UA-135459055-1

自利の八法

にして徳を積めばよいのか?」

と自分の身に照らして考え、よく理解しなければなりません。そうすることで初めて、法話の 内容が自分のものになります。 法話の内容を観察工夫すること、これが観です。

さてこれで、完全な優婆塞になるための条件は、信・戒・施・聞・持・観と六つになりました が、それでもお釈迦さまは、まだ足りないとおっしゃいます。

まだ、なにが必要なのでしょうか?

自利の八法

而不随順知法次法向。是則不具。以 不具故精勤方便。 信戒施聞。 受持観 察了達深義。随順行法次法向。 摩訶 男。是名満足一切種優婆塞事。 摩訶 男白仏。世尊。云何名優婆塞能自安

不安慰他 仏告摩訶男。 若優婆塞 能自立戒不能令他立於正戒。自持净 戒。不能令他持戒具足。 自行布施。 不能以施建立於他。自詣塔寺見諸沙 門。不能他令塔寺往見沙門。自 専聴法。不能勤人楽聴正法。聞法自 持。不能令他受持正法。自能観察甚 深妙義。不能劾人令観深義。自知深 法能随順行法次法向。不能励人令随 順行法次法向。摩訶男。如是八法成 就者。是名優婆塞能自安慰不安慰他

「而も法次法向に随順して知らざるは、是れ則ち具せざ るなり。具せざるを以ての故に精勤方便す。 信戒もて 聞き、受持し観察し、深義を了達し、法次法向に随

して行ず。 摩訶男よ、是れを一切種の優婆塞事を満足す

「と名づく」と。 摩訶男、仏に白さく、「世尊よ、云何が 優婆塞能く自ら安慰し他を安慰せずと名づくるや」と。 仏、摩訶男に告げたまわく、「若し優婆塞能く、自ら戒

に立つも他をして正に立たしむることわず。自ら 浄を持つも他をして持具足ならしむること能わず。 自ら布を行ずるも施を以て他を建立すること能わず。 自ら塔寺に詣で諸の沙門を見るも、他に勧めて塔寺に詰 ていて門を見せしむること能わず。 自ら専ら聴法す
も、人を勧めて正法を楽せしむること能わず。 法を 聞いて自ら持するも他をして正法を受持せしむること わず。自ら能く甚深の妙義を観察するも、人を勧めて深 義を親しむること能わず。 自ら深法を知り能く法次法 向に随順して行ずるも、人をして勧めて法次法向に随順 して行ぜしむること能わず。 摩訶男よ、是の如き八

就者は、是れを優婆塞能く自ら安慰し他を安慰せずと名

「信・・・聞・持・観を行っても)法に近づく法次と、法を追求する法向を実践しなければ、

真の優婆塞とはいえません。努力と工夫によって、信・戒・施・聞・持・観を行い、さらに法 次法向を実践しなさい。 マハーナーマよ、これらすべてを実践してこそ真の優婆塞といえるの です」

と説かれました。

解説

マハーナーマは仏さまに質問しました。

「世尊よ、自分を安しても他をしない優婆塞とは、どのような優婆塞を指すのでしょう 「か?」

仏さまはマハーナーマに告げられました。

「自分は仏の戒を受けてそれを守っても、他者に仏の正しい戒を受けることも、またそれを保つ ことも勧めない。自分は布施を行っても、他者が布施を実践するようには勧めない。 自分は塔寺 に参詣してもろもろの沙門に見えても、他者に塔寺に参詣してもろもろの沙門に見えるようには 勧めない。 自分は熱心に沙門の説法を拝聴しても、他者に正法を拝聴してそれを受け保つように は勧めない。 自分は仏法の深遠な教義をよく観察してそれについて熟考しても、他者には仏法の 深遠な教義をよく観察して、それについて熟考するようには勧めない。 自分は深遠な仏法を知り、 法に近づき、法を追求しても、他者が法に近づき、法を追求するようには勧めない。

マハーナーマよ、このように八法だけを成就する者は、自分を安らかにしめても他を安らか にし慰めない優婆塞というのです」

お釈迦さまは、「而も法次法向に随順して知らざる、是れ則ち具せざるなり」とおっしゃって おられますが、法次とは法に近づくことで、法向とは法を追及することです。ですから、仏さま や沙門の法話を聞き、観察・工夫しても常に法に近づき、法を追及しようとする努力がないなら ば満足な優婆塞とはいえない、ということです。

満足な優婆塞となるための条件を最初から挙げると、まず第一が信、そして順番に戒、施、聞、 持、観、法次、法向と全部で八つあります。 これを、「優婆塞の八法」と呼びます。

それぞれの意味を箇条書きにすると、次のようになります。

信・・・・・正しい智慧で信心の心を起こす

・・・・・・信の心を元に、やってよいことと悪いことの分別をつけ、仏教徒としてやってはい

けないことはやめ、やらなければいけないことは積極的にやる
を積むために布施の行をする

・・・・・・道場(精舎)に行って、仏さまや沙門の話を聞く

持・・・・・・聞いた説法の内容を受持し、実行する

観・・・・・・受持した教法の深い意味をよく観察し工夫する

法次・・・法に近づく

法向・・・法を追及していく

なのです。

お釈迦さまは、この八法を行うならば優婆塞事を満足する、とおっしゃいました。

ところがそれにもかかわらず、マハーナーマはさらに、

「世尊、 何が優婆塞能く自ら安慰し他を安慰せずと名づくるや」

と質問をしました。 これは、自分を安慰させても、人を安慰させることのできない優婆塞とい うのは、どういう優婆塞でしょうか、という意味です。

それに対してお釈迦さまは、次のような優婆塞は自分を安慰させることができても、人を安慰

させることはできない、とおっしゃっております。

○自分が信を持っても、他の者に信心を起こさせない

○自分が戒を保っても、他の者が戒を保つように努めない

○自分が布施をしても、他の者が布施をするように努めない

○自分が道場に参詣して法話を聞いても、他の者に参詣と法話の拝聴を勧めない

○自分が正法を受持しても、他の者に正法を受持するように勧めない

○自分が教法の深い意味を観察しても、他の者が教法の深い意味を観察するように勧めない

○自分が教法の深い意味を知り、法に近づこうとしても、他の者が教法の深い意味を知り、 法に近づこうとするように勧めない

自分が教法の深い意味を知り、法を追及しても、他の者が教法の深い意味を知り、法を追 及するように勧めない

要するに、八法を自分で実践するだけでは人を救うところまではいかない、ということです。 自分だけが修行をするだけで、それを人に勧めないようでは真の仏道とはいえない、ということ

自利利他の十六法

摩訶男白仏。世尊。優婆塞成就幾法 自安安他 仏告摩訶男。若優婆塞成 就十六法者。是名優婆塞自安安他。 何等為十六。摩訶男。若優婆塞具足 正信。 建立他人。自持浄戒。亦以浄 戒建立他人。自行布施。教人行施。 自詣塔寺見諸沙門。亦教人往見諸沙 門。自専聴法亦教人聴。自受持法。 教人受持。自観察義教人観察。自知 深義随順修行法次法向。亦復教人解

阿含経

摩訶男、仏に白さく、「世尊よ、優婆塞はの法を成就 自ら安んじ他を安んずるや」と。仏、摩訶男に告げた まわく、「若し優婆塞十六法を成就する者は、是れ優婆 自ら安んじ他を安んずと名づく。何等を十六と為す。 摩訶男よ、若し優婆塞、 正信を具足し、他人を建立し、 自ら浄戒を持し、赤浄戒を以て他人を建立し、自ら布施 を行じ人にを行ずるを教え、自ら塔寺に詣で諸の沙 門に見え、本人に往きて諸の沙門に見えるを教え、自ら 専ら法を聴き、本人に聴くを教え、自ら法を受持し、人 に受持するを教え、自ら義を観察し、人に観察するを教 え、自ら深義を知り法次法向に随順して修行し、亦復た

了深義。随順修行法次法向。 摩訶男。 如是十六法成就者。是名優婆塞能自 安慰安慰他人。 摩訶男。 若優婆塞 成就如是十六法者。彼諸大衆悉詣其 所謂婆羅門衆。 利利衆。 長者衆。 沙門衆。於諸衆中威德顕曜。譬如日 輪。 初中及後光明顕照。 如是優婆塞 十六法成就者。 初中及後威徳顕照。 如是摩訶男。若優婆塞十六法成就者。 世間難得。仏説此経已。 釈氏摩訶男 聞仏所説。 歓喜随喜。 即従坐起作礼 而去

と。

現代語訳

阿含経切事

マハーナーマは仏さまに申し上げました。

人に深義を解了し、法次法向に随順して修行するた 摩訶男よ、是の如く十六法成就する者は、是れを優婆塞

摩訶男よ、 能く自ら安慰し他人を安慰すると名づく。 若し優婆塞の是の如き十六法を成就する者は、彼の諸 利 大 悉く所にするなり。調婆羅門衆、

 

長者、沙門衆 威徳顕曜せん。

えば輪の初中及び後に光明細照するが如く、是の 優婆塞の十六法成就する者も、初中及び後に威徳顕 せん。是の如く摩訶男よ、若し優婆塞十六法成就する 者は、世間に得難し」と。仏此の経を説き已りたまいし に、釈氏摩訶男、仏の説かせたまえるを聞いて、飲喜し し従り起ち礼を作して去りき。

「世尊よ、いくつの法を成就する優婆塞が、 自分を安んじ他を安んずる優婆塞なのでしょう か?」

優婆塞の十六法を成就する者が、自分を安んじ他を安んずる優婆塞です。 では、十六法とはど のようなものでしょうか?

