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Mac

シュダオンへの覚醒 ――けがれを脱ぐ者

序章 群盲の象 ――賢人の道のはじまり

夜明け前の砂漠に、四人の旅人がいた。
東から来た者は十字架を背に、愛の光を語った。
西から来た者は法典を抱き、秩序の力を説いた。
南から来た者は袈裟をまとい、空の智慧を唱えた。
北から来た者は榊を手に、自然の調和を祈った。

彼らは、同じ象を囲んでいた。
だが、誰もその全体を見てはいなかった。

「これは柔らかい。まるで蛇のようだ」
「いや、堅くて動かぬ。塔のようだ」
「違う、これは扇のごとく広がっている」
「否、それは大地そのものだ」

言葉が交わるたびに、争いが生まれ、光が遠のいていく。
やがて、沈黙の中から一人の老人が歩み出た。
白い布をまとい、瞳には静かな光が宿っていた。

「お前たちは盲ではない。ただ、部分しか見ていないのだ。
愛は真理の一部。法もまた真理の一部。
空も、自然も、すべては“象”のかけらにすぎぬ。
だが、心が純なるとき――その象は一つに見える。」

四人は息をのんだ。
老人は手を胸に当て、静かに言葉を続けた。

「その“全体を観る眼”を開く法が、阿含経に説かれている。
それは成仏の道――
賢人の五階梯として、心の奥に刻まれておる。」

「五階梯……?」
キリスト者が尋ねると、老人は砂に指で五つの円を描いた。

「第一、戒を立つ――己を正す道。
第二、定を得る――心を澄ます道。
第三、慧を観ず――真理を照らす道。
第四、慈を抱く――他を包む道。
第五、覚を成す――すべてを一として観る道。」

「この道を歩みし者を、人は“シュダオン”と呼ぶ。
けがれを脱ぎ、真の眼を開く者――
すべての宗教を超えて、真理そのものに帰る者だ。」

砂漠の夜が明け始めた。
東の空に、淡い光がのぼる。
四人は互いに顔を見合わせ、ゆっくりと頷いた。

――すべては、そこから始まった。
シュダオンへの覚醒の旅が、静かに幕を開けたのである。

 

第一章 戒を立つ者 ――心の砂を清める

砂漠の夜が明け、四人は老賢人の言葉を胸に、
それぞれの道具を地に置いた。
十字架も、法典も、数珠も、榊も――
すべてを一度、沈黙の中に返した。

「戒とは、己を縛る掟ではない。
心の砂を清め、鏡のようにする法である。」
賢人はそう言って、朝露に濡れた砂をすくった。
「見よ、混ざりあえば濁る。
だが、沈めば澄む。
人の心もまた同じだ。」

キリスト者の青年は首を垂れた。
「私は愛を説きながら、心の奥で敵を憎んでいました。」
賢人は微笑んだ。
「それを知ることが、第一の戒だ。
“偽らぬこと”――愛を愛として、真に見ること。」

イスラムの学者は沈黙を破り、
「我は律を守りながら、人を裁いてきた。
秩序の名の下に、他者を閉め出した。」
賢人は頷いた。
「それもまた、心の砂。
“裁かぬこと”――法を法として、柔らかに見ること。」

仏僧は瞑目していた。
「私は“空”を説きながら、空そのものを観ずにいた。
言葉に執し、沈黙を恐れた。」
賢人は彼の肩に手を置いた。
「“語らぬこと”――真の智慧は、沈黙の底にある。」

最後に、神道の巫女が囁いた。
「私は自然と一体を願いながら、
人を嫌い、街を避けてきました。」
賢人は静かに微笑んだ。
「“離れぬこと”――人もまた自然の子。
調和とは、逃れることではなく、受け入れること。」

