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日輪の中心にて――大日如来への旅 At the Center of the Sun — A Journey to Vairocana

日輪の中心にて――大日如来への旅

At the Center of the Sun — A Journey to Vairocana

 

オン バサラダトバン、オン アンビラウンケン
On Bazaradatban, On Ambilaunken
風は静かに 杉の香を運び
光の道を 一人歩む
問いは胸に 深く刻まれ
宇宙(そら)を映す 曼荼羅の中へ

オン バサラダトバン、オン アンビラウンケン
On Bazaradatban, On Ambilaunkenオン・バサラ・ダト・バン
響け、祈りの声よ
光輪(こうりん)に満ちる真理(しんり)
大日(だいにち)の心、今ここに

 

On Bazaradatban, On Ambilaunken
The wind flows gently, bearing cedar’s breath
Along the path of light, I walk alone
The question engraved deep within my chest
Into the mandala, where cosmos is shown

On Bazaradatban, On Ambilaunken
Let the voice of prayer resound through space
In the circle of light, shines wisdom’s grace
The heart of Dainichi—here, in this place

日輪の中心にて――大日如来への旅』

第一章 光を求めて、山へ

風が凪(な)ぎ、杉の枝がわずかに揺れていた。
苔むした山道を、一人の青年が登ってゆく。名を**蓮明(れんみょう)**という。まだ二十五の春を迎えたばかり、寺に入って七年目の修行僧だ。

「大日如来……宇宙の中心……か」

その名を初めて耳にしたのは、学寮での講義だった。
密教とは何か、曼荼羅とは何を描いているのか。どの教義にも必ず現れるその名、「大日如来」。だが、どの教本も「すべての仏の根源」「宇宙そのもの」としか書かれていない。

“仏が仏の根源とは、いったいどういうことなのか?”

以来、蓮明の胸にその問いが根を張った。
「言葉では語れない真理」があるならば、自らその“奥”に触れてみたい。そう思った。

導かれるように彼がやってきたのは、深山にひっそりと在る密教寺院、光輪寺(こうりんじ)。人里離れた場所にありながら、代々高僧が隠遁し、厳密な法を護ってきたと伝えられる聖地だった。

山門をくぐると、古びた木造の堂宇が並んでいた。
そして、その奥にひとつだけ、他とは異なる気配を放つ建物があった。

「お前が、蓮明か」

奥から現れたのは、灰色の法衣に身を包んだ老人だった。
背は低いが、眼差しは深い井戸のように澄んでいる。

「はい。大日如来の教えを学びたく、参りました」

「教え……ふむ。ならば、見よ」

老人は、堂の奥へと蓮明を導いた。
足を踏み入れた瞬間、蓮明の息が止まる。

──曼荼羅。

堂内には、巨大な曼荼羅が掲げられていた。色彩は経年で褪せていたが、その気迫は生きていた。中央に坐す金色の仏。宝冠を戴き、装飾を纏い、手には印を結ぶ。

「これが……大日如来……」

「そうだ。これは金剛界の曼荼羅。智慧の世界の中心に、大日が坐しておられる」

老人の声は静かだったが、耳ではなく心に響いた。

「見た目はただの絵。だが、真実に触れた者には、この中に宇宙があるとわかる」

蓮明は息を呑んだ。

「今日から七日、曼荼羅の前に坐り、ただ祈れ。唱えるがよい、オン・バサラ・ダト・バンと」

「それだけで……?」

「それで足りぬと思うか?」

老僧は微笑んだ。
「お前の問いが本物ならば、やがてあの仏が答えてくださる」

そして、そのまま堂を出て行った。

蓮明は曼荼羅の前に坐した。
静かに目を閉じ、手を組む。

──オン・バサラ・ダト・バン
──オン・バサラ・ダト・バン……

風が止み、音が消え、世界が曼荼羅の中に沈んでゆく。
まだ答えは遠い。
だが、彼はすでに光の入口に立っていた。

 

第二章 胎蔵の祈り、金剛の問い

「あなたは、なにを探しているのですか?」

三日目の朝。
蓮明が静かに真言を唱えていた時、背後から聞こえたのは、柔らかい声だった。

振り返ると、白い衣を纏った一人の少女が立っていた。十六、七歳ほどか。だが、年齢では測れない透明さを、その瞳は湛えていた。

「……修行者か?」

「ええ。ここの者ではありませんけれど、時々来るんです。あなた、ずっと座ってますね。曼荼羅に、なにを見ているんですか?」

問われ、蓮明は言葉を失った。
自分は、何を見ている? 何を探している?
曼荼羅の中心に坐す大日如来の像は、ただ静かにこちらを見つめ返すだけだった。

「……“真理”だと思っていた。だけど、わからない。智慧なのか、慈悲なのか……」

少女は微笑んだ。

「それなら、もうひとつの曼荼羅を見てみますか?」

彼女に導かれるまま、蓮明は寺の奥、苔に包まれた小堂に辿り着いた。
中に掛けられていたのは、胎蔵界曼荼羅。
金剛界よりも柔らかく、無数の仏と菩薩たちが、まるで母のようなまなざしで、中央を囲んでいた。

そこに坐す大日如来は、印も姿も異なっていた。
両手の全ての指を、腹の前で穏やかに組み合わせ、法界定印を結ぶ。
慈しみと受容の気配が、空間を満たしていた。

「これが、胎蔵界の大日如来……」

「命を抱く仏さま。すべての生き物を、内から包む存在です」

少女の言葉に、蓮明は息をのんだ。
金剛界の仏が「智慧の光」なら、こちらは「命を育む大地」だ。

「じゃあ、大日如来とは、相反するものの統合なのか……?」

「反対ではありませんよ。父と母が一つであるように、智慧と慈悲は、もともとひとつなんです」

その言葉は、どこか大きな響きを伴って、蓮明の胸に沈んだ。

「あなたの問いは、たぶん正しい。でも、それは“知る”ものじゃなく、“坐して受けとる”ものなんです」

彼女は、小さな鈴を取り出した。

「今夜、密壇で**火の修法(ごまほう)**が行われます。大日如来の智慧と慈悲、その両方に火を捧げる法です」

「密壇……?」

「炎の中で、あなたの問いも燃やしてごらんなさい」

彼女はそう言い残して、風のように去っていった。

その夜。
蓮明は再び大堂に戻り、智拳印を結びながら、火前に坐した。
炉の中に薪がくべられ、師僧が真言を唱えるたび、火は激しく揺れた。

オン・バサラ・ダト・バン
オン・アビラウンケン

両界の真言が重なり合い、炎が曼荼羅の中の大日と、現実の火とを繋ぎ始めた。

そのとき、蓮明の意識がぐらりと傾いた。
火の奥から、ひとつの光が生まれ、やがて声が響いた。

──「汝の問いに、我は答えよう。だがその前に、汝の“我”を捨てよ」

それは、大日如来の声だったのか、火の中の仏の叫びだったのか。
彼には、もう分からなかった。

ただ、蓮明は感じていた。
智慧と慈悲がひとつに重なり、宇宙の中心へと導こうとしていることを。

 

