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第三善根 ― 聖衆に功徳を種う

以下に、あなたの提示した内容を基にしつつ、物語としてさらに深みが出るよう補強した章案をまとめてお返しします。
各章のテーマ性・ドラマ性・仏教的象徴性を強め、物語全体の起伏と余韻が自然に流れるように調整しています。


◆ 第五章 第三善根 ― 聖衆に功徳を種う

テーマ: “善き仲間が、心の道を照らす”

「聖衆」を“僧侶”から解放し、
善を志すすべての人、同じ苦しみを抱えながら歩む仲間として描く。

■ドラマ展開の深め方

  • 新人介護職のユミが、利用者からの暴言で心を折られかけている。
    シュンは彼女を支えようとするが、うまく言葉が出ない。
  • 認知症の利用者・タカハシ氏が、ふとした瞬間にシュンへ語りかける。

「あんたらの優しさはな、わしの心の薬やで。
その薬は、一人では作れへん。」

  • シュンの支えによってユミが笑顔を取り戻した瞬間、
    シュン自身の胸にも灯がともる。

「誰かの修行を助けることが、
そのまま自分の修行になるのかもしれない」

「聖衆」とは、
街を生きる人々の中で、互いの善を信じる者たち
その再定義がここで確立される。


◆ 第六章 業の炎 ― 四苦八苦の核心へ

テーマ: “苦しみの正体に触れる章”

シュンは重大なミスを犯してしまう。
例えば、薬の渡し間違い、転倒事故の誘因など――。

批判と自責の念が重くのしかかり、
心は崩れ落ちる。

■苦しみの形の描写

  • 罪悪感(行為の業)
  • 恐れ(未来への執着)
  • 責められる痛み(他者の影響)
  • 自分を保てない苦悩(五陰盛苦)

ここで仏典のフレーズがよみがえる。

「三善根、不可窮尽なり」

絶望が尽きないように、
善の根もまた尽きることがない。

■内的な気づき

  • 苦の原因は外側ではなく、自分の心の反応にあること。
  • 逃げても苦は追ってくる。
  • しかし、善根もまた常に蘇りうる。

四苦八苦と三善根が直接ぶつかる、物語の「暗く、熱い」章。


◆ 第七章 涅槃界の風 ― 心が自由になる瞬間

テーマ: “涅槃は遠い世界ではなく、心がふっと軽くなる刹那にある”

シュンはある出来事(例:タカハシ氏の最期の言葉/ユミの感謝/家族との和解)をきっかけに、
心に深い透明な静けさを感じる。

■「涅槃界」の現代的描写

  • 時間が止まったように感じる。
  • 怒りや恐れが薄れ、世界の輪郭が柔らかくなる。
  • 人の苦しみを拒まずに見つめられる。

ここで三善根が一本の糸につながる。

  • **如来:自分の中の

以下に、あなたの提示してくれた第二章~第五章の内容を、より物語として肉付けした章草案を提案します。
そのまま小説本文へ展開できるレベルまで具体化しています。
(必要なら、ここから全文の小説化も可能です)


第二章 現代の阿難 ― 青年シュンの疑問(詳細草案)

●1 夕暮れの都市、疲労の帰り道

東京郊外。
介護現場の帰り道、制服のポロシャツを脱ぐ気力もなく、
シュンは電車に揺られていた。

朝は寝たきりの利用者の急変。
昼は家族からの理不尽なクレーム。
同僚の涙。
「今日も誰かが死んでいく」
そんな思いが心に重く沈む。

四苦八苦は、古い経典ではなく、毎日の現実だった。

●2 古書店「灯心堂」との出会い

帰り道、偶然目に入った小さな古書店。
照明は薄暗く、本の匂いは湿っている。

その棚の一角に、ふと目が止まる。
黄ばんだ薄い冊子。

『三善根経』

開いても、ほとんど意味が分からない。

「如来に功徳を種う? 正法? 聖衆?
そんなの現代に誰がいるんだよ…」

シュンは苦笑しながらも、なぜか本を閉じられなかった。

●3 経文が胸に残る理由

言葉そのものは理解できない。
でも妙に引っかかる一節があった。

「此の善根、不可窮尽なり」

…尽きないものなんて、この世界にあるのだろうか?

