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第三章 開開発――第三の目をひらく184

らなかった。配釘を越えて深くあざやかに面をとられたときは、目からバッと火が出て、ブーンときなくさいにおいを嗅いだ。ほんとうに目から火が出るのである。けっして形容詞ではないのだ。これは剣道修行の体験者ならばみなご存知のはずである。 その火なのだ。そのとき私の視野をかすめた光は――。

めんがねしばらくしてわれにかえった私はそれに気がついたのだった。そうだ。あの火はあのときの火とおなじだ。そして目から火が出ると同時に面金のなかでかいだあのなつかしいキナくさいにおいもいっしょにかいだような気がしたのだが――、しかし、『目から火が出るほどのこの衝撃は、いったいどうしたということであろうか? 外部から私の頭部を打ったものはなにひとつない。すると、私の頭の内部でなにごとがおこったというのであろうか。それともあれはなにかの錯覚であったのか?

私は、ふたたび一定のポーズをとり、頭をある角度からある角度にしずかに移しつつ特殊な呼吸法をおこなって、定にはいっていった。と、なんの予告も感覚もなしに、さっきとおなじ場所に火を感ずるのである。同時に頭の深部にある音響が聞こえはじめた。私は、またさっきの電撃に似た痛覚を頭の一角に感じるのかとひそかにおそれつつ、少々、「おっかなびっくり」にそれをやったのであったが、今度はぜんぜん痛みもなにも感じなかった。そうして顔の内奥の上部に『明星』がふたたびまたたいた。

脳の内部に一大異変が生じていることにはまちがいはなかった。しか

めがそろう異変であろうか?

それは一時の化学反応によるショックであったのだ。

んのう脳の深寒、「視床下部」に異変が起きたのである。すべての秘密は、間脳の内部の視床下部にあった。ここが秘密の原点だったのである。

私がさきの章で内分泌腺の機構について図までかかげて説明したのは、これを知ってほしいためであった。専門学者はさぞかし片はらいたく思われるのにちがいなかろう。それを承知でおくめんもなく素人の私があえてそれをしたのは、この視床下部の秘密を読者に知ってほしいためであった。図(一八八ページ)を見ればわかる通り、すべての内分泌腺を統御しているのは視床下部である。そしてここが、ヨーガでいうブラーマ・ランドラ(梵の座)であり、サハスララ・チャクラなのである。今までのヨーガの指導者のいうように、それは、松果解、松果体ではない。視床下部が、サハスララ・チャクラなのである。もっとも、視床下部のすぐそばに松果体があるので、それを見あやまったのであろう。もっとも、松果体自身もある重要な役わりを受けもつ。けれども、サハスララ・チャクラそのものは松果腺ではなく、現床下部であった。

視床下部はいまいったように、下至体系を通して全内分泌器官を統御する。それでは、な

にをもって統御するのかというと、もちろんそれは神経」である。したがって視床下部には重要な神経がたくさん集まっている。私は、古代ヨーガのなかから、この部分を動かすボーズとムドラーを創案してここにつよい圧力をくわえ、同時に、強烈な思念(含力)を集中していた。百日のあいだ、たえまなく、私はここに、物質的、精神的、両面にわたるつよいエネルギーを集中した。その結果、ここの神経線維に一大異変が生じたのだ。その異変により、神経線維が異常分泌をおこしたか、それともそこにある分泌液、神経液に変化がおきたのか、そのいずれであるかはわからぬが、それらの分泌液が複雑に混合し合って、化学反応をおこしたのだ。あの火は、その化学反応による衝撃が、視床の神経をはげしく打って、間に聞光を走らせたのだ。その衝撃はここの神経線維にシナプスをむすび、その火はいつでも私の思うまま私の脳の内奥に明星をまたたかせることとなった。同時に私の脳の構造も一変した。求聞持聡明法の成就である。求聞持聡明法とは、脳の内部の化学反応による脳組織の変革であったのだ。

