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仏舎利宝珠尊和讃 ― 末世を救う光 ―

仏舎利宝珠尊和讃
― 末世を救う光 ―

 

山の夜は静かだった。
杉の梢を渡る風が、庵の軒をかすかに鳴らしている。
炉の火は赤く揺れ、その光が壁に影をつくっていた。
青年は、師の前に坐していた。
長い沈黙のあと、青年は静かに口を開いた。
「老師……」
「仏さまは“抜苦与楽の観世音”といいますが、
本当に人の苦しみを取り去ってくださるのでしょうか。」
老師は、火を見つめたままゆっくりとうなずいた。
「うむ。」
「抜苦とは、苦しみを取り去ること。
与楽とは、楽しみを与えることだ。」
「仏とは、その二つを行う大慈悲の存在である。」
青年は少し考え込んだ。
「しかし……」
「人はどうして、こんなにも苦しまなければならないのでしょう。」
老師は、静かに言った。
「それは――因縁だ。」
炉の火がぱちりと鳴った。
「この世には、さまざまな因縁がある。」
「たとえば――」
老師は指を折りながら語った。
「家運衰退の因縁。」
「一生懸命働いても、
なぜか家がだんだん衰えていく。」
「良い時もある。だが長くは続かぬ。」
「見えぬ因縁が働いているのだ。」
青年は黙って聞いている。
「肉親血縁相剋の因縁もある。」
「親子や兄弟が、
どうしても争ってしまう。」
「愛しているのに、憎み合う。」
「これも因縁だ。」
老師の声は静かだった。
「夫婦縁障害の因縁もある。」
「夫婦の間に
絶えず悩みや苦しみが起こる。」
「そして――」
「中途挫折の因縁。」
「どれほど努力しても、
なぜか途中で失敗してしまう。」
青年は、思わず息をのんだ。
まるで、人生そのものを語られているようだった。
老師は言った。
「人の悲しみや苦しみは、
すべて因縁因果の道理から生じる。」
「だから――」
「苦しみをなくすには、
因縁を断つしかない。」
庵の外で風が鳴った。
しばらくして青年は言った。
「しかし、凡夫は
仏さまの言葉を聞かないことが多いですね。」
老師は苦笑した。
「その通りだ。」
「仏さまは、すべてをお見通しだ。」
「“そんなことをすれば不幸になる”
とすぐ分かる。」
「だが人間は――」
「楽しそうだからといって
やめない。」
「そして地獄の道へ進んでしまう。」
青年はうつむいた。
老師は続けた。
「それでも仏は、
凡夫を見捨てない。」
「さまざまな方便を使って
救おうとなさる。」
「それが――」
「大悲方便だ。」
火がまた小さく弾けた。
「凡夫は、すぐに愛想を尽かす。」
「夫婦でもそうだ。」
「最初は“生涯共に生きよう”と誓う。」
「だが、あまりに身勝手なら
やがて離れてしまう。」
青年はうなずいた。
「しかし仏は違う。」
老師の声は深かった。
「仏の慈悲には
限りがない。」
「どんな凡夫にも
愛想を尽かすことがない。」
「どれほど悪くても
見捨てない。」
「なんとかして救おうと
方便を重ね続ける。」
青年は、静かに息を吐いた。
「それが仏の大慈悲なのですね。」
老師はうなずいた。
そして、奥の棚から
小さな箱を取り出した。
ゆっくりと蓋を開く。
その中には――
小さな光の珠があった。
炉の火を受けて、
金色に輝いている。
青年は思わず息をのんだ。
「これは……」
老師は静かに言った。
「仏舎利だ。」
「仏さまは、末世の衆生を救うために
これをこの世に残された。」
そして老師は、ゆっくりと唱えた。
仏の慈悲のかぎりなく
大悲方便止まずして
末世の衆生救わんと
舎利をとどめ置き給う
変化法身仏舎利尊
納め祀れる霊詞なり
庵の中に
静かな光が満ちていた。
青年は、珠を見つめながら
小さくつぶやいた。
「これが……」
「末世を救う力なのですか。」
老師は答えた。
「そうだ。」
「仏舎利とは――」
「末世の衆生を救う
仏の力の本体なのだ。」
炉の火は静かに燃え続けていた。
そしてその夜、
青年の胸にも
小さな光が
灯り始めていた。

 

 

― 龍王と天部の誓い ―
春の雨が山を包んでいた。
杉の梢から落ちる水滴が、
庵の屋根を静かに叩いている。
炉の火の前で、青年は瞑想していた。
その前には、
水晶の器に納められた仏舎利。
黄金の珠は、
静かに光を放っている。
老師は低い声で言った。
「覚醒した舎利には、
必ず守護が現れる。」
青年は目を開いた。
「守護……ですか?」
老師はうなずいた。
「仏舎利は、
ただの遺物ではない。」
「仏の法身そのものだ。」
「だから、
それを守る存在がいる。」
その夜。
山に深い霧が降りた。
青年は庵の外に出て、
星のない空を見上げていた。
その時だった。
大地が
わずかに震えた。
遠くの谷から
低い響きが聞こえる。
――ゴォォォ……
風ではない。
雷でもない。
それは
巨大な何かの息だった。
霧の奥から
長い影が現れた。
それは
龍だった。
巨大な水晶の鱗を持つ
白い龍。
月のない空の下で
静かに空を巡っている。
青年は思わず膝をついた。
「龍神……」
龍は庵の上空を一周すると、
ゆっくりと降りてきた。
そして
仏舎利の上に
光を落とした。
その瞬間。
舎利が
強く輝いた。
黄金の光が
山を照らす。
龍の声が
心の中に響いた。
「仏の舎利よ。」
「我ら龍族は、
この光を守る。」
青年の胸が震えた。
だが、それだけではなかった。
山の森の奥から
さらに光が現れた。
赤い炎のような光。
青い雷の光。
金色の甲冑の光。
それは
天部だった。
護法の神々。
一人は
炎を背に立つ武神。
一人は
青い雷を纏う夜叉。
一人は
静かな光を放つ天女。
彼らは仏舎利の前で
静かに頭を垂れた。
炎の武神が言った。
「末世の衆生を救う光。」
「これを守るため、
我らはここに来た。」
雷の夜叉が続けた。
「闇の因縁は
必ずこの光を狙う。」
「だから我らは
剣を取る。」
天女は静かに言った。
「仏の慈悲は
尽きることがない。」
「この舎利は
その証。」
青年は震える声で言った。
「私は……
何をすればいいのでしょう。」
その時。
仏舎利が
静かに脈打った。
そして
小さな光が
青年の胸に
入った。
龍神の声が響いた。
「守るのは
我らだけではない。」
「人間よ。」
「お前もまた
守護者なのだ。」
山の夜は静かだった。
だが、その夜から――
庵の周囲には
見えない守護が満ちていた。
龍神。
天部。
そして
仏の光。
末世を照らす
宝珠舎利の守護は
いま始まったばかりだった。

 

阿含宗報

(1)

全12月20日

「抜苦与楽の観世音」などと言いますが、仏さまはまず、わたくしたちの苦を取り去ってくだ

「大悲方便」とありますが、仏さまは大慈大悲の当体とされま抜く大きまり苦しみを 取抜く、つまり、苦しみを取り去ることを意味します。一方の大意は与楽と言って、楽しみを与えることを指します。

「家運衰退の因縁」があるから、 る。命に仕事や商売へ励んでも、だんだんジリ貧になってしまう。良い運期に入れば、たまには幸運に恵まれることもあるけれども、全体的に見れば、この因縁のためにどうしても衰えていく。

「肉親血縁相剋の因縁」がある

とま

して、 便とけ

仏の慈悲のかぎりなく

大悲方便止まずして末世の衆生救わんと舎利をとどめ置き給う変化法身仏舎利尊

納め祀れる霊詞なり

と『仏舎利宝珠尊和讚」(以下、 「和談」)にありますが、仏舎利とはいったいどういうものか?

