UA-135459055-1

2024 年 3 月 11日  九星  無料 今日の運命 

八白土星の日

 内輪もめが起こりやすい。格別慈悲心が大切の日。もうけ話は損失となりやすい。

再生の週 壊の日

不要なものを精算し身辺を整える日

何事も控えめに慎重に過ごしたい日です。何かとトラブルに発展しがちなので、冷静に落ち着いて物事に対処することが大切です。上手くいかないからと我を通したり、忠告に耳を傾けないと、負の連鎖に陥ってしまいます。自分のことは控えめにし、他人に尽くしてあげることで、破壊の作用が中和できます。また、良い意味での「破壊」を行うには最適な日です。借金の精算や悪縁との断絶、断捨離などを行えば、後腐れ無く縁を断ち切ることができるでしょう。

 

 

 

阿弥陀如来 命あるものすべてを救うべく誓いを立て、極楽浄土に導く

 

 

阿弥陀如来

 

命あるものすべてを救うべく誓いを立て、極楽浄土に導く

 

阿弥陀如来(あみだにょらい)とは?

無限の寿命を持つことから無量寿如来ともいいます。限りない光(智慧)と限りない命を持って人々を救い続けるとされており、西方極楽浄土の教主です。四十八願(しじゅうはちがん)という誓いを立て、その中には「南無阿弥陀仏」と唱えたあらゆる人々を必ず極楽浄土へ導くとあり、広く民衆から信仰されました。ちなみに他力本願も四十八願の誓いから来ており、本来は阿弥陀様にすがって極楽に行こうという意味です。

 

阿弥陀三尊として聖観音と勢至菩薩と並ぶ姿が多いです。さらに二十五菩薩を従え、雲に乗って往生者を迎えにやってくるといわれています。そのほか来迎の様子をあらわす場合もあります。

ご利益

極楽往生、現世安穏のご利益があります。また、戌・亥年生まれ守り本尊です。

阿弥陀如来(あみだにょらい)の像容

釈迦如来と同じく装飾品は一切ないです。来迎印という印は、極楽浄土に迎えに来たことを意味していますよ。この印相は施無畏・与願印に似ていますが、第1指ともう1本の指をねじるのが特徴です。

 

特殊な例としては、宝冠阿弥陀像、裸形阿弥陀像、斜めうしろを振り返る姿をしている見返り阿弥陀などがあります。

 

http://cyber-price.com/buddha/

Buddha  Japan Jou

rnal

Buddha Japan journal

日本の仏教を発信しますSend Japanese Buddhis

Buddha 2Japan journala

日本の仏教を発信しますSend Japanese Buddhis   sサイト

大日如来の智慧を表現した「金剛界」 .一印会 “Kongokai” expressing the wisdom of Dainichi Nyorai.Ichiinkai

 

胎蔵界曼荼羅 たいぞうかい Womb Realm Mandala Taizokai

 

 

 

デジタル  健康   PC カメラ 家電

cyber-price

2024 年 3 月 10 日  九星  無料 今日の運命 

七赤金星の日

人より協力の依頼を受けたりする日。金運、喜び事あるも調子に乗って酒色に乱れぬよう心すべき日。小利に迷わず自他喜びを共にする心掛けも大切

 

 

 

不動明王 破壊と再生を司り、悪を滅する

 

 

不動明王(ふどうみょうおう)とは?

語源は「動かない守護者」を意味し、インド神話のシヴァ神の別名です。シヴァは暴風雨の威力を神格化したもので、破壊的な災害を起こす半面、雨によって植物を育てます。その破壊と恵みの相反する面は不動明王にも受け継がれているのです。不動明王は仏法の障害となるものに対しては怒りを持って屈服させますが、仏道に入った修行者には常に守護をして見守ります。

 

大日如来の化身として、どんな悪人でも仏道に導くという心の決意をあらわした姿だとされています。特に日本で信仰が広がり、お不動様の名前で親しまれています。そして、五大明王の中心的存在です。五大明王とは、不動明王を中心に降三世明王(ごうざんぜみょうおう)・軍荼利明王(ぐんだりみょうおう)・大威徳明王(だいいとくみょうおう)・金剛夜叉明王(こんごうやしゃみょうおう)の5体のことを指し、不動を中心に東西南北に配されます。不動明王の脇侍として八大童子のうちの矜迦羅(こんがら)・制多迦(せいたか)の2童子が配されることも多いです。ちなみに不動明王の持っている龍が巻きついている炎の剣が単独で祀られている場合があります。不動明王の化身とされ、倶利伽羅竜王(くりからりゅうおう)などと呼ばれています。

ご利益

除災招福、戦勝、悪魔退散、修行者守護、厄除災難、国家安泰、現世利益のご利益があるとされる。また、酉年生まれ守り本尊です。酉年に生まれた人々の開運、厄除け、祈願成就を助けるといわれています。

不動明王(ふどうみょうおう)の像容

背の低い、ちょっと太めの童子型の造形が多く、怒りの表情をしています。目は天地眼(てんちげん)といって右目を天に向けて左目を地に向けていますよ。口は牙上下出といって右の牙を上に出して左の牙を下に出しています。炎の光背を背にし、手には剣と羂索(けんじゃく)を持っています。剣は大日如来の智慧の鋭さを表現しています。羂索とは煩悩を縛り悪の心を改心させる捕縛用の縄のことです。