第三章 密壇の火と夢の中の師

火は、未だに燃えていた。
真夜中、星の光も届かぬ密壇の堂内で、炎は音もなくゆらめいていた。

蓮明は炉の前で膝をつき、額に汗をにじませながら、真言を唱え続けていた。

──オン・アビラウンケン・バザラダトバン
──オン・アビラウンケン・バザラダトバン

いつの間にか、言葉は祈りではなく、光そのものの響きへと変わっていた。
意識は宙に浮き、身体の重さも、時間の流れも、失われていく。

ふと、燃えさしの火が弾けた音が、耳を打った。

そして──闇が訪れた。

夢だった。

だが、夢とも現ともつかぬ、奇妙な明晰さがあった。

彼は、見知らぬ静寂の寺の廊下を歩いていた。
月も星もないはずの夜に、天井からは柔らかな光が差している。

やがて、堂の扉の前にひとりの老僧が現れた。

「……師匠……?」

見覚えがあった。
かつて学寮にいた時、密教の入口を教えてくれた阿闍梨(あじゃり)。
数年前に遷化(せんげ)したはずの、恩師の姿だった。

「よく来たな、蓮明」

老僧は扉を開け、中へ導く。

そこには、曼荼羅ではない曼荼羅が広がっていた。
仏たちは絵ではなく、すべて生きていた。

火を背負った不動、微笑む観音、獅子に乗る文殊、憤怒の明王、そして──
中央に坐す、輝ける存在。

大日如来。

今まで見たどの像よりも、広く、深く、静かで、燃えていた。

「大日はな、仏にあらず、神にあらず、存在ですらない」

老僧は火を見つめながら、言った。

「だが、すべての存在はそこから始まり、そこへ還る。
命も、光も、問いも、お前の“我”さえもだ」

蓮明は、つぶやいた。

「でも……なぜ、語られないのです? なぜ、何も答えてくださらないのですか?」

老僧は、穏やかに目を細めた。

「語れぬものだからだ。智慧は破られぬ刃、慈悲は底なき胎。
どちらも、“知る”ことはできぬ。ただ、“坐して、その身となる”ことだ」

「……その身……」

「そう。祈りも修行も、真言も、印も。すべては、お前が大日となるための道だ」

老僧の輪郭が、徐々に火に溶けていく。

「忘れるな、蓮明。問いを持ち続けよ。
答えは、“汝が消えるとき”にだけ、訪れる」

──オン・アビラウンケン・バザラダトバン

夢の中で、その言葉が再び胸に満ちた。

蓮明が目を覚ましたとき、外はもう白んでいた。
火は消えていた。

だが、胸の奥には、まだ小さな火が灯っていた。
夢か幻か、もうどうでもよかった。

その火は、現実よりも確かだったからだ。

第四章 曼荼羅に入る者

蓮明は、曼荼羅の前に坐していた。
もう何時間が経ったのか分からない。だが、時間という概念そのものが、静かに剥がれ落ちていくのを感じていた。

夢の中で出会った恩師の言葉が、まだ胸の奥で反響している。

「問いを持ち続けよ。答えは、“汝が消えるとき”にだけ、訪れる」

曼荼羅──
それは、ただの絵ではなかった。金剛界、胎蔵界。
無数の仏が秩序の中に並び、中心に大日如来が坐している。

だが今、蓮明はその“外”から曼荼羅を見ていることに気づいた。

「入るのだよ」

突然、声がした。
あの少女──白衣の者が、背後に立っていた。

「曼荼羅の中へ?」

「そう。仏を見つめるのではなく、“仏の視点”で、この世界を見てごらんなさい」

その言葉と同時に、何かが“反転”した。

目を閉じると──
自分の身体が、曼荼羅の内部に溶け込んでいくような感覚に襲われた。

まず、音が消えた。
次に重力が消えた。
最後に「蓮明」という名までもが、風のように遠ざかっていった。

気づくと、そこは光の空間だった。
無数の仏たちが、蓮明を囲んで静かに微笑んでいた。

不動、観音、弥勒、文殊、虚空蔵……
それぞれが、彼の中にある恐れ・慈しみ・希望・問いと共鳴していた。

やがて、中央の玉座に──
大日如来が坐していた。

その御姿は、もはや「像」ではなかった。
光であり、深淵であり、そして沈黙だった。

蓮明は、問いたかった。

**「あなたは誰ですか」**と。

けれど、言葉が生まれない。
“自分”という器が、空になっていた。

そのとき、大日の口が、ゆっくりと動いた。

──「我は、汝なり」──

その声が響いた瞬間、蓮明の胸に広がったのは、言葉では言い尽くせないほどの慈しみだった。
母が子を抱くような、太陽が闇を照らすような、深い“存在の許し”。

そして──すべてが、光に包まれた。

気がつくと、蓮明は、元の堂に坐していた。

変わったものは、何もない。
火は消え、空は青く、木々は風に揺れている。

だが、彼のまなざしだけが変わっていた。

もう、答えを求める必要はなかった。
なぜなら、自分自身が曼荼羅の中に在ると、確かに知ったからだ。

 

第五章 降りてゆく光、守り仏の誓い

「下りなさい」

曼荼羅の光の中で、確かに誰かがそう告げた。

それは命令ではなかった。
慈悲と、静かな覚悟に満ちた“招き”だった。

蓮明の魂は、光の中から、ふたたび現世へと還り始める。
まるで天空から一筋の光が、大地へと“降りていく”ように──。

それは、還俗とも違った。
世を捨てていたのではない。むしろ、今ようやく“この世”を抱けるようになった。

蓮明は山を下りた。
かつて修行のために離れた村の、古びた道を一歩ずつ歩く。

民家の軒先に吊るされた洗濯物、畑を耕す老夫婦、泣きながら歩く子ども。
どれも曼荼羅の仏のように、ひとつの位置にふさわしく「在る」と思えた。

「……ここが、私の道場だったのか」

心の底から、そう思った。

村のはずれ、祠の裏手にある小さな庵に戻ると、懐かしい白衣の少女が待っていた。

「おかえりなさい、蓮明さま。いえ、もう“さま”はいらないですね」

蓮明は微笑んだ。

「君は、誰なのだ?」

少女は、そっと手を胸にあてて言った。

「私は、胎蔵界の観音のひとひら。あなたの“慈悲”が形をとった存在。
あなたが曼荼羅に入る前に、“あなた自身の祈り”としてここに現れたのです」

蓮明は、驚きも恐れもなかった。
すべてが、今は自然だった。

「そして、これからは?」

少女は、彼に一枚の護摩札を手渡した。
そこには、こう書かれていた:

「未・申年の者に、光を」
「願う者に、大日如来の名を届けよ」

「あなたは、守り仏の誓いを継ぎました。
これからは、大日の分身として、人々の願いを預かる者となるのです」

蓮明は、札を胸にしまい、空を仰いだ。

青い空に、見えぬ日輪が輝いていた。

かつて彼が修行に入った理由は「悟り」だった。
だが今、彼がこの世に戻った理由は「ともに在ること」だった。

降りてゆく光──それは、大日如来そのもの。
そして、人の心に灯る小さな祈りに宿るもの。

蓮明は、微笑んだ。
この命が尽きるまで、自分がその光をつなぐ者であると、ただ静かに誓った。

 

第六章 火の仏たち、風の祈り

朝焼けの中、蓮明はふたたび護摩壇に火を灯していた。

かつて修行の象徴だった炎は、今では祈りの入口となっていた。
火は燃える。けれどその熱は、もはや苦行のそれではない。
誰かの願いを宿し、浄め、天へ還す“橋”だった。

この日、蓮明の庵をひとりの若者が訪れた。
痩せた顔に深い疲労をたたえ、肩には亡き父の位牌を抱えていた。

「父は、ずっと戦争の記憶に苦しんでいました。
最後の言葉も、何かに怯えながら……。
せめて魂が安らぐよう、祈っていただけませんか」

蓮明は、そっとうなずいた。

位牌を壇に置き、火を焚く。
炎は、静かに立ちのぼる。

そして蓮明は、両手で印を結んだ。胎蔵の慈しみの印。

「オン・アビラウンケン・バザラダトバン……」
「オン・アビラウンケン・バザラダトバン……」

若者の目から、涙がひとすじ落ちた。
その涙は、風に運ばれるようにして、炎へと溶けていった。

「……風が、吹いていますね……」

蓮明は小さく頷いた。

「それは、祈りを運ぶ風。仏たちの言葉なき答えです」

夜、蓮明はひとりで密壇に坐していた。

火は消えていたが、堂内には風の音だけが、確かに在った。

それは、仏たちの語らぬ語り。
かつて燃えた明王たちの怒りが、慈悲に変わって吹きぬけている音。

「怒りも、悲しみも、すべては転じる。
火も、風も、仏の身体の一部なのだな……」

瞑目する蓮明の耳に、どこからか微かな声が届いた。

──「この世に祈る者がいる限り、我らは灯を絶やさぬ」

彼はそっと目を開けた。
風が、彼の衣をやさしく揺らしていた。

それは、大日如来から贈られた**「在る」という約束の風**だった。

第七章 月の水輪、影に咲く蓮

夜。
山の庵は静まりかえり、すべてが深く、淡く、やわらかく包まれていた。

蓮明は、ひとつの池のほとりに立っていた。
月がのぼり、水面にまるく光の輪を描いている。

「水輪(すいりん)か……」

池に浮かぶ一輪の蓮──
それは昼に咲くもののはずだった。だが、今ここに咲いている花は**“夜蓮”**だった。
月の光だけを受け、静かに、けれど確かに咲いている。

「まるで、影の中の慈悲だな……」

蓮明は独りごちた。
そのとき、背後から声がした。

「影に咲くものほど、強いのです」

振り返ると、そこにいたのは再び白衣の少女だった。
彼女の姿は、今や少し大人びていた。かつては“観音のひとひら”と名乗った存在──

「あなたは……」

「私は、あなたの慈悲が成熟した姿。
月のように、太陽の光を受けてなお、自らの静けさを放つ存在です」

少女の手が池の水に触れると、水輪がもうひとつ生まれた。

それはまるで、ひとつの祈りが、世界に広がる波紋のようだった。

「かつて、あなたは“光”を求めました」
「次に、光を“届ける者”となりました」
「いま、あなたは“影の中にも在る光”に目覚めようとしています」

蓮明は、ゆっくりとうなずいた。

「悲しみ、喪失、罪──
人がもっとも仏から遠いと思い込んでいる場所にこそ、
実は一輪の蓮が咲いている」

少女は微笑んだ。

「そうです。
密教は、世界の“すべて”を仏と見なす教え。
だから、あなた自身の闇も、光も、影も──
“如来の中”に含まれているのです」

池の水輪が、風に溶ける。

静かに咲く夜の蓮──
それは、かつての蓮明の姿だったのかもしれない。

そして今──
それを見つめている自分は、もう別の存在となっていた。

「……ありがとう」

蓮明は少女に向けて手を合わせた。

「私はこれからも、
光を求める人に、
影の中で泣いている人に、
この月の輪のように、
そっと寄り添える者でありたい」

少女は、ゆっくりとその姿を薄めながら、最後に一言だけ残した。

「それが、大日の“もうひとつの姿”です」

終章 すべての命に光を

春。
山の庵には、雪解けの水がせせらぎとなって流れていた。
風はやわらかく、樹々は小さく芽吹き、野の花は名もなく咲いている。

蓮明は、ひとりの子どもを背負って山道を歩いていた。
足が悪く、村では「災いの子」と呼ばれていた子だった。

その子が、ぽつりと尋ねた。

「ぼく……神さまに嫌われてるの?」

蓮明は足を止め、風の吹く方へ顔を向けた。

「いいや。
神さま、仏さまは、嫌うことなんてできないんだよ。
どんな命も、最初から光の中にある」

「でも、ぼくは走れないし、みんなにいじめられる」

蓮明はそっと子の背をなでた。

「それでも、君の中にも蓮がある。
まだ咲いてないだけ。
蓮はね、泥の中でしか咲けないんだ。
苦しいところにいるからこそ、咲ける花なんだよ」

その言葉に、子どもは静かにうなずいた。

庵に戻ると、村の者たちが数人、蓮明を待っていた。
かつて、仏の名を口にすることすら遠ざけていた人々だった。

その手には、小さな願いが書かれた布の札があった。

「蓮明さま……いや、蓮明さん。
この祈りを、仏に届けてくれませんか?」

蓮明は深く頭を下げ、布札を一枚一枚、丁寧に手に取った。

「届けましょう。仏にではなく──
“仏であるあなた自身”に、ね」

驚く人々に、蓮明は微笑んだ。

夜。
火が灯され、護摩の煙が昇ってゆく。

蓮明は静かに、両手を組み、祈りを唱える。

