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七科三十七道品  大舶の比喩  Seven Courses, Thirty-Seven Ways, Metaphors of Great Ships

七科三十七道品  大舶の比喩

 

七科三十七道品の歌

「たとえば夏の六月ごろ、海辺に浮かぶ大きな船が嵐に遭ううちに、船を結んでいる藤蔓がやが断ち切られるように、弟子たちよ、精進して修行し、その修行を成就するならば、一切の結 縛・使煩悩から解脱することができるのです。

なぜでしょうか?

正しく修行するからです。

なにを修行するのでしょうか?

いわゆる四念処法 四正法 四如意足法 五根法 五力法、 七覚支法、八正道を修行するの です」

と、仏さまはお説きになられました。 この説法を受けて、六十人の僧侶がもろもろの煩悩を起 こさず、心に解脱を得ることができました。仏さまがこのお経を説き終えられると、聴聞してい 弟子たちは心から喜び、修行に励みました。

ここに説かれているたとえ話は、「大舶の譬喩」として有名です。原文では、この「大舶の譬 「味」の前に「巧師の斧村の譬喩」がありますが、その意味するところは「大舶の譬喩」とほとん ど変わりませんので、ここでは割愛いたします。

まず、大きな船が海辺に停泊しているわけです。その船は藤綴、つまり藤夢のようなもので係 留されていました。二千数百年も昔のインドのことですから、ロープなどはなかったのでしょう。 しかし、藤夢はたいへん堅固です。

ところが夏の六月になると海が荒れます。したがって、台風のような嵐が起きるのでしょう。 そうすると、波に揉まれているうちにその藤が切れて船は沖に流され、やがて船そのものも強

風や波によってこなごなになってしまうわけです。

それと同じように、どのような煩悩でも、どのように強い悪因縁でも、何度も何度も成仏法を 繰り返して修行しているならば、最後にはわたくしたちを縛りつけている因縁の糸も断ち切れ、 ついに成仏するぞ、とお釈迦さまはおっしゃっているのです。

結縛・・これらはすべて煩悩の異名です。煩悩は、人間に纏いついて離れません。です からと呼びます。 また、煩悩は人間を結んで縛り、自由にさせませんから結縛といいます。 さ らに、人間は煩悩の思うままに使われてしまいますから、煩悩を使というわけです。

ところが、この成仏法を一生懸命に修行していると、どのような強い悪因縁でも、煩悩でも、 ばらばらにしてしまって、最後は成仏するわけです。 ですから、ここもやはり「文証」になりま す。

この短いお経の中で、お釈迦さまは何回も繰り返し繰り返し、七科三十七道品の成仏法を説い ていらっしゃいます。 これを修行しなければ成仏できない、と繰り返し、繰り返し、懇切丁寧に、 わたくしたちに教えてくださっているのです。

それなのに、日本の仏教はこの成仏法を取り入れませんでした。そして成仏法のない、創作さ れたお経を、なにも知らない純真な信者たちに押しつけてきたのです。

その結果、自分も信者も弟子も、みな成仏しないで苦しんでいます。 ある有名な霊能者が以前、 「宗祖といわれる偉い高僧、名僧たちが、みな地獄に落ちて、火の車に乗せられて苦しんでいる ところを霊視した。あまりの恐ろしさと、あまりの意外さにびっくりした。 これはどういうわけ だろうか?」

Seven Courses, Thirty-Seven Ways, Metaphors of Great Ships

 

Songs of the Seven Departments and Thirty-Seven Dohons

“For example, in the June of summer, when a large ship floating on the seashore gets caught in a storm, the wisteria vines that bind the ship are cut off.Disciples, if you practice diligently and succeed in your training, If you do so, you can be liberated from all bondage and earthly desires.

Why?

Because you practice properly.

What will you practice?

He is the one who practices the so-called Four Thought Treatments, Four Correct Laws, Four Rui Foot Laws, Five Root Laws, Five Power Laws, Seven Awakening Subdharma, and Eightfold Path.”

That’s what the Buddha preached. After receiving this sermon, 60 monks were able to free themselves from all earthly desires and attain liberation. When the Buddha finished preaching this sutra, the disciples who were listening were overjoyed and devoted themselves to their training.

The parable described here is famous as the “Parable of the Great Ship.” In the original text, this “parable of the great ship” is preceded by “the parable of the craftsman’s village,” but its meaning is almost the same as that of the “parable of the great ship,” so we omit it here. I will do it.

