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Mac

Anyone who has four steps leading to liberation will be Buddha 解脱に至る四つの階梯 人は誰でもBuddha成る

 

 

 

その秘密が『三供養品』に説かれています。仏教の原点ともいえるこのお経をさっそく読んで

聞如是。一時仏在舎衛国祇樹給孤独

園。爾時世尊告阿難。有三善根。不

可窮尽。漸至涅槃界。云何為三。所

謂於如来所而種功徳。此善根不可窮

尽。於正法。而種功徳。此善根不可

窮尽。於聖衆而種功徳。此善根不可

窮尽。是謂阿難。此三善根不可窮尽

得至涅槃界。是故阿難。当求方便獲

此不可窮尽之福。如是阿難。当作是

学。爾時阿難聞仏所説。歓喜奉行

 

聞くこと是の如し。一時、仏、舎衛国祇樹給孤独園に在

しき。爾の時世尊、阿難に告げたまわく、「三善根(三

福遺)有り、窮尽す可からずして、漸く涅槃界に至る。

云何が三ど為すや。所謂如来の所に於て功徳を種う。此

の善根窮尽す可からず。正法に於て功徳を種う。此の

善根窮尽す可からず。聖衆に於て功徳を種う。此の善

根窮尽す可からず。是れを阿難、此の三善根は窮尽す可

かず、涅槃界に至ることを得と謂うなり。是の故に阿

難、当に方便を求めて、此の窮尽す可からずの福を獲べ

し。是の如く阿難、当に是の学を作すべし」と。爾の時

阿難、仏の所説を聞きて歓喜奉行しぬ。

このように聞きました。仏さまがコーサラ国の祇園精舎にご滞在の時のことです。ある日、世尊は、阿難にこのようにお告げになられました。

「三善根(三福道)というものがありますが、その功徳は無限であり、涅槃界に至ることができるものです。なにをもって三つの善根(福)とするのでしょうか。(第一に)いわゆる如来の所において功徳を種える、この善根(福)の功徳は無限です。(第二に)正法において功徳を種える、

この善根(福)の功徳は無限です。(第三に)聖衆において功徳を種える、この善根(福)の功徳は無限です。阿難よ、この三善根(三福道)の功徳は無限であり、涅槃界に入ることができるのです。したがって阿難よ、三善根(三福道)を修行して、この無限の福を得なさい。このように阿難よ、この三善根(三福道)を学びなさい」

この教えを受けて、阿難は心より喜び、修行に励みました。

三善根を三福道と呼んでいます。このことについて説明し

ます。

『仏教語大辞典』(中村元著、東京書籍)で「三善根」を引くと、

【三善根】さんぜんごん 無貪善根・無限善根・無療善根の三根。一切の善法がこの三つから生まれるからである。それらは具体的には施・慈・慧となって現われる。三毒の対。

と書かれています。しかし、この『三供養品』に説かれる三善根は、その内容がまったく異なります。それなのに、これを三善根という名称のままで弟子たちに教えるのは、非常な誤解を生むもとだとわたくしは考えました。

それでは、この修行法は、どのように呼ぶべきなのでしょうか?

経文中に、

「此の窮尽す可からざるの福を獲べし」

とあるように、この修行法は無尽蔵の福を得る三つの道です。したがって、わたくしはこれを「三福道」と命名しました。この名称ならば無貪善根・無職善根・無療善根の三善根と混同することはありません。

 

三善根を「三福道」と変えて読誦しているのです。

さて、右の経文を一読すれば、涅槃界に至るためには三善根(三福道)が必要なのだ、ということをお釈迦さまが説かれているのが分かると思います。

涅槃界とはなんでしょうか?

普通は涅槃の境地・境界の意味で使われます(ただし本経では違う意味を持っておりますが、それについては後述します)。『五戒品』でも触れたように(本書三七頁参照)、涅槃とはサンスクリット語でニルヴァーナといいますが、生死を超越した境界、完全解脱の境地です。完全解説とは業と因縁から完全に解放された状態です。

わたくしたちは業と因縁の塊です。業と因縁によって輪廻転生を続けています。輪廻転生とは生死の流転がやまず、無限に生死の流転を繰り返すことです。まるで車の輪が廻るように絶え間なく、生と死を繰り返していくので輪廻転生といいます。また、生死流転、生々流転とも呼ばれます。直線ならば、いつかは終点にたどり着くでしょう。ところが輪というのは終わりがありません。終点がないわけです。輪が廻るから無限なのです。ただただ、グルグルグルグルと生死を繰り返すのです。

そういいますと、

「はてしなく廻ってもいいんじゃないですか。いろいろなものに生まれ変わって、さまざまな人生を味わうことができるわけでしょう。男になったり、女になったり、偉くなったりというように、いろいろな人生を味わうことができるのだから、むしろ楽しいじゃないですか」そういう人もいるかもしれません。一度限りの人生ではなく、輪廻転生する方が楽しいという人もいるでしょう。

ところが、輪廻転生は決して楽しいことではありません。むしろ苦しいことです。輪廻転生が苦しいことだから、お釈迦さまは輪廻からの解脱を願って修行したわけです。

なぜ、輪廻転生は苦である、とお釈迦さまは説かれるのでしょうか?

それを理解するためには、まず、仏教の人生観を知る必要があります。

仏教では、まず、人生イコール苦であると見ます。人生は、すなわち苦しみであると考えるのです。わたくしもそのとおりだと思います。たしかに人生には楽しみもあります。けれども、一生のうちに体験する苦と楽を一つずつ相殺していくならば、苦しみの方が多く残るでしょう。にある苦しみの中に、ときどき喜びがあるというようなものではありませんか?

さらには、その喜びが、次なる苦しみの原因になることが多いのです。

仏執でロ人問の々[しみな分類してヽ匯即刻帽と呼んでおります。四苦とは人間の基本的な苦しみです。さらに四苦に付随した苦しみが四つ出てきます。これを最初の四苦と合わせて八苦といいます。通常はそれらを総称して四苦八苦というわけです。

仏教の基本教義として大切なことですから、もう一度復習しましょう。

まず、四苦というのは、生・老・病・死の苦です。これが人間の基本的な苦しみです。さらにその四苦に付随した苦しみが出てきます。それが愛別離苦・怨憎会苦・求不得苦・五陰盛苦の四つです。これらの苦を総称して、四苦八苦といいます。こうしてみると、人間というのは本当に苦の塊です。

四苦の第一は生の苦です。実際に自分の人生を振り返ってみればよく分かると思いますが、生きていくこと自体が苦しみです。生まれたこと自体が苦しみです。生きているからこそ楽しいこともあるけれども、その楽しいことが次の瞬間に苦の種となっています。ですから生は苦であるというしかありません。

第二は老の苦しみです。生きている以上は、だれもが年をとります。必ず老いていきます。これもやはり愉快なことではありません。老いた人ならではの喜びもありましょう。けれども老いれば体力・気力・智力も落ちていくわけですから、「老い」は決して愉快なことではありません。

朝起きて、ひげを剃るために鏡を見ると、

「ああ、我、老いたり」

という感をしばしば抱きます。自分では若い気でいても、若い時のような強い体力を発揮することはどうしてもできません。老いる苦しみというものは、だれしも味わうものです。

第三は病の苦です。生きているかぎりは、病気をすることもあります。だれが考えても、病気は楽しいものではありません。病気によって得るものもありますが、相対的に見れば病気は苦しいものです。

第四は死の苦しみです。人間だれしも死を迎えます。悟りきった人でないかぎり、死は寂しいし、つらいし、苦しいものです。

以上が四苦です。この四苦に愛別離苦・怨憎会苦・求不得苦・五陰盛苦の四つを加えて八苦になります。

愛別離苦とは、自分が愛しているものと離別しなければならない苦しみです。どれほど愛し合っている恋人同士、あるいは夫婦、親子、兄弟、友人であっても、いつかは離別しなければなりません。生き別れもあれば死に別れもあります。いずれにしても愛する人と離別することは、本当に苦しく、つらいことですが、絶対に避けられません。

しかも、それは人間関係だけではありません。愛するものとは、必ずしも人間だけではありまけん。たとえば、お金をこよなく愛している人がいます。

『おわはわ金だりが恋人だ。ほかにはなにもいらない』

また、地位を愛している人もいます。内閣総理大臣、会社の社長、重役、それぞれのポストをこよなく愛しています。

けれども、お金であろうと、地位であろうと、いつかはそれらとおさらばしなければならない時が必ずやってきます。いくら、

「いやだ!」

と叫んでみたところで、どうなるものでもないわけです。

次の怨憎会苦とは、怨んだり憎んだりしている相手と会わなければならない苦しみですが、これもまた愛別離苦に勝るとも劣らない苦しみです。

「憎んだり怨んだりしているような、それほど嫌なヤッならば、会わなきゃいいじゃないか」そういうかもしれませんが、因縁によって離れることができなくなっているから、非常に苦し

