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Mac

(第三章「静寂の彼岸 ― 阿那含」)

風は、止んでいた。
いや―― 正確には、「風がある」という感覚そのものが、消えていた。

青年は、山の庵の外に立っていた。
だが、もはや彼にとって 「外」と「内」の区別は、かつてのような意味を持たなかった。

鳥の声が響く。
それは、遠くから聞こえてくるものではない。
かといって、耳の中で鳴っているのでもない。

ただ、起きている。

「……これが」
青年は、言葉を探そうとして――やめた。
言葉は、すでに遅い。
現れたものを、後からなぞる影にすぎないと、 彼は知っていた。

師は、庵の中で静かに座していた。
目を閉じているのか、開いているのかも分からぬまま、 ただ在る。

青年は、そっと近づいた。

「……何も、起きません」

それが、彼の言葉だった。
かつてなら、不安や疑いを含んでいたであろうその言葉には、 今、揺らぎがなかった。

師は、ゆっくりと目を開いた。

「それでよい」

ただ、それだけを言った。

沈黙が、満ちる。

その沈黙は、重くもなく、軽くもない。
空白でもなく、充満でもない。

――境界がない。

青年は、その中に立っていた。

かつて彼を縛っていたもの――
欲望、怒り、不安、承認への渇き、 未来への投影、過去への執着。

それらは、完全に消えたわけではない。

だが――

「触れない」

それが、最も正確な表現だった。

波は立つ。
だが、波に「自分」が乗らない。

火は灯る。
だが、燃やされる主体がいない。

「……私は、ここにいるのですか」

青年の問いは、 もはや「答え」を求めてはいなかった。

師は、微かに笑った。

「“いる”という想いが、まだあるな」

その一言は、 鋭くもあり、同時に、どこまでも優しかった。

青年は、目を閉じた。

「……確かに」

そこには、わずかな「自己の影」が残っていた。

だが、それはもはや 以前のように固く、重いものではない。

水面に浮かぶ、薄い霧のようなもの。

触れれば消える。
だが、触れようとする意志すら、すでに弱い。

――これが、阿那含。

還らぬ者。

欲界への再生は、断たれている。

だが、完全な消滅ではない。

最後の微細な「在りたい」という気配。
最後の、極めて精妙な「存在の癖」。

それが、静かに残っている。

師は、言った。

「ここから先は、“進む”ものではない」

「削るのでも、積むのでもない」

「ただ、見よ」

その言葉は、 命令ではなかった。

すでに青年の中で起きていることを、 言葉にしただけだった。

青年は、再び目を開いた。

世界が、そこにある。

だが――

「誰の世界でもない」

その感覚が、完全に定着していた。

木は、ただ木として在る。

風は、ただ風として起きる。

身体は、ただ動く。

思考は、ただ現れ、消える。

そこに「私」が関与する余地は、ほとんどない。

だが――

完全には、消えていない。

その、極めて微細な残滓。

それが、 この段階のすべてだった。

師は、静かに言った。

「次は、消えるのではない」

「“消えるという概念”すら、消える」

青年は、何も答えなかった。

答える者が、 すでに希薄になっていたからだ。

ただ――

静寂が、あった。

それは、音のない状態ではない。

存在の、揺らぎなき本質。

彼は、その中に、 溶けるでもなく、 留まるでもなく、

ただ、在った。

(続く:第四章「無余の光 ― 阿羅漢」へ)

