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仏教

それは、瞑想からはじまる It Begins with Meditation

 

それは、瞑想からはじまる
It Begins with Meditation

 

それは 瞑想からはじまる
静かな問いが 胸を打つ
電子と魂が 触れ合うとき
世界は 内側からひらく

✨タパスよ 魂を鍛えよ
✨思念よ 王者の道を開け
✨言葉を超えた 光の相承
✨この身このまま 仏となれ

On Abirawunken
अबिरावुन्केन् इत्यत्र

Ong Sanmaya Satvan
ओंग सनमाया सतवन

On a Foon
On a Foon इति

 

闇を裂く 静寂の祈り
都市は曼荼羅へと変わる
星より高く 法輪は回り
心は今 大日に還る

🌟オン・アビラウンケン 宇宙は我なり
🌟オン・サンマヤ・サトバン 命は不二
🌟オン・ア・フーン 光よ 我を貫け
🌟この身このまま 仏となれ

On Abirawunken
अबिरावुन्केन् इत्यत्र

Ong Sanmaya Satvan
ओंग सनमाया सतवन

On a Foon
On a Foon इति

 

It Begins with Meditation

When circuits and spirit touch as one
The world opens from within
✨O Tapas, temper the soul
✨O Thought, open the royal path
✨Transmission of light beyond words
✨In this very body, become Buddha
On Abirawunken
Ong Sanmaya Satvan
On a Foon

lPrayer of stillness that rends the dark

The city transforms into a mandala
Higher than stars, the Dharma wheel turns
The heart now returns to Mahāvairocana
🌟On Abirawunken — I am the universe
🌟Ong Sanmaya Satvan — Life is non-dua

🌟On a Foon — O Light, pierce through me
🌟In this very body, become Buddha
On Abirawunken
Ong Sanmaya Satvan
On a Foon

それは、瞑想からはじまる

 

それは、瞑想からはじまる

 

それは、ひとつの静かな問いから始まった。
「エレクトロニクスと霊性を結ぶものは、何ですか?」
わたくしは、前章で紹介した『間脳思考』について語っていたとき、そう尋ねられた。
そして、ほとんど考える間もなく、こう答えた。
――それは、瞑想からはじまる。
だが、その言葉は、終わりではなかった。
むしろ、そこからが始まりだった。
しばらく話が進んだあと、別の声が静かに投げかけられた。
「では、間脳を開発するのも、瞑想なのですか?」
わたくしは、首を横に振った。
「瞑想は、手段にすぎない。
それだけでは、大脳辺縁系と新皮質しか動かせない。
腹想だけでは、間脳は目覚めない。
間脳をはたらかす瞑想でなければ、オーラは生じない。
そして、オーラが生じなければ、カルマを越えることはできないのです。」
その場に、沈黙が落ちた。
「では……何が必要なのですか?」
わたくしは、ひとつの言葉を置いた。
――tapas(タパス)。
練行。補行。魂の鍛錬である。
学者はそれを「苦行」と訳すが、わたくしは、そうは呼ばない。
これは、自己を壊すための行ではない。
自己を変容させるための行である。
それがなければ、どれほど高い教えも、どれほど深い象徴も、ただの概念に終わる。
思念による王者の相承
古くから、チベット密教ニンマ派では、解脱の完成に三つの道があると説かれてきた。
一つ目は、「思念による王者の相承」。
それは、法身タターガタ――如来が、
言葉も象徴も介さず、直接、相手の心に自らの心を伝える方法である。
だが、ここでいう「心」とは、思考や感情ではない。
それは、存在そのものの波動であり、力そのものである。
この相承を受けた者は、たちどころに仏陀として完成する。
それゆえ、王者の相承と呼ばれる。
理想であり、究極であり、到達点である。
だが――
それを受けるための器がなければ、光は、ただ通り過ぎる。
存在とは、何か
存在とは、何か。
それは、究極において「放動」である。
波動であり、振動であり、動きである。
人間とは、「自分」という波動をまとった存在である。
カルマとは、その波動の癖であり、過去から引き継がれた重力である。
人は、地球の引力から逃れられないように、
カルマの引力からも逃れられない。
老い、病み、死ぬ。
出会い、別れ、執着し、苦しむ。
それらすべては、カルマと因縁という見えない重力によって、
人間が縛られている証である。
だが――
もし、その波動そのものを変えてしまったなら?
それは、引力からの脱出。
反重力の修行である。
存在の次元が、変わるのだ。
間脳という、鍵
人間の存在の波動を変える原点は、間脳の視床下部にある。
そこは、感情でも、思考でもない。
生と死、欲望と沈黙、肉体と霊性の境界にある場所。
この間脳の波動が変わると、全身の波動が変わる。
すると、人は、カルマの規制を受けない存在へと変容する。
それは、もはや「人間」と呼ぶだけでは足りない。
高次の霊的存在――そう呼ぶほかない。
このとき、特殊な霊光が発生する。
それが、オーラである。
オーラとは、感情の色ではない。
全身の存在波動が変化した証明である。
そして、その発光源は、間脳にある。
瞑想だけでは、この次元変化は起こらない。
瞑想は必要である。不可欠である。
だが、それは「条件」の一部にすぎない。
鍵ではない。
象徴と、言葉と、そして……
第二の方法は、「象徴による持明者の相承」。
象徴とは、言葉、形、色、音に、宇宙的な思想を圧縮したもの。
持明者とは、純粋な心で実相を見ることのできる者。
彼らは、導師から象徴を示されることで、
言葉を超えた教法を理解し、密教の核心へと到達する。
第三の方法は、「耳を通した言葉による人の相承」。
ラマが言葉を用い、理を説き、弟子に理解させる。
これは、ほとんどの人間が通る道である。
わたくしは、これらをこう分類する。
思念による王者の相承 → 間脳系=霊的バイブレーション
象徴による持明者の相承 → 新皮質系=マントラ、タントラ、象徴
耳を通した言葉による人の相承 → 大脳辺縁系=言葉、音楽、感情
これら三つは、世界中の宗教に共通する、究極への道である。
だが――
それでも、まだ足りない。
欠けているもの
究極至上のものに到達するために、
これら三つだけでは不十分である。
欠けているものがある。
それが――
tapas。練行である。
どれほど高い相承も、
どれほど深い象徴も、
それを受け止める存在が変わらなければ、光は根づかない。
tapasとは、自己の存在波動そのものを鍛え、変容させる行である。
苦しむための行ではない。
耐えるための行でもない。
受け取るための行である。
最高の光を、受け取る器になるための行である。
結び
だから、わたくしは言う。
それは、瞑想からはじまる。
だが、瞑想では終わらない。
思念も、象徴も、言葉も、
すべては道であり、扉であり、準備である。
だが、存在そのものを変える火――
その火を起こすのは、練行である。
カルマという引力を越え、
存在という波動を書き換え、
人が、人を超えるとき。
その始まりは、静かな瞑想であり、
その完成は、沈黙の奥に燃える、tapasなのである。