疲れ切った心の奥で、なにかが静かに動き始める。


第三章 第一善根 ― 如来の所に功徳を種う(詳細草案)

●1 怒号の飛ぶ職場

翌週。
認知症の利用者が食事を投げ、その片付け中に同僚が怒鳴られた。
連鎖するストレスの矛先が、シュンに向く。

「なんでお前がちゃんと見てないんだよ!」

心が沈む。
無力感。
“誰のために働いているのか”わからなくなる。

●2 亡くなった利用者の言葉

夜、帰宅後も落ち込んでいると、
ふと亡くなった老婦人の言葉が蘇る。

「あんたの中にも、仏さんはおるんやで」

それは感謝の言葉でもなく、励ましでもなく、
まるで事実を語るような静かな声だった。

●3 “如来”とは外ではなく中に

シュンは気づく。

「如来」=“完璧な誰か”ではない。

  • 誰かを思って動くとき
  • 怒りの中で一度立ち止まるとき
  • 弱い誰かを支えようと思ったとき

その瞬間、自分の心の中に
なにか静かな光が灯る。

それは外の世界にはない、
**自分の深層の中の「理想の人間らしさ」**だった。

●4 小さな善の芽

次の日、シュンは一人の利用者に少し長い時間を取って、
ただゆっくり話を聞いた。

帰り際、同僚がふと言った。

「今日はあの人、いつもより穏やかでしたね」

ほんの小さな出来事。
だがシュンの胸に、
“確かにあたたかい何か”が芽生えていた。


第四章 第二善根 ― 正法に功徳を種う(詳細草案)

●1 介護現場の“歪み”

職場で問題が起きる。
同僚の一人が、利用者への乱暴な扱いを続けているのだった。
シュンはずっと見ないふりをしていた。

「見て見ぬふり…これが“正法”なのか?」

正法とは教典ではなく、
“自分に嘘をつかないこと”
—シュンはそう感じ始めていた。

●2 勇気の告白

ある日のミーティング。
胸が震えながらも、シュンは口を開いた。

「…僕、見逃していました。
気づいていたのに、言えませんでした」

空気が変わる。
上司も、ほかの同僚も真剣に聞いていた。

その後、職場全体で改善会議が開かれ、
乱暴をしていた同僚も涙ながらに謝罪した。

●3 善い行為は巡り巡って

シュンは思った。

  • 嘘は心を濁らせ
  • 真実の言葉は、誰かの涙を止め
  • 小さな善行は、見えないところで世界の流れを変える

これこそが経文の言う
「正法に功徳を種う」
ことだと、ようやく理解し始める。


第五章 第三善根 ― 聖衆に功徳を種う(詳細草案)

●1 “聖衆”とは誰か?

経文の言う“聖衆”とは、悟った者ではなく、
善を志す人々のこと。

シュンにとってそれは――
同僚のミカ、山川主任、心を開き始めた利用者たち。

完璧ではないが、
立ち上がろうとする人たちだった。

●2 同僚ミカの涙

同僚ミカが、ある日突然休む。
シュンが気になって家を訪ねると、
彼女は疲労と罪悪感で押しつぶされ、泣いていた。

「私なんか、もう介護に向いてない…」

シュンは静かに言った。

「…一緒に戻ろうよ。
立ち直るのを手伝わせてほしい。」

ミカは泣きながら頷く。

その瞬間、
“誰かの修行を助けることが、自分の修行になる”
という言葉が、胸に深く落ちてくる。

●3 現代の街に宿る聖衆

次の日、利用者の手を握るミカの姿を見て、
シュンは気づく。

この職場で、
この街で、
心の中に善を灯そうとする人々こそ、
聖衆なのだと。

経文の世界は、
千年前の祇園精舎だけではない。

今、この都市の中にも広がっている。


必要なら、**次の第六章(業の炎・四苦八苦の核心)**も同じ密度で書きます。

続けますか?