マハーナーマよ。自分自身が正しい信を持つと共に、他者にもそれを確立させる。 自分が浄戒 を保つと共に、他者にも浄戒を確立させる。 自分が布施を行うと共に、他者にも布施行を教える。 自分が塔寺に参詣してもろもろの沙門に見えると共に、他者にも塔寺への参詣と沙門に見えるこ とを教える。自分が沙門の説法をひたすら拝聴すると共に、他者にも説法を拝聴することを教え る。自分が法を受持すると共に、他者に受持することを教える。 自分が仏法の深義を観察すると 共に、他者に仏法の深義を観察することを教える。自分が仏法の深義を知って法に近づき法を追 求すると共に、他者に仏法の深義を理解させて、また法に近づき法を追求する修行を行わせる。 マハーナーマよ、このように十六法を成就する者は、自分を安んじ慰めて他人を安んじ慰める 優婆塞というのです。

マハーナーマよ、この十六法を成就する優婆塞のもとには、あのもろもろの大衆がすべて参詣 するようになります。 その大衆とはいわゆるバラモンたち、クシャトリアたち、長者たち、沙門 たちであり、それらの人々の中においても十六法を成就する優婆塞の威徳は大いに輝きます。 ち ょうど太陽の光明が日の出から日没まで大いに輝き続けるのと同じように、優婆塞の十六法を成 就する者の威徳は大いに輝き続けるのです。 ◎四五

マハーナーマよ、このように優婆塞の十六法を成就する者は、世間に得難い存在なのです」

マハーナーマはこの仏さまの説法を拝聴して大いに喜び、また仏の教法を讃歎したのちに座を 立って礼を行い、その場を去りました。

お釈迦さまのお答えを聞いた後で、 マハーナーマは「世尊よ、優婆塞は幾の法を成就し自ら安 じ他を安んずるや」と質問をしました。

ここに、安んじという言葉が出てまいりますが、これは、単に心が安らかになる、ということ ではなく、成仏するという意味です。 なぜならば、すべての因縁を解脱しなければ、完全に安ら かになることはできないからです。因縁を切って初めて、本当の安心が得られるわけです。

たとえば、瞑想や坐禅によって安心が得られるという方がおりますが、瞑想や坐禅をやってい る時は迷いが消えても、因縁がそのままになっているならば、瞑想の定が解けた時にまた苦しみ が襲ってきます。ですから、真に安らかな状態というのは、すべての因縁を解脱し、成仏した状 態なのです。

そのように考えていきますと、「優婆塞は幾の法を成就し自ら安じ他を安んずるや」とは、 「優婆塞はいくつの法を成就すれば、自分を成仏させ、他の者を成仏させることができるのでし ょうか?」

という意味になります。

その質問に対して仏さまは、「若し優婆塞十六法を成就する者は、是れ優婆塞自ら安んじ他を

「安んずと名づく」とお答えになられました。 これは、

「優婆塞は十六法を成就すると、自分を成仏させ、他人を成仏させることができるのだ」

という意味です。

それでは十六法とはどういうものか、箇条書きにしてみましょう。

自ら正信を持つ

2他の者にも正信を持たせる

3自ら浄戒を保つ

阿含経一切

他の者にも浄戒を保たせる

5自ら布施の行をする

6他の者に布施の行を教える」

自ら塔寺に参詣し、もろもろの沙門から教えを聞く

他の者に塔寺に参詣してもろもろの沙門から教えを聞くことを教える

9沙門から聞いた教法を自ら受持する

他の者に、沙門から聞いた教法を受持するように教える

自ら教法の深養を観察する

他の者に教法の深義を観察することを教える

自ら法に近づく

4他の者に、法に近づくことを教える

自ら法を追及する

となります。

他の者に、法を追及することを教える

要するに、八法を自らが実践すると共に、他の者にも八法を勧めることが十六法であり、この 十六法を実践することによって、自分も他人も成仏させることができる、と説かれているわけで す。そして、それが優婆塞の本道だ、というわけです。

したがって、「一切事経』のこの部分は、

「阿含経は自分だけの悟りを考える小乗経典ではない」

ということを証明しています。

正信を広める

もし、お釈迦さまが優婆塞の八法だけを説いていたならば、やはり「阿含経」は小乗経典とい わざるを得ません。なぜならば、八法とは自分だけの修行だからです。八法で他人のことを考え ているのは施ぐらいのもので、他は自分の悟りのことだけを考えています。

その施にしても、自分が布施をして自分が徳を得るのですから、他の人に布施を勤め、その人 が徳を得るようにしてあげるのと比較すれば、やはり、利他の行というよりは自利の行に近くな ます。

だからこそ、お釈迦さまは八法だけではなく十六法を説かれました。 他を利益し、成仏に向か わせることを強調されたのです。このことから、お釈迦さまの教法もそれをまとめた「阿含経」 も小乗ではなく、むしろ自らを大乗といっている人たち以上に大乗である、とわたくしは考えて

わたくしは、「阿含経」の中で、お釈迦さまがこの十六法をお説きになっていらっしゃるから こそ、阿含宗の立宗を決意しました。もしも八法しか説かれていなければ、阿含宗という教団は 立宗できません。 自分だけ悟ればいい、自分だけ成仏すればいい、という仏教を立ててもしかた がないからです。

ところが、お釈迦さまは自他共に成仏させる十六法を説いていらっしゃいます。 だからこそ、 わたくしは困難な道ではありますが、 阿含宗立宗に踏み切りました。 これは、大切なことですか ら、しっかりと覚えておいていただきたい。

お釈迦さまは十六法において、

「摩訶男よ、若し優婆塞、 正信を具足し、他人を建立し」

とおっしゃっておりますが、この中の「正信」は非常に大切な意味を持っております。この、 「正信を具足して」というのは、ただ単に仏教に対する信仰を持て、ということではありません。 正しい信でなければいけないよ、と念を押されておられるわけです。さり気ない言葉ですが、そ の意味するところはとても深いといえます。お経というものには、大切な言葉がさり気なく説か

れていることがよくありますが、これもその一つです。

なぜ、「正信を具足して」という言葉がそれほど大事なのか?

お釈迦さまが「正信を具足して」と明言されたということは、 正信でない仏教もあるというこ とになるからです。もしも、正信ではない仏教が存在しないのならば、「正信を具足して」など とわざわざ説かれるはずがないでしょう。お釈迦さまは、 正信ではない仏教が登場することを予 見しておられたからこそ、「正信を具足して」 とおっしゃったのです。

このことについて、わたくしは『輪廻する葦」(平河出版社)の中で、お釈迦さまの予言として 挙げていますので見てみましょう。

最も古い経典は、釈尊の予言として、次のようにつたえている。

『ビクらよ。 未来世にビクどもは次のようになるであろう。如来の説かれたこれらの諸経典 は深遠であって意義が深く、出世間のものであり、空と相応しているものであるが、それら が説かれるときに、かれらはよく聞こうとしないし、耳を傾けようとしないし、了解しよう という心を起こさないであろう。それらの教えを、受持すべくよく熟達すべきものであると は考えないであろう。

これに反して文芸人によってつくられ、詩文調であり、文辞麗わしい諸経典は、外道に由 来するものであり、弟子たちの説いたものであるが、それらが説かれるときに、かれらはよ く聞こうとし、耳を傾けようとし、了解しようとする心を起こすであろう。それらの教えを、

受持すべくよく熟達すべきものであると考えるであろう。

かくのごとくにして、如来の説かれた、深遠にして意義が深く、 出世間のものであり、空 と相応している諸経典は消滅してしまうであろう。

ビクらよ。それ故にここでこのように学ぶべきである。 「如来の説かれた、深遠にし 意義が深く、出世間のものであり、空と相応している諸経典が説かれるときに、われらは よく聞くことにしよう。耳を傾け、了解しようという心を起こそう。 それらの教えを、受持 すべくよく熟達すべきものであると考えることにしよう」と』(中村元著『原始仏教の思想』 下)

まさに、この釈尊の予言の通りのことが起きたのである。

釈尊の説かれた教法とまったくちがう教えをのせた経典が、つぎつぎとつくられ、さも真 実の釈尊の教えであるかのようによそおわれて、世の中に広められた。

それを広めるために、釈尊のほんとうの経典は、低級で幼稚な教えときめつけられて、世 の中から抹殺されてしまったのである。

だれがそのようなことをしたのか?

「大乗仏教」と称する経典の作者たちと、その信奉者たちである。

では、その大乗仏教とはどういう経典か。

ようじゅきまいにちきこんにちは 般若経、華厳経、妙法蓮華経、涅槃経、観無量寿経、大日経、金剛頂経等である。 抹殺された釈尊のほんとうの経典とは、どういう経典か?