それは瞑想からはじまる

 

それは瞑想からはじまる

わたくしは、前章で紹介した「間脳思考』で、エレクトロニクスと霊性を結ぶものはなにかと質問されて、それは瞑想からはじまると答えた。

そのあと、話がだいぶ進んでから、

「それでは、間脳の開発をするのも、瞑想ですか?」

と聞かれた。わたくしは、

手段にすぎない。瞑想は、大脳辺縁系と新皮質脳しか動かすことができない。だ

から腹想だけではだめなのである。間脳をはたらかす瞑想でなければ、オーラは発生しない。したがって、カルマを越えることはできないのである。

では、なにが必要なのか?

特殊なtapas (練行) (補行)である。

学者は tapas を苦行と訳しているが、わたくしはこれを、練行と訳したい。そ

してこの練行が絶対に必要なのである。

思念による王者の相承

いている。 チベット密教のニンマ派では、古くから解脱の完成に三つの方法があると説

一、思念による王者の相承

ひみようしゃ二、象徴による持明者の相承

rgyal ba dgongs pa’i brgyud pa

4ャルワゴンペーギュー

-rig’dzin brda’i brgyud pa ギューパ

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て、人間が成立しているのだ。このカルマと因縁の緊縛から完全に解説したときが、雪作の完成である。いうならば引力からの脱出である。反重力の修行なのだ。その修行によって自分の存在の次元が変わるのである。

存在とはなにか? それは究極のところ『放動”である。自分”という波動を変えてしまうのだ。それにより『カルマ”という波動を越えてしまうのである。

人間という存在の彼動を変える原点は、間脳の視床下部にある。ここの波動を変えることにより、全身の波動が変わり、特殊な精神波動と肉体波動を持つ存在になる。それは、カルマの規制を受けない、ふつうの人間とはまた異なった、高 「度な霊的存在とよぶよりほかない存在となるのである。これが成就すると、特株な「霊光」が発生するようになる。この特殊なオーラの発生は、全身の波動が変化したことを示すのである。オーラについてはまたあとでのべるが、このオーラの発光源は間脳なのである。瞑想だけでは、以上のような『次元の変化”は不可能である。もちろん、心の安定、集中、まったく新しい高い次元へのメディテイト等、瞑想はこの修行に絶対必要なものである。しかし、それはひとつの

 

 

「いいえ」

とかぶりをふった。

「瞑想じゃないのですか?」

「いいえ」

とわたくしは、これにもかぶりをふった。

彼は、けげんそうな表情でわたくしを見つめた。

そこでわたくしは答えた。

「それは瞑想からはじまるのです」

なるほど、というように彼はうなずいた。わたくしは説明した。

それは瞑想からはじまるのだが、瞑想だけではないのだ。「霊性の完成は、瞑

想だけでは不可能なのである。心の安定、欲望の調節、本能の抑制、といった程度のものでは、とうてい到達できない境界である。思念、想念の変化くらいでは、絶対に行き着くことのできない次元なのだ。

なぜか?

