UA-135459055-1

五蘊の瞑想法

五蘊の瞑想法

ながら解説します。 「潮时,防蛇星」(以下、「応説経」)の講義を行います。まずは経文を読み、現代語に訳し

如是我聞。一時仏住拘留国雑色牧牛

聚落。爾時仏告諸比丘。我以知見故。 得諸漏尽。非不知見。云何以知見故。 得諸漏尽。非不知見。謂此色此色集此色滅。此受想行識。此識集此識滅。

現代語訳

是の如く我れ聞きぬ。一時、仏、拘留国の雑色牧牛聚等に住まりたまえり。爾の時、仏、諸比丘に告げたまわく、「我れ知見を必ての数に諸漏の尽きることを得たり。 不知恵に非ざるなり。云何が知見を以ての故に諸漏の尽きることを得、不知見に非ざるや。ゆる此れは色なり、 此れは色の集なり、此れは色の端なり、此れは気・想・ 行、識なり、此れは識の集なり、此れは識の減なりと」 じゅ

このように私は聞きました。ある時、仏さまはクル(拘留)国の雑色牧牛聚落におとどまりになっておられました。その時、仏さまはもろもろの比丘に、次のようにお話しされました。

「私は知見を得たことによって、もろもろの煩悩がなくなりました。不知見ではななぜ、私は知見によって、もろもろの

ある。

と。

それはどういうことかというと、これは色である、これは色の集である、これは色の滅である、 これは受・想・行・識である、(これは受の集である、これは受の滅である、これは想の集である、これは想の滅である、これは行の集である、これは行の滅である)これは識の集である、これは識の滅である」

解說

す。 知見とは、真の智慧によって物事を見ることで、換言すれば悟りを得たということです。この悟りの力によってすべての煩悩をなくすことができた、とお釈迦さまはここでおっしゃっておられます。漏とは煩悩の異名です。煩悩は心の中にいつの間にか漏れ出てきますから、漏と呼びま

「此れは色なり、此れは色の集なり、此れは色の滅なり、此れは受・想・行・識なり、此れは (受・想・行・)識の集なり、此れは(受・想・行・)識の滅なり」は、五重むぎという瞑想です。 人間は色(物質的現象)・受(感覚)・想(表象)・行(意志)・識(意識)の五つの構成要素からできている、と仏教では考えますが、この五つの構成要素のことを五蘊(五陰)と呼びます。五蓮観

OKK

法とは、この五蘊のそれぞれが無常・空・無我であると観想していく瞑想法のことです。

お釈迦さまはここで、自分は五蓮観法を修行して悟りを得、完全解脱したのだとおっしゃっておられます。

続きを見ましょう。

成仏できない僧侶たち

不修方便随順成就。而用心求令我諸

漏尽心得解脱。当知彼比丘終不能得

漏尽解脱。所以者何。不修習故。不

根力覚道。 修習何等。謂不修習念処正勤如意

「方便を修し随順成就せずして形も心を用いて、収れをして諸漏尽き、心に解説するを得せしめんと求むるも当に知るべし、彼の比丘は終に漏尽解脱を得ることわず。所以は何ん。像習せざるががなり。何等か修習せざ足る。霊ゆる創剣・正販・妙意足・帳・が・・重を

習せざるなり」

現代語訳

現代語訳

解説

「いろいろな方法を駆使して修行を行っても成就しない者が、もろもろの煩悩が尽き、心に解説を得たいと思っても、あの僧侶(修行者)たちは、ついに福尽解脱を得ることはできません。 それはなぜでしょうか?

修行していないからです。

なにを修行していないのでしょうか?

それは、いわゆる四念処法(四念处)・四正動法(四正断送)・四如意足法(四),五根法・五力法・七覚支出・心正、道を修行していないのです」

ここは、「応説経」の中でも特に重要なことが、説かれているところです。

たいへんなことが書かれているわけですが、諸君はそれに気づいたでしょうか?

超尽解説とは、(悩)がすべて尽きた状態ですから、完全解説、つまり成仏したということです。その完全成仏を心から願って修行しているのに、それができない僧侶たちがいる、とお釈迦さまがおっしゃっておられるわけです。これは大問題です。

なぜ、その僧侶たちは成仏できないのか?それは、四念処法・四正動法・四如意足法,五根法,五力法・七覺支法,八正道を修行しないからだ、とお釈迦さまは説かれているわけです。

す。

この四念処法・四正動法・四如意足法・五根法・五力法・七覚支法・八正道というのが、わたくしがいつもお話ししているお釈迦さまの成仏法、「七秒三下、七道品」です。わたくしはこれを、 成仏のための七つの科目(システム)、三十七の修行法(カリキュラム)であると申し上げております。念処・正動・如意足・根・力・覚・道で七科目。そして、それぞれが四・四・四・五・ 五・七・八からなる修行によって成り立っておりますから、全部を合わせて三十七になるわけで

