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勢至菩薩

勢至菩薩

 

勢至菩薩

梵名マハースターマブラーブタ (Mahāsthā -maprāpta)を大勢至、あるいは得大勢と訳し、それを略して「勢至」といいます。

その名のとおり、大勢力をもって修行者を守り、 阿弥陀仏の極楽浄土に往生することを妨げる悪神の力を砕くとされています。

また、その智慧の光は一切を照らし、三途(地獄・餓鬼・畜生の三悪道)を離れさせる無上の力を有するといわれ、衆生に菩提心の種子を与えるとされています。

ません。 観音菩薩とともに阿弥陀如来の脇侍をつとめますが、独立した本尊としてはあまり信仰されてい

午年生まれの人の守り本尊とされています。

102

 

白利の人法

にして他を積めばよいのか?」

と自分の身に照らして考え、よく理解しなければなりません。そうする。

内布自分のものになります。法話の内容を観察工夫すること、これが

きてこれで、完全になるための条件は、信・・・開

さまは、まだ足りないとおっしゃいます。

まだ、なにが必要なのでしょうか?

白利の人法

十随后知法次法向,是用不具。以

放精的方便。信成施聞受持観

星名满足一切種優婆塞事。摩訶

百名。世尊。

云何名優婆塞能自安

「雨も出町に顔して知らざるは、是れ則ち具せざるなり。具せざるを以ての故に精勤方便す。信成施もて 、観察し、深義を了達し、法次法向に随順してげず、摩同男よ、是れを一切態の優婆塞事を満足すと名づく」と。摩訶男、仏に白さく、「世尊よ、云何が優能く自ら愛し他を安勉せずと名づくるや」と。 仏、摩訶男に告げたまわく、

驰不安慰他。仏告摩訶男。若優婆塞能自立戒不能令他立於正戒。自持净

戒。不能令他持戒具足。自行布施。

不能以施建立於他。自詣塔寺見諸沙

門。不能勧他令詣塔寺往見沙門。自

専聴法。不能劾人楽聴正法。聞法自

持。不能令他受持正法。自能観察甚

深妙義。不能动人令観深義。自知深

法能随顺行法次法向。不能勧人令随

順行法次法向。摩訶男。如是八法成

就者。是名優婆塞能自安慰不安慰他。

に立つも絶をして正裁に立たしむること能わず。自ら

こんとゆう净成をべつも他をして持戒具足ならしむること能わず。

自ら布施を行ずるも施を以て他を建立すること能わず。 自ら塔寺に詣で諸の沙門を見るも、他に勧めて塔寺に詣て往いて沙門を見せしむること能わず。自ら専ら聴法するも、人を勧めて正法を楽聴せしむること能わず。法を聞いて自ら持するも他をして正法を受持せしむること能わず。自ら能く甚深の妙義を観察するも、人を勧めて深義を混ぜしむること能わず。自ら深法を知り能く法次法向に随順して行ずるも、人をして勧めて法次法向に随順して行ぜしむること能わず。摩訶男よ、髪の姉き心潜む。

戴着は、是れを優婆塞能く自ら安慰し他を安慰せずと名づくなり」と。

現代語訳

「信・破・・間・持・観を行っても)法に近づく法次と、法を追求する法向を実践しなけれ

真の優婆塞とはいえません。努力と工夫によって、信・戒・施・聞・持・観を行い、さらに法次・法向を実践しなさい。マハーナーマよ、これらすべてを実践してこそ真の優婆塞といえるのです」

と説かれました。

マハーナーマは仏さまに質問しました。

「世尊よ、自分を安慰しても他を安慰しない優婆塞とは、どのような優婆塞を指すのでしょう

か?」

仏さまはマハーナーマに告げられました。

学芸增進

「自分は仏の戒を受けてそれを守っても、他者に仏の正しい戒を受けることも、またそれを保つこども勧めない。自分は布施を行っても、他者が布施を実践するようには勧めない。自分は塔寺に参詣してもろもろの沙門に見えても、他者に塔寺に参詣してもろもろの沙門に見えるようには勧めない。自分は熱心に沙門の説法を拝聴しても、他者に正法を拝聴してそれを受け保つようには勧めない。自分は仏法の深遠な教義をよく観察してそれについて熟考しても、他者には仏法の深遠な教義をよく観察して、それについて熟考するようには勧めない。自分は深遠な仏法を知り、 法に近づき、法を追求しても、他者が法に近づき、法を追求するようには勧めない。

