である。正しい指導のもとに訓練を積めば、必ず、だれでもできるようになる技術である。
本来ならば、こういうことは私の、「太極秘伝」として、ごくかぎられた者だけにひそかにつたえてゆくべきものなのだろう。だが、私はこれをひろく公開する。なぜならば、私は、世界中の人びとがこの法によって知能を高め、いっさいの愚行-殺し合い、奪い合い、罵り合い、にくみ合いから遠ざかってほしいのである。
求聞持聡明法は、人の知能を三倍にナる。
しかし、その半分でもよい。人類の知能が今の水準より平均一・五倍飛躍したら、この世
から、犯罪も戦争もいっさいなくなる。そういうものがあるのは、人間が愚かだからだ。求闘持法によって知能指数が倍加したら、そういうものがいかに愚かで馬鹿々々しいことか、大人が子
供のヶンカが馬鹿々々しくて見ていられないように、いっさい、しなくなる。
私や、私の周囲のごく一部の者が、この法によっていくら賢くなろうとも、それがなにになろう。世界の大勢にどれはどの影響があろう。よしんば、私か、この法によって、古今無比の大聖者と仰がれるほどの力を持とうとも、世界のどこかで、権力を握っている馬鹿が、核バクダンのボタンをひとつ押したら、それっきりなのである。世界中はふっ飛んでしまう、古今無比の大聖
者もいっしよに!
まあ、古今無比の大聖者ともなれば、事前にそれくらい察知して、安全な所に待避してしまうであろうが、世界中が壊滅して、助かった者も核の灰に汚染されて半死半生ばかりという世のなかに、自分とごく少数の一族だけが生き残ってなにになろう。ノアの方舟の時とは状況が全くちがうのである。
このままでゆけば、核戦争がはじまるのはぜったい確実である。私にははっきりそれがわかる。この大愚行だけはやめさせなければならぬ。
革命よりも、階級闘争よりも、人種闘争よりも、なによりも、いま、人類に必要なのはこれだ。これが根本的に人類を救う道だ、とそう私は思う。ヒトの知能が二倍になったら、いま、人類がかかえているあらゆる問題はすべて解決してしまう。そう、あなたも思わないか?
私か、この求聞持法を惜しげもなく公開し、ひとりでも多く、一目でも早く、修得してほしいとねがうのは、そのためなのだ。
さて、はなしが少々よこにそれたが、この大脳の部位のことは、インドのヨーガの指導者も知っており、ヨーガのほうでは、この部位のことを、
「頭のなかの光座の座」
とか、
「梵の座、梵の裂け目」(brahma randhro
とか、
「サハスララーチャクラ」
と名づけ、頭の中の光明がかがやいている部分であると考えている。しかし、これも解釈がちがっている。
頭のなかに光明がかがやいているのではない。私の発見した求闘持法とおなじ原理である。大脳のある部位を、あるエネルギーで刺激すると、あるひとつの物質が分泌され、それが脳の神経組織を刺激して、目に光を感じさせる。 『- それが、頭と目の微妙な角度のちがい、刺激の相違で、目のなか、目の前、および、頭のなか、というように、光の浮かぶ場所がちがうのである。
求聞特法の湯合は、目の前の、やや上方、ニメートルから三メートルくらいのところに浮かんでみえる。目の角度と、瞳孔の絞りかたによっては、はるか遠くの空に小さくかがやくように
(ちょうど明星のように)見えないこともない。もし、人里はなれた山のなかであったら、明けの明星のように見えることもできるだろう。私の経験では、目のななめ上方一メートル内外のところに見えるようにするのが、一番、″上品″のようである。
目を閉じて、目の奥の上方、つまり、ヨーガでいう”梵の座”のあたりに、光明を感じさせる
技術は、頭の角度と、脳の刺激する揚所が、求聞特法と少しちがう。したがって、これは、求聞持法ではなく、ちがう力を発現する。また別な法である。この法については、またあとで別に章をもうけて説明しよう。
(サマーナ気統御の技術》と《護摩法》の合体
おなじような例がいくっもある。
たとえば″五相成身観”である。
これは、真言宗徒がかならずおさめねばならぬ金剛界法という法のなかにあり、密教門でもと
くに重要な観法とされる行法である。
凡夫がホトヶという超能力者になるまでの過程を五つに分け、修行者は、ひとつひとつその境界を体験してゆくのであるが、これが、いずれも密教の重要な修行課目になっており、あきらか
に密教から出たものであることがわかる。
しかも、真言密教では、印と観想の二つからなる”観法″であるが、密教においては、観法だ
けではなく、特殊な技術による鍛 練によって生理的器官を動かし、実際に五つの境界に対応す
