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チャクラを巡る気息の旅

第一章 息の門(いきのもん) ※既に執筆済み

「呼吸とは何か」。修行者トウマが、身体と心に宿る十五種の呼吸を通して、“気息”の実相にふれる。

第二章 チャクラを巡る気息の旅

気息をチャクラへ導く修行が始まる。アージュニャー(眉間)からサハスラーラ(頭頂)へ、トウマは「心の中心」へと沈潜していく。師との対話と内観が交差する。

第三章 観の剣 ― 四神足法・観神足

息によって静まった心で「観る」力を鍛える章。煩悩の根がどこにあるか、自己をどう照らし出すか。観神足における智慧と、その鋭さが描かれる。

第四章 意志の試練 ― 欲神足・勤神足

修行の中で、かつての執着や迷いが再びトウマを試す。「欲」と「勤め」の二足がどのように働くのか、内なる闘いの中でトウマは答えを見出す。

第五章 禅定の翼 ― 心神足と空への跳躍

心が統一され、意識が次の段階へと移行する。瞑想の深みで出会うもの、そして「空(くう)」の入口に立つトウマの姿。

第六章 滅尽の息、永遠の光

「滅入息・滅出息・止息」の果てにある境地――。四神足の完成とともに、トウマは自我の彼方へと旅立つ。息が止まったその先に、何があるのか。

第二章 チャクラを巡る気息の旅

夜がまだ明けきらぬ刻――
トウマは庵の奥、蝋燭一本の明かりの下に坐していた。身を静め、意識を深く沈めるたびに、内なる世界がひそやかに開いてゆく。

呼吸はもはや「吸って、吐く」という単純な行為ではなかった。
それは「気」を導く行法となり、心と身を超えた深奥の旅路となっていた。

「次は、気息を巡らせよ。お前の内にある、七つの門を越えて行け」
かつて師が残したその言葉が、脳裏に澄んで響く。

――チャクラ。
インドのヨーガでは、七つのエネルギー中枢として知られるが、仏法の深い行法においても、それは**“心の聖域”**として用いられてきた。

トウマは、静かに気を集める。

まず意識を丹田に向ける。
下腹部――ムーラーダーラ。
そこは、命の根が宿る場所。欲望、恐れ、生存の執着。
「心の行息・入息」――息を、その源へと導く。
まるで赤い炎が、腹の底からゆらりと立ち上がるような感覚。
それを、ひと息ごとに少しずつ、上へ――上へと、昇らせてゆく。

つぎに、臍(へそ)のあたり、スヴァーディシュターナ。
ここには、快楽と感情の波が眠っていた。
だが、気息を通すと、それらは鎮まる。
渦巻く欲動が、静かな水面に変わっていく。

さらに上、みぞおちにあるマニプーラ。
意志の力が宿る。怒り、野心、支配欲。
トウマは思わず眉をひそめた。
かつてこの場所に、何度も己の弱さを見た。
だが今は、呼吸によって整えられた気息が、そこに穏やかな黄金の光を宿らせる。
意思は、欲ではなく、道を求める力として形を変え始めていた。

そして、心臓の中心――アナーハタ・チャクラへ。
胸に宿るこの場所は、慈悲と悲しみの交錯点。
ここでトウマは、師の顔を思い出す。
語りかけてくれた日々、厳しさの奥にあった深い優しさ――
「慈しむ心がなければ、息はただの風だ」
その教えが、今ようやく身に沁みる。

息は喉を越え、ヴィシュッダ・チャクラへと届く。
ここでは、言葉と真実が試される。
修行を語る者が、それにふさわしい沈黙を持つこと。
声は、真理を語らなければならない。
トウマは、過去の無駄な言葉を思い出し、胸の内でそれを詫びた。

やがて、気息は眉間へ――アージュニャー。
ここは“第三の目”、思考の中心、観神足の入口。
すべてを観る心。
目に見えぬものを見抜く智慧。
気息は、細く、鋭く、そして深くそこへ流れ込む。

