四苦八苦 ― 人は苦の塊」
深夜のファミレスは、コーヒーの匂いと、ちょっとくたびれた蛍光灯の光に包まれていた。
カウンター席で向かい合うのは、会社を辞めたばかりの俺と、学生時代の友人・シンだ。
「なあ、リョウ。人ってさ、苦の塊なんだよ」
シンはストローを弄びながら、ぽつりと言った。
その瞳は、どこか悟ったようで、でも諦めたようでもあった。
「四苦八苦って知ってるか? 生・老・病・死――この四つがまず“基本セット”なんだって」
俺は黙って聞いた。
こういう時のシンは、時々やたら哲学的になる。
◆生の苦 — 生きているだけで苦しい
「生まれたこと自体が、もう苦らしいよ。生きてりゃ嬉しいことだってあるけど、次の瞬間にはそれが苦しみに変わる。幸せって、賞味期限短いんだよな」
シンが言うと、妙に
俺も、仕事に追われていた毎日を思い返していた。
◆老の苦 — 老いる現実に落ち込む
「年取るのも、まあまあの苦だよな。俺、最近白髪増えてさ。鏡見るたび『うわ、俺も老いてんじゃん』って思うんだよ」
シンは軽く笑ったが、笑いの奥に少し寂しさが混じっていた。
◆病の苦 — 病気の不安
「病気は誰でも嫌だよな。軽い風邪でも気持ちが沈むし。まして、デカいやつだったら…もうメンタル崩壊するだろ」
俺は、去年怪我で入院したときの不安感を思い出していた。
◆死の苦 — 最後の別れ
「そして死。これはもう、どうあがいても怖い。悟った人は別らしいけどな。普通の人間にとっちゃ、死ぬってのはやっぱ寂しくて怖いもんだよ」
ファミレスの外で、救急車のサイレンが遠くに響いた。
妙に現実味があった。
◆愛別離苦 — 愛するものほど失う
「で、ここから“追加の苦”ね。まず、愛別離苦。愛してる人と別れなきゃならない苦しみ。家族でも恋人でも友達でも。絶対にいつか別れる日が来る」
俺は、去年別れた恋人のことを、不意に思い出した。
会いたくても会えないという苦しさが、胸の奥にまだ残っていた。
「人だけじゃない。金とか地位とか、“好きなもの”は全部いつか失う。泣いても無理。人生って、意外とドライなんだよ」
◆怨憎会苦 — 嫌な相手ほど離れられない
「次は怨憎会苦。嫌いなヤツと会わなきゃならない苦しみ。会社とか学校とか家族とか、逃げられない関係ってあるだろ?」
たしかに。
俺も会社員時代、どうしても避けられない上司がいた。
笑顔で「お疲れさまです!」と言いながら、心の中では舌打ちしていた。
「あれ、毎日やってたら気が狂うよな」
◆求不得苦 — 求めても手に入らない
「求めても、ほとんど手に入らない。人生なんて求め続けて終わるもんだよ。百求めて、一つ手に入るかどうかだってさ」
シンはテーブルの水をじっと見つめた。
「求めても届かないって、地味にきついよな」
その言葉は、胸の奥の柔らかい場所に落ちてきた。
◆五陰盛苦 — この体と心そのものが苦の入れ物
「そして、五陰盛苦。身体も感情も思考も意志も認識も……全部苦の原因になってるって話。人間ってさ、構造的に苦しむようにできてるんだよ。まったく、えげつないよな」
シンはふっと笑った。
「でもさ、生きるって、やっぱりいいこともあるじゃん。うまい飯とか、綺麗な景色とか、誰かの優しさとか。だけどトータルで見ると、やっぱ苦の方が多い。それが現実なんだよ」
コーヒーの湯気がゆらゆら揺れていた。
苦の話をしているはずなのに、不思議と心が少し軽かった。
逃げられないなら、向き合うしかない。
シンの言葉は、そんな当たり前のことを改めて思い出させてくれた。
外へ出ると、夜風がひんやりと頬を撫でた。
苦がある。
でも、その中を歩いていくしかない。
俺は、空を見上げた。