いのです。その一つが「夫婦縁障害の因縁」です。最初は愛し合って結婚したとしても、怨憎会苦のもとになる「夫婦縁障害の因縁」があれば、夫婦お互いが憎しみ合うことになります。ま

るで親の仇のように憎み合って、朝から晩までけんかぽかりしています。

「それならば、別れてしまえばいいじゃないですか」

理屈ではそのとおりです。ところが、それが別れられないのです。いろいろな人間関係・経済的理由、その他さまざまな事情があって、とても離婚できません。これが因縁の恐ろしいところです。しかたがないから我慢をしようと思うのだけれども、我慢しきれなくて、毎日けんかを繰り返すのですから、日々地獄です。

 

 

It’s like listening. Temporarily in the Buddhist temple of Gion, a lonely garden
Shiki. At the time of the earthquake, he told Abashi, “Sanzen (Sanzen)
There is a fortune, and there is no need for exhaustion, and eventually to the world of the Nirvana.
What do you do three times? Seek merit in the so-called Nyorai place. This
I’m sorry that the good roots of the Seek merit in the law. this
I’m sorry that my good roots are exhausted. Seek merit in the saints. This good
I’m sorry for being exhausted. I’m sorry, this Sanzen root can run out
No, it is a so-called growl that it reaches the Nirvana world. Because of that
Difficult, in search of expedient, get this inexhaustible fortune
Then. Asaku, it’s hard to make a study of this.” When
Asa, do not delight in hearing the Buddhist opinion.
I heard this. This is when the Buddha is staying at Gion Seisha in Korsala. One day, Seson told Abashi this way.
“There is a Sanzen root (Mifukudo), but its merit is endless and it can reach the Nirvana world.
It is something. What are the three good roots (fortunes)? (First) in so-called Nyorai
The merit of this good root (fortune) that seeds merit is endless. (Secondly) seeding merit in the law,
The merit of this good root (fortune) is infinite. (Thirdly) This good root (fortune) merit that seeds merit in the saints
Is infinite. Asan, the merit of this Mizen (Mifukudo) is endless, and you can enter the world of Nirvana.
is. Therefore, Osamu, practice Sanzen (Mifukudo) and obtain this infinite blessing. in this way
Abashi, learn this Sanzen root (Sanpukudo).”
After receiving this teaching, Asa was delighted and devoted himself to training.

Sanzen is called Mifukudo. To explain this

I will.

When you draw “Sanzen” in “Buddhist Dictionary” (Gen Nakamura, Tokyo Book),

[Sanzen roots] Sanzengo: Sangen, which is rootless, rootless, and nonsensical. Are all good laws these three?

Because they are born from Specifically, they appear as an offering, charity, and love. A pair of three poisons.

Is written. However, the content of Mizenne, which is explained in this “Three memorial products,” is completely different.

I will. Nevertheless, I thought that teaching it to the disciples under the name Mizen was a source of great misunderstanding.

So how should this practice be called?

In the sutra,

“Catch this inexhaustible fortune”

As you can see, this practice method is three ways to get inexhaustible fortune. Therefore, I named it “Mifukudo”. If this name is used, it is confused with the three good roots of unscrupulous roots, unemployed good roots, and uncurated good roots

It is not.

I read Mizen roots by changing them to “Mifukudo.”

Now, if you read the sutras on the right, you need Sanzen (Mifukudo) to reach Nirvana.

You can see that Buddha is preaching this.

What is Nirvana?

It is usually used to mean the border of Nirvana or the border (though this has a different meaning in the Nihonkei, it will be described later). As I touched on “The Five Commandments” (see page 37 of this book), Nirvana in Sanskrit is called Nirvana, but it is a border beyond life and death, a state of complete liberation. Full commentary is a state where you are completely free from work and affiliation.

We are a lump of work and fate. I am continuing to reincarnate due to my work and my relationship. Reincarnation is a life-and-death transition that is endlessly repeated. It is called reincarnation because it repeats life and death as if the wheels of a car were turning continuously. It is also called life-and-death flow or live-flow transfer. If it is a straight line, you will eventually reach the end point. However, the circle has no end. There is no end point. It’s infinite because it rotates. However, life and death are repeated.

If you say so,

“Isn’t it okay to go around without a doubt? I think we can be reborn into various things and enjoy various lives. Becoming a man, a woman, or becoming great

Moreover, it’s rather fun because you can enjoy various lives.” Some people find it more enjoyable to reincarnate, rather than a one-time life.

However, reincarnation is never fun. It’s rather painful. Since reincarnation is a pain, Buddha practiced hoping to get out of reincarnation.

Why is Buddha explained that reincarnation is a pain?

To understand it, we first need to know the Buddhist view of life.

In Buddhism, we first see that life is suffering. Think of life as suffering. I also agree with that. Certainly there is fun in life. However, if you try to offset the pain and the comfort that you experience in your life one by one, you will have more suffering. Isn’t it sometimes that there is joy in the suffering of?

Moreover, that joy often causes the next suffering.

In Buddhism, there are many questions about the people of Russia. Four sufferings are the basic sufferings of humans. In addition, there are four sufferings associated with the four sufferings. This is called the 8th pain together with the first 4th pain. Usually, they are collectively referred to as hardships.

It is important as a basic tenet of Buddhism, so let’s review it again.

First of all, the four pains are the pains of life, old age, illness, and death. This is the basic human suffering. Furthermore, the suffering that comes with the four pains comes out. There are four types: Aibetsu separation, grudge hate, unwillingness, and Goinen. Collectively, these sufferings are referred to as struggles. In this way, humans are really a painful mass.

The first of the four pains is raw pain. As you can see by looking back at your life, living is a pain. Being born is a pain. Some things are fun just because we are alive, but that fun becomes a pain in the next moment. Therefore, life can only be said to be suffering.

The second is the suffering of old people. As long as we are alive, we all get older. Be sure to get old. Again, this is not fun. There will be joy only for old people. However, as you get older, your physical strength, energy, and intellect will decline, so “old” is by no means pleasant.

When I wake up in the morning and look in the mirror to shave,

“Oh, I’m old”

I often feel that. Even if you’re young, you can’t exert yourself as strong as when you were young. Old suffering is something everyone enjoys.

The third is illness. As long as you are alive, you may get sick. No one thinks that illness is fun. Some can be gained by illness, but relative illness is painful.

Fourth is the suffering of death. All human beings will die. Unless you are an enlightened person, death is lonely, painful, and painful.

The above is four pains. Adding to these four pains, Aibetsu separation, grudge hate, unsuccessful suffering, and five indulgence, it becomes eight pains.

Love separation is the suffering that you have to separate from what you love. No matter how much you love each other, or couples, parents, children, siblings, or friends, you must someday separate them. There are goodbyes and deaths. In any case, separating yourself from your loved one is really painful and painful, but it is unavoidable.

And it’s not just about relationships. What we love is not necessarily human. For example, some people really love money.

“Oh, my money is my lover. I don’t need anything else.”

Others love their position. I love the post of the Prime Minister, president of the company, and executives.

But whether it’s money or status, there will always be a time when we have to get away with them. How much,

“I refuse!”

When I screamed, it didn’t happen.

The next grudge hate is suffering that you have to meet with a person who is grinning or hating, but this is also the pain that is as good as the love separation.

“If you don’t like that hate or grudge, you should meet up.” Maybe it’s like that, but because I’m unable to leave because of my relationship, it’s very painful.

It is. One of them is the “cause of marital relationship disorder”. Even if you first love each other and get married, if there is a “cause of marital relationship disorder” that causes grudge hatred, the couple will hate each other. Well

He hates each other like his parents, and fights from morning till night.

“If so, why not break up?”

The theory is correct. However, I can’t say goodbye. Due to various relationships, financial reasons, and various other reasons, I cannot divorce. This is the dreadful part of the connection. I have no choice but to put up with it, but I can’t stand it and I have to fight every day.