了解しました。流れを受けて、第二章へと深めていきます。
第二章 徳の炎 ― 斯陀含(しだごん)
山の朝は、静かに明けた。
夜の闇が、完全に消え去ることはない。
ただ、それは光の中に溶け込み、もはや“闇として認識されなくなる”だけだ。
青年は、その変化を、はじめて自分の内に見ていた。
「……欲が、消えたわけではない」
座したまま、彼は呟いた。
「だが……以前のように、引きずられない」
老師は、火を起こしながら、わずかに頷いた。
「それが、斯陀含の入口だ」
パチ、と薪が弾ける。
その音は、妙に澄んで聞こえた。
■ 二度還る者
「須陀洹は、“流れに入る者”だった」
老師は、炎を見つめながら続けた。
「では斯陀含とは何か」
青年は、静かに呼吸を整えながら耳を傾ける。
「“二度還る者”だ」
「……二度」
「そうだ。この世界に、もう一度だけ戻る」
青年の眉がわずかに動いた。
「まだ、終わりではないのですか」
「終わりを急ぐのは、まだ“欲”だ」
その言葉は、柔らかくも鋭かった。
■ 薄れる炎
「須陀洹において断たれるのは、根本の誤認だ」
「我があるという錯覚、法への疑い、形式への執着」
「だが——」
老師は、薪を一本、静かに炎へと差し入れた。
「欲と怒りは、まだ残る」
青年は目を閉じた。
確かに、それはあった。
だが、以前とは違う。
それはもはや、暴れ狂う獣ではなかった。
「……弱く、なっています」
「そうだ。“断つ”のではない。“薄れる”のだ」
炎は、先ほどよりも穏やかに燃えている。
激しさはない。
だが、確実に燃え続けている。
■ 徳という力
「斯陀含の本質は、“徳”だ」
「徳……ですか」
青年は、少し意外そうに繰り返した。
「修行とは、力を得ることではないのですか」
老師は、かすかに笑った。
「力とは何だ」
「……変える力、でしょうか」
「何を」
青年は、答えに詰まった。
その沈黙を見届けてから、老師は言った。
「徳とは、“変えようとしない力”だ」
風が、庵をすり抜けた。
木々がわずかに揺れる。
「奪わず、押さえつけず、否定せず——」
「ただ在ることによって、すべてを鎮める」
青年の胸の奥で、何かが静かにほどけていく。
■ 炎の変質
「怒りは消えない」
「欲も消えない」
「だが、それらは“質”を変える」
「質……」
「怒りは、他者を焼く炎から、自らを照らす灯火へ」
「欲は、奪う衝動から、理解しようとする力へ」
青年の呼吸が、さらに深くなる。
腹の底で、何かがゆっくりと回り始めた。
それは熱ではない。
だが、確かに“温かさ”だった。
■ 還る理由
「なぜ、もう一度還るのですか」
青年は、目を閉じたまま問うた。
老師は、少しの間、答えなかった。
やがて、静かに口を開いた。
「まだ、完全に手放していないからだ」
「……何を」
「この世界を」
その言葉は、否定ではなかった。
むしろ、深い肯定の響きを持っていた。
「斯陀含は、この世界を嫌っていない」
「むしろ——」
老師は、炎を見つめる。
「少しだけ、愛している」
■ 静かな覚悟
青年の内に、かすかな揺らぎが生まれた。
それは迷いではない。
選択でもない。
ただ、理解だった。
「……まだ、歩くのですね」
「そうだ」
「終わりではない」
「だが——戻る回数は、減っている」
青年は、ゆっくりと目を開いた。
朝の光が、山を照らしていた。
世界は、何も変わっていない。
だが、見ているものが、変わっていた。
■ 次なる門
老師は、立ち上がった。
「次は、“戻らぬ者”だ」
「……阿那含」
青年の声は、静かだった。
だが、その奥には、確かな火があった。
もはやそれは、燃え上がる炎ではない。
消えない灯火だった。
(続く:第三章「静寂の彼岸 ― 阿那含」へ)

