の残した教法(阿含経)と、シャカ仏本史
仏とは人間の認識世界をはるかに超えられたお方で、普通の人間の認識はまったくおよびませんし、天才だといわれる人でも、とうていおよぶものではありません。仏の認識世界は、わたくしたちの次元をはるかに超えております。一般の常識では想像もつかないような大いなる存在を、 ちっぽけな人間の概念や知識で創り出せるわけがありません。人工の仏を生ける仏と比べたなら
ば、天と地以上の差があります。 ところが世間を見てみると、あるのは人工の仏ばかりで、生ける仏をお祀りしているお寺は皆無といってもよいほどです。犬だ目如来、阿弥陀如来、薬師如来、不動明王、観世音菩薩、いずれも人工の仏であり、架空の仏であり、空想上の仏です。少し難しくいえば、概念上の仏です。
いうまでもなく、狭い了見の人間が勝手に創り出した仏を一生懸命に拝んで、どういうご利益がありますか。もしもなにかのご利益があるとすれば、それは精巧に彫られた仏像などを見て、 「尊い仏さまだ。ありがたい」
という気分になり、そして気分がよいから物事がうまくいきやすくなる、というような心理的なご利益でしょう。
お釈迦さまが『三供養品」で説かれている如来とは、生ける如来なのです。お釈迦さまがご存命の時ならば、それはお釈迦さまご自身であり、お釈迦さまが仏界に入られてからは、そのご聖骨・真正仏舎利こそが生ける仏なのです。お釈迦さまは、人間が勝手に創作した仏のもとで功徳
日本中のいろいろな宗旨宗係の本尊は、すべて架空の仏ですから、そこで功徳を積んでも成仏はできません。あなた方はそれを腹の中にたたき込まなければなりません。
今までの日本の仏教はすべて間違っています。架空の仏を実在の仏と偽り、いまだに、 「ありがたい仏だ、ありがたい仏だ」
と説いています。ニセの仏のどこがありがたいのでしょうか。人間が勝手に創り出した仏ではありませんか。日本の仏教は約千五百年の間、ニセの仏を本尊として、間違った信仰を勧めてきたのです。それではたくさんの供養をしても、成仏の福が得られるわけがありません。本尊に問題があったのです。そのツケが、現在の社会に現われているとわたくしは思います。
これまではいいかげんな本尊でもよかったのかもしれませんが、これからはそうはいきません。 現代のような苛烈な社会、さらに苛烈になることが予測される未来社会は、いい加減な仏を本尊とするいい加減な仏教では支えきれません。現代社会に必要なのは、本物の宗教・本物の仏教です。こういう時代こそ本物がものをいいます。本物の仏を拝み、本物の法を修して人間の業を断っていく、そういう本物の仏教でなければ世界は救えません。
阿含宗が、お釈迦さまの教法が説かれた唯一の経典「阿含経」と、仏教の総本尊・真正仏舎利を世の中に広め始めたということは、世の中が救われる前兆ではないか、とわたくしは思います。 しかしながら、阿含宗の力はまだまだ微々たるものです。それでいて、創作経典を奉じる宗教が大きな力を振るっています。こういう状態で世界が救われるかどうか、わたくしたちはよく考えなければいけません。
生ける如来のもとで修行し、功徳を種える。これが因縁解脱の第一条件です。生ける如来
一二九
食宗総本殿
わたくしたちの供養にお応えくださいます。それだけのお力とお徳を持っておられます。そのような仏さまを、応供とお呼びします。応供とはパーリ語のアラハントの主格「アラハン」、サンスクリット語のアルハットの主格「アルハン」を漢語に意訳したもので、漢音に写したものが阿羅漢です。応供も阿羅漢も同じように、仏さまの別名です。
ところが、大乗仏教の人たちは、阿羅漢は小乗の覚者であって仏ではなく、位は菩薩の下であるとしてしまいました。仏の十号を見ても分かるように、阿羅漢も応供も仏さまのことです。本物の生ける仏は、衆生の供養に応えて成仏力をお授けくださいますから、応供・阿羅漢とお呼びするのです。反対に、応供・阿羅漢でない――つまり供養に応えることができない――ならば、 真の仏さまとはいえません。阿羅漢を小乗の覚者としてしまったことは、大乗仏教の犯した大罪の一つです。みなさんはこれを理解して、大乗仏教の人から、
「阿羅漢は小乗の覚者で菩薩の下だ」
といわれても、今わたくしが説明したように、きちんと話して聞かせてあげていただきたい。
5のです。まず一つは、修行と深い信心です。二つめは供養です。信心・修行と供養を併せて行う、それが如来のもとで種えるべき功徳の内容です。深い信心を持ち、仏さまの教えられたことをそのまま移行すると同時に、仏さまに供養を捧げるわけです。それがここでいう功徳です。
何度もいうように、信心・修行、そして供養は、生ける如来のもとで行われなければ意味がないのですが、今の日本の仏教界を見渡して、生ける如来・真正仏舎利を本尊としている寺や教団がいくつありますか?