◎霊性完成の到達点は、カルマからの超越である。

カルマとはなにか? いうならば、地球における引力のようなものである。

地球上に存在するものすべて、地球引力の支配下にある。いかなるものも、引力から逃れることはできない。いや、地球という存在そのものが、引力によって成り立っているのである。人間におけるカルマもそのとおりである。人はすべて、輪廻のカルマの絶対的な規制を受けている。このカルマから、もろもろの 「因縁」が生じて、人間を緊縛しているのである。いや、カルマと因縁によっ

 

である。

いる。 霊界の法の世界において、法の完成者タターガタ(如米)が常低に法を説いて

この「思念による王者の相承」とは、この法身タターガタが、言葉や象徴という媒介なしに、直接相手の心に自分の心を伝達するものである。この場合、 心、というのは単なる思念の心ではなく、パワーを主としたものと思うべきである。これによって、相手はたちどころに仏陀として完成するのである。

これは最高であり、理想的なものであること、もちろんである。「王者の」、という所以である。

この「象徴による持明者の相承」とはどういうものかというと、象徴とは、あ言葉、かたち、資色などに複雑な思想の内容を圧縮して詰め込んだものをいい、また、持明者(rig、dzin)とは、純粋な心で実相をそのまま見ることがで

る真知の世界に到達した者たちのことである。この相承

きる良知の世界に到達した者たちのことである。この相承(方法)では、真知の理解を持つ持明者たちは、導師から象徴を示されることで、密教の従麩に到達する教法を授けられるのである。

以上のすぐれた方法に対し、ふつうの人間は、霊感はなかなか得がたく、また象徴だけでは深い密教の教法を即座に理解することはできない。そこで、ラマが、いろいろな言葉をもちいてくわしく説き明かし、弟子に理解させていく。

いわゆる「口頭伝授」である。これが、三の「耳を通した言葉による人の相承」である。

以上の三つの方法を、わたくしは、つぎのように分類する。

一、思念による王者の相承

二、象徴による持明者の相承

間脳系=霊的バイブレーション

―新皮質系=マントラ、タントラ、言葉、

音楽、象徴

三、耳を通した言葉による人の相承大脳辺縁系=言葉、マントラ、音楽

これは、チベット密教だけではない。世界中のいかなる宗教でも、究極至上のものに到達するためには、この三つの方法しかないであろう。 きゆうきよくしじよ

しかし、究極至上のものに到達するためには、この三つだけでは不十分なのである。欠けているものがある。なにが欠けているのか? さきにのべた練行」 tapasである。

だが、そういうと、一は最高理想のものなのであるから、他のなにものも必要ないのではないかといわれるかもしれない。そうではないのである。その最高理想のものを受けるために、tapasは必要なのである。

練行とはなにか

では、その練行tapasとはどんなものか?

それには、ひとつの例として、わたくしの修行体験をお話しするしかないと思われる。

た求聞持法の行法は、その秘密技術のヒントになるべきもののみをつらねたに過ぎず、その秘密技術は――おそらく、自分自身の訓練努力によってみずからが発見せよとつきはなしているのにちがいなかった。それを発見するだけの努力をし、発見できるだけの資質のあるもののみがそれをわがものとする資格があるのだ、と、つめたく未来を見すえている不世出の知性の目を、私は行法次第のなかに感じた。それゆえにこそ、宗教者としてゆたかな天分を持つ興教大師覚纓が、七たびこれを修して失敗し、八度目にしてようやく悉地成就を得たという難解の行法となっているのである。 そうでなければ、覚綬ほどの才能が、なんで七たびも失敗しようか。 (中略) なんげ

(二度目の修法に、私は、古代ヨーガの技術をとり入れた。ひしひしと感得するものがあった。五〇日のその行で、求聞持法の成就はみられなかったが、私の考えのまちがいでなかったことがよくわかった。この方法で、求開持法はかならず成就する。つよい確信を得た。この技法を積みかさね、