視床下部の生理学的機構

による) では、視床下部の機構を生理学的にみてみよう。(図説「内分泌病への手引」土屋雅春、他著

解剖

視床下部は間脳の一部で、視床の腹側にある。

6=生理

視床下部は体温、循環、新陳代謝、外分泌、平滑筋などの諸機能の調節をつかさどるほかに、内分泌腺の統御の場として重視されている。内分泌腺調節機序としては、神経性調節 (交感・副交感神経)②体液性調節とがある。

下重体後葉のパゾブレシン、オキシトシンが視床下部の視索上核や室旁核の神経分泌により支配されていることが示され、最近は下垂体前葉が次に記すような各種の分泌促進因子 releasing factor の支配下にあることが知られてきた(次ページの図参照)。

1、ACTH分泌促進因子(CRF)

2、甲状腺刺激ホルモン分泌促進因子(TRF)

3、ゴナドトロビン分泌促進因子(FSH-RF、LRF)

4、成長ホルモン分泌促進因子(GRF)

5、prolactin 分泌抑制因子(PIF)

以上のように視床下部は生体のホメオスタージス調整、末梢内分泌腺の統御の場として現在脚光を浴びているのである。(以上同書)

運動失調症

意識障害(々の程度の意識障害、せん妄、腹膜など)

幻覚(幻覚、幻、幻臭、異常身体感覚など)

感情の変化(抑うつ、衝動行為、多食多飲、性欲亢進、喜怒哀楽の変化など)

人格の変化

精神状

(以上、「内分泌病への手引」による。傍線は桐山)

このなかでとくに注目をひくのは、「眼の異常」と、「人格の変化」である。いろいろな精神尾状が起こるところであるから、人格の変化が起きるのも当然であるという論も出そうであるが、精神症状や神経症状と「人格の変化」ということはまったくちがう。精神症状や神経症状というのは病的なものを意味するが、人格の変化はかならずしも病的なものとはかぎらない。病的症状をともなって人格の変わることももちろんあるが、病的症状をともなわず

して人格が一変することもある。

 

『あかことを学もみとめているのであ

としてこれを用い、人格の転換に利用するのでの状態(税抜)であるが、もしこれを

あり、さを生ずるように用いたら、どんなよが生ずるであろうか? プンアリベースの原動力」という人への制

の場ELTZ社を用いるのである。

では、世界はどのようにしてそのよ転換をなのであるか?

のでた「買」の解消がこのとき登場するのである。

学费接ある、ともいわれて、内分泌のひとつにかぞえられるけれど、これ内線としてのはたらきをしているということに疑問を持つ学者も多人そのはたちにチンとされているのである。どういうはたらきをする器官なのわはっきりしていないのだ。この松果体は、成人になると石灰化して、「ゆ」とよおリン酸カルシウムとリン酸マグネシウム、および炭酸カルシブブネンワの主成分とするのであるが、その機能は、これまた、医学はまったく用されていない。人体にどういう役にたっているのか全然わか

 

っていないのである。この脳砂に、脳内分泌液中の特殊な酵素がはたらきかけて、反応作用を起こすのである。その酵素は、今まで脳のなかにあった酵素が突然にその成分に変化をおこしたのか、それとも、まったく新規に分泌されるようになったものか、その点ははっきりしない。私は、その両方である、と考える。密教の特殊な訓練が、今まで眠っていた脳神経。

脳細胞の器官を刺激して、あらたな神経分泌をうながし、それがまた、今までの神経液を刺激して複雑な化合分離をおこない、あたらしい成分をつくり出す、という一種の連鎖反応がそこでおこなわれたのである。それは私の勝手な独断ではない。視床下部における、きわめて強力な活性を持つさまざまな神経体液性物質の存在が、最近、つぎつぎと報告されている。

「視床下部――基礎と臨床――」(、)は、この部門における最高の権威を持つ書物

であるが、『視床下部における神経体液性物質の分布』という章で、

『神経体液性物質の薬理学的、酵素化学的本態については、定量法の進歩と相まってかなり

明らかとなったが、さらに最近、組織化学的方法が導入され、生体内の神経組織がネウロン単位で詳細にその神経作動を云々されるにおよび、自律神経に関する神経体液学説、研究は、ここ数年、急速な発展を示すにいたった』

と述べ、きわめてつよい活性を持ったいくつかの合成酵素、分解酵素、化学伝達物質が、 視床、視床下部、延髓に高濃度に含まれていて、高度で複雑な化学作用がいとなまれている

第三章間開発――第三の目をひら194

 

 

第三章 開開発――第三の目をひらく184

空を悟る四念処法

空を悟る四念処法(念林工)

さて、それでは念根・定根・慧根とはどのような修行法でしょうか?

