「如来の真義──なぜ〈如来のもとで〉功徳を種えよと言われるのか」
仏教では、功徳を積むことが修行者の歩むべき道として古来より説かれてきた。
どの宗旨・教団においても「善行・供養・施しによって功徳を積みなさい」と教える。
これは確かに仏陀の教えに沿った尊い行いである。
しかし、長年信仰や修行に励んできた人がしばしばこう語る。
「自分なりに努力してきたつもりですが、
どうも果報が得られません。問題が解決しません。」
そのとき、多くの教団は決まってこう答える。
「功徳がまだ足りない。
信心がまだ浅い。」
そしてさらに努力を求められる。
しかし、どれほど重ねても終わりが見えず、果報が感じられない――。
このような悩みを抱えた人が少なくない。
ではなぜ、功徳を積んでも実りが感じられないことがあるのか。
その鍵が、「三供養品」に説かれた一語にある。
◆ 1.「如来の所に於て 功徳を種えよ」の意味
経典には、
「如来の所に於て、功徳を種えよ」
と明確に説かれている。
仏陀はまるで念を押すように、
功徳を積む場所・対象をはっきり指定している。
普通に考えれば、
「功徳を積む」こと自体が善であるのだから、
わざわざ“どこで・誰に向けて”と強調する必要はないように思える。
しかし仏陀は、あえて“如来のもとで”と付け加えた。
ここに深い意味がある。
◆ 2.功徳とは「行為の量」ではなく「意識の方向」
仏教において功徳とは、
善い行為や供養の“量”ではなく、
行為がどの意識・どの方向へ向けられているか
によってその質と果報が決まる。
仏陀が説く「如来」とは、単に仏像の名ではなく、
真理そのもの、悟りそのもの、
清浄なる智慧の現前を意味する。
したがって、
如来のもとで功徳を種えるとは、
真理へ向けて行為を行うこと。
これが出世間の福、すなわち涅槃に通じる福となる。
反対に、意識が真理に向かわず、
名聞・我執・期待・恐れなどに支配されているなら、
どれほど功徳を積んでも方向が異なるため、
涅槃へ通じる果報には転じにくい。
◆ 3.なぜ仏陀は“あえて”念押ししたのか
経典の読者はこう疑問に思うだろう。
「仏教徒が如来のもとで功徳を積むのは、
本来なら当然ではないか?」
そうである。
本来、仏弟子は如来と法と僧に帰依し、
真理へ向かって行為することが前提である。
そのため、普通なら“如来の所に於て”という但し書きは不要である。
にもかかわらず、仏陀はあえて強調した。
これは、
功徳は真理に向かうときだけ
涅槃に至る因(出世間福)となる
ということを、はっきり示すためである。
ただ善行だけを積んでも、
その行為が真理につながっていなければ、
生天の福となることはあっても、
悟りに通じる「出世間の福」とはならない。
仏陀はその誤解を防ぐために、
明確に条件を示したのである。
◆ 4.結論
功徳には「量」ではなく「向ける先」がある
要するに仏陀は、
功徳は如来(=真理)へ向けられたとき
はじめて悟りの因となる。
意識の方向性こそが大切である。
と教えている。
どれだけ尽力しても成果が見えないとき、
足りないのは行為の量ではなく、
意識の“向ける方向”である可能性がある。
「如来の所に於て」とは、
行為を真理につなげよ。
心を、悟りの中心に向けて行いなさい。
という仏陀からの根本的な指示なのである