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人間は輪廻転生しつづける

生存しつづける人間人間は死んでも生まれ変わる。 しかも一度だけではな く、ちょうど車輪がぐるぐると廻るように、果てしなく生と死をくり返す。そ れで輪廻転生というのである。

人は輪廻転生することになる。

果てしなく生と死をくり返すのである。

死んで霊的世界にも行くが、そこに永遠にとどまっているのではなく、ある 日気がつくと生まれ変わっている。もちろん、前世の記憶や意識は残っていな い。しかし、感性と運命の上では、前世の自分を引きずっているのである。そ ういう意味で生命は存続しているといえる。

「人間は輪廻転生しつづける」ということは、換言すれば生きつづけるという

もちろん、いまの人生には限りがある。 時期がくればこの世とおさらばして

霊的世界へ行き、そののちにどこかへちがう人間(あるいは動物)として転生す る。いまとはちがう存在にはなるものの、魂が存続されていくのであるから、 永久に死なないといえるのである。

現代人の多くは輪廻転生を否定しているが、古代インドではほとんどの人が 輪廻転生を信じていた。 命あるものが永遠に生まれ変わることを知っていたの である。そして、じつは、古代インドの人々は輪廻転生を恐れていた。来世で 人間に生まれ変われる保証はないので、家畜などに転生して食べられてしま うかもしれない。また、あるいは人間に生まれ変わっても奴隷やそれ以下の階 級に生まれることも考えられる。古代インドには厳格な身分制度があったの で、彼らは来世に対して戦々恐々とした思いを持って生活していたわけである。 そして、

「この苦しみの世に生まれては死に、また生まれては死ぬという定めから脱し たい」

と心から願っていた。

人間は輪廻転生しつづける

**イントロ:**

果てしなく生と死をくり返し
の前世の記憶は残らない
しかし、魂は永遠に続く
輪廻転生、生命の連鎖

**サビ:**

新たな世界へ生まれ変わり
希望と恐れを抱いて
魂の旅は終わらない
輪廻転で旅のthe journey of life

お釈迦さまはそのような時代に登場され、輪廻を断って寂静の境地である涅 (ニルヴァーナ)に入る教法を説かれた。また、すぐに涅槃に入れない者に は、来世で天に生まれる方法を説かれたのである。そして、このお釈迦さまの 教法、つまり仏教はインド中に広まり、さらにはアジア各地へと伝播されて

そのように仏教は輪廻転生から脱することを最終目標にするわけであるが、 わたくしはお釈迦さまの教法をさらに進めて、輪廻転生を利用するということ を思いつき、このほどその方法を完成させた。それがお釈迦さまの成仏法をも とに編んだ瞑想法、「輪廻転生瞑想法」である。これを実践するならば理想的な 来世を迎えることができる。

「阿含経」には、お釈迦さまが弟子たちに、

「よい境界に生まれたければこのような修行をして、悪行をおこなわないよう にしなさい」

と指導されている箇所がいくつもある。 とくに在家の弟子には、よい来世が

得られるように指導されていた。したがって、わたくしの指導する 「輪廻転生 瞑想法」は、そのお釈迦さまのご指導を発展させたものなのである。

輪廻転生を逆利用する方法

システム

わたくしの提唱する 「輪廻転生瞑想法」は、人は解脱しないかぎり輪廻転生 くり返すのだから、その方法を逆に利用していまよりもよい境遇の人間に生 まれ変わろう、というものである。

お釈迦さまの説かれた輪廻を解脱する教法は仏教の根幹であり、絶対にゆる がせにできない。 しかし、その法を保ちつつ、同時に輪廻転生を利用するとい うのも、わたくしはひとつの選択肢だと思うのである。

たしかにこの世には苦しみがあふれているが、同時に喜びもある。たとえ苦 労をしても人間に再び生まれて、思う存分に生きたいという人も多いのではな いか。

それでこの瞑想法を創案したのである。

輪廻を絶つことを選ぶか、よい来世に生まれるほうを選ぶかはあなたしだい なのである。

わたくしも自分の人生を振り返ってみると、あのときはああすればよかっ たと後悔することばかりである。しかし、この瞑想法にもとづけば、理想的 来世の設計図を自分で描き、 それにしたがって思う存分にすばらしい人生を 送ることができるわけであるから、じつに楽しいのである。

