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運命学

ホモデウスと霊性  Homodeus and spirituality

桐山靖雄

わたくしは、人間は霊的存在だと考えている。

 なぜならば、人間が、特殊な生命形態を持っているからである。

特殊な生命形態とはどういうものか?

 釈尊の「成仏法」を修行すると、それがよくわかるようになるのであるが、こ

こは、瞑想によって悟りを完成し、仏陀になられた大霊覚者ゴータマーブッダ、

釈尊の語るところによって、それを知っていただこう。

大意]

 わたし(釈尊)は、つねに努力精進し、その想いは確立してすこしもみだ

れず、体は安楽で動揺せず、心は禅定に入って静かである。そのわたしがあ

るとき、瞑想に入ってしだいに禅定が深まってきた。第一禅定から第二、第

三、第四禅定まで深まるにつれて、心に想い浮かぶなにものもなくなり、喜

びや楽しみだけとなり、そして遂にはそれもなくなって、ただ清浄な想いだ

けとなった。

 そのとき、わたしの心は、一点のけがれもなく、清く明るく、絶対不動で

あった。そしてわたしの心の眼はおのずから前世の光景に向けられていっ

た。それは一生だけではなく、二生、三生、十生、二十生、そして無限の生

涯の、生きかわり死にかおりした光景が展開してきた。これが第一の智慧で

ある。

それからわたしの心は、あらゆる衆生の相に向けられてきた。わたしぱ

超人的な眼力でその相を見た。そこには貰いもの、賤しいもの、美しいも

の、醜いもの、幸福なもの、不幸なものの、それぞれの宿業が渦巻いてい

た。これが第二の智慧である。

 それからわたしは、苦・集・滅・道の四諦(四つの真理)をありのままに

知り、わたしの心は、あらゆる存在の相から、全く解放され、ふたたびそれ

に執着することはなくなった。これが第三の智慧である。

 釈尊は瞑想によって、自分の前生の、二生、三生、十生、二十生、さらには無

限の生涯の、生き変わり死に変わりしてきた光景を見ているのである。それは自

分だけではなく、あらゆる人間の前生と、さらに後有(このっぎの人生)を見て

いるのである。

 釈尊はここで、決しておとぎ話や、たとえ話、寓話をのべているのではない。

釈尊の成仏法を修行すれば、その真実であることがすぐわかる。その修行によ

り、わたくし自身、人の三、四世代前、そしてつぎの世代における存在までは透

視できるようになっているのである。

 人間の生命は、多くの人たちが考えているように、決してひとつの生涯だけで

終わるものではないのである。ある生涯が終わったら、またひきつづき、つぎの

生命形態に移っていくのである。

 多くの人たちはその認識がなく、ひとつの生涯のみで、人の生命は終わるもの

と思っている。ここに、決定的な、そして致命的な生命観の欠陥があるのである。

霊性とはじつにそれを知る趨性なのだ。

 人の依って来たるところを知り、去るところ、往くところを知る能力である。

いわゆる来所を知り、往所を知る智慧である。これを得れば、人はおのずから、

なにをなすべきか、なにをなさざるべきかがわかってくる、そこから人間の真の

進歩、発展がスタートするのである。それがないから、人間は、霊的に少しも進

歩せず、発展せず、いつまでも低いところを輪廻して、無限にさまよい歩いてい

るのである。いや、それだけではない。その果てに、人間は、自分の住む人切な

世界を、自らの手で壊滅させてしまうことになるのである。

 

一方

ハラリ 多くのことを心配していますから、どれが一番重大かはわかりませんが、いまのところは人類の無知と愚かさでしょうか。

我々は非常に賢い種ではありますが、ときおり大事な局面で大きな過ちを犯す傾向があります。しかし、いまの我々には過ちを犯す余地があまりないのです。

我々は巨大な力を持った種です。力を持てば持つほど、愚かな選択をすれば、人類だけでなく全生態系に破滅的な被害をもたらします。これが私の最も大きな心配です。

 

人類の繁栄とは“虚構”の上にあるのです」|『サピエンス全史』著者ユヴァル・ノア・ハラリ大型インタビュー

Q12 人類が思考と意志疎通の方法を獲得した「認知革命」がなければ、我々も他の生物も、もっと幸福だったのでしょうか? その場合、我々は他の種を支配するのではなく、調和して生きていたのでしょうか?
(NassauOrange、「ガーディアン」紙読者の投稿)

ハラリ 他の種と人類の間には多様で膨大な暴力や不調和があるため、調和が可能かどうかはわかりません。

しかし、認知革命がなければ、我々が地球を支配することは間違いなくなかったでしょう。その場合、環境問題は起きていなかったと思います。

つまり、認知革命がなければ、ほとんどの種はもっと幸せだったと言えるでしょう。

 

Tatsuo Kiriyama

I think humans are spiritual beings.

This is because humans have a special form of life.

What is a special form of life?

If you practice Shakyamuni’s “Seibutsu Law”, you will be able to understand it well.

This is Goutamar Buddha, a great spiritual person who has realized enlightenment through meditation and became a Buddha.

Let’s know it according to what Buddha said.

Intent]

I (Shakuson) always worked hard and established his feelings.

The body is comfortable and not upset, and the heart is quiet and quiet. That I

As I entered meditation, my zen rule deepened. From the first Zen rule to the second, second

As we deepen to the third and fourth Zen rules, there is nothing that comes to mind.

It ’s just a pleasure, and finally it ’s gone, it ’s just a clean feeling.

It became a problem.

At that time, my heart was clean, bright and absolutely immovable

there were. And my heart’s eyes naturally turned to the sight of the previous life.

It was. It’s not just a lifetime, but a second, third, tenth, twentyth, and infinite life

The sight of life, alive and dead, has developed. This is the first wisdom

is there.

Since then my heart has been directed to all the beings. Me

I saw that aspect with superhuman eyesight. There are ugly, ugly and beautiful things

The ransom, the happy, the unfortunate of each camp

It was. This is the second wisdom.

Then, I will leave the four truths of pain, collection, destruction, and road as they are

I know, my heart is completely free from all phases of being,

No longer obsessed with. This is the third wisdom.

Shakyamuni, through meditation, is his predecessor, second, third, tenth, twentyth, and even nothing

They are looking at the sight of life, death and death for a lifetime. It is

Not just the minute, but also looking at all human predecessors and afterlife (this life)

It is.

Shakuson never gave fairy tales, parables, or fables here.

If you practice the Buddhist Buddhist method of Buddha, you can immediately see that it is true. Due to the practice

I am transparent to the existence of myself, three to four generations before, and the next generation.

It can be seen.

人間 Human life is never a single life, as many people think.

It doesn’t end. Once a lifetime is over, continue

It moves to a life form.

Many people are not aware of it, and one’s life ends with only one lifetime

I think. There is a critical and fatal flaw in life here.

Spirituality is an inertia that knows it.

It is the ability to know where people are coming, and where they leave and where they go.

It is wisdom that knows what is called a visit and knows where it is going. If you get this, people will naturally

You know what to do and what to do

Progress and development will start. Because there is no such thing, human beings are a little spiritually advanced

I can’t walk, don’t develop, walk around infinitely in low places and walk infinitely

It is. No, that’s not all. At the end of this, human beings are vain

It will destroy the world with its own hands.

on the other hand

Harari: I’m worried about many things, so I don’t know which is the most serious, but for now, is it ignorance and stupidity of mankind?

Although we are very clever species, we sometimes tend to make big mistakes in important aspects. But now we don’t have much room to make mistakes.

We are a seed with enormous power. The more power you have, the more stupid choices will cause catastrophic damage not only to humanity but to the entire ecosystem. This is my biggest worry.

The prosperity of mankind is “on the fiction” ”| Interview with Juval Noah Harari, author of“ History of Sapiens ”

Q12 If there was no “cognitive revolution” in which humankind gained a way of thinking and communication, would we and other creatures be happier? In that case, did we live in harmony rather than dominating other species?
(NassauOrange, “Guardian” paper reader contribution)

Harari: Since there are various enormous violence and incongruity between other species and humankind, it is not clear if harmony is possible.

But without a cognitive revolution, we would definitely have dominated the earth. In that case, I think that there was no environmental problem.

In other words, without the cognitive revolution, most species would have been happier.

「人類は10年後には細胞肉を食べ、100年後には消えるでしょう」|『サピエンス全史』の著者

『サピエンス全史』では、7万年という壮大なスパンでホモ・サピエンスの幸福論を説く。『ホモ・デウス』では、新しい科学技術によって「神」の力を獲得した人類の刺激的な未来を予測。著者の歴史学者ユヴァル・ノア・ハラリはまたたくまに時代の寵児となった。

そんな彼が著名人、読者から寄せられた選りすぐりの質問に答える英紙「ガーディアン」の傑作記事の後編。AI、宗教、反知性主義、中東の未来から思考法まで、世界最高の知識人が語りつくした。

『サピエンス全史』の著者に17の質問!|AIに仕事を奪われ不老不死になった人類の未来はどうなる?(前編)はこちらから

若き天才のプライベートは…

世界的大ベストセラー『サピエンス全史 文明の構造と人類の幸福』(邦訳、河出書房新社)、『ホモ・デウス 明日についての簡潔な歴史(Homo Deus: A Brief History of Tomorrow)』(未邦訳)の著者ユヴァル・ノア・ハラリは厳格なヴィーガンで、1日2時間の瞑想を日課にしている。瞑想は集中力を養うのに非常に有効なのだそうだ。

ハラリは夫とともに、エルサレム郊外にあるモシャブ(農業による生活共同体)に住んでいる。同性愛者であることが、常に通説に疑問を持つ彼の性格に影響を与えているという。

「『当たり前だ』と思っていいことなんてありません。たとえそれが、万人に信じられていたとしても」

ハラリの本を読む楽しみの1つは、世間では当然だと思われていることを再考するように我々を導いてくれることにある。彼は流行に時間を費やしたりはしない。

ハラリの論調にはいつもまったく迷いがない。そのために傲慢だと思われることもあるようだが、彼は膨大なリサーチと熟考の末に自らの結論を導き出しているのだと、私は声を大にしていいたい。

だからこそ、『銃・病原菌・鉄』(草思社)で知られる生物学者ジャレド・ダイアモンドは、ハラリの言葉を「鮮やかで忘れがたい」と評したのだろう。

ハラリは、7万年前から未来に至る完全に新しい歴史学の分野を切り拓いた。これは、超人的に多角的な視点を持つ1人の男が成し遂げた素晴らしい功績である。

農耕によって人類は不幸になった?