る力をつける訓練となっている。
また、真言密教においてもっとも重要とされる金剛界九会マンダラもそうである。金剛界九会
マンダラは、凡夫がホトケになる九つの段階と、ホトケというものの力、ホトケのはたらきを図
像にえがきあらわしたものであるが、要するに、ホトケの説明である。
もっとも、真言密教は、このマンダラにもとづいて、前記した金剛界法という行法を編成し、
。観法″によってこれを修行者に体得させようとする。これは、一般仏教、顕教が、その修行方
法として、ただ、経典の読誦と、念仏、唱名題目しか持だないのに対し、一段と進歩したすぐれ
た修行方法であるというべきだが、しかし、これも、真言密教が″観法”だけであるのに対し、
密教は、九会マンダラにあらわされた九つの力を実際に体得させる訓練技術を持っている。
例をあげれば、微細会マンダラがそうである。これは九会マンダラのなかの東南方に位するマ
ンダラで、ホトケの微妙幽玄にして不可思議なる智恵の力とはたらきをあらわすものである。
密教には、実際にこの力を生ぜしめる訓練がある。
真言密教では、ただ、。観想″による″観法″しかない。現実にそういう″力″を持たせると
ころの″技術″がない。
276頁を見ていただこう。
。あきらかに、微細会マンダラは、ヨーガのこの訓練から出ている。ナくなくとも、この訓練に
よって得られる力を背景にしたものであることは間違いない。
これは、密教の技術で、胸の部分の或る部位に力を集中することによって得られる力である。
-こうしてみてくると、真言密教がとるべき道は、おのずから明らかであるといわねばなるまい。真言密教の行法は、密教の技法をとり入れることにより、本当の力が生ずるのではないのか?
そういうと、密教がそんなにすぐれたものであるというなら、密教は真言密教をはなれて、密教独自の道を歩んだらよいではないかという意見が出るかも知れない。その通りである。それでもよいのだ。そういう道もあると私も思う。
しかし、それにもかかわらず、私か真言密教にある価値を見出すのは、その表現様式である。おもしろいことだと思う。
様式だけになってしまっている(と私が思う)真言密教の、その様式が、なかなか貴重なのだ。
私が体得した密教の秘奥の技術を、さて、どのように表現しようかと、その様式を考えてゆくと、結局、真言密教の様式がいちばん便利なのである。たとえば、私の体得創案した「求聞持法」は、ヨーガの技術から発見したもので、真言密教の「求聞持法」とは全然ちがう。そのことは、前の項でおわかりになったことと思う。
お盆のいわれ
お釈迦さまの弟子である目蓮さんは、神通力、つまり不思議な力を持っていた。その目蓮さんがある時、亡くなった母親を思い出し、どうしているか気になって神通力で探したところ、餓鬼道(地獄のようなところ)に落ちて飢えに苦しんでいる母親を見つけた。目蓮さんは何とか母親を助けたいと思い、神通力で食べ物を送るが、母親が食べようとするとその食べ物がすぐに燃えてしまい、いつまでたっても食べることができなかった。 目蓮さんは途方に暮れて、お釈迦さまに相談する。するとお釈迦さまは、修行をしている僧侶らにお供えをすれば、その功徳によって母親を救うことができると説く。目蓮さんはお釈迦さまの言葉にしたがい僧侶らに供物を献じたところ、その功徳によって母親が無事食べ物を食べることができ、飢えから救われたのである。
密教 法 密教法具 Esoteric Buddhism Esoteric Buddhism Tools
密教法具の種類
「密教法具」は密教の儀式で使われる仏具の総称で、「金剛杵」(こんごうしょ)「金剛鈴」(こんごうれい)などがあります。
【金剛杵】(こんごうしょ)とは
サンスクリット語で「ヴァジュラ(ヴァジラ とも)」といい、もともとは古代インドの神々が持つ武器でした。
この武器を「煩悩を打ち払う菩提心(ぼだいしん)」のシンボルとして、密教法具に取り入れました。
中央に柄があり、尖った部分は槍の刃で、刃の数により名称が違います。
刃が1本のもの 独鈷杵(どっこしょ)
刃が3本のもの 三鈷杵(さんこしょ)
刃が5本のもの 五鈷杵(ごこしょ)
【金剛鈴】(こんごうれい)とは
金剛杵の片側が鈴の形になったものを、金剛鈴といいます。
金剛鈴も、金剛杵と同様に「独鈷鈴(とっこれい)」「三鈷鈴(さんこれい)」「五鈷鈴(ごこれい)」といった種類があります。
仏教美術と密教法具

空海と金剛杵
一番有名な空海の肖像画をご存知ですか?
