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念力をつよくして バランスをたもつ

念力をつよくして

バランスをたもつ

念覚支

これはどういう修行法かと申しますと。仏教辞典などを見ますと、「おもいを平らかにする」

というように説明しております。念覚えとは「おもい」つまり念を平安にすることである、とこういうように説明しておりますけれども、わたくしは、それだけでは念覚えの歩行の説明になっていないと思います。

わたくし自身の旅行体験によりますと、そんな簡単なものではなくて、こころを平安にする、 それは確かにそうでありますけれども、それは結果から出てくるものであって、歩行そのものではないわけです。おもいを平安にするというのは、念覚えを修行した結果、つねにおもいが平安になる、おもいが平らかになる、ということであって、それ自体が修行ではない。 で、わたくしは、この修行を二つに分けることができると思うんです。まず、

念の力を強化する。

念力といってしまうと、なにか安っぽくなってしまいますね。自分で「念力」という本を書いておきながら、そういうことをいうのはおかしいけれども、念力、と一言でいってしまうと、ちよっと安っぽくなってしまう。念の力を強化する、要するに、精神力というものを非常に強化するということですね。

それをただたんに精神力というと、漠然としますけれども、要するに、意志の力、知能の力、 こういったものを来常に強化する訓練である。

 

もっというならば、人間の精神作用というものは、知・情・意、この三つから成り立っています。知性の力、知能の力、そして情緒的なはたらき、それから意志の力です。

要するに念の力を強化するというのは、この三つの部門(知・情・意)のはたらきを強化し、

しかも、そのいずれにもかたよらないようにする、ということです。それが、結局、結果的におもいが平安になるということじゃないですか。

人間の精神力というものは、この知・情・意のはたらきから成り立っています。ところが、これがかたよりやすいわけです。

 

和訳

是の如く我れ聞きぬ。一時、仏、含衛国の祇樹給孤独園に住まりたまえり。「上に説けるが如し。差別せば、若し比丘、七覚分を修習するに多く修習し巳らば当に七種の果、七種の福利を得べ

じゅうじし。何等をか七と為す。是の比丘は、現街の智証の楽、若くは命終時(の智証の楽)を得ん。若し現法の智証の楽、及び命終時 4 (の智証の楽)を得ざらんも、而も五下分結尽くるを得て、中般ぜ鸞せん。若し中継潤燃を得ざらんも而も、生理数を得ん。若し生般涅槃を得ざらんも而も、無行概涅槃を得ん。若し無行般涅槃を得ざらんも面も、有行艇涅槃を得ん。若し有行般涅槃を得ざ

らんも而も、上流戦涅槃を得ん」と。仏、此の経を説き已りた

まいしに異比丘、仏の説かせまう所を聞きて、歓喜し奉行しき。

あるとき、外道の出家が来て、釈尊に、成仏のための修行法をおたずねした。

数学は、「文」こそその成仏法であるとおっしゃって、念寛文・税込覚・精進党・喜

・・・文の七つの修行法をお説きになった。

そして、この七死光を移行すれば、阿果、阿那含果、斯陀含果、須陀区果が得られると解税された上で、男にも五種の祝祭の得かたがあるとくわしくお教えになられたのであった。

七党支成仏法

釈尊の成仏法は、前にのべましたように、七科三十七道品といって、七科目、三十七種類のカリキュラムから成り立っています。すなわち、四念処法、四正動法、四神足後、五根法、五力七支法、八正道です。

このうちの七葉文法について、解説されたものです。

成仏法について質問した外道の出家に、釈尊がなぜ、七科目の中の一つである七覚文について

 

ば、自分のそれまでのいるいいんかして、山が説いている同合の教えというのは、 ほんとうらしい。なかにはいままでの表や信を持てて、言宗の門をたたいたいどメンマル1つの行をできているわけです。

ですからやば、変になる。そういう気持で、この沢店支というものを考えてみなきゃいかんというこеру

わたくしは、どのようにして回さをえらんだか? あなたがたの参考になるようにおはなししてみますと、わたくしは自分自身のをがって、 していった。これはいつもおはなししていますし、本にも書いている通りです。

から門をたたいてみたキリスト教もちょっと聞いてみたし、書を読んだこともある。また天理教やひとの酒のはなしも開くというように、若いころ、あちこちかれている教法というものを、かたっぱし

しかし、わたくしが考えたのは、いったい宗教というのはどういうものなんだろ 「う」というどん、「戦わわる」という開係で成り立っていると論した。そうでしょう? いったいことはどういうことなのか われるとはいったいどういうことなん