 

http://cyber-price.com/buddha/

 

Buddha Japan journal
日本の仏教を発信します
Send Japanese Buddhism

ニルヴァーナを智慧と慈悲をめざす。

“Nirvana aims for wisdom and

2024 年 3 月 9 日  九星  無料 今日の運命 

六白金星の日

新しい企画を持った人との接触あり。気が高ぶり争いが起りやすい。負けるは勝ち。怒ったら損、自己を誇るなかれ。心豊かにほのぼのと

再生の週 危の日

多少のリスクも乗り越えられる日

吉凶混合の日です。仕事運と対人運は概ね好調で、仕事面では停滞しているプロジェクトの立て直しに着手したり、新しいアイディアに目を向けることで良いでしょう。同時に周囲からの評価も期待できます。対人面では、人の集まる場所で幸運が見つかります。自分から積極的に声をかけアピールしてください。反対に、健康と色難に注意が必要です。危の日は思わぬ怪我や事故に巻き込まれる可能性が高い日です。さらに、対人運が好調なだけに気分が高揚し、思わぬ誤解を招く言動をとってしまったり、誘惑に負け不貞を働いてしまう危険があります。調子に乗っているとたちまち立場は逆転し、痛い目に遭うでしょう。常に危険と隣り合わせの日だということを忘れずに。

 

大日如来 すべての生き物の根本となる仏

 

大日如来

すべての生き物の根本となる仏

 

 

大日如来(だいにちにょらい)とは?

大日とは「大いなる日輪」という意味です。太陽を司る毘盧舎那如来がさらに進化した仏です。密教では大日如来は宇宙の真理を現し、宇宙そのものを指します。また、すべての命あるものは大日如来から生まれたとされ、釈迦如来も含めて他の仏は大日如来の化身と考えられています。

 

大日如来には悟りを得る為に必要な智慧を象徴する金剛界大日如来と、無限の慈悲の広がりを象徴する胎蔵界大日如来という2つの異なる捉え方があります。金剛とはダイヤモンドのことを指し、智慧がとても堅く絶対に傷がつくことがないことを意味しています。また、胎蔵とは母親の母胎のようにすべての森羅万象が大日如来の中に包み込まれている様を意味しています。この2つが揃って大日如来を本尊とする密教の世界観が出来上がるのです。

ご利益

現世安穏、所願成就。また、未・申年生まれ守り本尊です。

大日如来(だいにちにょらい)の像容

本来、如来は出家後の釈迦の姿をモデルとしているため装飾品は身に付けていませんが、大日如来だけは別格で豪華な装飾品や宝冠を付けています。また、螺髪(らほつ)ではなく、髪を結い上げています。

 

金剛界、胎蔵界の姿でそれぞれ印の形が違います。金剛界の大日如来は、左手の人差し指を立て、その人差し指を右手で包みこむ智拳印の印相をしています。一方、胎蔵界の大日如来は、腹の前で両手の全指を伸ばして組み合わせる定印です。

 恋人
正位置・・・恋愛。女性側からの誘惑で成功した恋愛。無邪気な十代や若者の恋愛関係。セックス。嫉妬。美しさ。情熱。好きで打ち込む趣味。重要な事件の発生による選択の時期。
逆位置・・・よろめき。誘惑。遊びだけの関係。気まぐれ。結婚生活の危機。痴話げんか。道徳心の欠如による危険。ジェラシー。希望に関して重要な道が選べない。
ウェイト解説
正位置・・・魅力。愛。美。克服される試練。
逆位置・・・失敗。愚かな計画。別の意味では、不満のある結婚とあらゆる意味での不一致をあらわす。
03月09日 (土曜)
月齢
27.96
Moon
潮汐
中潮

月名(旧暦日)
暁月

 

 

http://cyber-price.com/buddha/

Buddha  Japan Journal

Buddha Japan journal

日本の仏教を発信しますSend Japanese Buddhis

Buddha 2Japan journala

日本の仏教を発信しますSend Japanese Buddhis   sサイト

大日如来の智慧を表現した「金剛界」 .一印会 “Kongokai” expressing the wisdom of Dainichi Nyorai.Ichiinkai

 

胎蔵界曼荼羅 たいぞうかい Womb Realm Mandala Taizokai

 

 

 

デジタル  健康   PC カメラ 家電

cyber-price

随眠という名の無意

随眠という名の無意識層

第三章

欲求不満と危惧に対してはげしい怒りを発する心である。

 瞑は、わが心に背く事あれば(それが)善事にても必ず怒る心なり。(唯識大意)

 三、無明上凝ともいう。

 無智のこと。愚迷。もろもろの道理に迷う愚癈の心作用。ものの道理のわからぬこと。われわれの

存在の根底にある根本的な無智。すべての煩悩の生ずる根源とされる。

 境を照らす明なしというところから無明と名づけ、事物の道理を決断する智なしというところから

無智と名づけ、事物の道理を彰了する顕なしというところから無顕とも名づける。

 三、慢

 自分に傲って他を軽蔑する心。

 慢というは、わが身を侍んで人を役り、少しも謙下(へりくだる)なき心なり。(唯識大意)