あの絵には、左手にお数珠、右手に何かを持った空海の姿が描かれていますね。
空海が右手に持っているものが、金剛杵なのです。
金剛力士像
お寺の入り口で見かける「金剛力士像」も、金剛杵と深い関わりがあります。
金剛力士はサンスクリット語で「ヴァジュラダラ」。
ヴァジュラ(=金剛杵)+ダラで「金剛杵を持つもの」という意味なのです。
お寺の入り口で見かけたときには、ぜひ手に持っている金剛杵を確認してみましょう。
ブータン王国の国章
チベット仏教を国教とする唯一の国家 ブータン王国の国章には、1対の雷龍、蓮の花、そして中央に十字に組み合わされた金剛杵が描かれています。
密教法具の使い方
密教法具(金剛杵・金剛鈴など)の使い方については真言密教の秘儀とされています。仏門にはいり、阿闍利(あじゃり)から伝授されるものです。
でも、「煩悩を打ち払う菩提心(ぼだいしん)」のシンボルという意味合いから、金剛杵を仏具・密教儀式の道具ではなく、お守り・厄除けとして身に付けたり、自宅に飾る人もみられます。
密教法具 紹介
念力をつよくして 一バランスをたもつ Strengthen your psychokinesis and keep a balance
念力をつよくして 一バランスをたもつ
これはどういう修行法かと申しますと、仏教辞典などを見ますと、「おもいを平らかにする」 うように説明しております。念覚支とは「おもい」つまり念を平安にすることである、とこ ’うように説明しておりますけれども、わたくしは、それだけでは念覚支の修行の説明になっ ないと思います。
わたくし自身の修行体験によりますと、そんな簡単なものではなくて、こころを平安にする、 いは確かにそうでありますけれども、それは結果から出てくるものであって、修行そのもので らいわけです。おもいを平安にするというのは、念覚支を修行した結果、つねにおもいが平安 なる、おもいが平らかになる、ということであって、それ自体が修行ではない。
わたくしは、この修行を二つに分けることができると思うんです。まず 、念の力を強化する。
活力といってしまうと、なにか安っぽくなってしまいますね。自分で『念力』という本を書い おきながら、そういうことをいうのはおかしいけれども、念力、と言でいってしまうと、ち っと安っぼくなってしまう。念の力を強化する、要するに、精神力というものを非常に強化す ということですね。
それをただたんに精神力というと、漠然としますけれども、要するに、意志の力、知能の力。 ういったものを非常に強化する訓練である。
もっというならば、人間の精神作用というものは、知・情・意、この三つから成り立っていま
知性の力、知能の力、そして情緒的なはたらき、それから意志の力です。
要するに念の力を強化するというのは、この三つの部門(知・情・意)のはたらきを強化し、し かも、そのいずれにもかたよらないようにする、ということです。それが、結局、結果的におも いが平安になるということじゃないですか。
人間の精神力というものは、この知・情・意のはたらきから成り立っています。ところが、こ いがかたよりやすいわけです。
夏目漱石の『草枕』の書き出しに、
-知にはたらけば角が立つ。情に棹させば流される。とかくこの世は住みにくい」とあるでしょう。
だから知というものにかたよると、とかく理くつっぽくなって角が立ちやすい。頭が非常 よいと、知能のはたらきがつよいですから、すぐ理くつでものをわりきろうとします。
情に棹させば流される それはそうでしょう、人情的になりすぎれば流されてしまいます。
意志がつよかったらどうかというと、これは強情で、どうにもしようがないということにな りますね。
ですから、知・情・意、それぞれのはたらきを強化し、たかめる、そういう修行です。しか
そのいずれにもかたよらないように平均化する、これがいちばん大切なことじゃないです 知的にも非常に高度で、情緒面においても、いわゆる情操がゆたかであるというように、芸術 面などでもよく理解することができる。情操的な情のないひとというのは、無昧乾燥にな力やす いわけです。芸術的なことは、なにもわからない、はなしをしてもちっともおもしろくない、シャレ をいったって、ニコリともしない。今日きいたシレを、三日ぐらいたっ七急に笑,い出じ て、「ああ、そうだ,ったのか」なんて(笑)、それじやあおはなしにならんでしょう。
意志がつよいのはけっこうだけれども、それが頑固になってしまうのではいけない。
だから、知・情・意の精神作用を、非常に強化し、たかめるという訓練をする。そしてそのい ずれにもかたよらないということ。これがまず第一です。
しかし、それだけじやない。
念そのものの力を、神秘的にまで強化する。一点に集中したとき、火を発するほどの力を出 す。ですから、この念覚支の修行には、クンダリ’’ー ヨーガの修行が入るわけです。
つぎに「空観」を体得する。ですから、この七覚支には、「四念処法」の修行が入っている。
この空の体得により、諸法の実相がわかるようになります。つまり、「縁起の法」を如実 にさ とることになるわけです。
この念覚支が、七覚支法の中の、目玉といつてよいでしよう。いや、三十七道晶の中でも
これは、宗教、信仰、哲学というたくさんの教法、。思想のなかから真実なるものをえらびだす
ということです。
択というのは、「選択」のタクでず。 略ど ない本漢字は「選揮」と書いて、選 えらぶ、「揮」。もえらぶ、という字です。
つまり、ほんとうに真実なる教法をえらびとる、ということですね。この世の中には、さまざ まな宗教、信仰、思想があびます。そのなかから真実なるものをえらびとる。そうして、まちが ったものや、いつわりのものを捨て石、取捨選択するということです。
正しい信仰をえらびとって、正しくないものを捨てさるということが修行というのは、どうい うことなんだろう? そう思ったことかありますけれども、考えているうち、やはりそれは修行 なんだなと思うようになった。というのは、それが修行であるというのは、自分自身の勉強、知 能によってそれをなすというところにあるわけです。 、
たとえば、つぎのようなことです。
