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七科三十七道品という修行法 七覚支法の詩 A poem by Shichikakushiho

七覚支法の詩

霧深き森の中 静かに座る瞳
夜明け前の静寂に 心の声を聴く
真実の道を探し 選び抜く智慧を
その身に秘めたる力 今ここに目覚める

光を越えて響く 目覚めしクンダリニー
喜びと共に歩む その道は無限
心澄みわたる世界 平安を抱きしめて
超える常識の彼方 真実の仏法へ

 

 

A poem by Shichikakushiho

Eyes sitting quietly in a misty forest

In the silence before dawn, listen to the voice of your heart

Search for the true path and find the wisdom to choose

The power hidden within you awakens here and now

The awakened Kundalini resonates beyond the light

Walk with joy, the path is infinite

A world with a clear heart, embracing peace

Beyond common sense, to the true Buddhist teachings

 

七覚支法 – 仏陀の秘密の修行

七覚支法 – 仏陀の秘密の修行

夜明け前、霧が立ちこめる森の中で、一人の男が静かに座禅を組んでいた。その男の名はガウタマ・シッダールタ。やがて彼はブッダとして知られる存在となるが、この瞬間、彼はまだ悟りへの道を模索している一介の修行者だった。

彼の瞑想は深く、呼吸は静かで、森の静けさと一体化しているようだった。その瞑想の中で、彼は一つの真理に触れた。それは「択法覚支」―あらゆるものの中から真実を選び抜く智慧だった。

彼の中に広がる気づきは、普通の人間が知覚できない領域にまで及んでいた。「このヨーガは、ただの身体的な修練ではない」と、シッダールタは感じた。彼が行っているのは、ラージャヨーガ、そしてクンダリニー・ヨーガに違いない。彼はすでにクンダリニーの力を目覚めさせ、そのエネルギーが彼の中を渦巻いていた。

彼の体は、精進を重ねるたびに軽く、そして力強くなっていった。心の中にある歓喜が溢れ、その感覚はまさに「喜覚支」に他ならなかった。修行の辛さはもはや感じず、むしろ喜びと共にそれを受け入れられるようになっていた。

ガウタマの体内で、クンダリニーのエネルギーがチャクラを通して流れ出し、彼の肉体に新たな活力を与え続けていた。彼は一種の至福感に包まれ、身も心も軽く、鮮明に物事を見通すことができるようになった。これが「軽安覚支」だった。

次第に彼は、感覚の鋭敏さを増していった。空気中の微かな振動、森の中のかすかな光の揺らぎさえも、彼の五感は捉えていた。まるで、不可視の光線を見たり、超音波を聞いたりできるようになったかのようだった。それは、「定覚支」によって鍛えられた精神統一の結果だった。

さらに、彼の心は次第に静けさを増し、何事にも動じることなく平安であり続けた。それが「捨覚支」の力であり、彼の心は完全に均衡を保っていた。

ガウタマは、この驚異的な修行法を自ら体得した。そして、やがて悟りを開いた時、彼はその知識を弟子たちに伝え始めた。彼の弟子たちは、この「七覚支法」を学び、それぞれが自らの道を歩むようになった。

「これが仏法だ」と、ブッダは静かに語った。それは、弟子たちが知っていた「仏教」とは違う、深遠で神秘的な教えだった。

彼らが心の奥底で探し求めていた「真実の仏教」は、実はこの七覚支法の修行にあったのだ。そして、その修行は、常識を越えた超人的な力をもたらすものであった。

仏陀の秘密の修行は、こうして伝えられ、今日に至るまで続いている。

 

七党支法

七党支法

七覚支法は、すべて、クンダリニー・ヨーガの訓練と併合しておこなわれる。

これは、私の発見である。

最初、私は、仏陀の成仏法に挑戦して、まったく歯が立たなかった。手も足も出なかった。 なんとか手がかりをつかもうと、四苦八苦しているうちに、阿含の文献の中に、「ゴータマ・

 