 なお、慢には、七慢・八慢・九慢などの分類がある。つぎに七慢をあげておく。

 ’七慢

 1 慢=自分より劣った者に対してすぐれていると自負し、同等な者には同等であると高ぶる。

 2 過慢=同等の者に対してはすぐれていると慢じ、すぐれた者には同等であると慢ずる。

 3 慢過慢=自分よりすぐれた者に対し、逆に自分がすぐれているとする。

 4 我慢=自分の身心を永遠不変の我であるとたのむ。

 5 増上慢=さとりを得ないのに得たとする。学問・知識などその奥に達していないのに達したと

随眠という名の無意識層

第三章

欲求不満と危惧に対してはげしい怒りを発する心である。

 瞑は、わが心に背く事あれば(それが)善事にても必ず怒る心なり。(唯識大意)

 三、無明上凝ともいう。

 無智のこと。愚迷。もろもろの道理に迷う愚癈の心作用。ものの道理のわからぬこと。われわれの

存在の根底にある根本的な無智。すべての煩悩の生ずる根源とされる。

 境を照らす明なしというところから無明と名づけ、事物の道理を決断する智なしというところから

無智と名づけ、事物の道理を彰了する顕なしというところから無顕とも名づける。

 三、慢

 自分に傲って他を軽蔑する心。

 慢というは、わが身を侍んで人を役り、少しも謙下(へりくだる)なき心なり。(唯識大意)

 なお、慢には、七慢・八慢・九慢などの分類がある。つぎに七慢をあげておく。

 ’七慢

 1 慢=自分より劣った者に対してすぐれていると自負し、同等な者には同等であると高ぶる。

 2 過慢=同等の者に対してはすぐれていると慢じ、すぐれた者には同等であると慢ずる。

 3 慢過慢=自分よりすぐれた者に対し、逆に自分がすぐれているとする。

 4 我慢=自分の身心を永遠不変の我であるとたのむ。

 5 増上慢=さとりを得ないのに得たとする。学問・知識などその奥に達していないのに達したと

幻さて、いま、根本誌眠(根本煩悩)について解説した。

 日常生活の上に、日夜たえまなく生起するわれわれのこころの動きについて、じつに詳細かつ精緻に

観察していることにおどろきを感じるのは、わたくしだけではなく、おそらくあなたも同感であろう。

 しかし、古代仏教における人間のこころの観察分析は、この程度のものではないのである。

 根本煩悩に附随してつぎつぎと起きるこころを「随煩悩」という名でとらえて、さらに精密に論ず

るのである。

 さきで、「煩悩の十事L(十の性質)が説かれている。すなわち、一、根本を堅くすること。二、相

続を立すること。三、自田を治めること。四、等流を引くこと。五、自具を摂すること。六、識流を

導くこと。すべて、(根本)煩悩がひとたび目ざめて動きはじめると、つぎつぎといくつかの煩悩が連

鎖反応を起こす性質のあることを示している。この連鎖的に起動する煩悩を「随煩悩Lといい、論の

 

 

 

  随 煩 悩

 

第四章、随煩悩でこう説き明かす。

   『随眠は、既に説きつ。随煩悩は云何。

   頌にいわく、

    随煩悩は、此の余の、染の心所の行羅なり。                       

   論じていわく、この諸の煩悩を、亦た随煩悩と名く。皆、心に随って、悩乱の事を為すを以ての故なり。

 復た、此の根本煩悩の外に、余の

ヽ諸の根本煩悩に異なる染汗の心所の、行蔭に摂するものあ タ

  り。根本煩悩に随って起るが故に、亦随煩悩と名け、煩悩とは名けず。根本に非ざるが故なり。』

 その随煩悩をあげてみよう。

 ただし、随煩悩の種類のあげかたはいくつかあって、一概にはさだめがたい。ここでは、倶舎の「五

位七十五法Lによるものと、後世の唯識大乗によるものとの二つをあげて、解説したい。

 倶舎では十九種類である。

 大煩悩地法として、

 放逸・服怠・不信・悟沈・棹挙の五、

 大不善地法として、

 むざん む考ヽ                         ’

 無噺・無情の二、

 小煩悩地法として、

 ふん ぷく けん しっ のう がい こん てん おう きよう

 忿・覆・樫・嫉・悩・害・恨・諮・匝・僑の十、

 不定地法として、

 睡眠・悪作の二、

以上である。

 唯識においては、

随眠という名の無意識層

第三章

 忿・恨・悩・覆・脱・諮・僑・害・嫉・樫の十を「小随惑」とよび、

 無晰・無愧の二を「中随惑L、

 不信・爾怠・放逸・悟沈・棹挙・失念・不正知・散乱の八をI「大随惑」とよび、この三種二十の惑

を、随煩悩と名づけるのである。

 わたくしは、倶舎の不定地法による睡眠と悪作を除いて、唯識の失念・不正知・散乱を入れて、

「二十随煩悩Lとする。なぜかというと、不定地法は、かならずしも煩悩とはいわれないからである。

睡眠は善・不善・無記の三性に共通するものであるし、悪作も善・不善の二性に共通して善性のもの

もあるからである。もちろん、倶舎が随煩悩にとりあげている睡眠と悪作は、睡眠の不善・有覆性

と、悪作の不善性の、煩悩といわれ得るものをとりあげているのであるが、わたくしは、考えるとこ

ろあって右のようにするのである。

 では、随煩悩を解説しよう。

  随煩悩解説

1 忿

いかり。

自分の心にかなわぬ対象に対して怒りの情をいだき、刀杖等をとるにいたる、いわゆる短気の心作

 