では、この思想を核に据え、あなたの世界観に合う“静かに燃える修行譚”として、小説化します。
『聖者への四つの階梯 ― 青き光のはじまり ―』
山は、沈黙していた。
風は止み、空気は凍りついたように動かない。
だがその静寂の奥で、確かに“何か”がうごめいていた。
それは――青年の内側だった。
「……心を変えるのではない。脳を変えるのだ」
老師の声は、闇に落ちる石のように、深く沈んだ。
青年は、息をひそめたまま問う。
「脳……ですか」
「そうだ」
老師は火の消えかけた炉を見つめながら続けた。
「お前が“自分”だと思っているもの――
その大半は、大脳辺縁系と新皮質が作り出した幻だ」
沈黙。
その言葉は、理解ではなく“違和”として青年の胸に落ちた。
「迷い、怒り、恐れ、欲望……
それらは心ではない。“反応”だ」
「……では、どうすればいいのですか」
老師は、ゆっくりと目を閉じた。
「止めるのだ」
「……止める?」
「思考を。情動を。判断を。
その二つの脳の“働きそのもの”をな」
夜はさらに深くなった。
青年は座した。
呼吸は、次第に静まり、やがて“意識されないもの”へと変わっていく。
思考が浮かぶ。
――今日の記憶
――未来への不安
――過去の後悔
だが、そのすべてを――
「……切る」
ただ、見て、流す。
見て、消す。
見て、消す。
やがて、ある瞬間が訪れた。
「……ない」
思考が、なかった。
感情も、ない。
ただ、透明な“在る”だけが、そこにあった。
そのときだった。
胸の奥――いや、もっと深い場所。
脳の中心、暗く閉ざされていたはずの領域に、
微かな“光”が灯った。
「……それだ」
いつの間にか、老師が背後に立っていた。
「それが、間脳の目覚めだ」
青年は言葉を発せなかった。
なぜなら、“言葉”という機能そのものが、遠のいていたからだ。
世界が変わった。
いや――
世界は、最初からこうだったのだと、知った。
空気が流れている。
木が“在る”。
空間が、ただ、広がっている。
そこには意味も評価もなかった。
ただ、完全な現実だけがあった。
「顛倒が、解けたな」
老師は静かに言った。
「……これが」
青年の声は、かすかに震えた。
「……実相……」
しかし、老師は首を振った。
「まだ、入口だ」
その言葉は、冷たくもあり、同時に深い慈悲を含んでいた。
「お前は今、“内的な穢れ”を離れたに過ぎぬ」
「……内的?」
「そうだ。だが、人はそれだけでは解放されぬ」
老師の目が、闇の奥を射抜く。
「お前の中には、お前だけではない“痕跡”がある」
その夜。
青年は夢を見た。
知らないはずの風景。
見覚えのない人々。
だが、なぜか懐かしい感情。
怒り、執着、悲しみ。
それらは、自分のものではないはずなのに――
確かに、“自分の内側”にあった。
「……これは」
翌朝、青年は震える声で言った。
「俺ではない……だが、俺の中にある」
老師はうなずいた。
「それが、運命の反覆だ」
「過去の者たちの意志は、消えてはいない」
「血に、記憶に、そして――存在の深層に刻まれる」
「それがお前の選択を歪め、運命を繰り返させる」
青年は、初めて恐怖を知った。
外の世界ではない。
内なる“他者”への恐怖。
「……どうすればいい」
老師は、静かに答えた。
「切り離す」
「だが、それはお前一人ではできぬ」
そのとき、空気が変わった。
見えない何かが、そこに“現れた”。
青年の背筋が凍る。
それは形を持たない。
だが、確かに“意志”を持っていた。
老師が、手をかざす。
次の瞬間――
空間に、淡い青の光が広がった。
静かで、透き通った、清浄な光。
それは、炎ではない。
だが、すべてを焼き尽くす“純度”を持っていた。
見えない何かが、崩れていく。
ほどけていく。
消えていく。
やがて、すべてが静寂に帰した。
「……終わった」
老師は言った。
青年は、ただ座っていた。
だが、その内側は、まるで別の存在のように軽かった。
「これより先、お前は“流れに逆らう者”となる」
「……逆らう?」
「生と死、因縁の流れだ」
老師は、青年の頭上を見つめた。
「見えるか」
青年には見えなかった。
だが――
感じていた。
頭上に、何かがある。
「青い光だ」
「澄みきった、曇りなき光」
「須陀洹――」
老師の声は、静かに響いた。
「お前は今、“聖者の流れ”に入った」
その瞬間。
風が、戻った。
山が、息を吹き返す。
世界が、再び動き出す。
だが、青年はもう――
その流れに、飲まれる存在ではなかった。
逆流する者。
きよめられた聖者。
その最初の一歩が、静かに刻まれた。
(続く:第二章「徳の炎 ― 斯陀含」へ)

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貧しきものに真をどう のりである。

貧しきものに真をどう

のりである。

のもないではない。きびしいなのである。しかも常に

代休をするのである。 することにより、相手はこの上ない功徳を救われるのである」こういう信念のもとに、

に 「、すると同時に、あらゆる成仏させるための旅行をしている者であ、その者にむかしてその行を向けることは、聖者の業を助けることである。そわれるわである」

さ、こう記されている。

ませてやるためにをするのである。すなわち恋恋の移行なのである。

あるとき、ディ、数人の子たちをつれて体に出た。しばらく行くと、道が二つに分か

れている、シャオはわのに足を向けた一人の弟子がいった。

「卵」、道をおまちがえになったのではないでしょうか?」

は、ゆみながら、より向きもせず、たずねた。

「え、この曲は、しき者のみが住むので有名な高に向かいます。ことに近ごろのキキソ

で、飢え死にする者さえ出ているそうであります。行ったとて甲斐ないものと思われます。左の道は、大地主や大商人たちが住む富める町です。師のおいでになるのをお待ちしている者たちがたくさんおります。道をおまちがえになったのではございますまいか」