四人は深く頭を下げた。
それぞれの心に、ひとつの言葉が灯った。

――偽らぬこと
――裁かぬこと
――語らぬこと
――離れぬこと

賢人は言った。
「この四つの戒を保つとき、心は鏡となる。
鏡が曇らぬ者、すなわち“戒を立つ者”だ。」

砂漠を渡る風が、静かに音を立てた。
朝日が昇り、砂の粒が金色に輝く。
その光の中に、四人の影が長く伸びていった。

それが――賢人の五階梯、
第一の門をくぐる者たちの姿であった。

第二章 定を得る者 ――心を澄ます湖

砂漠を越えた先に、静かなオアシスがあった。
水面は鏡のように凪ぎ、風の音さえ眠っている。
四人はそこに座し、それぞれの方法で心を沈めた。

キリスト者は胸に十字を描き、祈った。
「主よ、我を照らしたまえ。
愛の光を、ただ静けさの中に見させたまえ。」
祈りは声を離れ、やがて息に溶けていった。
そのとき、彼の胸に“言葉なき平安”が満ちた。

イスラムの学者は大地に額をつけ、五度の礼拝をした。
だが、儀礼を越えたある瞬間、
彼の心はただひとつの呼吸に集まっていった。
「アッラーは偉大なり」
――その響きが消えたあとも、沈黙が彼を包んでいた。

仏僧は蓮華座に坐した。
「息を観ずるは、心を観ずることなり」
吸う息と、吐く息――
その間に、何もない“今”があった。
そこに過去も未来もなかった。
ただ、在るという慈悲があった。

巫女は泉のほとりに立ち、両手を水に浸した。
冷たさが掌を満たし、やがて心にまで沁みていく。
「すべては水に映る影……」
風が頬を撫でるとき、
彼女は初めて“自我の輪郭が消える感覚”を知った。

そのとき、オアシスの水面に、一つの光が映った。
四人の姿がひとつに重なり、
それはまるで――四つの星が交わる銀河のようであった。

賢人が再び現れた。
「よくぞ、静けさに入った。
これが“定”――心の湖。
波なきところに、真理の月は映る。」

彼は水面を指さした。
そこには、雲ひとつない青空と、昇る太陽が揺らめいていた。

「戒は地、定は水。
地が正しく、水が澄むとき、
次に現れるは“慧”――
真理を照らす、光の知だ。」

四人はその言葉に静かに頷いた。
風が再び吹き、
水面に波紋が走ったが、心は乱れなかった。

――その波さえも、光を映す道だった。

第三章 慧を観ずる者 ――光の知、闇を照らす

夜が来た。
オアシスの水面には、月がまるく浮かんでいた。
静寂の中で、四人は同じ月を見つめていた。
だが、見えているものは――それぞれの心で異なっていた。

キリスト者は、月を「愛の象徴」と見た。
彼の胸には、ひとつの言葉が響いていた。

「汝、敵をも愛せよ。」
その意味が初めて、理解ではなく“光”として胸に落ちた。
敵とは他者ではない。
それは、己の内にある恐れだった。
恐れを抱きしめたとき、愛は形を持たず、ただ照らす光となった。

イスラムの学者は、月を「秩序の印」と見た。
これまで彼が信じた“神の法”は、
罰するための剣ではなく、“守るための輪”であると悟った。
正義とは、他を従わせることではない。
それは、すべての命をひとつの調和に導く知の働きだった。
その瞬間、彼の胸に静かな涙が流れた。

仏僧は、月を「空の鏡」と見た。
その光には、実体がなかった。
水に映る光は、触れられず、掴めず、ただ“ある”。
己もまた、そのような“空なる存在”であった。
そこに苦も喜びもなかった――ただ、慈悲があった。

巫女は、月を「自然の心」と見た。
それは天でも地でもなく、ただ“めぐる命”の証。
すべてが満ち、やがて欠け、また満ちる。
死は終わりではなく、ひとつの呼吸だった。
風も、水も、虫の声も、
そのすべてが「私」という名の輪の中で息づいていた。