 

解脱に至る四つの階梯」といった。

 だれでも、解説に至るためには、この四つの段階を経なければならない。そ してこの四つの階梯を、すぐれた聖師にしたがって歩んでいくならば、だれでも 解脱に到達できるのである。もちろん、あなたにしてもそのとおりだ。

 そこで、この四つの階梯について、のべてみよう。

 四つの階梯とは、

一、srota apanna 須陀オン

二、sakrd agamin        斯陀含

三、anaga msn    阿那含

四、arhat      阿羅漢     B uddha  仏陀

である。

説明すると、

 

須陀逼 -きよめられた聖者

 斯陀含上局められた聖者

 阿那含―大次元を)飛躍した聖者

 阿羅漢-―人次元を)超越し、完成した聖者、「仏陀」ともう。

 では、この四つの階梯を、修行者はどのようにして歩んでいくのだろうか。

 

 

七科三十七道品の成仏のカリキュラムとは、そういう方法なのである。
「きよめられた聖者」は、いまのべた内的なものだけではなく、外的にもきよめられなければならないのである。
それはどういうことかというと、自分の持つ「霊的なけがれ」もとり除かなければならないということである。
霊的なけがれとは、自分にかかわりのある不成仏霊・霊障のホトケのことである。これをことごとくとり除かなければならない。

自分にかかわりのある不成仏霊・霊障のホトケを持っていると、それらが持つよこしまな性格や想念の影響から逃れることができないのである。さらに恐ろしいのは、それらの不幸な存在がたどった運命の、「運命の反覆」をするおそれが強いのである。

 

「運命の反覆」とはカルマの反復にほかならない。これが最
も恐ろしいのである。これは修行者にかぎらず、ふっうの人の生活においても、悲惨な人生を送った霊障のホトケの人生を、そのまま反覆するケースを非常に多く見るのである。

 

大脳辺縁系・新皮質脳を殺す修行

 それはひと口にいって、大脳辺繰糸・新皮質脳を殺す修行である。

 大脳辺繰糸と新皮質脳を殺さなければ、間脳は作動せず、第三の目は開かな いのである。

 ただし、誤解してはいけない。大脳辺緑系・新皮質脳を殺すということは、 究極において、大脳辺緑系、ことに新皮質脳を生かすということなのである。新 皮質脳は「創造の座」であるといわれる。しかし、ほんとうの創造の座は間脳に あるのである。間脳はこれまでくり返し説いてきたように、霊性の場であり、

霊 感の座なのである。ここが開発されることにより、ほんとうのインスピ レーションが発生するのである。

 ただし、間脳を開発するためには、しばらくの間、大脳辺縁系と新皮質脳を 閉ざさなければならないのである。間脳が開発されたとき、新皮質脳は新しく よみがえる。新しくよみがえった新皮質脳こそ、霊性を基盤とした超人的なイ ンスピレーションと創造力を持つ頭脳となるのである。

 

 ではそれはどんな修行か?

 

霊性完成の方法と体系

 

 釈尊が残した霊性完成の修行法がそれである。これを、わたくしは、「成仏 法」とよんでいる。成仏とは霊性を完成したことをいい、それを成就した人を

「仏陀」とよぶ。だからわたくしはその方法を、「成仏法」とよぷのである。

 くわしくは、『輪廻転生瞑想法』でのべたとおりであるが、それは七つのシ ステムと三十七種のカリキュラムから成る成仏のための方法と体系である。これ を、阿合経では「七科三十七道品」あるいは「三十七菩提分法」とよぷのであ る。この二つの名称は、わたくしが勝手につけたのではない。古来からの仏教用 語である。

 わたくしが、阿含経以外のお経―-法華経、阿弥陀経をはじめすべてのお経 をいささか激しい表現で批判するのは、阿含経以外のお経には、どの経典に

も、この成仏法がないからである。釈尊がじっさい説かれたのは阿合経だけで あるという歴史的な事実のほかに、阿含経以外には、この「成仏法」がないか ら、わたくしはそういうのである。「成仏法」のない経典など、わたくしは真実 の仏教経典と認めることはできないのである。もちろん、それなりの存在意義 なり存在価値はあろうが、本流ではない。傍流というべきである。このことに 関しては、わたくしの他の著書を読んでいただきたい。

 

七科三十七道品とはつぎのようなものである。

 

四念住法トト身念仕法 受念住法 心念仕法 法念仕法

四正断法-断断法 修断法 随護断法 律儀断法

四神足法-欲神足法 勤神足法 心神足法 観神足法

五根法-信根法 精進根法 念根法 定根法 慧根法

五力法11信力法 精進力法 念力法 定力法 慧力法

七覚支法トト択法覚支法 精進覚文法 喜覚文法

      定覚文法 念覚支法

軽安覚文法 捨覚文法

八正道法-‐‐正見法 正思惟法 正語法 正業法 正命法 正精進法  正念法 正定法

以上である。

 

この七科目、三十七種のカリキュラムは、

 べ瞑想

 二、実践

 

 四念住法・五根法は、瞑想である。

 四正断法・五力法・七覚文法・八正道法は、実践と瞑想である。

 四神足法は、特殊な練行taPasである。

 神足とは、神通力(超能力)のことで、この四神足法は、超自然の神通力を得 るための四種の修行法である。前にのべたわたくしの練行tapasはこれに属する ものである。

 この七つの科目のうち、練行tapasを中心に、瞑想と実践の科目をとり入れて 修行するのである。どの科目をどうとり入れて、どのように訓練するかは、

聖師が決定ずる。修行者それぞれ、みな素質と因縁がちがうので、それを見 て、グルが決めるのである。

 この修行において、グルの果たす役目は大きい。グルについて、少しのべよ

霊性の洗礼

 

まず、間違いなく霊性を開顕したグルを見つけて、そのグルに受け入れても らうことである。それができたら、この修行は八分どおり成功したといっていい くらいである。それくらい重要なことであり、かつ、むずかしいということで ある。

 グルなくして、正しい霊性開顕の仏道修行は不可能である。ふつうの仏教信 心とはちがうのである。信心のしかたや、信仰のしかた、経典の講義や解釈を教 わるという程度のものならばとにかく、霊性開顕の仏道修行は、強力な霊的能力 を持つグルの助けなくしては、絶対といっていいほど、できないのである。

 たとえば、インド近代の聖者ラーマナーマハリシが、入門者に対して、「凝視 の方法」で受け入れの儀式をおこなったとき、彼の両眼の輝きと力が相手の心 をつらぬいて、その雑念の流れを断ち切ってしまったといわれる。ときとして は、まるで電流が身の内に流れ込んだように相手は感じたともれる。

Four steps leading to liberation

Now, I’m saying, “Four steps leading to liberation.”

Everyone needs to go through these four steps to get to the explanation. And if we follow these four steps according to a good saint, anyone can reach liberation. Of course, you’re right.

Then, let’s talk about these four steps.

What are the four ladders?

One, Srota apanna Suda on

Second, sakrd agamin included

Three, anana msn including Ana

Four, arhat Arhan Buddha Buddha

Is.

To explain,

Suda逼-Cleaned Saint

The saints who are included in the station

Saints who leapt to the big dimension)

Arakhan: transcends the human dimension) and the completed saint, “Buddha”.

Then, how do the practitioners walk on these four steps?

That’s how the Buddhist curriculum of Nanashina Thirty-Seven Dojo is.
A “cleansed saint” must be cleansed not only internally as it is now, but also externally.
What that means is that you must also remove your own “spiritual injuries”.
Spiritual injuries are hot stones of imperfect Buddhist spirits/disorders related to oneself. You have to get rid of all this.

If you have the improper Buddhist spirits and spiritual disabilities that are related to you, you will not be able to escape the effects of their devious personality and thoughts. What is even more frightening is that there is a strong possibility that these unfortunate beings will “repeat the fate” of the fate that they followed.

The “repeat of destiny” is nothing but the repetition of karma. This is the best
Is also scary. This is not limited to practitioners, but in the lives of ordinary people, there are many cases in which the life of a spiritually distressed Hotoke who has lived a tragic life is overturned.

Training to kill the limbic and neocortical brains

It is a practice to kill the cerebral limb and the neocortical brain in a bit.

If you do not kill the cerebral limb and the neocortical brain, the diencephalon will not work and the third eye will not open.

However, don’t get me wrong. The killing of the cerebral meridian/neocortical brain is, in the ultimate sense, the utilization of the cerebral meridian, especially the neocortical brain. The new cortical brain is said to be the “creation seat.” However, the real place of creation lies in the diencephalon. The diencephalon is a place of spirituality, as I have repeatedly explained,

It is an inspirational seat. When this is developed, it really brings inspiration.

However, in order to develop the diencephalon, it is necessary to close the limbic system and the neocortical brain for a while. When the diencephalon is developed, the neocortical brain is reborn. The newly raised neocortical brain will be the brain with superhuman inspiration and creativity based on spirituality.

Then what kind of training is it?

Method and system of spiritual completion

That is the practice method of complete spirituality left by Buddha. This is what I call the “seibutsu”. Seibutsu means that the spirituality has been completed.

It is called “Buddha”. That is why I call that method “seibutsu”.

In more detail, as mentioned in “Reincarnation Meditation Method”, it is a method and system for Buddhism that consists of seven systems and thirty-seven curricula. This is referred to as “Nanashina Thirty-Seven Dojo” or “Thirty-seven Bodhi-hobu” in Ai Sutra. These two names were not my own choice. It has been used for Buddhism since ancient times.

I suspect that all sutras, including Hokkei and Amitabha, are criticized with a bit of fierce expression except for Sutras.

This is because there is no law of this French. In addition to the historical fact that Buddha was the only one who was told that it was only Ai Sutra, I think that there is this “seibutsu” other than Akon Sutra. I can’t admit that it is a true Buddhist scripture, such as a scripture without a “seibutsu”. Of course, there is a certain sense of existence and value, but it is not the mainstream. It should be called a sidestream. Regarding this, please read my other books.

