念覚支と四念処
それぞれ二つの「所含星・七道點」(以下「七道品種」)と『雑阿含経・哭」(以下「果報経」、そして「雑阿含経・七種果経」(以下「七種果経」)を講義し、そこに説かれる成仏法の一
つ、七覚支法について解説します。
まずは二つの「七道品経」の経文を読み、現代語に訳してみましょう。
如是我聞。一時仏住舎衛国祇樹給孤
独園。時有異比丘。来詣仏所稽首礼
足。退坐一面。白仏言。世尊謂覚分。
世尊。云何為覚分。仏告比丘。所謂
党分者。謂七道品法。然諸比丘七覚
分漸次而起。修習满足。異比丘白仏。
世尊。云何竟分漸次而起。修習満足
仏告比丘。若比丘内身身観住。彼内
身身眼住時。摂心繫念不忘。彼当爾
いちめんざ髪の姫く戦れ聞きぬ。「時、仏、舍衛国の祇樹給孤独園に住まりたまえり。時に異比丘有り。仏の所に来詣し稽前して足に悲したてまつり、退きて一面に坐し、仏に白して言さく、「世尊の調ゆる覚分とは、世尊、云何が覚分と為すや」と。仏、比丘に告げたまわく、「所謂覚分くぶんとは調ゆる七道品の法なり。然かも諸の比丘、七覚がは次に而かも起こり、器じ湖足す」と。異比丘、仏に白さく、「世尊、云何が覚分は漸次に而かも起こり、修習し満足するや」と。仏、比丘に告げたまわく、「若し 24 いわゆる
比丘、射の射戦に話せば、越、内身の身観に住する時、
時念意分方便修者,方便修音念分
注意内車の年に住せば、使、内身の身観に住する時、
已,修習满足,满足念意分已,於法
選択。分別思量。当於爾時。修択法乃平精意分修習满足。如内身身観念 (『七道品経」)
党分方便。修方便已修習满足。如是
住。如是外身。内外身。受心法法観
念住。当於爾時。専心繫念不忘。乃
至檢意分亦如是說。如是住者。漸次
意分起。漸次起已修習満足。仏説此
疑已。諸比丘聞仏所説。歓喜奉行
もが思しき習す。方便して念分をしじらば、 習満足す。念堂分を満足し已らば法に於いて選択し、
灯し思量す。稲の時に当たって択法党分の方便を修するなり。方便を修し巳らば修習満足す。是の如く乃至抱
如くが歌・産卵・気・心・選の概念に住せば、稲の
覚の修習満足す。内身の身がに住するが如く、是の時に当たって心に念を繋げて忘れず。乃至槽覚分も亦、 是の如く説く。是の如く住せば漸次に覚分起こる。漸次春し奉行しき。
に起こり已らば修習満足す」と。仏此の経を説き已りたまいしに、諸の比丘、仏の説かせたまう所を聞きて、戦
現代語訳
このように私は聞きました。ある時、仏さまが含衛国の祇樹給孤独園に滞在されておりました。 その時、異教徒の出家が仏さまのふもとを来面して、仏さまのおみ足を額にいただいて礼拝し、
退いて座に着き、仏さまに、
「世尊の説かれる、いわゆる覚分(七党支法)とはどのようなものでしょうか? 世尊よ、なに
をもって覚分とされるのですか?」
と申し上げました。仏さまは異教徒の出家に、
「いわゆる覚分とは七つの道品法(七三七道品)の一つです。もろもろの比丘たちもよく聞
きなさい。七覚分(七覚支)は順番に生じ、それを修行して完全に修めていくのです」
と告げられました。
異教徒の出家は仏さまに、
か?」 「世尊よ、どのようにして覚分は順番に生じ、どのように修行して完全に修めていくのでしょう
と申し上げました。仏さまは異教徒の出家に、
「もしも比丘が身体の内側を観察する時は、彼は身体の内側を観察することに没頭し、心を修めて念を集中して気を散らさないことが肝要です。そうするならば、彼は『念覚が(念覚支)』を工夫して修行したといえます。
そのように工夫をして『念覚分」を修行し終わるならば、それを完全に修めたといえます。
『念覚分」の修行を成就したならば、法について選択し、分別してよく考えるのです。それが 『択、洪覚分(択法覚支)』を工夫して修行するということです。そのように工夫して修行し終わるならばそれを完全に修めたといえます。
そのようにして、(「構派覚分<精進党支〉」「客觉分《喜覚支〉』『寄覚分<覚支〉』『定「覚分〈定
覚支」と完全に修めて)「捨覚分(他覚支)』まで完全に修めます。