〇九六

れもやはり愉快なことではありません。老いた人ならではの喜びもありましょう。けれども老いれば体力・気力・智力も落ちていくわけですから、「老い」は決して愉快なことではありません。 わたくしなども、朝起きて、ひげを剃るために鏡を見ると、

「ああ、我、老いたり」

という感をしばしば抱きます。自分では若い気でいても、若い時のような強い体力を発揮することはどうしてもできません。老いる苦しみというものは、だれしも味わうものです。

第三は病の苦です。生きているかぎりは、病気をすることもあります。だれが考えても、病気は楽しいものではありません。病気によって得るものもありますが、相対的に見れば病気は苦しいものです。

第四は死の苦しみです。人間だれしも死を迎えます。悟りきった人でないかぎり、死は寂しいし、つらいし、苦しいものです。

なります。 以上が四苦です。この四苦に愛別離苦・怨憎会苦・求不得苦・五陰盛苦の四つを加えて八苦に

愛別離苦とは、自分が愛しているものと離別しなければならない苦しみです。どれほど愛し合っている恋人同士、あるいは夫婦、親子、兄弟、友人であっても、いつかは離別しなければなりません。生き別れもあれば死に別れもあります。いずれにしても愛する人と離別することは、本当に苦しく、つらいことですが、絶対に避けられません。

しかも、それは人間関係だけではありません。愛するものとは、必ずしも人間だけではありません。たとえば、お金をこよなく愛している人がいます。

「おれはお金だけが恋人だ。ほかにはなにもいらない」

また、地位を愛している人もいます。内閣総理大臣、会社の社長、重役、それぞれのポストを

こよなく愛しています。

けれども、お金であろうと、地位であろうと、いつかはそれらとおさらばしなければならない

時が必ずやってきます。いくら、

「いやだー」

と叫んでみたところで、どうなるものでもないわけです。

次の怨憎会苦とは、怒んだり憎んだりしている相手と会わなければならない苦しみですが、こ

れもまた愛別離苦に勝るとも劣らない苦しみです。

「憎んだり怒んだりしているような、それほど嫌なヤツならば、会わなきゃいいじゃないか」

そういうかもしれませんが、因縁によって離れることができなくなっているから、非常に苦しいのです。その一つが「対障害の因縁」です。最初は愛し合って結婚したとしても、怨憎会苦のもとになる「夫婦緑障害の因縁」があれば、夫婦お互いが憎しみ合うことになります。まるで親の仇のように憎み合って、朝から晩までけんかばかりしています。

「それならば、別れてしまえばいいじゃないですか」

理屈ではそのとおりです。ところが、それが別れられないのです。いろいろな人間関係・経済的理由、その他さまざまな事情があって、とても離婚できません。これが因縁の恐ろしいところです。しかたがないから我慢をしようと思うのだけれども、我慢しきれなくて、毎日けんかを繰り返すのですから、日々地獄です。

さらにひどい怨憎会苦は、「両親止相差の因縁」です。この因縁があると、親子・兄弟といった、血を分けた者同士が憎み合います。ひどい時には血を見るようなことがあります。まさに怨憎会苦です。嫌な相手と会わなければいけない、それも年中顔を合わせなければならない、これはまさしく地獄そのものです。

そこまでいかなくても、会社の上司、社長が嫌なヤツでどうしようもないけれども、月給をもらわなければいけないから、そこに勤めざるを得ない、というのも怨憎会苦です。お得意さんが嫌で嫌でたまらない、というのもあります。嫌なヤツだけれども、いろいろ買ってくれるから、

「毎度ありがとうございます」

とニコニコ笑うけれども、腹の中では、

「コンチクショウ」

「オギャー」 と思っている、これも怨憎会苦です。それで血圧が上がったり、心不全などになるのです。 求不得苦とは、求めて得られない苦しみです。これも深刻ですね。人間の一生などというもの