 

用をいう。このこころは、根本煩悩の「賦」の等流(つづいてのちにあらわれ出た同類のもの)、つ

まり瞑にしたがって出てくるこころなので、眠は先払いのごとく、忿は後押しの如し、といわれる。 タ

 忿というは腹を立てて杖をとって人を打たんと思うほど怒る心なり 0(唯識大意)

 2 恨

 うらみ。

 敵意がひき続くこと。

 先に忿怒したことに恨みをむすんでいつまでも解けず忘れぬ心作用をいう。

 恨というは、人を恨むる心なり。恨みを結ぶ人の、残念口惜しとて押さえ忍ぶこと能わずして心の

内つねに悩むなり。(唯識大意)

 3 諮

 へっらう。

 自分の意志をまげてこびへつらい、人にとり入ったり、あるいは理屈をつけて他をおとしいれたり

する。

 諮曲といって、心を曲げて実の心をあらわさず、他を籍絡せんがため・に表面柔順をよそお、うなどす

の心を取り、あるいはわか

り。(唯識大意)

           だま                          かた

諮というは、人を隔くらかし迷わさんために、時に随い事にふれて奸ましく方便をめぐらし、人

               あやまち

をかくす心なり。世の中に詔曲の者というは、この心の増せる人な

 4嫉

 ねたみ。嫉妬。

 他人の幸福や成功を喜ばず、妬忌して憤酒する心。

 嫉というは我身の名利を求むるが故に人の栄えたるを見問して深くねたましきことに思うて喜ばざ

る心なり。(唯識大意)

 5 悩

 なやむ。

 憤憑や怨恨や憂悶にとらわれて使悩する。

 また、自分の考えを固執して捨てず、他人の忠告や諌めを入れぬ頑迷な心をいう。原語呂ぼ回

を、真諦は「不捨Lと訳しているが、これは、自分勝手なせまい見解を固執して捨てず、そのために

いろいろと悩みの生ずることをいうのであろう。                         タ

 悩というは腹を立て人を恨むに依って僻み戻り、心の中つねに安からず、ものを言うにその言かまびすくして険しくいやしく腹ぐろく毒毒しき心なり。(唯識大意)

 6 覆

 責任のがれ。

 自分のおかした罪やあやまちをおおいかくして偽陥する心。

 自分の地位や名誉、あるいは体面を失うことを恐れて、自分の非を隠蔽する心。

 覆というは名利を失わんことをおそれて、わが罪あやまちを覆いかくす心なり。隠す人は必ず後に

悔み悩みあるいは悲しむことあり。(唯識大意)

7 樫

ものおしみ。むさぽり。樫惜。樫貪。吝嗇。

ものや知識、技術などすべて自分の持っているものに執着して、他に頒つことを吝しか心。

樫というは財宝に敗着して人に施す心なく、いよいよ貯えんとのみ思う心なり。(唯識大意)

8 唐

欺隔。他人をあざむきたぶらかすこと。

無徳なのに有徳のように、下劣のものを優秀なもののように装って、他人を惑わす詐偽の心作用を

いう。裏切り、設計の能力。徳がないのに敬われようと欲する人。

 斑というは、名利を得んがために、心に異なる謀をめぐらして、矯ましく徳ありと現わす偽りの

心なり。世の中に証惑者というはこの心の増せる人なり。(唯識大意)

 たぶらかす、不実の語をいうなり。(『無門紗』)

 9 僑

 おごり高ぶり。自らおごり高ぶること。自己満足。

 自分の財産・地位・才能・学力・容姿などをほこり高ぶる心。

 僑も幔もともにおごり高ぶる心であるが、僑は自分の性質(美貌や若さや才能や血統、学識など)

をすぐれたものと考えて、自己に執着する心のおごりであるのに対し、幔は、自分は他人よりもすぐ

れていると妄想して、他人に対して誇りたがる心のおごりである。要するに、慢は他人を意識して起

こすが、僑は他人を意識せずに起こすものである。

 僑というは、わが身をいみじく盛なる者に思うておごり高ぶる心なり。(唯識大意)

 ただ自分のよきことのみをおもい人を見くらべず、なにごともおのれがよいとはこるが僑なり。

(『香月』)

1 害

 

 

 

 傷害。害意。人をきずつける心。

 生けるものに危害をくわえることを快しとする心作用。

 同情心に欠け、人の行動や生活をきずつけ妨害する。

 害というは、人を哀れむ心なく情なき心なり。世の中に慈悲性もなき者というは、この心の増せる

人なり。(唯識大意)

1

 

 反省心のないこと。はじらいのないこと。自分自身にたいして、罪を罪として恥じないこと。さか

うらみ。

 自分自身に対し罪や過失や不徳を恥ずる心のないこと。(自ら省みて恥じるのを噺・他に対して恥

じるのを愧という。無晰・無愧はその反対である)

 無噺というは、身にも法にも恥じずして、善根を軽しめ諸の罪をつくる心なり。(唯識大息)