お釈迦さまは、この修行を行わない者はたとえそれが僧侶であっても、その人がどのように成仏を望んでも、絶対に成仏することはできない、とおっしゃっています。

わたくしは法話でしばしば、

「仏教の伝来以来、大乗仏教のお坊さんは、誰一人として成仏していない」

と、お話ししています。みなさんの中には、

「管長はずいぶん思い切ったことをいうなあ」

と考えている人がいるでしょう。しかし、それはわたくしの独断や偏見ではありません。仏教の開祖のお釈迦さまご自身が、七科三十七道品を修行しない者はいくら他の修行をしても、絶対に成仏しないと説かれているわけです。

もよいでしょう。 日本にも数々の名僧知識が登場しましたが、この七科三十七道品を修行した人は皆無といって

しかし、お釈迦さまは、

「彼の比丘はついに成仏することができない

と、おっしゃっておられます。「後」というこの三文字の中に、日本の大東今入っているわけです。きっと、「阿含経」以外のお経を信仰し、それを広める僧侶たちが出現することを、予見しておられたのでしょう。

と説いているのです。 ですから、わたくしはこのお釈迦さまのお言葉に基づいて、 「仏教の伝来以来、大乗仏教のお坊さんは誰一人として、成仏していない」

ただし、わたくしは、曹相報の祖である道元師(二〇〇―二五三)と真言熟の開祖弘樹太師空間(七七四一八三五)だけは、ひょっとするとこの成仏法をご存知だったのかもしれない、 と考えております。と申しますのは、道元禅師は『正法眼蔵』の第七十三で、

「この三十、七品智宏(七科三十七道品の別名著者注)、すなわち伝習の眼睛孔、皮肉青館、科目なり。仏祖一枚、これを三十七品菩提分法と参学しきたれり」

と成仏法を調鳴しておられます。また、弘法大師空海は「獄密教諭」で、

「第一の宝とは取り是れず『解康なり。第二の法宝とは露く窓、『響ののめ、 功徳なり。いわゆる三十七菩提分法なり」

と記しておられます。ですから、このお二人が成仏法を知識として知っているだけでなく、実

際にそれを修行しておられたとしたならば、このお二人だけは、ひょっとすると成仏しているかもしれません。しかし、それ以外の僧侶は絶対に成仏していない。僧侶が成仏していなかったならば、それに導かれる弟子も在家信者も成仏していないのは当然でしょう。また、自分を成仏させることができないのだから、先祖のお霊たちも成仏するはずはありません。

仏教を信仰する人は皆、その宗旨の教えや修行で成仏できると思うから、そこで一生懸命に信仰・修行に励むわけです。成仏できると信じればこそ、布教して歩きます。

昔の日本の僧侶たちは、お釈迦さまの教法を知ることができるのは「阿含経」だけだ、という

真実を知りませんでした。しかし、今の僧侶たちは、みな知っているのです。

しかし、伝統的仏教は従来の教説の上に立ったままです。

わたくしは、少なくとも宗教家だけはこの世の中がどんなに悪くなっても、真実をいわなければいけないと考えます。だからこそ、宗教家は尊敬に値する存在なのです。もちろん、宗教家といえども、たまには方便を使うこともあるでしょう。しかし、ここ一番、これこそ大切なことなのだということについては、たとえ八つ裂きにされても、本当のことをいわなければならないとわたくしは思うのです。その宗教家が嘘であることを重々承知の上で、信者に真実ではないことを真実であるかのように説教をする。これは絶対に許されないことです。 続きを説明いたしましょう。

成仏法と伏到

雪如伏鶏生子衆多。不能随時蔭留消

息冷暖。而欲令子以特以爪啄卵自生安穩出殼。当知彼子無有自力堪能方便以背以爪安穩出殼。所以者何。以被寫母不能随時蔭餾冷暖長養子故。 如是比丘。不勤修習勋順成就。而欲

令得漏尽解脱。無有是処。所以者何。 不修習故。不修何等。訓不修念処正勤如意足根力覚道。

現代語訳

「笑えば鶏の生める手鳥にして、随時に消息冷暖すること能わずして、而も子をして齢を以て100を以て卵を啄き、自ら生まれ安穏に殻を出てしめんと欲するも、当に知るべし、彼の子自力も能く方便して背を以て爪を以て安穏に殻を出づるに堪ゆること有ること無きが如し。所以は何ん。彼の鶏母随時に蕎帽冷暖して子を長、奏すること能わざるを以ての故なり。是の如く比丘、 動めて修習し随願成就せずして、而も漏尽解脱を得せしめんどめんと欲するも是の処、有ること無し。所以は何ん。修習せざるが故なり。何等をか修せざる。調ゆる念処・正