来世も人間に生まれて、幸福な一生を送る秘法

人間は輪廻転生をする、 死後も生命はつづくと知ったとき、だれもが関心を 持つのは自分の来世についてである。 来世の自分は果たして幸福であるのか? それとも不幸な人生を歩んでいくのか? その一点が気になると思う。 あなたの周囲にも、生まれつき運がよくてなんの不自由もなく生きている人 もいれば、生まれたときから不幸を背負って生きている人もいるであろう。 来世は幸福なほうがよいか、それとも不幸なほうがよいかときかれれば、い

うまでもなく来世は幸福な人間として生まれることを望むはずである。

「しかし、来世はこのようになりたいといくら願っても、自分が望む来世を創 り出すことなどできないでしょう?」

というかもしれないが、そうではない。 幸せな来世を企画し、創造する秘法 があるのである。それがお釈迦さまの成仏法をもとに編んだ瞑想法なのである。 だれしも、できることならば、幸福な境遇に生まれたいと願うはずである。 それを実現するのが「輪廻転生瞑想法」なのである。

ただし、忘れてはならないのは、来世でも人間としての生を受けられるとい う保証はない、ということである。 生命のあるものならば、なんにでも生まれ 変わる可能性がある。 犬や猫、豚や馬などはもちろんのこと、アナコンダやコ ブラに生まれることさえある。

五蘊の瞑想法 Meditation on the Five Aggregates

 

 

五蘊の瞑想法

### イントロ


仏の教え、雨の中語られぬ。
知恵の光に尽きる漏れ、
修習なき者、安穏得ず。

### サビ

勤めて修せば自然に解脱、
心に喜び、結蝶解く。
母鶏の子育てのごとく、
正しく修行で安穏得ん。

### イントロ

大舶の海辺に立ち、夏の風よ、
六月を過ぎ、藤の枝も断つ。
比丘よ、精勤の修行で、
悩みの結蝶、漸く解く。

### サビ

善く修習すれば心安らぎ、
自然に漏尽、解脱の道。
仏の教え、六十の比丘、
喜びの中、奉行しき。

「三善根(三福道)というものがありますが、その功徳は無限であり、涅槃界に至ることができ るものです。 なにをもって三つの善根 (福)とするのでしょうか。 (第一に) いわゆる如来の所に おいて功徳を種える、この善根(福)の功徳は無限です。 (第二に) 正法において功徳を種える、 この根(福)の功徳は無限です。(第三に) 聖衆において功徳を種える、この善根 (福)の功徳 は無限です。 阿難よ、この三善根(三福道)の功徳は無限であり、涅槃界に入ることができるの です。したがって阿難よ、三善根(三福道)を修行して、この無限の福を得なさい。このように 阿難よ、この三善根 (三福道)を学びなさい」

この教えを受けて、阿難は心より喜び、修行に励みました。

冒頭でも触れたように、

阿含  阿含経・三供品

聞如是一時仏在舎衛国樹給孤独 園爾時世尊阿難。有三善根。 不 可窮尽。 至涅槃界。 何為三所 謂於如来所而種功德。此善根不可窮 尽於正法 而種功徳。 此善根不可 尽於聖衆而種功徳。 此善根不可 窮尽是謂阿難。此三善根不可窮尽 得至涅槃界。是故阿難。当求方便獲 此不可窮尽之福。如是阿難。当作是 学爾時阿難関仏所説。 喜奉行

 

聞くことの歌 舎衛国祇給孤独園に在 しきの時世尊、阿難に告げたまわく、「三善根(三 福道)有り、窮尽す可からずして、漸く涅槃界に至る。

 

何が三とすや。所謂如来の所に於て功徳を使う。 此 善 善根尽す可からず。 聖に於て功徳を種う。此の善此の す可からず。正法に於て功徳を種う。

尽す可からず。 是れを阿難、此の三善根は窮尽す可 からず、涅槃界に至ることを得と謂うなり。是故に 難当に方便を求めて、此の窮す可からずの福を獲べ 是の如く阿難当に是の学を作すべし」と。雨の時 阿難、仏の所説を聞きて喜奉行しぬ。

このように聞きました。仏さまがコーサラ国の祇園精舎にご滞在の時のことです。ある日、世尊は、阿難にこのようにお告げになられました。

「三善根(三福道)というものがありますが、その功徳は無限であり、涅槃界に至ることができ るものです。 なにをもって三つの善根 (福)とするのでしょうか。 (第一に) いわゆる如来の所に おいて功徳を種える、この善根(福)の功徳は無限です。 (第二に) 正法において功徳を種える、 この根(福)の功徳は無限です。(第三に) 聖衆において功徳を種える、この善根 (福)の功徳 は無限です。 阿難よ、この三善根(三福道)の功徳は無限であり、涅槃界に入ることができるの です。したがって阿難よ、三善根(三福道)を修行して、この無限の福を得なさい。このように 阿難よ、この三善根 (三福道)を学びなさい」