最後に、サハスラーラ――頭頂。
チャクラを超えた場所。
そこはもう、“場所”ですらない。
ただ、全体とつながる感覚だけがあった。

身体も心もすでになかった。
あったのは、息の流れと、そこに宿る光の感覚だけ。

**

どれほどの時が流れたのか、トウマには分からなかった。

ふと、目を開けると、朝の光が障子越しに淡く差し込んでいた。
だが、それが昨日までの光とはまったく違って感じられた。

光の中に、無数の気流が見える。
草木のざわめきにも、呼吸がある。
世界そのものが、「大いなる息」として、彼の前に現れていた。

トウマは、ひとつ、静かに吐息をついた。

その吐息は、もはや「自分」ではなかった。
宇宙とひとつになった――真なる息だった。

第三章 観の剣 ― 四神足法・観神足(かんじんそく)

「見るのではない。観(み)よ。  観るとは、心をひらいて、心そのものを見つめることだ」
――師の言葉

**

夜の帳(とばり)が落ちた庵の奥。
トウマは、薪がはぜる音を背に、再び坐った。
外界の光が消えると同時に、内なる光が目を覚ます。

観神足――
それは、心を観る力。
だが、師は言った。

「心を観るとは、心の奥を覗くことではない。
それを突き放して見ることでもない。
ただ、“在る”ものとして、手放しながら見続けるのだ」

トウマは、呼吸を整え、内なる空間へと意識を沈めた。
すぐに思念が湧く。

〈明日の食事はどうするか〉
〈あのときの言葉は失礼だったか〉
〈修行は進んでいるのか?〉

どれも、無意識のうちに心を支配していたものだ。
が、今の彼は、それらを追わない。
浮かぶがままに任せ、ただ観る。

しばらくすると、ある映像が浮かび上がってきた。

――父が、怒鳴っている。
幼き自分が、泣きながら机の下に隠れている。
その時の、身体の震えと、息の詰まる感じが、まざまざと蘇る。

(これは、記憶だ……だが、いまも私の心に棘のように刺さっている)

「観よ」
師の声が、幻のように胸奥に響く。

トウマは、その記憶を「正しく観よう」と努めた。
怒りと恐怖の裏にある、幼き自分の“求めていたもの”――
それは、愛されたかった、認められたかったという、言葉にならない叫びだった。

息が、喉元で細く震える。

そのとき、彼は気づいた。
過去の体験が、どれほど現在の心の反応に影響を与えているか。
どれほど多くの「いま」が、「かつて」に操られているか。

そして、そのすべてをただ観ることが、
心を解放する唯一の道なのだということに。

観るとは、裁かず、分析せず、
ただ「あるがままを知る」ことだった。

観神足とは、まさにこの気づきの剣。
煩悩の根を断つのではない。
煩悩がどこから生じてくるかを、
まるで光で照らすように、浮かび上がらせる行法である。

**

やがて、心は静かになった。

思念は去り、感情も波立たない。
深い湖面のような静けさの中に、ただ「いま」があった。

トウマはゆっくりと目を開けた。
目に映るものは、昨日と同じ庵の光景――
だが、それを観る「眼」が違っていた。

ものごとは、そのまま在る。
良し悪しも、美しさも、彼の心がそれを定めていただけだった。
それに気づいたことで、世界は、ひどく静かで、優しかった。

**

翌朝、トウマは師のもとへ歩いた。

師は火鉢のそばで、静かに湯を沸かしていた。
彼が何も語らぬうちに、師はひとこと、呟いた。

「観ることを学んだな。
これより先は、“意志の試練”が待っておるぞ」

トウマは、ただ一礼した。
心の奥に、観神足の剣が灯っている。
それが、彼を導いてゆくだろう。

第四章 意志の試練 ― 欲神足・勤神足(よくじんそく・ごんじんそく)

庵の外、木々のあいだから朝日が洩れている。
小鳥の声も、薪のはぜる音も、すべてが整っているように感じられた。

だが、トウマの胸の内には、静かな波が起こっていた。

**

「それは、“意志”と呼ばれているが、欲そのものかもしれぬ」
師がそう語ったのは、観神足の修行を終えた夜のことだった。

「お前が何を望んでいるのか。それを見極めよ」
「そして、それを続ける力があるかどうかも」

それが、**欲神足(よくじんそく)と勤神足(ごんじんそく)**の本質だった。

**

トウマは、深く呼吸しながら、自らの胸に問いかけてみる。

(なぜ、自分は修行を続けているのか?)
(悟りを得たい? 解脱したい? それとも――)

〈誰かに認められたいのではないか〉
〈優れた修行者として見られたいのではないか〉
〈あの師に褒められたいのではないか〉

心の底から、言葉にならぬ“欲”が、ぬるりと顔を出した。

(これが、私の意志の正体か……?)