 

「優婆塞の八法

真の優婆塞とはいえません。努力と工夫によって、信・戒・施・聞・持・観を行い、さらに法 次法向を実践しなさい。 マハーナーマよ、これらすべてを実践してこそ真の優婆塞といえるの です」

と説かれました。

マハーナーマは仏さまに質問しました。

「世尊よ、自分を安しても他をしない優婆塞とは、どのような優婆塞を指すのでしょう 「か?」

仏さまはマハーナーマに告げられました。

「自分は仏の戒を受けてそれを守っても、他者に仏の正しい戒を受けることも、またそれを保つ ことも勧めない。自分は布施を行っても、他者が布施を実践するようには勧めない。 自分は塔寺 に参詣してもろもろの沙門に見えても、他者に塔寺に参詣してもろもろの沙門に見えるようには 勧めない。 自分は熱心に沙門の説法を拝聴しても、他者に正法を拝聴してそれを受け保つように は勧めない。 自分は仏法の深遠な教義をよく観察してそれについて熟考しても、他者には仏法の 深遠な教義をよく観察して、それについて熟考するようには勧めない。 自分は深遠な仏法を知り、 法に近づき、法を追求しても、他者が法に近づき、法を追求するようには勧めない。

マハーナーマよ、このように八法だけを成就する者は、自分を安らかにしめても他を安らか にし慰めない優婆塞というのです」

お釈迦さまは、「而も法次法向に随順して知らざる、是れ則ち具せざるなり」とおっしゃって おられますが、法次とは法に近づくことで、法向とは法を追及することです。ですから、仏さま や沙門の法話を聞き、観察・工夫しても常に法に近づき、法を追及しようとする努力がないなら ば満足な優婆塞とはいえない、ということです。

満足な優婆塞となるための条件を最初から挙げると、まず第一が信、そして順番に戒、施、聞、 持、観、法次、法向と全部で八つあります。 これを、「優婆塞の八法」と呼びます。

それぞれの意味を箇条書きにすると、次のようになります。

信・・・・・正しい智慧で信心の心を起こす

・・・・・・信の心を元に、やってよいことと悪いことの分別をつけ、仏教徒としてやってはい

けないことはやめ、やらなければいけないことは積極的にやる

を積むために布施の行をする

・・・・・・道場(精舎)に行って、仏さまや沙門の話を聞く

6持・・・・・・聞いた説法の内容を受持し、実行する

6観・・・・・・受持した教法の深い意味をよく観察し工夫する

6法次・・・法に近づく

8法向・・・法を追及していく

なのです。

お釈迦さまは、この八法を行うならば優婆塞事を満足する、とおっしゃいました。

ところがそれにもかかわらず、マハーナーマはさらに、

「世尊、 何が優婆塞能く自ら安慰し他を安慰せずと名づくるや」

と質問をしました。 これは、自分を安慰させても、人を安慰させることのできない優婆塞とい うのは、どういう優婆塞でしょうか、という意味です。

それに対してお釈迦さまは、次のような優婆塞は自分を安慰させることができても、人を安慰

させることはできない、とおっしゃっております。

○自分が信を持っても、他の者に信心を起こさせない

○自分が戒を保っても、他の者が戒を保つように努めない

○自分が布施をしても、他の者が布施をするように努めない

○自分が道場に参詣して法話を聞いても、他の者に参詣と法話の拝聴を勧めない

○自分が正法を受持しても、他の者に正法を受持するように勧めない

○自分が教法の深い意味を観察しても、他の者が教法の深い意味を観察するように勧めない

○自分が教法の深い意味を知り、法に近づこうとしても、他の者が教法の深い意味を知り、 法に近づこうとするように勧めない

自分が教法の深い意味を知り、法を追及しても、他の者が教法の深い意味を知り、法を追 及するように勧めない

要するに、八法を自分で実践するだけでは人を救うところまではいかない、ということです。 自分だけが修行をするだけで、それを人に勧めないようでは真の仏道とはいえない、ということ

 

 

 

教えを広く人々に伝えることで、真の優婆塞としての道

マハーナーマは仏陀の前にひざまずき、深く頭を下げて言った。

「世尊よ、どうか教えてください。自分を安らかにしながら、他を安らかにできない優婆塞とはどのような者なのでしょうか?」

仏陀は、穏やかな眼差しをマハーナーマに向け、静かに口を開いた。

「マハーナーマよ、自分だけが戒を守り、他者にはそれを勧めない者のことです。自分だけが布施を行い、他者に布施を教えようとしない者も同じです。仏法の教えを深く観察し、法に近づこうとしても、それを他に伝えることなく、自分の内に留めてしまう者。こうした者を指して、自分を安らかにすることはできても、他を安らかにできない優婆塞と呼ぶのです」

マハーナーマは静かにうなずいたが、さらに問いを重ねた。

「では、世尊よ、真に満足した優婆塞になるためには、どうすればよいのでしょうか?」

仏陀の表情は優しく変わり、まるで月明かりのように、言葉は一層柔らかく響いた。

「まずは信を持ち、正しい智慧によって心に信を起こすことです。信じる心があれば、戒を守ることも布施を行うことも可能です。そして、他の人々にもそれを勧めなさい。道場に赴いて説法を聞くときも、自分だけでなく他者にもその教えを伝えるのです。教えを心に深く受け取り、その意味を観察し、法に近づき、法を追い求める。そしてその全てを、他者にも勧めるのです。そうして初めて、真に満足した優婆塞となれるのです」

マハーナーマは仏陀の言葉に深く感じ入り、胸の中に静かにその教えを刻み込んだ。仏陀は続けた。

「もしも、自分だけが正しい道を歩み、他者にその道を示そうとしないなら、それは真の仏道とは言えない。自分のためだけでなく、他者をも安らかにすることが、真の優婆塞の道なのです」

仏陀の言葉は、夜の静けさの中で風のように漂い、マハーナーマの心に深く染み込んだ。そして彼は決意した。自らの修行をさらに高めるだけでなく、その教えを広く人々に伝えることで、真の優婆塞としての道を歩むのだと。

 

 

自利の八法

にして徳を積めばよいのか?」

と自分の身に照らして考え、よく理解しなければなりません。そうすることで初めて、法話の 内容が自分のものになります。 法話の内容を観察工夫すること、これが観です。

さてこれで、完全な優婆塞になるための条件は、信・戒・施・聞・持・観と六つになりました が、それでもお釈迦さまは、まだ足りないとおっしゃいます。

まだ、なにが必要なのでしょうか?

自利の八法

而不随順知法次法向。是則不具。以 不具故精勤方便。 信戒施聞。 受持観 察了達深義。随順行法次法向。 摩訶 男。是名満足一切種優婆塞事。 摩訶 男白仏。世尊。云何名優婆塞能自安

不安慰他 仏告摩訶男。 若優婆塞 能自立戒不能令他立於正戒。自持净 戒。不能令他持戒具足。 自行布施。 不能以施建立於他。自詣塔寺見諸沙 門。不能他令塔寺往見沙門。自 専聴法。不能勤人楽聴正法。聞法自 持。不能令他受持正法。自能観察甚 深妙義。不能劾人令観深義。自知深 法能随順行法次法向。不能励人令随 順行法次法向。摩訶男。如是八法成 就者。是名優婆塞能自安慰不安慰他。

  • 現代語訳

じゅしゃ

ぎょう

ほうほうこう

「而も法次法向に随順して知らざるは、是れ則ち具せざ るなり。具せざるを以ての故に精勤方便す。 信戒もて 聞き、受持し観察し、深義を了達し、法次法向に随順

りょうだつ

いっさいしゅ

して行ず。 摩訶男よ、是れを一切種の優婆塞事を満足す

あんに

「と名づく」と。 摩訶男、仏に白さく、「世尊よ、云何が 優婆塞能く自ら安慰し他を安慰せずと名づくるや」と。 仏、摩訶男に告げたまわく、「若し優婆塞能く、自ら戒

こんりゅう

に立つも他をして正に立たしむることわず。自ら 浄を持つも他をして持具足ならしむること能わず。 自ら布を行ずるも施を以て他を建立すること能わず。 自ら塔寺に詣で諸の沙門を見るも、他に勧めて塔寺に詰 ていて門を見せしむること能わず。 自ら専ら聴法す

らくちょう

も、人を勧めて正法を楽せしむること能わず。 法を 聞いて自ら持するも他をして正法を受持せしむること わず。自ら能く甚深の妙義を観察するも、人を勧めて深 義を親しむること能わず。 自ら深法を知り能く法次法 向に随順して行ずるも、人をして勧めて法次法向に随順 して行ぜしむること能わず。 摩訶男よ、是の如き八法成

じんぼう

就者は、是れを優婆塞能く自ら安慰し他を安慰せずと名

づくり」と。

もっぱ

「信・・・聞・持・観を行っても)法に近づく法次と、法を追求する法向を実践しなければ、

真の優婆塞とはいえません。努力と工夫によって、信・戒・施・聞・持・観を行い、さらに法 次法向を実践しなさい。 マハーナーマよ、これらすべてを実践してこそ真の優婆塞といえるの です」