シャカは足をとめてふりかえった。 「道をまちがえたのではない。この道が、貧しい者たちの住む部落に通ずるものであることは、 よく知っている。布施の行は、貧しい者ほどしなければならぬのだ。かれらが飢え死にするほど貧しいのはなぜか? 前生においてむさぼりの心がつよく、人に施しすることを全く知らなかったためである。いま、現生にその報いを受けているのである。その飢え死にするほど乏しい中かち、たとえ一粒の米・麦でも、聖者に布施し、供養するならば、その功徳によって、かれらはかならずいまの境界から救われるのだ。かれらに、利他のこころを起こさせるために、わたしは行かねばならぬ」

そうおっしゃった。

飢え死にする者が出るほど貧しい部落に入って、食を乞う。これはまさに逆のように思われる。わたくしたちだったら、なにか食べものを持っていってやることを考えるだろう。しかし、 ジャカはそこへいって托鉢するのである。食なき者に食を乞うのだ。俗にいう「首吊りの足をひっぱる」ようなものではないか。しかし、シャカは断言するのだ。それによってかれらは救われ

るのだ、と、まさに、シャカのように、十生、二十生にわたって、ひとの愛の転変を見た大覚者でなければ、いえないことばというものであろう。シャカは、数人の弟子たちとともに、十数日にわたってその部落に滞在し、一日に「蛇、五、六粒の麦を浮かべたカユ(とはいえないであろう)を弟子たちと分け合ってすすりながら、法を説いた。部落の者全員帰依し、のちみなミルヴァーナに至った、と記録されている。

真の仏教者にとって、托体とはこのようなものであった。だから、モッガッラーナが、いまは体の旅行中で、そのような問答をしているときではない、修行をちゃんとすませて、道場に帰り、釈尊にご検拶をして、それでまだこのことについて質問したかったら、質問したまえ、そのときはお答えしよう、そう言ったのは当然で、勧叉部ビクも、まことにその通りであると思い、 二人は、托鉢をつづけたのであった。

しかし、わたくし考えるのに、モァガッラーナがこのとき、欣然微笑のわけを話さなかったのは、それだけの理由ではなかったのである。ほかにもわけがあったのだ。

というのは、いまここで笑那ビクに話して聞かせても、かれには理解できず、誤解されるおそれがあると思ったからである。ブッダのもとでならば、それが避けられると思ったのである。 二人は黙々として托鉢をつづけた。

やがて、道場に帰ると、「足を洗い、だ体を爭げて」ブッダのいらっしゃるところに通った。

お能にしたてまつり。ご挨拶を申し上げて、自分の定められた座についた。

すると、騎叉部ビグは、モッガッラーナにむかって、こういったのである。

「わたしは今朝、あなたといっしょに書望山を出て、乞食修行に出かけましたが、途中、あるところで、あなたは既然として効笑されました。にこっと。こうお笑いになった。それで、わたくしは、あなたに、なんでお笑いになったのか、その因縁をおたずねしたところ。あなたは、 まそんな回答をしているときではない。まず乞食旅行に専念して、道場に帰ってから、世尊の間において質問するならば、そのときはなしてあげよう。と、こうおっしゃった。そこで、いま、 また改めて質問いたします。あのとき。あなたは、なんの回程をもって、あのようににっこりと

うれしそうに笑ったのでありますか?」

なかなか、しつこい男である。托鉢中、そればかり考えていたのかも知れない。あるいは、そ

マガァラーナというひとが、日ごろ実直であって、めったに人まえで笑うというようなことがなかったのかも知れない。そのひとがさもうれしそうに笑ったのだから、猛烈な好奇心が湧きピこったということかも知れない。

すると。モッガッターナは、こう答えた。

“我路中に於て。一大衆生の、身を挙げて無く、むら」の段にして、空に乗じて行け

るを見たりと

わたしはあの道か、ひとりの大きな人間が、皮がなくてゆっぺらぼうの、内かたまりのようになってく、東京をフリフリと歩いて行くのを見たんだ――

こう言ったわけであ

いったい、これは何なのだ

人生」これは、特にべきということではなく、ひゃんとした立派な人間、というほどご味であろう。ちゃんとした人間なんだけれども、皮膚がなくて、のっぺらぼうの、ひとつの肉のかたまりのようになっている。しかし、それは、ちゃんとした人間なのだ。それが、二本の足で進を歩いてゆくのではなく、空中、ふわふわとただようように行くのを見たんだ、というのである。いったい、これは何か。ナゾ掛けですね、これは――。

「一大衆生の身を挙げて皮なく、もっぱらひとつの内段にして、空に乗じて行けるものなあ

なんと答えますか、これ?