お釈迦さまが出家されて、自分がさとりをひらくに到るまでには、当時のさまざまな信仰や宗 教、いろいろなことを教える思想家、そういったかたがたに、肘あたりしてぶつかっていってい るわけです。いろいろな仙人にもあって、はなしを聞く、それだけではなくて、それが正しい か、正しくないか、ということをご自分でI生けんめい考えられたということです。
そうして結局、当時のインドにあったところのあらゆる教え、宗教というものは、みな正しく ないという結論に達したわけです。それには、釈迦ご自身のふかい修行と勉強によってそこに到 達したわけです。
ですから、わたくしたちも、この択法覚文が修行であるというのは、自分自身の勉強と修行に よって、ほんとうに真実なるものをえらびとり、正しくないものは捨てさる、ということをしな ければいけないんです。
瞑想ひつとっても、日本に、瞑想を教える学校みたいなところや、瞑想 の先生、そういったものがたくさんあるでしょう。そのたくさんの瞑想のなかから、どれが正し い瞑想法なのか? どの先生が、正しい瞑想法を教えているのか? ということを自分自身がは っきりと取捨選択しなければいけないということです。
たいていの場合は、自分自身の研究や勉強、あるいは修行によって取捨選択するというひとは すくない、たいてい評判を聞くだけです。
「あのニホンーメディテーションセンターというのはどうなの?」
「あれは、桐山さんというひとがやっていて、いいよ」
といったり、
「あれはダメだ、インチキだよ」
なんていう。そうかなあ、どうなんだろうか。T・M(、rranscendental Meditationo超越瞑 想の略語)というのがいいというひともいれば、T・Mというのはダメだというひともいる。そ の評判だけできめてしまう人が多い。
それをお釈迦さまは、ありとあらゆるいろいろな教法をご自分でぶつかって調べてみる。瞑想 についても、すぐそれがいいとかわるいとか、ひとの評判とか、そういったものにはまどわされ ない。ご自分がその瞑想をやってみて、、これはいかん、これはいい、というように選択される。
そういう意味で、択法覚支というのが修行になるわけです。
Psychokinesis and balance
As for what kind of training this is, when you look at Buddhist dictionaries, it explains that it “flattens your mind.” I explain that the Seven Factors of Awakening is “the feeling”, that is, the peace of mind, but I don’t think that alone is an explanation of the practice of the Seven Factors of Awakening.
According to my own training experience, it is not such an easy thing, and it makes my heart peaceful, or it is certainly true, but it comes from the result, and it is not the training itself. Making the weight peaceful means that as a result of practicing the Seven Factors of Awakening, the weight is always peaceful and the weight is flattened, and it is not a practice in itself.
I think this training can be divided into two. First, strengthen the power of mind.
When it comes to vitality, it’s kind of cheap. He wrote a book called “Psychokinesis” by himself, and it is strange to say such a thing, but when he says “Psychokinesis”, he feels a little cheap. It means strengthening the power of mind, in short, strengthening the mental power very much.
It is vague to say that it is just mental power, but in short, it is the power of will and the power of intelligence. It is a training that greatly strengthens such things.
In other words, human mental action consists of knowledge, affection, and will.
The power of intelligence, the power of intelligence, the emotional work, and the power of will.
In short, strengthening the power of mind means strengthening the functions of these three divisions (knowledge, affection, and will) so that he does not depend on any of them. Doesn’t that mean that in the end, it will be peaceful?
Human mental power is made up of the functions of this knowledge, affection, and will. However, he is easier than he is.