択法覚

ブッダは、ヨーガの達人。 と呼ばれる」という文章を発見した。

この事を考えているうちに、この“ヨーガは、ラージャヨーガと、クンダリニー・ヨ

ーガに違いないと、思いあたった。

精進党支

それを端緒にして、十数年かかって、私は仏陀の成仏法の秘密を解いた。

まさに、仏陀釈尊は、クンダリニー・ヨーガの達人だったのである。

クンダリニー・ヨーガの体得なくして、仏陀の成仏法には一指もふれることができないで

「択」とは「えらぶ」という意味で、あらゆるもの(法)の中から真実のものをえらび出し、 真実ならざるものは捨て去る智慧の獲得である。

「さきにのべた「事物の明確な認識と予知」の力は、この択法覚支から得られるのである。

精進努力し、能力が増加、あるいはあたらしい能力を身につけることに喜びを感じます ます訓練に精勤するようになる。 どんなにきびしい修行でも、喜びをもって受け入れるよう

それは、クンダリニー・ヨーガのチャクラを動かすことにより、訓練が楽しくなるホルモ ンを湧出させるからである。

常に、身心を軽快明朗にして、心が惜冥 (暗く濁る)したり、渋滞したりしない修行。 喜覚支をさらに進めたもので、クンダリニー・ヨーガと併合した、特殊な訓練で得られる 能力である。

聖者特有の、のびやかな姿体と、平安で穏やかな人相となってくる。

取捨憎愛の念をはなれて、なにごとにも心がかたよったり、心の平静が乱されなくなる。

対象へのとらわれを捨てる修行である。

軽安覚支につづいて、聖者としての心がそなわってくるのである。

定方法につづいて、超人としての能力が飛躍的に強化される。

徹底的な定力(精神統一)の強化により、感覚器官が増幅される。

この修行の極限は、不可視光線(赤外線、紫外線)を見ることができ、超音波を聞くこと ができるようになる。その結果、天災地変も予知することが可能となる。 そこまで到達する ことは容易ではない。この修行によって、聖者たちは、大なり小なり、この能力を身につけ るのである。

初心者でも、予感や予知力が身にそなわる。 どんな初心者でも、とにかく「カン」が冴 えてくることはまちがいない。

いかがであろうか?

この修行を完成した超人の力は、ふつうの人の「常識」を越え、常識を破壊してしまうだ ろう。たとえば、

これは、一つの例えであるが、かれの思念の力は、他人の内臓の中にできた腫瘍(ガンな ど)を、その念の集中力で、破壊、あるいは溶かしてしまうことも可能である。 仏陀やその 弟子たちは、そのようにして、病人を癒したものである。(ただ、この場合、ガンを破壊して も、破壊されたガン細胞が他に転移するおそれがあるので、ガン細胞そのものを死滅させる ほどの念の力が伴わなければ危険であり、軽々しくこれを行うことはできない。 それほどの 力は、仏陀ご自身でなければ持てないのかもしれない。一つの可能性の例として、あげたわ けである)

そんな力は例外としても、念力法、念覚支法を修行した場合、中等程度の者でも、常人の 信じられないような念の力を持つようになる。

これが、仏陀釈尊の、弟子たちに教えた「仏法」なのである。

これが、真実の仏教なのだ。 あなたがこれまで常識として考えていた仏教とは、大分ちが うのではなかろうか?

多くの人が仏教だと思っている『法華経』とか『阿弥陀経』は、仏陀釈尊がお説きになっ たものではないのである。これら「大乗経典」とよばれる経典は、仏陀がお亡くなりになっ 二、三百年もたってから、無名の人たちによって創作されたものである。だから、これら の経典は、学問的には「創作経典」とよばれているのである。

創作経典の中には、「成仏法」は全く欠落している。一行も書かれていない。当然であろう。 「成仏法」は、仏陀釈尊しか教えることが不可能だからだ。無名の人たちが勝手に創作した大 乗経典に「仏陀の成仏法」が全くないのは、当然至極というべきだろう。

日本の仏教は「大乗仏教」である。つまり、「創作仏教」であって、「仏陀の仏教」ではな い。従って、「仏陀の成仏法」は全くない、というわけである。

日本の仏教徒が、仏陀の成仏法を全く知らない、というのは、ここに原因があるのである。 私はこのことが心から残念でならないのだ。

定力法

その日はいつもと違う空気が漂っていた。瞑想の準備を進めながら、彼は心の中で新しい段階への入り口を感じ取っていた。これはただの瞑想ではなく、「定力法」の訓練、その最初の一歩であった。

「タバス…」彼はその言葉を呟きながら、自分の中に眠る念の力が徐々に目覚めるのを感じた。それはまるで静かに燃え上がる炎のように、彼の内側からじわじわと広がっていく。その力が強くなるにつれ、普通の人間の感覚では捉えられない次元へと彼の意識は移行していった。