と説かれました。

解説

3施

マハーナーマは仏さまに質問しました。

「世尊よ、自分を安しても他をしない優婆塞とは、どのような優婆塞を指すのでしょう 「か?」

仏さまはマハーナーマに告げられました。

「自分は仏の戒を受けてそれを守っても、他者に仏の正しい戒を受けることも、またそれを保つ ことも勧めない。自分は布施を行っても、他者が布施を実践するようには勧めない。 自分は塔寺 に参詣してもろもろの沙門に見えても、他者に塔寺に参詣してもろもろの沙門に見えるようには 勧めない。 自分は熱心に沙門の説法を拝聴しても、他者に正法を拝聴してそれを受け保つように は勧めない。 自分は仏法の深遠な教義をよく観察してそれについて熟考しても、他者には仏法の 深遠な教義をよく観察して、それについて熟考するようには勧めない。 自分は深遠な仏法を知り、 法に近づき、法を追求しても、他者が法に近づき、法を追求するようには勧めない。

マハーナーマよ、このように八法だけを成就する者は、自分を安らかにしめても他を安らか にし慰めない優婆塞というのです」

お釈迦さまは、「而も法次法向に随順して知らざる、是れ則ち具せざるなり」とおっしゃって おられますが、法次とは法に近づくことで、法向とは法を追及することです。ですから、仏さま や沙門の法話を聞き、観察・工夫しても常に法に近づき、法を追及しようとする努力がないなら ば満足な優婆塞とはいえない、ということです。

満足な優婆塞となるための条件を最初から挙げると、まず第一が信、そして順番に戒、施、聞、 持、観、法次、法向と全部で八つあります。 これを、「優婆塞の八法」と呼びます。

それぞれの意味を箇条書きにすると、次のようになります。

信・・・・・正しい智慧で信心の心を起こす

・・・・・・信の心を元に、やってよいことと悪いことの分別をつけ、仏教徒としてやってはい

けないことはやめ、やらなければいけないことは積極的にやる

を積むために布施の行をする

・・・・・・道場(精舎)に行って、仏さまや沙門の話を聞く

6持・・・・・・聞いた説法の内容を受持し、実行する

6観・・・・・・受持した教法の深い意味をよく観察し工夫する

6法次・・・法に近づく

8法向・・・法を追及していく

なのです。

お釈迦さまは、この八法を行うならば優婆塞事を満足する、とおっしゃいました。

ところがそれにもかかわらず、マハーナーマはさらに、

「世尊、 何が優婆塞能く自ら安慰し他を安慰せずと名づくるや」

と質問をしました。 これは、自分を安慰させても、人を安慰させることのできない優婆塞とい うのは、どういう優婆塞でしょうか、という意味です。

それに対してお釈迦さまは、次のような優婆塞は自分を安慰させることができても、人を安慰

させることはできない、とおっしゃっております。

○自分が信を持っても、他の者に信心を起こさせない

○自分が戒を保っても、他の者が戒を保つように努めない

○自分が布施をしても、他の者が布施をするように努めない

○自分が道場に参詣して法話を聞いても、他の者に参詣と法話の拝聴を勧めない

○自分が正法を受持しても、他の者に正法を受持するように勧めない

○自分が教法の深い意味を観察しても、他の者が教法の深い意味を観察するように勧めない

○自分が教法の深い意味を知り、法に近づこうとしても、他の者が教法の深い意味を知り、 法に近づこうとするように勧めない

自分が教法の深い意味を知り、法を追及しても、他の者が教法の深い意味を知り、法を追 及するように勧めない

要するに、八法を自分で実践するだけでは人を救うところまではいかない、ということです。 自分だけが修行をするだけで、それを人に勧めないようでは真の仏道とはいえない、ということ

自利利他の十六法

摩訶男白仏。世尊。優婆塞成就幾法 自安安他 仏告摩訶男。若優婆塞成 就十六法者。是名優婆塞自安安他。 何等為十六。摩訶男。若優婆塞具足 正信。 建立他人。自持浄戒。亦以浄 戒建立他人。自行布施。教人行施。 自詣塔寺見諸沙門。亦教人往見諸沙 門。自専聴法亦教人聴。自受持法。 教人受持。自観察義教人観察。自知 深義随順修行法次法向。亦復教人解

阿含経

なんち

摩訶男、仏に白さく、「世尊よ、優婆塞はの法を成就 自ら安んじ他を安んずるや」と。仏、摩訶男に告げた まわく、「若し優婆塞十六法を成就する者は、是れ優婆 自ら安んじ他を安んずと名づく。何等を十六と為す。 摩訶男よ、若し優婆塞、 正信を具足し、他人を建立し、 自ら浄戒を持し、赤浄戒を以て他人を建立し、自ら布施 を行じ人にを行ずるを教え、自ら塔寺に詣で諸の沙 門に見え、本人に往きて諸の沙門に見えるを教え、自ら 専ら法を聴き、本人に聴くを教え、自ら法を受持し、人 に受持するを教え、自ら義を観察し、人に観察するを教 え、自ら深義を知り法次法向に随順して修行し、亦復た

了深義。随順修行法次法向。 摩訶男。 如是十六法成就者。是名優婆塞能自 安慰安慰他人。 摩訶男。 若優婆塞 成就如是十六法者。彼諸大衆悉詣其 所謂婆羅門衆。 利利衆。 長者衆。 沙門衆。於諸衆中威德顕曜。譬如日 輪。 初中及後光明顕照。 如是優婆塞 十六法成就者。 初中及後威徳顕照。 如是摩訶男。若優婆塞十六法成就者。 世間難得。仏説此経已。 釈氏摩訶男 聞仏所説。 歓喜随喜。 即従坐起作礼 而去

と。

現代語訳

阿含経切事

マハーナーマは仏さまに申し上げました。

だいしゅことごと

人に深義を解了し、法次法向に随順して修行するた 摩訶男よ、是の如く十六法成就する者は、是れを優婆塞

摩訶男よ、 能く自ら安慰し他人を安慰すると名づく。 若し優婆塞の是の如き十六法を成就する者は、彼の諸 利 大 悉く所にするなり。調婆羅門衆、

しゅちょうじやしゅしゃもんしゅ

にちゃん しょうゆう

長者、沙門衆んじゅちゅう 威徳顕曜せん。

えば輪の初中及び後に光明細照するが如く、是の 優婆塞の十六法成就する者も、初中及び後に威徳顕 せん。是の如く摩訶男よ、若し優婆塞十六法成就する 者は、世間に得難し」と。仏此の経を説き已りたまいし に、釈氏摩訶男、仏の説かせたまえるを聞いて、飲喜し し従り起ち礼を作して去りき。

「世尊よ、いくつの法を成就する優婆塞が、 自分を安んじ他を安んずる優婆塞なのでしょう か?」

優婆塞の十六法を成就する者が、自分を安んじ他を安んずる優婆塞です。 では、十六法とはど のようなものでしょうか?

とくけんよう

マハーナーマよ。自分自身が正しい信を持つと共に、他者にもそれを確立させる。 自分が浄戒 を保つと共に、他者にも浄戒を確立させる。 自分が布施を行うと共に、他者にも布施行を教える。 自分が塔寺に参詣してもろもろの沙門に見えると共に、他者にも塔寺への参詣と沙門に見えるこ とを教える。自分が沙門の説法をひたすら拝聴すると共に、他者にも説法を拝聴することを教え る。自分が法を受持すると共に、他者に受持することを教える。 自分が仏法の深義を観察すると 共に、他者に仏法の深義を観察することを教える。自分が仏法の深義を知って法に近づき法を追 求すると共に、他者に仏法の深義を理解させて、また法に近づき法を追求する修行を行わせる。 マハーナーマよ、このように十六法を成就する者は、自分を安んじ慰めて他人を安んじ慰める 優婆塞というのです。

マハーナーマよ、この十六法を成就する優婆塞のもとには、あのもろもろの大衆がすべて参詣 するようになります。 その大衆とはいわゆるバラモンたち、クシャトリアたち、長者たち、沙門 たちであり、それらの人々の中においても十六法を成就する優婆塞の威徳は大いに輝きます。 ち ょうど太陽の光明が日の出から日没まで大いに輝き続けるのと同じように、優婆塞の十六法を成 就する者の威徳は大いに輝き続けるのです。 ◎四五

マハーナーマよ、このように優婆塞の十六法を成就する者は、世間に得難い存在なのです」

マハーナーマはこの仏さまの説法を拝聴して大いに喜び、また仏の教法を讃歎したのちに座を 立って礼を行い、その場を去りました。

お釈迦さまのお答えを聞いた後で、 マハーナーマは「世尊よ、優婆塞は幾の法を成就し自ら安 じ他を安んずるや」と質問をしました。

ここに、安んじという言葉が出てまいりますが、これは、単に心が安らかになる、ということ ではなく、成仏するという意味です。 なぜならば、すべての因縁を解脱しなければ、完全に安ら かになることはできないからです。因縁を切って初めて、本当の安心が得られるわけです。