と。 マハーナーマよ、このように八法だけを成就する者は、自分を安らかにし慰めても他を安らかにし慰めない優婆塞というのです」

解説

お釈迦さまは、「而も法次法向に随願して知らざる、是れ則ち具せざるなり」とおっしゃっておられますが、法次とは法に近づくことで、法向とは法を追及することです。ですから、仏さまや沙門の法話を聞き、観察・工夫しても常に法に近づき、法を追及しようとする努力がないならば、満足な優婆塞とはいえない、ということです。

満足な優婆塞となるための条件を最初から挙げると、まず第一が信、そして順番に戒、施、聞、 持、観、法次、法向と全部で八つあります。これを、「優婆塞の八法」と呼びます。

それぞれの意味を箇条書きにすると、次のようになります。

信………………正しい智慧で信心の心を起こす

②根・・・・・信の心を元に、やってよいことと悪いことの分別をつけ、仏教徒としてやってはい

①施………………徳を積むために布施の行をする

けないことはやめ、やらなければいけないことは積極的にやる

間……………道場(精舎)に行って、仏さまや沙門の話を聞く

持……………聞いた説法の内容を受持し、実行する

観・・・・受持した教法の深い意味をよく観察し工夫する

法次・・・法に近づく

注同法を追及していく

となります。

物芸増進

お釈庫さまは、この八法を行うならば優婆塞事を満足する、とおっしゃいました。

どころがそれにもかかわらず、マハーナーマはさらに、

「世尊。云何が優要能く自ら安慰し他を安慰せずと名づくるや」

と質問をしました。これは、自分を安慰させても、人を安慰させることのできない優婆塞とい

うのは、どういう優要塞でしょうか、という意味です。

それに対してお釈迦さまは、次のような優婆塞は自分を安慰させることができても、人を安慰

させることはできない、とおっしゃっております。

自分が信を持っても、他の者に信心を起こさせない

自分が彼を保っても、他の者が戒を保つように努めない

自分が布施をしても、他の者が布施をするように努めない

自分が道場に参詣して法話を聞いても、他の者に参詣と法話の拝聴を勧めない

自分が正法を受持しても、他の者に正法を受持するように勧めない

自分が教法の深い意味を観察しても、他の者が教法の深い意味を観察するように勧めない自分が教法の深い意味を知り、法に近づこうとしても、他の者が教法の深い意味を知り、

決に近づこうとするように勧めない

自分が教法の深い意味を知り、法を追及しても、他の者が教法の深い意味を知り、法を追

及するように勧めない

更するに、八法を自分で実践するだけでは人を救うところまではいかない、ということです。 自分だけが修行をするだけで、それを人に動かないようでは真の仏道とはいえない、ということ

「若し優婆塞能く、自ら戒

お釈迦さま
優婆塞となるには、どのようにすればよいのでしょうか?

 