動・如意足・根・力・覚・道を修せざるなり」

「たとえば鶏が卵を産みすぎて、親類が随時に温めたり、風を送って冷やしたりする、というよ

十分にできなかった時があれば、その世話が十分に行き届かなかった卵の中のヒナをしようと、くちばしや爪で卵の数を内側からつついたとしても、そのヒナは自力で絵をって明化することができません。

なぜでしょうか? ったからです。 時に卵を温めたり、風を送って冷やしたりするというような世話が、十分にできなか

それと同じように、仏道修行者が(七軒三十七道品以外の)さまざまな修行に励んだとしても、 仏道修行は成就しませんし、高是解脱は得られません。

なぜでしょうか?

移行しないからです。

なにを移行しないのでしょうか?

いのです」 いわゆる、四念処法、四正動法、四如意足法、五根法、五力法、七覺支法、八正道を修行しな

ここでお釈迦さまは、成仏法と修行の関係を、鶏のヒナが孵化することにたとえておられます。 親がいくつかの卵を産んだ後、親鶏は落銀冷暖、つまり温めたり、冷ましたり、あるいは空気の流通をよくしたりというような努力を一生懸命に行います。一方、ヒナの方を見てみると、ヒ

ナ自身もくちばしや爪で一生懸命に殻を破ろうとする努力を行います。親鶏の努力とヒナの努力が相まって初めて、ヒナは殻を破って生まれることができるのです。

お釈迦さまは、この親鶏の努力とヒナの努力の関係は、ちょうど成仏法と修行者の関係と同じである、とおっしゃっているわけです。

たとえば、親鶏があまりにも卵を多く産み過ぎると、当然のことながら全部の卵に目が行き届きません。そうすると、風を送ってもらったり、温めてもらったりできない卵も出てきます。そのように十分に面倒を見てもらえない卵は、中でヒナがいくら外に出ようとくちばしでつついたり、足の爪で引っ掻いたりしても、絶対に生まれることはできません。

おられるわけです。 それと同じで、七科三十七道品の成仏法が得られなかったならば、どれほど他の修行を死にものぐるいで行ったとしても、決して成仏することはできないのだ、とお釈迦さまはおっしゃって

成仏するには、正しい成仏法と修行者の努力、この二つが絶対に必要なのです。

続きを読みます。 わたくしはいつも思うのですが、お釈迦さまという方は、本当に比喩が巧みです。誰にでも分かるようにお話をされる、希有の名説法家だといえるでしょう。

若比丘修習随顺成就者。雖不欲令漏

尽解脱。而彼比丘自然漏尽。心得解

脱”所以者何。以修習故。何所修習。 謂修念処正勤如意足根力覚道。如彼

伏着善養其子。随時蔭留。冷暖得所。

正復不欲令子方便自啄卵出。然其諸

子自能方便安穩出殼。所以者何。以

彼伏鶏随時蔭餾冷暖得所故。如是比

丘。善修方便。正復不欲漏尽解脱。

而被比丘自然漏尽。心得解脱。所以

者何。以勤修習故。何所修習。謂修

念処正勤如意足根力覚道。

「若し比丘、修習し随朋成就する者は濕冬解説せしめんとせずと難も而も彼の比丘、自然に漏尽し心に解説を得ん。所以は何ん。修習するを以ての故なり。何をか修習する所なる。調ゆる念処・正動・如意足・根・力。 覚・道を修すること、彼の伏鶏の善く其の子を養い、簡時に蒸餾冷暖所を得、正しく復た子をして方便して自ら卵を呼きて出てしめんと欲せざるも、然かもだの諸の子自ら能く方便して安穏に殻を出づるが如し。所以は何ん、 彼の伏鶏随時に蒸餾冷暖所を得るを以ての故なり。是の如く比丘よ、善く方便を修すれば正しく復た漏尽解肌を欲せざるも而も彼の比丘、自然に漏尽し心に解脱を得ん。

所以は何ん。勤めて修習するを以ての故なり。何をか修

習する所なる。調ゆる念処・正動・如意足・根・力・

覚・道を修するなり」

現代語訳

「弟子たちよ、(七科三十七道品の成仏法を)修行し、成就する者がいたならば、その修行者が漏

尽解説をしたいと思っているこ

「弟子たちよ、(七科三十七道品の成仏法を)修行し、成就する者がいたならば、その修行者が漏

尽説をしたいと思っていなくても、自然に心に解脱を得て漏尽解説を得るのです。

それは、なぜでしょうか?

