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完全な優婆塞になるには信・戒・施が必要である、と

解説

して、わか

さて、お釈迦さまは今までのところで、完全な優婆塞になるには信・戒・施が必要である、と

説かれました。信とは仏・法・僧の三宝に対して信仰の心を持つこと、戒とは浄戒を保つこと、 そして施とは布施をすることですが、この三つが仏道修行の根本となる三大原則です。この三つのない仏道などあり得ません。この信・戒・施が仏教の核である、といえます。

しかし、お釈迦さまは、この三大原則を備えてもまだ完全な優婆塞とはいえない、とおっしゃっております。

「沙門に往詣して正法を聴受すること能わざるは、是れ則ち具せざるなり」とありますが、これは沙門のいるところ、つまり、道場(精舎)にお参りに行って、お釈迦さまや僧侶から、正しい仏法を聞かなくては、信・戒・施を備えていても十分とはいえない、ということです。ですから

お釈迦さまは、せっせと道場に

います。

お釈迦さまは、せっせと道場に足を運んでえを聞きが一

これは、みなさんも同じことです。

あなたがたも道場に来て、いろいろな教えを聞かなければいけません。なぜならば信・戒・施

だけでは、いくらやっても進歩しないからです。たしかに信・戒・施は仏教の三大原則ですが、 修行者として進歩するためには、教えを聞かなければいけません。最低でも毎月の例祭には参加して、わたくしの法話を聞くことが肝心です。例祭に出られなかったならば平日でも土日でもよ

いから時間をつくって道場にお参りし、ビデオでその月の法話を聞くことが必要です。これをやらなければ進歩しません。

それはなぜでしょうか?

教えを聞かないと独断的になるからです。ついつい、自分勝手な判断をするようになってしま

「これはこうだから、こうに違いない」

と非常に視野が狭くなってしまうのです。もっと別の角度から大きな視野で見なければいけないのに、自分の勝手な判断しかできなくなってしまいます。

うかが 「荘子』の「管を以て天を窺う」という言葉が元だと思いますが、昔の「いろはがるた」に「戦の都から天井を悪く」というものがありました。葦の髄とは、葦の茎の部分のことで、これは、 ちょうどストローのように中が空洞です。その草の茎の穴から天井を覗いて見るならば、どれほど広い天井でも、茎の穴の広さだけしか見えないという意味です。それと同じで、わたくしの法話も聞かないで、自分勝手に物事を判断して、

宗総本殿

です。 ですから、毎月の法話は必ず聞く。これは修行者として正しく成長する上で非常に大切なこと

そして、 「情動方便し、随時に塔寺に往詣して諸の沙門に見える。一心に正法を聴受・・・・・・」とあるように、 時間の許すかぎり塔寺、つまり道場に足を運び、もろもろの沙門にお会いしてお話を聞きなさい、 それも一心に聞きなさい、というわけです。

「あれがおかしい、これが変だ」

とぶつぶついっている人は、まさにこの「葦の髄から天井を覗く」なのです。

この、道場へお参りに行って法話を聞くことが、聞です。あるいは、「往詣して」とありますから、参拝するという面を強調して詣と呼ぶ場合もあります。

時々、例祭に出られないからと平日に道場に来て、勤行だけをさっとやって、終わるとすぐに帰っていく、という人がいます。梵行はもとより、ビデオで法話を学ぶことなどまったくしません。ただ、勘行をするだけです。これでは聞にならないだけではなく、本当の意味での詣にもなりません。

そのような人は仕事やなにかで忙しくて、法話を聞く余裕さえないのかもしれませんが、やはり例祭に出られなかった場合には、違う日に道場へお参りして一生懸命に勤行すると同時に、法豚をビデオで学ぶことが大切です。あるいは例祭に出ている人も、もう一度勉強のために道場にさてビデオを見ることが大切です。「随時に塔寺に住指し」

味でもあります。 と思ったならば、それを受持しなければいけません。お経には持と書いてありますが、要するに聞いたものは落とさずに持っていなさい、ということです。さらに、持は、実行するという意

です。 さて次に、「諸法の深義を観察すること能わざるは、是れ具足せざるなり」とあります。 ・法話を聞いたならば、その意味について観察・工夫をしなければいけませんよ、という意味

