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Mac

三章 同開発――第三の目をひらく

それは、奇妙な言い方をすれば――
脳を殺す修行であった。
青年は、山中の庵で師の前に坐していた。
風が杉の葉を揺らし、遠くで沢の音がかすかに響いている。
「大脳辺縁系と新皮質脳を殺せ」
師は静かに言った。

その言葉は冷たく、鋭く、まるで刃のように胸に刺さった。
――殺す?
恐怖ではない。
だが、常識が揺らぐ。
「誤解するな」
師は続けた。
「殺すとは、否定することではない。
いったん閉ざすのだ。
沈黙させる。
そうしなければ、間脳は目覚めぬ」
間脳。
師はそれを「霊性の座」と呼んだ。
ほんとうの創造の源泉。
真のインスピレーションの泉。
新皮質は創造の座だと世間は言う。
だがそれは、まだ地上の創造にすぎない。
間脳が開いたとき――
はじめて、霊性を基盤とした創造が生まれる。

「第三の目は、そこにある」
青年は、静かに目を閉じた。
呼吸が落ちていく。
思考が、ゆるやかにほどけていく。
感情の波が、次第に鎮まっていく。
怒りも、欲も、記憶も、未来への計算も。
それらはすべて、大脳辺縁系と新皮質の働きである。

それを、いったん止める。
それは死に似ている。
だが、死ではない。
深い湖の底に沈むような、透明な静寂。
そのとき――
微かな光が、内側に灯った。
額の奥。
脳の奥深く。
思考では触れられぬ場所。
そこに、何かがある。

師は言った。
「これが、成仏法だ」
青年はその言葉を胸に刻んだ。
成仏とは、霊性の完成。
それを成就した者を、ブッダと呼ぶ。
その道は、七つの体系と三十七の修行から成る。

古来より伝わる法。
七科三十七道品。
四念処。
四正断。
四神足。
五根。
五力。
七覚支。
それは単なる教理ではない。
脳の再編成であり、魂の再誕である。
だが、道にはもう一つ、決定的な鍵がある。
――グル。
霊性を開顕した師。
青年は、初めて師と出会った日のことを思い出した。
あのとき。
師の眼が、まっすぐにこちらを見た。
その瞬間、世界が止まった。
思考の流れが断ち切られ、
心の奥底まで、光が射し込んだ。
まるで電流が体内を貫いたようだった。
それは恐怖ではない。
浄化であった。
雑念が焼かれ、
奥底に眠っていた憧れが目覚めた。
――霊性の洗礼。

「師なくして、霊性の完成はない」
青年はそれを、いま、骨身にしみて理解していた。
経典の解釈では足りない。
信心の形式でも足りない。
霊的パワーの感応。
感応道交。
師は水路である。
ブッダの霊性が流れこむ、唯一の道。
弟子は、ただ心を開く。
疑いなく。
混じりなく。
純一に。

山の空気が冷える。
青年は再び坐る。
呼吸を観る。
身体を観る。
心を観る。
法を観る。

四念処が始まる。
雑念が起これば断つ。
善を守り、善を育てる。
やがて欲が一点に集まり、
精進が火となり、
心が集中し、
観が鋭くなる。
五根が芽吹き、
五力が固まり、
七覚支が整う。

ある夜。
完全な静寂の中で、
突然、内側が開いた。
音はない。
光もない。
だが、確かに「開いた」。
それは爆発ではなく、
無音の黎明。
間脳が、目覚めた。

その瞬間、
新皮質は死んだのではなかった。
――甦った。
以前とは違う。
霊性を基盤とした、新しい知。
思考は透明になり、
言葉は澄み、
創造は深くなった。

師が言う。
「これが同開発だ」
殺すことは、生かすこと。
閉ざすことは、開くこと。
第三の目は、
外界を見るためではない。
内なる宇宙を見るために、ある。

青年は、静かに額に触れた。
そこには何もない。
だが、確かに開いている。
山の夜は深い。
しかし彼の内側には、
太陽のような光が、
静かに昇りはじめていた。

聖者への四つの階梯 ・きよめられた聖者

聖者への四つの階梯

・きよめられた聖者・須陀洹脳ホラーキーのバランスをとりもどす

る。 あやまりばんのうさきにのべた大脳辺縁系脳・新皮質脳を殺す修行とは、この二つの脳が生み出す(あるいはこの二つの脂がいだいている) 迷妄と妄想とそこから生ずる煩悩を抹殺する修行である。ひと口でいうと、こころのまよいとけがれを一掃する修行である。その修行が須陀画の階梯でおこなわれ

