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法鏡の門 ― 応供の如来

法鏡の門 ― 応供の如来

山の夜 炎は天へ
風の中 火は揺れて
その奥に 光ひらき
黄金の仏 現れた

花山の夜 風は冷たく
護摩の炎は 天へ昇る
真言の声 闇をひらき
赤い火の舌 空を舐める
山の静寂 息を止めて
時はゆっくり 揺れていた
修法の手に 祈り宿り
炎の奥に 門が立つ

 

その時 火の色が変わる
赤き炎は 黄金となる
風が吹けども 火は動かず
夜の宇宙が 止まったよう
肩が現れ
衣が揺れて
静かな顔が 光に立つ
炎の中に
如来は立った

 

法鏡よ 胸に開け
仏・法・僧を 信じる心
炎の中の 如来の光
流れに入る 須陀洹の門
応供の仏 供養を受け
衆生の闇を 静かに照らす
信の鏡に 姿は映る
法鏡こそが 悟りの門

 

遠き島の 海の都
白き舎利が 箱に眠る
仏の骨は 時を越えて
静かな光を 宿していた
炎の仏
骨の仏
二つの奇跡が
道を示す

 

法鏡よ 心に立て
壊れぬ信を 胸に灯せ
仏を信じ
法を信じ
聖なる僧を 信じて進め
その時 魂は知る
流れに入る 光の道
戻らぬ川が いま開く
須陀洹
須陀洹
仏の流れに
入る者よ

法鏡の門 ― 応供の如来、炎に現る

 

法鏡の門
― 応供の如来、炎に現る ―
山の夜は、深く静まりかえっていた。
京都の北、花山の山腹。
まだ建設途中の総本殿予定地には、冬の冷たい風が吹き抜けていた。
だが、その夜だけは違った。
節分の大護摩供が、まさに最高潮に達していたからである。
護摩壇の前で、修法を司る導師は一心に真言を唱えていた。
炎は、轟々と燃え上がる。
高さは六メートルを超えていただろう。
山から吹き降ろす風速七メートルの風が、炎を左右に揺らしている。
火は生き物のようにうねり、
赤い舌を伸ばし、夜空を舐めていた。
その時だった。
導師は、ふと、胸の奥に異様な気配を感じた。
──あ……。
言葉にならない直感が走った。
炎の色が、変わった。
それまでの赤い火が、
一瞬、眩い黄金色へと変わったのである。
次の瞬間。
炎が止まった。
風は吹いている。
だが火は、微動だにしない。
まるで時間が止まったかのように。
そして――
炎は、形を作り始めた。
肩。
胸。
衣のひだ。
そして、静かな顔。
黄金の火の中に、
巨大な仏の姿が現れていた。
誰も声を出せなかった。
ただ、見ていた。
炎の高さは六メートル。
そのすべてが、如来の姿になっていた。
静かな慈悲の顔。
胸に満ちる光。
燃えているのに、
そこには不思議な静寂があった。
まるで、宇宙そのものが息を止めたかのようだった。
しかし、それは一瞬だった。
次の瞬間。
炎は崩れ、
再び普通の火に戻った。
風に揺れながら、
ごうっと音を立てて燃え上がる。
まるで何も起きなかったかのように。
だが、導師は知っていた。
「あれは……仏だ。」
胸の奥で確信していた。
修法が終わった後、
導師は道場に戻り、静かに祈った。
そして霊示を求めた。
長い沈黙の後、
心の奥に声が響いた。
それは、言葉というより、
直接、魂に刻まれる声だった。
「われは応供の如来である。
供養を受けるぞ。」
応供。
それは仏の十号の一つ。
供養を受ける資格を持ち、
その供養に応えて人々を守り導く仏。
それはすなわち――
真の仏。
導師の体は震えていた。
(この地は……)
(霊界とつながった)
(仏の聖地になったのだ)
だが、この出来事は、
ごく限られた弟子たちにしか語られなかった。
信じる者だけに伝えればよい。
そう思ったからである。
しかし数日後。
一人の修行者が、
一枚の写真を持って現れた。
「これは……霊写真ではないでしょうか。」
写真を見た瞬間、
導師は息を呑んだ。
そこには――
黄金の炎の中に立つ
巨大な如来の姿が写っていた。
まさしく、
あの瞬間の仏だった。
色も。
形も。
寸分違わない。
導師は、思わず写真を頭上に掲げた。
「如来が……現形された。」
現形。
神仏が自らの意志で姿を現し、
形として残すこと。
ただ一人が見た幻ではない。
誰でも見られる形として残る。
それが現形である。
如来は、炎の中に姿を現し、
さらに写真としてその姿を残したのだ。
しかし奇跡は、これで終わらなかった。
七年後。
さらに驚くべき出来事が起こる。
一九八六年。
スリランカの首都コロンボ。
大統領官邸において、
一つの小さな箱が差し出された。
中に入っていたのは――
白く輝く小さな粒。
それは、ただの骨ではなかった。
仏舎利。
仏陀の遺骨である。
それはインドのブッダガヤ、
大菩提寺の地下から発掘された
真正の仏舎利だった。
その一部が、
日本の一つの教団へと授与されたのである。
なぜ、その縁が生まれたのか。
誰にも分からない。
ただ一つ、
スリランカの僧たちは言った。
「あなた方は、日本で唯一、
釈尊直説の阿含経を奉持する教団だからです。」
導師は、静かに舎利を見つめた。
炎の仏。
そして仏の遺骨。
仏は、二度現れたのだ。
一度は霊体として。
そして今度は
肉体の遺物として。
導師は静かに手を合わせた。
その時、初めて確信した。
仏は、遠い過去の存在ではない。
今もなお、
供養に応え、
人々を導く力を持つ。
それが――
応供の如来。
そしてその仏を信じる心。
それが、
須陀洹へ至る門。
法鏡。
仏を見る鏡なのである。

