館のる人を救うべし
仏か僕を私もべし
生身如来の説きませる
成仏法の巻きを
聖経の護持宣布をは
事・行・理の三供養
種供養を忘るるな
「福道こそこれなるぞ
苦しむ人の杖となれ
くよう
さて第三に理の供養
しゃるまんじゃろしちどうほん七科三十七道品
せけんつとひろく世間に伝うべし
くよう理の供養と申すなり
あっしゃりくよう
仏舎利供養の根本ぞ
しろしんにょらい لد たも生身如来の説き給う
ほっしんにょらい
法身如来のみもとにて
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館のる人を救うべし
仏か僕を私もべし
生身如来の説きませる
成仏法の巻きを
聖経の護持宣布をは
事・行・理の三供養
種供養を忘るるな
「福道こそこれなるぞ
苦しむ人の杖となれ
くよう
さて第三に理の供養
しゃるまんじゃろしちどうほん七科三十七道品
せけんつとひろく世間に伝うべし
くよう理の供養と申すなり
あっしゃりくよう
仏舎利供養の根本ぞ
しろしんにょらい لد たも生身如来の説き給う
ほっしんにょらい
法身如来のみもとにて
四神足(しじんそく、巴: cattāro iddhipādā[1], 梵: catvāra ṛddhipādā[2])とは、仏教における「三十七道品」の中の1つ[2]。『倶舎論記』においては神通力を起こす基礎となる4つの三昧。『アビダンマッタサンガハ』(摂阿毘達磨義論)においては禅(jhāna)、道(magga)、果(phala)を得るための基礎(iddhipādā)[1]。「四如意足」(しにょいそく)[注 1]とも[2]。
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601
山田
登志樹
令和 六年一一月二五日
阿含宗本山
1
山田
家
五代前の縁者でつよい怨念を残して亡くなった女性のホトケ一体あり(十五順目)
角尾
家
四代前の縁者で胸部疾患で亡くなった女性のホトケ一体あり(十四順目)
中瀬
家
四代前の縁者で横変死した女性のホトケ一体あり(十二順目)
古瀬
家
四代前の縁者で横変死した男性のホトケ一体あり(十二順目)

第四章 法念住 ― 真理に目覚めるまなざし
森の夜は、深く、静かであった。
アーナンダは、灯明も持たずに、木の根元に坐った。目を閉じ、ただ己の呼吸と共にある。
この夜、彼は、ある問いを胸にしていた。
(苦しみの根は、どこにあるのか?)
思い返せば、さまざまな「感情」「思考」「記憶」が、彼を悩ませてきた。だが、それらは単なる現象ではなかったか? なぜ、人は現象に巻き込まれ、迷い、煩悩にとらわれるのか?
その答えを、師はこう語っていた。
> 「アーナンダよ、汝は“法”を観ずして、ただ感情に揺れるばかりではないか。心に生じるもの、すべては“因と縁”によって生じる。
> それを見よ――すなわち“十二因縁”の観察である。
> 無明あれば、行あり。行あれば、識あり。識より名色、六処、触、受、愛、取、有、生、老死……」
アーナンダは、師の言葉を胸に、その因縁の連鎖を観ていった。
――無明。
(知らぬこと、気づかぬこと。真理を見ないまま生きること)
――行。
(無明から出た衝動、業の積み重ね)
――識。
(意識が生まれ、世界と自我が目覚める)
……と連鎖は続き、やがて「老い」「死」へと至る。
(このすべてが、苦の流れ。だが、その根源は、“無明”にあったのか……)
アーナンダの心は、少しずつ沈み込んでいった。
彼はまた、五蘊にも思いを馳せた。
色・受・想・行・識――すなわち、肉体、感覚、認識、意思、意識。
(これが「わたし」だと思ってきたものは、すべて集まりでしかなかった……)
彼は、自らの心身を、「自己」としてではなく、「法」として見始めた。
喜びも、怒りも、肉体の疲労も、思い出も――すべては因縁によって一時的に現れた、無常の現象であった。
それらを掴んで「これは私」と思うことが、苦のはじまりだったのだ。
彼の心は、深い沈黙のなかで、透き通っていった。
――すべてのものは、縁により生じ、縁により滅す。
――それが、「法(ダンマ)」である。
アーナンダは、静かに息を吐いた。
彼の内なる目は、ついに「真理の流れ」を見つめはじめたのだった。
煩悩は、ただ現れては消える泡。
「我」は、それに名前を与えていたに過ぎない。
――これが、法念住。
四念住の最後にして、智慧の扉が開く一歩手前の、最も深い観照。
夜が明け、東の空が白みはじめていた。
アーナンダのまなざしには、もはや揺らぎがなかった。
第三章 心念住 ― 心のかたちを映す鏡
月が昇るころ、山の庵には、静寂が降りていた。アーナンダは、薄衣を肩に掛け、今夜もひとり、坐に入った。
「身を観じ、受を観じて、最後に残るもの。それが“心”である」と、師は語った。
「心念住とは、今この瞬間、いかなる心があるかを知ること。貪りがあるか、怒りがあるか、迷いがあるか。あるいは、それが去ったのか。それを知り、見抜き、離れていくこと」
アーナンダは、呼吸とともに心を澄ませていく。すると、突如――
ひとつの記憶が浮かび上がった。
それは、かつて仲間の修行僧と些細な言い合いをした日のこと。相手の言葉が、どうしても許せなかった。彼の中に、怒りがふつふつと沸いた。
そして今、瞑想の中でもなお、その怒りの「残り香」が微かに蘇ってくるのを感じた。
(怒り……)
彼は、その心を見つめた。
怒りとは、火のようなものだ。心を焼き、理を失わせる。だがその火も、ただ心に生じた一つの現象にすぎない。真実の“我”ではない。
アーナンダはさらに心を沈めた。
すると今度は、静かな慈しみが湧き上がってくる。あのとき、自分もまた苦しかった。相手もまた迷いの只中にいた。――それを赦す心。
(これも、また心)
欲する心、怒る心、信じる心、疑う心――どれもが、現れては消える。流れる雲のように。
それを「私」と呼ぶなら、「私」は刻々と形を変え、定まることがない。
(では、“私”とは何なのか?)
アーナンダは、その問いを胸に置いたまま、ただ心を観じ続けた。
今、この瞬間、自分の心は穏やかか、動揺しているか。眠気はあるか、喜びはあるか。ありのままに、それを映し出す“心の鏡”を、自らの内に据える。
すると彼の内なる空間に、透明な静けさが生まれた。
心とは、無限の姿を取りながら、空に浮かぶ雲のように、来ては去り、現れては消える。
それを知ったとき、アーナンダの中に、柔らかな微笑が芽生えた。
もはや、怒りや欲に巻き込まれる必要はなかった。
なぜなら――彼は、それらが「ただの心の状態」であると、知ったからだ。