たとえば、瞑想や坐禅によって安心が得られるという方がおりますが、瞑想や坐禅をやってい る時は迷いが消えても、因縁がそのままになっているならば、瞑想の定が解けた時にまた苦しみ が襲ってきます。ですから、真に安らかな状態というのは、すべての因縁を解脱し、成仏した状 態なのです。

そのように考えていきますと、「優婆塞は幾の法を成就し自ら安じ他を安んずるや」とは、 「優婆塞はいくつの法を成就すれば、自分を成仏させ、他の者を成仏させることができるのでし ょうか?」

という意味になります。

その質問に対して仏さまは、「若し優婆塞十六法を成就する者は、是れ優婆塞自ら安んじ他を

「安んずと名づく」とお答えになられました。 これは、

「優婆塞は十六法を成就すると、自分を成仏させ、他人を成仏させることができるのだ」

という意味です。

それでは十六法とはどういうものか、箇条書きにしてみましょう。

自ら正信を持つ

2他の者にも正信を持たせる

3自ら浄戒を保つ

阿含経一切

他の者にも浄戒を保たせる

5自ら布施の行をする

6他の者に布施の行を教える」

自ら塔寺に参詣し、もろもろの沙門から教えを聞く

他の者に塔寺に参詣してもろもろの沙門から教えを聞くことを教える

9沙門から聞いた教法を自ら受持する

他の者に、沙門から聞いた教法を受持するように教える

自ら教法の深養を観察する

他の者に教法の深義を観察することを教える

自ら法に近づく

4他の者に、法に近づくことを教える

自ら法を追及する

となります。

います。

河合

他の者に、法を追及することを教える

要するに、八法を自らが実践すると共に、他の者にも八法を勧めることが十六法であり、この 十六法を実践することによって、自分も他人も成仏させることができる、と説かれているわけで す。そして、それが優婆塞の本道だ、というわけです。

したがって、「一切事経』のこの部分は、

「阿含経は自分だけの悟りを考える小乗経典ではない」

ということを証明しています。

正信を広める

もし、お釈迦さまが優婆塞の八法だけを説いていたならば、やはり「阿含経」は小乗経典とい わざるを得ません。なぜならば、八法とは自分だけの修行だからです。八法で他人のことを考え ているのは施ぐらいのもので、他は自分の悟りのことだけを考えています。

その施にしても、自分が布施をして自分が徳を得るのですから、他の人に布施を勤め、その人 が徳を得るようにしてあげるのと比較すれば、やはり、利他の行というよりは自利の行に近くな ます。

だからこそ、お釈迦さまは八法だけではなく十六法を説かれました。 他を利益し、成仏に向か わせることを強調されたのです。このことから、お釈迦さまの教法もそれをまとめた「阿含経」 も小乗ではなく、むしろ自らを大乗といっている人たち以上に大乗である、とわたくしは考えて

わたくしは、「阿含経」の中で、お釈迦さまがこの十六法をお説きになっていらっしゃるから こそ、阿含宗の立宗を決意しました。もしも八法しか説かれていなければ、阿含宗という教団は 立宗できません。 自分だけ悟ればいい、自分だけ成仏すればいい、という仏教を立ててもしかた がないからです。

ところが、お釈迦さまは自他共に成仏させる十六法を説いていらっしゃいます。 だからこそ、 わたくしは困難な道ではありますが、 阿含宗立宗に踏み切りました。 これは、大切なことですか ら、しっかりと覚えておいていただきたい。

お釈迦さまは十六法において、

「摩訶男よ、若し優婆塞、 正信を具足し、他人を建立し」

とおっしゃっておりますが、この中の「正信」は非常に大切な意味を持っております。この、 「正信を具足して」というのは、ただ単に仏教に対する信仰を持て、ということではありません。 正しい信でなければいけないよ、と念を押されておられるわけです。さり気ない言葉ですが、そ の意味するところはとても深いといえます。お経というものには、大切な言葉がさり気なく説か

れていることがよくありますが、これもその一つです。

なぜ、「正信を具足して」という言葉がそれほど大事なのか?

お釈迦さまが「正信を具足して」と明言されたということは、 正信でない仏教もあるというこ とになるからです。もしも、正信ではない仏教が存在しないのならば、「正信を具足して」など とわざわざ説かれるはずがないでしょう。お釈迦さまは、 正信ではない仏教が登場することを予 見しておられたからこそ、「正信を具足して」 とおっしゃったのです。

このことについて、わたくしは『輪廻する葦」(平河出版社)の中で、お釈迦さまの予言として 挙げていますので見てみましょう。

最も古い経典は、釈尊の予言として、次のようにつたえている。

『ビクらよ。 未来世にビクどもは次のようになるであろう。如来の説かれたこれらの諸経典 は深遠であって意義が深く、出世間のものであり、空と相応しているものであるが、それら が説かれるときに、かれらはよく聞こうとしないし、耳を傾けようとしないし、了解しよう という心を起こさないであろう。それらの教えを、受持すべくよく熟達すべきものであると は考えないであろう。

これに反して文芸人によってつくられ、詩文調であり、文辞麗わしい諸経典は、外道に由 来するものであり、弟子たちの説いたものであるが、それらが説かれるときに、かれらはよ く聞こうとし、耳を傾けようとし、了解しようとする心を起こすであろう。それらの教えを、

受持すべくよく熟達すべきものであると考えるであろう。

かくのごとくにして、如来の説かれた、深遠にして意義が深く、 出世間のものであり、空 と相応している諸経典は消滅してしまうであろう。

ビクらよ。それ故にここでこのように学ぶべきである。 「如来の説かれた、深遠にし 意義が深く、出世間のものであり、空と相応している諸経典が説かれるときに、われらは よく聞くことにしよう。耳を傾け、了解しようという心を起こそう。 それらの教えを、受持 すべくよく熟達すべきものであると考えることにしよう」と』(中村元著『原始仏教の思想』 下)

まさに、この釈尊の予言の通りのことが起きたのである。

釈尊の説かれた教法とまったくちがう教えをのせた経典が、つぎつぎとつくられ、さも真 実の釈尊の教えであるかのようによそおわれて、世の中に広められた。

それを広めるために、釈尊のほんとうの経典は、低級で幼稚な教えときめつけられて、世 の中から抹殺されてしまったのである。

だれがそのようなことをしたのか?

「大乗仏教」と称する経典の作者たちと、その信奉者たちである。

では、その大乗仏教とはどういう経典か。

ようじゅきまいにちきこんにちは 般若経、華厳経、妙法蓮華経、涅槃経、観無量寿経、大日経、金剛頂経等である。 抹殺された釈尊のほんとうの経典とは、どういう経典か?

塔寺の中庭には、静かな風がそよぎ、木々の葉がささやくように揺れていた。青空の下、修行者の僧たちは黙々と歩き、深い瞑想に沈んでいる。若い優婆塞、名をアラカとする彼は、その静寂の中に足を踏み入れた。彼は師から教わった「信・戒・施」の教えを胸に刻みながら、今日も塔寺を訪れ、正法を学び続けていた。

「アラカよ、信仰、戒律、布施――これらは仏道修行の基本である。しかし、それだけでは不十分だ。真の優婆塞となるには、さらに聞・持・観の修行を積まねばならぬ」と師は何度も繰り返した。

アラカは師の言葉を思い出しながら、塔寺の奥へ進む。道場の扉を開けると、中には座禅を組んでいる師、沙門のアジャリがいた。アラカは静かに師の前に座り、一心に耳を傾けた。今日も師から説かれる正法の言葉を、ひとつも漏らさぬよう心を集中させる。

「聞くことが大事だ、アラカよ。しかし、ただ聞くだけでは足りぬ。聞いた教えをしっかりと心に留め、自分のものとしなければならない。それが持だ。」

アラカは頷き、師の言葉を反芻する。彼は、聞いた教えを持ち続け、自分の生活や心の中で生かそうと日々努めていた。だが、師は続ける。

「だが、それだけでもまだ足りぬ。持った教えを深く観察し、その中にある真理を見出さねばならぬ。これが観の修行だ。心を澄ませ、諸法の深い意味に目を向けるのだ。」

アラカは悟る。聞・持・観、この三つが揃って初めて真の修行が成り立つのだと。そして、それが完全な優婆塞への道であることも理解する。仏の教えをただ聞くだけでなく、それを深く心に刻み、さらにその奥に潜む真理を見つけ出す。それこそが修行者の務めであり、彼が目指す道だった。

「精進するのだ、アラカ。信・戒・施だけではなく、聞・持・観を積み重ねて、真の道を歩め」と師の言葉が静かに響いた。

その日、アラカは塔寺を後にし、静かな夕暮れの中、帰路に就いた。だが、彼の心はもう一度塔寺に戻り、師の前で正法を聞く時を待ち望んでいた。聞・持・観――その三つの修行が彼の未来を照らす光となるだろうと信じていた。

 