For writing out Natsume Soseki’s “Kusamakura”,
-If you work with knowledge, you will get a horn. If you let the emotions flow, you will be swept away. Anyway, this world is hard to live in. ”
Therefore, depending on what you know, it’s easy to get horny and horny. If you are very smart, your intelligence will work well, so you will immediately try to make sense.
He will be swept away if he is sentimental, and he will be swept away if he becomes too humane.
If you have a strong will, this is stubborn and you can’t help it.
Therefore, it is such a practice to strengthen and strengthen each function of knowledge, affection, and will. Deer
It’s not the most important thing to average so that it doesn’t depend on any of them. It’s intellectually very advanced, and it’s well understood in terms of art as well as emotional and so-called emotional. can do. The person who has no emotional feelings is the one who is easy to be dry and dry. I don’t understand anything about art, it’s not interesting to talk about it, and it doesn’t make me smile. I laughed at the sire I heard today in a hurry for about three days, and said, “Oh, that’s right, was it?” (Laughs).
It’s fine to have a strong will, but it shouldn’t be stubborn.
Therefore, we will train to strengthen and strengthen the mental effects of knowledge, affection, and will. And that he doesn’t depend on the gap. This is first and foremost.
However, that is not the case.
Strengthen the power of the mind itself to mystery. When you concentrate on one point, it exerts enough power to make a fire. Therefore, this training of the Awakening includes the training of Kundalini “-Yoga.
Next, learn the “view of the sky”. Therefore, this Seven Factors of Awakening contains the practice of “Satipatthana”.
By learning this sky, you will be able to understand the reality of various laws. In other words, the “law of auspiciousness” is to be taken. ‥
This reminder can be the centerpiece of the Seven Factors of Awakening. No, even among the thirty-seven road crystals
This is a lot of teachings such as religion, faith, and philosophy. Select the truth from the thought
about it.
Choice is not a “choice” tact. The abbreviation of this kanji is written as “selection”, and it is selected, “volunteer”. The word “moerabu” is used.
In other words, it means choosing a truly true teaching method. There are various religions, beliefs, and thoughts in this world. Select the truth from them. Then, the town throws away what he has and what he has, and sorts it out.
What does it mean to practice by choosing the right faith and throwing away the wrong ones? Although I had thought so, while thinking about it, I came to think that it was training. For, it is a practice in that it is done by one’s own study and intelligence. ,
For example, it is as follows.
By the time Buddha was born and he opened Satori, he was hit by the various beliefs and religions of the time, the thinkers who taught various things, and those who hit his elbows. There are various hermits, and not only did they hear the story, but they also thought about whether it was right or wrong.
In the end, I came to the conclusion that all the teachings and religions that existed in India at that time were not correct. That was achieved through Buddha’s own training and study.
Therefore, we also do not say that this alternative memorial is a practice, that he chooses what is truly true and throws away what is not correct by his own study and practice. I have to be him.
There are many meditation schools in Japan, such as schools that teach meditation, meditation teachers, and so on. Which of the many meditations is right for him? Which teacher teaches the correct meditation method? That means that I have to make a clear choice for him.
Most of the time, the person who chooses by his own research, study, or training only hears his poor reputation.
“What about that Japanese meditation center?”
“That is good because there is a person named Mr. Kiriyama.”
Or say,
“That’s no good, it’s a fake”
What is it? I wonder what it is. Some people say that TM (an abbreviation for transcendental meditation) is good, while others say that TM is not good. There are many people who can only make that reputation.
Shaka-sama tried to find out by colliding with all kinds of various teaching methods. As for meditation, I’m not confused by the fact that it’s good or bad, or the reputation of people. You try the meditation, and you are chosen to say, “I don’t care, this is good.”
In that sense, the training of the alternative method is the practice.
三十七道品の七科を全部修めたら、仏になれるのですか?