The seventy-seven departments dojo is as follows.

Four Nemitsu Law, Toto, Mind Law, Mind Law, Mind Law

Four Positive Laws-Official Laws, Restorative Laws, Sustainable Laws, Laws of Law

The Four Gods Law-The Greeds God Law

Gone method-Shinne method, devoted root method, Nemone method, fixed root method, Keine method

Five-power method, 11-credit method, vegetative method, psychokinetic method, constant-power method, and vigorous method

Seven sense support method Toto choice support method

Quorum grammar, happostyle

Karuyasu grammar, Naruto grammar

Hachishodo—Masami-ho, Seiseki-ho, Orthodox-hoshoku, Seimei-ho, Shoshin-ho, Hoshin-ho

That is all.

This seven subject, thirty-seven curriculum,

Meditation

Second, practice

The four-nine living method and the five root method are meditations.

The four positive cut method, the five force method, the seven sense grammar, and the eight positive method are practice and meditation.

The Shikamizoku method is a special training taPas.

God is the power of supernatural powers (supernatural powers), and the four types of training are the four methods of training to obtain supernatural powers of supernatural nature. The sticky tapes practiced in the previous section belongs to this category.

Among these seven subjects, we will focus on training tapas and practice meditation and practice subjects. Which subject to take and how to train

The Holy Master decides. Each practitioner has a different affiliation with their traits, and Guru decides upon it.

The gurus have a great role to play in this training. A little bit about the guru

Spiritual baptism

First, make sure you find a guru that reveals spirituality and accept it. If we could do that, we could say that this training was successful in eight minutes. That’s what is important and difficult.

It is impossible to practice Buddhism in the correct spirituality without Guru. It is different from ordinary Buddhism. Anyway, as long as it is a method of belief, a method of belief, or a lesson of teaching or interpreting a scripture, Buddhist practice of spiritual manifestation is absolutely necessary without the help of a guru who has a powerful spiritual ability. You can’t do that.

For example, when modern Indian saint Rahmanah Maharishi performed an acceptance ritual to the introductory person by the “gaze method”, the brilliance and power of his two eyes pierced the heart of the other person, It is said that the flow has been cut off. At times, the other party feels as if a current has flowed into them.

 

 

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Buddha  Japan Journal

Buddha Japan journal

日本の仏教を発信しますSend Japanese Buddhis

駄都如意求聞持聡明法 2 Bad capital nyoyi request and wisdom method 2

駄都如意求聞持聡明法

 

ダト  は意味が  仏舎利の意味。

 

頭は良くならり、記憶が良くなる、

 

 

Dato Nyoi, Ask, Listen, and Have Wisdom

 

Dato means Buddha’s ashes.

 

Your head gets better, your memory gets better,

 

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Buddha  Japan Journal

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日本の仏教を発信しますSend Japanese Buddhis

 

 

 

 

 

桐山靖雄 ヒトを天才にする求聞持聡明法 How to make someone a genius

ヒトを天才にする求聞持聡明法

ヒトを天才にする求聞持聡明法
求間持聡明法は、ヒトを聡明にし、天才にするという真言密教に伝わる秘法である。
弘法大師空海が、若くしてこれを修し、大天才となったということで、夙に知られてい
る。また、新義真言宗の開祖、興教大師覚鏝(一〇九五1一一四二)が、七度、この法を
修して成功せず、八度目に悉地を成じ、成功したと伝えられる。覚鏝上人ののこされた業
績をみれば、上人もまた天才でめったことは疑いない。ただ残念なことに、四十八歳で亡
くりれている。
真言密教の求聞持聡明法には、三種の法がある。

 

虚空蔵求聞持
観音求聞持
如意輪求聞持

 

であるが、ふつう、求間持法といえば、空海が修して有名な虚空蔵求間持をさす。この
つぶさ    ぶつせつこくうぞうほさつのうまんしよがんさいしようしんだら・にぐもんじほう
法を、具には「仏説虚空蔵菩薩能満諸願最勝心陀羅尼求聞持法」という。
しかし、わたくしがこのたびこの本で発表する求聞持聡明法は、これらのいずれでもない。わたくしが独白に創成した求聞持法で、わたくしはこれに、だとによい
駄都如意求聞持聡明法と名づけた。
この駄都如意求聞持聡明法は、真言密教につたわる求聞持法とはまったくちがうものである。
二つの特徴がある。
それは、
一、クンダリニー・ヨーガのチャクラを覚醒して、超人的千不ルギーを発生させる。
二、その超人的干1 ルギーを、中国・道教につたわる導引・気功の持つ生気ルートに
のせて、体の各要所、要部にめぐらせ、行きわたらせる。殊に、大脳の中枢である間脳・視床下部に送りこむ。
この二つの方法を、独特の方法で完成したのである。これは、前人未踏の領域であるといってよいであろう。わたくしは、半生を、というより、一生をこの法の完成に注いだ。いまから約二〇年前に発行した『変身の原理』以来、わたくしの著書はこの本で四〇冊になるが、それらの著書のすべてが、この法の完成に至る道のりをあらわしたものであるといってよい。
わたくしは、この本で、わたくしの得たほとんどのものを、出来るかぎり、明らかにした。クンダリュー・ヨーガも、道教の導引・気功も、いずれも超人的能力を獲得するための
最高の法である。この世界にこれ以上の超能力開発法ぱない。この二つの法の欠陥を補正して融合させ、さらにあらたな創案をくわえて完成したこの駄都如意求聞持聡明法は、ヒ
トにおける究極の超能力開発法であると自負するのである。
もちろん、。後世おそる、べし”という諺の通り、今後、これ以上の超能力開発法も出るかも知れないが、しかし、それも、クンダリュー・ヨーガと導引・気功を融合させたこの駄
都如意求間持聡明法のライン以外のものではないであろうと確信している。
この法を、指導通りに修行するならば、確実に、ヒトの知能は二倍に、体力は三倍に飛躍強化されるであろうことを断言する。

天才は不老長寿でなければならない

求聞持聡明法は、たしかにヒトを天才にする。
しかし、いくら天才になっても、そのために、病弱になったり、若死にしたりしたのでは、なんにもならない。天才は、いつまでも若々しく、健康で、世のため、人のため、その才能を発揮するもの
でなくてはならない。(寝たっきりの天才など、まっぴらである)
求聞持聡明法修得をこころざしたわたくしは、つねに、四十八歳という惜しむべき短命に終わった興教大師党員上人が念頭にあった。上人は、おそらく、過酷な求間持法修行のため、法は成就したものの、体を痛め、寿命を損じたのにちがいなかった。
このことは、年少、結核を病んで何年も病床に伏した苦しい経験を持つわたくしにとり、その恐れの念が特に深刻であった。
しかし、この憂慮は、幸いにして杷憂におわった。
道教の導引・気功の秘法をとり入れたことが、この心配を吹きとばしてくれたのである。
すなわち、道教の導引・気功は、仙道の流れを汲むものである。そして仙道の理想は、不老長寿、生きながら神仙に化することを目標とする。
駄都如意求聞持聡明法は、特に不老長寿を目ざすものではなかったのだが、結果はそうなってしまったのである。
期せずして、仙道の理想が実現されることになったのだ。
神仙に化することだけはちょっとむずかしいが、不老長寿はかならず達成される。 わたくしぱ断言してよい。仙選の秘法がとり入れられているこの駄都如意求聞持聡明法
は、二十歳代の人ならば、三歳から五歳、中年以上の人ならば、十歳から十五歳、若返ることができるであろう。

あなたが高年者として修行に入り、年齢のために天才になれなかったとしても、いつまでも若々しい肉体と、そして決してボヶることのない求聞持脳だけは獲得できるであろう。
『求聞持聡明法秘伝』平河出版社刊。まえがき”より

「等価変換展開理論」

そんなことがほんとうにできるのか? いったいどうやってそんなことができるのだ、と。
それもたしかにもっともなことで、私自身、身をもってこの密教の秘密に挑戦し、自分でこの
技術を解明するまでは、ぜったいに信ずることができなかった。私は単身、五〇〇〇年の間秘密
のヴェールにつっまれてきたこの不思議な技術にいどみ、その秘密を解いた。それは、信ずるこ
とのできないほど精緻微妙な生化学に立脚したおどろくべき技術の応用であった。

たとえば、
さきにもちょっとふれたが、市川亀久弥博士は、最近の著作のなかマ(≒柚計器)お得意の「等価変換展開理論」にもとづき、イモ虫からサナギヘの変化を例にして未来社会への脱皮を説いておられる。この理論はまことにみごとで、まさにほれぼれするほどあざやかである。ことに、イモ虫がサナギに変身する理論的うらづけは、近来しきりに輩出する未来論のなかで、まさに出 色のものであるというべきである。