ニグローダの園に、朝の光が静かに満ちていた。
木々の葉は露を帯び、鳥の声はまだ眠りの余韻を残している。
その園に、マハーナーマは一人、胸に深い問いを抱いて立っていた。
――信じるとは、何なのか。
――正しく生きるとは、どういうことなのか。
彼はゆっくりと歩みを進め、世尊の前にひざまずいた。
額を地につけ、静かに口を開く。
「世尊よ。完全な優婆塞となるには、どのようにすればよいのでしょうか。」
その声は、震えを含みながらも、真剣だった。
釈尊は、しばしマハーナーマを見つめ、やがて穏やかな声で答えられた。
「もし信があっても、戒がなければ、その者は真の優婆塞とは呼べない。
精進し、清らかな戒を守り、信と戒の両方を身につけなさい。」
マハーナーマの胸に、その言葉は深く沈み込んだ。
――信じているだけでは足りない。
――生き方として、戒を体現せねばならない。
しかし彼の心は、まだ満ちてはいなかった。
再び頭を垂れ、問いかける。
「世尊よ。では、何をもって一切の優婆塞の務めを満たすとするのでしょうか。」
釈尊は静かに語られた。
「仏・法・僧の三宝に帰依し、生涯それを守ると誓えば、形式としては優婆塞である。」
だがマハーナーマは悟っていた。
これは入口にすぎない、と。
――形ではなく、実質。
――誓いではなく、生き方。
だからこそ、彼は再び問うたのだった。
釈尊は、彼の心の奥を見透かすように、さらに続けられた。
「信と戒があっても、布施がなければ、まだ具足とはいえない。
努力と工夫によって布施を実践し、信・戒・施の三つを円満に修めなさい。」
その言葉を聞いた瞬間、マハーナーマの内に、ひとつの光が差し込んだ。
――信は、心の向き。
――戒は、生き方の規律。
――布施は、他者への実際の働き。
信と戒は、自分を整える修行である。
だが布施は、世界へと心を開く修行だった。
釈尊はさらに語られた。
「どれほど苦しい修行であっても、自分のことばかり考えていては徳は生まれない。
他者に与えてこそ、徳は身に宿るのだ。」
マハーナーマは、はっとした。
――私は、信じることに満足していなかったか。
――戒を守ることに、安住していなかったか。
しかし、それだけでは、世界は変わらない。
自分だけが清らかであっても、他者の苦しみは消えない。
釈尊は、穏やかに、しかし力強く続けられた。
「徳がなければ、修行は続かない。
徳がなければ、因縁を断つ法も、途中で途絶えてしまう。」
その言葉は、マハーナーマの胸に、静かに、しかし確実に刻まれた。
――徳とは、目に見えぬ力。
――だが、それなくして、どの道も歩みきれぬ。
そのとき、彼の脳裏に、かつて聞いた一首の詩がよみがえった。
「種を惜しんで蒔かなければ、
実りを得ることはできない。」
少しの施しが、倍の果報となる。
湯を与えれば、温もりが返る。
水を与えれば、命が潤う。
マハーナーマは、ようやく理解した。
――信とは、灯をともすこと。
――戒とは、その灯を守ること。
――布施とは、その灯で、他者を照らすこと。
三つがそろって、はじめて道は完成する。
彼は深く礼拝し、心の底から誓った。
――私は信じる。
――私は守る。
――そして、私は与える。
その日から、マハーナーマの歩みは変わった。
信は心に宿り、戒は行いとなり、
布施は、世界に小さな光を灯しはじめた。
そしてその光は、やがて彼自身の闇をも照らし出すことになる――。

 