Q9 ホモ・サピエンスが狩猟採集から農耕に移行したのは失敗だったのでしょうか?
あなたは『サピエンス全史』で、人類の生活は農耕を始めたことによって、狩猟採集をしていたときより、不安定で惨めなものになったと書いています。もしそうなら、どうすれば、農耕民であることを最大限に活用できるのでしょう?
(フィリッパ・ぺリー、作家・心理療法士)

ユヴァル・ノア・ハラリ(以下、ハラリ) それは、どの視点で見るかによります。

ファラオや古代中国の皇帝の視点で見るなら、狩猟採集から農耕への移行は非常に優れた発想です。しかし、古代エジプトの農民の女性からすれば、そうとは言えません。

けれども、現代の豊かな社会に暮らす中産階級の視点で見れば、やはり優れているということになります。一方、バングラデシュの労働搾取が激しい工場で1日に12時間働く労働者にしてみれば違います。

いまから80億人を狩猟採集民に回帰させることは絶対にできないし、意味がありません。ですから、重要なのは現状をいかに活用するか、そして、どうすれば農業革命の過ちを繰り返さずにすむかということです。

いま差し迫っている過ちは、人工知能と遺伝子工学による「新たな革命」によって、権力と富がごくわずかなエリートに独占され、それ以外の人々が困窮する事態です。

人類は「細胞バーガー」を食べるべき!

Q10 あなたは、『サピエンス全史』で家畜の飼育を始めたことが人類の最悪の罪だと言いました。それをやめるためには何をすべきだと思いますか?
(ジェシー・リース、「ガーディアン」紙読者の投稿)

ハラリ 特定の細胞を培養することで農産物や肉を生産する、「細胞農業」や「培養肉」という技術があります。

ステーキが食べたければ、細胞からステーキを育てるだけです。雌牛を育てる必要はありません。

SFの世界の話のように聞こえるかもしれませんが、もうこの技術は現実のものになっています。3年前、細胞から初めてハンバーガーが作られました。30万ドルという巨額の費用がかかりましたが、それぐらいの出費は新技術にはつきものです。

いま(2017年3月)私の知る限り、細胞バーガーの価格は1個あたり11ドルにまで下がりました。開発者によれば、今後、おそらく10年前後で肉のハンバーガーより価格を下げることができるそうです。

それを我々がスーパーやマクドナルドで見かけるまでにはまだ時間がかかるでしょうが、これが唯一の解決方法だと思います。

私はヴィーガンなので、肉やその他の動物性食品をとらないようにしていますが、何十億人もの人々に、同じようにしろと説得できるなどという幻想は抱いていません。

ですから、もし細胞から肉や乳製品を作り出すことができたら、素晴らしいと思います。大規模な家畜の飼育で生じている途方もない環境汚染の削減にもつながります。

パレスチナ紛争が終わる前に、人類は消える

Q11 人間主義、個人主義、合理主義を柱とする「近代精神」は、あなたにとって意味のあるものですか? もしそうなら、近代精神はいつ生まれた、どのようなものなのでしょうか?
(ベタニー・ヒューズ、歴史家)

ハラリ 我々が、精神について知っていることなどほとんどありません。それが何なのか、どのように生まれたのか、どんな役割があるのかも理解していないといっていいでしょう。

脳内の何十億ものニューロンが特定のパターンの電荷を生じたとき、それがどのように、愛や怒り、痛み、喜びの精神的、もしくは主観的な経験を作り出すのでしょうか? 我々には、何もわからないのです。

ラスコーやアルタミラの洞窟の壁画を描いた後期旧石器時代の人々は、今日の人間と同じ精神を持っていたと我々は想定しています。その一方で、ネアンデルタール人はいまの人類よりも大きな脳を持っていたにもかかわらず、別の種類の精神を持っていたと我々は考えています。

しかし現時点では、真実は我々の理解をはるかに超えたところにあります。

アンドリュー・アンソニー(この記事の筆者、以下アンソニー) 国家や貨幣、宗教といった「虚構」を作り出す能力を持っていたから、我々ホモ・サピエンスが他の種を差し置いて地上を支配しているのだとあなたは言いました。では、我々が宗教的な虚構を捨てるのと、イスラエル・パレスチナ紛争が解決するのと、どちらが先だと思いますか?

ハラリ 現状からすると、イスラエルとパレスチナに和平が訪れるよりも先に、ホモ・サピエンスがいなくなると思います。

いまのホモ・サピエンスは、おそらくあと1世紀ほどで消えると私は考えています。それは殺人ロボットなどに破壊されるという意味ではなく、遺伝子工学やAI(人工知能)によって、何か別のものに変化、もしくは進化するということです。

時間的な尺度はたぶん1世紀くらいでしょう。パレスチナ人とイスラエル人の紛争は、それまでに解決しない可能性が高いと思います。

◆関連記事:「人類の繁栄とは“虚構”の上にあるのです」|『サピエンス全史』著者ユヴァル・ノア・ハラリ大型インタビュー

Q12 人類が思考と意志疎通の方法を獲得した「認知革命」がなければ、我々も他の生物も、もっと幸福だったのでしょうか? その場合、我々は他の種を支配するのではなく、調和して生きていたのでしょうか?
(NassauOrange、「ガーディアン」紙読者の投稿)

ハラリ 他の種と人類の間には多様で膨大な暴力や不調和があるため、調和が可能かどうかはわかりません。

しかし、認知革命がなければ、我々が地球を支配することは間違いなくなかったでしょう。その場合、環境問題は起きていなかったと思います。

つまり、認知革命がなければ、ほとんどの種はもっと幸せだったと言えるでしょう。

最も心配なのは人類の無知と愚かさ

Q13 あなたが最も心配していることは何ですか? その心配に対して何かしていますか?
(LeaActforChange、「ガーディアン」紙読者の投稿)

ハラリ 多くのことを心配していますから、どれが一番重大かはわかりませんが、いまのところは人類の無知と愚かさでしょうか。

我々は非常に賢い種ではありますが、ときおり大事な局面で大きな過ちを犯す傾向があります。しかし、いまの我々には過ちを犯す余地があまりないのです。

我々は巨大な力を持った種です。力を持てば持つほど、愚かな選択をすれば、人類だけでなく全生態系に破滅的な被害をもたらします。これが私の最も大きな心配です。

Q14 反知性主義が西側で生まれているのでしょうか? もしそうなら、反知性主義の台頭とリベラリズムの衰退は関係があるのですか?
(guneydas、「ガーディアン」紙読者の投稿)

ハラリ 反知性主義が台頭しているのかどうかはわかりませんが、これまでの歴史上、常に存在はしていました。いまの状況が1930年代や50年代、もしくは中世や19世紀より悪化しているのかは確信がありません。

反知性主義の隆盛は確かに問題です。しかしながら、反科学主義ほどではないと思います。いまの時代、極端な宗教的原理主義者でさえ、「知識人」です。彼らは、人間の知力というものを非常に重視しています。

むしろ問題なのは、彼らが思考力を妄信し、外部の世界からもたらされる経験主義的な知識を軽視していることです。

アンソニー イスラム過激派は、「近代以前」の断末魔の叫びに過ぎないと考えていますか?

ハラリ 21世紀において、地球温暖化や格差、遺伝子工学やAIといった破壊的技術の出現など、人類は数々の困難な問題に直面しています。

これらに対する答えを我々は必要としていますが、少なくともいまの時点で、こうした問題がイスラム過激派からもたらされたと聞いたことはありません。

ゆえに、イスラム過激派が21世紀の社会に強い影響を及ぼすとは私は考えていません。もちろん存在し得るでしょうし、深刻な暴力や問題を引き起こす可能性もあるでしょう。しかし、彼らが人類の未来を創るとは思いません。

桐山 靖雄 運命とはなにか (密教占星術) Kiriyama Ikuo What is fate?

運命とはなにか (密教占星術)