四人の眼差しが、ひとつの月に重なったとき――
水面に、四つの光が溶け合った。

賢人が姿を現した。
その顔には、夜空の星々のような微笑があった。

「よく見た。
それぞれの月は違って見えても、光は同じだ。
これが“慧”――
闇を照らす智の光。
汝らの心に宿る真理の眼である。」

彼は掌を広げ、四人の胸に触れた。
その瞬間、四人の内なる闇が照らされ、
過去の恐れ、怒り、迷いが、淡い光の粒となって空へ昇っていった。

「戒は地を正し、定は水を澄ます。
慧は、そこに映る月を悟らせる。
次に学ぶべきは“慈”。
光を得た者が、その光で他を包む道だ。」

月が雲に隠れた。
だが、四人の心はもう暗くならなかった。
光は、外にではなく、内に宿っていたからである。

――こうして、賢人の五階梯の第三の門「慧」は開かれた。
次に訪れるは、愛と慈悲が世界に広がる「慈」の段階。
そのとき、四人の旅は、個の悟りから“共の悟り”へと変わっていく。

 

 

 

第四章 慈を抱く者 ――光、他に及ぶ

風が変わった。
砂漠に春の気配が漂い、
冷たい夜風が、やわらかい朝の息に変わっていた。

オアシスを後にし、四人はそれぞれ別の道へ歩き出した。
だが、彼らの胸には同じ光が宿っていた。
その光は、沈黙の中で育まれた“慈”の芽であった。

一 キリスト者の赦し

キリスト者の青年は、戦で父を失っていた。
敵国の兵を憎み、長く祈りの中でさえ怒りを抑えられなかった。
だが今、彼は村外れの井戸で、一人の老人と出会った。
その老人こそ、かつて父を討った将だった。

青年は胸の奥で炎が揺れるのを感じた。
だが同時に、老いたその男の瞳に――恐れと悔いの影を見た。
青年は口を開いた。

「あなたを赦します。
この痛みもまた、愛の中にあります。」

老人の頬に涙が伝い、
青年の心にも、静かな温かさが灯った。
そのとき、彼は知った。
赦しとは、相手を解放することで、自分もまた解かれることだと。

二 イスラムの学者の守り

学者は荒れ果てた村に辿り着いた。
病が流行し、律を守る余裕さえ失われていた。
人々は「神は我らを見放した」と嘆いていた。

学者は法典を開かず、ただ水を汲み、子どもたちに分け与えた。
「神の法とは、文字ではなく慈悲の行いに宿る。」
そう言って、夜通し病者の手を拭いた。

朝になると、村人たちは彼を囲んだ。
「あなたの行いが、わたしたちに神を思い出させた。」
学者は微笑んだ。
法とは、人を生かすためにある。
その言葉が、静かに胸に刻まれた。