First of all, a large ship is anchored on the beach. The ship was moored with a wisteria, or something similar to a wisteria. This was in India more than 2,000 years ago, so ropes probably didn’t exist. However, Fujimu is very solid.

However, in June, the sea becomes rough. Therefore, a storm like a typhoon will occur. Then, while being tossed by the waves, the wisteria was torn and the ship was washed out to sea, and eventually the ship itself became too strong.

The wind and waves cause it to become a small tree.

In the same way, no matter what kind of earthly desires we have, no matter how strong our bad karma may be, if we repeat the Dharma to attain Buddhahood over and over again, the threads of karma that bind us will eventually disappear. Shakyamuni Buddha is saying that you will break free and finally attain Buddhahood.

Bondage…These are all other names for earthly desires. Earthly desires cling to humans and never leave them. He is called Kara. In addition, earthly desires are called bondage because they bind people and do not allow them to be free. Furthermore, human beings are used as they please by earthly desires, so earthly desires are used as messengers.

However, if you diligently practice this method of attaining Buddhahood, no matter how strong your bad karma or earthly desires may be, you will be able to break them down and eventually attain Buddhahood. Therefore, this is also “documentary evidence.”

In this short sutra, the Buddha repeats over and over again the seven disciplines and thirty-seven ways of attaining Buddhahood. He has taught us over and over again, with great care and compassion, that unless we practice this, we will not be able to attain Buddhahood.

However, Japanese Buddhism did not incorporate this method of attaining Buddhahood. And he has imposed his created sutras, which do not have the method of attaining Buddhahood, on innocent believers who do not know anything about them.

As a result, I, my followers, and my disciples all suffer without attaining Buddhahood. A famous psychic once said, “All the great monks and famous monks who are said to be the founders of the sect had fallen into hell and had a spiritual vision of him suffering on a chariot of fire. I was surprised. How could this be him?

 

 

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大日如来の智慧を表現した「金剛界」 .一印会 “Kongokai” expressing the wisdom of Dainichi Nyorai.Ichiinkai

 

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不動明王 破壊と再生を司り、悪を滅する

 

 

 

不動明王

破壊と再生を司り、悪を滅する

不動明王(ふどうみょうおう)とは?

語源は「動かない守護者」を意味し、インド神話のシヴァ神の別名です。シヴァは暴風雨の威力を神格化したもので、破壊的な災害を起こす半面、雨によって植物を育てます。その破壊と恵みの相反する面は不動明王にも受け継がれているのです。不動明王は仏法の障害となるものに対しては怒りを持って屈服させますが、仏道に入った修行者には常に守護をして見守ります。

 

大日如来の化身として、どんな悪人でも仏道に導くという心の決意をあらわした姿だとされています。特に日本で信仰が広がり、お不動様の名前で親しまれています。そして、五大明王の中心的存在です。五大明王とは、不動明王を中心に降三世明王(ごうざんぜみょうおう)・軍荼利明王(ぐんだりみょうおう)・大威徳明王(だいいとくみょうおう)・金剛夜叉明王(こんごうやしゃみょうおう)の5体のことを指し、不動を中心に東西南北に配されます。不動明王の脇侍として八大童子のうちの矜迦羅(こんがら)・制多迦(せいたか)の2童子が配されることも多いです。ちなみに不動明王の持っている龍が巻きついている炎の剣が単独で祀られている場合があります。不動明王の化身とされ、倶利伽羅竜王(くりからりゅうおう)などと呼ばれています。

ご利益

除災招福、戦勝、悪魔退散、修行者守護、厄除災難、国家安泰、現世利益のご利益があるとされる。また、酉年生まれ守り本尊です。酉年に生まれた人々の開運、厄除け、祈願成就を助けるといわれています。

不動明王(ふどうみょうおう)の像容

背の低い、ちょっと太めの童子型の造形が多く、怒りの表情をしています。目は天地眼(てんちげん)といって右目を天に向けて左目を地に向けていますよ。口は牙上下出といって右の牙を上に出して左の牙を下に出しています。炎の光背を背にし、手には剣と羂索(けんじゃく)を持っています。剣は大日如来の智慧の鋭さを表現しています。羂索とは煩悩を縛り悪の心を改心させる捕縛用の縄のことです。

 

https://drive.google.com/file/d/1P6nOGvJyjb-tiuUXl1yRmz3nfwH8VcZK/view?usp=drive_link