オン アビラウンケン バザラダトバン
オン アビラウンケン バザラダトバン……

その声は、山を越え、風に乗り、空へと響く。
どこかで泣いている者に、
どこかで祈りを忘れた者に、
どこかで命を終えようとしている者に──

届いてほしいと願いながら。

すべての命は、最初から光の中にある。

それは教義ではなく、蓮明が旅を通して、魂で掴んだ真理だった。

人が生まれる場所、
苦しむ場所、
歩き続ける場所──
すべてに、大日如来の光は、等しく降りていた。

それに気づいた者は、もはや仏を“外に”探すことはない。

光は、今ここに。

あなたの中に。

🌸 ──了── 🌸

 

大日如来

大日如来

すべての生き物の根本となる仏

大日如来(だいにちにょらい)とは?

大日とは「大いなる日輪」という意味です。太陽を司る毘盧舎那如来がさらに進化した仏です。密教では大日如来は宇宙の真理を現し、宇宙そのものを指します。また、すべての命あるものは大日如来から生まれたとされ、釈迦如来も含めて他の仏は大日如来の化身と考えられています。

 

大日如来には悟りを得る為に必要な智慧を象徴する金剛界大日如来と、無限の慈悲の広がりを象徴する胎蔵界大日如来という2つの異なる捉え方があります。金剛とはダイヤモンドのことを指し、智慧がとても堅く絶対に傷がつくことがないことを意味しています。また、胎蔵とは母親の母胎のようにすべての森羅万象が大日如来の中に包み込まれている様を意味しています。この2つが揃って大日如来を本尊とする密教の世界観が出来上がるのです。

ご利益

現世安穏、所願成就。また、未・申年生まれ守り本尊です。

大日如来(だいにちにょらい)の像容

本来、如来は出家後の釈迦の姿をモデルとしているため装飾品は身に付けていませんが、大日如来だけは別格で豪華な装飾品や宝冠を付けています。また、螺髪(らほつ)ではなく、髪を結い上げています。

 

金剛界、胎蔵界の姿でそれぞれ印の形が違います。金剛界の大日如来は、左手の人差し指を立て、その人差し指を右手で包みこむ智拳印の印相をしています。一方、胎蔵界の大日如来は、腹の前で両手の全指を伸ばして組み合わせる定印です。

有名寺院と像

・奈良県:円成寺

大日如来(だいにちにょらい)の真言

金剛界:オン バサラダトバン
胎蔵界:オン アンビラウンケン

大日如来の真言は、金剛界と胎蔵界で異なります。金剛界では「オン・バザラ・ダト・バン」、胎蔵界では「オン・アビラウンケン」と唱えます。両部を併せ持つ場合は「オン・アビラウンケン・バザラダトバン」と唱えます

大日如来の真言

これらの真言は、大日如来を念じ、その加護を願う際に唱えられます。特に真言宗では、大日如来を宇宙の根本仏として信仰しており、真言を唱えることで大日如来と繋がり、様々な功徳が得られるとされています。

による概要

大日如来 - 草場一壽公式サイト

大日如来(だいにちにょらい)は、真言密教における最高位の仏であり、宇宙の真理や根源を象徴するとされています。太陽を意味する「大日」の名を持ち、あらゆる仏の頂点に立つとされ、仏教の世界では、宇宙そのものとされています。

大日如来の特徴:
    • 宇宙の根源:

      大日如来は宇宙の真理や根源を象徴し、あらゆるものが大日如来から生まれたと考えられています。

    • 最高位の仏:

      真言密教において、大日如来は他のすべての仏や菩薩の本地(根本)とされ、仏教の世界では最高位の仏とされています。

  • 金剛界と胎蔵界:

    大日如来には、金剛界と胎蔵界という二つの側面があります。金剛界は智慧を、胎蔵界は慈悲を象徴します。

  • 菩薩のような姿:

    一般的な如来像は質素な姿で表されますが、大日如来は宝冠や装飾品を身につけた菩薩のような姿で表されることがあります。

  • 智拳印:

    大日如来は、左手の人差し指を立て、右手でそれを包み込む「智拳印」という独特の印を結ぶ姿で表されることが多いです。

大日如来と関連

富士信仰における大日如来

平安末期の久安年間に末代が富士山頂に大日寺を建立し、大日如来を富士の本尊とする信仰が創始されたといわれている[14]。そして、富士の神である浅間大神は浅間大菩薩と呼ばれ、その本地仏は大日如来であるとされ、富士信仰において祀られた[15]

チベット

チベット密教では、『大毘盧遮那成仏神変加持経(大日経)』系の行タントラ、『金剛頂経』系の瑜伽タントラの主尊とは位置付けられるが、後期密教無上瑜伽タントラ根本仏金剛薩埵持金剛仏などとされ、日本密教における「大日如来は密教の根本仏」という観念は、チベット仏教には当てはまらない[4]

真言

  • オン・バザラ・ダト・バン(金剛界)[16]
    • Oṃ vajra-dhātu vaṃ[16]
  • ナウマク・サンマンダ・ボダナン・アビラウンケン(胎蔵界)[17]
    • Namaḥ samanta-buddhānāṃ, a vi ra hūṃ khaṃ[17]
  • オン・アビラウンケン・バザラダトバン [18](金胎両部)
    • Oṃ a vi ra hūṃ khaṃ vajra-dhātu vaṃ

仏典における扱い

それ如来の説法は必ず文字による。文字の所在は六塵其の体なり。六塵の本は法仏の三密即ち是れなり。(如来の説法は必ず文字によっている。文字のあるところは、六種(

三界を制する者──降三世明王伝

三界を制する者──降三世明王伝

まだ世界が、光と闇の境界に揺れていた頃。
欲望が都市の隅々まで浸食し、人の心は怒りと愚かさに曇り、正しさを見失っていた時代。

ある青年僧が、山中の古びた密教寺院に足を踏み入れた。
その寺には、ひとつの像が祀られていた。仏とは思えぬほど激しい怒りを宿した顔。四つの面、八本の腕、そして足元には何かを踏みつけている。