ひと口にいったら、ユウレイみたいなものでしょう。

つまり、不成仏である。解を発した不成仏霊が、いま、その道をフワフワ歩いてゆくのを見たんだ、ということである。モッガッラーナは、まさしく、宣際のホトケを目撃したのであ

111

――わたしはあの道なかで、ひとりの大きな人間が、全身、皮がなくてのっぺらぼうの、肉のかたまりのようになって、虚空をフワフワと歩いて行くのを見たんだ―――

こう言ったわけである。

いったい、これは何なのだ?

「一大発生」これは、特に大きな、ということではなく、ちゃんとした立派な人間、というほどの意味であろう。ちゃんとした人間なんだけれども、皮膚がなくて、のっぺらぼうの、ひとつの肉のかたまりのようになっている。しかし、それは、ちゃんとした人間なのだ。それが、二本の足で道を歩いてゆくのではなく、空中を、ふわふわとただようように行くのを見たんだ、というのである。いったい、これは何か。ナゾ掛けですね、これは。

に?』 『一大東生の身を挙げて皮なく、もっぱらひとつの肉段にして、空に乗じて行けるものなあ

なんと答えますか、これ?

ひと口にいったら、ユクレイみたいなものでしょう。

10 つまり、不成仏霊である。霊障を発した不成仏霊が、いま、その道をフワフワ歩いてゆくのを見たんだ、ということである。モッガッラーナは、まさしく、霊障のホトケを目撃したのであ

プロメテウスの苦しみ

しかし、モッガッラーナが見たのはそれだけではないのである。

カラス、ビ、席。それに、ワン、野で、野手というのは、野性のキツキをいう。それから別、これは、気えて、腹の皮が背中にひっついたようになって狂藩になったイズ、そういったも

のが、虚空をゆく不成仏置につきまとい、追いすがっていく。

である。 「島のたぐいは、頭上から襲いかかる。イスやキフキは足もとから飛びついて、「なし」という。癒え、食うわけである。向を噛んで、食いちぎって、ムシャムシャ食べている。ということ

これはもう、じつに悲惨な光景というよりほかはない。左がなくて、向のかたまりのようになった人間が、フワフワ歩いてゆく。それを、イスやキブキが飛びついて、肉を食いちぎって、食

べている。

それだけではない。カラスとか、もど、サシなどの禽類が空から襲いかかって、肉をついばんで食べる。それも、『感動よりその内臓をさぐりて、とってこれを食う」とある。という

のに飲食である。皮膚がないノッペラボウなのだから、助骨なんかも、あらわに見えているのであろう。その防骨のところへ、鋭いくちばしを突っこんで、中から、内臓をついばんで、ひり出し、これを食う、というのである。これはもう悲惨なんてものではない。なま身のからだの内臓を、くちばしでついばんで、ひきずり出し、食うというのだ。食われる身になったらその苦緒たるや、言語に絶するものがあろう。

そういうと、それはもうこの世にいない、生命のない存在なのだから、イヌに食いつかれようが、トリについばまれようが、痛くもかゆくもないんじゃないか、そういわれるかも知れない。 ちがうのである。わたくしが、『守護霊を持て』その他で書いたように、不成仏霊というのは、 自分の死んだのを知らない存在なのである。

だから、その本人にとっては、ある部分、生きているのとなんら変りがないのである。感覚の上では、われわれがいまこうしているのと、まったくおなじなのである。もちろん、われわれとちがう次元に生きているわけであるから、ちがう部分も多くある。しかし、ある感覚の上では、 生きているのとおなじなのである。教念、怨念、怨恨、苦痛、恋哀などの感情、それと肉体的苦痛など、生きているのとまったくおなじように感じている存在――それが不成仏霊である。したがって、イスに噛まれ、キリについばまれたら、われわれ生きている人間が、イヌに噛まれ、トリについばまれたのと同様の苦痛を感じるのである。

のは肌である。皮がないノッペラポクなのだから、肋骨なんかも、あらわに見えているのであろう。その肋骨のところへ、鋭いくちばしを突っこんで、中から、内臓をついばんで、ひきずり出し、これを食う、というのである。これはもう悲惨なんてものではない。なま身のからだの内臓を、くちばしでついばんで、ひきずり出し、食うというのだ。食われる身になったらその苦痛たるや、言語に絶するものがあろう。