阿含経

阿含歌

https://suno.com/song/256adc63-6c18-4298-8a6f-7920b59893e1

 

 

 

 

「お釈迦さまの弟子たちは、自分が救われるために出家をして、いろいろな修行をしたのではな いか。お釈迦さまはそのような弟子たちに法を説いたのだから、その説法をまとめた阿含経は小 「乗経典である」

と、わたくしは非難されました。

ですから、在家の方が「阿含経」の教えを世の中に広めていこうとする時、まず反対されるの はその点だと思います。

「お釈迦さまの仏教は出家仏教ではないか。 あなたは出家なのか?」

そういわれるでしょう。

それに対してどう答えればよいのでしょうか?

「ああ、そうですか。 それは知りませんでした」

というようなことではしかたがない。

逆に、お釈迦さまの仏教を出家仏教と考えるのはまったくの間違いであり、勉強不足なのだと 教えてあげなければいけません。

お釈迦さまの仏教は出家仏教でもなければ小乗仏教でもなく、 在家の者でも成仏できると説か れているのだ、ということがはっきり示されているのが、この『一切事経」なのです。 経文を読んでみましょう。

-如是我聞と「阿含経」

如是我聞 一時仏住迦毘羅衛国尼拘 律園中。爾時釈氏摩訶男来詣仏所。 稽首仏足退坐一面。白仏言。世尊。 何名優婆塞。仏告摩訶男。優婆塞 在家清白。乃至尽寿帰依三宝為優 婆塞証知我。

現代語訳

阿含経一切

かびらえ こくにく うつおん

是のくれ聞きぬ。一時、逆毘羅衛国尼拘律園

中に住まりたまえり。

いかん うばそくな

し、仏の足にしたてまつり退いて一面に坐し、仏 に白して言さく、「世尊よ、何が優婆塞と名づくるや」 仏、摩訶男に告げたまわく、「優婆塞とは在家清

我れを証知したまえ』」 と。

『寿尽くるまでぼう いまし、優婆塞とらん

このように私は聞きました。 ある時、仏さまがカピラヴァットゥ (迦毘羅衛国)のニグローダ (拘律)園におとどまりになっておられました。そこへ、在家の弟子であり、仏さまの従兄弟 でもあるマハーナーマ (摩訶男)が、数人の在家信者を引き連れて現われ、仏足頂礼の礼をして 仏さまの前に座り、質問いたしました。

「世尊よ、優婆塞 (在家仏教徒) とは、どのような人に対して名づけられたものでありましょう

仏さまはマハーナーマに、

「在家の者が仏や師となる僧侶のもとに行き、「自分が生きているかぎり、死ぬまでの今後一生 を通して三宝に帰依いたします。 私を優婆塞としてお認めください」と申し出て、仏や僧侶がそ れを認めるならば、その者は優婆塞となります」

と告げられました。

解説

まず、最初に「如是我聞(是の如くれ聞きぬ)」という言葉があります。 ほとんどのお経がこ の言葉で始まっておりますが、「私はこのように仏さまからうかがいました」という意味です。 この「私」とはだれか?

これは、お釈迦さまの十大弟子の一人で、記憶力第一といわれたアーナンダ (阿難であると されております。 アーナンダという方は、二十五年間にわたってお釈迦さまのおそば近くに仕え、 その説法の一言一句を残らず記憶していました。お釈迦さまがお亡くなりになった直後、このア ナンダや大長老のマハーカッサバ(摩訶迦葉)を含めた五百人の仏弟子たちがラージャガハ (王舎城)の七葉窟に集結し、お釈迦さまの教法の編纂を始めたわけです。

しちょうくつ

マハーカッサパが座長になり、アーナンダが自分の聞き覚えていたものを口述し、それを弟子

たち全員で議論していくという形で、教法はまとめられていきました。

たとえばアーナンダが、

ようや

「私は祇園精舎でこのような教えを拝聴しました」

と話すと、それに異論のある者は手を挙げて、

「それは私の記憶とは違う……」

阿含経一切

自分の記憶している内容を述べたわけです。すると座長のマハーカッサパが、

「みなさんはどのように記憶しておられますか?」

と、他の弟子たちに語り、それぞれが記憶をたどりながら、正しい答えを導き出してまとめて いったわけです 『南伝律」「小品」 十一秒)。 そのようにして編纂されていった経典が「阿含経」 です。