「これは……誰だ?」

僧が問いかけると、奥から、年老いた導師が現れた。
白い髭を撫でながら、静かに語り始めた。

「そのお方の名は──降三世明王(ごうざんぜみょうおう)
密教における五大明王のひとつ。真理に逆らう者を正す、怒りの仏じゃ。」

青年は目を細める。
「しかし、なぜそのような激しい姿を……」

導師は、焚かれた香の煙の向こう、像を見上げながら語る。

「この方の名は、トライローキヤ・ヴィジャヤ
サンスクリットで『三界に勝利せし者』。三界とは、欲界・色界・無色界――つまり、人が心を迷わすすべての世界のことじゃ。
欲望に溺れる者も、形に執着する者も、あるいは形すら超えて傲慢に浸る魂でさえ、この明王の前には屈するしかない。」

語りは、やがて神話の領域へと遡る。

はるかなる天の高み――
かつて、**大自在天(マハーイーシュヴァラ)**と呼ばれる神がいた。
ヒンドゥーの世界では「シヴァ神」として崇拝された存在。力と権威を誇り、すべてを制する者とされた。

その傍らには、妃の鳥摩(うま)
ふたりは天界の頂から、地上のものすべてを見下ろしていた。

だが、ある時、その誇りが傲慢に変わり、仏の教えすら無視するようになった。
慈悲も智慧も、自分の前では意味をなさない――そう考えるほどに。

そのとき、宇宙の中心、大日如来は決断した。

「法を乱す者には、怒りの姿をもって応えよう」

そうして生まれたのが、この明王。
怒れる守護者、降三世明王

彼は燃えるような青黒の身体で天から降臨し、四つの顔は四方を睨みつけ、八本の腕には金剛杵・剣・弓矢・羂索を持ち、光よりも速くシヴァ神とその妃を大地に押し伏せた。

それは破壊ではなく、転生だった。
シヴァ神すらも仏の智慧に帰依させる、その壮絶な光景こそが、この像の意味するところ。

「では、これは……敵を倒す像ではないのですか?」

青年の問いに、導師は微笑んだ。

倒すのではない。正すのじゃ。
怒りをもって怒りを制し、執着をもって執着を断つ。
この明王は、私たちの中に巣食う三毒――**貪(むさぼり)・瞋(いかり)・痴(おろかさ)**を照らす鏡でもあるのじゃ。」

寺院の奥、護摩の炎が焚かれていた。

導師は密やかに印を結び、真言を唱える。
「オン・アビラウンケン・バザラダトバン」

その音は、静かに青年の心を打ち、知らぬ間に彼の中の煩悩の影を焼き尽くしていった。

そして彼は知ることになる。

この時代にこそ、降三世明王は必要とされているのだと。
都市の交差点にも、無数のスマホの画面にも、怒りや妄想が渦巻く現代こそが、三界の縮図であるのだと。

だが、そのすべてに対して、彼の瞳はこう語る――

「迷うな。汝の中に、勝利はある」

『現代に現れる降三世の姿』

『現代に現れる降三世の姿』

東京、真夏の午後。
駅前の交差点は、灼けるようなアスファルトの熱気と、人々の苛立ちが渦巻いていた。

歩道に立つ青年・蓮(れん)は、眉をひそめていた。
汗が額を伝い、右手の拳には、堪えきれぬ怒りがこもっている。

会社の理不尽な上司。
満員電車でぶつかっても謝らない他人。
誰もが自分のことで精一杯で、心がすり減る日々。

(もう、限界かもしれない)

彼はふと、幼いころ祖母から聞いた話を思い出す。

「怒ってもいいのよ。大事なのは、その怒りを誰かのために使えるかどうか。それが“仏の怒り”というのよ。」

蓮は、ため息とともに目を閉じた。

その瞬間だった。

目の前の景色が歪み、あたりの喧騒が遠のく。
世界が、音を失った。

そして――空間が裂けるようにして、そこに「何か」が現れた。

炎を背負い、四つの顔で四方を睨み、八本の腕には剣、棒、輪宝、縄、さまざまな法具を携える存在。

降三世明王。

だが、それは古の仏像の姿ではなかった。

現れた者は、黒いパーカーにジーンズ、だが瞳には世界を貫く怒りと慈悲が宿っていた。
まるで「現代の戦士」のような風貌で、だがその声は、宇宙を震わせるように深かった。

「汝、怒りを抱いているな。それは正しい。だが、その刃を振り下ろす前に、己の煩悩と向き合え。」

蓮は、呆然と問い返す。

「どうすればいいんだ……どうすれば、この怒りを……」

降三世は、一本の剣を掲げた。それは炎をまとう倶利伽羅剣に似ていた。

「この剣は、己の心を断ち切るためのものだ。
欲に溺れた過去。怒りに飲まれた現在。愚痴に覆われた未来。
三つの世を越えて、真実を貫け。」

次の瞬間、蓮の胸に熱が走った。

(オン・ソンバ・ニソンバ・ウン・バザラ・ウン・パッタ)

その真言が、内側から響いてくる。

そして、世界は音を取り戻す。
交差点の喧騒、人々の足音、蝉の鳴き声――日常が戻っていた。

蓮は、肩の力を抜き、ゆっくりと歩き出す。

怒りはまだそこにある。
だがそれはもう、破壊の刃ではない。
誰かの痛みに気づくための“火”に変わっていた。

遠く、電光掲示板の反射の中に、一瞬だけ炎の背を持つ男の姿が映った。
だがすぐに、それは消えていた。

現代に現れる明王は、怒りの中にこそ棲んでいる。
煩悩に迷う者がいる限り――その姿を変えて、現れ続けるのだ。

 

第三話『言葉の刃を断つ教師』

現代の教室は、かつての戦場よりも静かで、冷たい。
その沈黙の中に、目に見えない刃が飛び交っている。

「先生って、何もわかってないよね。」

生徒のひとことが、黒板の前に立つ教師・水島紗季(みずしま・さき)の胸を斬った。

彼女はまだ若い教師で、理想と正義感を胸に教壇に立った。
だが、SNS、陰口、無関心、そして“言葉の暴力”という名の刃に日々傷つけられていた。

注意すれば反発され、寄り添えば軽く見られる。
授業が終わるたび、教室を出る生徒たちの背中が、自分の価値を否定しているように感じられる。

(何のために教師になったんだろう……)