延長してゆけばよい。一

延長してゆけばよい。これしかない。ぜったいの自信を得た。

この、私の技法によれば、従来のごとく、山にこもって五〇日ないし

一〇〇日、明星を拝しつづける必要がなかった。常住坐臥、閑寂の部屋な

かんじゃく

らば、時、ところをえらばなくてもよいのであった。ただ、最初の三日な

さんきょのうり

いし七日間、山居して明星とあい対し、これをふかく脳裡にとどめておけ

ばよかった。あとは、三〇日、五〇日、一〇〇日、よしんば一〇〇〇日か

こうぼうかろうとも、日常の生活の行忙のうちにトレーニングを積みかさねてゆけ

ばよいのであった。この発見はすばらしいものであった。これでなくて

は、法はついに民衆と無縁のものになってしまう。五〇日、一〇〇日、特

定の山にこもらねば成就しないというのでは、ごくかぎられた人たちのみ

しか参加することはできない。民衆と無縁になってどこに法の存在価値が

ために、民衆のために、どうしても――。

あろう。私は、このシステムによって、この法を完成せねばならぬ。法の

そして、(三度目の必死の修法に私は入っていた。

それは、ほぼ一〇〇日目、私の法のシステムでいって百度目のトレーニン ・ングのときであった。真言宗に伝わる求聞持法の九種の印明、それに、古

代ヨーガに伝わる特殊な呼吸法、古代ヨーガの秘法から私が創案した特殊な手印とポーズ、この三つによるトレーニングで、私のからだと大脳皮質と脳髄は、微妙な変化をおこしつつあることが感じられていた。チャクラの開発も順調にすすんでいた。機が熟しつつあることを、私の六感は感じていた。

夜明け、

その刹那、 まどろんだような感じであった。しかし、ねむりではなかった。しびれの感覚であった。かるい失心、めまいに似ていた。忘我の一瞬であった。

「ああッ!」

と私は苦痛の叫びをあげていた。脳髄の一角に電流がながれた感覚が走った。落雷があったと感じた。目の前を紫電が走った、つぎの瞬間、眠

前でフラッシュをたかれたように、私の視野は真っ暗にな

敵でフラッシュをたかれたように、私の視野は真っ暗になった。失明!

という考えが、チラリと脳裡をよこぎった。と、そのときであった。頭の内奥、深部に、ポッカリとあかりがともったのだ。そして、それは、私の脈博とおなじリズムで、しずかに、しずかにまたたきはじめた。ちょうど、 この修法をはじめる数十日まえ、山にこもって見つめたあのときの暁けの明星のように――それはつめたく、黄ばんだ白さでまたたいた。

「そうか!」

私は力いっぱい膝をたたいた。

「そうか! これが明星だったのか!」

私は目をみはって叫んだ。私はついに明星の秘密を発見した!

第三の発見視床下部の秘密

私は幼少のときから剣道をしこまれた。藩の剣術師範の家柄に生まれ、 若年の折、江戸お玉ヶ池の千葉門で北辰一刀流を学んだという祖父に、は

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第二章 開脳の開発法

 

仏陀 人間の生命の再生 The Buddha Rebirth of Human Life

 

仏陀

人間の生命の再生

The Buddha
Rebirth of Human Life

 

私は見た 輪の深さを
生と死が 絡む道を
救いを求め 泣く声が
風より先に 胸を打つ

生まれ変わる そのたびに
苦は形を 変えてくる
断ち切るのは 神ではない
気づいた心 ただそれだけ

名もなき民衆

今日を生きて 明日を恐れ
死の先を 夢に見る
終わらぬ命が あるならば
なぜ心はこんなに重い

 

生まれては また迷い
業に縛られ 歩いてる
救いがあると 信じたい
この輪の

外へ 出るために

 

 

I have seen how deep the wheel goes
Where life and death are tightly bound
The cries that search for saving grace
Reach my heart before the wind makes sound
With every birth, the shape of pain

Is changed, yet never truly gone
No god can cut these chains away
Only the waking mind moves on
The Nameless People
We live today, we fear tomorrow
We dream of what lies past the end

If life goes on and never breaks
Why do our hearts feel crushed again?
Born again, we lose our way
Bound by karma, step by step
We want to trust there is a path
That leads us past the wheel at last

仏陀   人間の生命の再生

 

 

仏陀

人間の生命の再生

 

私は見た 輪の深さを
生と死が 絡む道を
救いを求め 泣く声が
風より先に 胸を打つ

生まれ変わる そのたびに
苦は形を 変えてくる
断ち切るのは 神ではない
気づいた心 ただそれだけ

名もなき民衆

今日を生きて 明日を恐れ
死の先を 夢に見る
終わらぬ命が あるならば
なぜ心はこんなに重い

 

生まれては また迷い
業に縛られ 歩いてる
救いがあると 信じたい
この輪の

外へ 出るために