ただ、まことに残念なことに、それは理論と説明と期待にとどまり、それをいかにヒトに応用して実現させるかという方法を示していない。それは、もちろん、氏自身、同書のはしがきのな
かで、これは、″単に人類のあるべき未来社会に関するソフトーウェアの主張の範囲にとどまるものである”とことわり、この。ソフトーウェアに対するハードーウェアの具体的な提唱″は″旺い将七に公長する~定である″ということであるから、われわれはまさに刮目してそれを待、ぐに、その″ソフトーウにアに対するハード・ウェアの具体的な技術″を持っているのである。密教は、その持つ技術のひとつに、この市川理論の「イモ虫からサナギヘの脱皮」技術を持っていて、数千年も前から、それをヒトの変身技術に応用、実践していたのである。

 

密教は、現代の創造理論の大家が提唱する未来に関する花形理論を、とうに実践していたのである。五〇〇〇年も前I。
地を這いまわることしか知らぬ生物であるイモ虫が、サナギになり、そして、空を舞う生物に変身することは、二次元の世界に生きる生物が三次元生物に変化したことを意味するものだ。密教がおなじ技術をもってヒトを変身させることは、三次元生物であるヒトをそれより上の次元に
飛躍させることを意味する。密教の変身技術はそれなのである。その生物の次元を変えてしまうのだ。

しかも、それは、今までいわれてきたように、ただ神秘的、神がかり的なアイマイな方法でなく、適確な生化学の技術をもっておこなうのだ。そうしてそれは密教の持ついくつかの技術のなかのひとつに過ぎない。

いったい、どんな智恵がそれをなしとげていたというのであろうか? 密教の技術を神秘というのなら、その点をこそ神秘というべきだろう。しかし、それは、それこそまさに数千年生え出現した超・ヒトが、孤独にたえつつ、その持つ人類最高の智恵「照明智」を駆使してつくり上げた未来人のためのカリキュラムにほかならぬのだというよりはかないであろう。

さて、それでは、密教の技術に関係のある市川理論「等価変換展開理論」とはどんな理論か?

それがどのように密教の技術と関連があるのか?

それを説くまえに、もう少し知っておいていただかねばならぬことがある。
ここで、私は、密教とヨーガという二つのことばについて述べておかねばならぬと思うのだ。

拙著「変身の原理」で、私は、密教についてっぎのように述べた。少し長いが引用してみる。『真言宗という宗派仏教と、密教すなわち秘密仏教とは、ふかいつながりかおる。だが、それはどこまでもふかいつながりという関係であって、普通考えられているように、密教即真言宗、真言宗即密教というものではないのである。

真言宗とは、インドにおいて発生し、大成した密教を、ああいう独白の形に体系化し、組織化したものであって、密教そのものではないのである。密教のひとつの体系ではあるけれども、密教そのものではない。

それは、それまでにほぼ完成していたけれども、分派し、多様化していたインド密教を日本密
教の開祖空海が、独自の見識と叡智によって、ひとつの体系につくりあげたということである。
おなじように、天台宗においても、天台密教というひとつの密教体系を組織完成しており、こ
れもまた、密教のひとつの流れということである。
そういうわけで、密教というものを正しく理解するためには、どうしても、度、密教の原点に立ちもどって考えてみなければならないのである。
密教は、最初、ひとつの手法(技術)であった。

けっして、最初から密教というひとつの宗教があったわけではない。
ゴータマーブッダがあらわれて、仏教というあたらしい教えを説きはじめるはるか以前、バラモンの時代から、インドには、入に超能力をあたえるひとつの手法があった。そういう手法が完成されて、一部の人たちの間につたえられていた。それは、精神と肉体のきびしい錬磨から得られる神秘的な力で、彼らは、それを、ひとつの技術にまでっくりあげていた。

われわれは、その流れのひとつを、現在、ヨーガのなかに見ることができる。(ただしそれは、
いまの日本で行なわれているアクロバティックな体操のヨーガではない。ヒマラヤの奥地の聖者
たちの間に伝承されている正統ヨーガである)
ヨーガは、その手法のひとつの流れである。この超能力を開発する技術は、仏教があらわれる
以前においてはバラモンにとり入れられ、仏教があらわれると、仏教もまたこれをとり入れた。
ゴータマーブッダは、かれ自身、この手法をまなんで、これにより超能力を持ったが、弟子た
ちにはこれを学ぶことを禁じた。なぜかというと、この技法によって多少の力がつくと、かれら
はすぐにそれがブッダのいう「ホトケ」という境地に達したものと考えてしまい、修行のさまた

げになるからであった。
ただし一部の、素質のきわめてすぐれた弟子たちには、ひそかにこれを許した。
ゴータマーブッダは、普通、神秘的な力を信じたり、修行者がそういう力を持つことを願った
りするのを全く禁じたというように、仏教学者や仏教者は信じているようであるが、それは間違
いで、ブッダ自身、神足({乱石の教理、すなわち、仏道を完全に成就するためには超自然的な力が必要であるとし、超人間的な能力開発の訓練法を説いているのである。これは、パーリ文献によって容易に証明することができるのである。(略)
それによると、それは、″四神足“または、″四如意足″ともいわれる超能力開発法である。

ブッダは、菩提を成就するためには、単に、知性や理性をみがくだけでは不十分であると考え、知性や理性の限界をうち破る力が必要であると考えた。
そのために、彼は、そういう力を開発するための行法をつくりあげた。それは、彼が学んだ超能力開発法を加えて編成したものと見てよいであろう。
それは、三十七種の技法から成り立つもので、四神足というのは、その中心になる技術である。神通、如意を得るための定を、四種類の手法に分けて説明している。

欲神足(願望、理想、創造のためのアプローチ)
勤神足(体と心のトレーニング法)
心神足(潜在意識のトレーニング法)
観神足(深層意識のトレーニング法)
きづまりを打破するために、大乗仏教のなかにとり入れられて体系化され、密教と呼ばれになったのである。いうわけで、密教は二つの面を持っている。
一つは、超能力の開発技術
一つは、大乗仏教の教義
この二つである。
この二つのものがむすばれることにより、大乗仏教よりさらに高度の教義が完成されて、「金
剛大乗」と呼ばれる新しい仏教が誕生した。これが密教である』
-との引用の文章でわかるように、「変身の原理Lにおいて語られている「密教」というコ
トバは、「秘密仏教」という意味での「密教」である。仏教のなかにとり入れられた、いわゆる
真言密教、あるいは真言宗密教の密教である。
しかし、本書において私がいう「密教」は、それらの密教、「変身の原理」のなかで使われて
いる密教とは全くちがうものであることを、読者はご承知ありたいのである。

本書における「密教」とは、真言密教以前、いうならば仏教にとり入れられる以前の、いや、バラモンにさえもとり入れられる以前の、引用文でいえば4  R教は最初、ひとつの手法(技術)であった。ゴータマーブッダがあらわれて、仏教というあたらしい教えを説きはじめるはるか以前、バラモン時代から、インドには、入に超能力をあたえるひとつの手法があった。

そういう手法が完成されて、一部の人たちの間につたえられていた。それは、精神と肉体のきびしい錬磨から得られる神秘的な力で、彼らは、それを、ひとつの技術にまでっくりあげていた。とあるその「技術」、つまり、いうならば、″古代マーガ″と″真言密教″と、この二つを結合したものであると承知していただきたいのである。即ち本書でいう密教とは、ヨーガと真言密教と、
この二つをむすびつけて生まれた新しい技術であるということである。
なぜ、そういうことをしなければならなかったのか、というその理由を語ることはそのまま、密教の法を解説することにもなるので、読者はここのところをよく知っておいていただきたいのである。
引用文のなかにしるされているごとく、行きづまった大乗仏教は、ヨーガの技術にその打開の道を求めた。さきの頃で述べたごとく、精神の高度の飛躍は、その前提に、感覚器官の高度の増幅がなければならぬ。しかし、大乗仏教には教えだけあって、なんの技術もない。大乗仏教という教えであり、教えをあきらかにするだけのもので、技術というべきものはなんにもない。ついに行きづまることは当然であり、やがてヨーガの技術に救いをもとめるのはさらに当然というべ
きことであった。

かくして、金剛大乗、真言密教が生まれた。ヨーガには、さきにあげた通り、ジョルジューオリヴィエ教授の表現を借りていえば、五つの能力開発技術がある。それは、

①第四次元の理解、合複雑な全体をとっさに把握する能力

、③第六感の獲得、④無限に発展した道徳意識、

⑤とくにわれわれの悟性には不可解な精神的特質、というものであるが、これらの能力開発の技術は、それがそのまま大乗仏教にとり入れられたわけではない。おのずから、ひとつの偏向傾斜があった。