天台に、「朝着日に今なら」といって、敵のおつとめににとる色をぼみ、ケ活のおつとめには私を増える。日蓮上人は天台ですから山に行って、後にだ一本も見ですから、それで問をもった。定数というのは一本でなければいかない、あれもこれもなんていうのにおあしい。ところが、と白の数行に、「明日に少な仏」といって、「デニミックホテルンゲキ*ク」といって出番を越え、今方の勤行には「オムアットスカートッケカ」いって何度気をきるんでいる。いったいどっちなんだ? ということになる。

上人というひとは点一本なひとですから。信というものはただひとすじでたからがらもん。ということで、かおにいろいろ研究して、結局、法手ひとすじ、法事一愛ということで日運窓を立てたわけです。

天の場合は、信仰して「止」の旅行をする。真言宗へいくと、要改版法を修行して即身成仏する。そういうようにみんなまちまちなんで

そして、結局、なにをあたえるか? 安心だとこういう。安心をあたえる方法というのが、 大仏教でみんなちがうんですよ。いったいどれがほんとうなんだ、ということになるで

「回というのは「心」ならかいをせる「個

えらび取ることが修行

択法覚支

これは、宗教、信仰、哲学というたくさんの教法、思想のなかから真実なるものをえらびだすということです。

「択」というのは、チャクと読みますけれども、タクとも読みます、「選択」のタクです。略さない本漢字は「選擇」と書いて、「選」もえらぶ、「擇」もえらぶ、という字です。

つまり、ほんとうに真実なる教法をえらびとる、ということですね。この世の中には、さまざまな宗教、信仰、思想があります。そのなかから真実なるものをえらびとる。そうして、まちがったものや、いつわりのものを捨てる、取捨選択するということです。

そこで、この、教法の選択というものが、はたして修行といえるのだろうか? 正しい教法をえらびとって、真実でないもの、まちがったもの、正しくないものを捨てさる、それが修行なのだろうか? あなたがた、そう思われるのじゃないでしょうか。わたくしも最初、そう思った。

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解説へのテーマ

 

正しい信仰をえらびとって、正しくないものを捨てさるということが修行というのは、

うことなんだろう? そう思ったことがありますけれども、考えているうち、やはりそれは修行なんだなと思うようになった。というのは、それが修行であるというのは、自分自身の勉強、知能によってそれをなすというところにあるわけです。

たとえば、つぎのようなことです。

お釈迦さまが出家されて、自分がさとりをひらくに到るまでには、当時のさまざまな信仰や宗教、いろいろなことを教える思想家、そういったかたがたに、㈱あたりしてぶつかっていっているわけです。いろいろな仙人にもあって、はなしを聞く、それだけではなくて、それが正しいか、正しくないか、ということをご自分で一生けんめい考えられたということです。

そうして結局、当時のインドにあったところのあらゆる教え、宗教というものは、みな正しくないという結論に達したわけです。それには、釈迦ご自身のふかい修行と勉強によってそこに到達したわけです。

ですから、わたくしたちも、この択法覚支が修行であるというのは、自分自身の勉強と修行によって、ほんとうに真実なるものをえらびとり、正しくないものは捨てさる、ということをしなければいけないんです。

たとえていうならば、瞑想一つとっても、日本に、瞑想を教える学校みたいなところや、瞑想

第四章

 

うるる。そういったものがたくさんあるでしょう。そのたくさんの想のなかから、どれがどしなのる?どの先生が。正しい数想法を教えているのか? ということを自分自身はしなければいけないということです。

たいていの場合は、自分自身の研究や知後、あるいは修行によって取を選択するというひとはすくない。たいてい評判を聞くだけです。

「あのニホン・メディテーションセンターというのはどうなの?」 「あれは、線向さんというひとがやっていて、いいと

といったり。

「あれはダメだ。インテキだよ」

なんていう。そうかなあ、どうなんだろうか。 Meditation,(Transcendental 想の略語)というのがいいというひともいれば、T・Mというのにダメだというひともいる。その評判だけできめてしまう人が多い。

それをお釈迦さまは、ありとあらゆるいろいろな教法をご自分でよつかって調べてみる。 想についても、すぐそれがいいとかわるいとか、ひとの評判とか、そういったものにはまどわされない。ご自分がその瞑想をやってみて、これはいかん、これはいい、というように選択される。

そういう意味で、教法覚えというのが旅行になるわけです。自分が歩行をして確かめて、そう

・へのテーマ

七党支成仏法

釈尊の成仏法は、前にのべましたように、七科三十七道品といって、七科目、三十七種類のカリキュラムから成り立っています。すなわち、四念処法、四正勤法、四神足法、五根法、五力法、七覚支法、八正道です。

