素晴らしい素材です阿閦如来 ― 揺るがぬ心の王
東の空が、まだ夜の名残を抱いたまま淡く染まりはじめるころ、妙喜世界には静かな光が満ちていた。
怒りも恐れも、波のように生まれては消えていくこの世にあって、ただ一つ、決して揺れぬ心がそこに座していた。
阿閦如来――
その名は「揺るがぬ者」「怒りに染まらぬ者」を意味する。
かつて、はるかな昔。
一人の比丘が、大目如来の説法を聞き、胸の奥で炎のように悟りを求める心を燃やした。だが修行の道は、静けさだけで満ちているわけではなかった。侮辱、苦悩、裏切り、失望。人の心を最も容易に揺るがすもの――それは怒りだった。
しかし彼は、どれほどの侮りを受けても、どれほどの苦しみに触れても、心を瞋恚に染めることはなかった。
怒りが湧き上がる前に、彼はその奥に潜む苦しみを見つめ、静かに抱きとめた。
「怒らぬ者こそ、真に自由である。」
その不動の誓いゆえに、彼は阿閦菩薩と呼ばれるようになった。
時は流れ、幾劫もの修行の末、ついに彼は覚りを成就し、阿閦如来となった。
いまも東方、妙喜世界に住し、迷える衆生に向かって静かに説法を続けているという。
その姿は、青き光を帯び、静かに大地に触れる右手を下ろしている。
それは触地印――釈尊が魔軍の妨げに遭ったとき、地を証人として呼び、迷妄を打ち砕いたあの印である。
「この大地こそ、私の真実を証する。」
雷鳴が轟き、稲妻が走り、悪魔たちは退散したと伝えられるその瞬間は、阿閦如来の姿にも重ねられている。
彼は怒りを力で抑え込むのではない。怒りそのものを、智慧の光で溶かしていく。
阿閦如来の智慧は「大円鏡智」と呼ばれる。
それは、汚れなき鏡のように、世界をそのまま映し出に曇らされず、ただ真実を、ありのままに見る心である。
その前に立つ者は、自分自身の姿を否応なく見せられる。
怒り、嫉妬、恐れ、執着――
だが同時に、そこには希望も、慈しみも、目覚めの種も映し出される。
阿閦如来は語らない。
ただ沈黙のまま、地に触れる指先で、衆生の心を大地へと戻す。
「揺らぐものは、揺らぐままに。
揺らがぬものは、すでに汝の内にある。」
修行者が真言を唱えるとき、
「オン・アキシュビヤ・ウン」
その音は、怒りの奥にある苦しみを鎮め、
恐れの奥にある執着をほどき、
心の深奥に眠る“不動の場所”へと導く。
嵐のただ中でも、心を静かに保つ者がいる。
世界が燃え上がっても、怒りに燃えない者がいる。
その者の背後には、見えぬかたちで、阿閦如来が立っている。
揺るがぬ心は、剣よりも強く、炎よりも静かである。
怒らぬ者こそ、最も深く世界を抱く者である。
そして今日も、東方の妙喜世界では、
青き如来が静かに地に触れ、
すべての迷える心に、揺るがぬ光を映し続けている。