仏さまは末世の衆生も救わなければならない。そこで、末世の衆生を一人でも多く救おうという大悲の御心から、仏舎利をとどめおかれました。

「夫婦縁障害の因縁」があるから、夫婦のことについてさまざまな悩み、苦しみが生ずる。

「中途挫折の因縁」があるから、

物事を成功させようと思って一

生懸命に努力をしても、中途で

失敗してしまう。

中途で

苦をよっ方便」 みをという 「嘘

など

便とてしま 「方仏さま

す。1

めるためになった解型」

ましてや仏さまというのは

なにもかもお見通しで、

ことですよ

のですかくる人がかではないかな便り

しむのか?なぜ、いろいろな苦しみに遭うのか?

思い因縁を持っているからです。いかなることも、因縁因果の道理なくして生ずることはない。人間の悲しみや苦しみも全て、悪い因縁から発している。 したがって、苦しみをなくすには因縁を切るしかない。

上っの不苦しれた因緣にも

解脱によって解脱のおつまり「恋春を解いて取ってあげよを指すのです

「そんなことをやっていたらろくなことにならんぞ!」

と即座に分かります。それ心構えや言動を改めよと論さるけれども、凡夫はそれが面くて楽しいものですから、結やめずに地獄行きとなる。

しかし、なんとかそれを押とどめなければと考え、仏さ

傷つ

ある

な方法や手段を調凝らして、人々ることです。

仏さまは、わたを救うために、さをなさり、いろいろなれます。凡夫といい忠告を聞いてもしないことが多いどもね、その人をていろいろと指導し懸命に設えるのだれが耳に入らなかをする人が随分ともましてや仏さまなにもかもお見通 「そんなことをろくなことにならと即座に分かり構えやるけれども、夫くて楽しいものでやめずに地獄行きしかし、なんととどめなければとはさまざまな方のです。工夫を

の下で助けようとなさる。それか大想方便なのですが、凡夫には、その仏さまの尊い男心が分からないのですね。

仏さまの恋を持たれた存在ですから、凡夫に愛想をばかすと、うことがない。逆に、 凡夫はすぐに愛想を尽かしてしまう。わボーでさえ、あまりに道楽がひどければ愛想を尽かすでしょう。大でも同じですね「一生仲良く、白でげましょう」

とだい合って結婚しても、亭上があまりにも沿楽すれば、 れも愛想をかして離婚を申し出る。昔は亭主が威張っていて、 君に三行手を叩きつけることが多かったわけですが、最近はで、女性の方から離婚を突きつけるのが増えたそうですね。 を戻すと、最愛の夫婦でも、 提子でさえも愛想を尽かしてしまうことがあるけれども、広さまのは気ですから、愛想をぼかすということがない。 夫に正夫を重ねて、なんとか救おうとなきる。それが、

ということです。そこに、凡夫と仏さまとの大きな違いがあるわけです。

末世の業生を救う力の本体

「末世の

とどめ置き給う」とありますが、 世の東生というものは、もう、 教えや法だけでは救われなくなっています。救うだけのお力を持ったなにかを、仏さまがしておかなければ、末世の来生は後われません。

正己の時代ならば、そうではない正法の時代に生まれるのは、本当に徳のある人々ですから、仏さまの教えを聞いて着るだけで使われました。

先日の愛布教所のオーブン

に際し、管長メッセージを贈ったわけですが、その中で、わたくしはこのことに触れました。 正法の時代の人々は祈るだけでも救われたけれども、今のような末法の時代に生まれる者は業が深いため、仏や神に祈るだけでは救われないのですよ。やはり、救われるだけの実行・実践が必須です。救われるだけの徳を積まなければならない。

ればよい」 「ただ、一生懸命に祈りさえす現代人はそこを勘違いして。

「大方便止まずして」

と思っている。しかし、断る人たちのみです。 だけで救われるのは正法時代の

仏教では正法・法・末法という。三つの時代があるとします。打釈さまの教法がそのまま生きている、それが

佛説摩訶般若波羅नमः सर्वज्ञाय Namas Sarvajñāya

佛説摩訶般若波羅नमः सर्वज्ञाय

Namas Sarvajñāya
帰命  一切  智
きめい  いちさい ち
The Prajnaparamita-Hridaya Sutra
全知者である覚った人に礼してたてまつる

आर्यावलोकितेश्वरो बोधिसत्त्वो गंभीरायां प्रज्ञापारमितायां चर्यां
āryāvalokiteśvaro bodhisattvo gaṁbhīrāyāṁ prajñāpāramitāyāṁ caryāṁ
観自在菩薩、             行深 般若波羅蜜多
くわんじ ざいぼさつ          ぎやう じんはんにやはらみつた
When the Bodhisattva Avalokitesvara was engaged in the practice of the deep Prajnaparamita,
求道者にして聖なる観音(聖アヴァローキテーシュヴァラ)は、深遠な智恵の完成を実践していたときに、

चरमाणो व्यवलोकयति स्म ।
caramāṇo vyavalokayati sma |
時 照見
じ せうけん
he perceived:
かれは、見きわめた。

पञ्च स्कन्धास्तांश्च स्वभावशून्यान्पश्यति स्म ।
pañca skandhās tāṁś ca svabhāva-śūnyān paśyati sma |
五蘊皆空   度一切苦厄
ごうんかいくう  どいちさいくやく
there are five Skandhas ; and these he saw in their self-nature to be empty.
存在するものには五つの構成要素があると、しかも、これらの構成要素が、その本性からいうと、実体のないものであると

इह शारिपुत्र रूपं शून्यता शून्यतैव रूपम् ।
iha śāriputra rūpaṁ śūnyatā śūnyataiva rūpam |
舍利子  色即空, 空即色
しやりし  しきそくくう くうそくしき
O Sariptra, form is here emptiness, emptiness is form;
シャリープトラよ。この世においては、物質的現象には実体がないのであり、実体がないからこそ、物質的現象である。

रूपान्न पृथक्शून्यता शून्याताया न पृथग्रूपम् ।
rūpān na pṛthak śūnyatā śūnyātāyā na pṛthag rūpam |
色不異空,空不異色
しきふいくう くうふいしき
form is no other than emptiness, emptiness is no other than form ;
実体がないといっても、それは物質的現象を離れてはいない。また、物質的現象は、実体がないことを離れて物質的現象であるのではない。

यद्रूपं सा शून्यता या शून्यता तद्रूपम् ।
yad rūpaṁ sā śūnyatā yā śūnyatā tad rūpam |
色即是空, 空即是色
しきそくぜくう くうそくぜしき
what is form that is emptiness, what is emptiness that is form.
(このようにして)およそ物質的現象というものは、すべて、実体がないことである。およそ実体がないといいうことは、物質的現象なのである。

एवमेव वेदानासंज्ञासंस्कारविज्ञानानि ।
evam eva vedānā-saṁjñā-saṁskāra-vijñānāni |
受想行識,   亦復如是
じゆさうぎやうしき やくぶにょぜ
The same can be said of sensation, thought , confection, and consciousness.
これと同じように、感覚も、表象も、意思も、認識も、全て実体がないのである。