グルは、特殊な想と実践とをもって、修行者のまよいとけがれを取り去る。仏教でいう「厭情世界」(理解のしかたがさかさまであること。実相の世界とかけはなれた虚仮の世界を実相の世界と思いあやまり執着すること)は、大脳辺縁系脳・新皮質脳がおかすまちがいである。それは「豚ホターキー」のアンバランスが生み出す迷妄なのである。

さきにのべたように、人類はここ数千年間、新皮質脳による世界をつくりあげてきた。霊的世界を抹殺してしまい、霊的世界の存在を認識する問脳を閉鎖してしまった。現象世界と霊的世界

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が共存している実相世界をただしく認識させるためには、新皮質脳(と大脳辺縁系脳)を一時間めして、霊的世界を認識できる間脳を動かす訓練をしなければならないのである。

いままでの宗教(仏教をふくめて)はすべて誤っていたのである。まちがいをおかしている心と、まちがいとおかしている心で変えさせようとしてきたのである。これは徒労であった。新皮胃腸を使って新皮質脳を変えさせようとしていたのである。一時は理解し、納得するかにみえる

が、すぐに元にもどってしまう。

「なんじ悔いあらためよ」といい、「悟れ」という。すべて心が対象である。

こころを変えるのではなく、脳を変えるのだ。まちがった脳を閉ざして、ただしい脳のはたらきをうながす。

それによって、「脳ホラーキー」はバランスをとりもどすのである。

そうすれば、「悔いあらためよ」も「悟れ」も必要ないのだ。間脳がひらき、霊的能力がはたらき出せば、そんなことはわかりきったあたりまえのことになってしまうのであり、聖書もお経もまったく不要になってしまう。なぜならば、聖書や経典の説く世界がそのままただちに自分の世界になってしまうのだから、いまさら読んだり理解しようとする必要など無くなってしまう。

大乗経典あたりが一生けんめいに説いていることなど、幼稚しごくなものになってしまうのであ

し、実践したのだ。 七科三十七道品の成仏のカリキュラムとは、そういう方法なのである。わたくしはそれを発見

なければならないのである。 つぎに、「きよめられた聖者」は、いまのべた的なものだけではなく、発的にもきよめられ

それはどういうことかというと、自分の持つ「霊的なけがれ」もとりのぞかなければならないということである。

霊的なけがれとは、自分にかかわりのある不成仏霊・霊障のホトケのことである。これをندر ごとくとりのぞかなければならない。

あくみるのである。 自分にかかわりのある不成仏霊・霊のホトケを持っていると、それらが持つ邪まな性格や想念の影響からのがれることができないのである。さらにおそろしいのは、それらの不幸な存在がたどった運命の、「運命の足度」をするおそれがつよいのである。「運命の反覆」とはカルツの反種にほかならない。これが最もおそろしいのである。これは修行者にかぎらず、ふつうの人の生活においても、赤惨な人生をおくった霊のホトケの人生を、そのまま反覆するケースを赤倉に

世界的な学者で、フロイト、ホンダのあとどうけてあらわれたあたらしい心理学、「 心理学家的心」(Schicksalsanalyse)の創始者リポット・アンディ博士は、「家

族的無意識」により、「個人のなかに抑圧されている祖先の欲求が子孫の恋愛、友情、職業、疾病、および死亡における無意識的選択行動となって、個人の運命を決定する」と説いた。これが 「運命の反覆」である。わたくしは、この「運命の反覆」が、霊的現象をともなって特に顕著にあらわれるのをつきとめている。