それは決して「悪」ではなかった。
けれど、澄んだ道を歩むには、濁りの源でもあった。

師は言った。

「欲を持つことを恐れるな。
問題は、それに飲まれ、自らを偽ることだ」

欲神足とは――
欲そのものを燃料にして、道を歩む力に転じる技法。
つまり、欲を否定せず、選び取るのだ。
何を望むのか。
なぜ、それを望むのか。
その問いに、嘘なく答えられるかどうかが、すべてだった。

**

トウマは山を歩いた。
かつての修行道を、ひとり登った。

草のにおい。
小川のせせらぎ。
風が頬を撫でる。

そのすべてが、彼の「意志」を問いかけてくるようだった。

(もしも何も得られなかったとしても、この道を歩き続けるだろうか?)

そう自問したとき、胸の奥に、ほのかな熱が生まれた。

それは「野心」ではなかった。
それは「執着」でもなかった。

ただ、この道を歩きたいという、小さな、だが確かな願いだった。

**

夜、庵に戻ったトウマは、師の前に坐した。

「欲を見たか?」と師は訊いた。

トウマは頷く。

「はい。見ました。……ですが、まだそのすべてを手放すことはできません」

師は笑った。

「手放す必要などない。ただ、持ち運び方を知ればいい。
欲を火種とせよ。
それを続けることが、勤神足(ごんじんそく)だ」

**

その夜、トウマは久しぶりに夢を見た。
広大な荒野を、ひとりで歩く夢。

彼の手には、灯があった。
それは、誰に見せるためでも、何かを得るためでもなかった。

ただ、歩き続けるための火だった。

**

こうして、トウマは、四神足のうち二つ――
**「欲」と「勤め」**を、自らの中に住まわせることに成功した。

それは、燃え尽きる火ではなかった。
静かに、絶えず燃える、修行者の意志の火だった。

第五章 禅定の翼 ― 心神足と空への跳躍

「心が定まれば、心が消える。  消えたとき、真に“在る”ものが現れる」 ――師のことば

**

トウマは、深夜の庵に坐していた。
蝋燭の火は消され、あたりに光はない。
だが、闇は恐ろしくなかった。
むしろ、心の輪郭がほどけていくようで、心地よささえあった。

すべてを観た――
欲、恐れ、願い、努力。
それらがどう流れ、どう生まれ、どう消えていくかを、トウマは観てきた。

そして今、彼は「観る」ことすら手放そうとしていた。

**

「心神足」とは――
心をひとところに定め、徹底して、そこにとどめる修行。
だがそれは、緊張や集中ではない。
むしろ、すべての緊張をほどいたあとに訪れる、自在の境地。