修行したからです。

なにを修行したのでしょうか?

いわゆる、四念処法、四正勤法、四如意足法、五根法、五力法、七党支法、八正道を修行したからです。それはちょうど、親鶏が卵を温めたり冷やしたりと十分に世話をしたならば、そのヒナが卵の外に出たいと思っていなくても、自然に殻を破り孵化してしまうのと同じです。 なぜ野化することができたのでしょうか?

親鶏の世話が十分で、温冷の温度調節がうまくいったからです。

弟子たちよ、同様に(成仏法に則った)正しい修行をするならば、漏尽解脱を願っていなくて

も、自然に心に解脱を得て、福尽解脱を得るのです。

なぜでしょうか?

修行したからです。

なにを修行したのでしょうか?

からです」 いわゆる、四念処法、四正動法、四如意足法、五根法、五力法、七覚支法、八正道を修行した

さまはここで、非常におもしろい表現を取っておられます。

です。 胃がきちんと卵の顔を見ていれば、たとえ卵の中のヒナが卵の外に出たいと思っていなくでも、自然にを破って出てきてしまうというわけです。それと同様に、成仏を願っていない島であっても、この成仏法を修行するならば成仏してしまうのです。じつにおもしろいたとえ話

おもしろいお話ですが、それと同時に、お釈迦さまはとても大切なことをここでおっしゃっておられます。それは、なにか?

三証そろった阿含宗

『応説」のこの部分が、成仏できるという「文証」なのです。「文証」について、ここで詳しく説明します。

仏教では、「文証」「理」「歌」の三話がそろわなければ、その教団の教法は正法ではないとします。文証とは、お経に文字として書かれている「成仏の証」です。要するに、仏さまがお経の中で成仏できるとおっしゃっているかどうか、ということです。

「応」の「若し光丘、育成する者は解説せしめんと訳せずとも面を彼の比

氏、自然に高尽し心に解を得ん、所以は何ん、修習するを以ての故なり。何をか修習する所なる。調ゆる念処・正動・如意足・根・力・覚・道を修する」という部分、これが「文証」なのです。たったこれだけの文章ですが、本当に大切なことが説かれています。この部分が「応説経」 の、いや「阿含経」全部の中心になるとわたくしは思います。

よい機会ですから、「理証」と「現証」についても、お話ししておきましょう。

まず、「理証」。これは、その「文証」が理論的に正しいという裏付けです。

しばしば「法華経」の信者が、「四十余天認真実(<初転法輪より〉四十余年の間、いまだ真実を明かさず)」という「文証」を振りかざします。「四十余年未顕真実」という言葉は、『法華経」 の開騒とされる「解賦、養」の一文です。したがって「四十余年未顕真実」とは、あくまでも 「無量義経」に基づいての「文証」です。しかし、『法華経』は、お釈迦さまが入滅されて数百年も経ってから創作された経典です。また、現代の経典研究では、『無量義経」は『法華経』の権歳を確固たるものにするために、中国で撰述されたいわゆる偽経であろうとされております。要するに、「無量義経」の「四十余年未顕真実」という経文は、正しい「文証」にはならないわけです。

ですから、「文証」「文証」といくら叫んだところで、それを記す経典が仏さまの説いたものでなければ、まったくお話になりません。「理証」があって初めて、「文証」が生きてくるわけです。 しかし、「文証」と「理証」の二つがそろっても、まだ完全とはいえません。最後に「現証」 が必要です。「現証」とは、仏さまがその教団の正統性を認められ、擁護してくださっていると

因縁の鎖を断ち切る成仏法

中略譬如大舶在於海辺。経

夏六月風飄日暴。藤綴漸断。如是比

丘。精勤修習。随順成就。一切結縛

使煩悩纏。漸得解脱。所以者何。善

修習故。何所修習。謂修習念処正動

如意足根力覚道。說是法時六十比丘。

不起諸漏。心得解脱仏説此経已。諸

比丘開仏所說。歓喜奉行。

「―――中略譬えばだ艦の辺に在り夏六月を経て風

日に暴れなば藤蔵淅ぐ断するが如く、是の如く比丘

よ、精勤して修習し、随順成就せば一切の結標・便・郷

・纏より漸く解説することを得ん。所以は何ん。善く

修習するが故なり。何をか修習する所なる。調ゆる念

処・正動・如意足・根・力・覚・道を修習するなり」と。

是の法を説きたまえる時、六十の比丘、諸漏を起こさず

心に解脱を得たり。仏、此の経を説き已りたまえるに諸の比丘、仏の説かせたまえる所を聞きて、歓喜し奉行しき。

現代語訳

「たとえば夏の六月ごろ、海辺に浮かぶ大きな船が嵐に遭ううちに、船を結んでいる藤蔓がやがて断ち切られるように、弟子たちよ、精進して修行し、その修行を成就するならば、一切の結縛・使・頌伝・磯から解説することができるのです。

