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無意識の意識

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フロイトによって、
1、無意識の意識は、自分の知らない他人の意志によって動かされる。
という事実が明らかにされた。そして・フロイトは、

、人間の誕生以後の数年間を一種の催眠状態と見、その数年間に受ける子供
の、無意識の意識への抑圧・葛藤・精神外傷が、成人後(成人前も)の、いろ
いろな不幸や災害の原因となる。

と決論する。
要するに、フロイトの説は、ヒトの幼少期の無意識の意識への影響を、テーマとす
るものである。
とすると、明らかに、かれの幼少期以前の出来ごとに起因するもの
であるから、フロイトの、2、の説はあてはまらないことになる。
ただし、1、の、「無意識の意識が他人の意志によって動かされる」という部分は
適用できるであろう。明らかに、自分の意志に反して、自損行為をくり返すの
だから1.(かれは精神病者ではない)
だから、問題は、どのようにして、他人の意志が、かれの無意識の意識を動かすのか、という点にしぼられることになろう。
もっとも、そういうと、こういわれるかもしれない。
「フロイトの、2、の説も適用されないことはない。幼少期に、祖父と××とのはなしを耳にしたことがあるのかもしれない。それが、かれの無意識の意識に、
他人の川らないうらに紀憶されて、精冲外傷となり、一種の恐怖観念となる。それが、成人後に発作となって起こった。フロイトの表現でいう。神経症的行動となって
はげしくほとばしり出た”のである」

たしかにそういう解釈も成り立つ。
しかし、そうすると、わたくしがN氏の仏間で体験した異変は、どう説明するのか。それについての説明ができないのである。
わたくしは、祖父について、前もってなにも聞いていなかった。にもかかわらず、わたくしの身に、前にのべたような異変が生じたのである。この点について、
フロイトの学説は説明できない。!、と、2、の説のほかに、第3の説がなければな
らないのである。
われわれは、フロイト以外の学説をさがさなければならないであろう。

ユングの集合的無意識
この、自分の中に自分の知らない自分がいて、それが自分の行動を決定する、というフロイトの考えは、近代心理学がすすむにつれて、ますます顕著になってきた。
フロイトのこの考えにつづいて、カールーグスタフーユング(一八七五1一九六一)があらわれて、フロイトの無意識概念を拡大し、遡及したのである。
かれは、無意識の意識の根源を、人類共通の太古時代に求ぬるのである。いうならば、フロイトは、人間の幼少期にその根源を見出すが、ユングは、人類の幼少期にそ
れを求めるのである。かれによれば、無意識は、人類の太古時代にその源を発しているという。
これはたいへん興味ぶかい。フロイトは、どこまでも「個」に原因を求めるが、ユングは「多」であり、「集団」にそれを求めようとする。
これは、フロイトにない領域をひろめようとするものである。わたくしの求めるものも、そのなかにあるのではなかろうか? わたくしはひたすら、ユングを追求した
のである。
ユッグによると、人類が、その欲望と期待を挫折させるだけだったその当時の自然と社会では、人類はつねに本源的不安に直面して悩まされてきた。その源初的不安と
葛藤の痕跡が、無意識層にふかくきざみこまれており、この集合的無意識の葛藤は、各人の意識のみならず、ユングが太古類型とよんだイメージや象徴にもあらわれてい
るとする。
この太古類型は、人類の大きなコンプレックスを表現しており、そのもろもろの形態とテーマは、あらゆる宗教、あらゆる民話に見いだされるというのである。たしかにこのユングの説は、フロイトの説が点だとすると、面にまで拡大したもの
であり、無意識の意識層において人類は共通の場を持つという指摘は、偉大な業績といえる。
けれども、これは、人類共通の無意識(の葛藤・抑圧)を論じているのであって、その人類という集団の中の個(たとえばN氏やリード氏)の抑圧・葛藤について、太

古時代のそれと、どうかかわりを見いだしたらよいのか、そこのところが説明できないのである。そこを、どう考えるべきか?
われわれは、さらにべつな学説に目を転ぜねばならない。

第三の無意識層の発見
そうしてついにわたくしは、リポ″トーソンディの「運命心理分析学」にたどりついたのである。
それは、「家族的無意識」とも名づくべきあたらしい無意識層の発見であった。。
かれは、個人の無意識層のなかに特殊な祖先の抑圧された欲望・葛藤が秘められて
おり、それが、子孫の運命の選択行動となってあらわれると考えるのである。
さきにのべた、無意識の意識の抑圧・葛藤を太古時代に求めるユングの考えかた
は、いうならば、人類共通の祖先にその根源を見いだそうとするわけである。
これにたいし、ソンディの「家族的無意識」は、特定の個人の祖先にそれを求めようとするわけである。
要するに、それまで深層心理学は、おおづかみに分けて、フロイトの個人の無意識
層と、ユングの集合的無意識層(群衆心理学)と、この二つの「層」が研究対象とさ
れていたのである。ところが、ソンディの運命分析心理学は、それらの層の中間にあ
る「家族的無意識」という無意識の第三番目の傾域を、研究対象として把握したのである。
つまり、「個人」と「群衆」の中間に、「家族」を発見したわけだ。これは無意識の特別な領域である。
この家族的無意識というのは、ソンディによると、
個人の無意識層のなかに抑圧されている特殊な祖先の欲求が、子孫の、恋愛・友情・職業・疾病・および死亡の型式における無意識的選択行動となって、その運
命を決定する。
というのである。専門的で、ちょっとむずかしい表現になっているが、要するに、特な
された欲望や葛藤が、子孫の無意識の意識にはたらきかけて、子孫の、恋愛(結婚)・友情・職業・病気・死にかたまで決定してしまう、というのである。
これはたいへんなことである。
われわれはだれでも、自分の理性・知性でものを考え、自分の意志で決定し、行動していると信じている。しかるに、恋愛(結婚も!)友情・職業・病気・そして死に
かたにいたるまで、特殊な祖先の欲望・葛藤に決定されてしまったのでは、まるっきり「自分」の出るマクがないじゃないか、ということになる。
わたくしは、さきに、自分のなかのアカの他人といったが、ここでは、自分のなかの祖先が、自分の運命のほとんどを決定してしまうというのである。
ほんとうに、そんなことってあるのだろうか?

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