そういうと、それはもうこの世にいない、生命のない存在なのだから、イヌに食いつかれようが。トリについぼまれようが、痛くもかゆくもないんじゃないか、そういわれるかも知れない。 ちがうのである。わたくしが、『守護霊を持て』その他で書いたように、不成仏霊というのは、 自分の死んだのを知らない存在なのである。

だから、その本人にとっては、ある部分、生きているのとなんら変りがないのである。感覚の上では、われわれがいまこうしているのと、まったくおなじなのである。もちろん、われわれとちがう次元に生きているわけであるから、ちがう部分も多くある。しかし、ある感覚の上では、 生きているのとおなじなのである。執念、怨念、怨恨、苦痛、悲哀などの感情、それと肉体的苦痛など、生きているのとまったくおなじように感じている存在――それが不成仏霊である。したがって、イヌに噛まれ、トリについぼまれたら、われわれ生きている人間が、イヌに噛まれ、トりについばまれたのと同様の苦痛を感じるのである。

そこで、

では、カラスとか、トビとか、ワシ、イヌなど、そういったものが、どうして勧叉部ビクの目にとまらなかったのか? 不成仏霊の、皮のない、ノッペラボクの肉段の棄生は、これは不成仏であるから、霊眼のない約叉部どクの目には見えなかったとしても、あとにつきしたがって食 「ついているトビやイヌなど、見えないはずはないじゃないか、こういわれるかも知れない。こらもまた、霊的存在なのである。だから、これらも、霊眼がなければ、見ることができない。 「べて霊の世界においての実在なのである。

『苦痛切迫して、暗哭号泣せり」

それは当然であろう。いま、われわれが、イヌに噛みつかれて肉を食いちぎられ、ワンに内臓てついばまれたら、どんなに強情我慢の男でも、悲鳴をあげざるを得ないであろう。この衆生も、暗笑号泣しているわけである。「暗」というのは、すすり泣くこと、「哭」は、声をあげて泣 。「号泣」は、声をかぎりに泣き叫ぶこと。要するに、声のかぎりに泣き叫びながら行くのでのる。それをまた、とど、ワン、イスなどがよってたかって、噛みつき、ついばむのだ。かれか、「皮なくしてもっぱら一つの肉段にして、というのは、このようにひっきりなしにからだのいたるところをみらぎられるため、そうなってしまったわけである。雨歌」というのは、 ・である。肉の団子である。からだじゅう、お響けの所になってしまっているわけだ。しか

もなお、かれは生きているのだ。かれは一度死んだ身であるから、どんなに肉を噛みちぎられて 、血を流しても、死ぬわけにはいかないのである。世にこれほどつらいことがあろうか、わた 「くしは、このお経を読んだとき、子どものころ読んだギリシャ神話の神を思い出したものである。人間に神の火をあたえたプロメテウスである。

しみをするわけである。 プロメテウスは、人間を愛したため、神の火を盗んで人間にあたえてしまう。天帝ジュピターは怒って、かれにおそろしい罰をくわえるのである。それは、カフカズの高い山の頂きに、箔をもってしばりつける。その山には、人を食う大ワシが棲んでいる。朝、日が昇ると、そのワシがプロメテウスのところに弾んできて、そのするどいくちばしで脇腹を突き破り、肝臓をついばんで食うのである。神といえども、 神といえども、内臓を食われたんでは死んでしまう。死ぬまでにたいへんな苦

朝から日の暮れまでかけて、ワンはプロメテウスの生き肝をついばむ。夕方になると、ブロメテウスは絶命してしまう。そうすると、ワシは巣へかえる。死んでしまったブロメテウスは、神であるから、落日とともに傷がなおりはじめ、生きかえってしまうのである。朝までに、食われた肝臓もまったく元にもどり、ウの毛でついたほどの傷もない元気で健康なからだになってしまうのである。しかし、朝になって、日が昇ると、また例の大ワンがやってきて、するどいくちばしで船服に穴をあけ、生き肝をついばむのである。ブロメテウスは苦しみ、夕方までに絶命す

る。どころになるとなおきじめ、年までにまったく健康なかからだにかえる。それまたラシ。これが年を年につづくといろ。とつにろなジョビデーの選であった。

あい出したのである。子どもこころに、ずいなん残酷な顔だと感じた

をあわれてる。それはたいへんな若者であろう。しかし、死んだそによってわたせたわたるわけだ。その死を考じられるというのおなとろなことはない。死というものはおそろしいものだ