すから、余裕があれば何度でもお参りして、できるだけ法話のビデオを観ることが大切です。

次に、お釈迦さまは、「専心に聴法し、聞けば則ち能く持す」、とおっしゃっております。人に

よっては耳の痛いことかもしれませんが、これは、法話を聞くと同時にそれを受持しなさい、という意味です。早い話が、法話をいくら聞いても、聞いただけで、右の耳から左の耳へ抜けてしまうのではだめですよ、それを常に保たなければいけませんよ、とおっしゃっているわけです。

法話を聞いて、

「なるほど。こうしなければいけないのか。こうなのだな」

わたくしはいつも思うのですが、お釈迦さまはじつにやさしく、誰にでも分かるようにお話をされます。難しいことを難しく説明するのは簡単です。難解なことをやさしく説くというのが、 いちばん難しいのです。お釈迦さまの説法はまさに名説法です。

法話というものは、聞いてただ暗記するだけでは、本当の意味で自分のものにはなりません。 受持すると同時に、たとえば、

「徳を積みなさい、といわれたけれども、徳を積むとはどういうことなのか? 自分はどのと

 

持足不随持不塔不

あた 「随時に沙門に住識して正法を聴受すること能わざるは、是れ則ち具せざるなり。具せざるを以ての故に精転がし、随時に塔寺に住詣して諸の沙門に見える。」 心に正法を聴受せざるは、是れ具足せざるなり。信戒施開修習満足す。聞き已りて持たざるは、是れ具足せざ 。具足せざるを以ての故に精勤方便し、随時に沙せんしん ちようほうすなわよじ門に住詣して専心に聴法し、聞けば則ち能く持す。諸法かんさつしんかいせの深義を観察すること能わざるは、是れ具足せざるなり。 具足せざるが故に精勤方便し、信戒施聞し、聞けば則ち能く持し、持し已りて甚深の妙義を観察す」 しょういっ