流れに入る者 ― 須陀洹の夜 ―

流れに入る者
― 須陀洹の夜 ―

山の夜は深かった。
杉の梢を渡る風が、庵の屋根を静かに鳴らしている。
炉の火は小さく揺れ、赤い光が壁に長い影をつくっていた。
青年トウマは坐っていた。
もう何時間も動いていない。
呼吸だけが、かすかに胸を動かしている。
吸う。
吐く。
吸う。
吐く。
ただそれだけだった。
最初は、心は落ち着かなかった。
思い出が浮かぶ。
未来の不安がよぎる。
体の痛みが気になる。
だが、師の言葉が胸に残っていた。
「息を見よ。」
それだけだった。
息を変えようとするな。
整えようとするな。
ただ――見る。
トウマは息を見続けた。
吸う。
吐く。
やがて、呼吸は細くなっていく。
体が軽くなる。
境界がぼやける。
風の音と、
炉の火の音と、
自分の呼吸が、
一つの流れのように感じられた。
その時だった。
突然、心の奥で何かがほどけた。
それは大きな出来事ではなかった。
むしろ、
あまりにも静かな変化だった。
(ああ……)
トウマは気づいた。
これまで、自分はずっと探していた。
悟りを。
真理を。
仏を。
だが今、はっきり分かった。
仏は遠くにいない。
仏は、真理を見た人のことだ。
そしてその道は、
すでにここにある。
それが――
法。
胸の奥に、揺るがない確信が生まれた。
仏は真実である。
法は真実である。
その法を歩む人々――
聖者の道もまた真実である。
そして、もう一つ。
戒。
人を傷つけない。
嘘をつかない。
心を清める生き方。
それが、ただの規則ではなく、
解脱へ向かう道であることが分かった。
その瞬間。
トウマの胸の奥に、
静かな光のような確信が生まれた。
それは感情ではない。
信念でもない。
揺るがない理解だった。
仏への信。
法への信。
僧への信。
戒への信。
四つの信が、
静かに一つになった。
その時。
トウマの心の中で、
何かが完全に壊れた。
「自分」という殻。
疑い。
迷い。
それらが、音もなく崩れていった。
すると、不思議なことが起こった。
恐れが消えていた。
死の恐れ。
地獄への恐れ。
未来への不安。
それらが、まるで最初から存在しなかったかのように消えていた。
なぜか。
理由は分かっていた。
もう流れに入ったからだ。
須陀洹。
聖者の最初の段階。
この流れに入った者は、
もう悪趣に落ちない。
たとえ完全な解脱に至らなくても、
七度以内の生で必ず悟りに至る。
それが仏の約束だった。
トウマは静かに目を開いた。
庵の中は、相変わらず静かだった。
炉の火。
風の音。
何も変わっていない。
だが世界は、
完全に変わっていた。
その時、後ろから声がした。
「……見えたか。」
振り向くと、師が立っていた。
いつからそこにいたのか分からない。
トウマはしばらく沈黙してから言った。
「老師……」
声が少し震えていた。
「私は、何を得たのでしょう。」
師は火を見つめながら言った。
「鏡を見た。」
「鏡……?」
「法鏡だ。」
師は静かに続けた。
「仏を信じる心。
法を信じる心。
僧を信じる心。
戒を信じる心。」
炉の火が、ぱちりと鳴った。
「それが揺るがなくなった時――」
師はトウマを見た。
「人は流れに入る。」
トウマは深く息を吐いた。
その言葉を聞いた瞬間、
胸の奥で何かが静かに確定した。
師は微かに微笑んだ。
「よく見たな。」
そして、ゆっくり言った。
「お前はもう、戻らない。」
外では、山の風が吹いていた。
だがトウマの心には、
静かな流れが生まれていた。
それは海へと続く流れ。
涅槃へ向かう流れ。
須陀洹。
流れに入る者の道が、