つまり、ソンデイ博士のいう「家族的無意識」とは、霊的にいうと、不成仏霊・霊障のホトケということになるとわたくしは確信するのである。くわしいことは、抱著『チャンネルをまわせ』『守護霊を持て』(以上、平河出版社)を読んでいただきたい。

この不成仏霊と霊障のホトケの排除は、修行者自身では不可能なので、このとき、霊力あるグルの助けが必要なのである。この霊的な「きよめ」がないと、修行者は一歩も進めない。この霊的な「きよめ」によって、聖者、須陀洹は誕生する。

霊光の発生

聖者須陀洹は、また、「預流」の聖者、「逆流」の聖者ともよばれる。

「預流」とは、あたらしく聖者の流れに入った(預)という意味であり、「逆流」とは、生態・ 因縁の流れに逆う聖者という意味で、つまり、凡夫であるかぎり生死・因縁の流れのままに生きてゆくよりほかなく、その流れに違うことはできない。須陀洹は、その流れに逆う、つまり、生

死・因縁の法則から超越する聖者である、という意味である。

ところで、わたくしは、須陀祖が「預流」とよばれ、「預流」とはあたらしく聖者の流れに入った者、という意味であると知ったものの、どうして須陀洹になると聖者とよばれるのか、その理由がわからなかった。まあ、そういうものなのだろうくらいにうけとっていたのである。ところが、霊眼を持つようになって、すぐにその理由がわかったのである。

それは、須陀祖の境界に入ると、特殊な霊光が生じるのである。あるいは、その特殊なオーラが生じたから、須陀洹になったということなのであろう。

ご承知の通り、人間のからだをとりまく特殊エネルギーの雲、つまり、『オーラ』の概念は、 何十世紀もむかしにさかのぼる。聖人をえがいた古い絵は、キリスト教徒が光輪を考え出すずっと以前から、聖人たちが光りかがやくものの中に立っているのを示している。東洋の仏像は二十世紀もむかしから、光輪・光背というかたちで表現している。神秘的な性質を持つこのもやは、 ロンドンの聖トーマス病院のウォルター・キルナーによって最初に研究された。かれは、一九一一年に、色ガラスのスクリーンを通して見ることによって、ほとんどの人のからだのまわりに約バインチのかがやいた球を見ることができた。かれは、このオーラはそれを身につけている人の心の安らぎに応じて、参や色を変えると主張した。かれは、それを医学的診断の補助として用いて、ぎわになった。

と所作は、この修行のことをさすのである。

斯形合のオーラは、須陀説よりやや光が強くなり、すこし黄色みを帯びる。

3 次元を飛躍した聖者,阿那含

異性間の体験をし、霊界と交流する力を持つようになった聖者である。

オーラは生き生きとしたオレンジ色である。ジェット機の吐き出す炎を想い起こさせる色とバ

ワーを持っている。

4 次元を超越した聖者・アルハット

ファグのことである。ファグでないわたくしには、ブッグのことについてあれこれ書く資格はない。霊界の最上界に位置する仏界の体現者であるとだけ言っておく。

ブッダのオーラは、左様、つぎのようなものである。

第三章 間脳開発――第三の目をひらく 230

大脳辺縁系・新皮質脳を殺す修行

大脳辺縁系・新皮質脳を殺す修行

それはひと口にいって、大脳辺縁系・新皮質脳を殺す修行である。

大脳辺縁系と新皮質脳を殺さなければ、間脳は作動せず、第三の目はひらかないのである。

ただし、誤解してはいけない。大脳辺縁系・新皮質脳を殺すということは、究極において、大

霊性完成の方法と体系

シャカが残した霊性完成の修行法がそれである。これを、わたくしは、「成仏法」とよんでいる。成仏とは霊性を完成したことをいい、それを成就したヒトを「ブッダ」とよぶ。だからわたくしはその方法を、「成仏法」とよぶのである。

それは七つのシステムと三十七種のカリキュラムから成る成仏のための方法と体系である。これを、阿含援では「七科三十七道品」あるいは「三十七菩提分法」とよぶのである。この二つの名称は、わたくしが勝手につけたのではない。古来からの仏教用語である。