ベストアンサー
goh********
goh********さん
2012/3/18 7:38
すべてを修める必要はなく、二科目位を修すれば、完全解脱=ニルヴァーナに至り、ブッダに成れるとされます。 (但し、四念住法・四神足法は、それのみで成仏する一乗道とされる) というのは、その修行者の資質・性格、等に合わせ、組み合わせて修行させていたからです。 修行内容を大雑把に分けると、 ①実践行(戒行&善根功徳を積む行で、性格・善業悪業を調整制御する) ②瞑想行(止観の行=定・慧・解脱の行をする) ③特殊な釈尊のクンダリニーヨーガ 以上がその人の個性・得意なものに合わせ、課せられます。 ちなみに日本では、 真言宗空海様がその著書「弁顕密二教論」の中に、 「三十七菩提分法是れ法宝なり」と書かれ、また、 曹洞宗道元禅師様が「正法眼蔵」の第六十で、 「この三十七菩提分法、即ち仏祖の眼晴鼻穴、皮肉骨髄、手足面目なり。 仏祖一枚、これを三十七菩提分法と参学しきたれり」 と書かれています。 また中国天台智者大師 智顗様は「摩訶止観」にこれを取り上げています。 ただし、これは智者大師の癖だと思うのですが、五時八教の教相判釈と同様に、これは科目毎に優劣を判定しています。 一乗道とされる四念住法を外凡の位にしてるところを拝見すると、智者大師は七科三十七道品をやってみもしなかったんだなぁ、ということが理解できます。 (時代の壁、情報不足でしょうがなかったんでしょうが) その他、瑜伽唯識派・瑜伽中観派らによって後期大乗(密教)に七科三十七道品が導入されました。 たとえば、金剛界法の三十七尊がそれです。 それぞれ仏様になってはいますが、本来は七科三十七道品であり、それを仏様として象徴したものです。 これは、判る人には判るように編成したものだったのですが、時代を経るうちに、本来の意味を理解する人が減り、ただ仏様を観想し仏様と一体化して自分の中の仏性・仏心を顕わにし悟りを得る、という修行法に変わってしまいました。 これは中国、特に日本では悲劇ともいうべきもので、本来、日本にはない知識である瑜伽の素養、つまりヨーガ(ことにクンダリニーヨーガ)の素養がなければ、出来ない修行法でした。 たとえば修法(行法)の最初の方で、加持香水といってお水に火を観想するのですが、その際、軍茶利真言「オン アミリテイ ウン ハッタ」を唱えます。 これは軍茶利明王様のご真言となってますが、実は文字通り、クンダリニーのことであり、修法開始にあたって、クンダリニーを覚醒させておく、といった意味があります。 そして、その爆発的なエネルギーで空などの瞑想をし、仏菩薩の聖霊を全身全霊で勧請し、困っている人々の願楽を叶えるとともに、自身の解脱を図る、といった非常に組織された修行法でした。 これがそのまま当時(後期大乗)の姿で伝えられているのが、いわゆるチベット密教といわれるものです。 ただし、後期密教のクンダリニーヨーガがそのまま釈尊のクンダリニーヨーガかというと、そういうわけではありません。 というのも、後期大乗が採用したクンダリニーヨーガは、シャクティーを利用したものだからです。(インドから仏教が消滅した理由の一つでもあります) もしそれが釈尊のクンダリニーヨーガだとしたら、阿含経に記載がないはずはありません。 プラーナルートなど非常に参考になるところはありますが、あくまでも、煩悩即菩提に基づくものなので、似て非なるもの、というのが実のところです。 いづれにしても、前出①②番はともかく、③番の修行法については、チベット僧のように厳格な資質ある出家で、かつ、良師がいなければ不可能ともいうべき修行法のようでアリマス。 あぁ、ちなみに、チベット密教では十四世紀頃にシャクティー等の概念化を図り、戒律との矛盾を解消し、今日では、世界一戒律が厳しいといわれる程の、緻密かつ組織化された教えと修行法を併せ持つ大乗仏教の最終形態を維持しています。
思念の相承と四神足法 Kechimyaku and Iddhipada

思念の相承と四神足法
いよいよ、釈尊の成仏法の中心の法である、四神足法の解説に入る。これが
「輪廻転生瞑想法」の根幹となる法である。
釈尊の成仏法の中でも、最高難度の法である。
いままでの訓練をこなしてきた修行者であれば、なんとか歯が立つのではないかとは思うが、決して容易ではない。いままでの訓練でさえ、むずかしいのに、これ以上の訓練はできるだろうかと、不安に思う方も多いのではないだろうか?
霊界の法の世界において、法の完成者タターガタ(如来)が常恒に法を説いている。
「思念による王者の相承」とは、この法身タターガタが、言葉や象徴という媒介なしに、直接相手の心に自分の心を伝達するものである。
この場合、心、というのは単なる思念の心ではなく、パワーを主としたものと思うべきである。これによって、相手はたちどころに仏陀として完成するのである。
これは最高であり、理想的なものであること、もちろんである。「王者の」、という所以である。
とのべた。つまり、仏陀となって成仏するためには、この「思念による王者の相承」を受けることが、理想とされているのである。
しかし、これには条件があるのだ。
どのような条件か?