法鏡とは不壊信を獲得すること

それは第三の智慧(漏尽智)の獲得であった。

このように無色貪を断ち切り、苦行(戒)の段階を越えて修行を続けられたお釈迦さまは、定に熟達され、その定の極みにおいてカルマの実体を把握する智慧を獲得し、その智慧によって真理を知り、解脱を完成して仏陀になられました。つまり煩悩の滅尽(漏尽)に到達されたのです。

法鏡とは不壊信を獲得すること

本講義で紹介した経文は『遊行経』のごく一部であり、大変短いものですが、このようにじつに深い内容を含んでいます。わたくしたちも、因縁解脱をしたい、成仏したいと願うのであれば、 まず、お釈迦さまがこのお経でお説きくださった、法鏡の教えに従わなくてはなりません。

お釈迦さまは、仏と法と僧伽を信じ、戒を信じて実践するという四不壊信(四不壊浄)を獲得することによって、聖者の最初の段階である須陀洹に到達し、再び悪趣(地獄界・餓鬼界・畜生

一九六

界に堕ちることなく、七度までの生まれ変わりのうちに阿羅漢(仏陀)(と向かうことができる。と説かれているのです。

しかし、法鏡の第一で「仏を信仰する」とありますが、もはやお釈迦さまのおられない現在の世界に生きるわたくしたちは、いったいどのような仏を信仰すればよいのでしょうか?

それはなぜか? この信仰の対象となる仏は、仏画や仏像ではありません。ましてや、日本の大乗仏教が祀る果空の仏、空想上・概念上の仏でもありません。お釈迦さまがこのお経で説いておられるように、 如来の十号を備えた真実の仏として、応供のお力を持っておられなくてはならないのです。

わたくしたちをご加護くださり、成仏へとお導きくださることができる、お力が必要だからで十。如来の十号の一つである無所著は、阿羅漢・応供とも訳され、人間と神々から尊敬、供養される資格のあるお方のことですが、尊敬・供養されるだけではないのです。「応供」とは「供養に応える」ということです。つまり、お釈迦さまは、供養に応えて人々を解説へと護り導くお力を持っておられました。今の世界のどこに、そのような方がおられるのか?

現在における「仏」、応供の如来の復活

しかし、驚くべきことに、現代のこの世界に応供の仏が否されたのです。

しかし、驚くべきことに、現代のこの世界に応供の仏が復活されたのです。

一九七九年二月四日、阿含宗創建の翌年に、京都花山の総本殿建立予定地において事修された、 「節分星まつり大柴燈護摩供」において、その修法中、一陣の霊気が結界内を走ったかと思うと、 突然、お焚き上げしている大護摩の火炎が、巨大な仏のご尊体へと変わりました。

その炎の高さは、およそ六、七メートル、それまで、風速七、ハメートルの山風に、右に左に大きく揺れていた火炎が、一瞬、ピタリと静止したかと思うと、突如、如来のお姿を現したのです。その寸前、修法中のわたくしは、思わず、あ!と思いました。というのは、その時、燃え上がっている火炎の火の色が、一瞬、変わったからです。それまでの赤みを帯びた普通の火の色が、輝くばかりの黄金色となりました。あ!と思った次の刹那、火炎がピタリと静止し、巨大な仏の尊形となったのです。次の瞬間、火はもとの色に戻り、ごうッと吹く山風に大きく揺れ、なびいていました。