覚え」と完全に修めて「分(文」まで完全にめます。
(念分」では身体の内側を観察するのと同じように、身体の外側も、そして身体の内外とも
に観察し(以上、四念処観の身念処(身体を不浄と観ずる不浄観)」、さらに「受は苦なり四念処観の受念処」「心は無常なり「四念処観の心念処」「法は無我なり「四念処観の法念処」』という(「四念処観」の)観念に没頭し、念をつなげて気を散らしてはなりません。
同様に(『択法党分」から)『捨覚分」まで没頭して、心を繋げて気を散らしてはなりません。
このように七覚分は(『念覚分」から「捨覚分」まで)しだいに生じるのです。そして、しだいに
生じたそれぞれを順番に完成させていくのです」
と告げられました。仏さまがこの経を説き終わると、もろもろの比丘たちは、その教えを聞いて心から喜び、その内容を実践いたしました。
如是我聞。一時仏住舍衛国祇樹給孤
独園。爾時世尊告諸比丘。所謂覚分何等為覚分。諸比丘白仏。世尊是法根法眼法依。唯願為説。諸比丘聞已。 当受奉行。仏告諸比丘比丘尼。七党分者謂七道品法。諸比丘。此七党分
是の如く我れ聞きね。一時、仏、舍衛国の祇樹給孤独園に住まりたまえり。斎の時世尊、諸の比丘に告げたまわく、「所謂、覚分とは何等をか覚分と為す」と。諸の比丘、仏に白さく。「世尊は悪、出根・眼・岩なり。 噌だ願くばあに説きたまえ。諸の比丘聞き已りなば当に受け奉行すべし」と。仏、諸の比丘・比丘尼に告げたまわく。「七覚分とは調ゆる七道品の法なり。諸の比丘、
已修有满足,若比丘身身観念住。
放行地立在已。当心繫念不忘。当
分已。为满足、副修念分已於
法選択。当於爾時。能积法竟分方便
修积法竟分方便已。修習满足。如是
精進、高・・定・捨覚分、亦如是
說,如内身,如是外身、内外身受
心法法観念住。專心繫念不忘。当於
留時,方便修念堂分。方便修念覚分
已。修習满足。乃至持党分。亦如是
說。是名比丘七党分漸次起。漸次起
已。修得满足仏說此経已。諸比丘聞
仏所說。歡喜奉行“七道品経」)
次にこり、次に超三かって満足するか」と、
だって心に念を繋げてれず。原の時に当たって方便
ゆる分をしって法にて選択 。瀬の時に当たって秋活発行の方を絶す。税法觉行
の方便をし巳らば、修習満足す。是の如く精進,喜
持,定・覚分も、長の如く説く。内身の如く、是の
外身、内外身、受・心・法の法観念に住し、専心に
念を繋げて忘れざるなり。陽の時に当たりて方便して念
党分を修す。方便して念覚分を修し巳らば修習満足す。 乃至持覚分もホ、是の如く説く。是を比丘の七覚分次
に起こり、漸次に起こり巳って修習満足すと名づく」と。
仏此の経を説き巳りたまいしに、諸の比丘、仏の説かせ
たまう所を聞きて、歓喜し奉行しう。
このように私は聞きました。ある時、仏さまが変にされておりました。
その時、 もろもろのたちに、
はどういうものか分かりますか?」
ごげられました。
「真であり、真理を見るのであり、真理のよるべであります。どうか私たちのためにおきください。私たちはその教えをしたならば、即座にそれを実行いたします」
と申し上げました
ま、やに対し、
(右)とは、いわゆる七つの道品法(七科三十七道品)の一つです。もろもろの比かえ、こぐむけに、それをひとつひとつ行じていくのです。順番に修行していを静めていくわけです」
のらはいま
「ぐうにして寄にどのように修行して完全に修めていくのでしょうか?」
第一版(高)一行い、その戦法に専心して念をつなげて忘れなけれ
」のあしたといえるのです。そのように工夫
マイクラます。そうして「覚ア」を移行するのです。工夫し打」終わったならば、それを修めたといえます。「精進行」「喜 「ア」もまた同様です。身体の内向じように、身体の外側も。
(今)、観察し(心)、法
綠美化して繋げて忘れることがないならば、工夫して「念覚分」を多行しただいろるのです。工夫して「」を旅行し終わるならば、それを完全に修めたといえます。 そのようにして「行」から「情覚」までを修めていくのです。比丘たちよ、このように七覚を番に移行していって、最後にそれを完成させるのです」