12 無愧

恥じ入る心のないこと。破廉恥なこと。他人に対して恥じないこと。・

無愧というは、世間の見聞にも恥じずして、諸の罪を崇むる心なり。(唯識大意)

 13 棹挙

 軽噪。がるはずみ。とりとめのない心。心が浮動して静まりのないこと。心が寂静でないこと。軽

挙妄動してつねに落ちつかず燥泄の生活を送る。

 棹挙というは、動きやすくさわかしき心にて物にのりやすくおだてられやすい心なり。(唯識大意)

 

 14 悟沈

 沈唇。心のめいること。ふさぎこむこと。

 不活発な気質、心の不活動性。心を暗く沈ませる心作用をいう。気分が陰唇で善事をなすにたえら

れない性である。人をして憎惰、怠慢ならしめる。要するに気分が重く暗くてやる気がおこらない。

ことをおこなうにあたって、心が巧みでない。適応性がないのである。

 悟沈というは、重く沈み溺れたる心なり。9 重として目のくらむようになるなり。(唯識大意)

 無明と悟沈と相似てわきまえ難し。無明は閤く迷えり。重く沈み溺れたるにあらず、悟沈はただ闇

く迷えるにあらずして重く沈み溺れたるなり。(唯識大意)

15 不信

信のないこと。

実有・有徳・有能であることに対するヤ儲ず。

心が乱れさだまらず集中できない。知能がはたらかない。

心乱というは、心を散らし乱す心なり。この故に散乱と名づく。(唯識大意)

 

 心がきよらかでなく、よいことや正しいことを見聞しても、邪推したり歪曲してとって、信解しな

い。したが’つて悪行や邪行を楽しむ。

 不信というは、貴き目出たき事を見聞しても忍び願う心なくして、稿れ濁れる心なり。かかる人は

多く御怠なり。(唯識大意)

 16 謝怠

 怠惰。怠り。なまけて励まないこと。やる気を起こさない心性。

 仏道を修行するのに力を尽くして励まないこと。台心って教えを奉じないこと。釈尊の臨終のことば

は「つつしんで御怠することなかれLであった。

 世間のなぐさみ、囲碁将棋などして、善事をおこたるはみな謝怠なり。すべて善事をおこたるを脚

怠という。(『香月』)

 俗怠は諸の善事の中に解り嘲き心なり。かかる人は又多く不信なり。(唯識大意)

17 放逸

わがまま。放縦。なおざり。気ままに遊ぶこと

責任感に欠け、勝手気ままに行動する。

不注意で軽率、心が散役である。

放逸というは、罪を防ぎ善を修する心なくして、ほしいままに罪を遣る心なり。(唯識大意)

 18 失念

 飲酒などのためにぼうっとして自制心を失うこと。

 飲酒だけに限らず、趣味・道楽・かけごと・異性などのために心を散乱させて自制心を失ったり、

対境をはっきり記憶できなくなるのは、みなこの心である。

 失念というは、取りはずし物を忘るる心なり。かかる人は多く散乱なり。(唯識大意)

19 不正知

正しい認識ができない心。不完全な認識。

不完全な自覚―-なすべきこと、あるいはなすべからざることをわきまえない。

対象を正しく把握・理解せず、歪曲したり誤解しながら、それが正しいと思っている。

不正知というは、知るべきことをあやまって解す。かかる人は事を毀ち犯すなり。(唯識大意)

20 散乱

心の拡散。心が乱れ定まらないこと。

凡夫の心がつぎつぎと絶えまなくその対象に移し流され、一刹那もとどまらないこと。

 

 

 

 どうであろうか?

 まことにくわしく分析し尽くしたものではないか。

 わたくしは、むかし、はじめてこれを目にしたとき、一読、思わず、心から赤面したことをおぼえ

ている。ここにあげられているこころがすべて自分のなかにあり、しかもそのうちのいくつかは現に

動いていて、自分がそれに動かされつつあることをはっきり自覚したからであった。それを自覚した

刹那、そのこころのままに動かされて行動したとき、その結果がどういうかたちになってあらわれる

かが直感され、わたくしはそのこころをなんとかおししずめ、他のべつな方向に向けるべく努力し

た。それがわたくしの人生の一つの転機をなした。以来、わたくしはこの随煩悩の一覧表を作製して

所持し、時にふれ、目にすることにした。とくに自分の持つ因縁と相応してつよくあらわれやすいこ

ころは赤字でしるした。不徳のわたくしはこれにより少しでも自分を改造しようと決心したのである

(根絶する修行をはじめたのはもっとあとのことである)。

 しかしいまでもわたくしはこの一覧表を目にするとき、内心憤死たることしばしばである。

 あなたはどうであろうか?