修法が終わって道場に帰り、ご霊示を仰いだところ、 「われは応供の如来である。供養を受けるぞ」

というご霊示が下がりました。

「応供の如来」とは、「(信者の)供養を受けて、その供養を功徳として(信者に)返す如来」という意味です。わたくしは、その瞬間、この総本段建立地が霊界と直結した聖地となったことを確信しました。しかし、わたくしは、これを一部の幹部の者のみに伝えるにとどめました。ご霊

体を拝さぬ者にいっても仕方がないと思ったからです。

ところが、数日後、当日の修行者の一人が、

「これは霊写真ではないでしょうか」

一九八

といって一葉の写真を届けてきたのです。一見して、わたくしは息をのみました。まさしく、 あの創那、わたくしが拝した沢愛無作(作りものではない自然のままの生きた仏)の如来のお姿でした。その黄金色に輝く色も、形も、寸分違いません。わたくしは思わず、おしいただきました。 現形という言葉があります。神・仏が、そのご自身の意志によって姿を現し、そのお姿をとどめることです。これを現形といいます。誰か一人がそのお姿を目にしたというのでは、現形とはいいません。万人、誰でもそのお姿を拝せるよう、姿形をとどめなければいけないのです。

大切に祀られております。 なんという奇蹟でしょうか。如来が写真に自らお姿をとどめて、現形されたのです。わたくしの胸は、ただ感激に震えるのみでした。大日如来・釈迦如来・準、玉如来の三身を一身に顕現した、三身町」の「応供の如来」として現形された、この仏さまの霊写真は、阿含宗の密望として

真正仏舎利の降臨

再び、驚くべきことが起こりました。

一九八六年四月七日、スリランカの首都コロンボ市(当時)の大統領官邸において、J・R・

ジャヤワルダナ大統領閣下から、阿含宗に真正仏舎利が授与されたのです。

お釈迦さまは、護摩の炎に応供の仏としてご出現され、その霊体を写真にとどめてくださると

お釈迦さまは満席の姿には

いう形で降臨現形されただけではなく、今度は、その肉体(ごむ形・ご聖)をもって阿含宗に降臨されたのです。

この仏舎利は、インドのビハール州にあるブッダガヤの大塔(大菩提寺)に奉安されていたもので、一八八一年、考古学者のカニンガムによって、大塔の金剛宝座の下から発掘されました。

ブッダガヤの聖顔が、現在のような形で保たれているのは、ビルマ(現在のミャンマー)、スリランカの歴代の王たちの力によるものです。ことにスリランカの力が大きく、アショーカ王の創建した精舎をさらに増広して大菩提寺を建立したのは、四世紀のセイロン(現在のスリランカ)王メーガヴァンナです。こういう因縁により、大菩提寺の管長、主管者には、スリランカの高僧が選ばれることが多いのです。

このスリランカと因縁の深い大菩提寺で、一九四四年当時に管長をされていたスリランカの高僧が、スリランカに帰住するにあたり、上記仏舎利の一部をスリランカに移管し、奉安しました。 この仏舎利のうちの数粒が、スリランカ大統領・ジャヤワルダナ閣下に献上され、大統領から阿含宗に寄贈されたわけです。

どうしてこういうご縁ができたのか、わたくしは、今でもまったく分かりません。

わたくしの方からあつかましく、仏舎利を分けていただきたいなどと申し出たことなどは一切なく、本当に不思議な成り行きで、自然にこうなったのです。ただただ、仏縁仏さまのご意志によるものとしか、いいようのない不思議なご縁です。

スリランカ側の当事者のお話では、日本でただ一つ、釈尊直説の経典である「阿含経」を奉持する仏教団体であるから、ということでした。

1100

の大光明を放って、阿含宗の信徒を護り導いてくださっています。

この真正仏舎利は、まさに生ける釈迦如来として阿含宗に降臨され、阿含宗の本尊として金色

昔から。キリスト教が日本の仏教を批判する時、まっさきに突いてくるのが、日本の仏教は 「偶像崇拝」の低劣な宗教である、という点でした。たしかに、そういわれてもやむを得ない弱点が、日本の仏教にはあります。本尊として祀るところの、大日如来、阿弥陀如来、薬師如来、 その他、すべて架空の仏の像です。皆、実在しない仏の像なのです。故にキリスト教は、これを、