修行者を進歩させる聞・持・観

しましょう。 しかし、その人がチラシをまくのをやめて、チラシまきをしていた時間だけアルバ イトを行い、それで得たお金の一部を阿含宗に寄付して、残りを自分の懐に入れれば、自分も阿 含宗も得をするのではないだろうかと考えて、そのように実行したとしましょう。それで本当に この人は得をするかといえば、おそらく計算通りにはいきません。たとえうまくいったとしても、 計算で予想できる結果以上のことはできません。 そろばん勘定を離れ、欲得を抜きにして仏さま のために働くことによってのみ、奇蹟的なすばらしい結果が得られるわけです。

チラシまきや護摩木判押し、布教伝道などの時間を商売などに使う方が自分にとってプラスに なるだろう、というようなこざかしいことを考えて行動しても、うまくいくわけがないのです。 嘘だと思うならばやってごらんなさい。 最初はうまくいったように見えても、三年後、五年後、 十年後を見てみると、決してうだつは上がっていません。 わたくしは、何人もそういう人を見て おります。いや、わたくし自身も昔はそうだったのです。けれども仏さまの教えに目覚め、損得 抜きに生きてきたおかげで、ひとかどの成功を得ることができました。

みなさんも損得勘定を捨てなさい。少なくとも、仏さまのお手伝いをする、あるいは仏さまを 礼拝する時は、 そろばん勘定を捨ててやってごらんなさい。そして、本業にも精を出してごらん なさい。そうすれば、必ずすばらしい結果を導き出すことができます。これは、お経に書いてあ るからいっているのではなく、わたくしの経験からお話ししているのです。わたくしを信じて、 そろばん勘定を離れて純真に仏さまのために尽してごらんなさい。 絶対に道は開けるのです。

修行者を進歩させる聞・持・観

不能随時往詣沙門聽受正法。是則不 具。以不具故精勤方便。随時往詣塔 寺見諸沙門。不一心聽受正法。是不 具足。信戒施聞修習満足。聞已不持。 是不具足。以不具足故精勤方便。随 時往詣沙門專心聽法。聞則能持。不 能観察諸法深義。是不具足。不具足 故精勤方便。 信戒施聞。 聞則能持。 持已観察甚深妙義。

  • 現代語訳

ずい

ごんぼうべん

もんしゅじゅうまんぞく

じん かんざ

ちようじゅ

「随時に門に往して正法を愛することわざる は、是れ則ち具せざるなり。具せざるを以ての故に精 動方便し、随時に塔寺に往詣して諸の門に見える。 心に正法をせざるは、是れ具足せざるなり。信戒施

聞修習 満足す。聞きりて持たざるは、是れ具足せざ るなり。 具足せざるを以ての故に精勤方便し、随時に沙

せんしん ちょうほう

すなわ よじ

門にして心に聴法、聞けば則ち能く持す。諸法

の深義を観察することわざるは、是れ具足せざるなり。 具足せざるが故に精勤方便し、信戒し、聞けば則ち じんじん みょうぎ 持して甚深の義を観察す」

「もろもろの都合をつけて、おりあるごとに出家のところへ参詣し、正法を拝聴しなければ、真 の優婆塞とはいえません。 努力と工夫を重ねて出家のいる塔寺に参詣し、 沙門の教えを受けなさ

い。この修行を聞といいます。 一心に正法

しかし、拝聴するだけでその内容を身につけなければ、やはり真の優婆塞とはいえません。で すから、おりあるごとに出家者を訪れ、専心して説法を拝聴し、聞いた内容をよく身につけて保 ちなさい。これが持の修行です。

諸法の深い意味を観察する修行を観といいますが、この観がなければ、やはり真の優婆塞とは いえません。努力と工夫を重ねて、信戒・施・聞の修行を行い、聞で学んだことを持の修行で よく保ち、保った内容の深い意味を観察して、観の修行を実践しなさい」

さて、お釈迦さまは今までのところで、完全な優婆塞になるには信・戒・施が必要である、と 説かれました。信とは仏・法・僧の三宝に対して信仰の心を持つこと、戒とは浄戒を保つこと、 そして施とは布施をすることですが、この三つが仏道修行の根本となる三大原則です。 この三つ のない仏道などあり得ません。この信・戒・施が仏教の核である、といえます。

しかし、お釈迦さまは、この三大原則を備えてもまだ完全な優婆塞とはいえない、とおっしゃ っております。

「沙門に往詣して正法を聴受することわざるは、是れ則ち具せざるなり」とありますが、これ 沙門のいるところ、つまり、道場(精舎)にお参りに行って、お釈迦さまや僧侶から、正しい 仏法を聞かなくては、信・戒・施を備えていても十分とはいえない、ということです。ですから

お釈迦さまは、せっせと道場に足を運んで法を聞きなさい、と説いておられるのです。 これは、みなさんも同じことです。

あなたがたも道場に来て、いろいろな教えを聞かなければいけません。なぜならば信・戒・施 だけでは、いくらやっても進歩しないからです。たしかに信戒・施は仏教の三大原則ですが、 修行者として進歩するためには、教えを聞かなければいけません。 最低でも毎月の例祭には参加 して、わたくしの法話を聞くことが肝心です。 例祭に出られなかったならば平日でも土日でもよ いから時間をつくって道場にお参りし、ビデオでその月の法話を聞くことが必要です。 これをや らなければ進歩しません。

それはなぜでしょうか?

教えを聞かないと独断的になるからです。 ついつい、自分勝手な判断をするようになってしま います。

「これはこうだから、こうに違いない」

てんじょう のぞ

と非常に視野が狭くなってしまうのです。もっと別の角度から大きな視野で見なければいけな いのに、自分の勝手な判断しかできなくなってしまいます。

くだ もつ てんうかが

『荘子』の「管を以て天を窺う」という言葉が元だと思いますが、昔の「いろはがるた」に「葦

の髄から天井を覗く」というものがありました。 葦の髄とは、葦の茎の部分のことで、 これは、 ちょうどストローのように中が空洞です。 その葦の茎の穴から天井を覗いて見るならば、どれほ 広い天井でも、茎の穴の広さだけしか見えないという意味です。 それと同じで、わたくしの法 話も聞かないで、自分勝手に物事を判断して、

「あれがおかしい、これが変だ」

とぶつぶついっている人は、まさにこの「葦の髄から天井を覗く」なのです。

ですから、毎月の法話は必ず聞く。これは修行者として正しく成長する上で非常に大切なこと です。

「精勤方便し、随時に塔寺にして諸の沙門に見える。 一心に正法を受・・・・・」とあるように、 時間の許すかぎり塔寺、つまり道場に足を運び、もろもろの沙門にお会いしてお話を聞きなさい それも一心に聞きなさい、というわけです。

この、道場へお参りに行って法話を聞くことが、 です。 あるいは、「往詣して」 とあります から、参拝するという面を強調して詣と呼ぶ場合もあります。

時々、例祭に出られないからと平日に道場に来て、勤行だけをさっとやって、終わるとすぐに 帰っていく、という人がいます。 行はもとより、ビデオで法話を学ぶことなどまったくしませ ん。ただ、勤行をするだけです。これでは聞にならないだけではなく、本当の意味での詣にもな りません。

そのような人は仕事やなにかで忙しくて、法話を聞く余裕さえないのかもしれませんが、やは 例祭に出られなかった場合には、違う日に道場へお参りして一生懸命に勤行すると同時に、法 話をビデオで学ぶことが大切です。あるいは例祭に出ている人も、もう一度勉強のために道場に ビデオを見ることが大切です。 「随時に塔寺に往詣し」とあるように、道場にお参りするの は時間の許すかぎり何回でもかまいません。 別に、お参りは月一回だけという決まりはないので

すから、余裕があれば何度でもお参りして、できるだけ法話のビデオを観ることが大切です。 次に、お釈迦さまは、「専心に聴法し、聞けば則ち能く持す」、とおっしゃっております。人に よっては耳の痛いことかもしれませんが、これは、法話を聞くと同時にそれを受持しなさい、と いう意味です。早い話が、法話をいくら聞いても、聞いただけで、右の耳から左の耳へ抜けてし まうのではだめですよ、それを常に保たなければいけませんよ、とおっしゃっているわけです。 法話を聞いて、

「なるほど。こうしなければいけないのか。こうなのだな」

と思ったならば、それを受持しなければいけません。お経には持と書いてありますが、要する に聞いたものは落とさずに持っていなさい、ということです。さらに、持は、実行するという意 味でもあります。

わたくしはいつも思うのですが、お釈迦さまはじつにやさしく、誰にでも分かるようにお話を されます。難しいことを難しく説明するのは簡単です。難解なことをやさしく説くというのが、 いちばん難しいのです。お釈迦さまの説法はまさに名説法です。

さて次に、「諸法の深義を観察することわざるは、是れ具足せざるなり」とあります。これ は、法話を聞いたならば、その意味について観察・工夫をしなければいけませんよ、という意味 です。

法話というものは、聞いてただ暗記するだけでは、本当の意味で自分のものにはなりません。 受持すると同時に、たとえば、

「徳を積みなさいといわれたけれども、徳を積むとはどういうことなのか? 自分はどのよう

ゴマ

/16(月・祝)13:30より「9月冥徳祭」が本部・各道場で中継されます。
また、今月は遠軽サテライトでサテライト・ライブビューイングを行います。

ライブ配信アドレス
★9/16(月・祝)13:30開始 「9月冥徳祭」
https://agon-live.com/m811/
※再配信:16日18時から72時間