 これらのこころがわれわれを形成しているのである。

 これらのこころにみたされ、これらのこころの動くままに行動したとき、その結果がどのようなか

たちであらわれてくるか、どう考えても、それは決して「このましくよきものLであるとは考えられ

まい。自分にとっても周囲にとってもそれはけっしてこのましくよきものを形成しはしない。しかし

われわれはこのこころに日夜動かされつつあるのである。大なり小なりこれらのこころがわれわれを

動かし、それの累積がわれわれの人生となり、われわれの環境をかたちづくっているのである。それ

はだれしも否めない事実ではないか。それを仏陀は「業」とよぶのである。

 根本煩悩に十、随煩悩に二十、じつに精緻に分析したものである。

 しかしこれは決して単なる心理論や心理学ではないのである。それはわれわれの存在の構造を示す

ものなのだ。この構造をどう改革するか? それが仏陀の教法である。この構造を改革し、さらには

この構造を大きく飛越しようとするのが仏陀の教法なのである。だから精緻きわまる心理分析も単な

る心理論ではないのである。そこでI-、重大な一つの論争がなされている。

 それは、煩悩と随眠との関係についてである。

 ひとロにいうと、煩悩はすべて意識的であるのか、それとも、習気(習慣的余力)としての無意識的

煩悩もあるのかという問題である。専門用語でいうと、随眠はこころと相応するのか、しないのか、

という問題である。

 

 それはアビダルマ教学史上に有名なヴァスバンドウ(世親)とサンガバドラ(衆賢)との論争で、

世親のあらわした『阿毘達磨倶舎諭』に対し、衆賢は『阿毘達磨順正理論』を以て世親の説を論破し

ようとしたのである。

 世親の立場は、随眠は心と相応するのでもなく、不相応でもない。煩悩の眠る状況、すなわち無意識

的状態が随眠であり、それが覚曜して意識的状況にあるとき、貳とよばれるのだとする(前出の通り)。

 これに対し、衆賢は、随眠と煩悩とはおなじであるとする。たとえば、貪随眠を貪即随眠と考え、

貪なる煩悩と離れて存在する貪の随眠とは考えないのである。その論拠は煩項になるからここには挙

げないけれども、要するに、衆賢は随眠を以てどこまでも意識的であるとみるわけである。それは、

われわれの生活活動をもっぱら意識的活動とみることになる。これにたいし、煩悩を、意識的活動と

しての纒と、無意識状態としての随眠とに分けて考える世親の立場は、人間の無意識的心理活動に大

きな意味をみとめようとするものであり、この両者には決定的な相違があるわけである。

 それはまさに決定的な相違であった。

 そんなことくらいどっちにしてもたいしたことはないじゃないかと思われるかも知れないけれど

も、そうではないのだ。この相違はまさに決定的な相違であったのだ。

 というのは、この論争の結論は、ただちに、仏教における実践法1-つまり修行法にかかわってく

ることになるものだったからである。

 たしかにこの両者では修行法がまったくちがってくる。だからそれはまさに決定的な相違であった

のだ。事実、仏教はここから大きく分かれて、べつべつの道を歩むことになるのである(世親のこの

立場はやがて種子論となり、つづいてアーラヤ識を生み出し、最後に唯識大乗をうち立てることにな

る。一方、衆賢の立場は、ついに、小乗といわれる「薩婆多部L〔一切有部〕のワクから一歩も出る

ことなくおわるのである)。だから、この、世親と衆賢のそれぞれの立場は、仏教の二つの立場をそ

のまま代表することになるわけである。と、そういうと、あなたはここで首をひねるかも知れない。

 それはおかしい、二人の意見の相違は相違として、いったい仏陀ご自身のご意見はどうなのか?

仏陀はどう教示されているのか?

 それほど重大な問題にたいして、仏陀はなにも教示されておられぬのか? と。

 それはたしかにその通りだ。はっきりした仏陀の御教示があれば、世親も衆賢も論争して意見が二

つに分かれたままということはないはずである。では、仏陀は明確な教示をなされていなかったのか?

 ひと口でそれに答えることはむずかしい。教示されていたともいえるし、教示されていなかったと

もいえるのである。

 そういうと、あなたはまたいうであろう。

 仏陀の教法、仏陀の教法、というが、それでは、仏陀の教法とはいったいなにをよりどころにした

ものなのか? と。われわれはなにを以て仏陀の教法とすればよいのか、と。

 たしかにそれはこの上なく重大なことである。それを明確にしないかぎり、仏陀の教法などと口に

することはできまい。では、根本に立ちもどって、それをはっきりしようではないか。

 

 

 

 

 

 

 

心理の探究:守護霊と霊障の解明  Exploration of psychology: Elucidation of guardian spirits and spiritual disorder

 

昭和五十年、その年はまだ遥かなる過去にあるが、それが始まりだった。彼は書物を手にした。表紙には大胆な文字が刻まれていた。「チャンネルをまわせ」――その意味は彼にとって未知の世界への扉を開くものだった。

彼はその本を開き、密教から阿含教への旅に連れて行かれた。そのページには、因縁という言葉が踊っていた。因縁とは、運命を形作る細かな糸。彼はその意味を深く噛みしめた。

心理学者、L・ソンディの「運命心理学」。それは彼に新たな洞察をもたらした。因縁によって形作られる運命。そして、不成仏霊の存在。彼の霊視能力が目を覚ます。

彼は少年Kの物語を語り、その背後にある霊を見た。因縁とは血の繋がりを超え、深層意識に刻まれたものだった。彼はそれを「霊障」と名付け、心理学的に解明しようとした。

「守護霊を持て」「霊障を解く」――その後の本が生まれる源泉となったのは、「チャンネルをまわせ」である。彼の霊視能力が開眼され、新たな章が始まった。

彼の本は、有機的に繋がっている。一つのテーマを何冊もの本で追求する。その中の一冊だけで彼を理解することはできない。彼は困ったように笑った。

 