未開人の持つ宗教と同じ、偶像崇拝の低劣な信仰と断定するのです。

t では、偶像を本尊とする仏教が、なぜ低劣視されるのでしょうか? 二つの理由が挙げられま

その1、

異像の仏とは実在しない仏の像であり、実在しない仏の像は「虚像」です。虚像の仏は、要するに、にせものの仏です。真実の仏に似せた虚の仏の説いた経典が、真実の仏の教説といえるでしょうか? それは仏が説いたものではなく、仏を装った人間が説いたものです。いくら天才であっても、所詮、人間は人間です。仏陀ではありません。

虚像の、にせものの仏の像を本尊とし、にせものの仏の経典を読む。これでは、合理性を重ん

ずる外国の宗教に、軽蔑されてもしようがありません。

その2、

実在しない虚像の仏を本尊として拝んで、なんになるのか。

キリスト教は、実在したキリストの遺した物を、「聖物」と呼んで最も尊崇します。他の聖者

たちの遺体の一部も、「聖物」として祀ります。たとえば、有名な聖者フランシスコ・ザビエルは、右の胃が聖物としてイエズス会の聖堂に祀られています。いうならば、この聖ザビエルの右の臂がこのイエズス会の寺院の「本尊」なのです。そしてキリストの「聖物」が、キリスト教の 「総本尊」ということになります。

なぜ、「聖物」が尊ばれるのでしょうか?

それは、奇蹟を現すからです。たとえば、ローマ法王庁内には、「福者」や「聖人」と呼ぶ尊称があります。福者というのは、キリストの信仰のために受難、、教したり、生前に特別の聖性を示し、死後に奇蹟をもたらしたりした聖職者に与えられます。

そしてさらに、そうした福者の中から、普通、長い年月をかけてなお調査を行い、厳選されるのが「聖人」です。聖人に列せられるためには、その死亡した肉体、本人が所有していた物から三回以上、奇蹟が起こらなければならないとされています。聖物はこのように、数々の奇蹟を現すから尊ばれるのです。

では、聖物がなぜ奇蹟を起こすのでしょうか?

起きるのです。 霊界にある聖者のお霊が、われわれの祈りに応えて降臨する時、その聖者に最もゆかりの深い物に降ります。あるいは、その物が聖者のお霊を呼びます。こうして、聖者の降霊による奇蹟が

聖物は、聖者の肉体(遺体、遺骨)が、一番尊ばれます。これが最も奇蹟を起こすからです。 これがなければ、平生、身につけていたものがこれに準じます。架空の仏や空想の仏を拝んでなにが起きるものでしょうか? 実在の聖者、実在の仏であるからこそ奇蹟が起きるのです。

未開人が、虚像、偶像を拝んで一心に奇蹟を願っている、哀れむべき姿を、キリスト教の人たちは、日本仏教の信者たちの上に見るのでしょう。

仏教において、キリスト教における「聖物」を求めるならば、それはもちろん、仏陀のご聖骨しかありません。すなわち、真正仏舎利こそが、唯一の、仏陀の聖物なのです。ですから、仏教教団であるからには、「本尊」として、真正仏舎利をお祀りし、これを尊崇するのが本当なのです。仏と法がそろって、本当の仏法となるのです。

仏陀のご聖物である真正仏舎利が、本尊として修行者・信者に力を与え、ご加護くださって初めて、法が成就するのです。仏陀のご加護なくして、自力だけで成仏法を成就することなど、不可能です。わたくしの完全解説も、本尊のご加護があってこそ、成就したのです。

以上のように、阿含宗には、生ける如来である真正仏舎利が本尊として祀られ、お釈迦さまが伝えられた成仏法・七科三十七道品があり、信徒たちは本尊のご加護の下に成仏法を実践しています。真の三宝がそろっているのですから、まさしく、お釈迦さまご在世当時の教団が復活再現されている、といってよいでしょう。

す。 諸君も、阿含宗の仏法僧を固く信仰するとともに、心解脱行(戒行)を実践し、梵行で徳を積み、正しい先祖供養によって霊的に清めていけば、今生においてニルヴァーナに入るのは至難の業であったとしても、注鏡の教えのとおりに須陀洹となって、数度の生まれ変わりのうちにニルヴァーナに入ることができるはずです。このように、自分自身の死後の行方を確信することができます。どうか、『ななく、修行に精進していただきたい。これで「遊行経」の講義を終わりま