【お知らせ】
10/13(日) 阿含宗開祖 九回忌 法恩感謝・涅槃会大法要「御仏花」と「御供養料」がスマホからお申し込みできるようになりました。
24時間、いつでもどこでもお申込みいただけます、

すでに阿含宗公式LINEラインを登録されている方は、

修行の根本となる信

修行の根本となる信

摩訶男白仏。世尊。云何為満足一切 優婆塞事。仏告摩訶男。若優婆塞有 信無戒。是則不具。当勤方便具足浄 戒具足信戒。

まんぞく

いつさいうばくじ

摩訶男、仏に白さく、「世尊よ、何が一切優婆塞事を

満足すと為すや」と。仏、摩訶男に告げたまわく、「若

しんみ か

すなわ

優婆塞信有り無くば、是れ則ち具せず。当に勤方

べん じょうかい

しんかい

便浄を具足し信戒を具足すべし」

  • 現代語訳

と。

  • 解説

阿含経

マハーナーマは仏さまに申し上げました。

「世尊よ、完全な優婆塞になるには、どのようにすればよろしいのでしょうか?」

仏さまはマハーナーマに告げられました。

「その者に信があっても戒がなければ真の優婆塞とは呼べませんから、精進して浄戒を守って、 信と戒の両方を身につけなさい」

さて、マハーナーマはお釈迦さまのお答えをうかがってから、「世尊よ、云何が一切優婆塞事 を満足すと為すや」と再び質問しました。

さきほどのマハーナーマの質問に対して、お釈迦さまは、

「仏の前で、私は死ぬまで仏・法・僧の三宝に帰依いたしますから、優婆塞として私をお認めく ださい、といえば優婆塞になる」

とおっしゃいましたが、これは要するに形式上のことです。 深い中身については触れておられ ません。ですから、マハーナーマは優婆塞事を満足するには、どうすればよいか、つまり、 「完全な優婆塞になるには、どのようにすればよろしいのでしょうか?」

と、再び質問したわけです。

すると、お釈迦さまはマハーナーマに、「若し優婆塞信有りて戒無くば、是れ則ち具せず。 当 に勤方便し浄戒を具足し信戒を具足すべし」と答えられました。 これは、

「その者に信があっても戒がなければ、満足な優婆塞と呼べないから、精進して浄戒を守って、 信と戒の両方を身につけなさい」

という意味です。

優婆塞になった以上、必ず信はあるはずです。 もしも、仏さまの教えを信じる気持ちがなけれ ば、なにも仏さまのところへきて、自分は仏・法・僧に一生帰依いたします、と誓うわけがあり ません。ですから、 優婆塞であるからには、仏・法・僧を信じ仰ぐ、という心は必ずあるはずで

 

 

 

宗教においては信がいちばんの根本です。 これがなかったならば、どうしようもありません。 信じたい、信じよう、信じる。 この気持ちがあって初めて、お釈迦さまの教えを実行しよう、と いう気になるのです。 そこで優婆塞になる。

皆さんはこのお経を読んで、二千数百年前にお釈迦さまがマハーナーマに説法しているお経な のだと思うようではいけません。お経というものは、お釈迦さまが今、この自分のために説い てくださっているのだ、と思って読まなければいけないのです。そうして初めて、お経と自分と の間に血が通うわけです。

浄土真宗の開祖である親鸞上人(一一七三-二二六二)は、

「仏は親鸞一人がためにこの経阿弥陀経』)を説き拾う」

というようなことを述べておられます。お釈迦さまは自分一人のために『阿弥陀経』をお説き になられたのだと確信しながら、親鸞上人は「阿弥陀経』をお読みになったとされておりますが、 これが本当のお経の読み方です。

「ははあ、二千数百年前にお釈迦さまがマハーナーマに、こういうふうに説教されているのか

というような読み方では、とてもお経の本質を見抜くことはできません。ましてや、そのお経 に書かれていることを現実に生かすことなど、絶対に不可能です。

「お釈迦さまは、この自分に対してお説きくださっている!」

そのように、心の底から感激して読むのが、正しいお経の読み方です。

はくいんぜんじ

わたくしは臨済宗 中興の祖と謳われる白隠禅師(一六八五一七六八)の施行歌』を初め 読んだ時に、親鸞上人と同じような気持ちになりました。 まだ二十代でしたが、そのころのわ たくしは病気を患って、やりたいと思う仕事もできず、病気が回復しても事業がうまくいかずに、 日々悩み苦しんでいました。 友人たちはどんどん出世し、自分だけが取り残されていく中で、 「才能のあるおれが、どうして世の中に出られないのだ。あいつだって、こいつだって、おれよ りは決して頭はよくない。ああいう連中が世の中にどんどん出ていくのに、おれがうまくいかず に貧乏をするのはどういうわけだ。世の中というものは、本当に目がないやつらばかりがそろっ 「ている」

と考えて、いつも不平不満ばかり言っていたのです。

その「施行歌』の、

こんじゅうふうき

ほどこ

そのような時です、 白隠禅師の『施行歌』を読んだのは。

富貴する人は前世に蒔く種がある

今生せぬ人は 未来はきわめて貧なるぞ

利口で富貴がなるならば純なる人はみな貧か

利口で貧乏するを見よ

此世は前生の種次第 未来は此世のたね次第・・・・・・」

という部分を読んで、頭をガツンと殴られたような気がしました。

 

 

宗教においては信がいちばんの根本です。 これがなかったならば、どうしようもありません。 信じたい、信じよう、信じる。 この気持ちがあって初めて、お釈迦さまの教えを実行しよう、と いう気になるのです。 そこで優婆塞になる。

皆さんはこのお経を読んで、二千数百年前にお釈迦さまがマハーナーマに説法しているお経な のだと思うようではいけません。お経というものは、お釈迦さまが今、この自分のために説い てくださっているのだ、と思って読まなければいけないのです。そうして初めて、お経と自分と の間に血が通うわけです。

浄土真宗の開祖である親鸞上人(一一七三-二二六二)は、

「仏は親鸞一人がためにこの経阿弥陀経』)を説き拾う」

というようなことを述べておられます。お釈迦さまは自分一人のために『阿弥陀経』をお説き になられたのだと確信しながら、親鸞上人は「阿弥陀経』をお読みになったとされておりますが、 これが本当のお経の読み方です。

「ははあ、二千数百年前にお釈迦さまがマハーナーマに、こういうふうに説教されているのか

というような読み方では、とてもお経の本質を見抜くことはできません。ましてや、そのお経 に書かれていることを現実に生かすことなど、絶対に不可能です。

「お釈迦さまは、この自分に対してお説きくださっている!」

そのように、心の底から感激して読むのが、正しいお経の読み方です。

はくいんぜんじ

わたくしは臨済宗 中興の祖と謳われる白隠禅師(一六八五一七六八)の施行歌』を初め 読んだ時に、親鸞上人と同じような気持ちになりました。 まだ二十代でしたが、そのころのわ たくしは病気を患って、やりたいと思う仕事もできず、病気が回復しても事業がうまくいかずに、 日々悩み苦しんでいました。 友人たちはどんどん出世し、自分だけが取り残されていく中で、 「才能のあるおれが、どうして世の中に出られないのだ。あいつだって、こいつだって、おれよ りは決して頭はよくない。ああいう連中が世の中にどんどん出ていくのに、おれがうまくいかず に貧乏をするのはどういうわけだ。世の中というものは、本当に目がないやつらばかりがそろっ 「ている」

と考えて、いつも不平不満ばかり言っていたのです。

その「施行歌』の、

こんじゅうふうき

ほどこ

そのような時です、 白隠禅師の『施行歌』を読んだのは。

富貴する人は前世に蒔く種がある

今生せぬ人は 未来はきわめて貧なるぞ

利口で富貴がなるならば純なる人はみな貧か

利口で貧乏するを見よ

此世は前生の種次第 未来は此世のたね次第・・・・・・」

という部分を読んで、頭をガツンと殴られたような気がしました。

 

 

なるほどたしかに、わたくしは自分が利口で、世の中の人はすべて愚かに見えていましたが、 愚かだと思っている連中がどんどん世の中に出ていって、利口だと思っている自分はうだつが上 がらない。運が悪い。まさに「利口で貧乏する」だったのです。

「お前がチャンスに恵まれない理由が分かるか? それは、徳がないからだ。人が成功をつかむ には才能だけではだめだ。 徳が必要なのだ。徳がなければどれくらい才能にあふれていても、 成 功をつかむことはできない。 では、徳を得るにはどうすればよいのか? 布施をせよ。 布施をす れば徳はいくらでも出てくるのだぞ」

まるで、白隠禅師が語りかけてくるようでした。 そして、白隠禅師は、三百年後に現われるわ たくしのために、この『施行歌』を書いてくださったのだな、と確信しました。

正しく信を育てる戒

ないのです。

あなたがたもこの『一切事経』を、二千数百年前にお釈迦さまがマハーナーマに説いたお経だ、 と考えるようではいけません。「若し優婆塞信有りて戒無くば、是れ則ち具せず。当に勤方便し 浄戒を具足し信戒を具足すべし」とは、