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桐山 著作 より

『密教占星術I』と運命について
わたくしがこの本でいいたかったことは、運命とは何かということであった。
仏教では、因縁解脱ということをいうが、多くの坊さんは、それをいきなり、人間には
因縁というものがあるから、それから解脱しなければならない、と説くわけである。しか
し、わたくしは、そう説く前に、因縁というものが本当にあるのか、考えたわけである。
仏教を運命学の面から解明しようとしたのが本書である。したがって、この本はわたくし
でなければ書けない本であると密かに自負している。
因縁とは何かというと、それは人間の運命をかたちづくるものである、とわたくしは考えたわけ
である。。
わたくしは、自分の中にある刑獄の因縁に苦しみ、妹まつ子の眸臓癌や母の乳癌によって知った
癌の因縁と闘ったから、因縁というものが実際に存在するということをはっきりと認識していた。
しかし、一般人には、人間の運命は生まれながらにして決まっていて、その運命は因縁によって形成されているということがなかなか納得しがたいかもしれない。
わたくしには、幸い運命学の知識があり、自分の運命をよく分析していたから、運命の
実在に確信をもっていた。したがって、仏教に入って、因縁というものを深く考えるよう
になって、運命の因子が因縁であることを容易に実感できたわけであるが、一般の人びと
にはそれはなかなかわかりにくいと思う。どうしてそれを伝えたらよいか、いかにすれば
納得してもらえるか、といろいろ考えながら書いたのが、この『密教占星術I』である。
わたくしは、自分の運命を分析し、人の運命を見はじめて、すでに三十年近く経ってい
る、ということは、生まれたばかりの赤ちゃんを見て予知したことを、いま二十数歳とな
った青年の中に確認することができる。二十歳の人は、いま、もう四十数歳になっている。
四十歳の人は六十数歳となっている。つまり、二十数年も人の運命を見ていると、人の一
生のデータがほぼそろうわけである。
そうなると、生まれたばかりの赤ちゃんがこういう星をもっていると、何歳の時にはど
うなる、何歳から何歳のうちにはこうなるというようなことが、九〇パーセントの確率で
わかってくる。だから、わたくしは、人の運命は、生まれた瞬間にもう決まっていると断
言できるのである。
それどころか、胎宮術という占術がある。お母さんのお腹の中にいる胎児のうちに、す
なわちまだ男か女かもわからない赤ちゃんの運命すらも予知する術である。それによれば、
お腹の赤ちゃんが男か女かはもちろん、その赤ちゃんの人生の大半がわかってしまうので
ある。これはなかなかむつかしい運命学であるけれども、的中率はかなり高いのである。
それから考えると、人間は、生まれた瞬間、あるいはそれ以前から、運命が決まってい
るとしか考えられない。
運命が決まっているということは、運命を構成する一つ一つの要素というものがすでに
決まっているということである。その要素に当たるものが、因縁である。まさに、人は、
因縁によって生まれ、生き、死んでいく、ということである。
その証拠をあげて、実証的に運命の原理、法則を紹介・解説したのが『密教占星術I』
ということになる。だから、サブタイトルが「運命とは何かLとなっている
わたくしは、易、九星干支術、紫微斗数、六壬天文学、八門遁甲、淵海子
洋占星術等々、ほとんどすべてを学び、自分自身の運命学を体系化するまで
るから、運命というものを説明すると同時に、運命学の初伝、中伝、奥伝と、一つの教科
書としてこれらを書いておいて、奥伝以上の秘伝は、実地の講義で少数の選ばれた弟子に
伝えようと思い、全部で六巻を考えている。先にあげた運命学すべてこの六巻の中に合ま
れる予定である。
わたくしは運命学が本業や専門ではないので、宗教関係のほうに筆がつい向いてしまっ
て、なかなか続巻が書けない。しかし、余生がある限り、九星干支術・八門遁甲・奇門遁
甲・天源術から、紫微斗数、六壬天文学、淵海子平、密教占星術総論というように書いていきたいと思っている。
このIの中に、香港の名占星術者、黄敏玲女史との出会いが書かれてある。女史はわた
くしのことをまったく知らず、ただ日本の宗教家であるということ以外何も知らされずに、
わたくしの運命を鑑定してこういった。
「先生は宗教家になる前と、なった後と、まったく人生が変わってしまった。性格も一変
してしまっている。これは信仰による行と修養によるもので、高い境界のものだから、い
まの先生の運命は、単なる運命学などでは推しはかれない。茫洋たるものである。ただい
えることは、これから新しい三つの仕事が先生を待っている。それは大きな大きな仕事で、
大変苦労するが、先生はその三つの仕事をそれぞれ成し遂げ、大成功するであろう。一言
でいうならば、先生の運命は、壮大強烈、である。健康長寿である」といった。
そして、先生の将来は運命学などでは推測できない。なぜならば、先生は自分の運命を
改善し、創造してしまうからである。世の中の多くの人は、定められた運命の通りに人生
を歩んで終わるが、万人に一人、自分で運命を創造していく人があらわれる。それが先生
である。だから、先生の将来を適確にいうことは不可能である。しかし、それだけでは逃
げ口上のように思われるから、といって、わたくしの過去のことを二つ、三ついった。言
いにくそうに、刑罰をうける運命をもっていることもいった。すべて適中しており、わた
くしは舌を巻いたのであった。女史の実力は非凡で、日本に来れば超一流にランクされる
だろうと思った。ちょっと太刀打ちできる占断家はいまの日本にいないのではないかと思
われた。
女史は、最後に、
「先生はまことに偉大な人だ。今日は本当に驚いた。先生のような、運命をみずからつく
り出していくというような運命をもった人をはじめて見た。先生は運命をもたない人だ」
といった。
過去のことをズバリ適中させたのにも感心したが、それはほかの人でもできる。彼女が、
わたくしを、運命のない人といったのは、占断を越えた占断である。一度、日本へ呼びた
いと思って、いまだに果たせずにいる。忘れ難い出会いであった。『密教占星術韮』は、
三元九星・掛けの秘伝について書いた。昭和五十三年(一九七八年)の出版である

 

From Kiriyama copyright

About Esoteric Astrology I and Destiny
What I wanted to do with this book was what was fate.
In Buddhism, it means the detachment of a connection, but many monks suddenly do it to humans.
He explains that since there is a connection, we have to break it out. Only
But before I preached, I wondered if there was really a relationship.
This book tried to elucidate Buddhism from the aspect of fate science. So this book is me
I’m secretly confident that it is a book that can only be written.
I thought that what was related is that it is what forms human destiny.
It is. .
I suffered from the imprisonment of a prison inside me, and I knew from my sister Matsuko’s pancreas cancer and my mother’s breast cancer
I struggled with cancer, so I knew that there was actually a relationship.
However, it may be difficult to convince ordinary people that the fate of a human being is born, and that fate is formed by a relationship.
Fortunately, I had knowledge of fate science and analyzed my own fate well.
I was convinced of the reality. Therefore, enter Buddhism and think deeply about the relationship
Therefore, it was easy to realize that the factor of fate is related.
It’s hard to understand. Why should I tell you how
It was this “esoteric astrology I” that I wrote while thinking about whether or not I could be convinced.
I have been analyzing nearly my own destiny and have begun to see the destiny of people for nearly 30 years.
That means that I was 20 years old now that I had predicted a newborn baby.
It can be confirmed in the young man who was. The 20-year-old is now over 40 years old.
A person who is 40 years old is over 60 years old. In other words, if you have seen a person’s fate for more than 20 years,
The raw data is almost complete.
Then, when a newborn baby has such a star,
There is a 90 percent chance that it will be from what age to what age
I understand. So, I conclude that the fate of a person is already decided at the moment I was born
I can say that.
On the contrary, there is an divination technique called fetal art. Among the fetuses in the mother’s stomach,
In other words, it is a technique for predicting even the fate of a baby who still does not know whether he is a man or a woman. According to it,
I know most of the baby’s life, not to mention whether the baby is a man or a woman
is there. Although this is a difficult fate study, the hit rate is quite high.
From that point of view, humans are destined to be destined from the moment they were born or before that.
I can only think of it.
The fact that fate has been decided already means that each element that constitutes fate is already
It has been decided. What hits that element is the cause. Exactly, people
It is born, alive, and dying by a relationship.
The esoteric astrology I is an empirical introduction and explanation of the principles and rules of fate.
It turns out that. So, the subtitle is “What is fate?
I’m Yuki, Kyusei Zodiac, Purple Poto, Rokuto Astronomy, Hachimon Rinko, Rinko
Learn almost everything, including Western astrology, and systematize your own destiny
So, at the same time as explaining the fate, at the same time, the first biography of the fate studies, middle biography, Okuden, one subject
Write these as a book, and secrets beyond Okuden are given to a small number of disciples who have been chosen in a practical lecture.
I’m thinking of telling you about six volumes in all. All the fate studies mentioned above fit into this volume.
Is scheduled.
I do not focus on my fate studies and my specialty, so I’ve been writing my way towards religious relations.
I can’t write a sequel. However, as long as there is still life, Kyusei Zodiac art, Hachimou Kai
I would like to write from “Kou-Tengenjutsu” to “Purple Douto”, “Sixth Astronomy”, “Koihei Shikai”, “Introduction to Esoteric Astrology”.
In this I is written an encounter with Hong Kong’s famous astrologer, Ms. Huang Shun. Ms. Wata
Without knowing anything about combs, without knowing anything other than being a Japanese religious,
I appraised my destiny.
“Teacher has completely changed his life before and after becoming a religion.
It has been done. This is due to religious deeds and discipline and is a high boundary.
Mano’s fate cannot be inferred from mere fate studies. It is a great thing. Just
What I can do is three new jobs awaiting my teacher. It ’s a big big job,
Although it will be very difficult, the teacher will accomplish each of the three tasks and will be very successful. A word
In other words, the fate of the teacher is magnificent and intense. It is healthy and longevity. ”
And the future of the teacher cannot be guessed by fate studies. Because teachers have their own destiny
It will improve and create. Many people in the world live their lives as prescribed
However, there is a person who creates one’s own destiny. That is a teacher
It is. Therefore, it is impossible to accurately tell the future of the teacher. But that alone is missing
Because it seems to be on the top, I did two or three things about my past. Word
Unfortunately, he was destined to be punished. Everything is right and wat
The comb wrapped his tongue. Ms.’s ability is extraordinary, and if you come to Japan, you will be ranked first-class
I thought it would be. I don’t think there are any divide who can beat a little in Japan now
It was broken.
Ms. Finally,
“Teacher is really a great person. I was really surprised today.
I saw a person who was destined to get out. The teacher has no fate. ”
such as.
I was also impressed by the fact that the past was suitable, but other people can do it. She,
For me, a person without destiny is a divide beyond divination. Once called to Japan
I’m still thinking that I haven’t done it yet. It was an unforgettable encounter. The Esoteric Astrology Trap is
I wrote about the secret of Sangen Kyusei. It was published in 1953 (Showa 53).

 

Frustration in the middle of inenne

No matter what you do, people who have this connection go well until seven or eight minutes street, but one or two more minutes will definitely fail. It never comes true

運命学  家運衰退の因縁  Destiny of fate

運衰退の因縁 この因縁は、家運、つまり家の運気が次第におとろえてきている家系に生まれている人が持つ因縁である。 こういう人は、父、あるいは祖父の代までは、かなりの生活をした家に生れている人が多い。祖父か父の代あたりから、次第に家運が傾いてきている。そうして、自分の代になってからぱ、なお一層はっきりと運が悪くなっている。相当の力量、才能、手腕があるのだが、それを発揮する場を持つことが出来ない。そういうチャンスを持つことが出来ない。そうして、自分よりも劣った者が追い越してゆくのを、みすみす歯ぎしりしながら見送ることになる。 たまにチャンスがめぐって来そうになると、人の妨害、邪魔に遭ったり、或いは自分の思わぬミスや病気などで、せっかくのチャンスを失ってしまう。要するに、一言でいうと運が悪いのである。実力がありながら、妙にめぐり合わせが悪く、ウダツがあがらない。年をとるほど運気がおとろえ、生活が悪くなっていく。 の因縁から出てくるのが、次に掲げる     ちゅうと ざせつ@   中途挫折の因縁 という因縁である。 この因縁を持つ人は、何をやっても、一応、七、八分通りまでは順調に進むが、あともうI、二分というところで必ずダメになる。決して実らないのである。この因縁を、一名、「虚花の命」というのは、「七重八重、花は咲けども山吹の、実のひとつだになきぞ悲しき」という古歌の山吹の花と同様、花咲けども実らず、すべてムダ花であるというところからきているのである。よそ目には華やかに見えて、内実は空しいのである。苦労したあげく、さいごの収穫はごっそりと人に持ってゆかれてしまう。 この因縁を持つ人は、わりあい運気(生命力)の強い人が多く、中途で挫折しては、また立ち上って仕事をし、また七、八分通りで挫折して、そのままになるかと思うとまた立ち上って、また挫折する、というように、七転八起の起伏のはげしい人生を送る人が多い。そうして、結局は、挫折したままで終るのである。 大体、因縁のあらわれ方には二通りあるのであって、その囚縁が、そのままその人の恍格にあらわれている場合と、性格には全然あらわれない場合とがある。 この中途挫折の因縁の場合も、この因縁がそのまま性格にあらわれて、非常に気の弱い意志薄弱の型と、逆に、非常に気のつよい意志強固の型がある。 意志薄弱のタイプは、何をやってもすぐにあきてしまって、ながつづきしない。気うつりがぱげしい。学業、職業、すべてがそうで、転々とする。文字通りの中途挫折、薄志弱行の型である。 もう一つのほうは、これと全く反対で、性格もつよく、意志も強固で、努力家でもある。然るに、かえってその強さが人と相容れず、上の者と衝突したり、同僚と円満に協調出来なかったりして、失敗し、挫折する。あるいは、ここ一番という大事なところで、きまってつまらぬミスをしたり、人の誤解をうけたり、妨害をうけたりする。また、病気や怪我などで手違いが生ずる、というように、必ずなにかしら障害が発生して、チャンスをつぶすのである。 先日、わたくしを訪ねて来た人に、そういう人がめった

