愛染明王 ― 欲望転生譚
― 燃える欲は、堕落か、それとも覚醒か ―
街の灯りが、雨に滲んで揺れていた。
人波の中を歩きながら、真輝は胸の奥に、
不動明王の炎とは異なる熱を感じていた。
怒りは断てた。
恐れも見つめられるようになった。
だが――欲だけは、消えなかった。
「望むこと自体が、迷いなのだろうか……」
その問いは、夜の街に吸い込まれた。
紅蓮の座
ふと、真輝の視界が、深紅に染まった。
気づけば、彼は曼荼羅の中に立っていた。
赤く燃える蓮華の上に、一尊の明王が座している。
愛染明王――
紅蓮の火焔に包まれ、
弓と矢を携え、
怒りとも微笑ともつかぬ表情で、
静かに彼を見つめていた。
「欲を、否定するな。」
その声は、炎のようでありながら、
どこか甘美で、やさしかった。
欲の正体
「欲は、人を縛り、苦しめます。」
真輝は、率直にそう告げた。
愛染明王は、紅蓮の炎の中で、静かに頷いた。
「欲は、未熟なまま放てば、鎖となる。
だが、目覚めた欲は、翼となる。」
「欲とは、ただの執着ではない。
それは、“生きたい”“つながりたい”“意味を見出したい”という、
魂の叫びだ。」
その言葉とともに、
真輝の胸に、過去の記憶が浮かび上がった。
誰かに認められたかった。
愛されたかった。
役に立ちたかった。
孤独が、怖かった。
それらすべてが、
欲の姿をして、彼の人生を動かしてきた。
欲望の炎
愛染明王は、弓を引いた。
その矢は、炎でできていた。
「この矢は、欲の矢。
人の心を貫き、世界へ向かわせる力。」
「だが、どこへ向けるかは、
“見る眼”を持つ者に委ねられる。」
矢は、真輝の胸に放たれた。
痛みはなかった。
ただ、熱が、静かに広がった。
欲は、消えなかった。
だが、それはもはや、
衝動でも、衝突でもなかった。
それは、方向を持つ意志へと変わっていた。
欲から願へ
真輝は、膝をついた。
「では……私は、何を願えばいいのでしょう。」
愛染明王は、炎の中で、穏やかに微笑んだ。
「欲は、自己のために燃える。
願は、他者のために燃える。」
「欲を否定せず、
それを願へと昇華せよ。」
その瞬間、
真輝の中の“欲”は、形を変えた。
認められたいという欲は、
誰かを認める力へ。
愛されたいという欲は、
誰かを愛する勇気へ。
孤独が怖いという欲は、
誰かの孤独に寄り添う慈悲へ。
欲は、滅びなかった。
欲は、転生した。
仏眼仏母の眼
曼荼羅の奥に、
再び、仏眼仏母の眼が現れた。
「見る眼が開かれたとき、
欲は、煩悩ではなく、菩提心の燃料となる。」
愛染明王は、深く頷いた。
「私の炎は、焼くためにあるのではない。
照らし、動かし、世界を愛へと向かわせるためにある。」
結び
雨は、いつの間にか止んでいた。
街の灯りは、以前と変わらない。
だが、真輝の心は、確かに変わっていた。
欲を、抑え込むのではなく、
導くこと。
欲を、恥じるのではなく、
目覚めさせること。
それが、愛染明王の教えであった。
夜風の中で、
紅蓮の炎が、彼の胸に、静かに燃え続けていた。