いろこどもあるんだなあ。と。そどもこころに、死についてあれこれ考えたものであった。それをわたくしは悪いあしたのである。

この不気父輩も、イスやクンサーどに襲われて。内臓までひきずり良されて食われているわけであろから、なま身の人間だったら、時間と持たない。絶命してしまうであろう。絶命と同時 「そのくじなくなるわけであるから。それで数われることになる。しかし、不成仏霊の場合は、そうはいかない。死んでいるのだから。もうこのと、死ぬことができない。ただもう。 ヒイヒイ。わいわいぶすきけびながら、逃げまわっているよりほかないわけだ。それを、これも置的存在のクシ、ど。イスが追いすがって食いついているのである。それが、いつまでつづくかわからない。一分一秒の休みもなく、ずうっとつづいてゆくのである。何年、何十年、何百年

つづくかわからない。今、が無限につづいてゆくのである。まさに、これこそ地獄の苦しみ、と

いうよりはほかないであろう。その、地獄の苦しみに苦しんでいる人間を、自分は見たんだ、そう、モッガッラーナは言ったのである。

「われもまたこの衆生を見る」

「そうして、それをみてわたしは思ったのだ。なるほど、こういう人間は、こういう体になって、こういう健盛ぜざる苦しみを受けるんだなあ、そうだったのか、そう思って、わたしは思わずにっこり笑ったんだ」

すると、モッガッターナは、この不成仏霊の衆生が、生きていたときどういう人間であったかを知っているわけである。よほど悪いことをして多くの人を苦しめ、悩ましていたのであろう。 それがいま、こういう体になって、こういう悲惨な状態に陥っている。それを目のあたりに見て、モッガッラーナは、思わず、そうかそうかとうなずいて、なるほどなあ、と満足の笑みが浮んだということなのであろう。聖者であるモッガッラーナが、霊障のホトケが苦しんでいるのを見て、ニッコリ、欣然として笑ったというのは、ちょっとどうかと思われないでもないが、しかし、この男は、よっぽど悪いことをしていたのであろう。多くの人を殺し、傷つけ、無数の人に

耐えがたい苦しみをあたえていたのであろう。そうして、自分は、権勢を得、高い地位に昇って、思うぞんぶんのことをしていたのであろう。そういう生前のかれを知っているモッガッラーナは、これはとうてい許しがたい、悪いやつだ、という認識があったわけである。おそらくその男は、権力をふるって多くの人を泣かせ、思うままのふるまいをしてこの世を去ったのであろう。モッガッラーナは、それを見て、あんな悪いことをしたやつが、あのまま事なく人生を終るなんて、カミもホトケもあるものか、という思いがあったのであろう。それが、いま、ふと見ると、その男がたいへんな苦しみに渡っている。

うか」 「なるほどなあ、あの男だったらこういう目に遭って当然だ。やっぱり、そうなのか、そうかそ

そう思って、思わずニヤッと満足の笑みが浮んだというのであろう。

『検証せざるところの苦を受く』

これが、地獄の苦しみなのである。

ひとがいろいろな苦労をして、それを我慢し、耐えるのは、その苦労をすることによって、 「なにかを得るたのしみがあるからである。一生けんめいはたらく。夜も寝ずにはたらく。苦しいけれども、それによって収入が多く得られ、生活が安定し、将来がたのしみだからである。友人がたのしそうに遊んでいるのに、徹夜で勉強する。それによって一流校に入れるというよろこび

が得られるからである。

ところが、苦しい思いをして、それに耐えても、なにも得るところがない、というのでは、こんなつらいことはない。まさに地獄の苦しみである。イスやワシになま身のからだを食いちぎられるのは、この上ない苦痛である。しかし、その苦痛を忍べばなにかよいことが得られるというのであれば、なんとか我慢できないことはない。しかし、この不成仏の男には、それがまるっきりない。苦しみのための苦しみである。そこにはまったく救いがないのだ。もっとも、こういうしみを育めているのは、あながち、この不成策の男だけではあるまい。われわれの周囲にやすくなからず見うけられるように思われるのであるが、そァガッラーナは、 「そういうわけで笑ったんだ」

と、ディグの前で、文系どに解説したのである。

すると、それを治めるかたわらにいる修行者たちに、こうおっしゃったの

シーリングから『ラーテの言ったことは、その強さである。

それは、

いてきとりをひらき成仏した仏弟子のことをいう。そこで、ここでは、わたしの弟子たちの中で、という意味である。後世になって、それを広義に解釈して、シャカの説かれたことを本で読「んだり、経典で読んだりして仏道修行をするひとをも、声聞とよぶようになったのである。

