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「アートマンから縁起まで:仏教の哲学を探る」 “From Atman to Dependent Origination: Exploring Buddhist Philosophy”  

 

  • 仏教ではすべては因縁であり、永遠不滅の実在はなく、すべての存在が業によって生じ、滅していくと考える。
  • 仏教の輪廻転生では、アートマンが転生するとは考えず、「無我」として説かれる。
  • 仏教の基本的な立場は、すべてが因縁によって生じ、滅するため、人は運命を変えることが可能であり、輪廻から解脱することもできる。
  • バラモン教やヒンドゥー教では輪廻転生を説くものの、脱出方法が明確でなかったため、古代インドの人々は苦しみ、来世を案じた。
  • 仏教の教えによって、古代インドの人々のプレッシャーが軽減された。
  • 仏教では、すべてが縁によって起こり、変化することがあり、常住不滅・常恒不変の実在はないと説かれる。
  • 戒取・身見・疑惑の煩悩が仏道修行者の障害となる。
  • 須陀酒は、身見・疑惑・戒取の三つを断ち切った人であり、成仏へ向かう聖者の流れに入った者を指す。
  • 須陀酒は、七度往来して成仏し、天上界でも修行し、人間界で世のために活動する。

Buddhism believes that everything is caused by fate, that there is no eternal and immortal reality, and that all existence arises and perishes through karma.
In Buddhism’s concept of reincarnation, the Atman is not considered to be reincarnated, but is preached as “no-self”.
The basic position of Buddhism is that everything arises and perishes due to fate, so people can change their fate and even free themselves from reincarnation.
Although Brahminism and Hinduism preach reincarnation, the people of ancient India suffered and worried about their afterlife because there was no clear way to escape.
Buddhist teachings relieved the pressure on the people of ancient India.
Buddhism teaches that everything happens and changes due to connections, and that there is no eternal, eternal, unchanging reality.
The earthly desires of precepts, self-impressions, and doubts become obstacles for Buddhist practitioners.
Sudasake refers to a person who has cut off the three things of personal observation, suspicion, and precepts, and who has entered the flow of saints heading toward Buddhahood.
Sudasake goes back and forth seven times, attains Buddhahood, practices in the heavenly world, and works for the world in the human world.

 

しかし仏教では、すべては縁起であり、因縁所生のものであるから、永遠不滅の実在などなく、 あらゆる存在が業により生じ、 業によって滅していくと考えるわけです。仏教も輪廻転生を根本 教義の一つとしておりますが、アートマンが輪廻転生するとは考えません。アートマンは実在し ない。これを中国では「無我(旧訳では非我)」と訳しました。アートマンを「我」と漢訳し、そ 「我」がないということで「無我」としたわけです。 すべてが因縁により生じ、因縁によって 滅するのであるから、人は運命を変えることができるのです。それが仏教の基本的な立場であり、 バラモン教やヒンドゥー教と違う点です。

もしもアートマンが実在し、それが輪廻転生するのであるならば、人は運命を変えることも、 輪廻から解脱することもできません。 なぜならばアートマンは常住不滅・常恒不変なのですから、 消滅させることも変化させることも不可能だからです。アートマンなどは実在せず、すべてのも のが因縁によって生じ、また滅していくからこそ、人は生死輪廻から解脱することができるわ けです。お釈迦さまはそのように縁起の真理を説かれました。

さらにバラモン教やヒンドゥー教では輪廻転生を説くものの、そこからの脱出方法は、あまり 明確には示しておりませんでした。そのために古代インドの人々は、非常に苦しんだのです。輪 廻の中で生き続け、そこから脱出することがままならないわけですから、彼らは来世を案じて苦 しみました。

「来世はよい境界に生まれたい」

あるいは、

と考えました。

いかないまでも、悪に堕ちたり動物や虫に生まれて悲惨な一生を送りたくなバラモン教やヒンドゥー教も葉報思想を持っておりますから、現世で悪業を積んだならば、 来 世は悲惨なものに生まれて苦しむぞと説きます。 犬に生まれてくるかもしれないし、豚に生まれ ソーセージにされてしまうかもしれない。 またはゴキブリに生まれて、叩き殺されるかもしれ ません。 来世はなにに生まれるか分からないのですから、一分一秒たりとも気が抜けないのです。 これは古代インドの人たちにとって、すさまじいプレッシャーになりました。現代のヒンドゥー 教徒も同じです。 彼らは常に来世を考えて行動しています。 現在よりも来世のことを考えて、 戦々恐々としているのです。そして、来世で苦しみの生を享けないように、神々を拝み、供物を 捧げています。 古代インドでも現代のインドでも同じです。 これでは生きた心地がしないだろう、 とわたくしは思います。

ところがお釈迦さまが、 アートマン思想が蔓延している古代インドに出現されて、「すべては因縁所生であって、アートマンなどという常住不滅・常恒不変の実在などはない」と縁起の法を説かれ、さらには輪廻から完全に解脱する方法・成仏法を説かれたものですから、 当時の人々は、みな、びっくりしたわけです。

けれども、お釈迦さまのおっしゃることをよく聞いてみると、なるほどと納得できます。 お釈 一旦九

迦さまの教法によって、当時のインドの人々の心からプレッシャーがなくなりました。 これが、 お釈迦さまの教法がもたらした、第一の救いでした。日本人の、それも現代人のわたくしたちに はなかなか理解できませんが、彼らには最高の福音だったのです。