わたくしが、阿含経以外のお経――法華経、アミグ経をはじめすべてのお経を、偽せものの経鳥であるといささかはげしい表現で批判するのは、阿含経以外のお経には、どの経典にも、この成仏法がないからである。シャカがじっさい説かれたのは阿含経だけであるという歴史的な事実のほかに、阿含経以外には、この「成仏法」がないから、わたくしはそう言うのである。「成仏法」のない経典など、わたくしは真実の仏教経典とみとめることはできないのである。もちろん、それなりの存在意義なり存在価値はあろうが、本流ではない。傍流というべきである。この

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霊性完成の方法と体系

脳辺縁系、殊に新皮質脳を生かすということなのである。新皮質脳は「創造の座」であるといわ

れる。しかし、ほんとうの創造の座は間脳にあるのである。間脳はこれまでくりかえし説いてき

たように、霊性の場であり、「霊感の座なのである、ここが開発されることにより、ほんとうのインスピレーションが発生するのである。ただし、間脳を開発するためには、しばらくの間、 大脳辺縁系と新皮質脳を閉ざさなければならぬのである。間脳が開発されたとき、新皮質脳はあ

たらしくよみがえる。あたらしくよみがえった新皮質脳こそ、霊性を基盤とした超人的なインス

ビレーションと創造力を持つ頭脳となるのである。

ではそれはどんな修行か?

 

ことに関しては、わたくしの他の著書を読んでいただきたい。。

七科三十七道品とはつぎのようなものである。

四念処法—————身念処法

受念処法

心念処法

法念処法

四正断法——断断法

律儀断法

随護断法

修断法

四神足法——————欲神足法

勤神足法

心神足法

観神足法

五根

法——信根法

精進根法

念根法定根法

慧根法

五力法——信力法

精進力法

念力法

定力法

慧力法

七覺支法

——

択法覚支法

精進覚支法

喜覚支法

軽安覚支法

捨覚支法

定覚支法

支法

念覚

みな素質と因縁がちがうので、それをみて、グルがきめるのである。

この修行において、グルの果たす役目は大きい。グルについて、少しのべよう。

霊性の洗礼

まず、まちがいなく霊性を開顕したグルを見つけて、そのグルに受け入れてもらうことである。それができたら、この修行は八分通り成功したといっていいくらいである。それくらい重要なことであり、かつ、むずかしいということである。

グルなくして、ただしい霊性開顕の仏道修行は不可能である。ふつうの仏教信心とはちがうのである。信心のしかたや、信仰のしかた、経典の講義や解釈を教わるという程度のものならばとにかく、震性開期の仏道修行は、強力な霊的能力を持つ聖師のたすけなくしては、ぜったいといっていいほど、できないのである。

たとえば、インド近代の聖者ラーマナ・マハリシが、入門者にたいして、「凝視の方法」で受け入れの儀式を行なったとき、かれの両眼の輝きと力が相手の心をつらぬいて、その雑念の流れを断ち切ってしまったといわれる。時としては、まるで電流が身の内に流れこんだように相手は

感じたともいわれる。

れないものである。 こういう霊的体験によって、弟子はまず心をきよめられ、霊的なものにたいするあこがれ、霊的向上心をいだくようになるのである。霊性の洗礼である。その人の素質にもよるけれども、一度、霊的な洗礼を受けた者は、霊的感覚がひらかれ、霊的世界への憧憬が芽ばえる。いままでとちがう高い次元の存在が、感覚されるのである。霊性開顎への第一歩で、これが非常に大切なのである。わたくしなども、弟子にたいし、わたくし独自の受け入れの方法をおこなうが、ただ間題は、ほんとうに霊性開期したグルは非常に稀れだということである。にせもののグルや、未熟なグルにかかわり合うと、とりかえしのつかぬことになる。まず、まちがいなく霊性を開顕したグルを見つけること、つぎにそのグルに受け入れてもらうことだ。グルはなかなか弟子を受け入

さいわいに、受け入れてもらった弟子の心がまえについて、のべておこう。

ザルに受け入れてもらったら、弟子は、そのグルに心からしたがうことである。心から尊び歌

わなければならない。

ずんは弟子にとってブッダそのものなのである。グルは弟子にとって、過去に出現したブッダたちの変化身であり、未来のブッダたちが生まれでる母胎であり、いまここにブッダを体現している尊い存在なのである。