ある日、廊下に「退職しろ」「ババア」「うざい」と書かれた紙切れが貼られていた。

誰が書いたかもわからない。問い詰める気力ももう、ない。

泣く気にもなれなかった。

その夜、帰宅した彼女は鏡の前でふと、つぶやいた。

「私も……もう、人を傷つけてるのかもしれない」

鏡の奥で、一瞬だけ“誰か”の気配を感じた。

翌朝、教室に入ると、教卓の上に黒いノートが置かれていた。

表紙には何も書かれていない。
開くと、白紙のページの中央に、炎のような文字でこう記されていた。

「オン・ソンバ・ニソンバ・ウン・バザラ・ウン・パッタ」

(なに、これ……)

触れた瞬間、彼女の視界がぐにゃりと歪む。
教室が燃え上がったような幻が見え、黒板の前に“あの存在”が立っていた。

八本の腕、四つの顔、怒りを纏う武神。

しかし、それは古の神ではない。

教師のジャケットにジーンズ姿、目元にサングラス。
だがその背に燃える火炎と、目に宿る怒りは確かに仏のそれだった。

降三世明王。現代に現れた“言葉の刃を断つ者”。

「お前の怒り、見えぬふりをするな。
怒りを恥じるな。それは、お前の中の慈悲の叫びだ。」

「……でも、私は……生徒に嫌われるのが、怖い……」

「その恐れこそが、煩悩だ。
“言葉の刃”は、お前の心の弱さにつけ入ってくる。」

明王は、炎の剣を一振りして教室を斬った。

その瞬間、目に見えない「言葉の刃」が無数に現れた。
「無能」「バカ教師」「邪魔」「地味」「死ねばいい」
それは生徒たちがネットに投げ込んだ、匿名の声だった。

「これが、汝が見ぬふりをしていた真実だ。
だが、この刃を断つのは……お前自身の声だ。」

紗季は、剣を手に取った。

震える手で、それでも真っ直ぐ前を見て、斬った。

「私は教師だ。あなたたちに、学んでほしいと思っている。
私は、怒っている。でもそれは、あなたたちを捨てたくないからだ!」

剣が閃いた瞬間、言葉の刃が砕け、教室の幻は静かに消えていった。

その日から、水島紗季は変わった。
以前より、毅然として、そしてやさしくなった。
叱るときは叱り、黙るときは黙る。
誰よりも正直な教師になった。

誰かが悪口を書いたノートを見せびらかしていたとき、彼女はただひとことだけ言った。

「人の心を斬る言葉は、いつか自分をも斬る。
だからこそ私は、“怒り”でそれを止める。」

それは恐ろしくも美しい、炎を抱いた言葉だった。

――そして、夜の空に炎の光背を背負った男の影が一瞬だけ立つのを、誰かが見たという。

降三世明王は今も、
言葉という見えぬ刃を断つ者の中に、宿っている。

 

第四話『街を護る怒り――降三世、交番に立つ』

深夜一時、繁華街の片隅にある小さな交番。
ネオンの色が滲むガラス越しに、静かに座る警察官がひとりいた。

名を、芹沢 智(せりざわ・さとし)。
かつては機動隊にも在籍していた武道の達人だったが、今はこの小さな交番に配属されている。

その目は鋭く、だがどこか疲れていた。

人々の悪意、嘘、怒号。
パトロールに出れば暴力の現場、交番には理不尽なクレーム。
市民を守るための怒りが、少しずつ彼の中で腐っていくのを、芹沢自身も感じていた。

「誰のために怒ってるのか、わからなくなるな……」

その夜、交番の前で一人の少年が暴走族に絡まれていた。
警察とわかるや否や、彼らは芹沢に対して怒鳴り散らし、スマホを向け、煽り、侮辱しはじめる。

「おい! お前、殴ったら即免職だぞ? なあ! 殴ってみろよ、公務執行妨害って騒げば終わりだぞ!」

芹沢の手が震えた。

怒りが、剣のように心を割る。

そこに――突如、風が止まった。

時間が凍りつくように、暴走族の声が消え、世界が音を失う。

そして、交番の電灯の影から、現れた。

――八本の手、四つの顔、背に火焔を負った影。
制服姿に変じながらも、その眼には地獄を照らす慈悲の怒り。

「……お前、誰だ」

芹沢が問いかけたとき、その存在は剣を差し出した。

「我は降三世。汝が抱く怒り、それは正しい。
だが“正しい怒り”も、誤って使えば、ただの暴力に堕ちる。」

「……俺は、もうわからなくなった。正義のつもりで怒ってきた。でも、誰も守られていない気がする」

「ならば、護れ。この剣で。」

芹沢の手に、その炎の剣が握らされる。

「この剣は、暴力を斬る剣ではない。“無力感”と“諦め”を断ち切る剣だ。
心を鈍らせる怠惰。正義を腐らせる妥協。欲と愚痴と怒りに塗れた三世の闇を、この街から祓え。」

再び音が戻り、暴走族の少年が口を開こうとした瞬間――
芹沢は、静かに一歩、前に出た。

「名前を言え。」

「は?」

「名前だ。お前のだ。」

芹沢の声は低く、だが揺るがなかった。

「誰かに怒る前に、お前自身が誰なのかを教えろ。それが、対話の始まりだ。」

少年は戸惑い、やがて「ケンタ……」と答えた。

芹沢はうなずき、剣を構えるように、背筋を伸ばした。

「お前が自分の名前を言った。それだけで、俺はお前を敵として扱わない。」

その夜、暴走族は何も壊さず、誰も傷つけずに去っていった。

残された芹沢は、夜空を仰いだ。

交番の屋根の上に、一瞬だけ炎を背負う影が立っていた。
風がそれを消し、静寂が戻る。

だが、芹沢の胸には確かに残っていた。

怒りは、捨てるべきものではない。

怒りは、人を守るために使われるべき剣なのだと――。

 