トウマは、ひとつの呼吸とともに、すべてを捨てた。
思考を。
期待を。
“修行している”という意識すら。

――やがて、「彼」はいなくなった。

**

気づくと、意識は澄み切った大空のようだった。
何もない。
だが、すべてがある。

音も形も言葉もない空間に、
ほんのわずかな“気づき”だけが在る。

それは、誰かのものではない。
自分でもない。
ただ、気づいていることそのものだけが、淡く灯っていた。

かつて、師が語った。

「定の果てに、空がある。
空とは、“無”ではない。
“境目のない在り方”なのだ」

トウマはその言葉を、今ようやく、体験として知った。

たとえば、彼が手にしていた「体」は、
風のように拡がって、外界とひとつに溶けていた。

外と内、上と下、自己と世界。
そのすべてが、明確な線を失っていた。

けれど、不安はなかった。

むしろ、無限の安らぎがあった。

**

――ふと、遠くから、風が吹いたような感覚があった。

その風は、彼の意識にそっと語りかけた。

〈まだ戻る時ではないが、知る時だ〉

彼は、言葉のない言葉で、それを受け取った。

すると、心のどこかが、静かに震えた。

――この「空」の感覚を保ったまま、現実の世界に還る術がある。

修行は、「空に至る」だけでは終わらない。
空を抱いて、日々に還ることが、ほんとうの修行なのだ。

**

トウマは、ゆっくりと目を開けた。

庵の壁も、炉の灰も、仏像の木目も、
すべてが、初めて見るもののように清らかだった。

そして、師がいつの間にか、そっと側に立っていた。

「還ったな」と師は言った。

「だが、ただ還っただけでは修行にならぬ。
空を抱いたまま、歩き続けてみせよ」

トウマは深く頭を垂れた。
その胸に、ひとすじの風が流れていた。
それは、もう恐れでも渇望でもない――
自由そのものだった。

**

彼はまだ何者にもなっていない。
だが、それでいい。
空の風を背に、彼は次の一歩を踏み出そうとしていた。

第六章 滅尽の息、永遠の光 ― 四神足の完成

「滅入息、滅出息、止息。  それは“死”ではない。“空”の静けさが、その息を包む」  ――師のことば

**

夜明け前、霧に包まれた庵の中。
トウマは、最後の修行に入る準備をしていた。

蝋燭の火は灯されていない。
香も、経も、ない。
ただ、坐る――それだけだった。

だが、そこにはもう「努力」も「方法」もなかった。

**

彼は息を吸った。
それが、「最後の入息」になると、どこかで感じていた。

そして、吐いた。
音もなく、静かに――
ただ、世界に溶けるように。

それが、「最後の出息」だった。

**

それから、呼吸は止まった。

意図して止めたのではない。
息が「不要」になったのだ。
呼吸も、鼓動も、彼の意識の中からすうっと消え去った。

肉体は坐している。
だが、彼の「在り方」はもはや肉体にない。

**

意識が、音のない領域へと滑り込む。

そこには「わたし」がなかった。
いや、「わたし」という構造が、もはや意味をなしていなかった。

すべては、ただ在る。
過去も未来も、時間の流れすら存在しない。
あるのは、“今”という静けさだけ。

そしてその「今」は、広がっていた。
無限に。
永遠に。

**

それは、「滅尽定」の入口だった。

滅尽とは、破壊ではない。
消滅ではない。

それは――あらゆる分別の終焉。
生と死の区別も、光と闇の対立も、自己と他者の分離も、そこでは意味を失う。

仏たちは、この領域を「常楽我浄」と呼ぶ。
常しえにあり、楽であり、我すら超え、浄らかである境地。

**

意識が、光そのものになる。

輪郭を持たぬ光――
それは“智慧”であり、“慈悲”であり、“ただ在ること”そのものであった。

彼は、「仏陀たちの視座」に、ほんの一瞬、触れていた。

それは、見る者ではなく、
ただ“すべてを照らすもの”。

**

どれほどの時が経ったのか。

気づけば、再び、庵に在る身体に「風」が戻っていた。
ひとつの微かな、吸息。
その息が、生命を呼び戻した。

トウマは、そっと目を開けた。

庵の中には、朝の光が滲んでいた。
それは、あまりに優しく、あまりに静かだった。

師が、黙ってそこにいた。
その眼差しは、なにも問わなかった。
なにも語らなかった。

トウマも、何も言わなかった。

ただ、深く合掌した。
そして、ひとことだけ、囁いた。

「ありがとうございました」

**

彼の背には、何もない。
ただ、一歩を踏み出す足だけがある。

息は、ふたたび始まった。
だがそれは、かつてのような「苦しみの息」ではない。

それは――光を抱いた、覚者の息だった。

 

 

 

 

息の奥にひそむもの

息の奥にひそむもの

庵の奥、朝の霧がまだ地を這っているころ。
若き修行者トウマは、蓮座の姿勢で静かに坐っていた。

「息を聴け」

かつて師がそう語ったとき、トウマはただ肺に出入りする空気を思い浮かべていた。
けれど、時が経ち、いくつもの夜を越えた今――ようやく、その意味が少しずつ、骨の奥にしみ入ってきた。