इह शारिपुत्र सर्वधर्माःशून्यतालक्षणा
iha śāriputra sarva-dharmāḥ śūnyatā-lakṣaṇā
舍利子,是諸法空相
しやりし ぜしょほうくうそう
“O Sariptra, all things are here characterized with emptiness :
シャリープトラよ。この世においては、すべての存在するものには実体がないという特性がある。

अनुत्पन्ना अनिरुद्धा अमलाविमला नोना न परिपूर्णाः ।
anutpannā aniruddhā amalāvimalā nonā na paripūrṇāḥ |
不生不滅,  不垢不淨,不增不減
ふしやうふめつ ふくふ じやう ふぞうふげん
they are not born, they are not annihilated ; they are not tainted, they are not immaculate ; they do not increase, they do not decrease.
生じたということもなく、滅したということもなく、汚れたものでもなく、汚れを離れたものでもなく、減るということもなく、増すということもない。

तस्माच्चारिपुत्र शून्यतायां न रूपं
tasmāc cāriputra śūnyatāyāṁ na rūpaṁ
是故空中,無色
ぜこくう ちう むしき
Therefore, O Sariptra, in emptiness there is no form,
それゆえに、シャリープトラよ 実体がないという立場においては、

न वेदना न संज्ञा न संस्कारा न विज्ञानं ।
na vedanā na saṁjñā na saṁskārā na vijñānaṁ |
無受想行識
じゆさうぎやう しき
no sensation, no thought, no confection, no consciousness ;
物質的現象もなく、感覚もなく、表象もなく、認識もない。

न चक्षुः श्रोत्र घ्राण जिह्वा काय मनांसि
na cakṣuḥ-śrotra-ghrāṇa-jihvā-kāya-manāṁsi
無眼耳鼻舌身意
むげんにびぜつしんい
no eye, ear, nose, tongue, body, mind ;
眼もなく、(耳もなく)、鼻もなく、舌もなく、身体もなく、心もなく、

न रूपशब्दगन्धरसस्प्रष्टव्यधर्माः
na rūpa-śabda-gandha-rasa-spraṣṭavya-dharmāḥ
無色聲香味觸法
むしきしやうかうみそくはふ
no form, sound, colour, taste, touch, objects ;
かたちもなく、声もなく、香りもなく、味もなく、触れられる対象もなく、心の対象もない。

न चक्षुर्धातुर्यावन्न मनोविज्ञानधातुः ।
na cakṣur-dhātur yāvan na mano-vijñāna-dhātuḥ |
無眼界   乃至無意識界
むげんかい  ないしむいしき かい
no form, sound, colour, taste, touch, objects ;
かたちもなく、声もなく、香りもなく、味もなく、触れられる対象もなく、心の対象もない。

न विद्या नाविद्या न विद्याक्षयो नाविद्याक्षयो
na vidyā nāvidyā na vidyākṣayo nāvidyākṣayo
無無明   亦無無明盡
むむみやう やくむむみやう じん
there is no knowledge, no ignorance,
さとりもなければ、迷いもなく、さとりがなくなることもなければ、迷いがなくなることもない。

यावन्न जरामरणं न जरामरणक्षयो
yāvan na jarāmaraṇaṁ na jarāmaraṇakṣayo
乃至無老死,亦無老死盡
ないしむらうし  やくむらうしじん
till we come to there is no old age and death, no extinction of old age and death ;
こうして、ついに、老いも死もなく、老いと死がなくなることもないというにいたるのである。

न दुःखसमुदयनिरोधमार्गा न ज्ञानं न प्राप्तिः ।
na duḥkha-samudaya-nirodha-mārgā na jñānaṁ na prāptiḥ |
無苦集滅道, 無智亦無得
むくしふめつだう  むちやくむとく
there is no suffering, accumulation, annihilation, path ; there is no knowledge, no attainment,
苦しみも、苦しみの原因も、苦しみを制してなくすことも、苦しみを制する道もない。知ることもなく、得るところもない。

तस्मादप्राप्तित्वाद्बोधिसत्त्वानां प्रज्ञापारमितामाश्रित्य
tasmād aprāptitvād bodhisattvānāṁ prajñāpāramitām āśritya
以無所得故, 菩提薩埵, 依般若波罗蜜多故
いむしよとくこ   ぼだいさつた  ゑはんにやはらみつたこ
[and] no realisation because there is no attainment. In the mind of Bodhisattva who dwells depending on the Prajnaparamita
それゆえに、得るということがないから、諸の求道者の智慧の完成に安んじて、人は、心を覆われることなく住している。

विहरत्यचित्तावरणः ।
Viharaty a-cittāvaraṇaḥ |
心無罣礙
しんむけげ
there are no obstacles;
心を覆うものがないから、

चित्तावरणनास्तित्वादत्रस्तो विपर्यासातिक्रान्तो निष्ठनिर्वाणः ।
cittāvaraṇa-nāstitvād atrasto viparyāsātikrānto niṣṭhanirvāṇaḥ |
無罣礙故,無有恐怖, 遠離顛倒夢想,    究竟涅槃
むけげこ   むう くふ  をんりいちさいてんたうむさう  くきやうねはん
and, going beyond the perceived views, he reaches final Nirvana.
恐れがなく、傾倒した心を遠く離れて、永遠の平安に入っているのである。

त्र्यधवव्यवस्थिताः सर्व बुद्धाः प्रज्ञापारमिताम्
tryadhavavyavasthitāḥ sarva-buddhāḥ prajñāpāramitām
三世諸佛,  [依]般若波羅蜜多[故]
さんせしよぶつ  ゑはんにやはらみつたこ
All the Buddhas of the past, present , and future, depending on the Prajnaparamita,
過去・現在・未来の三世にいます目ざめた人々は、すべて、

आश्रित्यानुत्तरां सम्यक्सम्बोधिं अभिसम्बुद्धाः ।
āśrityānuttarāṁ samyaksambodhiṁ abhisambuddhāḥ |
依[般若波羅蜜多]故, 得阿耨多羅三藐三菩提
ゑはんにやはらみつたこ  とくあのくたらさんみやくさんぼだい
attain to the highest perfect enlightenment.
智慧の完成に安んじて、この上ない正しい目ざめをさとり得られた。

तसाज्ज्ञातव्यं प्रज्ञापारमितामहामन्त्रो
tasāj jñātavyaṁ prajñāpāramitā-mahāmantro
故知般若波羅蜜多咒,是大神咒
こちはんにやはらみつた  ぜだいじんしゆ
Therefore, one ought to know that the Prajnaparamita is the great Mantra,
それゆえに人は知るべきである。智慧の完成の大いなる真言、

महाविद्यामन्त्रो ऽनुत्तरमन्त्रो ऽसमसममन्त्रः सर्वदुःखप्रशमनः ।
mahāvidyāmantro ‘nuttaramantro ‘samasama-mantraḥ sarvaduḥkhapraśamanaḥ |
是大明咒,   是無上咒, 是無等等咒, 能除一切苦
ぜだいみやうしゆ ぜむじやうしゆ ぜむとうどう しゆ のうぢよいち さい く
the Mantra of great wisdom, the highest Mantra, the peerless Mantra, which is capable of allaying all pain ;
おおいなるさとりの真言、無上の真言、無比の真言は、すべての苦しみを鎮めるものであり、

सत्यममिथ्यत्वात्प्रज्नापारमितायामुक्तो मन्त्रः
satyam amithyatvāt prajnāpāramitāyām ukto mantraḥ
真實不虛故,  說般若波羅蜜多咒
しんじつふこ  こせつはんにやはらみつたしゆ
it is truth because it is not falsehood: this is the Mantra proclaimed in the Prajnaparamita
偽りがないから真実であると。その真言は、智慧の完成において