修行の根本となる信 摩訶男白仏。世尊

修行の根本となる信

摩訶男白仏。世尊。云何為満足一切

優婆塞事。仏告摩訶男。若優婆塞有信無成。是则不具。当勤方便具足浄戒具足信戒。

2

いつきいうばそ摩訶男、仏に白さく、「世尊よ、云何が一切優婆塞事を

湖足すと為すや」と。仏、摩訶男に告げたまわく、「若し優婆塞償有りてむ無くば、是れ則ち具せず。単に転が

現代語訳

しんかい使し浄戒を具足し信戒を具足すべし」

マハーナーマは仏さまに申し上げました。

「世尊上、完全な優要塞になるには、どのようにすればよろしいのでしょうか?」

仏さまはマハーナーマに告げられました。

「その者に信があっても成がなければ真の優婆塞とは呼べませんから、精進して浄液を守って、 信と娘の両方を身につけなさい」

1110

解説

さて、マハーナーマはお釈迦さまのお答えをうかがってから、「世尊よ、云何が一切優婆塞事

を満足すと為すや」と再び質問しました。

さきほどのマハーナーマの質問に対して、お釈迦さまは、

「仏の前で、私は死ぬまで仏・法・僧の三宝に帰依いたしますから、優婆塞として私をお認めく

ださい、といえば優要塞になる」

とおっしゃいましたが、これは要するに形式上のことです。深い中身については触れておられ

ません。ですから、マハーナーマは優婆塞事を満足するには、どうすればよいか、つまり、 「完全な優要塞になるには、どのようにすればよろしいのでしょうか?」

と、再び質問したわけです。

すると、お釈迦さまはマハーナーマに、「若し優婆塞信有りて戒無くば、是れ則ち具せず。当に動方便し浄戒を具足し信戒を具足すべし」と答えられました。これは、

「その者に信があっても彼がなければ、満足な優婆塞と呼べないから、精進して浄戒を守って、 信と旅の両方を身につけなさい」

という意味です。

優要塞になった以上、必ず信はあるはずです。もしも、仏さまの教えを信じる気持ちがなければ、なにも仏さまのところへきて、自分は仏・法・僧に一生陽依いたします、と誓うわけがありません。ですから、優婆塞であるからには、仏・法・僧を信じ仰ぐ、という心は必ずあるはずで

宗教においては信がいちばんの根本です。これがなかったならば、どうしようもありません。 信じたい、信じよう、信じる。この気持ちがあって初めて、お釈迦さまの教えを実行しよう、という気になるのです。そこで優婆塞になる。

皆さんはこのお経を読んで、二千数百年前にお釈迦さまがマハーナーマに説法しているお経なのだ、と思うようではいけません。お経というものは、お釈迦さまが今、この自分のために説いてくださっているのだ、と思って読まなければいけないのです。そうして初めて、お経と自分との間に血が通うわけです。

浄土真宗の開祖である親鸞上人(一一七三―一二六二)は、

「仏は親一人がためにこの経(『阿弥陀経」を説き給う」

というようなことを述べておられます。お釈迦さまは自分一人のために『阿弥陀経』をお説きになられたのだと確信しながら、親鸞上人は『阿弥陀経」をお読みになったとされておりますが、

これが本当のお経の読み方です。

「ははあ、二千数百年前にお釈迦さまがマハーナーマに、こういうふうに説教されているのか

というような読み方では、とてもお経の本質を見抜くことはできません。ましてや、そのお経

に書かれていることを現実に生かすことなど、絶対に不可能です。

「お釈迦さまは、この自分に対してお説きくださっている!」

そのように、心の底から感激して読むのが、正しいお経の読み方です。

なるほどたしかに、わたくしは自分が利口で、世の中の人はすべて愚かに見えていましたが、 悪かだと思っている連中がどんどん世の中に出ていって、利口だと思っている自分はうだつが上がらない。運が悪い。まさに「利口で貧乏する」だったのです。

「お前がチャンスに恵まれない理由が分かるか? それは、徳がないからだ。人が成功をつかむには才能だけではだめだ。徳が必要なのだ。徳がなければどれくらい才能にあふれていても、成功をつかむことはできない。では、徳を得るにはどうすればよいのか? 布施をせよ。布施をすれば砲はいくらでも出てくるのだぞ」

まるで、白隠禅師が語りかけてくるようでした。そして、白隠禅師は、三百年後に現われるわたくしのために、この『施行歌」を書いてくださったのだな、と確信しました。

正しく信を育てる戒

あなたがたもこの『一切事経』を、二千数百年前にお釈迦さまがマハーナーマに説いたお経だ、 と考えるようではいけません。「若し優婆塞信有りて戒無くば、是れ則ち具せず。当に勤方便し

浄戒を具足し信戒を具足すべし」とは、

「信があっても戒がなければいけないのだよ。おまえは戒を保っているか?」

とお釈迦さまが、今、自分に直接問いかけてくださっている言葉なのだ、と思わなければいけないのです。

ないのです。

阿含宗信徒諸君は解説宝生行を一生懸命に修行しています。このような修行をするからには、 信は必ずあるはずです。お釈迦さまの法を信じよう、お釈迦さまの成仏法を信じよう、と考えたからこそ入行したわけです。