すべてが縁によって起こる。 縁によって生じ、緑によって滅するのであって、 常住不滅・常恒 不変のものはなにもない。これは、すばらしい真理です。 昔、日本のある名僧が、縁起の法を歌 に詠まれました。

引き寄せて結べば朱の庵かな解くれば元の野原なりけり」

じつに分かりやすい名歌ですね。野原に小屋のような庵が一軒あります。それはいろいろな木 材や茅・柴を縛ったり組んだりして造られているけれども、それらをばらばらにしてしまった ら、もとのなにもない野原に戻ってしまう。板きれ、 茅、 柴が転がっているだけの、ただの野原 です。それらの材料を集めて、家の形にしたならば庵になるけれども、ばらばらにしてしまった ら、もう庵ではありません。材料が緑によって集まり、仮合して庵になっているだけですから、 それは常恒不変ではありません。 存在はしているけれども、実在ではありません。 これを仏教で は「空」と呼びます。

人もの庵も同じです。わたくしも緑によって桐山靖雄という人間になっているだけで、桐山 靖雄としての縁がなくなったならば、違う存在になってしまいます。まさに空です。 縁起という ことは、すべてのものが条件によって変化し続けることでもありますから、古い訳では縁起の法を変易の法としております。 変易とは変化するという意味です。

お釈迦さまは、「一切は空であって一切告空)、アートマンはない(諸法無我」と説かれました。緑によって生じ、緑によって滅するのだから、 常住不滅・常恒不変の自我が実在すると考え るのは間違いなのです。

ところがそれでも、アートマンが実在すると信じている人がたくさんおります。 縁起の法が分 からない、あるいは理解しようとしないという煩悩が身見なのです。 前述のようにアートマンは 「我」と漢訳されますので、身見は別名を我見といいます。

身見のもう一つの意味は、常住不滅・常恒不変の実在がないということが理解できないために 生じる自己中心的な考え方です。 凡夫は永遠不滅の自我があると考えるために、自分に執着し、 「自分のもの」に執着します。 これを仏教では我執といいます。この世に「自分のもの」などあ りはしません。 今、自分が所有していたとしても、それは自分のところに来る緑がたまたま存在 したから、仮に自分のところにあるだけで、永遠に自分の手もとにあるわけではありません。 緑 がなくなればだれかの手に渡ったり、壊れてなくなったりします。 しかし、縁起の道理が分から ないから、

「自分のものなのに!」

と執着するのです。これも身見です。

仏道修行者は、永遠不滅の自我が実在しているという妄執と、なんでも自分中心に考える我執 を断ち切らなければならないのです。

この場合の疑惑とは、ただ物事を疑って信じないということではありません。 仏さまの正しい

教えを疑い惑って、なかなか信じないという意味での疑惑です。お釈迦さまの正法に疑いを持つ 煩悩、これが疑惑です。

戒取とは、お釈迦さまの正しい教え以外の宗教、あるいは倫理・道徳・哲学などを信じて、お 釈迦さまの真実の教法を信じようとしない煩悩です。

-三結断じた第一の聖者

以上の身見・疑惑・戒取の三つを完全に切った人が須陀酒です。 須陀酒は別名を預流といいま す。流れに預かる (入る) と書くわけですが、どのような流れに入るのでしょうか?これは聖者の流れに入るという意味です。須陀酒になった人は聖者で、須陀酒になっていない 人は凡夫です。それで須陀酒を聖俗の分かれ目とします。 須陀酒になると二度と聖者の流れから 堕ちることはなく、必ず成仏に向かいますので、これを「不退転の法を成する」というのです。 もちろん同じ須陀洹でも、須陀洹になってからの修行の具合によって、成仏までの時間は異な ります。一生懸命に修行をするならば早く成仏しますし、怠けていたならば時間がかかります。 けれどもいずれにしても、必ず最後には成仏します。

「阿含経」には、須陀は人間界と天上界を七度往来して成仏する、と記されております。 須陀 がこの世を去ると、天上界に生じて天になります。 仏教の天とは、「運を天に任せる」の「天」 のようなとらえどころのないものではなく、サンスクリット語の「デーヴァ」を訳したもので、 神の境界のことです。 仏界と人間界との間に、天上界という神々の世界があるわけです。天は仏 のように完全な解説は得ていません。 しかし、人間よりは解脱に近づいている存在です。

一般に、天は一神通を持つとされます。 ○○天という名前でお祀りされているのはみな天上界 の神々で、成仏はしていないものの一つの神通を身に備えておられます。たとえば大黒天、弁才 天韋駄天などがそうです。韋駄天は韋駄天走りという言葉があるように、駿足の神さまです。 あっという間に二、三百キロメートルくらい走ってしまいます。ですからマラソン選手などは、 韋駄天を信仰するとよいかもしれません。弁才天というのは芸能の神です。 芸能面に関する、す ばらしい神通力を持っておられます。

須陀は寿命が尽きると天になり、 一神通を使って人を救います。そのように、天上界におい でも修行するのです。 天での寿命が尽きると、須陀道は人間界に戻ってきて、ここでも世のため になるようなことをします。それで人間界での寿命が尽きたならば、再び天界に行くわけです。 合計で七回往来するとされています。

須となって天上界へ行った人がこの世に帰ってきた場合 天上界では天として一神通を 持っていたわけですから普通の人が持たないような、すばらしい力を必ず発揮します。ひょ とすると大天才といわれる人物は、天から戻ってきた人なのかもしれません。 モーツァルト (一七五六一七九一)などは、三歳のころから神童といわれ、五歳で作曲を手がけたそうです。

 

 

 

 

 

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