不能随時往詣沙門聴受正法。是則不

具。以不具故精勤方便。随時往詣塔

寺見諸沙門。不一心聽受正法。是不

具足。信戒施聞修習満足。聞已不持。

是不具足。以不具足故精勤方便。随

時往詣沙門専心聴法。聞則能持。不

能観察諸法深義。是不具足。不具足

故精勤方便。信戒施聞。聞則能持。

持已観察甚深妙義。

聞・持・観

修行者を進歩させる聞・持・観

不能随時往沙門聴受正法。是則不

具。以不具故精勤方便。随時往詣塔

「燃時に沙門に注識して正法を聴受すること偕わざるは、是れ則ち具せざるなり。具せざるを以ての故に精。 しょう

寺見諸沙門。不一心感受正法。是

不断が恋し、随時に塔寺に往詣して諸の沙門に見える。一心に正法を聴受せざるは、是れ具足せざるなり。信戒施いつ

聞修習満足す。聞き己りて持たざるは、是れ具足せざ

るなり。具足せざるを以ての故に精勤方便し、随時に沙不門に注詣して感心に聴ぶし、聞けば則ち能く持す。諸法

具足。信戒施聞修習満足。聞已不持。

是不具足。以不具足故精勤方便。随

時往肅沙門専心聴法。聞則能持。

能観察諸法深義。是不具足。不具足

放精勤方便。信戒施開。聞則能持。

持已観察甚深妙義。

現代語訳

じきかんさつの深義を観察すること能わざるは、是れ具足せざるなり。

具足せざるが故に精勤方便し、信戒施聞し、聞けば則ち能く持し、持し已りて甚深の妙義を観察す」 じんじんみようぜ

最上深秘の呼吸法  仏陀の Anāpāna の法

最上深秘の呼吸法
仏陀の Anāpāna の法

最上深秘の呼吸法

仏陀の Anāpāna の法

是の如く我れ聞きぬ。一時、仏、舎衛国の祇樹給孤独園に住まいたまへり。爾の

時世尊、諸の比丘に告げたまはく『安那般那の念を修習せよ。若し比丘の安那般

那の念を修習するに多く修習せば身心止息することを得て有覚、有観、寂滅、純

一にして明分なる想を修習満足す。何等をか安那般那の念を修習するに多く修習

し已らば身心止息し、有覚、有観、寂滅、純一にして明分なる想を修習満足すと

為す。是の比丘、若し聚落城邑に依りて止住し、晨朝に衣を着け鉢を持ち、村に

入りて乞食するに善く其の身を護り、諸の根門を守り善く心を繋けて住し、乞食

し巳つて住処へ遠へり、衣鉢を挙げ足を洗ひ已って或は林中の閑房の樹下、或は

空露地に入りて端身正坐し、念を繋けなば面前、世の貪愛を断じ欲を離れて清浄

に、頭表・睡眠・悼悔・疑・断じ、諸の疑惑を度り、諸の善法に於て心決定する

ことを得、五蓋の煩悩の心に於て慧力をして贏らしめ、障礙の分と為り、涅般に

趣かざるを遠離し、内息を念じては念を繋けて善く学し、外息を念じては念を繋

けて善く学し、息の長き息の短き、一切の身の入息を覚知して一切の身の入息に

於て善く学し、一切の身の出息を覚知して一切の身の出息に於て善く学し、一切

の身の行息・入息を覚知して、一切の身の行息・入息に於て善く学し、一切の身

まのあたり時世尊、諸の比丘に告げたまはく『安那般那の念を修習せよ。若し比丘の安那般

那の念を修習するに多く修習せば身心止息することを得て有覚、有観、寂滅、純

一にして明分なる想を修習満足す。何等をか安那般那の念を修習するに多く修習

し已らば身心止息し、有覚、有観、寂滅、純一にして明分なる想を修習満足すと

為す。是の比丘、若し聚落城邑に依りて止住し、晨朝に衣を着け鉢を持ち、村に

入りて乞食するに善く其の身を護り、諸の根門を守り善く心を繋けて住し、乞食

し巳つて住処へ遠へり、衣鉢を挙げ足を洗ひ已って或は林中の閑房の樹下、或は

空露地に入りて端身正坐し、念を繋けなば面前、世の貪愛を断じ欲を離れて清浄

に、頭表・睡眠・悼悔・疑・断じ、諸の疑惑を度り、諸の善法に於て心決定する

ことを得、五蓋の煩悩の心に於て慧力をして贏らしめ、障礙の分と為り、涅般に

趣かざるを遠離し、内息を念じては念を繋けて善く学し、外息を念じては念を繋

けて善く学し、息の長き息の短き、一切の身の入息を覚知して一切の身の入息に

於て善く学し、一切の身の出息を覚知して一切の身の出息に於て善く学し、一切

の身の行息・入息を覚知して、一切の身の行息・入息に於て善く学し、一切の身

 

安那般那はたんなる呼吸法ではないのである。ここには、成仏法の中心である四神足法の神髄が説かれているのである。

まず、この経に説かれている呼吸法を見てみよう。

内息

外息

入息

出息

行息

身の行息・入息

身の行息・出息

心の行息・入息

心の行息・出息

滅人息

滅出息

身止息

心止息

そこで、

実に十五種類の呼吸法が説かれているのである。こんな短い経典に、十五種類もの呼吸法が説かれているのだ。いとも簡潔に呼吸法の項目だけが並んでいるが、それは、 この講義を聴聞した修行者たちが、みな、これらの呼吸法に熟達した者ばかりで、 一々、その内容に就いて説明する必要がなかったからであろう。

ここで注意しなければならないことがある。

それは、「息」の解釈である。

これを、たんなる呼吸と解釈してしまってはいけない。

これは、「呼吸」であるとともに、生気をともなった感、すなわち、いうならば 「剣・感」をもあらわしているということである。これは、インドにおけるヨーガの

特徴である。

ざっと解釈してみよう。

内息

外息

入息

出息

これは、深い修行に入るにあたっての、心身調節の呼吸法である。

行息

身の行息・入息

プラーナこれは、気息、すなわち、生気を息とともに、体の隅々にまで行すことである。

身の行息・

これは、身において気息を行らすこと。即ち体の特定の場所に気息をめぐらして行くことである。特定の場所とはどこか? チャクラだ。

心の行息・入息

心の行息・出息

これは、心において気息を行らすこと。

この「心」というのは、端的にいって、脳のことである。思念する心は、脳にあるからである。脳の特定の場所に気息をめぐらして行くのである。特定の場所とはどこか? チャクラである。