経文の続きを読みましょう。

何等為念根。若比丘。内身身観住。

慇懃方便。正念正智。調伏世間食憂。

外身内外身受心法法観念住。亦如是說。是名念根。何等為定根。若比丘。 離欲惡不善法。有党有観。離生喜楽。 乃至第四禅具足住。是名定根。何等

為慧根。若比丘。苦聖諦如実知。苦

集聖諦。苦滅聖諦。苦滅道跡聖諦。

如実知。是名慧根。仏説此経已。諸

比丘聞仏所説。歓喜奉行

しんかん 「何等をか念根と為す。若し比丘よ、内身の身観に住し、 感態に方便し正、念正、智もて世間の食憂を調伏し、が射・だが射の念・心・法の法観念に住するも亦是の如く説く。是れを念根と名づく。何等をか定根と為す。若ししょうたいじっめつどうしやくしようたい比丘よ、欲惑不善法を離れ、有覚有観、離に暮・楽を生じ、乃至第四禅具足して住する。是れを定根と名づく。 何等をか慧根と為す。若し比丘よ、苦聖諦に実の如く聖諦に実の知り、苦集聖諦・苦聖諦・苦滅道跡如く知らば、是れを慧根と名づく」と。仏此の経を説き己りたまいしに、諸の比丘、仏の説かせたまう所を聞きて、歓喜し奉行しき

 

現代語訳

「念根とはなんでしょうか?

比丘たちよ、内身・外身・内外身の身観に住し、法にかなった正しい方法による正念と正智によって世間の貪りと憂いを調伏し、受観と心観、また法観においても同様に観ずるのが念根です。 定根とはなんでしょうか?

定根です。 比丘たちよ、煩悩や不徳から離れて初禅に入り、覚・観および喜・楽などの定を修めて第二弾・第三弾と進み、欲から完全に離脱して、最終的に第四禅に到達し、その境地に住するのが、

意根とはなんでしょうか?

比丘たちよ、苦しみと、苦しみの生起の原因と、苦しみ(とその原因)を滅ぼすことと、苦しみ(とその原因)を滅ぼす方法に関する、聖なる悟りを如実に体得することが慧根なのです」 というように、比丘たちはこの仏さまの説法を拝聴して大いに喜び、修行に精進しました。

解説

三、念根

念根では、四念処法(四念観・『然街)を行います。四念処法は空を悟るための四つの深い眠想法から成り立っています。その四つの瞑想法とは、身観・気・・法観です。瞑想の具体

的な方法は、実地で指導しなければいけませんが、とりあえず簡単に説明いたします。

(1)身観(身念処・身念住)

じようかん身観とは不浄観です。「身体は不浄なり」と見るわけです。「我が身は不浄なり」という観想からスタートして、深く瞑想していきます。

(2)受観(受念処・受念住)

受観とは苦観です。受とは感受作用ですが、この感受作用が苦であることを観想し、瞑想していきます。「受は苦である」という瞑想、これが受観です。

(3)心観(心念処・心念住)

心観とは無常観です。「心は無常なり」と瞑想していきます。

(4)法観(法念処・法念住)

「法の法観念」とは法観です。法観とは、「法は無我(非我)なり」と観じる瞑想です。この場合の法とは、この世の中のすべての存在のことです。この世の中のすべての存在、森羅万象すべてのものをサンスクリット語でダルマ(パーリ語はダムマ)=法といいます。すべての存在は一つの法則に則って現れてきますから、これを法と呼ぶわけです。それらに対していろいろと深い瞑想をして、その実相を探っていくのが「法の法観念」、法観です。