それは当然のことで、大乗仏教の指導者たちは、この技術を彼らの信奉する仏教教義とその目的に沿って取り入れた。一般的でないと思われる技術は捨てられ、あるいはごく一部の指導者にだけつたえられ、あるいは変形された。こうして秘密仏教というあたらしい教義と体系が完成した。しかし、多くのすぐれた開発技術は、この仏教教義を完成させるための補助的技術に変容させられてしまった。あるいは形骸だけがとどめられた。これが

秘密仏教の「行法」であった。
これを究極的に完成したのは、日本密教、すなわち真言宗の開祖空海であった。秘密仏教がインドから中国につたえられ、そのころ中国にわたった空海がそれに接した時点において、秘密仏教はまだ完全にはできあかっていなかった。その混沌たる素材を取捨選択して、これをいま見る真言宗というかたちにまとめ上げ、整然たる宗教にしたのは空海であった。それはまさに大天才のみがなしとげることのできる偉業であったが、同時に、秘密仏教はあまりにも整然と様式化された日本的なものになってしまった。それまでかなり残っていた密教的な部分はほとんどかげにかくれ、一-法」は、様式化された宗教儀式になってしまった。
しかし、それは、当時の目本の国情や、文化水準を背景にしたとき、やむを得ないことであったのである。というよりもむしろ当然であったというべきだろう。そうしなければ宗教として存立することができなかったのである。

だが、そのために、いまいった通り「法」はその力を失った。宗教的に様式化され、儀式化されてしまった「法」では、真の能力開発は困難である。というよりもそれは絶望に近い しかし、それはそれでいいのだ。真言密教というものが宗教であって能力関発の技術ではなく、仏教という信仰のワクのなかで教えを説き礼拝をつづけているだけでよいなら、それはそれでいいだろう。

それに、ほとんど儀式化された「法」であっても、天分のある才能が懸命の努力を集中するなら、「法」の成就も不可能ではない。やってやれないことはないのである。けれども、それは何世紀にひとりというような稀有の才能を必要とするのではないのか。そういうすぐれた頭脳によれば、様式化された法のあとをたどって、ついにその源泉に到達し、そのなかに秘められた法の技術を発見し、体得することもできよう。あるいはまた、頭脳ではなく、熱烈な信仰が、そこへ導いていってくれることもあるかも知れぬ。だが、それは、万人に期待できることではない。

要するに、真言密教成立の当時と全く時代が変ってしまった現在、真言密教が、他の宗教と根本的にちがうその本来の任務をほんとうに果たそうと思うならば、真言密教は大吝く変わらねばならぬ。真言密教はナみやかにその原点に立ちもどり、「法」を技術としてシステム化しなければならぬ。そうして、だれでもが平易にまなべる体系を編成ナることである。

それは決して「法」を解体し、「法」を壊滅してしまうことではない。むしろ、そうすることによって法が生きるのである。また、それは決して宗教の解体ではない。

法によって高い知的能力を得たならば、人はおのずから高い道徳意識、倫理観を持つものである。

 

人が宗教的教えを必要とナるのは、知的能力が低いからである。要するに、愚かだからである。人の道徳意識が低いのは、知能、精神能力が低いからだ。ほんとうに知能が高くなれば、人は、いま人類の持っている程度の宗教意識などけるかに超えたもっと高い倫理観を持つ。オリヴイエ教授のいう「無限に発展した道徳意識の保有」である。

教え(宗教)による人類の道徳意識の開発は、すでに限界に達してしまっている。

見よ。

地上にあまねくくりひろげられている人類のこの大愚行を。殺し合い、奪い合い、罵り合い。

こに「知恵あるヒト」のおもかげがあるか? 「大愚人類」そのものではないか?

要するに、バカにいくら結構な教えを説いてもだめなのだということだ。
もっと忌憚なくいわしてもらうならば、(これは私がいうのではない。みんな密教の神サマがおっしやるのであります)ちっとましなバカが、しょうのないバカに一心に教えを説いているというのが、いまの宗教のすがたというものではないのか?

宗教だけではない。科学と技術だってそうではないか。見さかいなくいい気になっていろんなものをつくり出し、あとで公害だ有害物質だと困っている。こういうおろかなことは、もう少し人類の知能が高くなったら、そんなバカなことはたのまれなくともしなくなる。要するに知能が低いからだ。
政治も、経済、思想も、みんなそうだと、あなたは真実思わないか?
要するに、すべて、″ヒトの知能が低い″ことに原因があるのである。
この世界を住みよく、たのしいものにするのには、革命ごっこよりもなによりもまず、ヒトの知能を高めることだ。そう、あなたは思わないか?
さて、話をもとにもどそう。

教えの限界とはヒトの知能の限界だ。
密教はその限界をうち破るのである。
技術によって超能力をあたえ、いっきょにヒトを改造して、宗教などという低い次元をいっぺんに飛び越し、想像を絶する叡智を持った、高い倫理的生物をつくり出そうというのだ。

それが、密教だ。
求闘持法《明星》の秘密

私はこのことを念力の護摩の修得に際してさとった。
先年、私は、念力の護摩法の伝授を受け、悉地成就の修行に入った。けれども、その行法の次
第を、何十ぺん何百。へんくり返しても、念力の火は出なかった。煙さえたちのぼる気配はなかっ
た。私かそのままその法の次第を忠実にくりかえしていたら、永久に念力の火は出なかったであ
ろう。出るはずがないのである。念力の護摩法の次第を、いくらくりかえしたって火は出ない。
そんなことで出るのだったら、今日までに、何百人、何千人の阿闇梨が念力の護摩を焚いていた
だろう。真言密教の念力の護摩法だけでは、ぜったいに火は出ない、それは、密教の技術によって、サマーナ気を克服したとき(274頁参照)、はじめて肉体から火焔を発することができ、念力の
護摩は完成するのである。絶望した私は真言密教をはなれ、身を転じて古代インドの秘密経典にむかった。
私はそこでインドの聖典、バガヴァットーギータを続み、そこに念力の護摩の秘法がかたられていることを知った(口絵写真参照)。そこから、ギータと不二の関係にあるヨーガに入った。ヨーガに本当の念力の護摩があることを知った。ヨーガにおける私のいのちがけの修行がはじまった。ヨーガの技術でなければ念力の火は出ないことがわかったからである。真言密教の念力の護摩法次第は、ほんの心おぼえ程度のものに過ぎず、これでは、だれがどうしたって火の出るはずがなかった。いや、この肉体が火となるための「法」としては心おぼえ程度のものですらなく、むしろ、バガヴァツトーギータの聖句のほうが、はるかに示唆に富んでいるといえた。ヨーガの念力の護摩は、ただ単なる観想の羅列ではなく、どの生理器官をどのように統御しどのように動かすという現実的具体的な「技術」があった。この技術によってトレーニングすれば、多少なりと素質のある者だったら、必死の修行によって念力の火を出すことは不可能ではない。真言密教の念力護摩法次第だけでは、大天才といえども不可能にちかい難事である。この秘密を知らずして、古来、いく人の密教修行者が、念力の護摩の次第と秘伝を前に、血と汗の絶望をくりかえしたことであったろう。思えばツミな″次第″である。
これと全くおなじことが、真言密教につたえる「求聞持聡明法」についてもいうことができる。求闘持とは、古書に、『見聞覚知のことを憶持して長く忘れず、師なくして天地の感応を待つ、これを″求″といい、教なくして真如妙理を覚る。これを″聞″といい、一度覚るとながく忘れない、
これを″持″という』とあるように、求闘持法とは、ヒトの大脳を強化して、博覧強卸、比類なき記憶力と聡明さをあたえる秘法であるが、これをなん十。へんなん百ぺん行法の次第通りに修行したところで、その結果は、おそらく念力の護摩とたいしてかわらない結果におわるであろう。生命を賭して修法すれば、多少の効果はあろうが、宗祖が体験を以て示したような霊験を得ることはまず難い。なぜならば、真言密教の「虚空蔵菩薩求聞持法」には印信観想による
精神集中の「法」はあるけれども、現実に生理器官である大脳皮質そのものを動かす「技術」を持っていないのである。ヨーガの「聡明法」は、どの器官をどう使ってどのように大脳皮質を動かすかという「技術」がある。また、それだけではない。根本的にちがうものがあるのである。
’それは、まったく根本的にちがう。
拙著「変身の原理」で求闘持聡明法についてかたって以来、私は、十指を越える真言僧侶、阿閉梨がたから、手紙あるいは直接、この法の修行について相談をうけた。そのほとんどは、自分も一度ないし数度にわたって求聞持法を修したが、いっさい効験がみられなかった。修法の行じかた、あるいは心構えに越法のところがあったのであろうかというのであった。また、何度か修してみて、あの行法にそんな神秘的な力がひそんでいようとは思われぬというものがあった。なかにはお気の毒にも健康を害してしまって、再起不能になったと訴えてきた阿閉梨もおられた。
お気の毒であるが、当然なのである。
真言密教の阿開梨がたが、いくら求闘持法をくりかえしても、成就できないのは当然なのである。もちろん、絶対に、とはいわない。万人に秀いでる天才、英才であったら、その極に達することができるかも知れぬ。しかしまず、不可能にちかいというべきだろう。
私か発見した密教の「求闘持法」でなければ、まず不可能にちかいといってよいであろう。こ
の法については章をあらためてくわしく書くが、ここで、求聞持法の秘密の一端を明かそう。まず、最初、真言密教の求聞持法を述べてみる。
『比の法を修するには、東南西三方の晴れたるところを最上とする。東方のみでも悪くはない。