〇八四

一分一秒といえどもうかうかしていられないぞ、という思いにわたくしは駆り立てられます。

みなさんも、毎日の勤行の際、このことを考えながら勤行しなさい。お釈迦さまはどれほどたいへんなことを、わたくしたちに呼びかけていらっしゃるのか? どれほど重要なことを、わた

くしたちに説いてくださっているのか? それを考えて修行に励みなさい。

このお経を読めば、お釈迦さまのお心が分かるはずです。

*開本経を説く前にあらかじめ序説として説かれる経

21 *2経 仏教学の学術語で、インド以外の地域、中国や日本などで撰述された経典をいう。

時の何の雪の使っている糸の太い脚は、一日や二日で擦り切れることはないが、毎日使用しているうちにやがて手

指の形に擦れて細くなり、最後には折れてしまう。修行もそれと同じである、というたとえ話

雜阿含経・応説経[全文]

〇八六

雜阿含経・応説経[全文]

如是我聞。一時仏住拘留国雑色牧牛聚落。爾時仏告諸比丘。我以

知見故。得諸漏尽。非不知見。云何以知見故。得諸漏尽。非不知

見。謂此色此色集此色滅。此受想行識。此識集此識滅。不修方便

随顺成就。而用心求令我諸漏尽心得解脱。当知彼比丘終不能得漏

尽解脱。所以者何。不修習故。不修習何等。謂不修習念処正勤如

意足根力覚道。譬如伏鶏生子衆多。不能随時蔭餾消息冷暖。而欲

令子以對以爪啄卵自生安穩出殼。当知彼子無有自力堪能方便以烤

以爪安穩出殼。所以者何。以彼鷄母不能随時蔭餾冷暖長養子故。

如是比丘。不勤修習随順成就。而欲令得漏尽解脱。無有是処。所

以者何。不修習故。不修何等。謂不修念処正勤如意足根力覚道。

若比丘修習随順成就者。雖不欲令漏尽解脱。而彼比丘自然漏尽。

心得解脱。所以者何。以修習故。何所修習。謂修念処正勤如意足根力覚道。如彼伏鶏善養其子。随時蔭餾。冷暖得所。正復不欲令

子方便自啄卵出。然其諸子自能方便安穩出殼。所以者何。以彼伏

鶏随時蔭餾冷暖得所故。如是比丘。善修方便。正復不欲漏尽解脱。

而彼比丘自然漏尽。心得解脱。所以者何。以勤修習故。何所修習。

謂修念処正勤如意足根力覚道。譬如巧師巧師弟子。手執斧柯。捉

之不已。漸漸微尽手指処現。然彼不覚斧柯微尽而尽処現。如是比

丘。精勤修習随順成就。不自知見今日爾所漏尽。明日爾所漏尽。

然彼比丘。知有漏尽。所以者何。以修習故。

何所修習。謂修習念

処正勤如意足根力覚道。譬如大舶在於海辺。

藤綴漸断。如是比丘。精勤修習。

漸得解脱。所以者何。善修習故。

何所修習。

随順成就。

経夏六月風飄日暴。

一切結縛使煩悩纏。

謂修習念処正勤如意

足根力覚道。說是法時六十比丘。不起諸漏。心得解脱。

仏説此経

已。諸比丘聞仏所說。歓喜奉行

なぜでしょうか?

正しく修行するからです。

なにを移行するのでしょうか?

いわゆる四念処法、四正動法,四如意足法、五根法、五力法、七覺支法、八正道を修行するの

です」

と、仏さまはお説きになられました。この説法を受けて、六十人の僧侶がもろもろの煩悩を起こさず、心に解脱を得ることができました。仏さまがこのお経を説き終えられると、聴聞していた弟子たちは心から喜び、修行に励みました。

解説

ここに説かれているたとえ話は、「大舶の響喩」として有名です。原文では、この「大舶の臂喩」の前に「巧師の斧柯の醤喩」がありますが、その意味するところは「大舶の響喩」とほとんど変わりませんので、ここでは割愛いたします。

まず、大きな船が海辺に停泊しているわけです。その船は藤綴、つまり藤蔓のようなもので係留されていました。二千数百年も昔のインドのことですから、ロープなどはなかったのでしょう。

しかし、藤蔓はたいへん堅固です。

ところが夏の六月になると海が荒れます。したがって、台風のような嵐が起きるのでしょう。 そうすると、波に揉まれているうちにその藤蔓が切れて船は沖に流され、やがて船そのものも強