この教えを受けて、阿難は心より喜び、修行に励みました。

冒頭でも触れたように、 阿含宗では三善根を三福道と呼んでいます。このことについて説明し

『仏教語大辞典』(中村元著、東京書籍)で「三善根」を引くと、

【三善根】さんぜんごん 無善根・無瞋善根・無癡善根の三根。 一切の善法がこの三つか ら生まれるからである。 それらは具体的には施・・慧となって現われる。 三毒の対

と書かれています。 しかし、この「三供養品」に説かれる三善根は、その内容がまったく異な ります。それなのに、これを三善根という名称のままで弟子たちに教えるのは、非常な誤解を生 むもとだとわたくしは考えました。

それでは、この修行法は、どのように呼ぶべきなのでしょうか?

「此の窮尽す可からざるの福を獲べし」

とあるように、この修行法は無尽蔵の福を得る三つの道です。 したがって、わたくしはこれを 「三福道」と命名しました。 この名称ならば無貪善根・無瞋善根・無癡善根の三善根と混同する ことはありません。

そこで、阿含宗では、三善根を「三福道」と変えて読誦しているのです。

さて、右の経文を一読すれば、涅槃界に至るためには三善根 (三福道)が必要なのだ、という ことをお釈迦さまが説かれているのが分かると思います。

涅槃界とはなんでしょうか?

阿含経・三供品

普通は涅槃の境地境界の意味で使われます(ただし本経では違う意味を持っておりますが、それ については後述します)。 『五戒品』 でも触れたように(本書三七頁参照)、涅槃とはサンスクリット 語でニルヴァーナといいますが、生死を超越した境界、完全解脱の境地です。 完全解脱とは業と 因縁から完全に解放された状態です。

めんね てんしよう

わたくしたちは業と因縁の塊です。 業と因縁によって輪廻転生を続けています。 輪廻転生とは 生死の流転がやまず、無限に生死の流転を繰り返すことです。まるで車の輪が廻るように絶え

〇九三

阿含経   三百槍の苦 The Pain of 300 Spears

阿含経   三百槍の苦

**イントロ:**

この世に生まれた、その理由
終わりなき夜の苦しみを背負う
地獄、畜生、餓鬼の三悪道
無限の苦しみを聞くことなし

**サビ:**

悟りのためなら、百年の槍
日々の痛みも、大したことない
輪廻の苦しみ、永遠に比べ
この一瞬は、なんでもない

 

、お釈迦さまが波羅捺国の仙人の住処である鹿野苑にご滞在の時の説法を記したも のです。波羅国とは、当時、中インド・ガンジス河中流にあった、カーシー国の首都バーラー ナシーを漢字に音写したもので、現在のワーラーナシー(ベナレス) 市にあたります。

そのバーラーナシーの郊外に鹿野苑(ワーラーナシー市のサールナート付近)があります。 ここ は鹿が放し飼いにされているので、鹿野苑といわれました。日本でいえば奈良のようなところで

すが、鹿野苑は町外れにあり、いろいろな宗教の聖者や求道者の修行場であり、居住地でありま した。

そのような聖者や修行者を、パーリ語ではイシ、サンスクリット語ではリシといいます。 イシ ないしリシを漢訳経典では仙人と訳しました。 仙人という訳ははたして適切なのかと疑問に思 いますが、昔の中国の概念でいえば、たしかに仙人でしょう。 ほかに表現のしようがなかったの だろうと思います。 要するに、いろいろな宗教の聖者やその弟子たちが、 鹿野苑の中に住み、修 行に励んでいたわけですが、そういう人たちを仙人と訳したわけです。

仙人たちが住んでいた鹿野苑ですから、 仙人住処鹿野苑というわけです。 パーリ語ではイシパ タナミガダーヤといいます。パタナとは住んでいるところという意味です。鹿野苑はパーリ語 でミガダーヤですから、イシバタナ・ミガダーヤを漢訳して仙人住処鹿野苑というわけです。こ ここはお釈迦さまが成道後、五人の比丘に初めて説法をされた初転法輪の地で、仏教四大聖地の一 つに数えられます。