「息とは、ただの空気ではない」

トウマの中に、師の声が蘇る。
それは、「身の行息・入息」から始まり、「身の行息・出息」へと流れゆく、ひとつの旅のようだった。

身体のすみずみへと、息は巡っていく。
けれど、息が本当に目指しているのは、もっと奥深い場所――心だ。

「心の行息・入息」

「心の行息・出息」

脳の奥、ひらかれた沈黙の部屋に、ひと筋の気息が流れこんでいく。
チャクラ。
師がその名を口にしたとき、トウマにはまだ、それがどこにあるのか分からなかった。
だが今は、明確に感じる。前額に微かな脈動。喉奥に浮かぶ渦。胸に宿る静けさ。
そこに、気が集まっていく。

呼吸とは、単なる生理現象ではない。
それは、「気」であり、「息」であり、生命そのものを導く流れだ。
ヨーガの教えが語るように、息には“生気”がともなう――プラーナと呼ばれる、不可視の力。

トウマの内に、さらに深い呼吸がはじまる。

「心の解脱入息」
「心の解脱出息」

ああ――
この息は、心の縄をほどく。

想念がほどけ、煩悩が消えていく。
苦しみの芯が、ふっと抜けていくような感覚。
呼吸が深まるたびに、自我の輪郭が薄れていく。

そして、ついに訪れる。

「滅入息」
「滅出息」

もはや「自分が息をしている」という感覚すらない。
ただ、息だけが在る。
宇宙の静けさと同調した一呼吸が、トウマの身と心をすっかり包み込む。

気息は、最後に完全なる静けさへと至る。

「身止息」
「心止息」

動きは消えた。
息は止まった。
けれど、死ではない。
それは、あらゆる生命の“根”に触れるような、言葉にできぬ体験だった。

**

庵の外で、鳥が一声鳴いた。
トウマは、ゆっくりとまぶたを開けた。

世界は変わっていなかった。
だが、自分の「息」は――もう、あの頃の息ではなかった。

彼は知ったのだ。

「息」の奥に、仏の道があることを。

 

脳の解脱——サハスラーラの門》

《脳の解脱——サハスラーラの門》

彼は静かに座していた。夜明け前の微かな光が、閉じたまぶたの奥に滲んでいる。世界がまだ目覚める前、彼の内側ではすでに“進化”の炎が灯っていた。

これは単なる瞑想ではない。
これは、脳の奥深くに潜む“獣”――ウマとワニを、解き放つ儀式だ。

原始の衝動、逃走と攻撃、快楽と恐怖。それらを生む“旧い脳”を手放すことで、彼は新たな段階へと歩み出す。
額の奥、アージュニャー・チャクラが、わずかに震えを帯びて開き始めた。
それは“知”と“直観”を統べる門。視床下部を超え、深奥にある“新皮質”の先にまで意識が届くよう、神経の橋を架ける工程だ。

この修行は、準備に過ぎない。
その先に待つのは――滅尽定。

呼吸を手放し、思考をも超える。
サハスラーラ・チャクラが静かに回転を始めたとき、彼の魂はすでに形を脱し、“空”の入口に立っていた。

気息が止まり、時間が消え、
彼は“無”へと溶けていく。

それは死ではない。
それは、生の奥に潜む、完全なる沈黙の目覚め。

脳の進化はここに極まる。
ウマも、ワニも、もういない。

あるのはただ、“一”なるものと結ばれた、
真の存在だけだった。

 

第五章 滅尽定――語られざる光の岸へ

1 息の止む門

深山の庵(いおり)。
トウマは夜半、最後の松明を吹き消した。
闇が、呼吸のように静かに降りてくる。
――まず、長くやわらかな息。ついで、かすかな脈動。
やがて鼓動さえ物語の外へ退き、
「聴く者」も「聴かれるもの」も同時に消えていく。