第四話『街を護る怒り――降三世、交番に立つ』

深夜一時、繁華街の片隅にある小さな交番。
ネオンの色が滲むガラス越しに、静かに座る警察官がひとりいた。

名を、芹沢 智(せりざわ・さとし)。
かつては機動隊にも在籍していた武道の達人だったが、今はこの小さな交番に配属されている。

その目は鋭く、だがどこか疲れていた。

人々の悪意、嘘、怒号。
パトロールに出れば暴力の現場、交番には理不尽なクレーム。
市民を守るための怒りが、少しずつ彼の中で腐っていくのを、芹沢自身も感じていた。

「誰のために怒ってるのか、わからなくなるな……」

その夜、交番の前で一人の少年が暴走族に絡まれていた。
警察とわかるや否や、彼らは芹沢に対して怒鳴り散らし、スマホを向け、煽り、侮辱しはじめる。

「おい! お前、殴ったら即免職だぞ? なあ! 殴ってみろよ、公務執行妨害って騒げば終わりだぞ!」

芹沢の手が震えた。

怒りが、剣のように心を割る。

そこに――突如、風が止まった。

時間が凍りつくように、暴走族の声が消え、世界が音を失う。

そして、交番の電灯の影から、現れた。

――八本の手、四つの顔、背に火焔を負った影。
制服姿に変じながらも、その眼には地獄を照らす慈悲の怒り。

「……お前、誰だ」

芹沢が問いかけたとき、その存在は剣を差し出した。

「我は降三世。汝が抱く怒り、それは正しい。
だが“正しい怒り”も、誤って使えば、ただの暴力に堕ちる。」

「……俺は、もうわからなくなった。正義のつもりで怒ってきた。でも、誰も守られていない気がする」

「ならば、護れ。この剣で。」

芹沢の手に、その炎の剣が握らされる。

「この剣は、暴力を斬る剣ではない。“無力感”と“諦め”を断ち切る剣だ。
心を鈍らせる怠惰。正義を腐らせる妥協。欲と愚痴と怒りに塗れた三世の闇を、この街から祓え。」

再び音が戻り、暴走族の少年が口を開こうとした瞬間――
芹沢は、静かに一歩、前に出た。

「名前を言え。」

「は?」

「名前だ。お前のだ。」

芹沢の声は低く、だが揺るがなかった。

「誰かに怒る前に、お前自身が誰なのかを教えろ。それが、対話の始まりだ。」

少年は戸惑い、やがて「ケンタ……」と答えた。

芹沢はうなずき、剣を構えるように、背筋を伸ばした。

「お前が自分の名前を言った。それだけで、俺はお前を敵として扱わない。」

その夜、暴走族は何も壊さず、誰も傷つけずに去っていった。

残された芹沢は、夜空を仰いだ。

交番の屋根の上に、一瞬だけ炎を背負う影が立っていた。
風がそれを消し、静寂が戻る。

だが、芹沢の胸には確かに残っていた。

怒りは、捨てるべきものではない。

怒りは、人を守るために使われるべき剣なのだと――。

第五話『過去を斬るバイク便ライダー』

東京の夜を縫うように走る一台のバイク。
背中に古びたリュック、無言で信号をすり抜けるその男の名は、斎藤 陸(さいとう・りく)。

30代後半。
過去に仲間を巻き込んだ“ある事故”で夢を失い、家族も去った。
以来、昼夜問わずバイクで走り続けている。

「走っていれば、過去に追いつかれずに済むと思ってた――」
第四話『街を護る怒り――降三世、交番に立つ』

深夜一時、繁華街の片隅にある小さな交番。
ネオンの色が滲むガラス越しに、静かに座る警察官がひとりいた。

名を、芹沢 智(せりざわ・さとし)。
かつては機動隊にも在籍していた武道の達人だったが、今はこの小さな交番に配属されている。

その目は鋭く、だがどこか疲れていた。

人々の悪意、嘘、怒号。
パトロールに出れば暴力の現場、交番には理不尽なクレーム。
市民を守るための怒りが、少しずつ彼の中で腐っていくのを、芹沢自身も感じていた。

「誰のために怒ってるのか、わからなくなるな……」

その夜、交番の前で一人の少年が暴走族に絡まれていた。
警察とわかるや否や、彼らは芹沢に対して怒鳴り散らし、スマホを向け、煽り、侮辱しはじめる。

「おい! お前、殴ったら即免職だぞ? なあ! 殴ってみろよ、公務執行妨害って騒げば終わりだぞ!」

芹沢の手が震えた。

怒りが、剣のように心を割る。

そこに――突如、風が止まった。

時間が凍りつくように、暴走族の声が消え、世界が音を失う。

そして、交番の電灯の影から、現れた。

――八本の手、四つの顔、背に火焔を負った影。
制服姿に変じながらも、その眼には地獄を照らす慈悲の怒り。

「……お前、誰だ」

芹沢が問いかけたとき、その存在は剣を差し出した。

「我は降三世。汝が抱く怒り、それは正しい。
だが“正しい怒り”も、誤って使えば、ただの暴力に堕ちる。」

「……俺は、もうわからなくなった。正義のつもりで怒ってきた。でも、誰も守られていない気がする」

「ならば、護れ。この剣で。」

芹沢の手に、その炎の剣が握らされる。

「この剣は、暴力を斬る剣ではない。“無力感”と“諦め”を断ち切る剣だ。
心を鈍らせる怠惰。正義を腐らせる妥協。欲と愚痴と怒りに塗れた三世の闇を、この街から祓え。」

再び音が戻り、暴走族の少年が口を開こうとした瞬間――
芹沢は、静かに一歩、前に出た。

「名前を言え。」

「は?」

「名前だ。お前のだ。」

芹沢の声は低く、だが揺るがなかった。

「誰かに怒る前に、お前自身が誰なのかを教えろ。それが、対話の始まりだ。」

少年は戸惑い、やがて「ケンタ……」と答えた。

芹沢はうなずき、剣を構えるように、背筋を伸ばした。

「お前が自分の名前を言った。それだけで、俺はお前を敵として扱わない。」

その夜、暴走族は何も壊さず、誰も傷つけずに去っていった。

残された芹沢は、夜空を仰いだ。

交番の屋根の上に、一瞬だけ炎を背負う影が立っていた。
風がそれを消し、静寂が戻る。

だが、芹沢の胸には確かに残っていた。

怒りは、捨てるべきものではない。

怒りは、人を守るために使われるべき剣なのだと――。

だが、ある晩。
配達先のビルに到着した瞬間、インカムに奇妙な音が混じった。

──ザザッ……オン・ソンバ・ニソンバ……ウン・バザラ・ウン・パッタ……ザッ。

(今の……真言?)