 

The cause of fortune decline This cause is fortune, that is, the cause of a person born to a family whose home’s fortune is gradually getting lost. Many of these people are born in homes that have lived a considerable amount of time, up to their fathers or grandfathers. From the time of my grandfather or my father, I am gradually inclined to find good luck. And then, after I became my own, I have become even more clearly unlucky. There is considerable ability, talent, skill, but I can not have a place to demonstrate it. I can not have such a chance. Then, I will see Misa-su-gi-shiri and see that inferior ones overtake me. Occasionally when chances come in, you will lose your chances due to people being disturbed, getting in the way, or having unexpected mistakes or illnesses. In short, in a word, luck is bad. Despite having the ability, it is strange that the meeting is bad and the udadatsu does not rise. As you get older, you will lose your luck and your life will be worse. The reason behind this is that there is the following relationship between China and China. No matter what you do, people who have this connection go well until you get up to 7 or 8 minutes, but I’m sure I can’t do anything in 2 minutes. It never comes true. One of the reasons for this is that “life of a false flower” is “flowered flower” as well as the old flowering flower “Nanabei Yae, flowers are blooming but Yamabuki’s, one of the real sad things”. It all comes from the point of being a waste flower. They look glamorous to the eye, and empty in their own words. After all the hard work, the harvest of the harvest is carried by the people. Many people with this connection have strong luck (life power), and if they get up in the middle, they get up and work again, and if they think that they will get stuck in 7 or 8 minutes and stay as they are. Many rise and fall again and again, and many people live a life of ups and downs of the 7th anniversary. And in the end, it ends with frustration. In general, there are two ways in which the relation appears, and there are cases in which the relation is shown in the standard of the person as it is or in the case where it does not appear at all in the character. Also in the case of the cause of this frustration, the cause of the failure appears as it is, and there is a very weak will and weak type, and conversely, a very vicious and strong type. The type of will weakness does not last much after giving up immediately after doing anything. I feel so upset. Academics, occupations, everything is so, it turns around. It is literally a confusing, weak and weak type. The other one is completely opposite to this one, well-charactered, well-willed, and a hard worker. However, their strength is not compatible with people, they collide with their superiors, and they can not coordinate well with their colleagues, and they fail and frustrate. Or, in the most important places here, I make sloppy mistakes, get misunderstood by people, or get disturbed. In addition, there is always some kind of failure, such as a failure caused by a disease or injury, and the chance is broken. The other day, to the person who visited me, such a person met