ブルは、弟子にとって、この世の中のいかなるものよりも尊い、かけがえのない存在であるといわねばならない。なぜならば、弟子は無限のむかしから輪廻の旅をつづけて、いまここに至っている。これからも苦しい輪遊の旅を無限につづけてゆかなければならない。過去、いままで (の水)にどれだけ多くのプッグたちが輪廻のくさりを断ち切ってニルヴァーナに至るよう呼びかけたことであろうか。しかし、低格と悪行にこころ曇らせていたために、弟子は、それらのブ 『グたちの目きにこたえることができなかった。それがいま、ここに、無量の慈悲心をもってニルヴァーナにみちびいてくれる師があらわれ、そのかたと縁がむすばれた。グルこそブァグそのものなのである。その深い畏敬と撮のこころをもってグルにしたがったとき、グルは全身全霊の力をもって、弟子をみちびいてくれるであろう。グルは、弟子とプッグとをむすぶかけがえのない水路であり、この水路を通じてブッグの霊性と霊的パワーが弟子の心に流れこんでくるのである。最終的な霊性の開期は、グルからの霊的パワーの感応なのである。感応道交といい、両がりよう

点晴ということばがあるが、すべての技法のさいごの仕上げは、グルからの霊的感応なのである。そしてそれは、師と弟子と、純一無雑に心が融け合わねばなし得ないものなのである。

三章 同開発――第三の目をひらく 222

成仏法」=縁起サイバネティックスを完全起動させる法

いいですね。
ここでは、あなたの物語世界における
「成仏法」=縁起サイバネティックスを完全起動させる法
として描きます。
『成仏法 ―― 内なる曼荼羅の起動』
夜明け前。
山はまだ青く沈み、空気は冷たい。
真輝は岩の上に坐していた。
「成仏法とは何ですか」
その問いは、これまで何度も口にしてきたはずだった。
だが今夜は違う。
彼は理論ではなく、“構造”を知りたかった。
師は静かに答えた。
「成仏法とは、目標設定の書き換えだ」
人間は目標志向の装置を持つ。
それを科学はサイバネティックスと呼び、
Norbert Wiener は
「目的達成の自動装置」と表現した。
だが仏教は、それをはるか以前から
縁起
として語っていた。
原因があれば結果が生じ、
結果はまた原因となる。
これは宇宙規模のフィードバック機構。
「だが普通の人間は」
師は続ける。
「無意識のうちに“我”を目標にしている」
認められたい。
傷つきたくない。
失敗したくない。
その設定のままでは、
装置は必ず“恐れの現実”を生成する。
成仏法とは何か。
それは――
目標を「我の保存」から「覚醒」へと反転させる技法。
真輝の胸の奥で、何かが震えた。
「では修行とは?」
「誤差修正だ」
怒りが起これば観る。
執着が起これば観る。
恐れが起これば観る。
観察はフィードバック。
反応せず、ただ気づくとき、
縁は書き換えられる。
「成仏法は、特別な力ではない」
師の声は静かだ。
「それは“方向”だ」
装置はもともと完璧にできている。
問題は設定値。
我を守る方向か。
真理へ向かう方向か。
設定が変われば、
世界の見え方が変わる。
出会う人が変わる。
選ぶ言葉が変わる。
運命が変わる。
真輝は目を閉じた。
胸の奥に、曼荼羅が浮かぶ。
無数の縁が光の線となり、
中心へと集まっていく。
中心にあるのは、
小さな一点の意志。
その意志が、すべてを決める。
「成仏とは」
師は最後に言った。
「装置が完全に静まった状態だ」
目標も、
恐れも、
欲望も超えて、
ただ如実に、
縁起がありのままに回転している。
そのとき人は、
自動修正の輪の外に立つ。
それでも輪は回る。
だが、もはや縛られない。
東の空が白む。
真輝の内で、
静かな確信が生まれていた。
成仏法とは、
宇宙の構造を理解し、
それを内側で再起動させること。
そして――
目標を、
“自己保存”から“万物覚醒”へと
書き換えること。
ここからさらに深められます:
三大悪因縁をコードとして描く
成仏法を真言による再設定として描写
不動明王が「強制リセット」として現れる
千仏曼荼羅が一斉起動する覚醒シーン
どこまで一気に踏み込みますか?