道場の東壁に小窓をつくる。これは虚空蔵の似沢である明星の光を道場にさし入れるためである。また、朝日夕月の光を本尊にあてる意もあり、あるいは小窓に絹を張り、黄色の種字の字を書いて、そこから、明星の光をとおして本尊にあてるためでもある』
とまず場所を制定し、つぎに、さだめられた本尊の印明を百万べん、五十目あるいは百日に読誦するのであるが、日蝕または月蝕の時に結願するよう開白(はじめること)しなければならぬとある。
けれども、密教の求聞持法では、べつに場所はえらばぬのである。静かな場所でありさえすればよい。また、いつはじめてもよいのである。明星を拝するのも、行のはじめに際して、あるひととき、星と月に対すればよいのである。
また、これこそが密教のもっとも奥義とするところなのだが、弘法大師空海は、求聞持法の成就の体験を、
『―阿国大滝の岳にのぼりよじ、土州室戸の崎に勤念ナ。谷響を惜しまず、明星来影す。
言々』
と語っている。すなわち、阿波の大滝にのぼり、土佐の室戸岬でこの法の修行にはげんだところ、谷はこだまし、明星があらわれるなど、法にいわれている通り現証があり、法が成就した、
というのであるが、これは、空海のひとつの表現であって、これをそのまま鵜呑みにしてしまうからいけないのである。これはどこまでもひとつの表現なのだ。
伝にいわく、
『明星来影す、とは、結願のときに、香に火を置き、明星を拝するに、四方が暗く明星が見えねば悉地就成ではない。暗くても星が現ずれば下品の成就であり、四方が少々晴れて星が現ずれば中品、天に暗なく、ことごとく晴れて星現ずれば成就、四方が晴れても星現ぜざれば悉地成せざるなり』
とあるが、これがちがうのである。まるっきりちがう。
こういう口伝や奥伝をたよりにいくら修行しても、気の毒だが、求聞持法は成就しない。
明星とは現実の明星ではないのである。
大脳のある部分をある方法で刺激すると、目の前に光が見えるのである。
その光は、かたちも色も大きさも、いろいろに見えるが、意識を記憶の座に向けて沈静させる
と、つめたい、やや黄色みを帯びた白銀色になって、しずかに目のなかでまたたく。それはちょうど明星そっくりに見えるのである。
これが明星なのだ!
268頁をもう一度、読みかえしていただこう。
″頭のかかの光明に日を向けるならば″
とある。これがそれなのである。
ある特殊なトレーニングにより、この部位(大脳の視床下部のあたり)の刺激が、目のなかに光を浮かばせるのである。目をある角度に向けると、目を開けていても閉じていても、ポッカリと光が浮かんで見える。
この光が見えるようになると、記憶の座が自由にあやっれるようになるばかりでなく、さまざまな、奇蹟としか思えぬような力がついてくる。
これが、「求聞持法」の明星の秘密である。大空を百年ながめて空中の明星を見つめていても、ムダだ。明星はわが大脳のなかにあるのだからI。
このことは、密教五〇〇〇年の歴史に、私がはじめてっかんだ秘密である。私以外にこれを知る者はついになかった。求闘持法の秘密を私はついにつかんだ。私はそれを誇りに思う。
これをもとにして、私は、私の「求闘持聡明法」を編成した。これは、今までの「法」などというアイマイなものではない。生化学と生理学をもとにした「技術」である。正しい指導のもとに訓練を積めば、必ず、だれでもできるようになる技術である。
本来ならば、こういうことは私の、「太極秘伝」として、ごくかぎられた者だけにひそかにつたえてゆくべきものなのだろう。だが、私はこれをひろく公開する。なぜならば、私は、世界中の人びとがこの法によって知能を高め、いっさいの愚行-殺し合い、奪い合い、罵り合い、にくみ合いから遠ざかってほしいのである。
求聞持聡明法は、人の知能を三倍にナる。
しかし、その半分でもよい。人類の知能が今の水準より平均一・五倍飛躍したら、この世
から、犯罪も戦争もいっさいなくなる。そういうものがあるのは、人間が愚かだからだ。求闘持法によって知能指数が倍加したら、そういうものがいかに愚かで馬鹿々々しいことか、大人が子
供のヶンカが馬鹿々々しくて見ていられないように、いっさい、しなくなる。
私や、私の周囲のごく一部の者が、この法によっていくら賢くなろうとも、それがなにになろう。世界の大勢にどれはどの影響があろう。よしんば、私か、この法によって、古今無比の大聖者と仰がれるほどの力を持とうとも、世界のどこかで、権力を握っている馬鹿が、核バクダンのボタンをひとつ押したら、それっきりなのである。世界中はふっ飛んでしまう、古今無比の大聖
者もいっしよに!
まあ、古今無比の大聖者ともなれば、事前にそれくらい察知して、安全な所に待避してしまうであろうが、世界中が壊滅して、助かった者も核の灰に汚染されて半死半生ばかりという世のなかに、自分とごく少数の一族だけが生き残ってなにになろう。ノアの方舟の時とは状況が全くちがうのである。
このままでゆけば、核戦争がはじまるのはぜったい確実である。私にははっきりそれがわかる。この大愚行だけはやめさせなければならぬ。
革命よりも、階級闘争よりも、人種闘争よりも、なによりも、いま、人類に必要なのはこれだ。これが根本的に人類を救う道だ、とそう私は思う。ヒトの知能が二倍になったら、いま、人類がかかえているあらゆる問題はすべて解決してしまう。そう、あなたも思わないか?
私か、この求聞持法を惜しげもなく公開し、ひとりでも多く、一目でも早く、修得してほしいとねがうのは、そのためなのだ。
さて、はなしが少々よこにそれたが、この大脳の部位のことは、インドのヨーガの指導者も知っており、ヨーガのほうでは、この部位のことを、
「頭のなかの光座の座」
とか、
「梵の座、梵の裂け目」(brahma randhro
とか、
「サハスララーチャクラ」
と名づけ、頭の中の光明がかがやいている部分であると考えている。しかし、これも解釈がちがっている。
頭のなかに光明がかがやいているのではない。私の発見した求闘持法とおなじ原理である。大脳のある部位を、あるエネルギーで刺激すると、あるひとつの物質が分泌され、それが脳の神経組織を刺激して、目に光を感じさせる。                  『- それが、頭と目の微妙な角度のちがい、刺激の相違で、目のなか、目の前、および、頭のなか、というように、光の浮かぶ場所がちがうのである。
求聞特法の湯合は、目の前の、やや上方、ニメートルから三メートルくらいのところに浮かんでみえる。目の角度と、瞳孔の絞りかたによっては、はるか遠くの空に小さくかがやくように
(ちょうど明星のように)見えないこともない。もし、人里はなれた山のなかであったら、明けの明星のように見えることもできるだろう。私の経験では、目のななめ上方一メートル内外のところに見えるようにするのが、一番、″上品″のようである。
目を閉じて、目の奥の上方、つまり、ヨーガでいう”梵の座”のあたりに、光明を感じさせる
技術は、頭の角度と、脳の刺激する揚所が、求聞特法と少しちがう。したがって、これは、求聞持法ではなく、ちがう力を発現する。また別な法である。この法については、またあとで別に章をもうけて説明しよう。