わたくしはこの四念処法が得意ですが、学者が書いた文献によると、四念処法は非我観だと解説されております。しかし、わたくしはこれを空観というべきだと思います。非我観では分かりにくいですね。四念処法によって、人は空に到達するのです。

四念処法の四つの瞑想法は、一つ一つが独立しているのではありません。まず身体を不浄と見て、そこから進んで受観に移る。ここで感受作用(受)は苦である、と見るわけです。それから、 心観に進む。心観は無常観ですから、これによって、心は常に変化してとりとめがないことを悟ります。心は常住のものではないことを体得するわけです。そしてさらに法観という「無我(非我)の観」に入り、あらゆるものは空である、という境地に到達するわけです。その観想を内身・外身・内外身のそれぞれにおいて、深く観じていきます。内身・外身・内外身については、 実際に指導をする際に教えます。このように、四念処法の瞑想は一つ一つが独立しながらも、関連しあって空を体得するシステムになっています。

ないのです。 お釈迦さまは、簡単に説明されているだけですが、これは言葉では表現しきれないからでしょう。人知を超えるための瞑想の仕方など、とても筆舌にはつくせません。実習の際に教えるしか

 

 

体力と精神力の強化法(念根Ⅱ)

それから、わたくしは自分の修行経験からいって、念根には強い念力を持つという修行が含まれていると思います。たとえばクンダリニー・ヨーガなどによって、非常に強い精神力を身につける修行です。タフで図太い神経を持たなければ、とても修行を成就することなどできません。 念根はくだらないことにくよくよせず、小さなことにとらわれないような、強靭な精神作用を持つ修行でもあるのです。

四念処法と念根がまったく同一であるならば、四念処法を五根法とは別に立てる必要などないでしょう。四念処法として独立させずに念根だけでよいわけです。それなのに四念処法とは別に五根法の中に念根が立てられているのは、念根が四念処法以外の要素を持つからだ、とわたくしは思います。その要素が念力を強くすることなのです。

念力を強くするには、精神力を非常に強くしなければいけません。しかし強い精神力を持つには、強靭な体力が必要です。それなくしては精神力は強くなりません。これは諸君も日常的に体験するはずです。どれほど精神力に秀でた人でも、たとえば歯が一本痛ければ精神を集中するどころではありません。わたくしも若いころに荒行をしたおかげで、誰にも負けないほどの集中力を持っていますが、やはり歯が痛かったり、おなかが痛かったり、あるいは風邪をひいて熱がある時などは、集中力が著しく低下します。その中でもいちばんイヤなのは、歯痛ですね。歯の痛みというのは、とにかくつらいものです。痛くて痛くて集中するどころではありません。

 

「月二集中するどころではありません。

早い話がトゲが一本刺さっても、集中なのです。ですから内が

欠陥があると、どれほど精神力を奮い立たせようとしても、強い念力は生じません。受所は初な体力を身につける修行でもあるのです。強靭な体力を持ち、その体力によって強靱な精神を持つ。図太いくらいの精神力や神経を持たなければ、とても修行などは続きません。か細い神軽で成仏などできるわけがないのです。年中くよくよ考えている、ノイローゼの仏さまなんていないのですから。ノイローゼを治す仏さまはいても、ノイローゼになってくよくよしている仏さまなどいないでしょう?

わたくしたちは因縁解説・即身成仏を目指しているわけですから、図太いくらいの神経が必要です。そうでなければ修行などとてもできません。図太いというと語弊がありますが、要するに、 くよくよ悩んだり苦しんだりしてもしようがないことは、苦しんだり悩んだりしない人間になるということです。

けれども無神経とは違いますよ。悩まなければならないことは、悩んでもよい。しかし悩んだってしかたがない時には悩まないのです。どうしょうもないことは悩まないで、ぱっと忘れてしまうわけです。ほかしてしまうのです。放ったり捨てておくことを、関西では「ほかす」といいますね。漢字では「放下す」と書きます。禅宗では同じ字を書いて、「放下(ほうげ)する」と読みます。バァーッと放ってしまう、ほかしてしまう、捨ててしまうのです。なにを捨ててしまうのでしょうか?