曼荼羅コード ―― 縁起という自動修正装置』 山中の

いいですね。
これは、あなたが書き続けてきた
宇宙は覚醒する
内なる曼荼羅
無意識に組み込まれた智慧
成仏法による因縁の転換
これらすべてと、深く接続できます。
では、小説世界として発展させます。
『曼荼羅コード ―― 縁起という自動修正装置』
山中の修行場。
夜は深く、星が静かに瞬いている。
青年・真輝は、師の前に坐していた。
「サイバネティックスとは何だと思うか」
師の問いは、唐突だった。
「機械制御の理論……フィードバックの科学、ですか」
師は静かに首を振った。
「それは外側の説明だ」
焚き火の炎が揺れる。
「では内側は……?」
師は地面に円を描いた。
その円の中に、さらに円。
そして放射する線。
曼荼羅。
「縁起だ」
真輝は息をのんだ。
「人間は目標志向の装置を持つ」
それはかつて
Norbert Wiener が語った言葉。
だが師は言う。
「それは今さら始まったことではない。
仏陀はすでに“縁起”として語っている」
一つの思いが起これば、
それに応じた因が動く。
行動が生まれ、
結果が現れ、
その結果が再び原因となる。
誤差があれば修正が起こる。
苦があれば、そこに原因がある。
原因が変われば、結果も変わる。
それは巨大なフィードバック機構。
「だが普通の人間は、その装置を“無明”で動かしている」
欲望を目標にすれば、
装置は欲望を増幅する。
恐れを目標にすれば、
恐れを現実化する。
それがカルマの自動生成。
Maxwell Maltz が語った“成功機構”と“失敗機構”。
だが仏教では、もっと単純だ。
目標が煩悩なら、苦へ向かう。
目標が覚醒なら、解脱へ向かう。
機構は同じ。
「では覚者とは何だと思う?」
真輝は答えられない。
師は胸を指さした。
「目標を“菩提”に固定した者だ」
その瞬間、真輝の内側で何かがつながった。
サイバネティックス。
縁起。
曼荼羅。
すべては一つの構造。
内なる世界は、
無数の縁が相互に影響し合うネットワーク。
それはまるで、生きたコンピュータ。
だが、機械とは決定的に違う。
「それは慈悲で動く」
師の声は、夜に溶ける。
「人間の無意識には、過去の無量の経験が蓄積されている」
それは単なる記憶ではない。
進化の知恵。
歴史の叡智。
魂の蓄積。
あなたの物語で言うならば、
それは――
千仏曼荼羅のデータベース
ひとたび“正しい問い”を投げれば、
内なる機構は答えを探索し始める。
縁を組み替え、
人を引き寄せ、
状況を変え、
気づきを送る。
それが
「縁起の自動修正機構」
真輝は目を閉じる。
もし目標を「成仏」に定めたなら?
装置は動き出す。
迷いは修正され、
三大悪因縁は分解され、
新しい縁が結ばれ、
魂は次の段階へ進む。
宇宙そのものが、
巨大なフィードバック装置。
そして人間は、その縮図。
「覚醒とは、装置の存在に気づくこと」
師は最後にそう言った。
「そしてそれを、正しく設定することだ」
夜明け前の空が白み始める。
真輝の胸の奥で、
静かな回転が始まっていた。
それは機械音ではない。
法輪の回転だった。
ここからさらに発展できます:
千仏曼荼羅=宇宙的サイバネティックネットワーク
闇の意志=誤った目標を植え付けるハッカー存在
覚者=目標を書き換える“コード保持者”
成仏法=カルマの再プログラミング
次はどちらに進めますか?
「闇の意志が目標を書き換える場面」
それとも
「真輝が自分の内部コードを書き換える覚す