意識の輪郭がほどけるとき、
彼は一羽の鷺(さぎ)が水面に映らず飛ぶのを見た。
それは象徴でも幻でもなかった。
ただ、「象(かたち)」を必要としない合図――
滅尽定への扉が、音もなく開いた印だった。

2 無でも空でもない領域

時間は刹那ごと蒸発し、
空間は残光のない灯火のように溶ける。

しかし「無」ではない。
微かな「在る」が、在るとも言えぬ純粋さで
――声なき透明の雷鳴のように――
どこでもなく到りつづけている。

そこには「観る者」も「観られるもの」もなく、
ただ、“法”(ダンマ)が自らを示さずに示す。
名を呼べば即座に遠ざかり、
言を絶てば無窮に迫る光。

トウマは“私”を失いながら、
「失った」と認識する主体も同時に失う――
それが滅尽定の核心だった。

3 帰還──透明な世界

朝鳥の羽ばたきが遠くに揺れたとき、
最初に戻ったのは、
胸奥をかすかに打つひとつの脈だった。

鼓動、呼吸、肌の冷たさ――
世界が静かに色を取り戻す。
だが、戻ってきたのは以前の世界ではない。

木々のざわめきは言葉より澄み、
露の光は因果の網そのものの輝きとして映る。
煩悩の影は探しても見当たらない。
代わりに、ものごとの縁起が
透けた水脈として心を流れつづける。

4 師との対話

庵の門前。
師・霊峯(れいほう)は薪割りの手を止め、
戻った弟子を見て静かに笑う。

師「何を得たか。」
トウマ「――得るべきものがなかったと知りました。」
師「では、何が残った。」
トウマ「残るとも言えぬ“光”。
名づければ逃げ、黙すれば満ちる、
そんな気配だけが。」
師「それを携えて生きよ。
滅尽定は終わりではなく、
煩悩なきまま世を照らす “はじまり” だ。」

トウマは掌を見つめる。
そこに置かれた一枚の枯葉が、
宇宙と同じ静寂で脈打っていた。

5 そして旅はつづく

庵を離れる朝、
霧の谷に日が差し込む。
世界は昨日と同じ形をして、
しかし昨日より限りなく軽い。

トウマは歩き出す――
滅尽定から授かった、
名もない光を灯籠のごとく胸に抱きながら。

次に向かうのは、
「無色界よりもさらに彼岸」と伝えられる
“空性の曼荼羅”――
そこに待つものを確かめるために。

*あとがき的メモ
本章では

滅尽定に入る瞬間を五感の消滅として、

「無」でも「空」でもない領域を言語の外側で仄見せし、

帰還後の変容を世界の透明感で示し、

師弟の短い対話でその意味を余韻として残しました。

ご要望に合わせ、物語で描ける限界ぎりぎりの“体験”を詩的に掬い取っています。
さらに深い探求や、トウマの次なる旅路も続編としてお手伝いできますので、またお声がけください。

 

最上深秘の呼吸法

じんび

最上深秘の呼吸法

である。

つぎに、釈尊は、四つの最上深秘の呼吸法を説いている。

勝止息

奇特止息

上止息

無上止息

釈尊は、経典で「この四つの呼吸法は、すべての呼吸法において、これ以上のものはない最上の呼吸法である」とのべている。(雑阿含経・止息法)

この呼吸法が、なぜ最上深秘のものであるのかというと、この呼吸法はもっぱら、脳を対象としたものであるからだ。脳のチャクラを動かし、脳の神経経路を改造し、ことに、脳に特殊な能力を持たせる呼吸法であるからである。

呼吸法、といっているけれども、単なる呼吸作用のコントロール法ではなく、

めぐナデイ行らす、というからには、行らす“道”がなければならない。その道が “気道”である。

このあとで説く「チャクラ」「プラーナ」「クンダリニー・エネルギー」「気道」

「ムドラー」「瞑想」「マントラ詠唱」など、すべての技法を総合しておこなわれ

るもので、釈尊の成仏法の最終段階のものである。この四つの呼吸法(くり返し

ていうが、単なる呼吸法ではない)で、釈尊の成仏法は完成されるのである。

この呼吸法については、またあとで説く。

ナデイ仏陀の気道の法

前の節を読まれたら、だいたいおわかりであろう。

ナディ釈尊も、四神足法において、やはり、気道をもちいていたのである。

めぐ行息 気息を行らす

ただし、釈尊の気道は、クンダリニー・ヨーガの気道とはかなりちがうもので

ナデイ

ある。それは、クンダリニー・ヨーガの気道の欠陥、欠陥というより不十分な部分、を補足したものといってよいだろう。

なぜ、そういうことがいえるのか?