三 仏僧の光

仏僧は山寺に戻った。
弟子たちは瞑想に励んでいたが、
ある若い僧が焦りと嫉妬に苦しんでいた。

「私は悟れません。
師よ、なぜ私だけ闇の中にいるのですか。」

仏僧は言った。
「闇を嫌う者は、光を遠ざける。
闇を抱きしめよ。そこに、光が生まれる。」

若い僧は涙を流しながら坐禅に戻った。
その背を見つめながら、師は思った。
慈とは、導くことではなく、見守ること。
それが、最も深い教えであると。

四 巫女の祈り

巫女は森に戻った。
干ばつに苦しむ村人たちが、
神に怒りを感じ、祈りをやめていた。

巫女は森の奥でひとり祈った。
「雨よ、人の涙を映して降りてください。
この地の苦しみを、あなたの命で癒してください。」

その夜、雲が集まり、
朝には久しぶりの雨が降った。
村人たちは涙を流し、巫女は空を仰いだ。

自然と人は二つではない。
その気づきが、彼女の祈りをさらに深くした。

そして再び、四人は同じ場所に集まった。
賢人は彼らを見て言った。

「よくぞ光を他に及ぼした。
慈とは、愛を超えた愛。
己を滅してなお、世界を包む心である。
――これを抱く者は、すでに覚者の門に立っている。」

四人の胸から、柔らかな光が放たれた。
それは四つの流れとなり、やがてひとつに溶けていった。

「次に訪れるは最後の階梯――覚。
光が全てを照らし、すべてが光となるとき、
人はシュダオンとなる。」

風が静まり、世界が息を止めた。
夜明けの前、宇宙は何かを待っているようだった。

第五章 覚を成す者 ――すべて一に帰す

砂漠の夜明け前、オアシスに再び四人が集まった。
風は静まり、水面は鏡のように凪いでいる。
空には、星の残像が淡く残り、
その光が水面に映って微かに揺れていた。

賢人が彼らの前に立ち、静かに語り始めた。

「ここまで来た者は、もはや迷わぬ。
戒で心を清め、定で静寂を得、慧で光を知り、
慈で他を抱いた。
残るは最後の階梯――覚。
すべてが一に帰する境地だ。」

四人は息を整え、心を澄ます。
光が胸から全身に広がり、やがて水面の月と星の光と溶け合った。
目に見えるものも、耳に聞こえるものも、
すべてが消え、残るはただ――静かな透明の中にある光。

キリスト者の青年は悟った。
「愛は、他を越えて自己そのものと一つになる」
イスラムの学者も知った。
「法は、執着を離れれば、すべての命を繋ぐ光となる」
仏僧は理解した。
「空は、すべての形と無形を包含し、すべてを慈悲で満たす」
巫女は気づいた。
「自然は、我と他を分けず、命の呼吸として循環する」

四人の光は交わり、ひとつの球体となった。
その光は夜空に浮かび、星々を照らし、
砂漠全体を包み込む。
賢人の声が響いた。

「これぞ、シュダオン――けがれを脱ぎ、
光そのものとして存在する者。
心の中の闇も、世界の闇も、
すべてが光に変わるとき、
汝らは真に覚り、宇宙と一つとなるのだ。」

その瞬間、オアシスの水面に、無数の光の波紋が広がった。
四人は手を取り合わずとも、心がひとつになったことを知った。
全ての宗教の教えも、言葉も、文化も、
光の中では一つの旋律として響き合っていた。

やがて朝日が昇り、砂漠を黄金に染めた。
その光の中で、四人の姿は透明になり、
まるで風や光や水の一部となったかのように消えた。

だが、残されたのは――
全ての生命を照らす、普遍の光。
それは、見る者すべての胸の中に宿るものであった。

――こうして、賢人の五階梯は完成し、
シュダオンとしての覚醒が、静かに世界に示された。

砂漠の風は再び流れ、光は波紋となって広がり、
すべては一つ――
すべては光。

 

 

 

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日本の神は、自然物や自然現象、生業、偉人などを神として崇める八百万の神として存在します。古事記日本書紀には、日本の神話に登場する主要な神々(例天照大御神須佐之男命大国主神や、天照大御神を代表とする**天津神、国土を形成した国津神**などが記されています。

主要な神々
    • 天照大御神(あまてらすおおみかみ):太陽を司る女神で、皇祖神とされています。
    • 須佐之男命(すさのおのみこと):天照大御神の弟で、海や嵐を司る神です。
    • 伊邪那岐命(いざなぎのみこと)・:伊邪那美命(いざなみのみこと): 日本の国土と神々を創造した夫婦神です。
  • 大国主神(おおくにぬしのかみ):国土の経営や医療を司る神です。
その他の神々
  • 稲荷神(いなりしん):穀物や商売の神として広く信仰されています。
  • 八幡神(はちまんしん):武神、国の守護神として崇められています。
  • 天神(てんじん):天満宮などで学問の神として祀られています(例:菅原道真)。
  • 大山津見神(おおやまつみのかみ):山の神です。
  • 綿津見神(わたつみのかみ):海の神です。