心の中のこだわりを、バッとほかしてしまうのです。心配したってしかたがないことは、どれほど心配なことであってもほかしてしまうのです。心配して効果があるのならば、いくらでも心

配するけれども、心配したってしかたがない時には心配しないのです。

なにごとにも動じない精神力を持つには、前述のように、やはり強靱な体力が必要です。体が弱かったり、病的なところがありますと、どうしても修行が正しく進んでいきません。そこで頓押します。少し入り組んだ瞑想を始めると頭やおなかが痛くなります。女性ではヒステリー症状を起こす人もいます。ですからクンダリニー・ヨーガなどによって、チャクラやクンダリニーを覚醒させる訓練を行い、強靭な体力・知力・精神力を養うのです。その強靭な念で、四念処法の深い瞑想に入り、空を体得する。これが念根です。

また、身体の不調・精神の不安定の根本には悪因縁がありますから、クンダリニー・ヨーガなどの訓練と同時に、解脱宝生行で悪因縁を切っていくことが大切です。悪い因縁をそのままにして深い眠想などはできないのです。因縁解脱の修行をして、体の因縁、心の因縁をはじめとしたすべての因縁を切りながら、念根の修行を進めていかなければならないのです。

ムダがありません。 因線を切るには徳を積む必要がありますから、前述の精進根によって過去の不徳を消すための梵行をすることが肝要です。お釈迦さまの成仏法はじつにすばらしいシステムです。まったくの

わたくしは四念処法が得意ですが、それだけをわたくしから教わろうというのは無理な相談です。テクニックだけ教えても、徳のない人は法をつかむことができません。なにがなんだか分からなくなって、まいってしまうのがオチです。したがって、信根と精進根を修行しながら、念根の修行を進めていくわけです。

 

十二支ごとの守り本尊(守護仏)は、千手観音(子)、虚空蔵菩薩(丑・寅)、文殊菩薩(卯)、普賢菩薩(辰

十二支ごとの守り本尊(守護仏)は、千手観音(子)、虚空蔵菩薩(丑・寅)、文殊菩薩(卯)、普賢菩薩(辰・巳)、勢至菩薩(午)、大日如来(未・申)、不動明王(酉)、**阿弥陀如来(戌・亥)**の8尊で、生まれ年の干支(えと)によって定められ、一生涯の厄除けや開運を祈願する仏様です。これらは「八体仏」とも呼ばれ、古くから信仰されてきました。

    • 子(ねずみ):千手観音菩薩 (せんじゅかんぜおんぼさつ)
    • 丑(うし)・寅(とら):虚空蔵菩薩 (こくうぞうぼさつ)
    • 卯(うさぎ):文殊菩薩 (もんじゅぼさつ)
    • 辰(たつ)・巳(へび):普賢菩薩 (ふげんぼさつ)
    • 午(うま):勢至菩薩 (せいしぼさつ)
    • 未(ひつじ)・申(さる):大日如来 (だいにちにょらい)
    • 酉(とり):不動明王 (ふどうみょうおう)
  • 戌(いぬ)・亥(いのしし):阿弥陀如来 (あみだにょらい)

今日の運命 Today’s Fate 今日缘分  2025年12月10日

今日の運命 Today’s Fate 今日缘分  2025年12月10

乙巳 二黒土星 歳
戊子 一白水星 節
癸丑 二黒土星 日

二黒土星の日

 仕事の事、旅行の事、病人の事、などが出やすい日。こみいった事が多い。いそがしい割に成果は少ない。 短慮は禁物。いやな仕事も進んで引き受ける位の気持ちが大切

 

 

 

 

 

虚空蔵とは、無尽の寶庫であり、智慧や財寶を入れる蔵の意味です。虚空蔵菩薩は、はかり知れない智慧と 福徳を具え、常に人に与えて願いを満たす菩薩であられます。
頭に寶冠を付け、左手に福徳を表す如意寶珠を持ち、右手は与願印をされています。これがお姿の特色です。昔から、十三詣りといって、男女が十三才になると美しく着飾り虚空蔵菩薩の智慧をいただきに、お詣りをする習慣があります。