本物の仏を本尊とする本物の仏教教団がたくさん出てこなければ、この世の中は救えないとわたくしは思います。そのような教団が、次々と世の中に出てこなければなりません。阿含宗は、 その口切りです。ただ、あとに続けるだけの教団があるかどうか。とにかく現在は阿含宗だけです。決して自慢高慢ではなく、これは事実です。
真正仏舎利を本尊とするのが、歴史的に見ても、仏教学の面から見ても、正しい仏教教団のあり方です。生けるお釈迦さまを本尊とせずに、なにを本尊とするのでしょうか? 二ニセの仏を祀って成仏できるでしょうか?
「ニセの仏ではだめだ!」 できるわけがありません。お釈迦さまが、この『三供養品』でおっしゃっておられるとおりです。このお経をもとにして、わたくしは、
といっているわけです。決して思いつきやでたらめではありません。わたくしが本に書き、あるいはこのようにお話をする場合、必ず仏さまのお言葉をよりどころとしています。 如来のもとでなければ、いくら功徳を積んでもむだだぞ、とお釈迦さ
5のです。まず一つは、修行と深い信心です。二つめは供養です。信心・修行と供養を併せて行う、それが如来のもとで種えるべき功徳の内容です。深い信心を持ち、仏さまの教えられたことをそのまま移行すると同時に、仏さまに供養を捧げるわけです。それがここでいう功徳です。
何度もいうように、信心・修行、そして供養は、生ける如来のもとで行われなければ意味がないのですが、今の日本の仏教界を見渡して、生ける如来・真正仏舎利を本尊としている寺や教団がいくつありますか?
本物の仏を本尊とする本物の仏教教団がたくさん出てこなければ、この世の中は救えないとわたくしは思います。そのような教団が、次々と世の中に出てこなければなりません。阿含宗は、 その口切りです。ただ、あとに続けるだけの教団があるかどうか。とにかく現在は阿含宗だけです。決して自慢高慢ではなく、これは事実です。
真正仏舎利を本尊とするのが、歴史的に見ても、仏教学の面から見ても、正しい仏教教団のあり方です。生けるお釈迦さまを本尊とせずに、なにを本尊とするのでしょうか? 二ニセの仏を祀って成仏できるでしょうか?
「ニセの仏ではだめだ!」 できるわけがありません。お釈迦さまが、この『三供養品』でおっしゃっておられるとおりです。このお経をもとにして、わたくしは、
といっているわけです。決して思いつきやでたらめではありません。わたくしが本に書き、あるいはこのようにお話をする場合、必ず仏さまのお言葉をよりどころとしています。 如来のもとでなければ、いくら功徳を積んでもむだだぞ、とお釈迦さ
要なことです。
みなさんはそのことを広く人々に教え伝えてください。どれだけむだな供養を捧げている人たちがいるか。むだな修行をしている人たちがいかに多いか。どこで信仰・信心を行うかの最重要ポイントが、生ける如来の有無です。信仰・修行をするのは結構だが、生ける如来のもとでなければ意味がありません。そのお釈迦さまのお言葉を、一人でも多くの人に伝えていかなければならない。これがわたくしたち阿含宗信徒の使命であり、かつ、功徳を種える行なのです。
正法とはお釈迦さまの説かれた教法
お釈迦さまは三善根 (三福道)の第二として、
三
「正法に於て功徳を種う。此の善根窮尽す可からず」
*8 *9 とおっしゃっています。正しい法とは、生ける如来のみもとで行われる教法のことです。教えとしては縁起の法や四諦の法門などで、法としては上根の成仏法・七科三十七道品、それから下
根の成仏法・三善根(三福道) や以前講義した優婆塞の八法・十六法(上巻・『一切事経』九一五六頁)などです。 お釈迦さまは優婆塞の八法・十六法で、まず最初にどのように説かれ
ていますか? 正信でなければならない、とおっしゃっているでしょう。優婆塞の八法とは、自分が正信を持
如来のもとで種えるべき功徳
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