身止息 身において気息を止念す。

心止息一心において気息を止念す。

気感を、身と心に止め、念ずるのである。

身と心の、どこに止め念ずるのか? いうまでもなく、それはチャクラしかないの
ではないか。

体と脳のチャクラに止め念ずるのである。

心の解説入息

心の解説出息

滅入息

滅出息

脳のチャクラ、アージュニャーとサハスラーラの開発作業である。脳におけるウマとワニの部分の消滅・解説作業ともいうべきもの。同時に視床下部と新皮質とをつなぐ神経回路を補強する予備的作業でもある。要するに、古い脳を人為的に進化させる作業だ。

サハスラーラ・チャクラを動かし、滅尽定に入る修行である。気息・思念・すべてを超越した境地に入る。

 

つぎに、仏陀は、四つの最上深秘の呼吸法を説いている。

勝止息

南特止息

上止息

無上止息

仏陀は、経典で「この四つの呼吸法は、すべての呼吸法において、これ以上のものはない最上の呼吸法である」とのべている。(雑阿含経「止息法」)

この呼吸法が、なぜ最上深秘のものであるのかというと、この呼吸法は専ら、脳を対象としたものであるからだ。脳のチャクラを動かし、脳の神経経路を改造し、殊に、 品に特殊な能力を持たせる呼吸法であるからである。

呼吸法、といっているけれども、たんなる呼吸作用のコントロール法ではなく、このあとで説く「チャクラ」「プラーナ」「クンダリニー・エネルギー」(剣道)「ムドラ 1」「瞑想」「マントラ詠唱」など、すべての技法を綜合しておこなわれるもので、仏陀の成仏法の最終段階のものである。この四つの呼吸法(繰り返していうが、たんなる呼吸法ではない)で、仏陀の成仏法は完成されるのである。

この呼吸法については、またあとで説く。

行息気息を行らす

前の節を読まれたら、大体おわかりであろう。

仏陀も、四神足法において、やはり、気道を用いていたのである。

、めぐらす『道』がなければならない。その道が、気道」

である。

ただし、仏陀の気道は、クンダリニー・ヨーガの気道とはかなり違うものである。 それは、クンダリニー・ヨーガの気道の欠陥、欠陥というより不十分な部分、を

補足したものといってよいだろう。

なぜ、そういうことがいえるのか?

ことがあげられる。 道教が、仏陀の成仏法を受けついでいると断定する一つの証として、つぎのような

わたくしは、仏陀の行息法が後に中国に渡って、道教の仙道になっていったものと考えるのである。すなわち、道教の修行の原点は、仏陀の成仏法にあるのである。

道教の基本的修行に、「内気の法」というのがある。また、「行気の法」がある。これらは、阿含経に説かれているシャカの「行息の法」に外ならない。

いま言った道教の内気の法の気道に、泥丸という部位がある。頭頂にあってクンダリニー・ヨーガでは、サハスラーラ・チャクラにあたる部位で、道教でも最高のさとりの部位になっている。

仏陀の成仏法の修行法を、いま、如実に知ることは至難の業である。それはごく、 わずかに、阿含経の中に散在するに過ぎず、不可能に近いといっていいであろう。

この泥丸という名称はどこから来たのか?

これは、仏陀が説くすなわちニルヴァーナを音写したものなのである。この部位を目ざめさせると、涅槃に到達するというところから、名づけられたものであ

このことは、仏陀の修行法と、クンダリニー・ヨーガ、そして道教、との関連を語るものにほかならず、たいへん興味深いものといえよう。このほかにも、いくつか、 これに類した例をあげることが出来る。

もちろん、道教の気道の法が、すべて仏陀の気道の法そのままだというのではない。

仏陀の気道の法を受けついで、さらに道教独特のものに発展させていったということである。原型が仏陀にあり、仏陀にさかのぼることが出来るというのである。そしてそれはまた、同時に、クンダリニー・ヨーガにも関わってくるということになる。

しかし、クンダリニー・ヨーガと道教の修行法を、阿含経の中にある仏陀の修行法アーガマ

ほうふっひろと対照しつつ実践を重ねていくと、おのずから髣髴と浮かんでくるものがあるのである。そしてさらに体験を重ね、錬磨し、修行を積んでいくと、突然、閃めきとともにかたちをあらわしてくるものがある。

わたくしは、三十にして仏道に志し、以来、ひとすじに仏陀の成仏法を求めつづけて四十年、ようやくこれをほぼ復原し、体得したと確信するに至った。

そしてその瞬間、さとったのである。この法こそがいままさに壊滅せんとする地球を救済する、究極の救世主の法であったということを。

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