तद्यथा ।
tad yathā |
即說咒曰
そくせつしゆわち
It runs:
次のように説かれた。

गते गते पारगते परसंगते बोधि सवाहा ॥
gate gate pāragate parasaṁgate bodhi savāhā ||
掲諦,掲諦,波羅掲諦,       波羅僧掲諦,  菩提娑婆訶
ギャーテーギャーテーハラギャー テー  ハ ラ ソー ギャー テー  ボジソワカ
‘Gate gate paragate, parasamgate, dodhi, svaha!’ (O Bodhi, gone, gone to the other shore, landed at the other shore, Svaha)!
ガテー ガテー パーラガテー パーラサンガテー ボーディ スヴァーハー(往ける者よ、往ける者よ、彼岸に往ける者よ、彼岸に全く往ける者よ、さとりよ、幸あれ)

इति प्रञापारमिताहृदयं समाप्तम् ॥
iti prañāpāramitāhṛdayaṁ samāptam ||
[般若波羅蜜多心經終]
はんにやしんぎやう
ここに智慧の完成の心が終わった。

解説

サンスクリットの母語はアラム語で、日本語の50音図もサンスクリットを参考にしたといわれる。正倉院に保管されていた最古の般若心経はオウギヤシに横書 きに梵字『シッタン(悉曇)文字』で表記されている。現代インドで公文書に使われているデーヴァナーガリー文字はシッタン直系の子孫で横書きでありパソコンで使え るフォントが用意されている。日本では梵字は毛筆で縦書きされるが、ここでは横書きのデーヴァナーガリー文字を使う。

ちなみにイエス・キリストも使ったとされるアラム語を話す人々が現在でも2万人程シリア南部の古都マアルーラに住んでいたがシリア反体制派アルカイダに占 拠され継承が危惧されている。キリストもシャカも既成宗教を改革したという点が重要で、いずれもアラム語系統の言葉を使っていたところに興味がわく。

デーヴァナーガリー文字のシローレーカー(頭線)と呼ばれる上部の横線画で繋がっている。この横棒は、書き順から言えば、最後に「仕上げ」として書かれ る。この書式は貝葉(ばいよう)または貝多羅葉(ばいたらよう)と呼ばれるオウギヤシにシッタン文字を鉄筆横書きするために考案された。世界最古の般若心 経を記録したオウギヤシの貝葉は法隆寺正倉院にある。日本でもタラヨウ(多羅葉、モチノキ科)があるが、この名は葉の裏に傷をつけると貝葉のように文字を 書くことができる。

日本語では「ひらがな」は5母音と10子音の組み合わせ5×10=50字が相当する。デーヴァナーガリー文字での母音表現は、子音が付かない場合に独立し た「母音字」で書かれるが子音が付く場合に子音字に「母音記号」(半体)を付加して1文字として扱われる。そして子音が続く(先行する字母の母音が省かれ る)場合は、結合文字(合字)になることが多い。基本的には、先行する子音字の右側が削られ、後続の子音字と結合した字形になる。というわけで、5母音と 36子音の組み合わせ5x36x36=6480字となる。

1段:デーヴァナーガリー文字(ISO15924Deva)、2段:IAST表記、3段:漢訳はifeng.comから。

IAST(International Alphabet of Sanskrit Transliteration)表記

namas sarvajñāya.

ārya āvalokiteśvara bodhisattvo gambhīraṃ prajñā pāramitāyāṃ caryāṃ caramāṇo vyavalokayati sma, pañca-skandhās tāṃś ca svabhāva-śūnyāṃ paśyati sma.
iha Śāriputra rūpaṃ śūnyatā, śūnyataiva rūpaṃ, rūpāṃ na pṛthak śūnyatā, śūnyatāyā na pṛthag rūpaṃ, yad rūpaṃ sā śūnyatā, yā śūnyatā tad rūpaṃ. evam eva vedanā saṃjñā saṃskārā vijñānāni.
iha Śāriputra sarva dharmāḥ śūnyatā alakṣaṇā anutpannā aniruddhā amalā avimalā nonā na paripūrṇāḥ
tasmāc Chāriputra śūnyatāyāṃ na rūpaṃ na vedanā na saṃjñā na saṃskāro na vijñānaṃ, na cakṣuḥ śrotra ghrāṇa jihvā kāya manāṃsi, na rūpa śabda gandha rasa spraṣṭavya dharmāḥ, na cakṣur dhātur yāvan na mano vijñāna dhātuḥ, n’āvidyā n’āvidyā-kṣayo yāvan na jarāmaraṇaṃ na jarāmaraṇa kṣayo na duḥkha samudaya nirodha mārgā na jñānaṃ na prāptitvaṃ.
bodhisattvasya prajñā-pāramitāṃ āśritya viharatya citt’āvaraṇaḥ. Citt’āvaraṇa nāstitvād atrasto viparyās’ātikrānto niṣṭha nirvāṇaḥ. tryadhva vyavasthitāḥ sarva buddhāḥ prajñāpāramitām āśritya anuttarāṃ samyak sambodhim abhisambuddhāḥ.
tasmāj jñātavyaṃ prajñāpāramitā mahā mantro mahā vidyā mantro anuttara mantro asamasama mantro sarva duḥkha praśamanaḥ satyam amithyatvāt. prajñāpāramitāyām ukto mantraḥ:
tadyathā gate gate pāragate pārasaṃgate bodhi svāhā.
iti prajñā pāramitā hṛdayaṃ samāptaṃ.

漢訳(小本 唐三蔵法師玄奘 649年訳)

佛説摩訶般若波羅蜜多心経

原典のタイトルnamas sarvajñāyaaは「帰命一切智」であり、namasは帰命の意味だが、日本では音読みして南無・・となる。たとえば南無阿弥陀仏は阿弥陀仏に帰命す るという意味となる。三蔵法師の訳は仏教を捻じ曲げている。仏教が中国にはいったとき、既に文章語と会話語は乖離していた。どちらの言語で翻訳すべきか考 えて、一般大衆にわかりやすいようにと口語体で翻訳したため、仏典は文語のルールでは読解できないものになってしまった。聖書も文語調が時代を越えて普遍 性をもっていたわけで、文語になってから読む人は少なくなった。

観自在菩薩。行深般若波羅蜜多時。照見五蘊皆空。
度一切苦厄。舎利子。色不異空。空不異色。
色即是空。空即是色。受想行識。亦復如是。
舎利子。是諸法空相。不生不滅。不垢不浄。不増不減。
是故空中無色。無受想行識。無眼耳鼻舌身意。
無色声香味触法。無限界。乃至無意識界。
無無明。亦無無明尽。乃至無老死。亦無老死尽。
無苦集滅道。無智亦無得。以無所得故。
菩提薩埵。依般若波羅蜜多故。心無罣礙。
無罣礙故。無有恐怖。遠離一切顛倒夢想。
究竟涅槃。三世諸仏。依般若波羅蜜多故。
得阿耨多羅三藐三菩提。故知般若波羅蜜多。
是大神呪。是大明呪。是無上呪。是無等等呪。
能除一切苦。真実不虚。故説般若波羅蜜多呪。
即説呪曰。羯諦。羯諦。波羅羯諦。波羅僧羯諦。
菩提薩婆訶。般若心経。

日本語訳(小本 インド哲学の国際的な権威東大名誉教授中村元(はじめ)、岩波文庫1960 年)

