『無量の光、無限の命──阿弥陀の誓い』
西の彼方、十万億の仏国土を越えた果てに、光り輝く浄らかな世界があるという。
その名は「極楽浄土(ごくらくじょうど)」──苦しみも、老いも、死も超えた、ただ安らぎと喜びの満ちる仏の国だ。
そこを統べる仏こそ、阿弥陀如来(あみだにょらい)。
かつて、法蔵(ほうぞう)という名の比丘がいた。彼は、すべての命ある者を苦しみから救いたいと願い、五劫という気の遠くなる時間、深く思索に沈み、四十八の大願を立てた。
そしてその誓いの一つには、こう記されていた。
「すべての衆生、我が名を称える者を、必ずや浄土に迎えん」
その誓いを果たすべく、法蔵はついに成仏し、無限の命をもつ無量寿如来、すなわち阿弥陀如来となった。
――それゆえに、いまも私たちはその名を称える。
南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)
この六字の名号をただ一心に唱えるならば、どんな罪深き者であっても、臨終のとき、雲に乗った阿弥陀如来と、聖観音菩薩、勢至菩薩、そして二十五菩薩の一行が、迎えに来てくれるという。
その姿は、まさに光そのもの。
言葉では尽くせぬ慈悲の輝きが、闇を払い、苦しむ者の魂を優しく抱きしめる。
この世でどれほど報われなかった者も、極楽には平等の命がある。苦しみに耐えた心は、そこにおいてようやく休まるのだ。
その手には、特別な印が結ばれている。
――来迎印(らいごういん)。
それは「恐れるな」「来なさい」と語るかのように、仏の指がしなやかにねじれ、慈しみの形を取っていた。
阿弥陀如来の姿には、華美な装飾はない。ただ、どこまでも深く、どこまでも静かな光がある。
そしてその光は、私たちの胸の奥にそっと触れる。
現世においても、苦しみを和らげ、心を穏やかにする功徳があるとされ、今も多くの人が阿弥陀の御名を唱え続けている。
その真言は、こうだ――
オン・アミリタ・テイ・ゼイ・カラ・ウン
(On Amrita Tei Zei Kara Un)
阿弥陀の光は、命の終わりを照らすのではなく、
新たなるいのちの始まりを照らす光なのだ。





