UA-135459055-1

Mac

阿含  阿含経・三供品

聞如是一時仏在舎衛国樹給孤独 園爾時世尊阿難。有三善根。 不 可窮尽。 至涅槃界。 何為三所 謂於如来所而種功德。此善根不可窮 尽於正法 而種功徳。 此善根不可 尽於聖衆而種功徳。 此善根不可 窮尽是謂阿難。此三善根不可窮尽 得至涅槃界。是故阿難。当求方便獲 此不可窮尽之福。如是阿難。当作是 学爾時阿難関仏所説。 喜奉行

 

聞くことの歌 舎衛国祇給孤独園に在 しきの時世尊、阿難に告げたまわく、「三善根(三 福道)有り、窮尽す可からずして、漸く涅槃界に至る。

 

何が三とすや。所謂如来の所に於て功徳を使う。 此 善 善根尽す可からず。 聖に於て功徳を種う。此の善此の す可からず。正法に於て功徳を種う。

尽す可からず。 是れを阿難、此の三善根は窮尽す可 からず、涅槃界に至ることを得と謂うなり。是故に 難当に方便を求めて、此の窮す可からずの福を獲べ 是の如く阿難当に是の学を作すべし」と。雨の時 阿難、仏の所説を聞きて喜奉行しぬ。

このように聞きました。仏さまがコーサラ国の祇園精舎にご滞在の時のことです。ある日、世尊は、阿難にこのようにお告げになられました。

「三善根(三福道)というものがありますが、その功徳は無限であり、涅槃界に至ることができ るものです。 なにをもって三つの善根 (福)とするのでしょうか。 (第一に) いわゆる如来の所に おいて功徳を種える、この善根(福)の功徳は無限です。 (第二に) 正法において功徳を種える、 この根(福)の功徳は無限です。(第三に) 聖衆において功徳を種える、この善根 (福)の功徳 は無限です。 阿難よ、この三善根(三福道)の功徳は無限であり、涅槃界に入ることができるの です。したがって阿難よ、三善根(三福道)を修行して、この無限の福を得なさい。このように 阿難よ、この三善根 (三福道)を学びなさい」

この教えを受けて、阿難は心より喜び、修行に励みました。

冒頭でも触れたように、 阿含宗では三善根を三福道と呼んでいます。このことについて説明し

『仏教語大辞典』(中村元著、東京書籍)で「三善根」を引くと、

【三善根】さんぜんごん 無善根・無瞋善根・無癡善根の三根。 一切の善法がこの三つか ら生まれるからである。 それらは具体的には施・・慧となって現われる。 三毒の対

と書かれています。 しかし、この「三供養品」に説かれる三善根は、その内容がまったく異な ります。それなのに、これを三善根という名称のままで弟子たちに教えるのは、非常な誤解を生 むもとだとわたくしは考えました。

それでは、この修行法は、どのように呼ぶべきなのでしょうか?

「此の窮尽す可からざるの福を獲べし」

とあるように、この修行法は無尽蔵の福を得る三つの道です。 したがって、わたくしはこれを 「三福道」と命名しました。 この名称ならば無貪善根・無瞋善根・無癡善根の三善根と混同する ことはありません。

そこで、阿含宗では、三善根を「三福道」と変えて読誦しているのです。

さて、右の経文を一読すれば、涅槃界に至るためには三善根 (三福道)が必要なのだ、という ことをお釈迦さまが説かれているのが分かると思います。

涅槃界とはなんでしょうか?

阿含経・三供品

普通は涅槃の境地境界の意味で使われます(ただし本経では違う意味を持っておりますが、それ については後述します)。 『五戒品』 でも触れたように(本書三七頁参照)、涅槃とはサンスクリット 語でニルヴァーナといいますが、生死を超越した境界、完全解脱の境地です。 完全解脱とは業と 因縁から完全に解放された状態です。

めんね てんしよう

わたくしたちは業と因縁の塊です。 業と因縁によって輪廻転生を続けています。 輪廻転生とは 生死の流転がやまず、無限に生死の流転を繰り返すことです。まるで車の輪が廻るように絶え

〇九三

阿含経   三百槍の苦 The Pain of 300 Spears

阿含経   三百槍の苦

**イントロ:**

この世に生まれた、その理由
終わりなき夜の苦しみを背負う
地獄、畜生、餓鬼の三悪道
無限の苦しみを聞くことなし

**サビ:**

悟りのためなら、百年の槍
日々の痛みも、大したことない
輪廻の苦しみ、永遠に比べ
この一瞬は、なんでもない

 