ところが、信じただけではだめだぞ、とお釈迦さまは諭されていらっしゃる。

入行して三カ月あるいは半年経つと、職員や先達のところにいろいろな不平をいってくる人がいます。

「こんなに信仰しているのに、全然よくならない。こんなに信じていて、一生懸命に修行をしているのに、よいご利益がまったくない」

そういう声を聞きます。

しかし、お釈迦さまは、信じるだけではだめだぞ、とおっしゃっているわけです。たとえば、 阿含宗に入って、毎日、一生懸命にご宝塔に供養を捧げ、お経やご真言を読誦する。これは信です。それらを実行するわけですから、たしかに信はあるわけです。しかし、お釈迦さまは「信」 だけではだめだ、「戒」が必要なのだとおっしゃっています。

「戒」には、二つの意味があります。一つは修行者としてやってはいけないことの取り決め、もう一つは修行者としてやらなければいけないことです。

ところが、これをひっくり返している人が多い。やらなくてはいけないことをまったくしないで、やってはいけないことをせっせ、せっせと行う・・・・・・。それでいて、

「こんなに信じているのに!」

どと文句をいう。これではしかたがありません。信じるだけで、物事がうまくいくわけはありません、そうでしょう。自分は受験に合格するということを信じてさえいれば、勉強しなくても大学あるいは高校の入学試験に合格しますか?

そのようなことはあり得ません。立派な先生について勉強を教わる、そしてその先生を信じて、 先生のいうとおりに勉強し努力する。それで初めてよい結果が出てくるのです。信じるだけではしかたがありません。

もちろん、信じることが一番最初に必要です。ですから、信じなければいけません。しかし、 信じているだけでは足りません。当たり前のことですが、その当たり前のことが、いわれなければ分からないのです。これが凡夫の悲しいところです。

わたくしたちがやらなければいけない彼は、まず第一に、一日一回必ず勤行をするということです、そして、導師から授かった戒行・課行を必ず実行する、ということです。信仰を持つというのは、ただ種をまいただけにすぎません。その種から、すくすくと芽が伸びて、立派な花が咲くようにするには、いろいろな手入れが必要です。肥料も与えなければいけないし、雑草も抜かなければいけません。

この二つがそろってはじめて、「信」という種がすくすくと芽を出し、やがて花を咲かせ、実を結ぶのです。種をまいても、ほうっておけば枯れてしまいます。枯れないまでも健全に育っていきません。

修行も同じです。一生懸命に勤行をし、先祖のご供養をする。これは大切なことですが、それだけでは信仰の種をまいただけにすぎません。その種がすくすくと伸びていくためには、戒がな

ければいけないのです。

それでは、戒を具足すればそれでよいのかと申しますと、それでもまだまだ足りないとお釈迦

さまはおっしゃいます。

それではまだなにが必要なのでしょうか?

徳のもととなる布施の行

而不施者是則不具。以不具故精勤方便。修習布施。令其具足満信戒施満。

「而して悪さざる者は是れ則ち具せざるなり。具せざるを以ての故に精勤方便し布施を修習し、其れをして具足澱ぜしめ、伝むぎ減ならしむ」

現代語訳

「(信と彼がそろっても、)布施を行わなければ真の優婆塞とは呼べません。努力と工夫によって布施行を実践し、信と戒と施(布施)を円満に修めなさい」

ここでお釈迦さまは、布施をしなければ、信と変があっても完全な優婆塞とは呼べない、と説かれております。

なぜならば、布施によって初めて徳が生じるからです。信を持ち戒を保つということは、自分だけのことをやっているにすぎません。自分にとってプラスになることだけをやっているわけです。一方、他の人になにかを施すということは、他の人にブラスを与えることになります。

どのような難行苦行であっても、自分のことばかりを考えていたのでは、徳は生まれません。 他の人になにかを与えてこそ、自分の身に徳が生じるのです。人間というものは、徳がなければなに一つ成功させることはできません。これは、仕事でもなんでも同じです。