そうすると、まに僕まれているうちにその豚要が切れて船は沖に流され、やがて船そのものも強

い風や彼によってこなごなになってしまうわけです。

それと同じように、どのような描格でも、どのように強い悪因縁でも、何度も何度も成仏法を繰り返して修行しているならば、最後にはわたくしたちを縛りつけている因縁の糸も断ち切れ、 ついに成仏するぞ、とお釈迦さまはおっしゃっているのです。

結縛・使・纏、これらはすべて煩悩の異名です。煩悩は、人間に纏いついて離れません。ですから適と呼びます。また、煩悩は人間を結んで縛り、自由にさせませんから結縛といいます。さらに、人間は煩悩の思うままに使われてしまいますから、煩悩を使というわけです。

す。 ところが、この成仏法を一生懸命に修行していると、どのような強い悪因縁でも、煩悩でも、 ばらばらにしてしまって、最後は成仏するわけです。ですから、ここもやはり「文証」になりま

この短いお経の中で、お釈迦さまは何回も繰り返し繰り返し、七科三十七道品の成仏法を説いていらっしゃいます。これを修行しなければ成仏できない、と繰り返し、繰り返し、懇切丁寧に、 わたくしたちに教えてくださっているのです。

それなのに、日本の仏教はこの成仏法を取り入れませんでした。そして成仏法のない、創作されたお経を、なにも知らない純真な信者たちに押しつけてきたのです。

その結果、自分も信者も弟子も、みな成仏しないで苦しんでいます。ある有名な霊能者が以前、 「宗祖といわれる偉い高僧、名僧たちが、みな地獄に落ちて、火の車に乗せられて苦しんでいるところを霊視した。あまりの恐ろしさと、あまりの意外さにびっくりした。これはどういうわけだろうか?」

うですが、わたくしは。 と語っておりました。日本の仏教界の人たちは、そんなバカなことがあるかと一笑に付したよ

1120

「そうかもしれないなあ」

と思いました。

民歌山(三―二八二〉などはなにもしらず、『法華経』を、「これが最高のお昼だ」 と一心不乱に、命がけで広めたわけです。日蓮上人の布教に対する信念は、本当にわたくしたちのお手本とすべきところであると、わたくしは尊敬しております。しかし、広めたのがほんとうの経典ではなかった。真実を知らなかったことは、じつにお気の毒ですが、それを信じて帰依した信者からすれば、お気の毒ではすみません。そのために、成仏ができないのですから。

世界を救う唯一の仏法

わたくしは今、日本がこれほど悪い状態になってきたのは、カルマを断つという正しい仏教を信仰しなかったからだと考えております。成仏法のない仏教を信仰してきたために、先祖を成仏させることができず、不成仏霊・霊障のホトケが急増してしまったのです。

不成仏霊や霊障のホトケが急増したため、多くの人が「横変死の因縁」「刑獄の因縁」「肉親血縁相剋の因縁をともなう家運衰退の因縁」の三大悪因縁をはじめとした、さまざまな悪因縁で苦

しんかいます。だからこそ、この世の中は、 どろくなってきているのです。 大の中で、「の」を持つ人が近年急増しております。四十年ほど前は、

この出場を持つ人は百人中二、三人でしたが、現在はその比率ははるかに高くなっております。 このまま帰えていくと、いったいどういうことになってしまうのでしょうか?

たとえば四、五十パーセントの人が「横変死の因縁」を持ったならば、大変な事が起きると思います。人口の半数近くが横変死するのですから、大きな戦争が起きるかもしれませんし、 分所で大事がさるかもしれません。あるいは、大地震が発生する可能性もあります。

らないのです。 この危機を救うには、お釈迦さまの成仏法しかありません。一人一人がお釈迦さまの成仏法を実録して、自分および家庭の因縁を断ち切り、不成仏置・障のホトケを成仏させなければな

わたくしたちは、この日本列島、いや、この地球上を覆っている破滅のカルマを断ち切るために、お釈迦さまの成仏法を一人でも多くの人に伝えなければいけません。この世を救うことができるのは、お釈迦さまの成仏法・七科三十七道品しかありません。

お釈迦さまがインドで説法を開始された時も、お釈迦さまお一人だけでしたが、ご自身の悟られた内容を五人の比丘に伝えられて、仏教教団の原型ができました。さらに、そこから少しずつ法の輪は広がっていき、ついにはインド社会を動かす大きな力になったのです。それから考えれば、阿含宗は決して小さな動きではありません。人数は少なくても、実に巨大な燃え上がるようなエネルギーで世界に働きかけています。

このエネルギーをもっと大きく育て上げて、どうしてもこの世界を変えなければいけません。

偉大な智慧の光を持つ菩薩 勢至菩薩(せいしぼさつ)とは? 正しくは

勢至菩薩

偉大な智慧の光を持つ菩薩

勢至菩薩(せいしぼさつ)とは?