運命学 

人はどんな因縁を持つか これから、人の持つ因縁について解説するが、それでは、そういう因縁というものが、どうして人間にあるのか、ここでは、あるからある、というよりほかない。強いて聞かれるならば、それならあなたはどうしてそういう顔をしているのであるかと聞かれた場合、あなたは何と答えるか? こういう顔をして生れてきたのだから、こういう顔をしているのである、とでも答えるはかないではないか。原因はともあれ、人間は、それぞれ様々な因縁を持って生れて来、様々な因縁を持って生きているのである。その因縁という現象を分析、解説してみよう。理屈は抜きにして、一読するならば、必ず、思いあたることがあろう。卵が先に生じたのか、鶏が先に生じたのか、それを知らなくても、卵を食べ、鶏肉を賞味するにはこと欠かぬのである。詳しくはあとの方で説明する。ここでは、まず、人間が誰でも持っている「因縁」の種類についてのべよう。      かうんすいたい0  家運衰退の因縁 この因縁は、家運、つまり家の運気が次第におとろえてきている家系に生まれている人が持つ因縁である。 こういう人は、父、あるいは祖父の代までは、かなりの生活をした家に生れている人が多い。祖父か父の代あたりから、次第に家運が傾いてきている。そうして、自分の代になってからぱ、なお一層はっきりと運が悪くなっている。相当の力量、才能、手腕があるのだが、それを発揮する場を持つことが出来ない。そういうチャンスを持つことが出来ない。そうして、自分よりも劣った者が追い越してゆくのを、みすみす歯ぎしりしながら見送ることになる。 たまにチャンスがめぐって来そうになると、人の妨害、邪魔に遭ったり、或いは自分の思わぬミスや病気などで、せっかくのチャンスを失ってしまう。要するに、一言でいうと運が悪いのである。実力がありながら、妙にめぐり合わせが悪く、ウダツがあがらない。年をとるほど運気がおとろえ、生活が悪くなっていく。 の因縁から出てくるのが、次に掲げる     ちゅうと ざせつ@   中途挫折の因縁 という因縁である。 この因縁を持つ人は、何をやっても、一応、七、八分通りまでは順調に進むが、あともうI、二分というところで必ずダメになる。決して実らないのである。この因縁を、一名、「虚花の命」というのは、「七重八重、花は咲けども山吹の、実のひとつだになきぞ悲しき」という古歌の山吹の花と同様、花咲けども実らず、すべてムダ花であるというところからきているのである。よそ目には華やかに見えて、内実は空しいのである。苦労したあげく、さいごの収穫はごっそりと人に持ってゆかれてしまう。 この因縁を持つ人は、わりあい運気(生命力)の強い人が多く、中途で挫折しては、また立ち上って仕事をし、また七、八分通りで挫折して、そのままになるかと思うとまた立ち上って、また挫折する、というように、七転八起の起伏のはげしい人生を送る人が多い。そうして、結局は、挫折したままで終るのである。 大体、因縁のあらわれ方には二通りあるのであって、その囚縁が、そのままその人の恍格にあらわれている場合と、性格には全然あらわれない場合とがある。 この中途挫折の因縁の場合も、この因縁がそのまま性格にあらわれて、非常に気の弱い意志薄弱の型と、逆に、非常に気のつよい意志強固の型がある。 意志薄弱のタイプは、何をやってもすぐにあきてしまって、ながつづきしない。気うつりがぱげしい。学業、職業、すべてがそうで、転々とする。文字通りの中途挫折、薄志弱行の型である。 もう一つのほうは、これと全く反対で、性格もつよく、意志も強固で、努力家でもある。然るに、かえってその強さが人と相容れず、上の者と衝突したり、同僚と円満に協調出来なかったりして、失敗し、挫折する。あるいは、ここ一番という大事なところで、きまってつまらぬミスをしたり、人の誤解をうけたり、妨害をうけたりする。また、病気や怪我などで手違いが生ずる、というように、必ずなにかしら障害が発生して、チャンスをつぶすのである。 先日、わたくしを訪ねて来た人に、そういう人がめった。 四十七、八歳の会社員で、立派な人物であったが、この人に、この因縁があったのであ る。聞いてみると、今までに八回も勤め先を変えているという。意志強固の努力家型だが、と思って聞いてみると、この人は、一流の財閥会社に勤めているのだが、系列の子会社に出向させられると、その会社は、きまって、他に合併したり、業績不振で閉鎖させられてしまうのである。本社にもどると、同期の社員で本社に居たままの者はかなり上の方に進んでおり、処遇に困るので、また傍系の会社に出向重役として出される。するとまた、その会社がおかしくなる、というわけで、今までがその繰り返しだったというのだ。 念のためにいうが、それは、この人の経営の腕が悪いために、この人が行った会社がみんなダメになるというのではないのである(手腕という点からいえば、むしろ人並み以上の手腕を持っているのである)。この人が行っても行かなくても、その会社はダメになるのである。そういう会社に、この人は行かねばならぬような廻り合わせになってしまうのだ。今度の会社もおかしくなってきているので、相談に来たのです、というのだが、典型的な中途挫折の因縁のあらわれかたであった。 薄志弱行タイプの場合は、すぐにあきたり、気移りしたりして白分から会社を転々とするが、意志強固タイプの場合は、自分でぱ一心に努力をして会社を変わるつもりはさらさらないのだが、他動的に転々と変わらざるを得ないようになってしまうのである。その人のか字心、思劣、心構えなどに関係なく、結果は結尚おなじことになが、因縁というものの、こわいところである。精神一到何小か成さざ‘ら人や、と気胆劣てみたところで、この因縁を持っていては、所詮、ダメなのだ。外的条件が許さないのである。つねに転々として挫折する。 昔から、よく、「人間には誰でも一生に三度はチャンスがある」といわれているが、運のないでも三度はチャンスがあるかわり、運のある者でも、三度以上そう何回もあるものではない。人生ここ一番というチャンスを二、三度この因縁でつぶされてしまったら、もうその人間は一生芽が出ないものと思わねばなるまい。そうして、この因縁のこわいところは、この因縁は必ずその子に遺伝し、その場合、きまって親よりその子のほうが一段と因縁の度を深めて悪くなってゆくことにあるのだ。 この中途挫折の因縁が、そのようにして一段と強くなった場合、 運気不定・浮沈の因縁という因縁になる。 これは、運気に根が生じないので、そのため、浮沈変転してとどまらないのである。 いわば、根無し草の人生である。居住、職業が定まらず、転々とする。一時的に幸運を得ることがあっても、永続しない。一生、ホームレスか、それに近い境界となる。 女性の場合、ちゃんとした結婚生活をつづけることが出来ない。再婚、三婚し、しかしいくら結婚を繰り返しても、決して安定した夫婦生活を持つことは出来ない。 「色情の因縁」のある場合は、不倫の関係に陥ったり、あるいは売春をする悲惨な因縁である。 o  肉親血縁相剋の因縁 これも、根本は、家運衰退の因縁から出てきているものである。 この因縁は、肉親の者同士、血縁の者同士が、たがいに運気生命力を損ねあい、傷つけあって分散してゆくのである。 毛利元就の「三本の矢」の教訓を逆にいって、おたがいに助けあい、協力しあってゆくべき肉親血縁の者が、離散し、孤立して、次第に没落してゆく。 まさに、家運衰退のあらわれである。この因縁があると、同居している親子、兄弟など、血縁の噺が、年中不和で詐が絶えない。これは、血縁の者同士でお互いの運気(生命力)を損ねあい、傷つけあっているので、無意識のうちに反発しあって争うのである。この場合、運気を傷つけあうといっても、必ずしも表面立って争いをするとは限らない。ただ同じ屋根の下に住んでいるというだけで、相手の運気(生命力)を損ねるのである。それはちょうど、何か目に見えない光線のようなものを放射しあって、相手の生命力を傷つけるように思われる。人間の生命というものは、自分を守るという自衛本能を持っているから、その本能がはたらいて、無意識のうちに生命力を結集して相手に反発する。その結果として、相手の何でもないような動作や一言一句が非常に気にさわる(神経が立っているので)。そこで静が始まるのである。肉親同士で異常に仲が悪いのぱこのためである。それに加えて財産などの利害関係がからむと、非常に深刻な争いに進展してゆく。 この因縁のある家庭で、もし、同居の肉親同士が不和でなければ、家族の中に誰か一人、年中病気で苦しむ者か、極端に不運で運の開かぬ不遇の者が必ず出る。 相当の才能、手腕がありながら、常にチャンスを逸したり、チャンスに恵まれない不遇の人、あるいは長年病弱の人は、前記の「中途挫折の因縁」か、または、この「肉親血縁相剋の因縁」によって運気(生命力)を剋害されているのではないかを疑ってみるべきである。どちらかの因縁があったら、それを断ち切らぬ限り、いくら努力しても一生空転するばかりなのだ。 この因縁を持つ人、(あるいはこの因縁のある家系)には、必ず、といっていいほど、霊的な障害がある。つまり、三代か四代前に、その家(またぱ人)を強く恨んで亡くなった怨念のホトヶがいるのである。 また、横変死した人の霊障を受けている場食がほとんどである。 前に述べた「家運衰退の因縁」、「中途挫折の因縁」、「運気不定・浮沈の因縁」は、いずれも霊障のホトヶより生じていることが多い。 この霊障を解かぬかぎり、この因縁は、何代でもつづく。 成仏法によって、霊障のホトヶを解脱成仏させる以外に方法がないのである。 子の運気剋する因縁 これは、肉親血縁相剋の因緑ので、親がわが子の命力のである。そのなめ、子供は年中病弱となる。あるいは不具として生まれたり、不具者となったりすたいていは十歳くらいまでに死亡する。 もし、その子が非常に生命力が強ければ、素行が生命れるようになって、幼少にして、家を飛び出す。これは親のそばにいると生命力を削られて、危険なので親のもとを飛び出すようになるのである(もちろん、本人はそのことを知らないがI)。 最近、少年少女の非行問題についていろいろと対策が練られようとしているが、世の親は、こういう因縁のあることに気がついて欲しい。 因縁なんて迷信じやないかなどとバカげたことをいっていないで、自分白身にそういうものがないかどうか、よくよく考えてもらいたい。 父親にしても母親にしても、この因縁があると、子供が必ず異常に反抗する。もちろん、子供の成長期間中に反抗期という期があることは事実だが、この因縁による反抗は異常なのである。これは、前記の肉親血縁相剋の因縁の場合と同じように、自分の生命力を侵害してくるものに対して自衛本能がはたらき、我が生命力を結集して反撃しようとするゆえに一言一句、ことごとく反抗反発するのだ。わが身を守るかわいそうな姿なのである。 私は、いつも、この因縁をもつ親と子を見ると、毛をさか立てキバをむき出して、敵に噛みつこうと必死になっている仔犬の姿を思い出す。 成功者の家庭に素行不良の子がわりに多いのは、他に原因はあるけれども、運気のつよい親はえてしてその運気のつよさが同時に子を剋する因縁をも伴ないやすいため、そういう結果を生じやすいのである。 素行不良の子を持つ親、異常に親の言うことをきかぬ子を持つ親は、根本的な対策の一つとしてこの因縁の有無をまず調べてみよ。この因縁がなければ比較的容易に直るが、この因縁あるかぎり、絶対に直らぬのである。 この因縁は水子の霊障から生じていることが多い。 逆恩の因縁  これは恩を倣で返す因縁である。 これも家運衰退の因縁に根ざすものである。 要するに恩を受けた人(主人,師,上長,取引先、先輩など)をだましだに傷つけたり、とにかく相小に何かしらもその出が刑獄の囚縁を併せ持っていたなら)殺して金品を奪らたりする。そこまでいかなくとも必ず恩義のある人を裏切りそむく。 因縁というものは、必ずしも性格的なものとは限っておらぬので、「恩を仇で返す因縁」を待った者が必ずしも恩を仇で返すような性格を持っているとぱ限らない。中途挫折の因縁を持っている者が必ずしも薄志弱行型の性格を持っているとは限らぬ、と先に書いた通りである(もちろん、持っている因縁がそのままその人の性格になっている人もかず多いが)。 この逆恩の因縁の場合も、性格としては、恩を仇で返すというようなものと反対に、一心に恩義にむくいようとする心がけを持っていて、そのように努力をしながら、かえって結果的には、その恩義を仇にして返すようなことになってしまうことがよくある。例えば、主人(会社)に忠実で一心に尽くすのだが、それがかえって主人(会社)のためにならぬような結果を生む。努力してお得意や取引先をつくると、その取引先が何千万、何億円という不渡り手形を出したり、倒産してしまったりして、主人(会社)に大きな迷惑をかけてしまう、というようなことになる。 女性が持つ因縁である。 という句があ乙が、感心させられる。 大体、自分にとって恩義のある人というのは、自分に好意を待ち、あるいは信用して、自分を引き立て、力になってくれる人である。こういう相手に、無意識とはいえそういう損害をあたえたり、そむいたりするということは、自分で自分の手足をもぐことである。自分の有力な味方を失うことになる。そこで孤立無援となり、人生の失敗者となってゆく。 人を使う人、使われる人も、ともにこの因縁には注意が必要である。 夫の運気を剋害する因縁 夫の運気(生命力)を目に見えぬ力で損ね、削る。といっても、必ずしも、日常生活において夫を尻の下に敷いたり、夫を虐待するというのではない。もちろん、そういう場合もないことはないが、前にも書いたように、因縁というものは性格にあらわれる場合と性格にまったくあらわれぬ場合とがある。この因縁の場合もその通りで、むしろこの因縁を持つ女性はマメマメしく夫につかえる良妻賢母型に多いので始末に困る。江戸川柳に、 「次の間で毒が薬を煎じてる」 この句の意味は、亭主が年中病弱で寝ている、その家をたずねてみると、亭主の寝ている次の部屋で、若い美しい妻君が、甲斐々々しく薬を煎じている。しかし実際は、この美しい妻君が病身の亭主にとっては毒なのだ、というところから、妻君が薬を煎じているのを、毒が薬を、と皮肉っているわけである。 この因縁を持つ女性を妻に持つと、その夫は年中病弱となるか、または仕事がうまくいかず、年中失敗したり、渋潜しがちとなる。生命力を削られるところから、運が非常に悪くなるのである。いかに才能、手腕があろうとも、必ず何か一つの不運につきまとわれる。妻君が一心につかえればつかえるほど、夫の運気が悪くなるのであるから厄介である。 世間によくあることだが、立派な妻君を待った夫が、他に女性を作り、その女性よりも妻君のほうがはるかに容色も頭もすぐれているので人が不思議がる例がある。これは、妻君のほうに、この、夫の運気を剋する因縁があるために、夫が、生命力自衛の本能から、無意識に妻君に反発して、そういう因縁のない運気のおだやかな女性を求め、逃避するためなのである。  中年になってそういうことがよく起こるのは、もちろん、中年代で経済的に余裕が出来たり、妻君の容色が衰えてきたということも理由の一つにはなるが、根本的には、若いうちは、夫のほうも生命力がつよいので妻の運気剋害にも平気で耐えられているから、それほど感じないが、年をとるにつれて生命力が弱り、憩いの場が欲しくなってくるのである。 この因縁の強いものをもつ女性が、いわゆる「後家運」と呼ばれるもので、色情の因縁のある夫は、前記したように他の女性に逃避し、色情の因縁のない夫は、趣味に逃避したり、仕事に没頭したりして、冷たい家庭となる。 もし、生命力の弱い夫であったら、死んでしまう。すなわち、後家運と呼ばれる所以である。女性としてしあわせな家庭を持とうと思ったら、まず切らねばならぬ因縁である。   夫婦縁障害の因縁 夫婦縁、結婚生活に障害が起きる因縁である。 なんとなくお互いに性格が合わず、年中不満を待ちあってゴタゴタが絶えず、冷たい家庭になる。 または、お斤いに愛情はあるのだが、どちらかが病気になって別川をよぎなくされる、とか、什事の関係で別れ別れに住むことになる。シュウトなどの関係で夫婦仲がうまくいかぬ、など、とにかく、愛情の有無にかかわらず、結果的に夫婦仲がうまくいかない。離婚してしまうというところまではいかぬが、とにかく、年中その一歩手前までいってゴタゴタしているのである。 ‐夫婦縁破れる因縁 この因縁を持っている人は、男女とも、必ず生別か死別をまぬがれない。生別となるか死別となるか、は、相手方の生命力の強弱による。 けいごく刑獄の因縁凶運の時に、必ず刑事事件を起こして、刑務所につながれることになる因縁である。たいてい他の悪い因縁をあわせ持っていて、それらの悪い因縁とからみ合って起きるのせなければ、必ずこの因縁の結果通りとなる。縁者でなく、他人のホトヶであることも少なからずある。 脳障害の因縁 この因縁は、精神病の場合と、精神病でない頭部の障害、の二種に分けられる。 すなわち、精神病(ノイローゼ、脳梅毒など)と、頭部の怪我、または脳溢血、脳軟化症等の病気で、程度の0 い因縁の人ぱ年中、頭痛、肩こり、不眠症などに悩まされる。 肉体障害の因縁をあわせ持つ人は、脳溢血から中気になったり、頭の負傷で手足がきかなくなったりする。脳性小児マヒなどもこの因縁のあらわれである。 二重人格の因縁前記の脳障害の因縁の系列に入る因縁に、この二重人格の因縁がある。酒を呑むと、ガラリと人が変わってしまって、全く別人のようになってしまう。 酒乱はこの円縁である。表而意識がアルコールで麻玲すると、遺伝している潜在意識や深層意識が浮かび出て、別の性格が入れかわって出て来るのである。異常性格・同性愛などもこの因縁である。 この因縁は、家運衰退の因縁にも深い関連があり、二、三代前の縁者で、非常に不幸な、恵まれない死に方をした人か、あるいは、他人で、その家に非常な怨念を抱いて死んだ者のいることが特徴である。 癌の因縁胃ガン、子宮ガンなど、この因縁を持つ人は必ず癌になる。循環器系統障害の因縁心臓、腎臓、肝臓等の循環器系に故障を起こす因縁である。 色情の因縁 男女が、異性(同性の場合もある)によって苦しんだり傷ついたりする因縁である。これは、家運衰退の因縁のもととなる因縁である。 また、夫、妻が、その配偶者の色情のトラブルで苦しめられる場合も、色情の因縁があるということになる。 へんぎよう偏業の因縁 職業の上にあらわれる因縁である。 この因縁を持つ人は、宗教家、芸術家、芸能人、裁判官、水商売などが適する。そのどれがよいかは、別の因縁とも照らしあわせてみる必要があるが、とにかくこの因縁のある人は、これらの職業以外につくと絶対に芽が出ない。つまり、適性ということに関係してくるわけだが、そういうことをふくんだ上で、運命的にその職業以外では伸びない、ということである。 職業の適性ということは非常に重大なことで、それゆえに、いろいろな適性検査などが考案されているわけだが、適業、適性、というものは、因縁的に決定されているのである。 人の職業は、大づかみにいって、技術系(生産事業、技術者)、営業系(販売事業、営業、商人)、組織系(官公吏、政治家)の三種に分けられるが、人はみな、それぞれの系列に向く因縁と向かぬ因縁を持っており、向かぬ職業に就いた場合、絶対に芽が出ぬものであるから、注意して選択しないと生涯の不幸となる。 財運・水の因縁  財運がめって、お金は人より何倍も多く入ってくるが、水のように流れ出してしまって、身にっかない。 無理に溜めようとすると、自分が病気になったり、家族が病気になったりする。これは、水の財運で、水というものは、流動しているかぎり腐敗せず、きれいである。溜まり水ぱ必ず濁り、腐敗する。それと同じで、この因縁を持つ人は、常にお金が流れ動いて身につ かぬのである。無理にお金を溜めると、腐敗現象が起きて、家族に病人やヶが人が出たり人にだまされたりして、全部、お金が出て行ってしまう。  頭領運の因縁人の上に立つ因縁である。この因縁をもつ人は、必ず、大なり小なり人の上に立って、人の頭領となる。但し、この頭領運に二種類めって、純然たる頭領運と、組織内の頭領運とに分けられる、純然たる頭領運は、だいたい創業者として成功する。組織内の頭領運は、専務、部長という一分野の首長で終わる。 頭領運はよい因縁の部類に入るが、反面、孤独運を待ち、晩年は家庭的に不幸になりやすい。 頭領運のない人は、自ら頭領になると必ず失敗する。よき頭領運の人をえらんで、次位に甘んじ、よく補佐をすることに専念するがよい。それが、自分の才能、手腕を十二分に発揮し得る最良の道である。野心を持って自分がその位置に就くと、物事渋滞して苦労ばかり多く、必ず失敗するのである。  子縁うすい因縁 子供との縁がうすい因縁である。 この因縁があると、子供が生れないか、生れても、五、六歳になるまでに死んでしまう。また、自分の実子と縁がうすいだけではなく、養子をもらっても、この因縁ある限りうまくいかない。その養子の運気(生命力)が強ければ衝突して出て行ってしまうし、生命力が弱ければ死んでしまうのである。   産厄の因縁 出産に際して、難産で苦しむ因縁である。衰運の時期で生命力が弱っている時にあたると、死ぬ恐れがある。水子の霊障や、難産で死んだ縁者の霊障のあることが多い。