は、求めることの連続ではありませんか。

と生まれて、無意識のうちにお母さんのお乳を求めて、おっぱいを吸う。生まれてすぐに、お母さんの愛情とお乳を求めるわけです。大きくなるにつれて、求める対象がどんどん増えていきます。そして求めて、求めて、ずっと求め続けて、人生の最期に末期の水を求めて、それをゴクっと飲んで、この世とおさらばしていく。

その求め続ける人生の中で、どれだけ求めたものが得られるでしょうか?

お母さんのお乳と末期の水くらいは、求めて得られるでしょうが、一生涯で求めたもののうち、 その大半は得られません。百のことを求

お母さんのお乳と末期の水くらいは、求めて得られるでしょうが、一生涯で求めたもののうち、 その大半は得られません。百のことを求めて、得られるのはたった一つぐらいではありません

求めて求めて、求める人生。しかし、得られるものは百に一つ、これはまさに苦しみです。

そう考えていくと、この五体そのものが苦しみを盛る器のような気がしてきます。人間とは苦の域ではないか、とつくづく思わざるを得ません。これが最後の苦、五陰盛苦です。人間そして世界を構成する五つの要素、これを仏教では五陰(五)と呼びます。色(物質的現象)、受(感 (表)、意志)、(認識・知識)の五陰です。この五陰の執着からさまざまな苦しみが出てきます。したがって人間を構成する五陰は、まさに苦を盛る器であるというわけです。

たしかに、生きているということは、とてもすばらしいことです。生きているからこそ、喜びもあるし、自分が向上することもできます。けれどもトータルしてみると、やはり、この世は楽よりも苦の方が多く、生きること、すなわち苦であります。これが、お釈迦さまがこの世の中をご覧になった結論なのです。

来世を決定する末期の境界

生きていくことは苦しいものです。しかし、その苦しみに負けずに、それを乗り越えて、いか

〇九九

 

 

 