正しくは大勢至菩薩といいます。智慧の光ですべてのものを照らし、人々を迷いや苦しみから救うとされています。大勢至菩薩と表記されることもあります。智慧とは物事のあり方を正しく見極める力・判断力を意味します。

阿弥陀如来の右脇侍として観音菩薩と共に三尊で表され、独尊で祀られることはほとんどありません。

浄土信仰の高まりとともに流行する来迎形式の阿弥陀三尊の場合、観音菩薩が死者の霊をのせる蓮台を持ち、勢至菩薩が合掌をする姿でつくられます。その姿勢は、立像・坐像のほかにひざまずいた姿の跪像もみられます。

ご利益

智慧明瞭、家内安全、除災招福のご利益があるとされています。午年の人々を守る守護本尊であり、午年に生まれた人々の開運、厄除け、祈願成就を助けるともいわれています。

勢至菩薩(せいしぼさつ)の像容

手を合わせているか水が入っている水瓶(すいびょう)を持っている姿が一般的です。

有名寺院と像

・京都府:清水寺
・奈良県:法隆寺

勢至菩薩(せいしぼさつ)の真言

オン・サンザンサク・ソワカ

おすがたの特徴~

蓮華や水瓶を持っていたり、合掌をしている

宝冠や胸飾りなどの装飾を身につける

阿弥陀三尊としての登場が多い

たとえるならば光を放つ名脇役、そんな仏さまです。

阿弥陀さまと観音さまと勢至さまがひと組になると、阿弥陀三尊と呼ばれます。中心の阿弥陀如来を、勢至菩薩が智慧の面から、観音菩薩が慈悲の面からサポートします。単独の勢至菩薩像はめずらしく、ほとんどがこの三尊形式のお姿です。

左手に持つのは、泥の中からでも綺麗な花を咲かせる蓮華です。これは煩悩の世界から、悟りの世界に至ることの表れです。

勢至さまが行くところは、500億の花々が咲き乱れるとお経に書かれています。主役顔負け・・・いや、もう主役です!。

写仏に挑戦してみましょう

ここでの拝観のポイントは、両脇侍を横から見ること。観音菩薩さまも勢至菩薩さまも正座ながらも少し身を乗り出したような前傾姿勢で座っています。これは、「今お迎えにきましたよ」という浄土にむかう者に語りかける姿なのですね。

勢至菩薩は阿弥陀三尊の左の観音菩薩と共に右脇侍として極楽浄土の来迎図に描かれます。

勢至菩薩の由来

梵名をマハースターマプラープタ (महास्थामप्राप्त [mahāsthāmaprāpta])と言い、観無量寿経には「知恵を持って遍く一切を照らし、三途を離れしめて、無上の力を得せしむ故、大勢至と名づく」とあり、大いなる智慧を持って広く世界中を照らし、迷いと苦しみと戦いの世界から離れて、亡き人を仏道に救い入れ、悟りの世界に導くのがその任務なのです。

勢至菩薩の功徳

勢至菩薩だけで信仰されることは少ないですが、阿弥陀如来の極楽浄土に観音菩薩と共に死者を迎えに来る来迎の姿として定着していて、信仰すれば極楽浄土に連れて行ってくれるのです。

勢至菩薩の姿

勢至菩薩と観音菩薩の姿はほぼ同じですが、観音菩薩が宝冠の正面に化仏を付けているのに対して、勢至菩薩は水瓶を付けています。

来迎の阿弥陀三尊の場合には観音菩薩が往生する人を乗せるための蓮台を持っているのに対して、勢至菩薩は合掌する姿で往生する人を迎えます。

勢至菩薩信仰

観音菩薩は仏像だけでなく、彫刻の彫り物としてもよく見かけ、霊園の合葬墓などにお祀りされているのに対して勢至菩薩の仏像はあまり見かけませんが、観音菩薩と同じ役割を担っているのです。

勢至菩薩の力とは

勢至菩薩は観音菩薩と同じく阿弥陀如来を筆頭にして、死者を救済して極楽浄土へと導くような慈悲に満ちた静かなる活動をされていますが、勢至菩薩はその名の由来からも大いなる力を持って悟りの世界へと引き入れる役割を持っておられます。

十三仏として

十三仏とは人の死後33年間までを案内する仏のことで、死後の世界の裁判官として中国で古来より信仰されていた十王の思想が発展したと言われています。

勢至菩薩は人の死後一年目である一周忌から先を案内する仏になります。

[十三仏]   [裁判官]         [法事]  [命日から]