人はどんな因縁を持つか

人はどんな因縁を持つか

 

人はどんな因縁を持つか

人はどんな因縁を持つか
これから、人の持つ因縁について解説するが、それでは、そういう因縁というものが、どうして人間にあるのか、ここでは、あるからある、というよりほかない。強いて聞かれるならば、それならあなたはどうしてそういう顔をしているのであるかと聞かれた場合、あなたは何と答えるか? こういう顔をして生れてきたのだから、こういう顔をしているのである、とでも答えるはかないではないか。原因はともあれ、人間は、それぞれ様々な
因縁を持って生れて来、様々な因縁を持って生きているのである。その因縁という現象を分析、解説してみよう。理屈は抜きにして、一読するならば、必ず、思いあたることがあ
ろう。卵が先に生じたのか、鶏が先に生じたのか、それを知らなくても、卵を食べ、鶏肉を賞味するにはこと欠かぬのである。詳しくはあとの方で説明する。ここでは、まず、人間が誰でも持っている「因縁」の種類についてのべよう。

かうんすいたい

 家運衰退の因縁
この因縁は、家運、つまり家の運気が次第におとろえてきている家系に生まれている人が持つ因縁である。
こういう人は、父、あるいは祖父の代までは、かなりの生活をした家に生れている人が多い。祖父か父の代あたりから、次第に家運が傾いてきている。そうして、自分の代になってからぱ、なお一層はっきりと運が悪くなっている。相当の力量、才能、手腕があるのだが、それを発揮する場を持つことが出来ない。そういうチャンスを持つことが出来ない。そうして、自分よりも劣った者が追い越してゆくのを、みすみす歯ぎしりしながら見送ることになる。
たまにチャンスがめぐって来そうになると、人の妨害、邪魔に遭ったり、或いは自分の思わぬミスや病気などで、せっかくのチャンスを失ってしまう。要するに、一言でいうと運が悪いのである。実力がありながら、妙にめぐり合わせが悪く、ウダツがあがらない。年をとるほど運気がおとろえ、生活が悪くなっていく。の因縁から出てくるのが、次に掲げる
ちゅうと ざせつ
中途挫折の因縁
という因縁である。
この因縁を持つ人は、何をやっても、一応、七、八分通りまでは順調に進むが、あともう一、二分というところで必ずダメになる。決して実らないのである。この因縁を、一名、「虚花の命」というのは、「七重八重、花は咲けども山吹の、実のひとつだになきぞ悲しき」という古歌の山吹の花と同様、花咲けども実らず、すべてムダ花であるというところからきているのである。よそ目には華やかに見えて、内実は空しいのである。苦労したあげく、さいごの収穫はごっそりと人に持ってゆかれてしまう。
この因縁を持つ人は、わりあい運気(生命力)の強い人が多く、中途で挫折しては、また立ち上って仕事をし、また七、八分通りで挫折して、そのままになるかと思うとまた立ち上って、また挫折する、というように、七転八起の起伏のはげしい人生を送る人が多い。
そうして、結局は、挫折したままで終るのである。大体、因縁のあらわれ方には二通りあるのであって、その囚縁が、そのままその人の恍格にあらわれている場合と、性格には全然あらわれない場合とがある。
この中途挫折の因縁の場合も、この因縁がそのまま性格にあらわれて、非常に気の弱い意志薄弱の型と、逆に、非常に気のつよい意志強固の型がある。
意志薄弱のタイプは、何をやってもすぐにあきてしまって、ながつづきしない。気うつりがぱげしい。学業、職業、すべてがそうで、転々とする。文字通りの中途挫折、薄志弱行の型である。
もう一つのほうは、これと全く反対で、性格もつよく、意志も強固で、努力家でもある。
然るに、かえってその強さが人と相容れず、上の者と衝突したり、同僚と円満に協調出来なかったりして、失敗し、挫折する。あるいは、ここ一番という大事なところで、きまっ
てつまらぬミスをしたり、人の誤解をうけたり、妨害をうけたりする。また、病気や怪我などで手違いが生ずる、というように、必ずなにかしら障害が発生して、チャンスをつぶすのである。
先日、わたくしを訪ねて来た人に、そういう人がめった。
四十七、八歳の会社員で、立派な人物であったが、この人に、この因縁があったのである。聞いてみると、今までに八回も勤め先を変えているという。意志強固の努力型だが、と思って聞いてみると、この人は、一流の財閥会社に勤めているのだが、系列の子会社に出向させられると、その会社は、きまって、他に合併したり、業績不振で閉鎖させられてしまうのである。本社にもどると、同期の社員で本社に居たままの者はかなり上の方に進んでおり、処遇に困るので、また傍系の会社に出向重役として出される。するとまた、その会社がおかしくなる、というわけで、今までがその繰り返しだったというのだ。
念のためにいうが、それは、この人の経営の腕が悪いために、この人が行った会社がみんなダメになるというのではないのである(手腕という点からいえば、むしろ人並み以上の手腕を持っているのである)。この人が行っても行かなくても、その会社はダメになるのである。そういう会社に、この人は行かねばならぬような廻り合わせになってしまうのだ。
今度の会社もおかしくなってきているので、相談に来たのです、というのだが、典型的な中途挫折の因縁のあらわれかたであった。薄志弱行タイプの場合は、すぐにあきたり、気移りしたりして白分から会社を転々とするが、意志強固タイプの場合は、自分でぱ一心に努力をして会社を変わるつもりはさらさらないのだが、他動的に転々と変わらざるを得ないようになってしまうのである。その人のか字心、思劣、心構えなどに関係なく、結果は結尚おなじことになが、因縁というものの、こわいところである。精神一到何小か成さざ‘ら人や、と気胆劣てみたところで、この因縁を持っていては、所詮、ダメなのだ。外的条件が許さないのである。つねに転々として挫折する。
昔から、よく、「人間には誰でも一生に三度はチャンスがある」といわれているが、運のないでも三度はチャンスがあるかわり、運のある者でも、三度以上そう何回もあるものではない。人生ここ一番というチャンスを二、三度この因縁でつぶされてしまったら、もうその人間は一生芽が出ないものと思わねばなるまい。そうして、この因縁のこわいところは、この因縁は必ずその子に遺伝し、その場合、きまって親よりその子のほうが一段と因縁の度を深めて悪くなってゆくことにあるのだ。
この中途挫折の因縁が、そのようにして一段と強くなった場合、

運気不定・浮沈の因縁
という因縁になる。
これは、運気に根が生じないので、そのため、浮沈変転してとどまらないのである。
いわば、根無し草の人生である。居住、職業が定まらず、転々とする。一時的に幸運を得ることがあっても、永続しない。一生、ホームレスか、それに近い境界となる。
女性の場合、ちゃんとした結婚生活をつづけることが出来ない。再婚、三婚し、しかしいくら結婚を繰り返しても、決して安定した夫婦生活を持つことは出来ない。
「色情の因縁」のある場合は、不倫の関係に陥ったり、あるいは売春をする悲惨な因縁である。