今日の運命 Today’s Fate 今日缘分  2025年12月11日

今日の運命 Today’s Fate 今日缘分  2025年12月11

乙巳 二黒土星 歳
戊子 一白水星 節
甲寅 一白水星 日

一白水星の日

 この日には不遇、失意気味の来訪者が多いものです。自分自身も、憂い事で憂鬱になるものです。 部下や子供の問題も出る。この日は特に陰徳に心がけることが大切です。

涅槃とは完全解脱の境地

涅槃とは完全解脱の境地

聞如是。

一時仏在舍衛国祇樹給孤独

園。爾時世尊告阿難。有三善根。不

可窮尽。漸至涅槃界。云何為三。所

謂於如来所而種功德。此善根不可窮

尽。於正法。而種功德。此善根不可

窮尽。於聖衆而種功德。此善根不可

窮尽。是謂阿難。此三善根不可窮尽

得至涅槃界。是故阿難。当求方便此不可窮尽之福。

学。爾時阿難聞仏所説。歓喜奉行

聞くこと是の如し。一時、仏、舍衛国祇樹給孤独園に在

しき。肩の時世尊、阿難に告げたまわく、「三善根(三

福道)有り、窮尽す可からずして、漸く涅槃界に至る。

云何が三と為すや。所謂如来の所に於て功徳を種う。此

の善根窮尽す可からず。正法に於て功徳を種う。此の

善根窮尽す可からず。聖衆に於て功徳を種う。此の善

根窮尽す可からず。是れを阿雞、此の三善根は窮尽す可

からず、涅槃界に至ることを得と謂うなり。是の故に阿

獲難、当に方便を求めて、此の窮尽す可からずの福を獲べ

し。是の如く阿難、当に是の学を作すべし」と。願の時

阿難、仏の所説を聞きて歓喜奉行しぬ。

如是阿難。当作是

現代語訳

このように聞きました。仏さまがコーサラ国の祇園精舎にご滞在の時のことです。ある日、世

尊は、阿難にこのようにお告げになられました。

「三等根(三福道)というものがありますが、その功徳は無限であり、涅槃界に至ることができるものです。なにをもって三つの善根(福)とするのでしょうか。(第一に)いわゆる如来の所において功徳を種える、この善根(福)の功徳は無限です。(第二に)正法において功徳を種える、 この善根(福)の功徳は無限です。(第三に)聖衆において功徳を種える、この善根(福)の功徳は無限です。阿難よ、この三善根(三福道)の功徳は無限であり、涅槃界に入ることができるのです。したがって阿難よ、三善根(三福道)を修行して、この無限の福を得なさい。このように

この教えを受けて、阿難は心より喜び、修行に励みました。

阿難よ、この三善根(三福道)を学びなさい」

解說

ます。 冒頭でも触れたように、阿含宗では三善根を三福道と呼んでいます。このことについて説明し

『仏教語大辞典』(中村元著、東京書籍)で「三善根」を引くと、

【三善根】さんぜんごん 無貪善根・無瞋善根・無癡善根の三根。一切の善法がこの三つから生まれるからである。それらは具体的には施・慈・慧となって現われる。三毒の対。

と書かれています。しかし、この「三供養品」に説かれる三善根は、その内容がまったく異なります。それなのに、これを三善根という名称のままで弟子たちに教えるのは、非常な誤解を生

むもとだとわたくしは考えました。

それでは、この修行法は、どのように呼ぶべきなのでしょうか?

経文中に、

「此の腐尽す可からざるの福を獲べし」

ことはありません。 とあるように、この修行法は無尽蔵の福を得る三つの道です。したがって、わたくしはこれを 「三福道」と命名しました。この名称ならば無食善根・無顧善根・無癡善根の三善根と混同する

そこで、阿含宗では、三善根を「三福道」と変えて読誦しているのです。

さて、右の経文を一読すれば、涅槃界に至るためには三善根(三福道)が必要なのだ、ということをお釈運さまが説かれているのが分かると思います。

涅槃界とはなんでしょうか?

普通は涅槃の境地・境界の意味で使われます(ただし本経では違う意味を持っておりますが、それについては後述します。「五戒品』でも触れたように(本書三七頁参照)、涅槃とはサンスクリット語でニルヴァーナといいますが、生死を超越した境界、完全解説の境地です。完全解脱とは業と因線から完全に解放された状態です。

わたくしたちは業と因縁の塊です。業と因縁によって輸廻転生を続けています。輪廻転生とは生死の転がやまず、無限に生死の流転を繰り返すことです。まるで車の輪が廻るように絶え

仏教では人間の苦しみを分類して、四苦心苦と呼んでおります。四苦とは人間の基本的な苦しみです。さらに四苦に付随した苦しみが四つ出てきます。これを最初の四苦と合わせて八苦といいます。通常はそれらを総称して四苦八苦というわけです。

四苦八苦は以前にも講義しました(上巻・「申恕林経』一三五——一三八頁参照)が、仏教の基本教義として大切なことですから、もう一度復習しましょう。

四苦八苦 人は苦の塊

まず、四苦というのは、生・老・べ・死の苦です。これが人間の基本的な苦しみです。さらにその四苦に付随した苦しみが出てきます。それが愛別離苦,怨憎会苦,求不得苦,五陰盛苦の四つです。これらの苦を総称して、四苦八苦といいます。こうしてみると、人間というのは本当に苦の塊です。

四苦の第一は生の苦です。実際に自分の人生を振り返ってみればよく分かると思いますが、生きていくこと自体が苦しみです。生まれたこと自体が苦しみです。生きているからこそ楽しいこ

ともあるけれども、その楽しいことが次の瞬間に苦の種となっています。ですから生は苦であるというしかありません。

第二は老の苦しみです。生きている以上は、だれもが年をとります。必ず老いていきます。こ

〇九五