わたくしはいつも、

「人の不幸の元凶は因縁である。その因縁を切る成仏法を実践することによってのみ、人は本当

の幸福を得ることができる」

と申し上げております。しかし、不徳の身では、その成仏法でさえやり通すことができないのです。徳があってこそ、修行は順調に進みます。徳がなければ、因縁を切る修行でさえも途中でだめになるのです。修行に嫌気がさしたり、経済的に不如意になったり、あるいは周囲の者が意味もなく反対します。とにかく、うまくいかなくなってしまうわけです。

さきほど、白隠禅師の『施行歌」についてお話ししました。い切さを初めて身に染みて感じま

ために説いたものですが、その中に

 

さきほど、白隠禅師の『施行歌」についてお話ししました。

切さを初めて身に染みて感じました。「施行歌」とは、布施の行の大切さを分かりやすく民衆の

ために説いたものですが、その中に、

「富貴に大小ある事は蒔種大小あるゆへぞ

この世はわづかの物なればよい種ゑらんでまきたまへ

たねを惜みてうへざれば 穀物取たる例なし

田畑に麦神蒔ずして麦ひく取たるためしなしいつとためしむぎひへ壱升まきをけば 五升や壱斗はみのるぞや然れば少しの施しも果報は倍あるものぞ

湯や施し多ければ くわほうも多しと斗りしれ」

という言葉があります。わたくしは、これはまさに真理だと思います。

功徳の種をまかずに、徳の実が実るはずはありません。功徳の種を少しでもまくならば、必ずそれよりも大きな徳の実を得ることができるのです。功徳の種をまく、これこそが布施の行なのです。 より

 

如是我聞と「阿含経」 婆塞証知我。 如是我聞

如是我聞と「阿含経」

婆塞証知我。 如是我聞。一時仏住迦毘羅衛国尼拘律園中。爾時釈氏摩訶男来詣仏所。 稽首仏足退坐一面。白仏言。世尊。 者在家清白。乃至尽寿帰依三宝為優館

云何名優婆塞。仏告摩訶男。優婆塞

、至『寿尽くるまで三宝に帰依し、優婆塞とんらん是の如く我れ聞きぬ。一時、仏、迦毘羅衛国尼拘律園中に住まりたまえり。爾の時釈氏摩訶男、仏の所に来識し、仏の足に稽首したてまつり退いて一面に坐し、仏に白して言さく、「世敷よ、云館が愛で窓と名づくるや」 ど。仏、摩訶男に告げたまわく、「優婆塞とは在家清我れを証知したまえ」」と。

現代語訳

このように私は聞きました。ある時、仏さまがカビラヴァットゥ(迦毘羅衛国)のニグローダ (尼拘律)園におとどまりになっておられました。そこへ、在家の弟子であり、仏さまの従兄弟でもあるマハーナーマ(摩訶男)が、数人の在家信者を引き連れて現われ、仏足頂礼の礼をして仏さまの前に座り、質問いたしました。

「世尊よ、優婆塞(在家仏教徒)とは、どのような人に対して名づけられたものでありましょう

か?」

仏さまはマハーナーマに、

「在家の者が仏や卵となる僧侣のもとに行き、『自分が生きているかぎり、死ぬまでの今後一生を通して三宝に帰依いたします。私を優要塞としてお認めください』と申し出て、仏や僧侶がそれを認めるならば、その者は優婆塞となります」

と告げられました。

まず、最初に「如是我聞(是の如く我れ聞きぬ)」という言葉があります。ほとんどのお経がこの言葉で始まっておりますが、「私はこのように仏さまからうかがいました」という意味です。 この「私」とはだれか?