、お釈迦さまが波羅捺国の仙人の住処である鹿野苑にご滞在の時の説法を記したも のです。波羅国とは、当時、中インド・ガンジス河中流にあった、カーシー国の首都バーラー ナシーを漢字に音写したもので、現在のワーラーナシー(ベナレス) 市にあたります。

そのバーラーナシーの郊外に鹿野苑(ワーラーナシー市のサールナート付近)があります。 ここ は鹿が放し飼いにされているので、鹿野苑といわれました。日本でいえば奈良のようなところで

すが、鹿野苑は町外れにあり、いろいろな宗教の聖者や求道者の修行場であり、居住地でありま した。

そのような聖者や修行者を、パーリ語ではイシ、サンスクリット語ではリシといいます。 イシ ないしリシを漢訳経典では仙人と訳しました。 仙人という訳ははたして適切なのかと疑問に思 いますが、昔の中国の概念でいえば、たしかに仙人でしょう。 ほかに表現のしようがなかったの だろうと思います。 要するに、いろいろな宗教の聖者やその弟子たちが、 鹿野苑の中に住み、修 行に励んでいたわけですが、そういう人たちを仙人と訳したわけです。

仙人たちが住んでいた鹿野苑ですから、 仙人住処鹿野苑というわけです。 パーリ語ではイシパ タナミガダーヤといいます。パタナとは住んでいるところという意味です。鹿野苑はパーリ語 でミガダーヤですから、イシバタナ・ミガダーヤを漢訳して仙人住処鹿野苑というわけです。こ ここはお釈迦さまが成道後、五人の比丘に初めて説法をされた初転法輪の地で、仏教四大聖地の一 つに数えられます。

お釈迦さまは鹿野苑でもろもろの弟子たちに、

と説かれました。

「譬えば士夫の年寿百歳なるが如し。人有り語って言わく、『士夫若し法を聞かんとせば、 当日日三時に苦を受くべし。 朝の時に百槍の苦を受け、日中埔時にも、亦復た是の如く、一 1日の中に於て、三百槍の苦を受け、是の如く日日して、百歳に至り、然して後法を聞きなば、無 間等を得ん、汝寧ろ能うや不や』と」

お釈迦さまはたとえ話として、こういうことをお話しになられたのです。

「たとえば百歳の紳士がいるとしましょう」

お経に士夫とありますが、これはしかるべき身分の男性のことですから、現代語に訳せば紳士 です。

「その紳士に、ある人がこういいました。

経中の紳士は、

と答えました。

「もしもあなたが、因縁解脱が説かれた正しい仏法を聞きたいならば、毎日三回、大きな苦しみ を受けなければ教わることはできないけれども、あなたはそれでも仏法を聞きたいか、といわれ たらどうしますか? その苦しみとは、朝に百回槍で突かれ、同様に昼も晩も百回ずつ突かれる というもので、そのように一日に合計三百回も槍で突かれる苦しみを受けて、百歳になった時点 で初めて仏法を聴聞し、最高の悟りを得ることができるとしたならば、あなたはその苦を受けま すか?」

三百回も槍で突かれるなどということは、実際には不可能です。一度槍で突かれただけで死ん でしまいます。したがってこれは、それほどの苦しみと考えていただけばよいでしょう。

「因縁解脱をするためには、百年の間、毎日毎日、朝、昼、晩の三度にわたって、槍で百回ずつ 突かれるほどの苦しみに遭わなければならない。そういう苦しみに遭わなければ、因縁解脱の法 を教わることができないとしても、あなたは因縁解脱の道を志しますか?」

そう問われた時、みなさんはどう答えますか?かつに

「法を聞かんが為の故に、 悉く受くるに堪能せり」

これを現代語に訳せば、

となります。

「成仏の法を聞くためには、それらの苦しみに遭わなければならないというのならば、私は喜ん その苦しみを受けるでありましょう」

これは、大変な言葉です。 みなさんならば、どうしますか?

「因縁解脱行を一生懸命にやれば、必ず成仏することができる。 その代わり、この行を教わるた めには、朝、昼、晩ごとに各百回、一日に合計三百回も槍で突かれなければならない。それを百 年間続けて、初めてその修行に入れるのだよ」

そういわれたならば、みなさんはどうしますか?