不動明王  秦広王(しんこうおう)   初七日 7日目、6日後

釈迦如来  初江王(しょこうおう)   二七日 14日目、13日後

文殊菩薩  宋帝王(そうていおう)   三七日 21日目、20日後

普賢菩薩  五官王( ごかんおう)    四七日 28日目、27日後

地蔵菩薩  閻魔王 (えんまおう)    五七日 35日目、34日後

弥勒菩薩  変成王 (へんじょうおう)  六七日 42日目、41日後

薬師如来  泰山王( たいざんおう)   七七日 49日目、48日後

観音菩薩  平等王 (びょうどうおう)  百か日 100日目、99日後

勢至菩薩  都市王 (としおう)     一周忌 2年目、1年後

阿弥陀如来 五道転輪王(ごどうてんりん) 三回忌 3年目、2年後

阿閦如来  蓮華王 (れんげおう)    七回忌 7年目、6年後

大日如来  祇園王 (ぎおんおう)   十三回忌 13年目、12年後

虚空蔵菩薩 法界王( ほうかいおう) 三十三回忌 33年目、32年後

勢至菩薩の真言

勢至菩薩の真言は

おんさんざんさくそわか

おんさんざんざんさくそわか

関連記事

勢至菩薩(せいしぼさつ)、梵名マハースターマプラープタ (महास्थामप्राप्त [mahāsthāmaprāpta])は、仏教における菩薩の一尊。「大勢至菩薩」、「大精進菩薩」、「得大勢菩薩」の別名がある。現在日本では年の守り本尊、十三仏一周忌本尊として知られている。三昧耶形は未敷蓮華(ハスの蕾)。種子(種子字)はサク(सः saḥ)。

概要

阿弥陀三尊の右脇侍。 『観無量寿経』の中には「知恵を持って遍く一切を照らし、三途を離れしめて、無上の力を得せしむ故、大勢至と名づく」とあり、火途・血途・刀途の三途、迷いと戦いの世界の苦しみから知恵を持って救い、その亡者を仏道に引き入れ、正しい行いをさせる菩薩とされる[1]

薬師如来本願功徳経では、八大菩薩[2]の一尊である。

勢至菩薩(せいしぼさつ)は、阿弥陀如来の右脇侍として観音菩薩と共に人々を極楽浄土へ導く智慧の菩薩。足を踏み下ろすと大地が揺れるほどの偉大な力を持ち、迷いや苦しみを取り除く。午年生まれの守護本尊であり、智慧明瞭や家内安全、除災招福のご利益があるとされる。

Yahoo! JAPAN +4

勢至菩薩の主な特徴と知識

阿弥陀三尊: 阿弥陀如来(中央)、観音菩薩(左・慈悲)、勢至菩薩(右・智慧)の三尊で祀られることが多い。

智慧と怪力: 智慧の光ですべてを照らし、三途(迷いの世界)の苦しみから救う力を持つ。大勢至菩薩とも呼ばれる。

姿(像容): 合掌している姿や、冠に水瓶(知恵の水が入っている)を乗せている姿が一般的。

守護本尊: 午年(うまどし)生まれの守り神。

真言(呪文): オン・サンザンサク・ソワカ。

関連する主な場所

今日の九星盤 2026年2月25日

今日の九星盤

2026225

丙午 一白水星 歳
庚寅 八白土星 節
庚午 四緑木星 日

四緑木星の日

縁談、商談の来訪者あり。言動をつつしみ話を進めると良い。いつも良い日、皆良い人。こんな心境を養いたい。

宇宙は覚醒する ― 七つの泉 ― The Universe Awakens — Seven Springs

宇宙は覚醒する ― 七つの泉 ―

The Universe Awakens

— Seven Springs

雪は音なく 夜を包み
炉の火消えて 内に灯る
息は止まり 柱が昇る
七つの泉 いまひらく

Namosattanan
sanmyaksanmodaktinan
taniyata
on shaley shurei juntei
sowaka

宇宙は覚醒する 我を透かして
火は昇り 光は降りる
縁起の網へ 再接続
ひとつの柱 天と地を結ぶ

Namosattanan
sanmyaksanmodaktinan
taniyata
on shaley shurei juntei
sowaka
Snow falls without a sound, embracing the night.
The hearth goes dark, yet an inner flame ignites.
Breath grows still, a pillar starts to rise.
Seven hidden springs now open wide.

Namosattanan
Sanmyaksanmodaktinan
Taniyata
On shaley shurei juntei
Sowaka

The universe awakens, flowing through the self.
Flame ascends, and light descends.
Reconnected to the web of interbeing.
One single pillar unites heaven and earth.

Namosattanan
Sanmyaksanmodaktinan
Taniyata
On shaley shurei juntei
Sowaka