わたくしは、つぎのようにのべている。
だが、そういうと、一 (「思念による王者の相承」)は最高理想のものなのであるから、他のなにものも必要ないのではないかといわれるかもしれない。そうではないのである。その最高理想のものを受けるために、tapasは必要なのである。
また、同章で、インドのサヘートーマヘートにおける強烈な霊的バイブレーションについて、つぎのようにものべている。
賢明な読者はすでにお気づきであったろう。これが、チベット密教のいう「思念による王者の相承」であることをI―。思念による王者の相承とは、じつに、霊的バイブレーションによる伝達だったのである。
わたくしは、これによって、解脱に至る四つの階梯のうちの、第三の境地に達したことを自覚したのであるが、これは、間脳開発の練行taPasを成就していなかったら、絶対に得られなかったものである。丙なる受容の態勢がととのって初めて、外よりの王者の相承が発せられるのである。
つまり、仏陀となる、あるいは仏陀の境界に近づくためには、「思念による王者の相承」が必要なのであるが、その王者の相承を受けるためには、間脳開発の練行taPasを成就していることが必須なのである。
わたくしは、この王者の相承を受けて、阿那含の境地に達し、このとき、死ぬまでにかならず仏陀になると強く自覚したが、それはわたくしが、tapasを成就した上で、インドのサヘートーマヘート、ミラクルの池に行ったからこそ、白銀のバイブレーションを受けることができたのである。
したがって、「思念による王者の相承」を受けるためには、tapasを成就していることが、絶対条件なのである。
では、その練行tapasとはなにか?
このこそが、四神足法なのである。
いい換えれば、四神足法を成就していなければ、仏陀になるために必要な「思念による王者の相承」を受けられないのである。しかしながら、四神足法は、釈尊の成仏法の中でも最高度にむずかしい法である。だれでも容易に修行できる内容ではない。
釈尊のむずかしい成仏法を修行しなければ、いつまでたっても思念の相承を受けられず、間脳が開かず、霊性開顕が不可能であるならば、いったいどれは
どの人が、霊性開顕をすることができるであろうか?
ごく限られた、わずかなエリートしか、到達することができないであろう。
当然のことながら、釈尊の成仏法を発展させた輪廻転生瞑想法も成就できないことになるのだ。
だが、そうではないのである。
わたくしは、永年の修行により、この問題点を解決し、だれでも比較的容易
に成仏法の修行を進めていける法を完成することができたからである。
それは、「水晶龍神瞑想法」という法である。
この瞑想法は単なる瞑想法ではない。
じつは、この水晶龍神瞑想法は、釈尊の成仏法の真髄である、
「四神足法そのもの」 なのである。
そして、この水晶龍神瞑想法の最大の特長は、
「瞑想法自体が思念の相承である。」
ということなのである。
」
修行者は、この法にのっとって修行を進めていくことにより、本来であれ
ば、tapasである四神足法を成就しないかぎり、絶対に受けられない思念の相承を、修行をはじめる最初の段階から受けながら、四神足法に必要な、チャクラの開発訓練を進めていくことができるのである。
ことに、クンダリニー・ヨーガでは、最も危険とされる脳内のチャクラの開発を、安全に、おだやかに進めていくことができるのだ。
あなたは、この水晶龍神瞑想法(四神足法)を修行することによって、神通力
を得ることができるであろう。
ただし、この法は、最極秘伝に属する法なので、すべてを筆にすることはでない。
Kechimyaku and Iddhipada
Finally, we will begin to explain the Iddhipada method, which is the central law of Shaka Nyorai’s Buddhahood method. This is
It is the basis of the “reincarnation meditation method”.
It is the most difficult law in Shakyamuni’s Buddhahood law.
If you are a practitioner who has done the training so far, I think that you will somehow get a tooth, but it is not easy at all. Even though the training so far is difficult, many people may be worried that more training will be possible.
In the world of law in the spirit world, the perfector of law, Tatagata (Nyorai), constantly preaches the law.
“Kechimyaku of the King by Thought” means that this Dharmakaya Tatagata directly conveys one’s heart to the other person’s heart without the mediation of words or symbols.
In this case, the mind should be thought of as power, not just a mind of thought. As a result, the opponent is immediately completed as a Buddha.
This is the best and ideal, of course. That is why it is “the king”.
It was said that. In other words, in order to become a Buddha and become a Buddha, it is ideal to receive this “consensus of the king by thought”.
However, there are conditions for this.
What are the conditions?
I wrote as follows.
However, in that case, it may be said that one (“the consensus of the king by thought”) is the highest ideal, so nothing else is needed. That is not the case. Tapas is necessary to receive the highest ideal.
Also, in the same chapter, the intense spiritual vibration in Saheto-Maheto, India is described as follows.
The wise reader would have already noticed. I- that this is what Tibetan Buddhism calls “the consensus of the king by thought.” The thoughtful consensus of the king was, in fact, a transmission by spiritual vibration.