このうちの七覚支法について、解説されたものです。

成仏法について質問した外道の出家に、釈尊がなぜ、七科目の中の一つである七覚支について

近います。 見したのかとしますと、これはわたくしの体験からの権ですが、この異比がもし釈尊のするとしたら、安の旅行が一番よいとお考えになったからだと

というのは、釈の仏法は、七科目三十七種の修行を全部やらなければならないというものではないのです。七科目の中の、二科目位をやればいいわけです。というのは、七科目の修行法の中には、おなじような移行が、デブって人っております。それで、釈尊は、お弟子の因縁をみて、七科目の中から、おまえはこの修行をせよ、おまえはこれとこれの修行法がよい、というように選別されてあたえたのであろうと思われます。時には、科目にかまわず、三十七種の修行法の中から自車にいくつかえらび出して、修行者に課したものと思われます。

そこで、この七変文の修行法というのが、どんなものであるか、おはなしいたしましょう。

念力をつよくして

バランスをたもつ

脱へのテーマ

これはどういう行かと申しますと、仏教などを見ますと、「おもいを平らかにする色というようにしております。念文とは「おもい」つまり念を平安にすることである、とこういうように明しておりますけれども、わたくしは、それだけでは念寛文の修行の説明になっていないと思います。

わたくしのりによりますと、そんな簡単なものではなくて、こころを平安にする、 だそうでありますけれども、それは結果から出てくるものであって、旅行そのものではないわけです。おもいと不安にするというのは、字文を修行した結果、つねにおもいが平安になる、おもいが平らかになる、ということであって、それ自体が修行ではない。

で、わたくしは、この移行を二つに分けることができると思うんです。まず、

け、あの力を強化する、 念力といってしまうと、なにか安っぽくなってしまいますね。自分で「念力」という本を書いておきながら、そういうことをいうのはおかしいけれども、念力、と一言でいってしまうと、ちもっと安っぽくなってしまう。念の力を強化する、要するに、精神力というものを非常に強化するということですね。

それをただたんに精神力というと、淡然としますけれども、要するに、意志の力、知能の力、 こういったものを赤に強化するである。

第四章

 

知・・この三つから成り立っていま

旅するに金の力を強化するというのは、この三つの部門(知情しかれ、そのいずれにもかたまらないようにする、ということです。それもいかや安になるということじゃないですか。 のはたらきを強化し、

人回の精神力というものは、この知情意のはたらきから成り立っています。ところが、とれがかたまりやすいのかかる。

夏日行の『京」の書き出しに、

「知にはたらけばだか立つ。情にさせば成される。とかくこの世は住みにくい」とあるでしょう。 だから「知」というものにかたよると、とかく弾くつっぽくなってか立ちやすい。 によいと、知他のはたらきがつよいですから、すぐ取くつでものをわりきろうとします。

なりますね。 さばされるそれはそうでしょう。人情的になりすぎれば返されてしまいまでは、意志かつよかったらどうかというと、これは何で、どうにもしようがないということに

ですから、意、それぞれのはたらきを強化したかめる、そういう移行です。しかもうそのいずれにもかたまらないように平化する。これがいちばん大切なことじゃないですか。

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のテーマ

 

 

「知的にも非常に高度で、情緒面においても、いわゆる情操がゆたかであるというように、芸術雨などでもよく理解することができる。情操的な情のないひとというのは、無味乾燥になりやすいわけです。芸術的なことは、なにもわからない、はなしをしてもちっともおもしろくない、シャレをいったって、ニコリともしない。今日きいたシャレを、三日ぐらいたって急に笑い出し

て、「ああ、そうだったのか」なんて(笑)、それじゃあおはなしにならんでしょう。

意志がつよいのはけっこうだけれども、それが頑固になってしまうのではいけない。

だから、知・情・意の精神作用を、非常に強化し、たかめるという訓練をする。そしてそのいずれにもかたよらないということ。これがまず第一です。

しかし、それだけじゃない。

念そのものの力を、神秘的にまで強化する。一点に集中したとき、火を発するほどの力を出す。ですから、この念覚支の修行には、クンダリニー・ヨーガの修行が入るわけです。

つぎに「空観」を体得する。ですから、この七覚支には、「四念処法」の修行が入っている。

この空観の体得により、諸法の実相がわかるようになります。つまり、「縁起の法」を如実にさとることになるわけです。

この念覚支が、七覚支法の中の、目玉といってよいでしょう。いや、三十七道品の中でも、代

第四章

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