「仏舎利宝珠尊解脱宝生行ができるならば、私は喜んで毎日槍で突かれましょう」

といいますか? それとも、

「そんなのまっぴらごめんだ。冗談じゃないよ。 槍で突かれるのが一回だとしても、私はごめん こうむります」

と答えるでしょうか?

おそらくはほとんどの人が後者でしょう。

しかしこの紳士は、

仏法を学びます」

「私は百年間、毎日三百回ずつ槍で突かれるような苦しみに遭っても、喜んでその苦しみを受けと答えているわけです。それはなぜでしょうか?

 

現代語に訳すと、

「所以は何ん、人の世に生れなば、長夜に苦を受くるに、有る時は地獄、有る時は畜生、有る時 は餓鬼、 三悪道に於て、 空しく衆の苦を受けた法をも聞かざるなり。是の故に我れ今無間等 の為の故に、終身三百槍を受くるを以て大苦とは為さざるなり」

 

「なぜならば、人間として生を受けたならば、いろいろな苦しみを受けるからです。しかも、そ の苦しみはこの一生だけではなく、永く続いていくものです。ある時は地獄界に堕ち、ある時は 畜生界に堕ち、ある時は餓鬼界に堕ちて、さまざまな苦しみに遭うでしょう。 それらの三悪道に 堕ちたならば、多くの苦しみを受けるだけでなく、仏法を聴聞することもできません。それに比 べれば、悟りを得るために、百年の間、毎日、槍で三百回突かれることなど、私には大きな苦し みとは思えないのです」

人間には来世がなく現世だけで終わるのならば、百年間で突かれるという苦しみを まで、成仏法を習う必要はないでしょう。けれども輪廻転生して、永く地獄、畜生、餓鬼の苦 しみを受けることに比べれば、百年間の苦しみなどなんでもない。永く輪廻転生して苦しむこと を考えれば、ずっと楽です。まさにこの紳士のいうとおりです。

 

 

 

 

薬師如来

 

 

薬師如来

オン コロコロ センダリ マトウギ ソワカ

東方浄瑠璃世界の教主で、正式名を薬師瑠璃光如来(やくしるりこうにょらい)といいます。

 

病気を治して衣食住を満たすという「十二の大願」を立て、生きている間に願いを叶えてくれます。阿弥陀如来のように死んだ後にやすらぎを与えるのではなく、現世にやすらぎを与えてくれるのが特徴です。昔の作例はとくに病気平癒を願ったものが多数存在します。

 

日光菩薩と月光菩薩を脇侍として三尊として並ぶことが多いです。さらに、7体の薬師如来で息災・増益を祈願する修法の本尊である七仏薬師というものも存在します。また、眷属として十二神将を従えています。

オン・コロコロ・センダリ・マトウギ・ソワカ

この文章をの作詩ください。
歌詞はイントロ4行、サビ4行してください。

薬師如来の心の底から起こってくる願い、誓願であって、社会の最下層の人々、虐げられて痛ましいチャンダリマータンギの人々こそ救われて欲しい、その人たちが救われるならば、すべての者たちもより良くあるはずである、そしてすべてものたちの悩み苦しみがなくなり、生きとし生けるものたちが幸せであって欲しいというお薬師さまの願いを最も短い言葉で表現したものに違いないと思ったのである。

では、チャンダリとは何であろうか。candāliを『梵和大辞典』(山喜房仏書林)には、旃陀羅家女とあり、candālaには、社会の最下層の人(シュードラの男とブラフマナの女との間に生まれた混血種姓にして一般に蔑視し嫌悪せられる)とあり、漢訳では、屠種、下賤種、執暴悪人などとある。現代ヒンディー語でチャンダーラと言えば、不可触の一種姓を指す。また、マータンギは、mātangaを大辞典で引けば、象、または象たる主な最上の者とはあるが、最下級の種姓の人[candāla]ともあって、漢訳にはやはり下賤種、旃陀羅摩登伽種とあり、チャンダリとマータンギはインド社会の中で最も虐げられた下層の人々を指すと考えられよう。なお、スヴァーハーとは、svāhāを大辞典で引けば、幸あれ、祝福あれと訳すようだが、現代ヒンディー語では、供儀の際に発する言葉であり、(神に)捧げ奉ると訳す。