全知者である覚った人に礼してたてまつる。

求道者にして聖なる観音(聖アヴァローキテーシュヴァラ)は、深遠な智恵の完成を実践していたときに、存在するものには五つの構成要素があると見きわめ た。しかも、かれは、これらの構成要素が、その本性からいうと、実体のないものであると見きわめたのであった。

シャリープトラよ。

この世においては、物質的現象には実体がないのであり、実体がないからこそ、物質的現象で(ありうるの)ある。

実体がないといっても、それは物質的現象を離れてはいない。また、物質的現象は、実体がないことを離れて物質的現象であるのではない。

(このようにして)およそ物質的現象というものは、すべて、実体がないことである。およそ実体がないといいうことは、物質的現象なのである。

これと同じように、感覚も、表象も、意思も、認識も、全て実体がないのである。

シャリープトラよ。

この世においては、すべての存在するものには実体がないという特性がある。

生じたということもなく、滅したということもなく、汚れたものでもなく、汚れを離れたものでもなく、減るということもなく、増すということもない。

それゆえに、シャリープトラよ

実体がないという立場においては、物質的現象もなく、感覚もなく、表象もなく、認識もない。眼もなく、(耳もなく)、鼻もなく、舌もなく、身体もな く、心もなく、かたちもなく、声もなく、香りもなく、味もなく、触れられる対象もなく、心の対象もない。眼の領域から意識の識別の領域にいたるまでことご とくないのである。

さとりもなければ、迷いもなく、さとりがなくなることもなければ、迷いがなくなることもない。こうして、ついに、老いも死もなく、老いと死がなくなること もないというにいたるのである。

苦しみも、苦しみの原因も、苦しみを制してなくすことも、苦しみを制する道もない。知ることもなく、得るところもない。

それゆえに、得るということがないから、諸の求道者の智慧の完成に安んじて、人は、心を覆われることなく住している。心を覆うものがないから、恐れがな く、傾倒した心を遠く離れて、永遠の平安に入っているのである。

過去・現在・未来の三世にいます目ざめた人々は、すべて、智慧の完成に安んじて、この上ない正しい目ざめをさとり得られた。

それゆえに人は知るべきである。智慧の完成の大いなる真言、おおいなるさとりの真言、無上の真言、無比の真言は、すべての苦しみを鎮めるものであり、偽り がないから真実であると。その真言は、智慧の完成において次のように説かれた。

ガテー ガテー パーラガテー パーラサンガテー ボーディ スヴァーハー

(往ける者よ、往ける者よ、彼岸に往ける者よ、彼岸に全く往ける者よ、さとりよ、幸あれ)

ここに智慧の完成の心が終わった。

英訳(小本 鈴木大拙訳、Manual of Zen Buddhism, 1935)

The Prajnaparamita-Hridaya Sutra

When the Bodhisattva Avalokitesvara was engaged in the practice of the deep Prajnaparamita, he perceived: there are five Skandhas ; and these he saw in their self-nature to be empty.

“O Sariptra, form is here emptiness, emptiness is form ; form is no other than emptiness, emptiness is no other than form ; what is form that is emptiness, what is emptiness that is form. The same can be said of sensation, thought , confection, and consciousness.

“O Sariptra, all things are here characterized with emptiness : they are not born, they are not annihilated ; they are not tainted, they are not immaculate ; they do not increase, they do not decrease.

Therefore, O Sariptra, in emptiness there is no form, no sensation, no thought, no confection, no consciousness ; no eye, ear, nose, tongue, body, mind ; no form, sound, colour, taste, touch, objects ; no Dhatu of vision, till we come to no Dhatu of consciousness ; there is no knowledge, no ignorance, till we come to there is no old age and death, no extinction of old age and death ; there is no suffering, accumulation, annihilation, path ; there is no knowledge, no attainment, [and] no realisation because there is no attainment. In the mind of Bodhisattva who dwells depending on the Prajnaparamita there are no obstacles; and, going beyond the perceived views, he reaches final Nirvana. All the Buddhas of the past, present , and future, depending on the Prajnaparamita, attain to the highest perfect enlightenment.

“Therefore, one ought to know that the Prajnaparamita is the great Mantra, the Mantra of great wisdom, the highest Mantra, the peerless Mantra, which is capable of allaying all pain ; it is truth because it is not falsehood: this is the Mantra proclaimed in the Prajnaparamita. It runs: ‘Gate gate paragate, parasamgate, dodhi, svaha!’ (O Bodhi, gone, gone to the other shore, landed at the other shore, Svaha)!”)

サンスクリット原典、漢訳、日本語訳、英訳の対比表

サンスクリット原典漢訳日本語訳英訳āryā

āryāvalokiteśvaro観自在聖なる観音 or 聖アヴァローキテーシュヴァラAvalokitesvarabodhisattvo菩薩修行者 or 求道者Bodhisattvayāṁ
時ときにWhen or ingaṁbhīrāyāṁ行中・・・を実践engaged inprajñā般若智恵

Prajna

pāra波羅彼岸

para

mitā蜜多行の実践

mita

prajñāpāramitā般若波羅蜜多智恵の完成Prajnaparamitacar照見見きわめたperceivedsma

これらのthesepañca五五つのfiveskandhās蘊構成要素Skandhaspañca skandhās
五蘊五つの構成要素=色・受・想・行・識の5種five Skandhasca

しかもand, also as well as, moreover

度一切苦厄

śāriputra舎利子シャリープトラ=釈迦の十大弟子の一人Sariptrarūpa色物質的現象 or かたち or 存在formśūnya空実体がない

「旧約聖書」、「伝道乃書」第一章冒頭に「空の空 空の空なる哉 都(すべ)て空なり」 がある。ここで空はラテン語聖書ではVanitasであるから英語ではvainであろう。

emptinessrūpam śūnyata, śūnyataiva rūpam色性是空。 空性是色。 (玄奘は省略)物質的現象には実体がないのであり、実体がないからこそ、物質的現象であるform is here emptiness, emptiness is formna無 or 不ないnopṛtha異離れるother thanrūpān na pṛthak śūnyatā śūnyātāyā na pṛthag rūpam
色不異空。空不異色。実体がないといっても、それは物質的現象を離れてはいない。また、物質的現象は、実体がないことを離れて物質的現象であるのではないform is no other than emptiness, emptiness is no other than formyad rūpaṁ sā śūnyatā yā śūnyatā tad rūpam
色即是空。空即是色。およそ物質的現象というものは、すべて、実体がないことである。およそ実体がないといいうことは、物質的現象なのであるwhat is form that is emptiness, what is emptiness that is formevem eva亦復如是。これと同じようにThe same can be be said ofvedānā受感覚sensationsaṁjñā想表象thoughtsaṁskāra行意思confectionvijñānāni識認識consciousnesssarva諸すべてalldharmāḥ法存在するものthingslakṣaṇā相特性characterizedsarva-dharmāḥ śūnyatā-lakṣaṇā
是諸法空相この世においては、すべての存在するものには実体がないという特性がある。all things are here characterized with emptinessanutpannā aniruddhā amalāvimalā nonā na paripūrṇāḥ
不生不滅。不垢不浄。不増不減。生じたということもなく、滅したということもなく、汚れたものでもなく、汚れを離れたものでもなく、減るということもなく、増すとい うこともないthey are not born, they are not annihilated ; they are not tainted, they are not immaculate ; they do not increase, they do not decreasetasmā是故それゆえにThereforeyāṁ中 intasmāc cāriputra śūnyatāyāṁ na rūpaṁ
是故空中無色実体がないという立場においては、物質的現象もなくTherefore, O Sariptra, in emptiness there is no formcakṣuḥ-śrotra-ghrāṇa-jihvā-kāya-manāṁsi
眼耳鼻舌身意眼、耳、鼻、舌、身体、心eye, ear, nose, tongue, body, mindrūpa-śabda-gandha-rasa-spraṣṭavya-dharmāḥ
色声香味触法物質的現象 or かたち、声、香り、味、触れられる対象、心の対象form, sound, colour, taste, touch, objectscakṣur限眼visiondhātur界領域Dhatumano意意識consciousnesscakṣur-dhātur限界眼の領域Dhatu of visionmano-vijñāna-dhātuḥ意識界意識の識別の領域Dhatu of consciousnessna vidyā無明さとりと迷いがないno knowledge, no ignorancekṣayo尽なくなる