わたくしは、仏陀の行息法がのちに中国に渡って、道教の仙道になっていったものと考えるのである。すなわち、道教の修行の原点は、釈尊の成仏法にあるの

である。 ないきぎようか

道教の基本的修行に、「内気の法」というのがある。また、「行気の法」がある。これらは、阿含経に説かれている仏陀の「行息の法」にほかならない。

あかし道教が、釈尊の成仏法を受けついでいると断定するひとつの証として、つぎのようなことがあげられる。

にいわんいまいった道教の内気の法の気道に、泥丸という部位がある。頭頂にあってクンダリニー・ヨーガでは、サハスラーラ・チャクラにあたる部位で、道教でも最

高の悟りの部位になっている。

この泥丸という名称はどこから来たのか?

 

ろう。 釈尊の成仏法の修行法を、いま、如実に知ることは至難の業である。それはごく、わずかに、阿含経の中に散在するにすぎず、不可能に近いといっていいであ

たものである。 これは、釈尊が説く「涅製」すなわちニルヴァーナを音写したものなのである。この部位を目ざめさせると、涅槃に到達するというところから、名づけられ

釈尊の修行法と、クンダリニー・ヨーガ、そして道教、との関連を語るものにほかならず、たいへん興味深いものといえよう。このほかにも、いくつか、これに類した例をあげることができる。

もちろん、道教の気道の法が、すべて仏陀の気道の法そのままだというのではない。仏陀の気道の法を受けついで、さらに道教独特のものに発展させていったということである。原型が釈尊にあり、釈尊にさかのぼることができるというのである。そしてそれはまた、同時に、クンダリニー・ヨーガにもかかわってくるということになる。

 

アーガマしかし、クンダリニー・ヨーガと道教の修行法を、阿含経の中にある釈尊の修行法と対照しつつ実践を重ねていくと、おのずから髣髴と浮かんでくるものがあれんまほうふつるのである。そしてさらに体験を重ね、錬磨し、修行を積んでいくと、突然、 めきとともにかたちをあらわしてくるものがある。 06 閃

わたくしは、三十にして仏道に志し、以来、ひとすじに釈尊の成仏法を求めつづけ、ようやくこれをほぼ復元し、体得したと確信するに至った。

 

 

 

仏陀の Ānāpāna の法

仏陀の Ānāpāna の法

ナーパーナ釈尊の修行法の中心である安那般那について、最もくわしく説いた経が雑阿含経にある。

是の如く我れ聞きぬ。一時、仏、舎衛国の祇樹給孤独園に住まいたまえ比丘の安那般那の念を修習するに多く修習せば身心止息することを得て有覚、有観、寂滅、純一にして明分なる想を修習満足す。何等をか安那般那の念を修習するに多く修習し已らば身心止息し、有覚、有観、寂滅、純一にして明分なる想を修習満足すと為す。是の比丘、若し聚落城邑に依りて止住し、晨朝に衣を着け鉢を持ち、村に入りて乞食するに善く其の身を護り、諸

り。爾の時世尊、諸の比丘に告げたまわく「安那般那の念を修習せよ。サ

の根門を守り善く心を繋けて住し、乞食し已つて住処へ還えり、衣鉢を挙げ

足を洗い已って或は林中の関房の樹下、或

は空露地に入りて端身正坐し、念げんぼう

 