I realized that I had reached the third of the four steps leading up to liberation, but this would definitely be the case if I had not fulfilled the diencephalon development practice tapas. It was not obtained. Only when the system of acceptance is established will the consensus of the king from the outside be issued.
In other words, in order to become a Buddha or approach the boundary of the Buddha, “the consensus of the king by thought” is necessary, but in order to receive the consensus of the king, the diencephalon development practice tapas is achieved. It is essential that you do.
With the consent of this king, I reached the border of Ana, and at this time I strongly realized that I would become a Buddha by the time I died, but after fulfilling tapas, I was in Sahe, India. It was because I went to Tohmahet and Miracle Pond that I was able to receive the silver vibration.
Therefore, in order to receive the “consensus of the king by thought”, it is an absolute requirement that tapas be fulfilled.
Then, what is the training tapas?
This is the Iddhipada method.
In other words, if you do not fulfill the Iddhipada method, you will not be able to receive the “consideration of the king by thought” necessary to become a Buddha. However, the Iddhipada method is the most difficult method among the Buddhahood methods of Shason. It is not something that anyone can easily practice.
If you do not practice Shaka Nyorai’s difficult Buddhahood method, you will never be able to accept your thoughts, your diencephalon will not open, and spiritual manifestation will not be possible.
Who can do spiritual manifestation?
Only a very limited number of elites will be able to reach it.
As a matter of course, the reincarnation meditation method, which is a development of Shaka Nyorai’s Buddhahood method, cannot be achieved.
However, that is not the case.
I have solved this problem through many years of training, and it is relatively easy for anyone to do it.
This is because we were able to complete a law that would allow us to practice the Buddhahood law.
It is a method called “Crystal Dragon God Meditation Method”.
This meditation method is not just a meditation method.
In fact, this crystal dragon god meditation method is the essence of Shason’s Buddhahood method.
It is “Iddhipada itself”.
And the biggest feature of this crystal dragon god meditation method is
“The meditation method itself is a consensus of thought.”
That is to say.
”
The practitioner should be able to proceed with the training in accordance with this law.
For example, if you do not fulfill the tapas Iddhipada method, you will receive the consensus of thoughts that you will never receive from the first stage of training, and proceed with the development training of the chakra necessary for the Iddhipada method. Can be done.
In particular, Kundalini Yoga can safely and gently proceed with the development of the most dangerous chakras in the brain.
By practicing this crystal dragon god meditation method (Iddhipada method), you have the power of magic.
Will be able to be obtained.
However, since this law belongs to the most secret, it is not possible to write everything.
准胝観音 Cundi Kannon

日本では「准胝仏母」、「准胝観音菩薩」、「准胝観世音菩薩」、「天人丈夫観音」などさまざまな呼称がある。
真言は短呪の「オン・シャレイ・シュレイ・ジュンテイ・ソワカ」(Oṃ cale cule cunde svāhā [21] [15][注 4]などがよく知られている。長咒は「ナモサッタナン・サンミャクサンモダクチナン・タニヤタ・オン・シャレイ・シュレイ・ジュンテイ・ソワカ」。
三昧形[
三昧耶形は「寶瓶」(方便)、「金剛杵」(智慧)、「甲冑」(慈悲)。
種子はबु(ボ、bu)
。
准胝観音(じゅんていかんのん)とは?
准胝仏母(じゅんていぶつも)・七倶胝仏母(しちくていぶつも)ともいいます。もとはヒンドゥー教の女神であるドゥルガーで、シヴァ神の妃とされています。とても美しい姿ですが、神々の武器を持って魔族を倒した戦いの女神です。そのため本来は女尊であり、観音ではないという指摘もあります。しかし、ここでは観音として紹介しますね。
仏教に取り入れられてからは慈悲深い清浄をもたらす神とされ、七倶胝仏母(しちぐていぶつぼ)ともいわれています。これは遙か過去より多くの仏を誕生させた仏の母という意味です。そのため、真言宗系では人道を救済する六観音(聖観音・千手観音・十一面観音・如意輪観音・馬頭観音・准胝観音)に数えられますが、天台宗系では准胝仏母といわれ如来に分類されています。不空羂索観音と合わせて七観音と呼ばれることもあります。
ご利益
修道者守護、無病息災、延命のご利益があり、安産や子供が授かるなどの功徳があります。
空海の孫弟子にあたる理源大師(りげんだいし)聖宝は修験の僧として知られ、自ら霊木を刻んで祀ったのが准胝観音と如意輪観音でした。経典には、修験者が准胝陀羅尼を唱えれば身が清浄となり成仏できると説かれています。また聖宝は醍醐天皇の皇子誕生を准胝観音に祈願し、のちの朱雀、村上両天皇が誕生したといいます。そのため一般的には子授け、安産としての功徳が知られています。