extinction

vidyākṣayo無明尽さとりと迷いがなくなることもない

jarāmaraṇaṁ老死老いと死old age and deathjarāmaraṇakṣayo老死尽老いと死がなくなるextinction of old age and deathduḥkha-samudaya-nirodha-mārgā
苦集滅道苦しみ、苦しみの原因、苦しみを制してなくすこと、苦しみを制する道suffering, accumulation, annihilation, pathjñānaṁ智知ることknowledgeprāptiḥ得得るところattainmentbodhisattvānāṁ菩提薩埵=菩薩諸の求道者のBodhisattvaViharaty a-cittāvaraṇaḥ
心無罣礙心を覆われることなく cittāvaraṇa-nāstitvād無罣礙故覆うものがないから atrasto無有恐怖恐れがなくthere are no obstaclesviparyāsātikrānto遠離一切顛倒夢想傾倒した心を遠く離れてgoing beyond the perceived viewsniṣṭha究竟永遠のfinalnirvāṇaḥ涅槃平安Nirvananiṣṭhanirvāṇaḥ究竟涅槃永遠の平安final Nirvanavyavasthitāḥ

いますof thetryadhavavyavasthitāḥ三世三世にいますof the past, present , and futurebuddhāḥ仏目ざめた人々Buddhassarva-buddhāḥ諸仏目ざめた人々すべてAll the Buddhasāśrityānuttarāṁ samyaksambodhiṁ
阿耨多羅三藐三菩提悟りattain to the highest perfect enlightenmentmantra呪真言Mantraprajñāpāramitā-mahāmantro
大神呪としているが般若波羅蜜多大呪とでも訳すべきだろう智慧の完成の大いなる真言Prajnaparamita is the great Mantramahāvidyāmantro
大明呪おおいなるさとりの真言the Mantra of great wisdom’nuttaramantro無上呪無上の真言the highest Mantra’samasama-mantraḥ
無等等呪無比の真言the peerless Mantrasarvaduḥkhapraśamanaḥ
能除一切苦すべての苦しみを鎮めるものでありis capable of allaying all painprajnāpāramitāyām ukto mantraḥ
般若波羅蜜多呪その真言は、智慧の完成においてMantra proclaimed in the Prajnaparamitagate羯諦(発音記号として)往ける者gonebodhi savāhā
菩提薩婆訶悟りよ、幸あれdodhi, svahahṛdayaṁ心こころHridaya

解説と謝辞

以下IAST表記は通常のアルファベットで代用してます。

サンスクリット原典、日本語訳、英訳に関しては亜細亜大学の飯島正先生の新潟のカントリーハウスで しっかりと教えていただきました。ここに感謝申し上げます。

先生は玄奘がaryavalokitesvaroを観自在と訳しているのはおかしいといわれました。aryは聖としましたが、高貴なという意味があり、 アーリヤという自分達の民族の自称となっています。アヴァローキテーシュヴァラは人名で聖アヴァローキテーシュヴァラとすべきであると。シャリープトラを 舎利子としたように 音訳すればよかったというわけです。鈴木大拙はここら辺を配慮してAvalokitesvaraとしています。ところが中村元・紀野一義注・訳「般若心経 金剛般若経」によると avalokitaは観、isvaraは自在という意味を持っているそうです。このように意訳することによって般若心経はブッダが直接言った言葉との誤解 を与えているような気がします。

前述のようにアヴァローキテーシュヴァラの後半の「シュヴァラ」は自在という意味を持っているようですがサンスクリットでは「というシバ」という意味があ ります。紀元前5世紀の仏教と同時代のジャイナ教創始者二代目の名前はゴーマテシュヴァラというそうだし、マヘーシュヴァラは大自在天と訳 され、仏教に改宗したシバだとされています 。

仏教以前のバラモン教の経典リグ・ ヴェーダに 出てくる強力な破壊神であるルドラの別名がシバですが、シバが唯一神になるのは仏教がインドで衰退した後の紀元前4-2世紀のヒンズー教においてです。ち なみにルドラはモンスーンの神格化であり、破壊をもたらすと共に、雨によって植物を育てるという二面性をもっております。玄奘は7世紀の人ですのでインド はヒンズー教時代に入っています。玄奘の持ち帰った仏教もヒンズー教の影響を受けていたの でisvaraという固有名詞も一般化していたのではないでしょうか?ヒンズー教のシバの子供の軍神スカンダは韋駄天として仏教に取り入れられています。

玄奘訳も法隆寺に残る棕櫚にかかれた世界最古のサンスクリット原典は実は前後が省略された短いもの(小本)ですが、チベットと奈良の長谷寺に残っているも の は長く、大本と呼ばれています。大本にあって小本にない部分にはブッダがラージャグリハ(王舎城)のグリドゥフラゥータ山(霊鷲山)で瞑想しているときに シャリープトラ長老が聖アヴァローキテーシュヴァラに「どのように深遠な智慧の完成を実践したらよ いか」との問いかけたことが記してあります。その時の聖アヴァローキテーシュヴァラの回答内容が小本と一致します。この問答を聞いていた ブッダが聖アヴァローキテーシュヴァラの発言に賛意を表明したという形をとっています。

アヴァローキテーシュヴァラを観世音と訳したのは玄奘より前の402年の鳩摩羅什( インド系クチャ人のクマーラジーバァ)だったようです。衆生に音声を観ぜしめるという意味をもたせようとしたためとのことです。このようなわけで日本では 聖アヴァローキテーシュヴァラは 観音となり、観音霊場めぐりと いう巡礼の形にまで発展することになったようです。観音の別名として施無畏があるように一般大衆は何ものをも恐れぬ力を与えてくれることを期待しているので す。しかし原典は「全否定してしまえば、心が安らぐ」という聖アヴァローキテーシュヴァラのすざましい修行の決意を語ったもので真理に迫る手段としてギリ シアの哲学者ゼノンが創始 した弁証法のもっている「否定の精神」と一脈通じるものがあります。

鈴木大拙とドイツのミューラーはこれらを全て知った上で英訳しているようです。ここでは鈴木大拙の小本の英訳を採用いたしました。

飯島生先生はまたprajnaparamita-maha-mantoroを大神呪と訳したことは正しくないと指摘されました。興味を持って柳澤桂子の「生きて死ぬ智慧」にあるリービ英雄 の英訳を参照しました。彼は漢訳から英訳していますが、是大呪 をPerfect Wisdom is the great mantraとしています。さすがgodは採用していません。玄奘より前の402年の鳩摩羅什( インド系クチャ人のクマーラジーバァ)訳ですら神を使っておりません。中村元氏は神の字は漢訳者の挿入と片づけています。

鈴木大拙の英訳はリービ英雄の英訳に近く、Prajnaparamita is the great Mantraとしています。 いずれも玄奘訳の影響を受けています。しかし私は中村元の現代語訳が最も原典に忠実だと思います。原典に忠実にしようとすれば玄奘は般若波羅蜜多大呪とで も訳すべきだろうし。鈴木大拙はTherefore, one ought to know that the great Mantra of Prajnaparamita, the Mantra of great wisdom, the highest Mantra and the peerless Mantra are capable of allaying all painとでも訳すべきだったと思うのです。

その他にも対比作業をしていて玄奘訳はrupam sunyata, sunyataiva rupamを省略していることにも気がつきました。玄奘より後の大本の法月訳をみますと色性是空 空性是色と訳されています。三段論法的展開をくどいと考 えたのでしょうか?