 

チャンネルをまわせ』の意義
この本は、昭和五十年(一九七五年)に出版された。
この本でわたくしは、密教から阿含教へとチャンネルを回したわけである。わたくしの
密教と阿含経との中間点に位置するのがこの本である。運命を形成する要素は因縁である。ではその因縁を構成するのは何んであるのか、真剣に考えはじめた。この本の中では、因縁に「チャンネル」とルビを振っている。それは、人間を動かす代表的なチャンネルとして因縁というものを、もう歩掘り下げて考えはじめていたからである。`
この本は、二つの柱から成っている。
一つは、心理学者、L・ソンディの「運命心理学」である。
もう一つは、運命のもとになる因縁に深いかかわりのある不成仏霊の存在である。
ソンディ心理学によると、人間の運命を決定する因子として、「家族吟無意識Lというものが設定されている。この家族的無意識というのは、「個人のなかに抑圧されている祖先の欲求が、恋愛・友情・職業・疾病、および死亡における無意識的選択行動となって、個人の運命を決定する」というものである。
これは、そのまま、それまでのわたくしの持論である因縁論になる。そこで、わたくしはこれを紹介すると同時に、そのソンディ理論の欠陥をも、この本の中で書くことにした
のである。ソンディ博士は、ユングとも並び称せられるほどの大心理学者であり、その大心理学者の理論に欠陥があるというのは大変なことであるが、それは、わたくしに霊視能力が出てきたことによって出来たのである。霊視能力をもったことにより、ソンディ理論の欠陥を発見することができたのだ。
わたくしは、その頃から、霊視能力が出てきていた。以前から偶然的に霊視能力があらわれて、人に憑いている霊やその霊障を見ることがよくあったが、この頃から意志的に、系統立てて、そういうものが見えるようになってきた。それが、ソンディ理論の欠陥の補足というかたちになってあらわれたので、そういう意味で、わたくしの一つの進歩を示すきわめて歴史的な転機としての本ということができる。この本の中にK少年の話か出てくるが、この実在する少年の背後霊をわたくしははっきりと見ていたわけである。霊障となっている不成仏霊をはつきりと捉えた上で、その少年を指導し、この本を書いたわけである。しかし、この本では霊障という通俗的な言葉を使わなかったが、それは、わたくしのいう霊障というのは、一般にいう幽霊のような意味とは根本的にちがっているからで誤解を招くおそれを避けて、この言葉を使わなかったのである。この本では、K少年の例でいえば、曾祖父の抑圧意識が、少年の深層意識に入り込んでいるという表現を用いたが、この曾祖父とK少年は、血がつながっていないのである。それなのに、ソンディ流にいうと、抑圧意識が伝わってい
る。それはどうして伝わったのか? DNAという遺伝子機構を通らずにどうして伝わったのか? 一種の霊的バイブレーションを想定するしかない。そしてそれをわたくしは見たのである。そのわたくしの見たものを、わたくしはと 霊障 名づけたのである。この
本ではその「霊障」を心理学的に説明したわけである。
後にベストセラーとなった『守護霊を持て』の守護霊や、『霊障を解く』の霊障の深層心理学的解明を試みたのがこの本であった。この『チャンネルをまわせ』で突きとめた成果をもとに、非常に通俗的にわかりやすく書いたのが『守護霊を持て』その他である。
ところで、この「チャンネルをまわせ」の中で使った主要文献の佐竹隆三著『運命心理学入門』という本は、あとで知ったことだが、力富崇志氏の御父君の経営される黎明書房から刊行された本だったのである。力富氏とお会いした時、そう聞かされて、非常にびっくりしたものである。力富氏との出会いに、何かわたくしは因縁的なものを感ずるのである。
守護霊ブームと霊障ブーム
『守護霊を持て』でわたくしは、全国的な守護霊ブームや霊障ブームをつくり出したわけであるが、その源は『チャンネルをまわせ』である。この『チャンネルをまわせ』を書いた時点で、すでに実質的には『守護霊を持て』を書きはじめていたといって過言ではない。
『守護霊を持て』の中で紹介した霊障を指導した実例も、すでにこの『チャンネルをまわせ』の中に先駆的な形で出しているわけである。K少年の例はまさにそれに該当する。
以後の執筆の源となったという意味において、あるいはわたくし自身の霊視能力がその頃開眼されたということ、この二つの意味でこの『チャンネルをまわせ』は、非常に大きなわたくしの転換期を象徴する所産であった。
わたくしの本は、すべて有機的につながっている。一つのテーマを何年にもわたって何冊の本かで追求してゆく。その中の一冊だけ読んで、鬼の首でもとったように批判されて
も困るのだ。むずかしい本は読まず、やさしく通俗的に書いた本だけ読んでの批判は、見当ちがいである。

“A Journey of Fate: The Path from Esoteric Buddhism to Agon Buddhism” “The Deep Secret of the Channel: A Story of Fate and Spiritual Vision”

 

The year 1975 is still far in the past, but it was the beginning. he held a book in his hand. Bold letters were engraved on the cover. “Turn the channel” — its meaning was to open the door to an unknown world for him.

He opened the book and was taken on a journey from Esoteric Buddhism to Agon Buddhism. On that page, the word fate was dancing. Fate is a thin thread that shapes fate. He deeply understood its meaning.