記憶力第一といわれたアーナンダ(阿難)であるとこれは、お釈迦さまの十大弟子の一人で、記憶力第一といわれたアーナンダ( されております。アーナンダという方は、二十五年間にわたってお釈迦さまのおそば近くに仕え、 その説法の一言一句を残らず記憶していました。お釈迦さまがお亡くなりになった直後、このアーナンダや大長老のマハーカッサパ(摩訶迦葉)を含めた五百人の仏弟子たちがラージャガハ

(王舎城)の七葉窟に集結し、お釈迦さまの教法の編纂を始めたわけです。

マハーカッサバが座長になり、アーナンダが自分の聞き憶えていたものを口述し、それを弟子

この社員で義論していくという形で、教法はまとめられていきました。

たち全員で議論していくという形で、教法はまとめられていきました。

たとえばアーナンダが、

「私は園精舎でこのような教えを拝聴しました」

と話すと、それに異論のある者は手を挙げて、

「それは私の記憶とは違う・・・・・・」

と自分の記憶している内容を述べたわけです。すると座長のマハーカッサパが、

「みなさんはどのように記憶しておられますか?」

と、他の弟子たちに諮り、それぞれが記憶をたどりながら、正しい答えを導き出してまとめていったわけです(『南伝律』「小品」十一抄)。そのようにして編纂されていった経典が「阿含経」 です。

ですから、「阿含経」に「如是我聞」という言葉が使われているのは当然です。ところが、仏滅後数百年経ってから創作された経典、たとえば『宏華経』や『聖戦」などの大乗経典も、 「阿含経」の形式をまねて「如是我聞」の四文字から始まっています。これは言語道断です。ほとんどの経典がこの「如是我聞」から始まるために、後世の人たちはすべてのお経はお釈迦さま一代の教説である、と思い込んでしまったのです。さらには、間違った教相判釈が立てられ、 「阿含経」は小乗経典という、まったく見当違いの評価を受けるようになってしまいました。

「如是我聞」はたった四文字の言葉ですが、これほど重要な意味を持っています。わたくしたちは、「如是我聞」を使うことのできるお経は「阿含経」だけなのだという真実をよく理解すると

共に、それを世間に広めていかなければなりません。

優婆塞とはなにか

それでは、お経の内容を解説いたしましょう。

ある時、お釈迦さまがカビラヴァットゥ(迦毘羅衛国)のニグローダ(尼拘律)園におられました。カピラヴァットゥというのはお釈迦さまの故郷で、現在のネパールのタライ地方付近であるといわれております。そのカビラヴァットゥにニグローダ(サンスクリット語ではニヤグローダ。 バニヤンの樹)という樹木がたくさん生えている林があり、その中の精舍、つまり道場にお釈迦

た。 さまは滞在されておられました。 そこへ、在家の弟子であり、またお釈迦さまの従兄弟でもあるマハーナーマ(摩訶男)が、数人の在家信者を引き連れて現われ、仏足頂礼の礼をしてお釈迦さまの前に座り、質問いたしまし

しゃくし仏門に帰依した者はすべてお釈迦さまの子であるという考えから、仏教徒を釈子あるいは釈氏といいます。しかし、ここに登場するマハーナーマはお釈迦さまと同じ釈迦族の人ですから、ここでいう釈氏は「仏教徒の」と訳すだけではなく、「釈迦族の」と訳してもよいでしょう。

「仏の足に精首したてまつり」とは仏足頂礼といい、五体を地につけてお釈迦さまのおみ足を額にいただく礼拝のことです。インドではこれがいちばん丁寧で、心からの帰依を表す礼とされております。仏足頂礼は五体を地につけて礼拝するので、五体投地とも呼びます。スリランカなどの南伝仏教の国では、パーリ語で「ブッダム サラナム ガッチャーミ〈われ、仏に帰依したて

自えて仏足頂礼の礼をします。わたくしたちは動行の時に膝をかがめて、

ております。仏足頂礼は五体を地につけて礼拝するので、五体投地とも呼びます。スリランカなどの南伝仏教の国では、パーリ語で「ブッダム サラナム ガッチャーミ(われ、仏に帰依したて