虚空蔵菩薩の功徳智慧を得んと浴せば智慧を、人に好かれたいと思えば衆の愛着を、役職や昇進、種々の資財、名声を得んと浴せば、それらみなことごとく適えられる。当寺の虚空蔵菩薩像総丈2m58cm(金銅造)虚空蔵菩薩のお詣りの仕方合掌礼拝し「南無虚空蔵菩薩」(又は真言「なうぼう、あきゃしゃ、ぎゃらばや、おんあり、きゃまり、ぼり、そわか」)と称え祈願する。丑年生れの人生指針虚空蔵菩薩を信仰し努力すれば、温順であるが内心は極めて夢想家であり、人々に愛され 大成することができる。

虚空蔵菩薩(こくうぞうぼさつ)とは?

  • 虚空蔵とは宇宙のような無限の智慧と慈悲の心が収まっている蔵(貯蔵庫)を意味し、人々の願えを叶えるために蔵から取り出して智慧や記憶力、知識を与えてくれるとされています。

 

真言宗の開祖・弘法大師は虚空蔵菩薩の真言を100万遍唱えるという虚空蔵求聞持法(こくうぞうぐもんじほう)を行ったそうですよ。無限の記憶力がつき、仏の智慧を体得することができるといわれています。求聞持法の本尊像のほかに、増益(ぞうやく)や除災を願って行う修法の本尊である五大虚空蔵菩薩があります。これは虚空蔵菩薩の持つ智慧を5方に配し、金剛界五仏の変化した姿としたものです。

ご利益

成績向上、記憶力増進、頭脳明晰、商売繁盛、技芸向上のご利益があります。また、丑・寅年の守り本尊です。丑・寅年に生まれた人々の開運、厄除け、祈願成就を助けるといわれています。

 

虚空蔵菩薩(こくうぞうぼさつ)の像容

1つの顔に2本の腕を持つ、菩薩形の像です。右手に剣、左手に如意宝珠を持っているのが一般的です。五仏宝冠を戴いた坐像として表現されます。

 

虚空蔵菩  智慧と慈悲  Kokuzo Bodhisattva Wisdom and Compassion

 

夜の鐘が静寂を裂き
揺れる灯明、心を照らす
剣と宝珠、智慧を抱いて
無限の慈悲が空に溶ける

百万遍の声よ響け
星空が今、証人となる
虚空の蔵に願い託して
未来の光、ここに生まれる

IntrThe night bell shatters the silent air,
Flickering lights, a heart laid bare.
Sword and jewel, wisdom held tight,
Infinite mercy dissolves in the night.

A million chants, let the echoes soar,
The starlit sky bears witness once more.
To the void, our hopes and prayers we send,
A future’s light begins to ascend.

 

 

 

 

 

 

金剛の夜明け  Vajra Dawn Vajra Dawn

金剛の夜明け

Vajra Dawn

 

静寂の闇に ひとつ灯る息
揺らめく焔は まだ名を持たず
夜明け前の空が 魂を映して
震える心は ただ真実を待つ

Namosattanan
sanmyaksanmodaktinan
taniyata
on shaley shurei juntei
sowaka

恐れよ燃えろ 倶利迦羅の剣のように
嘘なき誓いは 護法尊の眼に問われ
この身が砕けても 逃げずに歩むなら
闇すら光となり 刃(やいば)となる

Namosattanan
sanmyaksanmodaktinan
taniyata
on shaley shurei juntei
sowaka

In the silent darkness, a single breath ignites,
A trembling flame with no given name,
Before the dawn, the sky reflects the soul,
A waiting heart quivers, longing only for truth.

Namo sattanan
Sanmyak sanmodak tinan
Taniyata
Om shale shurei juntei
Svaha

Burn, o fear—like the blazing Kurikara blade,
A vow with no falsehood stands before the Dharma Guard’s gaze.
Even if this body shatters, I will not turn away—
For even darkness can become light, and light become the sword.

Namo sattanan
Sanmyak sanmodak tinan
Taniyata
Om shale shurei juntei
Svaha