虚空蔵の微笑 ― 終わりなき法の循環

虚空蔵の微笑 ― 終わりなき法の循環

東の空が淡い金色に染まり、夜の名残が静かに消えゆく頃、慧真は社の前に立っていた。
炉の火は微かに燃え、煙は天に溶け、見えぬ曼荼羅の輪を描くように漂っていた。
村人たちは静かに目を閉じ、子どもたちは互いに手を取り、光の輪に包まれている。
その光は、もはや慧真だけのものではなかった。
師の想い、祖霊の祈り、そして彼らを護る守護の力が、一つに融合していた。

遠くの山中で、導師もまた坐していた。
胸の奥に、微細な振動が流れる。
それは慧真の呼吸と共鳴し、祖霊の声と、空に広がる星の息吹と、静かに重なり合った。
「法は循環する……途切れることなく、形を超えて。」
導師の心に、確かな微笑が浮かぶ。
その微笑は、もはや個を超えたものだった。
虚空そのものが微笑んでいるかのように、世界が穏やかに震えた。

慧真は炉に近づき、掌に残る火の粉を空に放った。
それはひとつの光の粒子となり、風に乗って村を、山を、川を越えて流れてゆく。
その瞬間、彼は悟った。
この火は、もはや自分のものではない。
村人たちの祈りと共に、祖霊の力と共に、導師の教えと共に――
宇宙の循環の中で、永遠に燃え続けるものなのだと。

社の影で、祖霊たちの気配が柔らかく揺れた。
かつては人間として、生活の中で悩み、喜び、苦しんだ魂たちが、
今や光となり、風となり、慧真と村を護る力として満ちていた。
守護の光は、誰もが触れられるほど近くにあり、しかしすべてを包み込むほど広大であった。

「これが……法の本質か」
慧真は静かに息を吐き、目を閉じた。
虚空は答えを返さず、しかしすべてを示していた。
無限の星々が、川のせせらぎが、木々の葉擦れが、
ひとつの調和として、彼の内に響き渡る。

やがて朝日が完全に昇り、光は村を黄金に染めた。
子どもたちは遊びながら、火の話を交わす。
老人たちは微笑み、かつての不安や迷いを忘れていた。
そして慧真は静かに歩き、光を受け継ぐ者として、ひとつひとつの手を取って導いた。

遠くの山では、導師の目にも光が宿る。
「よくぞ灯を渡したか……」
しかしその光は、もはや彼だけのものではない。
法そのものが、世界に満ち、すべての生命を貫いていた。

風が吹き、火の粉が星と交わる。
それは人の世代を超え、時間を越え、空間を越えて、
護りの火として、すべての生命の中に生き続ける。
慧真も導師も、祖霊も、そして村人たちも――
ひとつの循環の中で、虚空の微笑に包まれていた。

虚空蔵の微笑は、終わることなく、始まりのない法の流れとして、
世界の奥底で静かに、しかし確かに、永遠に輝いているのだった。

祖霊を守護霊・守護神にする

先祖の霊を守護霊・守護神にするということは、要するに、さきにのべたように、神道における「氏神」の発想と同じことだと思えばよいであろう。

発想というと、ただたんなる思いつきのようにとられるおそれがあるけれども、 この考えは正しいのであって、祖先の中で、最も徳が高く、力もあり、没後、霊界において霊格を生じた方を、守護神、守護霊として祀り、その霊格をさらに高め、 力を強めるための祭祀をするときは、その祖霊はさらに昇格して、守護の力を強大ならしめ、その子孫を護持してくださるのである。

神道のほうでいうと、たとえば、皇室では、皇室の守護神として、祖霊を祀られた。その守護神の中心は、その御先祖たる天照大神であり、これに、つぎの八神を

熱帯

七、事代おすとしろもしろかっ

八、御膳神

これに十種神宝が加わるのであるが、この八神のうち、事代主神をのぞいた七神は、自然神の神霊である。人格神である事代主神は、大国主命の息子であり、天孫てんそん

ころりん降臨の際、父、大国主命に、国土を天孫にゆずることを勧め、出雲系氏族の中で、

最初に天孫に帰順の誠心をあらわし、忠誠を尽くした神であり、神界における霊格

が高いため、皇室の守護をつかさどる神として祀られたのである。

 