ごんぎよう

ですから、「阿含経」に「如是我聞」という言葉が使われているのは当然です。ところが、仏 後数百年経ってから創作された経典、たとえば『法華経』や『華厳経』などの大乗経典も、 「阿含経」の形式をまねて「如是我聞」の四文字から始まっています。 これは言語道断です。 ほ とんどの経典がこの「如是我聞」から始まるために、後世の人たちはすべてのお経はお釈迦さま 一代の教説である、と思い込んでしまったのです。さらには、間違った教相判釈が立てられ、 「阿含経」は小乗経典という、まったく見当違いの評価を受けるようになってしまいました。

きょうそうはんじ

「如是我聞」 はたった四文字の言葉ですが、これほど重要な意味を持っています。 わたくしたち 「は、「如是我聞」を使うことのできるお経は「阿含経」だけなのだという真実をよく理解すると 共に、それを世間に広めていかなければなりません。

それでは、お経の内容を解説いたしましょう。

ある時、お釈迦さまがカピラヴァットゥ(迦毘羅衛国)のニグローダ(尼拘律) 園におられまし た。カピラヴァットゥというのはお釈迦さまの故郷で、現在のネパールのタライ地方付近である といわれております。 そのカピラヴァットゥにニグローダ(サンスクリット語ではニヤグローダ。 バニヤンの樹)という樹木がたくさん生えている林があり、その中の精舎、つまり道場にお釈迦 さまは滞在されておられました。

そこへ、在家の弟子であり、またお釈迦さまの従兄弟でもあるマハーナーマ (摩訶男)が、数 人の在家信者を引き連れて現われ、仏足頂礼の礼をしてお釈迦さまの前に座り、質問いたしまし た。

仏門に帰依した者はすべてお釈迦さまの子であるという考えから、仏教徒を釈子あるいは釈氏 といいます。しかし、ここに登場するマハーナーマはお釈迦さまと同じ釈迦族の人ですから、こ こでいう釈氏は「仏教徒の」と訳すだけではなく、 「釈迦族の」と訳してもよいでしょう。

ぶっそくちょうらい

「仏の足に稽首したてまつり」とは仏足頂礼といい、五体を地につけてお釈迦さまのおみ足を 額にいただく礼拝のことです。インドではこれがいちばん丁寧で、心からの帰依を表す礼とされ ております。 仏足頂礼は五体を地につけて礼拝するので、五体投地とも呼びます。 スリランカな どの南伝仏教の国では、パーリ語で「ブッダム サラナム ガッチャーミわれ、仏に帰依したて

ごたいとうち

まつる)」と唱えて仏足頂礼の礼をします。 わたくしたちは勤行の時に膝をかがめて、

「オン サラバタタギャタ ハンナマンナノウ キャロミ」

礼拝いたしますが、これは五体投地を簡略化したものです。

しかし、形の上では簡略化してありますが、心の中では五体を地につけてお釈迦さまのおみ足

をいただいてる、と観想して礼拝しなければいけません。

と質問したわけです。

マハーナーマもこの時、仏足を頂礼してお釈迦さまにご挨拶し、

「世尊よ、優婆塞とは、どのような人に対して名づけられたものでありましょうか?」

優婆塞とはパーリ語・サンスクリット語のウパーサカを漢字に音写したもので、普通は男性の 在家信者を指します。 これに対して女性の在家信者は優婆夷と呼び、同じくパーリ語・サンスク リット語でウパーシカーといいます。

それでは、マハーナーマはそのようなことも知らなかったのか、というとそうではありません。 逆に、彼は優婆塞の深い意味をよく知った上で、質問しているのです。 それは、なぜでしょう か?

マハーナーマ自身は優婆塞についてよく知っているけれども、自分が連れてきた者たちはまだ よく分かっていない。そこで、優婆塞の心構えを知ってもらうために、わざと自分自身も知らな いふりをしてお釈迦さまに質問しているわけです。 このような質問の仕方を赴機間と呼びます。 仏教経典の中には、時々こういう赴機問が出てきます。

「無尽蔵菩薩優問。世尊相具。我今重”間彼。伝子名観世音 (爾

まさ

の時に、無意菩薩、偈を以て問うてさく、世尊は相具わりたまえり、我今重ねて彼を問いたて まつる、仏子何の因縁あってか名づけて観世音と為すやと)」

そういうと

諸君も、

阿含経切

と無意菩薩が仏さまに、観世音菩薩の名の由来についてお尋ねするところがあります。 無尽 意菩薩とは、無尽蔵の智慧による功徳と救済を象徴した菩薩ですから、そのくらいのことを知ら ないはずはない。