逆に「度一切苦厄」に相当する原典がみつかりません。

菩提薩埵略して菩薩はbodihisattvanamの音訳である。ボーディ(悟り)をめざす者という意味です。仏陀となるまえのシダールタをボディー サットヴァと呼んだが、仏教成立後は一般に悟りをめざして修行するものまたは求道者を指すようになったとい います。

「心無罣礙、無罣礙故、無有恐怖、遠離一切顛倒夢想」に相当する原典がどれかはオンラインのサンスクリット辞書で調べて 推察しました。古典サンスクリット語は屈 折語のため、語尾変化があり 、苦労しました。中村元の本を先に手に入れていればもっと楽だったと思います。

サンスクリット語は屈折語、漢語は孤立語ですが、語順がほぼ同じSVOであるため、翻訳といっても単語を漢字に置き換えてゆけばよいということを実感しま した。それに漢字を表音文字として使うときはやけに漢字数が増えますが、漢字一文字の意味が単語1個に相当する場合も多く、漢訳はコンパクトになっていま す。

日本語は膠着語でかつ語順がSOVですので屈折語からの翻訳は面倒です。飯島先生も指摘されていますが、日本の坊さんがサンスクリット原典を手に入れなが ら原典からの日本語訳をしなかったのは怠慢ではないのでしょうか。それに比べ 、キリスト教はそれぞれの国の現代語訳をしていて信者のなかで原典が生きています。日本の仏教が形骸化、様式化していって葬式仏教となりはて、宗教としては 自滅してしまったのも理解できます。

原典は三段論法などロジックを大切にしていますが、漢訳はかなり意訳してコンパクトにし、韻を踏んで感性に訴えるようになっていると感じました。最後など 訳さずムニャムニャとしているところなど最たるものでしょう。

余談ですが、インドネシア語にサマサマという語があります。サンスクリット由来なのかなと思いました。

読経は鹿児島の最福寺と江ノ島大師法主池口恵觀の読経教則CD(日本コロンビア)がお薦め。i-Podに収納してときどき聞いて巡礼に備えております。池 口恵觀は安倍首相と親しい宗教家で小泉前首相の遠縁にあたるそうです。

さてお経のマントラの響きはグレゴリオ聖歌とおなじような響きを持っている。唐から日本にお経が入ってきた時代はちょうどグレゴリオ聖歌ができたカロリング王朝と同時代に相当する。

蛇足

渡辺美智雄外務大臣とサッチャー女史の「色即是空、空即是色」に関する笑い話、醒睡笑21シリアル番号20

友人の田中利氏から

「般若波羅蜜陀」は原典サンスクリット語では「panna paramita」完全な音写で漢字の意味とは全く関係がない。これに表意文字である漢語の意味をボンヤリ上乗せし解った様な事を言ってゴマかしていたの が日本の仏僧ではないか?と言う疑念が消えない。仏僧にとって解り難い事は貴重なものと言う錯覚の上に、危ない遣唐使船に乗った。本当はインドへ行くべき!イン ドでサンスクリット原典から学ぶべき事を、音写漢訳で行ったのではあるまいか?乱暴な推論で根拠を今、スグ実証することは出来ないが、多分、正しいと思 う。葬式の度に聞く、坊さんの経文は耐え難い苦痛であるにも関わらず、千年も放置した仏教界の怠慢は萬死に値する。釈迦の言葉には人間の真理を衝き、納 得、感銘出来るもの、多々ある。
それを知っていながら解らなさと韜晦に終始した仏教界の罪は大きい。国家鎮護宗教から民衆救済に眼を向けた親鸞でさえ、和語による説教に絶望した果ての 『ナムアミダブツ』ではなかったか?(ここは自信のない推論)経文がサンスクリット原典から日本語に翻訳され、関西弁で説教されていれば、もう少しマシな 日本史が持てた筈だ。『般若心経』にある「色即是空、空即是色」はナンとなく理解できるが「羯諦羯諦波羅羯諦」は理解不能。音写をもとにサンスクリット語 で探った新井満は「生まれ変わるぞ 生まれ変わるぞ もうすぐ生まれ変わるぞ 完全に生まれ変わった」と訳している。正誤判断は私の能力を超える。正しい としても、「ギャーテイギャーテイハラギャーテイ」と発音、読経して、こんな意味が信徒に伝わる筈がない。解らないのは愚昧なる民衆、不勉強のせい、と言 う仏教界。大衆化路線の無い宗教、政治は腐敗するしかない。
グーテンベルグはラテン語聖書をドイツ語で翻訳出版するために活字を考案した。その後、英仏伊…各国語の翻訳が続き、聖書を個人が読めるようになった。そ れまで聖書は教会の牧師から授かる、神の言葉、一方通行の言葉でしかなかった。(この辺り一三理論より剽窃)個人が読書で神と対話、一対一の関係が成熟 し、はじめてルターの宗教改革が可能だった。外来語を意味不明のまま放置して使用、日本のどこかで思考停止が企てられ、「難解」である事が都合の良い人々 がいた事以外あり得ない。こうして曖昧、不確かな外来語のカタカナ表記の氾濫が、2000年の今日も続いているのだ、と思う。

と書いてきた。次は私の返書。

サンスクリットの漢訳についてですが、私はこれでよいと思っています。というのも般若 心経などあまりにも圧縮されていて、現代語に訳したところで、大してありがたくはありません。秩父や坂東を全て歩いて観音堂ごとに般若心経を唱えました が、グレゴリオ聖歌ににて、恍惚の境地を味わったこともあります。ローマンカトリックも聖書はラテン語で頑張って、司教経由でなければありがたい教えをわ からないようにしていたわけですね。聖職者の権威をたかめて彼らが甘い汁を吸うためで。それはけしからんとプロテスタントがでてきてようやく各国語に 翻訳されるわけです。でもギリシア語の原典は翻訳に耐える内容をもっていた。イスラム教は未だに全てアラビア語で意味も分からず、そのまま暗唱することが求められています。ペルシャ人にとってはちんぷんかんぷんですが、暗唱はできるんですね。そ れでもいまだにこれを押し通しています。ミナレットから聞こえてくるアザーンの詠唱などはいいですね。ただ、だから狂信者がでて自爆テロに走るのかもしれま せん。

翻訳について川上さんが「日本が敗けた相手の連合国は英語でUnited Nationsだが、日本が戦後加盟したのは国連ということになっている。しかし英語でこれもUnited Nationsであり、同じもの。外務省の役人が国民を欺くために国際連合とあえて誤訳した」とのこと。川上はあざといと怒っていました。だからいくら国連 に献金しても敗戦国は国連で拒否権など手にすることはできない。くやしければもう一度戦争して勝たねばならないというのが国際関係で、翻訳でごまかしてい るからいつまでたっても自分の立ち位置がわからず靖国に参拝しては、隣国から非難をあびるわけです。なにせ中国は戦勝国なんです。対中15年戦争で日本は敗けたのです。無論中国は連合国のおかげで 勝ったわけですが。安倍さんがなにしても戦争責任問題に自ら決着をつけなければ前にすすめません。ピカドンがありますからいまさら名誉回復の戦争はできない。これって自虐史観という人がいます が、近隣に迷惑をかけた歴史を無視し、自らを正当化する歴史認識にこだわるのは麻薬患者とおなじような自己欺瞞にすぎないのではないでしょうか?