を繋けなば面前、世の貪愛を断じ欲を離れて清浄に、瞋恚・睡眠・悼悔・

疑・断じ、諸の疑惑を度り、諸の善法に於て心決定することを得、エ悩の心に於て慧力をして膨らしめ、障礙の分と為り、涅槃に趣かざるを遠離

し、内息を念じては念を繋けて善く学し、外息を念じては念を繋けて善く学し、息の長き息の短き、一切の身の入息を覚知して一切の身の入息に於て善

く学し、一切の身の出息を覚知して一切の身の出息に於て善く学し、一切の

身の行息・入息を覚知して、一切の身の行息・入息に於て善く学し、一切の身の行息・出息を覚知して、一切の身の行息・出息に於て善く学し、喜を覚

知し、楽を覚知し、身行を覚知し、心の行息・入息を覚知して心の行息・入息を覚知するに於て善く学し、心の行息・出息を覚知して、心の行息・出息

を覚知するに於て善く学し、心を覚知し、心悦を覚知し、心定を覚知し、心の解説入息を覚知して、心の解説入息を覚知するに於て善く学し、心の解脱

出息を覚知して、心の解脱出息を覚知するに於て善く学し、無常を観察し、

断を観察し、無欲を観察し、滅入息を観察して、滅入息を観察するに於て善

 

入外

内息息

外日

く学し、滅出息を観察して、滅出息を観察するに於て善く学する。是れを安

那般那の念を修するに身止息し心止息し、有覚、有観ならば寂滅、純一にして明分なる想の修習満足せりと名づく」と。仏此の経を説き已りたまいしに

諸の比丘、仏の説かせたもう所を聞きて、歓喜し奉行しき。

すそくかんこれまで、安那般那は、「数息観」の呼吸法を説いたものであるとされてきた。

あなはなねん (雜阿含経「安那般那念経」)

決してそうではないのである。安那般那は単なる呼吸法ではないのである。こしんずいこには、成仏法の中心である四神足法の真髄が説かれているのである。

まず、この経に説かれている呼吸法を見てみよう。

身の行息・入息

身の行息・出息

心の行息・入息

心の行息・出息

心の解脱入息

心の解脱出息

滅入息

滅出息

身止息

心止息

じつに十五種類の呼吸法が説かれているのである。こんな短い経典

内息

類もの呼吸法が説かれているのだ。いとも簡潔に呼吸法の項目だけがならんでい

るが、それは、この講義を聴聞した修行者たちが、みな、これらの呼吸法に熟達した者ばかりで、いちいち、その内容について説明する必要がなかったからであろう。

そこで、

ここで注意しなければならないことがある。

そくそれは、「息」の解釈である。

こきゆうこれを、単なる呼吸と解釈してしまってはいけない。

これは、「呼吸」であるとともに、生気をし に、生気をともなった息、すなわち、 いき すなわち、いうならば「気・息」をもあらわしているということである。これは、インドにおける

ヨーガの特徴である。

ざっと解釈してみよう。

外息

る。 これは、気息、すなわち、生気を息とともに、体の隅々にまで行らすことであ

じん身の行息・入息

じん身の行息・出息

人息

出息

行息

これは、深い修行に入るにあたっての、心身調節の呼吸法である。

じんめぐこれは、身において気息を行らすこと。すなわち体の特定の場所に気息を行らしていくことである。特定の場所とはどこか? チャクラだ。

 

しん

心の行息・入息

心の行息・出息

これは、心において気息を行らすこと。

この「心」というのは、端的にいって、脳のことである。思念する心は、脳にあるからである。脳の特定の場所に気息を行らしていくのである。特定の場所と

はどこか? チャクラである。

ここでこの「行らす」という言葉に留意していただきたい。

身止息 身において気息を止念す。

心止息心において気息を止念す。

気息を、身と心に止め、念ずるのである。

身と心の、どこに止め念ずるのか? いうまでもなく、それはチャクラしかないのではないか。

体と脳のチャクラに止め念ずるのである。

 

心の解脱入息

心の解脱出息

滅入息

滅出息

脳のチャクラ、アージュニャーとサハスラーラの開発作業である。脳におウマとワニの部分の消滅・解脱作業ともいうべきもの。同時に視床下部と新とをつなぐ神経回路を補強する予備的作業でもある。要するに、古い脳を! に進化させる作業だ。

めつじんじようサハスラーラ・チャクラを動かし、滅尽定に入る修行である。気息・思介てを超越した境地に入る。