(サマーナ気統御の技術》と《護摩法》の合体
おなじような例がいくっもある。
たとえば″五相成身観”である。
これは、真言宗徒がかならずおさめねばならぬ金剛界法という法のなかにあり、密教門でもと
くに重要な観法とされる行法である。
凡夫がホトヶという超能力者になるまでの過程を五つに分け、修行者は、ひとつひとつその境界を体験してゆくのであるが、これが、いずれも密教の重要な修行課目になっており、あきらか
に密教から出たものであることがわかる。
しかも、真言密教では、印と観想の二つからなる”観法″であるが、密教においては、観法だ
けではなく、特殊な技術による鍛 練によって生理的器官を動かし、実際に五つの境界に対応す
る力をつける訓練となっている。
また、真言密教においてもっとも重要とされる金剛界九会マンダラもそうである。金剛界九会
マンダラは、凡夫がホトケになる九つの段階と、ホトケというものの力、ホトケのはたらきを図
像にえがきあらわしたものであるが、要するに、ホトケの説明である。
もっとも、真言密教は、このマンダラにもとづいて、前記した金剛界法という行法を編成し、
。観法″によってこれを修行者に体得させようとする。これは、一般仏教、顕教が、その修行方
法として、ただ、経典の読誦と、念仏、唱名題目しか持だないのに対し、一段と進歩したすぐれ
た修行方法であるというべきだが、しかし、これも、真言密教が″観法”だけであるのに対し、
密教は、九会マンダラにあらわされた九つの力を実際に体得させる訓練技術を持っている。
例をあげれば、微細会マンダラがそうである。これは九会マンダラのなかの東南方に位するマ
ンダラで、ホトケの微妙幽玄にして不可思議なる智恵の力とはたらきをあらわすものである。
密教には、実際にこの力を生ぜしめる訓練がある。
真言密教では、ただ、。観想″による″観法″しかない。現実にそういう″力″を持たせると
ころの″技術″がない。
276頁を見ていただこう。
。あきらかに、微細会マンダラは、ヨーガのこの訓練から出ている。ナくなくとも、この訓練に
よって得られる力を背景にしたものであることは間違いない。
これは、密教の技術で、胸の部分の或る部位に力を集中することによって得られる力である。
-こうしてみてくると、真言密教がとるべき道は、おのずから明らかであるといわねばなるまい。真言密教の行法は、密教の技法をとり入れることにより、本当の力が生ずるのではないのか?
そういうと、密教がそんなにすぐれたものであるというなら、密教は真言密教をはなれて、密教独自の道を歩んだらよいではないかという意見が出るかも知れない。その通りである。それでもよいのだ。そういう道もあると私も思う。
しかし、それにもかかわらず、私か真言密教にある価値を見出すのは、その表現様式である。おもしろいことだと思う。
様式だけになってしまっている(と私が思う)真言密教の、その様式が、なかなか貴重なのだ。
私が体得した密教の秘奥の技術を、さて、どのように表現しようかと、その様式を考えてゆくと、結局、真言密教の様式がいちばん便利なのである。たとえば、私の体得創案した「求聞持法」は、ヨーガの技術から発見したもので、真言密教の「求聞持法」とは全然ちがう。そのことは、前の項でおわかりになったことと思う。

How to make someone a genius
The Gumma Mochi Shomeiho is a secret method passed down in Shingon Esoteric Buddhism that makes people smart and geniuses.
It is well known that Kobo Daishi Kukai mastered this at a young age and became a great genius.
Ru. In addition, Kokyo Daishi Kakujo (109511142), the founder of the Shingi Shingon sect, taught this law seven times.
It is said that he tried to cultivate himself but was not successful, but on his eighth attempt he became a master and succeeded. The work left behind by Kakujo Shonin
Looking at his achievements, there is no doubt that Shonin was also a genius. Unfortunately, he passed away at the age of 48.
He is hollow.
There are three types of methods in Shingon Esoteric Buddhism:
Kokuzo Gumonmochi
Kannon Gumonmochi
Nyoirin Gumonji
However, when we talk about Gumma-jipo, we usually refer to the famous Kokuzo Gumma-jipo practiced by Kukai. this
Tsubasa             Nigmonjiho
The law is said to be “Buddhist theory of Kokuzo Bosatsu, Noman, All Vows, Most Winning Mind Darani, Gumonjiho.”
However, the method of wisdom that I am presenting in this book is none of these. With the Gumonji method that I created in my monologue, I am very good at it.
He named it Dato Nyoi Gumon Jishimeiho.
This Dato Nyoi Gyomonji Somyoho is completely different from the Gyomonjiho that is related to Shingon Esoteric Buddhism.
There are two characteristics.
it is,
1. Awaken the Kundalini Yoga chakra and generate superhuman Senfurugi.
2. The superhuman dryness 1 Lugi is used as the vitality route of Qigong, a guide that has been passed down to Taoism in China.
Place it on top of your body and distribute it to each important point and part of your body. In particular, it is sent to the diencephalon and hypothalamus, which are the centers of the cerebrum.
These two methods were completed using a unique method. It can be said that this is unexplored territory. I have devoted half my life, or rather, my whole life, to perfecting this law. Since I published “The Principle of Transformation” about 20 years ago, I have written 40 books, and all of these books express the path to perfection of this law. It can be said that there is.
I have made as much of what I have learned as clear as possible in this book. Kundalyu Yoga, Taoist Guidance, and Qigong are both methods for acquiring superhuman abilities.
It is the best law. There is no other way to develop superpowers in this world. By correcting and merging the deficiencies of these two laws, and adding new ideas, this Dato Nyoi Gumonji Shinmeiho was completed.
We are proud that this is the ultimate method for developing psychic abilities.
of course,. As the proverb goes, “Don’t be afraid of future generations.” There may be other ways to develop psychic abilities in the future, but this method, which is a fusion of Kundalyu Yoga and Guidance/Qigong, is the best.
I am sure that it is nothing other than the line of Tonyo Iguma Mochi Soumeiho.
I assure you that if you practice this method as instructed, your intelligence will definitely double and your physical strength will triple.

A genius must be eternally young and long-lived.

It is true that the method of learning to be intelligent makes a person a genius.
However, no matter how great a genius you become, it will be of no use if you become sickly or die young because of it. Geniuses are those who remain young and healthy forever, and use their talents for the sake of the world and people.
Must be. (There is no such thing as a bedridden genius.)
When I set out to acquire the teachings of Gumonjisamaiho, I always had in mind Shonin Shonin, a member of the Kokyo Daishi Party, whose lifespan was unfortunately short at the age of 48. The jounin probably achieved the Dharma through the harsh practice of Gukmajiho, but it must have hurt his body and shortened his lifespan.
This fear was especially acute for me, who had the painful experience of being in bed for many years after contracting tuberculosis as a young child.
Fortunately, however, this concern turned out to be in vain.
By adopting Taoist guidance and the secret techniques of qigong, this worry was blown away.
In other words, Taoist guidance and qigong are descended from Sendo. The ideal of Sendo is to live a long life and become immortal while still alive.
The Dato Nyoi Gumon Jisomeiho was not intended to achieve eternal life and longevity, but that is what it turned out to be.
Unexpectedly, the ideal of Sendo was realized.
It is a little difficult to become a divine being, but eternal youth and longevity can definitely be achieved. I can say that. This Dato Nyoi Gumon Ji Shumyo method incorporates the secret method of Sensen.
If you are in your twenties, you will be able to rejuvenate by three to five years, and if you are middle-aged or older, you will be rejuvenated by ten to fifteen years.

Even if you enter training as an elderly person and are unable to become a genius because of your age, you will still acquire a youthful body and a brain that will never fade.
“Gumonji Syoumeiho Hiden” published by Hirakawa Publishing. From “Foreword”

“Equivalent transformation expansion theory”

Is that really possible? How on earth is that possible?
That is certainly true, and I have personally tried to discover the secrets of this esoteric Buddhism.
I couldn’t believe it at all until I figured out the technology. I’ve been alone, a secret for 5,000 years
I delved into this mysterious technology that had been hidden behind a veil and solved its secrets. That’s what I believe
It was an amazing application of technology based on biochemistry that is so precise and subtle as to be impossible to describe.

for example,
As mentioned earlier, Dr. Kamekuya Ichikawa, in his recent works, uses the “equivalent transformation expansion theory” of which Ma (≒Yuzukeiki) is particularly good at, and uses the change from a caterpillar to a pupa as an example to explain the future society. He preaches the shedding of the skin. This theory is truly brilliant, and so vivid that it is truly heartwarming. In particular, the theoretical basis for the transformation of a caterpillar into a pupa can be said to be one of the most outstanding among the futuristic theories that have been popping up in recent years.

Unfortunately, however, it is limited to theories, explanations, and expectations, and does not show how to apply it to humans to make it a reality. Of course, he himself wrote this in the book’s preface.
However, this is “simply limited to the scope of the software’s claims regarding the future society that humanity should have.” Since the concrete proposal of hardware in contrast to software is “definitely a strong proposition,” we should immediately wait for it, and then immediately introduce the hardware in contrast to software. ・One of the techniques possessed by Esoteric Buddhism is Ichikawa’s theory of “shedding the skin from a caterpillar to a pupa,” and it has been around for thousands of years. They applied it to human transformation technology and put it into practice.

 

Esoteric Buddhism had long been putting into practice the star theory of the future advocated by the masters of modern creation theory. Five thousand years ago.
A caterpillar, a creature that only knows how to crawl on the ground, becomes a pupa and then transforms into a creature that flies in the sky, which means that a creature living in a two-dimensional world has changed into a three-dimensional creature. is. Esoteric Buddhism uses the same technology to transform humans, which means that humans, who are three-dimensional creatures, can be transformed into a higher dimension.
It means to make a leap. That is the transformation technique of Esoteric Buddhism. It changes the dimension of that creature.

 

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