「信があっても我がなければいけないのだよ。おまえは戒を保っているか?」

とお釈迦さまが、今、自分に直接問いかけてくださっている言葉なのだ、と思わなければいけ

阿含宗信徒諸君は解脱宝生行を一生懸命に修行しています。 このような修行をするからには、 信は必ずあるはずです。お釈迦さまの法を信じよう、お釈迦さまの成仏法を信じよう、と考えた からこそ入行したわけです。

ところが、信じただけではだめだぞ、とお釈迦さまは論されていらっしゃる。

入行して三ヶ月あるいは半年経つと、職員や先達のところにいろいろな不平をいってくる人が います。

「こんなに信仰しているのに、全然よくならない。 こんなに信じていて、一生懸命に修行をして いるのに、よいご利益がまったくない」

そういう声を聞きます。

しかし、お釈迦さまは、信じるだけではだめだぞ、とおっしゃっているわけです。たとえば、 阿含宗に入って、毎日、一生懸命にご宝塔に供養を捧げ、お経やご真言を読誦する。 これは信で す。それらを実行するわけですから、たしかに信はあるわけです。 しかし、お釈迦さまは「信」 だけではだめだ、「戒」が必要なのだとおっしゃっています。

「戒」には、二つの意味があります。 一つは修行者としてやってはいけないことの取り決め、も う一つは修行者としてやらなければいけないことです。

ところが、これをひっくり返している人が多い。やらなくてはいけないことをまったくしない で、やってはいけないことをせっせせっせと行う・・・・・・。 それでいて、

「こんなに信じているのに!」

 

 

 

 

 

かれております。

いわん

阿含経

なぜならば、布施によって初めて徳が生じるからです。 信を持ち戒を保つということは、自分 だけのことをやっているにすぎません。 自分にとってプラスになることだけをやっているわけで す。 一方、他の人になにかを施すということは、他の人にプラスを与えることになります。

どのような難行苦行であっても、自分のことばかりを考えていたのでは、徳は生まれません。 他の人になにかを与えてこそ、自分の身に徳が生じるのです。人間というものは、徳がなければ なに一つ成功させることはできません。 これは、仕事でもなんでも同じです。

わたくしはいつも、

「人の不幸の元凶は因縁である。その因縁を切る成仏法を実践することによってのみ、人は本当 の幸福を得ることができる」

と申し上げております。 しかし、不徳の身では、その成仏法でさえやり通すことができないの です。徳があってこそ、修行は順調に進みます。 徳がなければ、因縁を切る修行でさえも途中で だめになるのです。修行に嫌気がさしたり、経済的に不如意になったり、あるいは周囲の者が意 味もなく反対します。 とにかく、うまくいかなくなってしまうわけです。

さきほど、白隠禅師の『施行歌』についてお話ししました。わたくしはこれを読んで、 徳の大 切さを初めて身に染みて感じました。『施行歌』とは、布施の行の大切さを分かりやすく民衆の

ために説いたものですが、その中に、

「富貴に大小ある事は蒔種大小あるゆくぞ

この世はわづかの物なればよい種ゑらんでまきたまへ

たねを惜みてうへざれば 穀物取たる例なし

田畑に麦神ずして麦ひへ取たるためしなし

いっしょう

むぎひへ壱升まきをけば 五升や壱斗はみのるぞや

れば少しの施しも 報は倍あるものぞ

や施し多ければ くわほうも多しとりしれ」

という言葉があります。 わたくしは、これはまさに真理だと思います。

功徳の種をまかずに、徳の実が実るはずはありません。 功徳の種を少しでもまくならば、必ず それよりも大きな徳の実を得ることができるのです。 功徳の種をまく、これこそが布施の行なの です。

 

 

お釈迦さまは、「而も法次法向に随順して知らざる、是れ則ち具せざるなり」とおっしゃって おられますが、法次とは法に近づくことで、法向とは法を追及することです。ですから、仏さま や沙門の法話を聞き、観察・工夫しても常に法に近づき、法を追及しようとする努力がないなら ば満足な優婆塞とはいえない、ということです。

満足な優婆塞となるための条件を最初から挙げると、まず第一が信、そして順番に戒、 施、聞、 持、 観法次、 法向と全部で八つあります。 これを、「優婆塞の八法」と呼びます。

それぞれの意味を箇条書きにすると、次のようになります。

・受持した教法の深い意味をよく観察し工夫する信・・・・・・正しい智慧で信心の心を起こす

・受持した教法の深い意味をよく観察し工夫する戒・・・・・・信の心を元に、やってよいことと悪いことの分別をつけ、仏教徒としてやってはい

・受持した教法の深い意味をよく観察し工夫するけないことはやめ、やらなければいけないことは積極的にやる

・徳を積むために布施の行をする

・道場(精舎)に行って、仏さまや沙門の話を聞く

・聞いた説法の内容を受持し、実行する

・法次・・・法に近づく

・法向・・・法を追及していく

となります。

お釈迦さまは、「而も法次法向に随順して知らざる、是れ則ち具せざるなり」とおっしゃって おられますが、法次とは法に近づくことで、法向とは法を追及することです。ですから、仏さま や沙門の法話を聞き、観察・工夫しても常に法に近づき、法を追及しようとする努力がないなら ば満足な優婆塞とはいえない、ということです。

満足な優婆塞となるための条件を最初から挙げると、まず第一が信、そして順番に戒、 施、聞、 持、 観法次、 法向と全部で八つあります。 これを、「優婆塞の八法」と呼びます。

それぞれの意味を箇条書きにすると、次のようになります。

・受持した教法の深い意味をよく観察し工夫する信・・・・・・正しい智慧で信心の心を起こす

・受持した教法の深い意味をよく観察し工夫する戒・・・・・・信の心を元に、やってよいことと悪いことの分別をつけ、仏教徒としてやってはい

・受持した教法の深い意味をよく観察し工夫するけないことはやめ、やらなければいけないことは積極的にやる

・徳を積むために布施の行をする

・道場(精舎)に行って、仏さまや沙門の話を聞く

・聞いた説法の内容を受持し、実行する

・法次・・・法に近づく

・法向・・・法を追及していく

となります。

 

The Buddha says, “I don’t know in order to the law, and I’m not going to give it a rule.” To pursue. Therefore, it is not a satisfying Yuba block if you listen to the Buddha and Shamon’s tale, observe and devise, and always approach the law and try to pursue the law.

The first thing to be a satisfying Yubutsu fortress is that there are eight things from the beginning, and the first is the religion, the commandments, listening, hearing, kinji, and so on. This is called the “Yubu Fortress’s Eight Law”.

When each meaning is a bullet, it looks like:

 

 

 

 

・ Financially observed and devised the deep meaning of the teaching method … Create the heart of religion with the right wisdom.

・ The commandments of closely observing and devising the deep meaning of the teaching methods … based on the heart of trust, separating what is good and bad, and doing it as a Buddhist.

・ Stop to observe and devise the deep meaning of the teaching methods, and actively do what you have to do.

・ Do the gourd to the virtue

・ Go to the dojo (Seisha) and hear the story of Buddha and Saemon

・ Pick and execute the contents of the preaching you have heard

・ Hoji … approaching the law

・ Law … pursue the law

Will be.

 

The Buddha says, “I don’t know in order to the law, and I’m not going to give it a rule.” To pursue. Therefore, it is not a satisfying Yuba block if you listen to the Buddha and Shamon’s tale, observe and devise, and always approach the law and try to pursue the law.

The first thing to be a satisfying Yubutsu fortress is that there are eight things from the beginning, and the first is the religion, the commandments, listening, hearing, kinji, and so on. This is called the “Yubu Fortress’s Eight Law”.

When each meaning is a bullet, it looks like:

 

 

 

 

・ Financially observed and devised the deep meaning of the teaching method … Create the heart of religion with the right wisdom.

・ The commandments of closely observing and devising the deep meaning of the teaching methods … based on the heart of trust, separating what is good and bad, and doing it as a Buddhist.

・ Stop to observe and devise the deep meaning of the teaching methods, and actively do what you have to do.

・ Do the gourd to the virtue

・ Go to the dojo (Seisha) and hear the story of Buddha and Saemon

・ Pick and execute the contents of the preaching you have heard

・ Hoji … approaching the law

・ Law … pursue the law

Will be.

meisou 輪廻転生瞑想法

自分の思うように自分を変え、

自分の望むもの、願うことは、

かならず実現させずにはおかない、

そして、それは現世だけでなく、

来世さえも思うままに

つくり変える

そういう方法があったら、

どんなによいであろうかと

そういう方法があったら、

どんなによいであろうかと

システム

そういう方法があるならば、

ぜひとも学んで

自分の身につけたいものだと思わないか?

もちろん、思うのにちがいない。

そう思ったら、すぐに、

「輪廻転生瞑想法」をはじめることだ。

「輪廻転生瞑想法」をおこなえば、

だれでも、

もちろん、あなただって、

思うままの人生をつくりだし、

理想の来世を迎えることができるのである。