肉親血縁相剋の因縁
これも、根本は、家運衰退の因縁から出てきているものである。
この因縁は、肉親の者同士、血縁の者同士が、たがいに運気生命力を損ねあい、傷つけあって分散してゆくのである。
毛利元就の「三本の矢」の教訓を逆にいって、おたがいに助けあい、協力しあってゆくべき肉親血縁の者が、離散し、孤立して、次第に没落してゆく。
まさに、家運衰退のあらわれである。
この因縁があると、同居している親子、兄弟など、血縁の噺が、年中不和で詐が絶えない。これは、血縁の者同士でお互いの運気(生命力)を損ねあい、傷つけあっているので、無意識のうちに反発しあって争うのである。この場合、運気を傷つけあうといっても、必ずしも表面立って争いをするとは限らない。ただ同じ屋根の下に住んでいるというだけで、
相手の運気(生命力)を損ねるのである。それはちょうど、何か目に見えない光線のようなものを放射しあって、相手の生命力を傷つけるように思われる。人間の生命というものは、自分を守るという自衛本能を持っているから、その本能がはたらいて、無意識のうちに生命力を結集して相手に反発する。その結果として、相手の何でもないような動作や一言一句が非常に気にさわる(神経が立っているので)。そこで静が始まるのである。肉親同士で異常に仲が悪いのぱこのためである。それに加えて財産などの利害関係がからむと、
非常に深刻な争いに進展してゆく。
この因縁のある家庭で、もし、同居の肉親同士が不和でなければ、家族の中に誰か一人、年中病気で苦しむ者か、極端に不運で運の開かぬ不遇の者が必ず出る。
相当の才能、手腕がありながら、常にチャンスを逸したり、チャンスに恵まれない不遇の人、あるいは長年病弱の人は、前記の「中途挫折の因縁」か、または、この「肉親血縁相剋の因縁」によって運気(生命力)を剋害されているのではないかを疑ってみるべきで
ある。どちらかの因縁があったら、それを断ち切らぬ限り、いくら努力しても一生空転するばかりなのだ。この因縁を持つ人、(あるいはこの因縁のある家系)には、必ず、といっていいほど、霊
的な障害がある。つまり、三代か四代前に、その家(またぱ人)を強く恨んで亡くなった怨念のホトヶがいるのである。
また、横変死した人の霊障を受けている場食がほとんどである。
前に述べた「家運衰退の因縁」、「中途挫折の因縁」、「運気不定・浮沈の因縁」は、いず
れも霊障のホトヶより生じていることが多い。
この霊障を解かぬかぎり、この因縁は、何代でもつづく。
成仏法によって、霊障のホトヶを解脱成仏させる以外に方法がないのである。

子の運気剋する因縁
これは、肉親血縁相剋の因緑ので、親がわが子の命力のである。そのな
め、子供は年中病弱となる。あるいは不具として生まれたり、不具者となったりす
たいていは十歳くらいまでに死亡する。
もし、その子が非常に生命力が強ければ、素行が生命れるようになって、幼少にして、家を飛び出す。これは親のそばにいると生命力を削られて、危険なので親のもとを飛び出す
ようになるのである(もちろん、本人はそのことを知らないがI)。
最近、少年少女の非行問題についていろいろと対策が練られようとしているが、世の親
は、こういう因縁のあることに気がついて欲しい。
因縁なんて迷信じやないかなどとバカげたことをいっていないで、自分白身にそういうものがないかどうか、よくよく考えてもらいたい。
父親にしても母親にしても、この因縁があると、子供が必ず異常に反抗する。もちろん、子供の成長期間中に反抗期という期があることは事実だが、この因縁による反抗は異常なのである。これは、前記の肉親血縁相剋の因縁の場合と同じように、自分の生命力を
侵害してくるものに対して自衛本能がはたらき、我が生命力を結集して反撃しようとする
ゆえに一言一句、ことごとく反抗反発するのだ。わが身を守るかわいそうな姿なのである。
私は、いつも、この因縁をもつ親と子を見ると、毛をさか立てキバをむき出して、敵に噛みつこうと必死になっている仔犬の姿を思い出す。
成功者の家庭に素行不良の子がわりに多いのは、他に原因はあるけれども、運気のつよい親はえてしてその運気のつよさが同時に子を剋する因縁をも伴ないやすいため、そういう結果を生じやすいのである。
素行不良の子を持つ親、異常に親の言うことをきかぬ子を持つ親は、根本的な対策の一つとしてこの因縁の有無をまず調べてみよ。この因縁がなければ比較的容易に直るが、この因縁あるかぎり、絶対に直らぬのである。この因縁は水子の霊障から生じていることが多い。

逆恩の因縁

これは恩を倣で返す因縁である。
これも家運衰退の因縁に根ざすものである。
要するに恩を受けた人(主人,師,上長,取引先、先輩など)をだましだに傷つけ
たり、とにかく相小に何かしらもその出が刑獄の囚縁
を併せ持っていたなら)殺して金品を奪らたりする。そこまでいかなくとも必ず恩義のある人を裏切りそむく。
因縁というものは、必ずしも性格的なものとは限っておらぬので、「恩を仇で返す因縁」を待った者が必ずしも恩を仇で返すような性格を持っているとぱ限らない。中途挫折の因縁を持っている者が必ずしも薄志弱行型の性格を持っているとは限らぬ、と先に書いた通
りである(もちろん、持っている因縁がそのままその人の性格になっている人もかず多いが)。
この逆恩の因縁の場合も、性格としては、恩を仇で返すというようなものと反対に、一
心に恩義にむくいようとする心がけを持っていて、そのように努力をしながら、かえって結果的には、その恩義を仇にして返すようなことになってしまうことがよくある。例えば、
主人(会社)に忠実で一心に尽くすのだが、それがかえって主人(会社)のためにならぬような結果を生む。努力してお得意や取引先をつくると、その取引先が何千万、何億円という不渡り手形を出したり、倒産してしまったりして、主人(会社)に大きな迷惑をかけてしまう、というようなことになる。
大体、自分にとって恩義のある人というのは、自分に好意を待ち、あるいは信用して、
自分を引き立て、力になってくれる人である。こういう相手に、無意識とはいえそういう損害をあたえたり、そむいたりするということは、自分で自分の手足をもぐことである。
自分の有力な味方を失うことになる。そこで孤立無援となり、人生の失敗者となってゆく。
人を使う人、使われる人も、ともにこの因縁には注意が必要である。

夫の運気を剋害する因縁
夫の運気(生命力)を目に見えぬ力で損ね、削る。といっても、必ずしも、日常生活において夫を尻の下に敷いたり、夫を虐待するというのではない。もちろん、そういう場合もないことはないが、前にも書いたように、因縁というものは性格にあらわれる場合と性格にまったくあらわれぬ場合とがある。この因縁の場合もその通りで、むしろこの因縁を
持つ女性はマメマメしく夫につかえる良妻賢母型に多いので始末に困る。江戸川柳に、
「次の間で毒が薬を煎じてる」
この句の意味は、亭主が年中病弱で寝ている、その家をたずねてみると、亭主の寝ている次の部屋で、若い美しい妻君が、甲斐々々しく薬を煎じている。しかし実際は、この美しい妻君が病身の亭主にとっては毒なのだ、というところから、妻君が薬を煎じているのを、毒が薬を、と皮肉っているわけである。
この因縁を持つ女性を妻に持つと、その夫は年中病弱となるか、または仕事がうまくい
かず、年中失敗したり、渋潜しがちとなる。生命力を削られるところから、運が非常に悪くなるのである。いかに才能、手腕があろうとも、必ず何か一つの不運につきまとわれる。
妻君が一心につかえればつかえるほど、夫の運気が悪くなるのであるから厄介である。
世間によくあることだが、立派な妻君を待った夫が、他に女性を作り、その女性よりも妻君のほうがはるかに容色も頭もすぐれているので人が不思議がる例がある。これは、妻君のほうに、この、夫の運気を剋する因縁があるために、夫が、生命力自衛の本能から、無意識に妻君に反発して、そういう因縁のない運気のおだやかな女性を求め、逃避するためなのである。

中年になってそういうことがよく起こるのは、もちろん、中年代で経済的に余裕が出来たり、妻君の容色が衰えてきたということも理由の一つにはなるが、根本的には、若いうちは、夫のほうも生命力がつよいので妻の運気剋害にも平気で耐えられているから、それほど感じないが、年をとるにつれて生命力が弱り、憩いの場が欲しくなってくるのである。
この因縁の強いものをもつ女性が、いわゆる「後家運」と呼ばれるもので、色情の因縁のある夫は、前記したように他の女性に逃避し、色情の因縁のない夫は、趣味に逃避したり、仕事に没頭したりして、冷たい家庭となる。
もし、生命力の弱い夫であったら、死んでしまう。すなわち、後家運と呼ばれる所以である。女性としてしあわせな家庭を持とうと思ったら、まず切らねばならぬ因縁である。

夫婦縁障害の因縁
夫婦縁、結婚生活に障害が起きる因縁である。
なんとなくお互いに性格が合わず、年中不満を待ちあってゴタゴタが絶えず、冷たい家庭になる。
または、お斤いに愛情はあるのだが、どちらかが病気になって別川をよぎなくされる、とか、什事の関係で別れ別れに住むことになる。シュウトなどの関係で夫婦仲がうまくいかぬ、など、とにかく、愛情の有無にかかわらず、結果的に夫婦仲がうまくいかない。離婚してしまうというところまではいかぬが、とにかく、年中その一歩手前までいってゴタゴタしているのである。

‐夫婦縁破れる因縁
この因縁を持っている人は、男女とも、必ず生別か死別をまぬがれない。生別となるか
死別となるか、は、相手方の生命力の強弱による。

けいごく
刑獄の因縁
凶運の時に、必ず刑事事件を起こして、刑務所につながれることになる因縁である。
たいてい他の悪い因縁をあわせ持っていて、それらの悪い因縁とからみ合って起きるの
せなければ、必ずこの因縁の結果通りとなる。縁者でなく、他人のホトヶであることも少なからずある。

脳障害の因縁
この因縁は、精神病の場合と、精神病でない頭部の障害、の二種に分けられる。
すなわち、精神病(ノイローゼ、脳梅毒など)と、頭部の怪我、または脳溢血、脳軟化症等の病気で、程度の0 い因縁の人ぱ年中、頭痛、肩こり、不眠症などに悩まされる。
肉体障害の因縁をあわせ持つ人は、脳溢血から中気になったり、頭の負傷で手足がきか
なくなったりする。脳性小児マヒなどもこの因縁のあらわれである。

二重人格の因縁
前記の脳障害の因縁の系列に入る因縁に、この二重人格の因縁がある。
酒を呑むと、ガラリと人が変わってしまって、全く別人のようになってしまう。
酒乱はこの円縁である。表而意識がアルコールで麻玲すると、遺伝している潜在意識や
深層意識が浮かび出て、別の性格が入れかわって出て来るのである。異常性格・同性愛な
どもこの因縁である。
この因縁は、家運衰退の因縁にも深い関連があり、二、三代前の縁者で、非常に不幸な、恵まれない死に方をした人か、あるいは、他人で、その家に非常な怨念を抱いて死んだ者
のいることが特徴である。