最初に天孫に帰願の誠心をあらわし、忠誠を尽くした神であり、神界における霊格が高いため、皇室の守護をつかさどる神として祀られたのである。

きにのべた。 このように、祖先でなくても、祖先に力を尽してくださった方で、霊格をそなえた方ならば、これを祀り、守護神、守護霊となっていただくことはできるのである。この方式が、皇室以外の大氏族にも取り入れられて、その氏族を守護する神霊を祀り、氏神として尊崇し、氏族全体を守護していただくことになったことは、さ

祖霊を守護霊・守護神にするということは、この方式を、各家庭に、そのまま移したものと思えばよいであろう。

わが家の祖先の中で、霊界に入って、霊格をそなえた方を探し出し、これを供養して(神道では祭祀、仏界では供養)その霊格を高め、守護霊・守護神となっていただくのである。

 

そういうと、ここで一つの質問が出るであろう。それは、

それでは神道とまったく同じではないか、 という質問である。

それでは、仏教ではなく、神道ではないか。仏教の僧侶である著者は、神道を勧めるのか?という質問である。

そうではないのである。

祖霊を祀って、守護していただくということは、神道も仏教も目的は同じである。しかし、その方法において、非常に違うところがあるのだ。それは、「成仏」 という問題である。

ぎのようになる。 仏教において、守護霊を授かるためには、逆修供養が必要である。その過程はつ

雪山に建立された由緒正しいきみを持っ

二、この菩提所に祖霊を祀り、不成仏霊や、その他、一切の不浄な霊を解脱成仏させる

三、阿闍梨から戒名をつけていただき、解脱成仏法を修していただく

する四、祖霊の中から、有徳の霊を探していただき、増益供養を修して守護霊を育成

現代にこの四つの条件を満たすことは、きわめて困難と言わねばならない。

まず、一、の条件を満たすには、つぎの三つの条件がある。

(一)、霊界に直結する霊山であること

(二)、由緒正しい仏舎利(お釈迦さまのご聖骨)がお祀りされていること

(三)、どんな不成仏霊でも成仏させる霊力を持つ阿闍梨がおられること

すべてを備えたところが最高の菩提所であるが、少なくとも二つは備えていなければならない。

「霊山」も「由緒正しい菩提所」も、霊界にかかわることであるから、人間が口を極めて言っても意味をなさないだろう。ちなみに、わが教団の本尊は、真正仏舎利である。そして三身即一の如来や龍神など諸尊が法爾無作のおすがたをもって現形され、霊界直結の聖地であることをお示しになり、この二つが整っていることを証してくださっている。畏れ多くも、写真にそのお姿をとどめ置かれており、誠にありがたいことである。

つぎに、直接に「成仏」ということがかかわってくるのが、残りの二と三と四である。

らない。 このことを理解していただくには、まず、仏陀釈尊の成仏法について語らねばな

 

いていない。そして彼は、この法を修行しなければ、仏陀としての正覚は得られず、絶対に仏陀になることはできない、と繰り返し説いている。

これに対し、「死者の成仏法」は、生前の悪因縁、悪業、怨念などのために霊界や冥界に行けず苦しんでいる霊(これを不成仏霊という)を、解脱成仏させる法である。

この法は、仏陀の生者の成仏法を体得した導師だけが修法できる。というのは、 生者の成仏法も死者の成仏法も、ともに「因縁解脱法」であって、その違いは、対象が生きている人間か死者であるかの違いだけだからである。死者は自分で解脱のための修行ができないから、この法を体得した導師が法を修して、正覚を廻向するしかない。だから、仏陀の成仏法を体得した導師でなければ、修することができないのである。 さとりえころ