お釈迦さまは鹿野苑でもろもろの弟子たちに、

と説かれました。

「譬えば士夫の年寿百歳なるが如し。人有り語って言わく、『士夫若し法を聞かんとせば、 当日日三時に苦を受くべし。 朝の時に百槍の苦を受け、日中埔時にも、亦復た是の如く、一 1日の中に於て、三百槍の苦を受け、是の如く日日して、百歳に至り、然して後法を聞きなば、無 間等を得ん、汝寧ろ能うや不や』と」

お釈迦さまはたとえ話として、こういうことをお話しになられたのです。

「たとえば百歳の紳士がいるとしましょう」

お経に士夫とありますが、これはしかるべき身分の男性のことですから、現代語に訳せば紳士 です。

「その紳士に、ある人がこういいました。

経中の紳士は、

と答えました。

「もしもあなたが、因縁解脱が説かれた正しい仏法を聞きたいならば、毎日三回、大きな苦しみ を受けなければ教わることはできないけれども、あなたはそれでも仏法を聞きたいか、といわれ たらどうしますか? その苦しみとは、朝に百回槍で突かれ、同様に昼も晩も百回ずつ突かれる というもので、そのように一日に合計三百回も槍で突かれる苦しみを受けて、百歳になった時点 で初めて仏法を聴聞し、最高の悟りを得ることができるとしたならば、あなたはその苦を受けま すか?」

三百回も槍で突かれるなどということは、実際には不可能です。一度槍で突かれただけで死ん でしまいます。したがってこれは、それほどの苦しみと考えていただけばよいでしょう。

「因縁解脱をするためには、百年の間、毎日毎日、朝、昼、晩の三度にわたって、槍で百回ずつ 突かれるほどの苦しみに遭わなければならない。そういう苦しみに遭わなければ、因縁解脱の法 を教わることができないとしても、あなたは因縁解脱の道を志しますか?」

そう問われた時、みなさんはどう答えますか?かつに

「法を聞かんが為の故に、 悉く受くるに堪能せり」

これを現代語に訳せば、

となります。

「成仏の法を聞くためには、それらの苦しみに遭わなければならないというのならば、私は喜ん その苦しみを受けるでありましょう」

これは、大変な言葉です。 みなさんならば、どうしますか?

「因縁解脱行を一生懸命にやれば、必ず成仏することができる。 その代わり、この行を教わるた めには、朝、昼、晩ごとに各百回、一日に合計三百回も槍で突かれなければならない。それを百 年間続けて、初めてその修行に入れるのだよ」

そういわれたならば、みなさんはどうしますか?

「仏舎利宝珠尊解脱宝生行ができるならば、私は喜んで毎日槍で突かれましょう」

といいますか? それとも、

「そんなのまっぴらごめんだ。冗談じゃないよ。 槍で突かれるのが一回だとしても、私はごめん こうむります」

と答えるでしょうか?

おそらくはほとんどの人が後者でしょう。

しかしこの紳士は、

仏法を学びます」

「私は百年間、毎日三百回ずつ槍で突かれるような苦しみに遭っても、喜んでその苦しみを受けと答えているわけです。それはなぜでしょうか?

 

現代語に訳すと、

「所以は何ん、人の世に生れなば、長夜に苦を受くるに、有る時は地獄、有る時は畜生、有る時 は餓鬼、 三悪道に於て、 空しく衆の苦を受けた法をも聞かざるなり。是の故に我れ今無間等 の為の故に、終身三百槍を受くるを以て大苦とは為さざるなり」

 

「なぜならば、人間として生を受けたならば、いろいろな苦しみを受けるからです。しかも、そ の苦しみはこの一生だけではなく、永く続いていくものです。ある時は地獄界に堕ち、ある時は 畜生界に堕ち、ある時は餓鬼界に堕ちて、さまざまな苦しみに遭うでしょう。 それらの三悪道に 堕ちたならば、多くの苦しみを受けるだけでなく、仏法を聴聞することもできません。それに比 べれば、悟りを得るために、百年の間、毎日、槍で三百回突かれることなど、私には大きな苦し みとは思えないのです」

人間には来世がなく現世だけで終わるのならば、百年間で突かれるという苦しみを まで、成仏法を習う必要はないでしょう。けれども輪廻転生して、永く地獄、畜生、餓鬼の苦 しみを受けることに比べれば、百年間の苦しみなどなんでもない。永く輪廻転生して苦しむこと を考えれば、ずっと楽です。まさにこの紳士のいうとおりです。