薬師如来(やくしにょらい、サンスクリット語: भैषज्यगुरु、Bhaiṣajyaguru[1]、バイシャジヤグル)、あるいは薬師瑠璃光如来(やくしるりこうにょらい)は、大乗仏教における信仰対象である如来の一尊。大医王、医王善逝(いおうぜんぜい)とも称する

 

オン コロコロ センダリ マトウギ ソワカ()[注釈 2][注釈 3][4]

※「センダリ」「マトウギ」とは、病気の原因たる病原体や災厄の意味であり、同語で表される被差別階級の意味はここでは有しない。

中咒(台密)

On, Corocoro, Sendari, Matougi, Sowaka

 

生存しつづける人間

 

 

生存しつづける人間

前章でのべたように、人間は死んでも生まれ変わる。 しかも一度だけではな く、ちょうど車輪がぐるぐると廻るように、果てしなく生と死をくり返す。そ れで輪廻転生というのである。

人は輪廻転生する。

ことになる。

果てしなく生と死をくり返すのである。

死んで霊的世界にも行くが、そこに永遠にとどまっているのではなく、ある 日気がつくと生まれ変わっている。もちろん、前世の記憶や意識は残っていな い。しかし、感性と運命の上では、前世の自分を引きずっているのである。そ ういう意味で生命は存続しているといえる。

「人間は輪廻転生しつづける」ということは、換言すれば生きつづけるという

もちろん、いまの人生には限りがある。 時期がくればこの世とおさらばして

霊的世界へ行き、そののちにどこかへちがう人間(あるいは動物)として転生す る。いまとはちがう存在にはなるものの、魂が存続されていくのであるから、 永久に死なないといえるのである

准肌観音 准胱観音真言

准肌観音

准胱観音真言

真言は短呪の「オン・シャレイ・シュレイ・ジュンテイ・ソワカ」(Oṃ cale cule cunde svāhなどがよく知られている。長咒は「ナモサッタナン・サンミャクサンモダクチナン・タニヤタ・オン・シャレイ・シュレイ・ジュンテイ・ソワカ」。

なう まく さ た なん さん みゃく さん ぼ だ く ち なんた にや た おん しゃ れい しゅ れい じゅん でい そわ か

准服とは、梵名チユンデイ上のの音写 「清浄無垢」という意味があり、さとりの道を歩ませる観音です。
別名、准服仏母、七倶服仏母とも呼ばれます。七倶服とは「無量」を意味しますから、多くの諸仏の母となります。そのため観音菩薩ではないと
の説もあります。経軌にも観音として説かれていないことから、犬台密教では准肛如来として仏部の尊としますが、真言密教では観音の一つとして六観音の中に加えます。

 求児・安産の本尊としてもまつられます。もとは水の神で、その姿は女身といわれています。
なお、胎蔵曼荼羅中台八葉院の観音の種子は、この准服観音のブ(回)字が記されています。

 

Associate skin Kannon

The mantra is well known as the short curse “On Sharay Shrey Juntei Sowaka” (Oṃ cale cule cunde svāh, etc. Juntei Sowaka “.

 

准肌観音

准胱観音真言

真言は短呪の「オン・シャレイ・シュレイ・ジュンテイ・ソワカ」(Oṃ cale cule cunde svāhなどがよく知られている。長咒は「ナモサッタナン・サンミャクサンモダクチナン・タニヤタ・オン・シャレイ・シュレイ・ジュンテイ・ソワカ」。

なう まく さ た なん さん みゃく さん ぼ だ く ち なんた にや た おん しゃ れい しゅ れい じゅん でい そわ か

准服とは、梵名チユンデイ上のの音写 「清浄無垢」という意味があり、さとりの道を歩ませる観音です。
別名、准服仏母、七倶服仏母とも呼ばれます。七倶服とは「無量」を意味しますから、多くの諸仏の母となります。そのため観音菩薩ではないと
の説もあります。経軌にも観音として説かれていないことから、犬台密教では准肛如来として仏部の尊としますが、真言密教では観音の一つとして六観音の中に加えます。

 求児・安産の本尊としてもまつられます。もとは水の神で、その姿は女身といわれています。
なお、胎蔵曼荼羅中台八葉院の観音の種子は、この准服観音のブ(回)字が記されています。

 

Associate skin Kannon

The mantra is well known as the short curse “On Sharay Shrey Juntei Sowaka” (Oṃ cale cule cunde svāh, etc. Juntei Sowaka “.