ビルのロビーに入ると、誰もいないはずの空間が、真紅に染まった。

現れたのは、黒いヘルメットをかぶった自分自身。
「事故の夜」のままの姿で、こちらを睨んでいる。

「お前は逃げた。罪を斬らずに、走り去った。」

震える足。崩れそうな心。
斎藤は、自分の過去の幻影に囚われた。

そのとき、エレベーターの鏡面が揺れ、そこから現れたのは――

八本の手に剣を持ち、バイクスーツ姿の降三世明王。

だがその顔の一つは、確かに“自分”に似ていた。

「斎藤陸。お前の怒りは、他者ではなく、自分に向いている。
それは逃げではなく、“罪を背負いたい”という慈悲の形だ。」

「……だったら、俺はどうすれば?」

「走れ。そして、斬れ。過去ではなく、“今の怯え”を。」

明王が差し出した剣は、ミラーシールドのように過去を映し出し、
斎藤の手で振るわれたとき――

鏡の中の“罪の自分”が崩れ落ちた。

それから彼は、夜のバイク便を辞めた。

かわりに始めたのは、夜の救急パトロールのボランティア。
傷ついた若者を運び、孤独な人に声をかける。
かつての自分のような者たちに、寄り添う日々。

ある夜、信号待ちの後ろでバイクのライトが点滅した。
振り返ると、誰もいない。

だが、道路の片隅に燃え上がるような“赤い火”の残像だけが、確かにあった。

降三世は走っている。
罪に囚われた心を、斬るために。

第六話『スクリーンの裏の明王 ― ネットに潜む闇を斬れ』

中学生の少女、**葉山 結子(はやま・ゆいこ)**は、スマートフォンの画面に世界を見ていた。

学校ではほとんど喋らず、家でも部屋にこもり、
彼女の“本当の居場所”は匿名のSNSとチャットアプリの中にあった。

そこでは、誰もが「本音」で話し合い、悪意をむき出しにする。
炎上、晒し、晒され、攻撃、罵倒、自己演出──
それらが彼女にとっての、正直な世界だった。

「リアルが嘘だらけだから、ネットだけが本物なんだよ」

そう呟く結子の指先は、ある日、
ふとした違和感を覚える。

匿名チャットに「不気味なID」が入り込んでいた。
名前は【GZ-Myo-03】。
“降三明王・第3変化”と名乗るその存在は、こう言った。

「そなたは、刃を投げ続けている。
だが、その刃はいつか、自らの魂を裂く」

結子は笑った。

「なにそれ? 私が誰かを傷つけたって言いたいの?」

だがその瞬間、スマホ画面が真っ赤に染まり、
アカウントのログが暴走し始めた。

自分が送った過去の悪意の言葉――
「ブス」「消えろ」「○ね」「キモい」
それらが無数に拡大され、画面を埋め尽くしていく。

やがて、画面の奥から“赤い手”が伸び、彼女の首を掴んだ。

気がつくと、彼女は巨大なディスプレイの中にいた。
そこは無数の言葉が飛び交い、叫び、怒り、悲鳴がこだまする“デジタルの地獄”。

その中心に、降三世明王が現れた。

だが今回は、異形の電子体。
サイバーアーマーに包まれ、光と火焔をまとったデジタルの戦神だった。

「結子。汝は心を鎧で隠し、他者の弱さを斬った。
だがその刃の元は、汝自身の“孤独”だ」

「……私は、誰にも見られたくなかっただけ。
弱い自分を見せるくらいなら、誰かを叩いていた方が……マシだった」

「ならば、見せよ」

明王が差し出したのは、一枚の“鏡のようなタブレット”。
そこには、小さな結子が泣きながら「もう学校行きたくない」とつぶやいていた過去の映像。

誰にも見せなかった、ただの一度だけの弱音。

「自分自身を否定することからは、何も生まれぬ。
他者を傷つける言葉は、自分への呪いにすぎぬ。
今こそ、その呪いを、怒りの剣で断ち切れ」

結子は、震える手でその“剣”を掴んだ。

言葉で、涙で、恐れで。

斬ったのは――“自分自身にかけた呪い”だった。

目が覚めると、スマホは正常に戻っていた。
だが彼女の中に、確かな変化があった。

その日から結子は、SNSから離れ、日記を書くようになった。
たとえ誰にも見せなくても、“本音”はそこに綴られた。

そしてたまに、こう呟くようになった。

「本当に怒るってことは、誰かを守るってことなんだね……」

夜。スマホの待ち受けに、誰かが入れていないはずの壁紙が一瞬だけ表示される。

赤い火焔に包まれた“四面の仏の顔”。

降三世明王は、ネットの闇の奥で今も――
心を救う怒りの剣を研ぎ澄ましている。

第七話『千手千眼に宿る明王 ― 介護士と孤独の老い』

──その日、彼はまた“ありがとう”をもらえなかった。

介護士・三枝 慎太郎(さいぐさ・しんたろう)、27歳。
特別養護老人ホーム「光の杜」で働いて3年。

風呂介助、排泄ケア、認知症の徘徊対応──
身体は常に悲鳴を上げ、言葉は罵倒され、
それでも慎太郎は、誰よりも丁寧に、黙々とケアを続けていた。

「“優しくされること”すら忘れた人たちを、どうやって救えって言うんだよ……」

ある夜、彼の担当だった利用者・長谷川信子(85)が、
「もう、誰にも触らないで」と叫んだ。

そのとき慎太郎は、自分の“手”が、
ただの作業の道具に感じられた。

数日後。

夜勤中の休憩室。
疲れきった彼がソファに沈むと、不意に窓の外に“無数の手”が現れた。

──それは、風のように動き、火のように揺れ、
──やがて、一つの姿を結ぶ。

八面怒号の顔。千本の手、すべての掌に「眼」。

「誰……?」

「我は千手千眼観音より顕れし、明王のひとつ。
人の“見えない苦しみ”を視て、“届かぬ心”に触れる者」

「俺はもう、心なんか届かないって……」

「否。お前の手は、まだ“怒っていない”。
悲しみに、怒れ。
忘れられる痛みに、怒れ。
触れるたびに壊れそうな命を、それでも支える“怒り”を知れ。」

その晩、施設で認知症の女性が転倒し、介助者に噛みつく騒動が起きた。
他のスタッフが恐れて引く中、慎太郎は迷わず飛び込んだ。

流血しながらも、彼はその手を、
まるで“神仏の手”のように包み込んだ。

「やめて……あなたを痛めたいんじゃないんだ、って知ってるから」

女性の目に、ひとすじの涙が浮かんだ。

それからというもの──
慎太郎の“手”には、変化が生まれた。

触れた相手の「かすかな記憶」「消えかけた感情」が、
ほんの一瞬、彼の中に流れ込んでくるようになった。

言葉を失った老人の手から、
「ありがとう」という感情だけが、確かに伝わってきた。

それは、怒りにも似た慈悲の感触だった。

「優しさは、時に怒りに似ている。
“何も伝わらない”という絶望に、拳を握りたくなる夜。
それでも手を差し出す、その痛みこそが──
人を救う“明王の手”だ」

慎太郎の夢の中、今も千の手をもつ明王は静かに立っている。