癌の因縁
胃ガン、子宮ガンなど、この因縁を持つ人は必ず癌になる。
循環器系統障害の因縁
心臓、腎臓、肝臓等の循環器系に故障を起こす因縁である。
色情の因縁
男女が、異性(同性の場合もある)によって苦しんだり傷ついたりする因縁である。こ
れは、家運衰退の因縁のもととなる因縁である。
また、夫、妻が、その配偶者の色情のトラブルで苦しめられる場合も、色情の因縁があるということになる。

へんぎよう
偏業の因縁
職業の上にあらわれる因縁である。
この因縁を持つ人は、宗教家、芸術家、芸能人、裁判官、水商売などが適する。そのど
れがよいかは、別の因縁とも照らしあわせてみる必要があるが、とにかくこの因縁のある
人は、これらの職業以外につくと絶対に芽が出ない。つまり、適性ということに関係して
くるわけだが、そういうことをふくんだ上で、運命的にその職業以外では伸びない、とい
うことである。
職業の適性ということは非常に重大なことで、それゆえに、いろいろな適性検査などが考案されているわけだが、適業、適性、というものは、因縁的に決定されているのである。
人の職業は、大づかみにいって、技術系(生産事業、技術者)、営業系(販売事業、営
業、商人)、組織系(官公吏、政治家)の三種に分けられるが、人はみな、それぞれの系列
に向く因縁と向かぬ因縁を持っており、向かぬ職業に就いた場合、絶対に芽が出ぬもので
あるから、注意して選択しないと生涯の不幸となる。

財運・水の因縁

財運がめって、お金は人より何倍も多く入ってくるが、水のように流れ出してしまって、身にっかない。
無理に溜めようとすると、自分が病気になったり、家族が病気になったりする。これは、水の財運で、水というものは、流動しているかぎり腐敗せず、きれいである。溜まり水ぱ必ず濁り、腐敗する。それと同じで、この因縁を持つ人は、常にお金が流れ動いて身につ

かぬのである。無理にお金を溜めると、腐敗現象が起きて、家族に病人やヶが人が出たり人にだまされたりして、全部、お金が出て行ってしまう。

頭領運の因縁
人の上に立つ因縁である。この因縁をもつ人は、必ず、大なり小なり人の上に立って、
人の頭領となる。但し、この頭領運に二種類めって、純然たる頭領運と、組織内の頭領運とに分けられる、純然たる頭領運は、だいたい創業者として成功する。組織内の頭領運は、専務、部長という一分野の首長で終わる。
頭領運はよい因縁の部類に入るが、反面、孤独運を待ち、晩年は家庭的に不幸になりやすい。
頭領運のない人は、自ら頭領になると必ず失敗する。よき頭領運の人をえらんで、次位に甘んじ、よく補佐をすることに専念するがよい。それが、自分の才能、手腕を十二分に発揮し得る最良の道である。野心を持って自分がその位置に就くと、物事渋滞して苦労ばかり多く、必ず失敗するのである。

子縁うすい因縁
子供との縁がうすい因縁である。
この因縁があると、子供が生れないか、生れても、五、六歳になるまでに死んでしまう。
また、自分の実子と縁がうすいだけではなく、養子をもらっても、この因縁ある限りうまくいかない。その養子の運気(生命力)が強ければ衝突して出て行ってしまうし、生命力が弱ければ死んでしまうのである。

産厄の因縁
出産に際して、難産で苦しむ因縁である。衰運の時期で生命力が弱っている時にあたる
と、死ぬ恐れがある。水子の霊障や、難産で死んだ縁者の霊障のあることが多い。

無意識の意識

 

フロイトによって、
1、無意識の意識は、自分の知らない他人の意志によって動かされる。
という事実が明らかにされた。そして・フロイトは、

、人間の誕生以後の数年間を一種の催眠状態と見、その数年間に受ける子供
の、無意識の意識への抑圧・葛藤・精神外傷が、成人後(成人前も)の、いろ
いろな不幸や災害の原因となる。

と決論する。
要するに、フロイトの説は、ヒトの幼少期の無意識の意識への影響を、テーマとす
るものである。
とすると、明らかに、かれの幼少期以前の出来ごとに起因するもの
であるから、フロイトの、2、の説はあてはまらないことになる。
ただし、1、の、「無意識の意識が他人の意志によって動かされる」という部分は
適用できるであろう。明らかに、自分の意志に反して、自損行為をくり返すの
だから1.(かれは精神病者ではない)
だから、問題は、どのようにして、他人の意志が、かれの無意識の意識を動かすのか、という点にしぼられることになろう。
もっとも、そういうと、こういわれるかもしれない。
「フロイトの、2、の説も適用されないことはない。幼少期に、祖父と××とのはなしを耳にしたことがあるのかもしれない。それが、かれの無意識の意識に、
他人の川らないうらに紀憶されて、精冲外傷となり、一種の恐怖観念となる。それが、成人後に発作となって起こった。フロイトの表現でいう。神経症的行動となって
はげしくほとばしり出た”のである」

たしかにそういう解釈も成り立つ。
しかし、そうすると、わたくしがN氏の仏間で体験した異変は、どう説明するのか。それについての説明ができないのである。
わたくしは、祖父について、前もってなにも聞いていなかった。にもかかわらず、わたくしの身に、前にのべたような異変が生じたのである。この点について、
フロイトの学説は説明できない。!、と、2、の説のほかに、第3の説がなければな
らないのである。
われわれは、フロイト以外の学説をさがさなければならないであろう。

ユングの集合的無意識
この、自分の中に自分の知らない自分がいて、それが自分の行動を決定する、というフロイトの考えは、近代心理学がすすむにつれて、ますます顕著になってきた。
フロイトのこの考えにつづいて、カールーグスタフーユング(一八七五1一九六一)があらわれて、フロイトの無意識概念を拡大し、遡及したのである。
かれは、無意識の意識の根源を、人類共通の太古時代に求ぬるのである。いうならば、フロイトは、人間の幼少期にその根源を見出すが、ユングは、人類の幼少期にそ
れを求めるのである。かれによれば、無意識は、人類の太古時代にその源を発しているという。
これはたいへん興味ぶかい。フロイトは、どこまでも「個」に原因を求めるが、ユングは「多」であり、「集団」にそれを求めようとする。
これは、フロイトにない領域をひろめようとするものである。わたくしの求めるものも、そのなかにあるのではなかろうか? わたくしはひたすら、ユングを追求した
のである。
ユッグによると、人類が、その欲望と期待を挫折させるだけだったその当時の自然と社会では、人類はつねに本源的不安に直面して悩まされてきた。その源初的不安と
葛藤の痕跡が、無意識層にふかくきざみこまれており、この集合的無意識の葛藤は、各人の意識のみならず、ユングが太古類型とよんだイメージや象徴にもあらわれてい
るとする。
この太古類型は、人類の大きなコンプレックスを表現しており、そのもろもろの形態とテーマは、あらゆる宗教、あらゆる民話に見いだされるというのである。たしかにこのユングの説は、フロイトの説が点だとすると、面にまで拡大したもの
であり、無意識の意識層において人類は共通の場を持つという指摘は、偉大な業績といえる。
けれども、これは、人類共通の無意識(の葛藤・抑圧)を論じているのであって、その人類という集団の中の個(たとえばN氏やリード氏)の抑圧・葛藤について、太

古時代のそれと、どうかかわりを見いだしたらよいのか、そこのところが説明できないのである。そこを、どう考えるべきか?
われわれは、さらにべつな学説に目を転ぜねばならない。

第三の無意識層の発見
そうしてついにわたくしは、リポ″トーソンディの「運命心理分析学」にたどりついたのである。
それは、「家族的無意識」とも名づくべきあたらしい無意識層の発見であった。。
かれは、個人の無意識層のなかに特殊な祖先の抑圧された欲望・葛藤が秘められて
おり、それが、子孫の運命の選択行動となってあらわれると考えるのである。
さきにのべた、無意識の意識の抑圧・葛藤を太古時代に求めるユングの考えかた
は、いうならば、人類共通の祖先にその根源を見いだそうとするわけである。
これにたいし、ソンディの「家族的無意識」は、特定の個人の祖先にそれを求めようとするわけである。
要するに、それまで深層心理学は、おおづかみに分けて、フロイトの個人の無意識
層と、ユングの集合的無意識層(群衆心理学)と、この二つの「層」が研究対象とさ
れていたのである。ところが、ソンディの運命分析心理学は、それらの層の中間にあ
る「家族的無意識」という無意識の第三番目の傾域を、研究対象として把握したのである。
つまり、「個人」と「群衆」の中間に、「家族」を発見したわけだ。これは無意識の特別な領域である。
この家族的無意識というのは、ソンディによると、
個人の無意識層のなかに抑圧されている特殊な祖先の欲求が、子孫の、恋愛・友情・職業・疾病・および死亡の型式における無意識的選択行動となって、その運
命を決定する。
というのである。専門的で、ちょっとむずかしい表現になっているが、要するに、特な
された欲望や葛藤が、子孫の無意識の意識にはたらきかけて、子孫の、恋愛(結婚)・友情・職業・病気・死にかたまで決定してしまう、というのである。
これはたいへんなことである。
われわれはだれでも、自分の理性・知性でものを考え、自分の意志で決定し、行動していると信じている。しかるに、恋愛(結婚も!)友情・職業・病気・そして死に
かたにいたるまで、特殊な祖先の欲望・葛藤に決定されてしまったのでは、まるっきり「自分」の出るマクがないじゃないか、ということになる。
わたくしは、さきに、自分のなかのアカの他人といったが、ここでは、自分のなかの祖先が、自分の運命のほとんどを決定してしまうというのである。
ほんとうに、そんなことってあるのだろうか?

ソンディの運命分析学

フロイドをはじめとした精神分析学派は、遺伝子要素(先天的な素質)はあまり重視せず、親子関係や生まれてからの環境を重視し、人は環境にはたらきかけることによって、変わりうるという環境論に基づいています。

人は宿命から逃れられないのか?

人間、本来もって生まれた先天的なものと環境のもとで培った、後天的なものとの組み合わせだからです。

ソンディの「運命分析学」は、遺伝と環境を統合させた新しい学説といえます。

ソンディの運命分析理論の画期的なところは、運命を「人間の隠された生活プラン」と考えており、宿命としてあきらめてしまわず、人間は選択する意思をもつというところに存在意義をみとめている点です。

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