しかし、そばにいる者たちは知らないから、それについて仏さまから直接説明をしていただい て、皆に聞かせてあげようということで、無知な人たちになりかわって質問をしているのです。 マハーナーマもこれと同じなのです。

マハーナーマの赴機問に対して、お釈迦さまは「優婆塞とは、在家清白乃至 『寿尽くるまで 三宝に帰依し、優婆塞と為らん我れを証知したまえ』」とお答えになられました。

「家清白」とは、お釈迦さまに帰依して、仏教を信仰しようという清らかな心を持っている在 家の人、ということです。「寿尽くるまで三宝に帰依し」とは、自分が生きているかぎり、死ぬ までの今後一生を通じて三宝に帰依いたします、という意味です。 三宝とは仏・法・僧、つまり 仏さまと仏さまの教法、そしてお釈迦さまの教法を実践する僧伽(教団)のことです。その三宝 に対して、自分は死ぬまで帰依いたしますから、私を優婆塞としてお認めください、とお釈迦さ まや師となる僧侶に申し上げ、それが認められれば優婆塞になるというわけです。

阿含宗に入行する時も同じですね。 誓約書を提出して認められると道場にきて、わたくしと一 一緒にお護摩を焚く。続いて、ご本尊・真正仏舎利尊との仏縁を結ぶ灌頂を受け、これから一生懸

ぶっしゃり ほうじゅんげだつぼうしようよう

命に仏舎利宝珠尊解脱宝生行(以下、解脱宝生行)をやっていきます、と仏さまにお誓いを立て てからご宝塔をいただきます。 これも、このお経に則っているわけです。

「一生涯、修行するのですか?」

と聞く人がいるかもしれない。しかし、ひとたび入行して本当の仏さまの修行を始めたならば、 やはり一生涯にわたって仏さまの教えを守っていく、という気持ちが生ずるのは当然です。 もし も、そういう気持ちが起きないならば、解脱宝生行を完全に修行したとはいえません。 本当に修 行をしたならば、必ずこの修行を持続させようという気持ちが起きるのです。それが起きないな らば、本当に修行したとはとても考えられません。

「自分は生涯をかけて修行をする、というつもりで信仰をしているだろうか?」

よく考えてごらんなさい。 もしもそういう気持ちがなければ、因縁を切ることなどとても

できません。 もう一度それについて、自分の心に問いかけてごらんなさい。

 

 

大日如来

すべての生き物の根本となる仏

 

 

大日如来(だいにちにょらい)とは?

大日とは「大いなる日輪」という意味です。太陽を司る毘盧舎那如来がさらに進化した仏です。密教では大日如来は宇宙の真理を現し、宇宙そのものを指します。また、すべての命あるものは大日如来から生まれたとされ、釈迦如来も含めて他の仏は大日如来の化身と考えられています。

 

大日如来には悟りを得る為に必要な智慧を象徴する金剛界大日如来と、無限の慈悲の広がりを象徴する胎蔵界大日如来という2つの異なる捉え方があります。金剛とはダイヤモンドのことを指し、智慧がとても堅く絶対に傷がつくことがないことを意味しています。また、胎蔵とは母親の母胎のようにすべての森羅万象が大日如来の中に包み込まれている様を意味しています。この2つが揃って大日如来を本尊とする密教の世界観が出来上がるのです。

ご利益

現世安穏、所願成就。また、未・申年生まれ守り本尊です。

大日如来(だいにちにょらい)の像容

本来、如来は出家後の釈迦の姿をモデルとしているため装飾品は身に付けていませんが、大日如来だけは別格で豪華な装飾品や宝冠を付けています。また、螺髪(らほつ)ではなく、髪を結い上げています。

 

https://suno.com/song/628f64aa-c60f-4996-ab96-e954ea2f8fbe

大日如来

すべての生き物の根本となる仏

 

大日如来、光輝き輝く
宇宙の真理を紡ぐ尊き存在
金剛界、胎蔵界、二つの偉大な姿
智慧と慈悲が融合し、全てを包み込む

大いなる日輪、我らを照らし
無限の慈愛、心に満ちる
大日如来、栄光に輝く
我らの導き、永遠の道へ