れでは霊障は消えない。慰露法であって、成仏法ではないからである。霊を慰めるだけで、解脱させられない。だから、ただたんに一時、霊障を押さえることはできても、すぐに元に戻ってしまう。

ある。 人間の不幸、災難、のほとんどは、先祖から受けついだ不徳・悪徳が原因している。また、人間の思考・行動の形式、性格形成、等すべて先祖の強い影響のもとに

これらのことを指して、わたくしは「霊障」と呼んでいるのである。

端的にいえば、苦しんでいる霊の影響を、現世に在るわたくしたちが受けることが少なからずある、ということである。

このことについて、世の多くの人びとは、まったくといっていいほど無知である。また、それがわかっていたとしても、どうしていいのか、その対策のしかたを知らないというのが、実情である。

仏陀の成仏法こそが、それを解決するただ一つの方法なのだ。

仏陀の成仏法だけが、すべての霊障を消滅させ、完全解脱させることができるのである。

かんじんひと口に先祖供養というが、各宗旨、宗派によってさまざまな形式がある。だが肝心なのは、先祖の霊障をとりのぞくということである。先祖の霊障を消滅させる

力を持った先祖供養でなければ、完全な先祖供養とはいえない。

それが完全にできるのは、仏陀釈尊の成仏法による先祖供養だけである。

この仏陀釈尊の成仏法による先祖供養は、二つの法から成っている。

一、解脱供養法

二、冥徳供養法

 

成仏法」ともいう。 法は、強い出を持つ置障のホトケを、完全解脱させる法である。「謎

強い想念を持つ霊障のホトケは、子孫に非常な悪影響を与える。

置障のホトケのいる家庭には、必ず、強い「肉親血縁相剋の因縁」が生じて、家

旅の間に、いつも争いが絶えないことになる。あたたかい会話などほとんど交わさ

れず、親子、兄弟、夫婦が、いつもいらいらしていて、ちょっとしたことで罵り合

い、どなり合う。つかみ合いのけんかが始まる。というように、争いが絶えない。

また、霊障のある家庭は、強い「家運衰退の因縁」があるから、なにをやっても、うまくいかない。不運と挫折の連続である。病気や、怪我、人にだまされる、 かうんずいたい

など、わけのわからない不幸や災難に見舞われる。そういうところから、家族間の

争いは深刻の度を増してゆく。不幸な時ほど家族みんなが力を合わせ、仲よく協力し合って対処しなければならないのに、逆になってゆくのである。

こういう先祖の霊を霊視して探し出し、良い戒名をつけてあげて、導師が成仏法を修するのである。

解脱供養をすると、こういったことが、驚くほど、変わってくる。とにかく、家庭を覆っていたトゲトゲしい空気、暗い空気がいっぺんになごんでいくのが実感される。てきめんに変わってくる。

つぎに、冥徳供養は、強い霊障を起こすまでには至らないが、しかし、成仏できずに苦しんでいる、多数の不成仏霊に対する成仏供養である。

儒教の大学者、安岡正篤先生は、

「われわれの先祖は、二十代さかのぼると、百万人を越え、三十代さかのぼると十

を超えるという」

とおっしゃっている。

「わたくしの霊視によると、直接、霊障の影響を与えるのは、三代ないし、四代くい前までの先祖である。特殊な例をのぞいて、ふつう、それくらいである。

これに対し、不成仏霊の影響は、七、八代、時に十代くらい前まで範囲が及

「いずれも「家運衰退の因縁」と、それにかかわる悪因縁のもとをなしている。

る。 時には、何代前かわからない不成仏霊の漠然とした悪影響を感じることがあばくぜん

ごうこういった場合、多くは、単体ではなく、数体、もしくは十数体もかたまっていることがあり、わたくしは、これはもう「因縁」ではなく、「業」になっているな、 と思うことがある。これらも、その家系の運を悪くし、さまざまな災難のもとをないえ