次に訪れたのは、特殊な「クンダリニー・ヨーガ」の訓練であった。この訓練は、彼の中に眠るクンダリニーという霊的なエネルギーを目覚めさせるものだと言われていた。それはまるで龍が背骨を駆け上がるかのように、彼の身体の中を走り抜けた。体中に流れる力の奔流に圧倒されながらも、彼はその流れに抗わず、全身を委ねていた。少しずつ、そのエネルギーが制御できるようになってくると、まるで自分が神秘的な存在へと変わり始めたかのように感じた。

次に待ち受けるのは「力法」、あるいは「智力法」とも呼ばれる訓練だった。この訓練は、単なる身体の力ではなく、彼の知恵そのものを高めるものであった。彼は「求聞持聡明法」という古代から伝わる聡明法の修行に取り組んだ。深い瞑想の中で、彼の意識はあらゆる知識と知恵に触れることができるようになり、まるで全宇宙の真理が彼に語りかけてくるかのようだった。

これらの五つの力、すなわち定力、念力、クンダリニー、智力、そして求聞持聡明法を身に付けることが、彼の最終目標への基盤となる。全ての訓練が終わったとき、彼は自分の肉体を超えた存在になり、次なる本格的な訓練の世界へと足を踏み入れるのだ。

静かに息を吸い、彼は心の中で誓った。これからの道は長く険しいものであるだろうが、自分が求める真の力と知恵を手に入れるためには、この道を歩み続けるしかないのだ。

 

 

人々が仏教を語るとき、しばしば「倫理」や「道徳」という言葉が伴う。それは当然だ。宗教の根底には、人々の行動を正す教えがあると考えられてきたからだ。しかし、それだけでは仏教の本質を見誤ることになる。シャカが阿含経で説いた教えには、もっと深い意味があったのだ。

「仏教は、人間を超えるための修行システムだ」
とある僧侶はそう語った。

「超人。それが仏陀に到達する前段階の存在だ。私たちはすべて仏陀になる必要はない。しかし、この大変動の時代において、超人となることが求められている。強靭な精神と体力、卓越した知識と洞察力を持つ者こそ、この混迷を乗り切るための鍵を握る」

その言葉は、冷静でありながらも鋭く響いた。彼は続ける。

「仏陀の教えには、七科三十七道品という修行法がある。それを極める者は、次のような能力を得ることができる」

彼の目が光り、彼自身がその力をすでに体得しているかのように見えた。

「まず、事物の明確な認識と予知。あらゆる因果関係が見え、未来の出来事をも予知できる。選択の岐路に立たされるとき、迷うことなく正しい道を選べるのだ」

彼は指を一本立てて示す。その姿は何かしらの超越的な力を内に秘めているように思えた。

「さらに、卓越した創造力。これはただの想像力ではない。深い直感と洞察、集中力が結びつき、あらゆる困難を乗り越える発想を生み出す」

彼の目はどこか遠くを見据えている。その姿に、私は息を呑んだ。

「そして、強靭な体力と精神力。数日間の不眠不休の後でも、わずかな休息で立ち上がることができる。困難に屈せず、どんな試練も乗り越える。常に身心は軽やかで、澄み切っている」

彼の言葉は熱を帯び、語るたびに自信に満ちていく。

「自己統御。これこそ、すべての始まりだ。自分を完全に制御することで、次に他人も動かせるようになる。そして、その人の意志に逆らうことはできない。むしろ、誰もがその力に従うようになる。自然と引き寄せられるように」

「それは魔法のようだ」と私はつぶやいた。

彼は笑った。「魔法ではない。これこそが真の力だ。完成された霊性を持ち、聖霊と自由に交わり、他者の深層意識さえ動かすことができる。そして、念力――。強烈な意思の力で現実を変えることができるのだ」

その瞬間、私は理解した。彼が語る仏教は、ただの宗教ではない。それは、超越的な存在へと変貌を遂げるための道だったのだ。

「これが、仏教の真の力だ」と彼は言った。「二十一世紀において、この常識を破壊し、新たな道を切り開く必要がある」

彼の言葉が静かに消えると、部屋には静寂が戻った。しかし、私の心には、彼の言葉が深く刻まれていた。