田中氏が南京中医薬(漢方)大学四年生、22歳、一児の母の以下のコメントをもらった。

◎ 般若波羅蜜多
ban rue bo luo mi duo  ・・・彼女振った現代中国語の発音、アルファベット表記
[意味]
般若…この熟語は現代中国語にはない、日本へ来て、初めて鬼の事だと知った
波羅…パイナップルの事、八百屋で、この表記を使う
蜜多…甘い蜜多し、波羅と続くと、とても甘いパイナップルとなる

◎色 即 是 空  空 即 是色
se ji shi kong kong ji shi se ・・・彼女振った現代中国語の発音、アルファベット表記
[意味]
仏教の言葉らしい事は解るが、現在、余り聞かない。学生用語として
『ガンガン行く、迷わず進む、Going My Way!』の意味で冗談ッポイ使い方をする

◎掲諦掲諦掲諦波羅掲諦 ・・・彼女振った現代中国語の発音、アルファベット表記
jie ti jie ti bo luo jie ti
[意味]
「波羅」以外、何の意味も感じない!

今の中国人の気分を代表している。

Rev. January 9, 2014

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仏說摩訶般若波羅蜜多心

仏說摩訶般若波羅蜜多心

唐三藏法師玄奘=訳

観自在菩薩。行深般若波羅蜜多時。照見五蘊皆空。度一切苦厄。

舍利子。色不異空。空不異色。色即是空。空即是色。受想行識

亦復如是。。是諸法空相。不生不滅。不垢不净。不增不減。

是故空中。無色。無受想行識。無眼耳鼻舌身意。無色声香味触法。

無眼界。乃至無意識界。無無明。亦無無明尽。乃至無老死。

ー亦無老死尽。無苦集滅道。無智亦無得。以無所得故。菩提薩埵。
依般若波羅蜜多故。心無罣礙。無罣礙故。無有恐怖。 むーラーくーム

遠離(一切)顛倒夢想。究竟涅槃。三世諸仏。うしー
般若波羅蜜多故。得阿耨多羅三藐三菩提。故知般若波羅蜜多。
是大神咒。是大明咒。是無上咒。是無等等呢。能除一切苦

揭帝。揭帝。般羅揭帝。般羅僧揭帝。菩提僧莎訶。

般若波羅蜜多心经。

 

 

 

Buddha’s Prayer, Prajnaparamita, Many Minds

Tang Sanzang Dharma Master Xuanzang = Translation

Bodhisattva who can see freely. Deep prajnaparamita time. Terumi Gokan all empty. No trouble at all.

Toshiko. Colorless sky. The sky is unique. The color is empty. The sky is colored. concept of conduct

Please restore it. . All laws are empty. Immortal and immortal. Incorruptible. Never increasing.

Therefore in the air. colorless. Non-conceptual behavior. No eyes, ears, nose, tongue, body or mind. Colorless voice flavor touch method.

Eyeless world. Or the unconscious world. Ignorance. I am completely ignorant. Or death without old age.

– Or death without old age. The path of no suffering. No wisdom, no gain. Because I have no income. Bodhisattva temple.
There is a lot of trouble in Haramitsu. Feel free to write. No scars. Fear of nothingness. Muller Kum

Far-flung reverie. Ultimate Nirvana. The three Buddhas. Ushii
Prajnaparamita is a failure. Tokuaratara Sango Sambodhi. The late wisdom Prajnaparamita.
This is great god. This is great. Don’t worry about it. There is no such thing. All suffering

Emperor Ban. Emperor Ban. Emperor Hiraban. Pharaoh monk Ban-di. Bodhisattva Sangha.

Prajnaparamita multi-heart system.

 

 

बुद्ध प्रार्थना, प्रज्ञापारमिता, अनेक मन

तांग संझांग धर्म गुरु Xuanzang = अनुवाद

बोधिसत्त्वः यः स्वतन्त्रतया द्रष्टुं शक्नोति। दीप प्रज्ञापारमिता समय। तेरुमी गोकन सर्वे रिक्ताः। न सर्वथा क्लेशः।

तोशिको । निर्वर्णाकाशम् । आकाशः अद्वितीयः अस्ति। वर्णः शून्यः अस्ति। आकाशः वर्णितः अस्ति। आचरणस्य अवधारणा

कृपया पुनः स्थापयतु। . सर्वे नियमाः शून्याः सन्ति। अमरः अमरः च । अविनाशी । कदापि न वर्धमानः।

अतः वायुतले । निर्वर्णः । असंकल्पनात्मकः व्यवहारः। न चक्षुः कर्णनासिका जिह्वा न शरीरं न मनः | निर्वर्ण स्वरस्वाद स्पर्श विधि।

अनेत्रहीनं जगत्। अचेतनं वा जगत्। अज्ञानम् । अहं सर्वथा अज्ञानी अस्मि। जरा विना मृत्युः वा।

– जरा विना मृत्युः वा। न दुःखस्य मार्गः। न प्रज्ञा न लाभः। यतः मम आयः नास्ति। बोधिसत्व मन्दिर।
हरमित्सु-नगरे बहु क्लेशः अस्ति । निःशङ्कं लिखन्तु। न दागः। शून्यत्वस्य भयम् । मुलर कुम

दूरस्थः स्वप्नः । परम निर्वाण। त्रयः बुद्धाः। उशिइ
प्रज्ञापारमिता विफलता। टोकुआरातर सङ्गो सम्बोधि। स्वर्गीय प्रज्ञा प्रज्ञापारमिता।
अयं महान् देवः। एतत् महत् । तस्य चिन्ता मा कुरुत। न तादृशं वस्तु अस्ति। सर्वं दुःखम्

सम्राट् बाण। सम्राट् बाण। सम्राट् हिराबन् । फारो भिक्षु बाण-दी। बोधिसत्त्व संघ।

प्रज्ञापारमिता बहुहृदय प्रणाली।

 

私はこのように聞いています。お釈迦様が大勢の出家した弟子達や菩薩様達と共に王舎城の霊鷲山にいらっしゃった時、お釈迦様は深い悟りの瞑想に入られました。

その時、観音さま(観自在菩薩)は深淵な“智慧の完成(般若波羅蜜多)”の修行をされて次のように見極められました。

「人は私や私の魂というものが存在すると思っているけれど、実際に存在するのは体、感覚、イメージ、感情、思考という一連の知覚・反応を構成する5つの集合体(五蘊)であり、そのどれもが私ではないし、私に属するものでもないし、またそれらの他に私があるわけでもないのだから、結局どこにも私などというものは存在しないのだ。

しかもそれら5つの要素も幻のように実体がないのだ」と。そして、この智慧によって、すべての苦しみや災いから抜け出すことができました。

お釈迦さまの弟子で長老のシャーリプトラ(舎利子)は、観音様に次のように尋ねました。

「深淵な“智慧の完成”の修行をしようと思えば、どのように学べばよいのでしょうか?」それに答えて、観音様はシャーリプトラに次のように説かれました。

「シャーリプトラよ、体は幻のように実体のないものであり、実体がないものが体としてあるように見えているのです。

体は幻のように実体のないものに他ならないのですが、かといって真実の姿は我々が見ている体を離れて存在するわけではありません。体は実体がないというあり方で存在しているのであり、真実なるものが幻のような体として存在しているのです。