まつる)」と唱えて仏足頂礼の礼をします。わたくしたちは動行の時に膝をかがめて、

「オンザラバタタギャタ ハンナマンナノウ キャロミ」 と花押いたしますが、これは五体投地を簡略化したものです。

しかし、形の上では簡略化してありますが、心の中では五体を地につけてお釈迦さまのおみ足

をいただいてる、と観想して礼拝しなければいけません。

マハーナーマもこの時、仏足を頂礼してお釈迦さまにご挨拶し、

「世尊上、優婆塞とは、どのような人に対して名づけられたものでありましょうか?」

と質問したわけです。

優要塞とはパーリ語・サンスクリット語のウバーサカを漢字に音写したもので、普通は男性の在家信者を指します。これに対して女性の在家信者は優婆夷と呼び、同じくパーリ語・サンスクリット語でウバーシカーといいます。

か? それでは、マハーナーマはそのようなことも知らなかったのか、というとそうではありません。 逆に、彼は優婆塞の深い意味をよく知った上で、質問しているのです。それは、なぜでしょう

たとえば「音」 マハーナーマ自身は優婆塞についてよく知っているけれども、自分が連れてきた者たちはまだよく分かっていない。そこで、優婆塞の心構えを知ってもらうために、わざと自分自身も知らないふりをしてお釈迦さまに質問しているわけです。このような質問の仕方を起櫻間と呼びます。 仏教経典の中には、時々こういう起機問が出てきます。

の時に、無意痛、傷を以て問うて日さく、世尊は紗短期わりたまえり、歌今重ねて彼を問いたてまつる、仏子飲の因縁あってか名づけて観世音とかすや、と)」

と無尽意菩薩が仏さまに、観世音菩薩の名の由来についてお尋ねするところがあります。無尽意菩薩とは、無尽蔵の智慧による功徳と救済を象徴した菩薩ですから、そのくらいのことを知らないはずはない。

しかし、そばにいる者たちは知らないから、それについて仏さまから直接説明をしていただいて、皆に聞かせてあげようということで、無知な人たちになりかわって質問をしているのです。 マハーナーマもこれと同じなのです。

マハーナーマの赴機間に対して、お釈迦さまは「優婆塞とは、在家清白、乃至『寿尽くるまで三宝に帰依し、優婆塞と為らん我れを証知したまえ』」とお答えになられました。

「在家清白」とは、お釈迦さまに帰依して、仏教を信仰しようという清らかな心を持っている在家の人、ということです。「寿尽くるまで三宝に帰依し」とは、自分が生きているかぎり、死ぬまでの今後一生を通じて三宝に帰依いたします、という意味です。三宝とは仏・法・僧、つまり仏さまと仏さまの教法、そしてお釈迦さまの教法を実践する僧伽(教団)のことです。その三宝に対して、自分は死ぬまで帰依いたしますから、私を優婆塞としてお認めください、とお釈迦さまや師となる僧侶に申し上げ、それが認められれば優婆塞になるというわけです。 そうぎゃ

っれると道場にきて、わたくしと一

諸君も、

に対して、自分は死ぬまで帰依いたしますから、私を優婆塞としてお認めください、とお釈迦さまや師となる僧侶に申し上げ、それが認められれば優婆塞になるというわけです。

阿含宗に入行する時も同じですね。誓約書を提出して認められると道場にきて、わたくしと一緒にお護摩を焚く。続いて、ご本尊・真正仏舎利尊との仏縁を結ぶ灌頂を受け、これから一生懸命に仏舎利宝珠尊解脱宝生行(以下、解脱宝生行)をやっていきます、と仏さまにお誓いを立ててからご宝塔をいただきます。これも、このお経に則っているわけです。

そういうと、

「一生涯、修行するのですか?」

と聞く人がいるかもしれない。しかし、ひとたび入行して本当の仏さまの修行を始めたならば、 やはり一生涯にわたって仏さまの教えを守っていく、という気持ちが生ずるのは当然です。もしも、そういう気持ちが起きないならば、解脱宝生行を完全に修行したとはいえません。本当に修行をしたならば、必ずこの修行を持続させようという気持ちが起きるのです。それが起きないならば、本当に修行したとはとても考えられません。

「自分は生涯をかけて修行をする、というつもりで信仰をしているだろうか?」

と、よく考えてごらんなさい。もしもそういう気持ちがなければ、因縁を切ることなどとてもできません。もう一度それについて、自分の心に問いかけてごらんなさい。