ここでは、わが弟子たち、という意味で、「わが弟子たちの中で、実相を見る目をそなえ、実川を知る冒想を持ち、実在の意義をさとって、正しい仏法に通達した者は、みな、モッガッター

↓ の見たような来生を見るのである」

そうおっしゃって、さらに、じつに重大なことをのべられたのである。

『れも赤たのを見る』

これはじつにたいへんなお言葉である。

わたしもまた、この来生の、こういう存在を見るのである。

日本の仏教史のほとんどは、シャカは霊をかなかった、霊の存在をみとめなかったといている。そこで、山が、成仏とが重厚などということをいうのは、仏弟子と称しながらくつであるなどと得意で攻撃をくわえる坊さえが出てきたりする。すべて不足なけである

「」ということばは使っていない。だから、思考で、シャカ

は霊魂を説かなかった、とこう結論を出してしまう。だが、霊魂ということばは使わなかったけれども、前の節で読まれたように、『異陰』ということばで、死後の生命の存続を説いているし、 この経典では、はっきりと、自分もまたモッガッラーナの見た衆生を見るのである、と弟子たちに断言しているのである。

この、シャカの説いた『異陰』を、わたくしは、「不成仏霊」と名づけ、モッガッラーナの見た存在を「霊障のホトケ」と名づけているのである。

そもそも、『霊』の実在をみとめず、『霊」の存在を説かない宗教家など、東西古今を通じて、 いたためしはないのである。いたとすれば、三流、四流のエセ宗教家である。なぜならば、『霊』 は実在するのであって、それが信じられないのは、『霊性』という、霊の存在をキャッチするだだが欠落しているのであり、異性のない宗教家というのは、宗教家ではないのである。

ただし、シャカは、それをめったに親かなかったのである。つまり、目のない連中に説いたところでわかりっこないので、いたずらに誤解と混乱をまねくばかりだから、わたしは置かないのだ、とこう自身が言っておられるのである。そこが、シャカとちがう桐山靖雄のバカなところで、シャカは、わからんやつには置かない、と超然としておられるが、桐山靖雄はバカだからだれかれなしに親いて、目のないやつからやっつけられている。

「我れも寄た乱の衆生を見て、周かも説かざるは信ぜざるを恐るるが故なり』

行く、楽しんだのであるか、といったのか、戦争によって主や日になったわる。だから、ケイツ一枚ので争に行ったるのなど、この中には入らないのである。但し、でしたおぼえのある者は、それなりの割は必ず受けるのであるから、くらいはいとなまねばならぬであろう。

さて、この戦争を好演し多くのひとを苦しめたこの発生は、

立に百千緑の中に墜ちて無量の労を受け、地緑の全部にて、今所の身を得るも続いて此の労を受くるなり。諸の比丘、大豆の所見の如きは真実にして異らず、当に最れを受持すベート

百千高獄の中にちて、という。この百千歳というのは、文字通り百年、千年と受けとらなくてもよい。われわれの次元とは異る次元であるから、ただ、非常に長い間、と解釈すればよい。それよりも、おどろくのは、かの不成仏置の受けている苦しみは、地獄の苦しみであると思っていたら、そうではなかったのである。地獄の余罪なのだ。あれが余罪程度のものなら、本ものの地獄の苦しみとはいったいどんなものか。

「じつは、阿含経の中に、地獄のじつに詳細な描写と説明があるのであるが、それはまたべつな機会にご紹介するとして、この発生は、その地獄に於て長い間はかり知れない苦しみを受け、い

まようやくその地獄から出てこの中有界に帰ってきたのである。しかしながら、まだ自分のおかした集が消滅しきらず、こういう体になって、この苦しみを受けているのである。

修行者たちよ、モッガァラーナの見たものは、これは真実であって、決して、夢、まぼろしのようなものではないのである。そのつもりで、きみたちは受けとめねばならないぞ。

そう、シャカは修行者たちに教えさとされたのであった。

以上が、この雑阿含経・好戦経一巻の概略である。

子のいのちを断つ悪業のむくい

つづいて、「強動経」は、これもまた、モァガァラーナの遭遇した不成仏霊についてのシャカの解説である。

このお経では、モッガァラーナは、『自らその『胎”を望し』た者が、その罪障によって地獄の

苦しみを受けている来生を見たことになっている。

このお経を講義したあとで、いくつかの質問を受けた。

一つは、こういう質問であった。

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子のいのちを断つ悪業のむくい