と告げられました。仏さまがこの経を説き終わると、もろもろの比丘たちは、その教えを聞いて心から喜び、その内容を実践いたしました
まず、「常分」という言葉が出てきますが、これはお釈迦さまの成仏法・七科三十七道品の一つである、「七覚変法」のことです。阿含宗の信徒諸君が毎日読誦している「雑阿含経・記経」(以下「応援」)に、「松正動如意足根力覚道」という箇所がありますが、この中の「覚」 というのが「葉分、つまり七覚支法です。
最初のお経では念覚支(念堂分)択法覚支(択法堂分)・捨覚支(覚分)以外は
おりますが。二番目のお経にあるように、七支は念复, (行)・愛の七つの徳目から成り
立ちます。 各目の具体的な内容は、各経の解説を終えた後にお話しいたしますが、この「七道品経」には、支を終えたならば、担法覚えに入り、それを終えたら精進覚支に入って。喜覚次。軽安安、加資方と後んで、最後に折算支に到達する」ということが説かれているわけです。
きらにこの二つのお経では、七覺支法の念覚えとは四念処観であることも示されております。
四念処頼もやはり七科三十七道品の一つで、前述の「応説経」では「念処」と記されております。 れています。 新説で)ともいう。四種の取想法です。これは普通、次のように解釈さ
一、この身は不浄なり
二、受は苦なり
三、心は無常なり
四、法は無異なり
一、身体についての瞑想
以上の四項目について、深く瞑想するのが四念処観です。これを分かりやすくいえば。
二、感受作用についての説想
「心の性質についての想
となるでしょう
簡単に利用しましょう。
一、この身は不浄なり
これは、肉体す、いわゆる「不浄観」の誤想です。 で汚らわしいものであることを観想して、悩や、欲望を取り除くわけで
二、受は苦なり
わたくしたちの肉体はじつにはかなくもろいものです。常に死や老衰、病気、けがなど、生命の危険にさらされています。要するに、わたくしたちの肉体は不完全極まるものです。それを悟らずして、完全なるものを望み、完全なるものに執着するから、すべて苦しく感じられてかなわないわけです。
それはまた、財物や地位、権力、人間関係などについてもいえます。わたくしたちは、それらのものをひとたび手にすると、失いたくないと考え、失われることを恐れ、悩み、苦しみます。
しかし、それらは縁によってわがものとなったのであり、その縁がなくなれば、また去って行くのは当然です。それを悟らずに執着するから苦が生じるわけです。以上のように、苦(と感じるもの)の根源を深く瞑想していくのです。
心はなり
無常とは変滅してやまないことをいい、これに対して、永遠に不変なるものを「常住」といいます。わたくしたちの心は、常に変滅してやまない、とりとめもないものです。そのとりとめもないものが、常住なるものを求めているのです。そこに、矛盾や悩みや苦しみが生じるのは当然です。常に変滅してやまない、とりとめもないわが心を深く見つめて、常住なるもの(真理)を求める姿を想していくのです。
四、法は無我なり
です。
法とは、自分を含めたすべての存在、あるいは存在を構成するものをいいますが、この「無
我」という言葉は、二つの意味を持っているわけです。それは、
すべてにわたって「わがもの」というもののないこと
のすべてのものに「我がない」こと
心は、この世の中のどんなものでも、自分の所有というものはない、ということです。それは、 縁あって夜に自分のものになったのであり、縁のある間は自分のものになっているけれども、緑がなくなれば自分のものではなくなるわけです。したがって、この世の中に、「これこそ確実に自分のものだ」といい切れるものは、なに一つとしてないのです。
それをさらに徹底すると、自分というものさえもないわけです。「自分」とは、いったいなんそしょうか?それについての有名な問答があります。お釈さまが、問答に来たバラモンに戻





