準蹄観世音菩薩 ― 覚醒譚 ―
― 六道を越える白き手 ―
夜の雨が、静かな山寺の石畳を濡らしていた。
軒下に立つ青年・真輝(まき)は、胸の奥に言いようのない重さを抱えていた。
「どうして、救いたいと願うほど、苦しみが増えていくのか……」
人を助けたいと願いながら、現実の中で何も変えられない無力感。
それは、慈悲そのものが試される夜であった。
そのとき――
堂内の奥から、白い光が静かに満ち始めた。
六本の腕の影
仏堂の奥、月光に照らされた曼荼羅の中に、
一尊の菩薩が、まだ眠るように佇んでいた。
準蹄観世音菩薩――
六臂(ろっぴ)をもつ観音。
六道に迷う衆生を、六つの智慧の手で救う存在。
しかし、その像はまだ「眼を閉じて」いた。
目覚めていない仏。
覚醒を待つ慈悲。
真輝は、なぜかその前から離れられなかった。
仏眼仏母の囁き
香の煙が揺れる中、
堂内の空気が、ふと変わった。
「その苦しみを、見ることから逃げるな。」
声は、外からではなかった。
内から――
心の奥の奥から響いてきた。
真輝の意識の奥に、
仏眼仏母の微笑が、静かに浮かんだ。
「慈悲とは、救う力ではなく、
真理を“見る眼”を与えること。」
その瞬間、
準蹄観世音菩薩の像の胸元に、淡い光が灯った。
六道の夢
真輝の意識は、深い夢へと沈んでいった。
彼は、六つの世界を巡っていた。
地獄道――
怒りに燃える者たちが、互いを焼き尽くそうとしていた。
餓鬼道――
満たされぬ欲に喉を焼かれ、飢えに苦しむ魂たち。
畜生道――
恐怖と支配の連鎖の中で、ただ生き延びるために生きる存在。
修羅道――
誇りと競争に縛られ、永遠に戦い続ける者たち。
人間道――
希望と絶望の狭間で揺れ動く者たち。
天道――
喜びの中にありながら、やがて堕ちることを忘れている存在。
そのすべてに、同じ問いがあった。
「私は、なぜ苦しいのか。」
白き六手の覚醒
そのとき、六つの光が現れた。
怒りの世界には、柔らかな手が怒りを抱きとめ、
欲の世界には、空を示す手が欲をほどき、
恐怖の世界には、勇気を授ける手が触れ、
争いの世界には、和合を示す手が現れ、
人間の世界には、希望を指し示す手が伸び、
天の世界には、無常を悟らせる手が静かに掲げられた。
それが、準蹄観世音菩薩の六臂であった。
「救いとは、引き上げることではない。
気づかせることだ。」
六つの手が、同時に光を放った瞬間――
真輝の胸に、ひとつの確信が生まれた。
「苦しみを消そうとしなくていい。
苦しみの意味を、共に見ることこそ、慈悲なのだ。」
開眼
夢から覚めると、
堂内の準蹄観世音菩薩の像の眼が、静かに開かれていた。
六臂は、まるで今にも動き出すかのように、
空間そのものを包み込んでいた。
僧の声が、背後から響いた。
「準蹄観音は、六道を超える慈悲の象徴。
その覚醒は、誰か一人の心の目覚めと共に起こる。」
真輝は、自然と合掌していた。
準蹄観音の言葉
そのとき、堂内に、柔らかな声が満ちた。
「私は、苦しみを消す者ではない。
苦しみを、目覚めへと変える者。」
「私の六つの手は、六つの世界を抱く。
だが、七つ目の手は――
“見る眼”を持つ者自身の心にある。」
真輝の胸の奥で、何かが、静かに開いた。
それは、力でも、奇跡でもなく、
“逃げずに見る”という覚悟であった。
結び
その夜から、真輝の生き方は変わった。
苦しみを取り除こうと焦るのではなく、
苦しむ人の隣に座り、
共に見ることを選ぶようになった。
それこそが、
準蹄観世音菩薩の覚醒を、この世界に定着させる行であった。
堂内の曼荼羅では、
仏眼仏母が静かに微笑み、
一字金輪仏頂が輪宝を掲げ、
そして準蹄観音は、六臂を広げて、
すべての世界を包み続けていた。