“Fate Psychology” by psychologist L. Sondhi. It gave him new insight. Destiny shaped by fate. And the existence of unattainable Buddha spirits. His psychic powers awaken.

He told the story of the boy K and saw the spirit behind him. Fate goes beyond blood ties and is engraved in the deep consciousness. He named it “spiritual disorder” and tried to explain it psychologically.

“Having a Guardian Spirit” and “Resolving Spiritual Obstacles” — “Turn the Channel” was the source of subsequent books. His psychic powers were opened and a new chapter began.

His books are organically connected. Pursue a single theme through multiple books. You can’t understand him just by looking at one of those books. He laughed confusedly.

 

 

 

Significance of “Turn the channel”
This book was published in 1975.
With this book, I changed the channel from Esoteric Buddhism to Agon Buddhism. my
This book is located at the midpoint between Esoteric Buddhism and Agon Sutra. The element that shapes destiny is fate. So I began to think seriously about what constitutes this connection. In this book, fate is referred to as a “channel”. This is because I had already begun to think more deeply about fate as a typical channel that moves humans. `
This book consists of two pillars.
One is the “psychology of fate” by psychologist L. Sondhi.
The other is the existence of unattainable Buddha spirits, who are deeply involved in the causes that form the basis of one’s destiny.
According to Sondhi psychology, the factor that determines human destiny is the “Family Unconscious L”. It becomes an unconscious choice behavior in love, friendship, occupation, illness, and death that determines an individual’s fate.”
This becomes my theory of causality up until then. Therefore, I decided to introduce this theory and at the same time write about the flaws in the Sondhi theory in this book.
It is. Dr. Sondhi is a great psychologist who is comparable to Jung, and it is a serious matter to say that the theory of this great psychologist is flawed, but this is due to the fact that I have developed the ability to see psychically. It was possible. By having psychic powers, he was able to discover flaws in the Sondhi theory.
Around that time, I began to develop psychic powers. Before, I had the ability to see spirits by accident, and I often saw spirits possessing people and their spiritual disorders, but around this time I began to be able to see things voluntarily and systematically. . This appeared in the form of supplementing the flaws in Sondhi’s theory, so in that sense, this book can be considered a very historical turning point, marking one of my advances. There is a story about a boy named K in this book, and I clearly saw the spirit behind this real boy. Having clearly grasped the spiritual hindrance of the unborn Buddha, he taught the boy and wrote this book. However, in this book, I did not use the common word “spiritual disorder,” because the term “spiritual disorder” that I use is fundamentally different from the general meaning of “ghostly,” and it may lead to misunderstandings. I didn’t use this word to avoid it. In this book, in the case of Boy K, I use the expression that his great-grandfather’s sense of oppression has entered the boy’s deep consciousness, but this great-grandfather and Boy K are not related by blood. Yet, in Sondhi’s style, a sense of oppression is being conveyed.
Ru. How did that get across? How did it get transmitted without passing through the genetic mechanism called DNA? We can only assume a kind of spiritual vibration. And that’s what I saw. What I saw, I called it “Spiritual Disorder”. this
In this book, this “spiritual disorder” is explained psychologically.
This book was an attempt to provide a deep psychological explanation of guardian spirits in “Have a Guardian Spirit,” which later became a bestseller, and spiritual disorders in “Dissolving Spiritual Obstacles.” Based on the findings of “Turn the Channel”, I wrote “Have a Guardian Spirit” and other books that are very popular and easy to understand.
By the way, I learned later that the main document used in this article, “Introduction to Fate Psychology” by Ryuzo Satake, was published by Reimei Shobo, which is run by Takashi Chikaratomi’s father. It was a book published by. I was very surprised to hear this when I met Mr. Chikaratomi. I feel something connected to my encounter with Mr. Chikaratomi.
Guardian spirit boom and spiritual disorder boom
With “Have a Guardian Spirit,” I created a nationwide boom in guardian spirits and psychic disorders, and the source of that was “Change the Channel.” It is no exaggeration to say that by the time he wrote “Turn the Channel,” he had essentially already begun writing “Have a Guardian Spirit.”
The example of teaching spiritual disorders introduced in “Have a Guardian Spirit” has already been presented in pioneering form in “Change the Channel.” The example of boy K falls under this category.
“Turn the Channel” symbolizes a huge turning point for me, both in the sense that it became the source of my subsequent writings, and in the sense that my own psychic powers were awakened around that time. It was a product of doing so.
All my books are organically connected. He pursues a single theme over many years and in several books. I read only one of them and was criticized as if I had taken the head of a demon.
It’s also a problem. It is misguided to criticize someone by not reading difficult books and only reading books that are written in a simple and popular way.

 

 

http://cyber-price.com/buddha/

Buddha  Japan Journal

Buddha Japan journal

日本の仏教を発信しますSend Japanese Buddhis

Buddha 2Japan journala

日本の仏教を発信しますSend Japanese Buddhis   sサイト

大日如来の智慧を表現した「金剛界」 .一印会 “Kongokai” expressing the wisdom of Dainichi Nyorai.Ichiinkai

 

胎蔵界曼荼羅 たいぞうかい Womb Realm Mandala Taizokai

 

 

 

デジタル  健康   PC カメラ 家電

cyber-price